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【要約と感想】松野弘編著『大学生のための「社会常識」講座―社会人基礎力を身に付ける方法』

【要約】最近の若いもんには常識がないから、常識を身につけなさいよ。社会に出てから困りますよ。

【感想】本書は、大学の講義での「社会人基礎力」の需要を見越して作ったテキストなのだろうけれど。まずこの「社会人基礎力」という概念そのものが、どうなのかというところ。私の口から直接言うまでもなく各所でケチョンケチョンにされている上に、教育現場ではまったく顧みられていないのであった。まあその程度のことは執筆者も自覚していて、「社会人基礎力」への批判的文章も載せるなどして、一定の距離を取ってはいるのだった。極めて賢明な態度だ。

一番笑ったのは、大学の講義に対する「授業アンケート」に関する次の文章だ。

アンケートが無記名で実施されると、当該教員への報復手段としてそれが用いられることも少なくない。例えば、授業中に私語等を注意された学生がその腹いせに評価を低めて報復するのである。そうすると、教員と学生の双方にとって不幸な状態(教員は気分を害し、結局、単位認定が厳しくなることも)になりかねないので、報復的なアンケート回答は絶対にしてはならない。」(32頁)

いやはや。なんと率直な文章だろうか。程度の低い学生の単位をびしばし落としている私の授業に対しても、確かに、明らかに報復的な回答を寄せる学生はいる。確かに私は「気分」を害する。が、だからといって「単位認定が厳しくなる」ことはないのだった。そこはプロとして、しっかりやろうよ、というところだなあ。学生のせいにするところではなかろう。
これは、決して「気分」の問題ではなく、制度の問題だ。この不確かな学生アンケートを大学の正式な「教員評価」として活用するとおかしくなることさえ認識していればいい。教員が個人でアンケート結果を反省する分には、学生が報復気分でつけようが、構わない。だってそれが「現実」なんだから、現実を受け容れるしかないのだ。
ただし、授業アンケートを人事評定に関する「制度」としたときにいろいろと根本的な不都合が発生するだろう事は、教育学のプロとして強調しておきたい。教育を自由市場における「交換」と同じ原理で弄ぶと、必ずおかしいことになる。

【言質】
「人格」という言葉の用法をピックアップ。

「当該企業人が所属する当該組織の長たる直属の上司は、直接に業務の指示を発する人格であるとともに、当該部署全体のパフォーマンスに対して責任を負う立場の人である。」(70頁)

ここで言う「人格」は、personalityというよりも、近年になってOECDの用法で目立ち始めたagencyに相当するように思う。agentとかagencyという言葉に相当する「人格」の具体的用法は、もうちょっと収集していきたい。
しかし以下の用法では、「人格」はagentではなくcharacterだろう。

「こうした意思決定の積み重ねにより、この企業はどんな起業か、自然と性格が形づくられてくる。人間に人格があるように、企業(≓会社)にも「社格」ができてくるのである。」(103頁)

これに類する「人格」用法の収集は、教育書よりもビジネス書の方が効果的なんだろうなあ。

松野弘編著『大学生のための「社会常識」講座―社会人基礎力を身に付ける方法』ミネルヴァ書房、2011年

【要約と感想】北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』

【要約】このままの教育を続けていたら、日本は滅びます。日本従来の共感重視の「会話」に頼るのではなく、絶望的にわかり合えない絶対的な「個」を踏まえて、本物の「対話」の力を育みましょう。

【感想】まあ、150年ほど前から見聞きする「日本はダメだ、外国に学ぼう」という類の主張をしている本であって、正直言って「またか…」と思わないではない。その「日本はダメだ」の中身も、突き詰めれば「個をベースとした市民社会のセンスが身についていない」という内容であって、その主張は150年前に福沢諭吉が言ったことからさほど遠くない。
そういう冷めた目で見れば得るものも多いかもしれないし、純粋な学生が何も知らずに読んで目から鱗を落とすのもいい経験になるんだろうけどね。

【冷めた目で読んで得たもの】
「個性」や「人格」という言葉についての言質をいくつか得られた。個人的に大きな収穫だ。まず「個性」について。

北川「ヨーロッパ型の教育に出会って、おもしろいと思ったのは、「個性」といったときに、「ほんとうに個性的なものは、極めて個人的なもので、他人には理解不能なものである」と考えるところでした。(中略)
互いにわかり合えない超個性的な状態の子どもを「野性的な個性」というような言い方をしているんですが、そういう子どもに、一般的に分かりやすく表現する方法を教える。そして、共感というものを認識させて、他人と共通性のある表現の大切さを知らせていく。それによってそういう野性的な個であったものが、社会における個とか、社会的な個性として育つのだと。」(102-103頁)

まあ「窓のないモナド」として「個」を把握するという理解の仕方は、日本人にはなかなか分かりにくいものだ。こういう「個」のありかたと「個性」という言葉の意味について反省する上では、とても役に立つ文章だと思う。
続いて「人格」について。

平田「仕事がら、不登校の子どもたちと付き合うことがよくあります。(中略)
さらに、彼ら/彼女らは、「ほんとうの自分は、こんないい子の自分ではない」と言う。そこでわたしは、「でもね、ほんとうの自分なんて見つけちゃったら大変だよ。新興宗教の教祖にでもなるしかないよ」と答えます。
わたしたち大人は、ふだんからいろいろな役割を演じています。父親という役割、夫という役割、会社での役職、マンションの管理組合やPTAの役員、いろいろな社会的な役割を演じながら、人生の時間をかろうじて、少しずつ前に進めていっている。自分のなかで、その役割同士の調和を取りながら、一つの人格を形成している。
こういった概念を、演劇の世界では「ペルソナ」と言います。ペルソナには、仮面という意味と、パーソンの語源になった人格という意味の両方が兼ね備えられています。仮面の総体が人格なんですね。わたしたちは、社会的な関係のなかで、さまざまな役割を演じながら、一つの人格を形成している。
そんなことは、大人は充分わかっているはずなのに、子どもたちには、家でも学校でも「ほんとうの自分を見つけなさい」「ほんとうの自分の意見を言いなさい」と強要している。
ほんとうの自分の意見なんてあり得ない。わたしたちは、相手に合わせて、さまざまに意見やその言い方を変えていくし、それは決してまちがったことではない。」(183-184頁)

この「人格」観は、アメリカの哲学者J.H.ミードが90年ほど前に述べたのとまったく同じ見解だ。逆に言えば、この発言は、1920年代のアメリカと高度経済成長以後の日本が似たような社会状況にあるという示唆をも与えてくれるわけだ。そういう意味で興味深い発言ではあるのだ。
「ほんものの自分=近代的自我」を探すアイデンティティ・ゲームの行き着く先に幸せが待っているかどうか、極めて不透明であることについては、私も同じ意見ではある。

が、以下の言葉は、私自身を省みるものとして、自分事としてしっかり味わわなければならない。

平田「ほんとにだめなのが、中高年の男性たちです。これがいちばん対話下手。(中略)自分の経験や知識をひけらかすためだけの発言をする。それはもう、つまみ出そうかと思うくらい。」(67頁)

いやあ、心当たりがありまくるなあ。すみませんね>各位。

北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』日経ビジネス人文庫、2013年<2008年

【要約と感想】新井潤美『パブリック・スクール』

【要約】パブリック・スクールはイギリスの上流階級が入る学校ですが、小説や演劇を通じて、階級の差を超えてイギリスの文化や考え方全体に影響を与えています。

【感想】イギリスではパブリック・スクールを舞台とした物語が人気だったことが分かるが、日本でも1970年代から少女マンガで寄宿舎ものがやたらと発展したことを思い出す。まあイギリスではなく大陸ぽいけれども。イギリス階級ものマンガだと『エマ』とか『アンダーザローズ』を思い浮かべたりする。

教育史的関心から読むと、パブリック・スクールが増え始めるのが16世紀というのは(7頁)、本書が言うように宗教改革の影響も多々あるだろうが、個人的には印刷術の影響が決定的だろうと思ってしまう。
あるいは、教育史の学生用教科書にはパブリック・スクールはほとんど取り上げられず、一方でオーエンの性格形成学院とベル・ランカスターのモニトリアルシステムばかりが強調されるわけだが、本書では逆にそれら教育史的素材に一言も触れられないところは、イギリスの如何ともしがたい階級制をむしろ顕わにしていて、いろいろと感慨深いものがある。
体罰を描写するくだりでは、寺崎弘昭先生の素晴らしい仕事(ホープリー事件)を思い出さざるを得ない。が、本書ではジョン・ロックの「ジョ」の字も出てこない。教育史の専門家としてはイギリスの教育というとロックとかスペンサーとかを即座に想起するわけだが、まあ現実からズレているのは我々の方なのかもしれない。いやはや。

【個人的な研究のための備忘録】
本書では「人格」という言葉が随所に登場する。パブリック・スクールが知識や教養ではなく、人格形成を重んじていたという記述に登場する。

「しかしこうして見ると、「プライベートな教育か、パブリックな教育か」という論争で重要なのは、与えられる知識の質や量ではなく、「しつけと人格形成」であることがわかる。」24頁

「パブリック・スクールが人格形成の場所であり、弱点や欠点を持った少年でも、良い感化を受けて変わることが可能であるという、従来の「学校物語」のメッセージや教訓」62頁

「「ボーイ・スカウト」運動も、ワーキング・クラスの少年に、パブリック・スクールの規律と人格形成の機会を与えようという試みである。」69頁

「…土地を所有することで生活が成り立つアッパー・クラスにとっては知識や教養を詰め込む必要がないという考え方にもとづいている。しかし、何らかの職につくひつようがあるアッパー・ミドル・クラスにとっては、パブリック・スクールでいかに人格形成が重んじられようと、或る程度の知識や教養の取得が必要であることは言うまでもない。」130頁

「…学校を見に来た父親も「この手の学校がやるのは教育だけじゃないんだ、人生で大切なのは人格なんだ」と、パブリック・スクールの精神を認めている。」181頁

本書が言う「人格」の原語が気になるところではあるが、私が推測するに、十中八九「character」であって、「personality」ではないだろう。
そしてここにイギリスのアッパークラスにとって知識や教養を獲得する教育自体が必要でないという意識を補助線に入れると、「characterの形成には知識や教養が必要ない、必要ないどころか相反する」という公式が見えてくる。
しかしながら、大陸においては「personality」を形成する物語は「教養小説」と呼ばれている。人格形成は教養獲得と一体化している。日本語では同じく「人格」と呼ばれながら、実は「character」と「personality」では指しているものがまるで違うことに気がつく。
そしてロバート・オーエンが労働者階級のために設立した学校の名前が「性格形成学院=New Institution for the Formation of Character」であったことを想起したりする。果たしてイギリス人にとって「人格=Character」とは何なのか、気になるところだ。personalityとの違いも含め、明らかにしなければならない。

新井潤美『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』岩波新書、2016年

【要約と感想】エレン・ケイ『児童の世紀』

【要約】20世紀を児童の世紀にしたいなら、まず大人の責任と女性の立場についてしっかり考えましょう。

【感想】新教育を代表する著作として名高く、教育史の教科書には必ず登場する古典中の古典。しかし実際に読んでみると、教科書の記述とは相当に異なる印象を受ける。

まず「児童」そのものについて書かれている部分が、想像していたよりもかなり少ない。女性解放運動や、労働問題や、宗教批判や、優生学についての記述など、19世紀末の社会問題が全面的に論じられる中で、子どもについての言及が埋め込まれている。逆に言えば、子どもを考えるということが、社会すべての問題を考えることに通じているということでもある。だからこの本を「子ども」そのものだけに特化していると読むと、問題の本質を見誤る。特に進化論に関わる記述は、キリスト教に対する激しい攻撃とも関わって、本書のライトモチーフともなっている。時代背景を踏まえて理解する必要があるだろう。

また、教科書や教員採用試験では、ルソーとの関係で語られることが多いが、実際に読んでみると疑問が残るところだ。むしろJ.S.ミルや、特にスペンサーといった19世紀末の自由主義との関係で捉える方がわかりやすいのではないか。19世紀の自由主義が「白人男性」に対してのみ適用されるものだったとすれば、本書の主張は、それを女性と子どもにも拡大するべきだという主張のように思える。それは「恋愛の自由」や個性尊重への主張に端的に表れているように思う。

「古典」というものは教科書等で知ったつもりになるかもしれないが、本当のところは実際に読んでみないとわからないという典型みたいな本かもしれない。

研究のための備忘録

【個人的備忘録】恋愛の至高性
「恋愛が日常当り前の信念となり、祭日の祈りの献身的態度をとるとき、また、絶え間ない精神の目覚めに守られ、不断の人格向上――古い美辞、「神聖化」を用いてもよいが――をもたらすとき、初めて恋愛は偉大になる。」(32頁)

恋愛至上主義的な姿勢が「人格の向上」という観念を伴いながら浮上してきたことは、記憶されてよいかもしれない。女性が家父長制の呪縛から逃れ、かけがえのない「人格」として独立しようとするとき、恋愛というものに極めて大きな期待がこめられていたことが分かる。

【個人的備忘録】家事の市場化についての予言
「もちろん、醸造やパン焼や屠殺や蝋燭づくりや裁縫が、だんだん家庭から去っていくように、いまのところまだ家事労働の最大部分をなしている多くの労働、たとえば、食事の準備や洗濯や衣類の繕いや掃除などが、だんだん集団化し、または電気や機械の助けを借りるようになるものとわたしは信じている。しかしわたしは、人間の個人尊重の傾向が、非人格的単一型の集団生活へ向う傾向に打克つことを希望している。」(111頁)

「家事」というものは、世間で思われているような雑事ではなく、「いまだ市場化されていない労働」のことだ。という社会学の常識的な考え方が、実はすでにエレン・ケイによって提出されていたことは記憶されてよいかもしれない。そしてエレン・ケイが、家事の市場化傾向に対して「個人尊重」を対抗させたことも。

【個人的備忘録】個性の尊重
「子どもを社会的な人間に仕立て上げる際、唯一の正しい出発点は、子どもを社会的な人間として取扱い、同時に子どもが個性ある人間になるように勇気づけることである。」
「多くの新しい思想家たちは、わたしがすでに述べたとおり、個性について語っている。だが、この人たちの子どもが、他の全部の子どもたちと同じでない場合、または、子どもが自分の子孫として、社会の要求するあらゆる道徳を身につけないとか完成を示さない場合、この人たちは絶望する。」(150頁)
「教育者の最大の誤りは、子どもの個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを「子ども」という抽象観念によって取扱うことである。これでは子どもは教育者の手のうちで成形され、また変形される無機物であり、非人格的な一つの物体にすぎない。」(170頁)
「何が子どもにとって最高のものであるか。ゲーテは答えている。地上の子どもにとって最高の幸福は個性を認められることにつきる」(243頁)

引用した「個性」に関する物言いは、現在ではむしろ陳腐な部類に属するかもしれない。が、このような表現は、この時点ではかなり新しかったように思う。19世紀的な思考形態からは出てきにくい表現のように思う。こういう表現の数々が、本書を20世紀の幕開けを代表するものに押し上げているのかもしれない。

【個人的備忘録】人格の尊重
「時代は「人格」を求めて呼びかけている。しかし、わたしたちが子どもを人格あるものとして生かし、学ばせ、自分の意志と思想をもって自分の知識を得るために働かせ、自分の判断力を養成させるまでは、時代がいくら叫んでも無駄である。一言でいえば、わたしたちが学校における人格的素質の殺害をやめるまでは、人格を生活のなかに見出そうとする期待は、無駄というものであろう。」(295-296頁)

「個性」と並んで、「人格」に関する表現も、実に20世紀的と言える。19世紀的な「人格」の用法とは、ずいぶん異なっているように感じる。ちなみに、これがはたしてエレン・ケイの思想に固有のものか、単なる翻訳の問題に過ぎないかは、私は検討していないので、各自調べていただきたい。

エレン・ケイ『児童の世紀』小野寺信・小野寺百合子訳、冨山房百科文庫 24、1979年