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【要約と感想】阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』

【要約】日本人は「人格」「個人」「社会」「愛」という概念を、明治以降にヨーロッパから輸入しましたが、今に至るまでその意味を理解していません。
 西欧で「個人の人格」という概念が形成され始めるのは12世紀頃からのことです。決定的に重要な契機はキリスト教の告解という制度の成立です。男女の性愛が反省の対象として意識化され、霊と肉の統一体としての人格が浮上します。

【感想】斯学の権威に対して私が言うのもなんだけど、一次史料をほとんど使わずに、もっぱら二次史料から議論を組み立てて、自分の価値観に都合の良い結論に引っ張っていく行論には、あまり感心しない。人格の形成において「告解」という制度が重要だという本書の核心にある論点はもちろんフーコーが提出したものだし、それを援用した議論は柄谷行人が先に展開していた。
 まあ、日本が「民主主義」とか「個人の尊厳」という観点から西欧に遅れているという問題意識と危機感はよく伝わってくる。いわゆる西洋近代がルネサンスではなく12世紀に起源をもつという議論が一般化した以上は、西欧中世史家として専門的な観点から状況を説明する義務感をもつのは当然ではある。そういう意味では、いわゆる「12世紀ルネサンス」の専門的な歴史議論と現代日本の日常生活を繋げるという使命を果たした本であることには間違いない。著者が示す危機感に共鳴するか反発するかはともかく、遠いヨーロッパの「12世紀ルネサンス」の議論が現代日本の我々の生活にも関係しているだろうことは頭の片隅に置いておいていいのだろう。

【研究のための備忘録】人格
 タイトルに「人格」とついているとおり、西欧中世における「人格」概念の形成に関する記述がたくさんあったので、サンプリングしておく。
 まず専門的な歴史の話の前に、日本人が「人格」という概念を理解していないという危機感が繰り返し表明されている。

「私たちは明治以後、近代学校教育の中で、自分を個人として意識し、一つの人格をもつ存在であることを学んできた。そのばあい、人格とは何かとか、近代以前において日本人は個人の人格をどのように考えてきたのか、などと問うこともなく、私たちは過ごしてきたように見える。とくに周囲の人間関係の中で、一個人が自分の人格をもちつつ活きることの意味について、深い省察はなされれていないように思われるのである。」48頁
「私たちは社会科学、人文科学のいずれを問わず、学問のすべての分野において西欧的な人格概念を前提にして議論をしている。しかし日常生活の分野においては、西欧的な人格概念ですべてを通すことは少なくとも日本国内においては不可能である(後略)」156頁
「明治十七年(1884)にindividualという語に個人という訳語が定められてから、一〇〇年が経過しているにもかかわらず、日本には個人の尊厳の思想は根づいていないといってよいであろう。」172頁

 苅谷剛彦は2019年の著書で、日本人は「人格」とか「個性」という概念を完全に理解しているという見解を示しており(苅谷『追いついた近代 消えた近代』)、阿部の論述と真っ向から対立している。阿部論文が1990年発行なので、およそ30年の間に受け止め方が変わったということか、どうか。

 で、現代日本の問題を踏まえた上で、西欧がどのように「人格」概念を形成していったかの話に入る。ポイントは、従来の歴史学では15~16世紀のルネサンス期が近代的個人の始まりだとされていたところ、中世史の進展によって12世紀こそが決定的なターニングポイントだったと理解されているところだ。

「グレーヴィッチは、かつて主張されたように、中世からルネサンスまでは個人は存在せず、個人は社会の中に完全に組み込まれ、社会に完全に服従させられていた、という説はいまでは支持しえないと述べている。(中略)そしてまさに中世において、人格という概念が形成されていった、というのである。」61-62頁
「十三世紀には、個人の自己意識に転機が訪れる。(中略)これまで人間の霊魂のみを問題にしていた哲学者たちは、十三世紀には、不可分の統一体としての霊と肉体に目を向け始めるようになったが、それこそ人格を形成するものなのであった。」66頁

 このあたりは著者やその周辺が勝手に言っているのではなく、学会というか知識人全体の共通理解になっている。
 で、歴史的な論述を具体的に進める際に著者がとりわけ注目してこだわっているのだ、男女の性愛関係だ。

「私たちは、人格や個人のあり方を考えるときに、抽象的、あるいは形而上学的に語るばあいが多い。しかし現実の個人や人格のあり方は、人と人の関係の中で現れるのであって、対人関係を抜きにして、個人や人格を語ることはできないのである。(中略)男女の関係こそは、人間と人間の関係の基礎であり、個人や人格の問題も、そこからはじめて考察しなければならないのである。それと同時に、個人や人格について抽象的に語るのでなく、具体的に語らねばならないとするなら、人間の肉体と人格の関係についても語らねばならないであろう。」74頁
「人間と人間の関係のなかで、男と女の関係が最も親密なものであろう。この親密な関係を肉の面で棄てることによって得られるもの、それが「一つ心」であった。自分の肉体の奥底にある「真の自分」を発見し、絶対者である神に直面しようとする態度である。ここには冒頭でのべた、ペルソナのキリスト教的理解が明確な形で示されているように見えるのである。三位一体の神を構成する三つのペルソナに対して、ひとつのペルソナである人間が、自己のペルソナを発見することによって応えようとしているのであり、絶対者と人間の個とが直面する構図があり、近代のヨーロッパ哲学における人格の概念につらなってゆくものをみることができるのである。」p.88

 個人的に言えば、なんとなくこのあたりは論理が飛躍しているようにも思えるところではある。「人格の形成」と「男女の性愛」はいきなり繋がるようなものなのか、またさらにそれがキリスト教のペルソナといきなり接触するものなのかどうか、疑問なしとはしない。まあ、言いたいことそのものは分からないでもない。
 で、「男女の性愛」が「人格の形成」に結びつくのは、カトリックが制度化した「告解」という仕組みが媒介するという論理になっている。本論が成立するかどうかは、この論点の説得力にかかっている。

「告解という制度が個人による自己の行為の説明からはじまる以上、個人が自己を意識する大きなきっかけとならざるをえなかったのである。(中略)ヨーロッパにおいては、このような個人の内面に対する上からの介入を経て、近代的個人が成立する道がつけられたのである。」132頁
「告白の中で個人は自分の行為を他人の前で語らねばならないのである。自己を語るという行為こそ、個人と人格の形成の出発点にあるものだからである。たとえ強制されたものであったにせよ、そこには自己批判の伝統を形成する出発点があった。ヨーロッパ近代社会における個人と人格は、まさにこの時点で形成されつつあった、といってよいだろう。」140頁

 まあ、なんとなくフーコーと柄谷行人の議論でお馴染みの話ではあるように思える。ここに納得するかどうか。言いたいことは分からないではないけれども、そうとう眉に唾をつけておきたい気分だ。別のストーリーも大いにあり得るところだ。個人的に気になっているのは、いわゆる「近代的個人」の成立が「近代的国家」とパラレルになっているというところだ。「告解」という制度から攻めるよりも、「近代的国家と近代的個人の相似」のほうに注目する方が説明としては説得力をもつのではないか。まあ、「告解」を重視する議論は一つの仮説として留意はしておきたい。
 話はさらに、12世紀トゥルバドゥールの宮廷風恋愛の具体的分析に進む。

「ここで注目しておきたいのは、トゥルバドゥールにおける想像力の問題である。恋人の裸身に手で触れ、接吻をしながらも性交にはいたらない彼らの行動は、自己に制約を課すことによって肉欲を霊的な脈絡の中に置き換え、愛を理想化し、エネルギーを詩作に向けたというのである。風景や自然に対する愛が歌われるのも、彼らの想像力の結果なのである。それは自分たちの愛を人間独自の世界の中で完成されるものとし、神の愛に連なるものと見なかった結果なのである。このようにみてくると、トゥルバドゥールの恋愛が、西欧における個人の人格の成立と不可分の関係にあったということがうなずかれるであろう。」263-264頁
「この頃にヨーロッパの多くの人が愛について語り始めた背景には、第二章で述べたように個人・人格が成立しつつあったことがあるであろう。真の意味での恋愛が成立するためには、男女両性が独立した人格をもっていなければならない。(中略)宮廷風恋愛は、このような西欧における愛の発見の一環として生まれたものであった。そしてその大前提として、個人の成立・人格の成立があったのである。」p.277

 うーん、どうなんだろう。牽強付会な感じがしないでもない。本論でもちょこっと言及されているが、こういう恋愛の技法はアラビア経由で入ってきたという説も有力なところで、そうなると特に「西欧に個人が誕生した」という文脈で語るべきことではなくなってくる。実際にトゥルバドゥールの詩を読んでみても、中身は極めて抽象的で、具体的な個性が描かれているわけではなく、「個人」とか「人格」の誕生に繋がるとは素直に受け取ることはできない。
 まあしばらくは、眉に唾を大量につけつつ、一つの仮説として頭の片隅に置いておく、という扱いでいこうと思う。

阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』講談社学術文庫、2019年<1992年

【要約と感想】中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』

【要約】おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

【感想】タイトルだけ見て、脳科学的な観点から「人格」の理解に光を当てた本だろうと手に取ったけど、ぜんぜん違って、著者の自伝的エッセイ集だった。まあ、こういう意図せざる出会いがあるのがタイトル買いの醍醐味だから、いいんだけれど。
 で、私が1991年東大入学で、1回留年して大学院に進み、2003年までうろちょろしているので、著者とは本郷キャンパス内ですれ違っているかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、まあ、どっちであってもどうでもいいことではある。で、経歴も考え方もぜんぜん違うようだけれども、アカデミックな研究に対しては、どうも違和感を共有しているような気もする。私もなぜか大学スタッフの末席に名を連ねているけれども、「ここにいていいのだろうか?」という存在論的な違和感は、未だにぬぐえなかったりする。というか、加速しつつある。大学院生の頃はまだ純粋に学術論文を書くということに喜びを感じていたような気がするのだけれども、昨今の大学改革を経て、学問的意味をさほど持たない論文を戦略的に量産しなければポストにしがみつけなくなって、「研究する喜び」というものが後回しになっている結果、なんのために研究しているのか意味を見失っていく。これはいけない、本質的なものを取り戻そう、と頑張ってみると、今度はポストにしがみつく意味が分からなくなってくる。これなら、大学じゃなくて、別にいいじゃない。東大で尊敬していた先生が2人、任期前に退職したけれども、そういう気持ちだったのかどうか。

【研究のための備忘録】ペルソナ=人格
 で、業績のためにやっているわけではなく、そしてあるいは社会の役に立つためにやっているわけではなく、もはやただただ私個人の知的関心を満たすためにライフワークのように研究を進めているテーマが「人格」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった類の概念史なわけで、それに関わる言葉をサンプリングしておくのだった。

「むしろ、脳は一貫していることの方がおかしいのだ。自然ではないから、わざわざ一貫させようとして、外野が口を出したり、内省的に自分を批判したりするのである。一貫させるのは、端的に言えば、コミュニティから受けとることのできる恩恵を最大化するためという目的からにすぎない。」p.8
「一貫性がないと困る、という一件不必要な制約が、脳に植え付けられているのだとしたら、それはどんな目的のためなのだろう? この答えは、残念ながら脳科学的にもまだクリアにはなっていない。」p.76

 人格心理学の分野では、しばらく前に「一貫性論争」というものがあった。一貫性という概念そのものに疑問を投げかけた論争だ。また19世紀教育学(ヘルバルト主義)では、教育の目的と方法は人格の一貫性を保つために構成しなければいけないと明言していた。が、20世紀にはボルノーが「不連続性」の教育を主張して、極めて大きな影響力を持った。あるいは社会学の領域では、100年ほど前にG.H.ミードが、アイデンティティなんてものは状況によって変わるもので一貫性などないと主張した。文学の世界では、それこそ一貫性を無化あるいは破壊しようとする試みがいくらでもある。経済史的に言えば、高度に発達した資本主義が人間存在を疎外していることが自覚されたことが背景にある。脳科学のような自然科学は、そういう動きを遅れて実証しつつあるように見える。さて「一貫性」の明日はどっちだ。

「わたしのペルソナ(他者に対する時に現れる自己の外的側面)は、わたしがそう演じている役である、といったら言い過ぎだと感じられるだろうか?」p.9
「私たちは、誰もが社会の中にあって役割を持って生活している。その役割をこなすには、本来の自分であることをしばしば覆い隠し、求められたペルソナを演じる必要がある。本来持っている性格そのままに、自然に振る舞いたいという衝動と、その衝動を空気を読む前頭前皮質が抑え込んでいるという均衡の上に私たちは存在している。」p.130

 いつの間にか「ペルソナ」という言葉は「人間の不可分で代替可能な何か」を指し示す言葉になっているけれども、もともとの意味は本書が言うような「役割」に過ぎなかった。G.H.ミードは100年前にそれを確認している。脳科学的な教養を背景にしながらも、100年前と同じような感想が繰り返されていると見ていいか。あるいは小説家平野啓一郎が同じように「本当の自分などありません」と言っていたことを思い出す(平野『私とは何か』)。ちなみに従来personalityという言葉が担っていた意味領域がかなりぼやけてしまったので、いま代わりにagencyという言葉が使われ始めている。

中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』講談社現代新書、2020年

【要約と感想】本田由紀『教育は何を評価してきたのか』

【要約】国際的に比較すると、日本人の生産力や自己肯定感の低さが極めて異常なことが一目瞭然ですが、論理的には、垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過小という社会構造が問題です。このような構造を生み出している原因を浮き彫りにするために、本書は「能力」「資質」「態度」という言葉に分析を施します。
 「能力主義」に関しては、一般的には「メリトクラシー」という英語の翻訳語と理解されていますが、そこから大きな勘違いが始まっています。欧米のメリトクラシーは「業績主義」であって、日本語の言う「能力」は、それとはまったく異なるガラパゴスな指標となっています。それが明治期から昭和、さらに平成を経て、ガラパゴスな変化が加速し、いまや「人格」をも動員しようと試みる「ハイパー・メリトクラシー」の段階に突入しています。
 また一方、21世紀に入る頃からナショナリズムを高揚させようとする意図的な動きに伴って「態度」という言葉が頻発されるようになりました。
 このような閉塞状況を打破するためのポイントは、高校改革にあります。具体的には、普通科中心から多種多様な学科構成への変革、選抜の在り方の見直し、民間企業の採用の考え方の変更が有効な打開策になるでしょう。

【感想】限られた少数のキーワードに分析を施すことで日本が抱える問題の全体構造が明らかになるという、いわゆる「一点突破全面展開」のお手本のような見事な構成だった。行論については、テンポがいいと思うか、議論を急ぎすぎだと思うかは、まあ人によるだろうけれど、新書だからこれでいいのだろう。切れ味が鋭いことには間違いがない。読者の方も、日本が抱える問題たちを綺麗に切り刻んでくれているように読めるのではないか。学生に勧めていい本のように思った。

【要検討事項】とはいえ、専門家の立場からはいろいろ言いたいことも出てくる。特に本書は概念史を扱っているわけだが、国会図書館デジタルコレクションの検索結果から始めるという方法は、「歴史屋」の私からすれば物足りないことこの上ない。少なくとも日本国語大辞典を繙いても損はしない。たとえば「能力」という言葉に関しては、江戸時代の用例や中国古典での扱いについて基礎的な情報を得ることができる。
 また、日本教育史プロパーとしては、「能力」という言葉が「開発主義」の流行に伴って一般化していったことは強調しておきたいところだ。そしてもちろん開発主義のモトネタであるペスタロッチー主義にも同じ傾向があるわけだが、それはつまり、そもそも近代教育の内容と方法自体が「能力(この場合はfaculty)」の「開発(develop)」という発想を土台にしていることを示唆している。あるいはさらに遡ってロックやルソーを見てもよい。「外から知識を与える」のではなく「内部からの力の形成」という発想の素朴な姿を見ることができる。この「知識から力への重点の変化」は、近代教育思想の基本的な土台となっている。明治初期開発主義は、この近代教育思想の基礎・基本を忠実に受け容れた結果、「能力」という言葉を連発していくことになる。こうしてみると、「能力」とは日本固有の問題というよりは、「近代」に固有の問題に見えてくる。確かに「メリトクラシー」と「能力主義」の中身が異なるのは指摘通りとして、じゃあヨーロッパ近代(特に資本主義の論理)が「日本語で言う能力なるもの」からどの程度自由だったのか。ちょっと考えただけでもいろいろ丁寧に見ておきたい論点が噴出してくる。
 まあ、本書にそれを求めるのはナイモノネダリではある。本書は本書固有の課題にはしっかり応えているので、生じた疑問については私自身の課題として突きつめればいいだけのことではある。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「人格」に絡んだ文章がいくつかあったので、サンプリングしておく。

「一九五〇年代の議論がほぼ「学力低下」は「国力の低下」をもたらすということのみに収斂していたのに対し。一九七〇~八〇年代においては、「落ちこぼれ」等の学力問題が「子どもの人格形成のゆがみ」をもたらすということが強調されるように変化していた。つまり、「学力の低い子ども」は「人格」的にも劣っており、非行などの逸脱行動に走る確率も高いということが、非常にしばしば主張されるようになる。さらには、「学力」が高い子どもであっても、「知識の記憶力」に終始し、やはり「人格のゆがみ」がもたらされている、という議論が展開される。」pp.119-120

「(前略)「学力」を「人格」や「人類社会の平和と発展」と結び付けて論じる言説の広がりが、続く八〇年代後半から九〇年代にかけて生じた、日本型メリトクラシーと並ぶもうひとつの垂直的序列化の軸であるハイパー・メリトクラシーへの地ならしとなっていった。」p.126

 やはり「人格」という言葉の中身が高度経済成長を境目に大きく変化している様子を覗うことができる。「期待される人間像」で描かれる「人格」という言葉と、ここで指摘されている「人格」は、まったく異なる意味内容を持っている。このあたり、「学力」とか「能力」という言葉を補助線にするといろいろ見えてくるものがありそうだ、というところでは非常に勉強になった。このインスピレーションを、自分の研究に活かしていきたい。

本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書、2020年

【要約と感想】トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』

【要約】この本の目的は、立派な君主を教育することです。そのために聖書や先哲の議論から、具体的な事例が豊富に示されています。
 君主制は、先哲の議論と歴史の経験と論理的な理屈を踏まえれば、貴族制や民主制よりも優れた、最高の政治形態です。しかし君主制には僭主制へと堕落する弱点もありますので、民衆のほうは用心しておくのがよいでしょう。
 ところで人間の最高目的は神によって定められており、カトリック教会が指導しているので、君主もそれに従わなければなりません。君主の仕事の範囲は、俗界の指導に限られます。君主固有の仕事をまっとうするためには、政治的な力量ではなく、高潔な人格のほうが重要です。それこそがカトリックの指導に従ったあり方です。教会の言うことを守って立派な君主になりましょう。
 都市を建設したり維持したりするために気をつけるべき注意点も示しました。

【感想】本文よりも、訳注と解説のほうが長い、岩波文庫にしばしば見られるスタイルの、気合が入った本だった。解説に書いてあったことは、不勉強にも知らないことばかりで、とても勉強になった。
 本書はいわゆる「君主の鑑」とカテゴライズされる、カトリック教会の価値観に従って俗界君主を教育することを目的とした内容の本で、ヨーロッパ中世には類書がたくさんあったらしい。そして直ちに想起されるように、マキアベッリ『君主論』が暗に批判するようなキレイゴトの記述に満ちている。逆に言えば、マキアベッリが政治のキレイゴトを粉砕するまでは、「君主の鑑」のようなあり方のほうが常識的だったということでもある。
 また直ちに想起されるのは、東洋の君主論(貞観政要や資治通鑑など)との類似だ。論語の精神である徳治主義(修己治人)や「天」への畏敬の念とトマスが示す君主の理想は、もちろん具体的な細部はまったく異なるものの、大枠では響き合っているように思う。君主にとって大事なのは、政治的力量ではなく徳である。ちなみに本書訳注や解説でもヘレニズムとの関係が指摘されてはいるが、全面的に議論が展開されているわけでもない。しかし東洋にはマキアベッリを待つまでもなく、既に韓非子もいたりするわけではあるが。

【要検討事項】本文ではなく解説のところに示されている文章だが、「教育」という翻訳語が気になった。

「まず指摘しておかねばならないのは、それら作品の表題である。「道」(スマラグドクス『王の道』Via Regia)、「教育」(オルレアンのヨナス『王の教育について』De Institutione Regia)、「人格」(ランスのヒンクマルス『王の人格と王の職務について』De Regis Persona et Regio Ministerio)といったタームが用いられている。」pp.157-158

 現代英語ではinstitutionとなっている単語が、ここでは「教育」となっている。まあそれ自体は西洋教育史を勉強すれば常識に属する知識であって、特に驚くことではない。ただしそれがeducationでもなくinstructionでもなかったことについて、特別に意識を払っても損はないように思うのでもある。ここで使用されている「Institutione」が示す具体的な内容は、もちろん現代の私たちが用いる「教育」という言葉が示す内容とは、大きくかけ離れている。大枠の大枠では「教育」と呼んでもちろん差し支えないわけだが、この「Institutione」を適切に表現する現代日本語を考えることは、現代教育についての知見を深める上でも、おそらく無駄な作業ではない。
 それと同様に、この文章では「Persona」というラテン語が「人格」と翻訳されている。もちろんここでは「人格」という日本語を使うしかない。しかし現代の我々が使用する「人格」という言葉の意味内容が、中世からは、特にカント以後に決定的に転回していることを踏まえると、いま私たちがイメージする近代的な「人格の陶冶」概念を、この中世の「君主の鑑」に当てはめることがどれくらい適切か、ある程度疑って留保しておいた方がいいのだろう。そして「Persona」と「Institutione」の転回は、「目的」の転回と深く関わってくる。

【今後の研究のための備忘録】
 例えば「目的」について、以下のように記されている。

「しかし人間は徳にしたがって生活しながら、既に上述したように、神の享受のうちにあるより高次の目的に向かって秩序づけられているので、多数の人間の目的と一人の人間の目的は同一のものでなければならない。それゆえ会い集う民衆の終局目的は徳にしたがって生きることではなく、有徳な生活を通して神の享受へと到達することなのである。」第1巻第14章107

 このような考え方は、もちろん近代的な「教育」や「人格」がまったく知らないものである。というか、こういう考え方を覆したところで、近代の「教育」や「人格」という観念は成り立っている。だとするなら、このような中世的目的観の下で行なわれる「Persona」への「Institutione」は、はたして「人格の陶冶」と考えてよいかどうか、ということになる。
 ちなみにもちろん著者を批判しているのではなく、私が批判的に行なうべき仕事として留意しておこう、という話である。

 またそれから「国家有機体論」について触れていることについては、しっかり記憶にとどめておきたい。

「それゆえ君主たる者は王国における自己の職務が、ちょうど肉体における魂や、世界における神のごときものである、とういことをよく認識しておかなければならない。」「かれの支配下にいる人びとをかれ自身の四肢のように考え、柔和と寛容の精神を発揮することができるであろう。」第1巻第12章95

 ただしもちろん、近代国民国家とは条件が決定的に異なっていることについては忘れてはならない。

トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』柴田平三郎訳、岩波文庫、2009年

【要約と感想】マイケル・ローゼン『尊厳―その歴史と意味』

【要約】「尊厳」という言葉の歴史を辿り、具体的な場面でどのように使われているか分析を施したうえで、哲学的な知見と手法で深堀りします。
 言語分析的には、「尊厳」という言葉は3つないし4つの場面で使われています。すなわち、(1)地位としての尊厳(2)本質としての尊厳(3)態度としての尊厳(4)敬意の表現、の4つです。それぞれ意味内容はズレています。
 そして歴史的なルーツを紐解くと、カトリック思想とカント哲学が大きな柱として浮かび上がってきますが、お互いに両立せず、矛盾するものです。カトリック思想をルーツとした「尊厳」は、「地位としての尊厳」の発想を土台にしていて、近代人権思想とは実は相容れない要素を多く含んでいます。いちおう第二次世界大戦後には、カトリック側の考え方が柔軟に変化しています。いっぽう、カント倫理学思想における「尊厳」についても、現実的にドイツ連邦共和国基本法の原理に決定的な影響を与えていることもあり、数多くの研究が行われてきましたが、それらの解釈(主意主義や人間主義)にはいろいろ問題が見受けられます。特に、原理的には理屈を理解できるとしても、その理屈を現実に適用しようとしたときに、大きな問題が生じます。
 それらの議論を踏まえて、特に死者や胎児に対する「尊厳」というものを具体的に視野に入れて考えてみると、やはり「尊厳」とは、具体的な表現形態が時代や文化によって異なることは確かであるとしても、私たちが人間であるうえで決定的に大切な何か、もはや私の一部になっている義務のようなものであることは疑えません。

【感想】ああでもないこうでもないと、あっちにいったりこっちにいったり、論点はすっきり整理されているわけでもなく、議論の行程には散漫な印象を受け、そしてそれは英米系哲学によく見られるものでもあるが、しかし、むしろこのテーマに対して敬意を持って手続きを尽くそうとする著者の誠実な態度を強く感じた。言いたいことはよくわかる。良い本だった。勉強になった。
 本書は「尊厳」という言葉を対象として議論を進めているが、同じような議論はたとえば「良心」という言葉を対象にしても成り立つような気もする。「良心」という言葉も現実的にはさまざまな場面で多様な用いられ方をして、意味内容も拡散しているが、間違いなく宗教的・哲学的なルーツを持ち、人間について何か大切なことを言い当てるような言葉だ。そしてその「大切な何か」は最終的には「人格」という言葉の中に収斂してくることになる。本書にもやたらと「人格」という言葉が登場する所以である。個人的には「尊厳とは人格の属性である」と一言でまとめたくなるが、乱暴だろうか。
 またあるいは、この理解の先に生じてくるのが、中世的には「共通善」と呼ばれる概念であり、近代的には「公共」という領域に関する議論となるだろう。本書は「尊厳」を最終的に「それがなければ、私たちは人として成り立たなくなってしまう」という地点で理解しているが、その具体的な中身が中世的には「共通善」であり、自由主義・民主主義には「公共」と呼ばれる領域として立ち上がってくるだろう。本書の射程はここまで伸びていないが、特に問題ということではない。

【要検討事項】ちなみに日本国語大辞典によれば、「尊厳」の用例は日本近世にも中国古典にもある。おそらくdignityの翻訳者が漢籍に詳しかったのだろう。誰が翻訳したか特定してみたいものだ。ちなみに近代では、坪内逍遙と若松賤子が例示されていた。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 カトリックの思想的転回のキーパーソンとして名前が挙げられていたジャック・マリタンが、気になった。

「カトリック思想は、どの時点で、自由主義と民主主義について曖昧な態度をとらなくなり、社会的、政治的な平等を伴う人間の尊厳の考え方を受け入れるようになったのだろうか。確実なことを言うのは非常に難しい。とりわけ、カトリックは自らの教えが聖書の啓示と時間を超越した自然法則の権威を体現していると公に主張している組織なので、考えを変えたことを認めるのを明らかに嫌がっているからである。私は、第二次世界大戦が分岐点だったと考えている。世界人権宣言(とりわけカトリックの思想家ジャック・マリタンを通じて)とドイツ連邦共和国基本法に対するカトリックの影響は、間違いなく重大であった。両文書において、尊厳には非常に際立った地位が与えられ、侵すことのできない人権の観念と結びつけられたのである。」pp.69-70

 というのは、教育基本法制定時に文部大臣として尽力し、特に第一条の「教育の目的は人格の完成」という条文にこだわったカトリック主義者が田中耕太郎なわけだが、その田中耕太郎が戦前からジャック・マリタンと交流があったことが研究で明らかになっているからだ。先行研究が示す通りマリタンの人格理論が田中耕太郎に影響を与えているのが事実とするならば、もちろん「尊厳」の概念が影響を与えていないわけがない。特に、「人格」という言葉だけなら大正人格主義の影響を考慮するだけで事足りる一方で、「目的」とか「完成」という言葉について深く考えようとしたときにはどうしてもカトリックの思想に手を突っ込む必要が出てくる。そしてもちろんマリタンの背後には、トマス・アクィナスがいる。そんなわけで、教育基本法第一条「人格の完成」について深く考えるためには、改めてマリタンにチャレンジする必要を感じたのであった。

マイケル・ローゼン/内尾太一・峯陽一訳『尊厳―その歴史と意味』岩波新書、2021年