【要約と感想】北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』

【要約】このままの教育を続けていたら、日本は滅びます。日本従来の共感重視の「会話」に頼るのではなく、絶望的にわかり合えない絶対的な「個」を踏まえて、本物の「対話」の力を育みましょう。

【感想】まあ、150年ほど前から見聞きする「日本はダメだ、外国に学ぼう」という類の主張をしている本であって、正直言って「またか…」と思わないではない。その「日本はダメだ」の中身も、突き詰めれば「個をベースとした市民社会のセンスが身についていない」という内容であって、その主張は150年前に福沢諭吉が言ったことからさほど遠くない。
そういう冷めた目で見れば得るものも多いかもしれないし、純粋な学生が何も知らずに読んで目から鱗を落とすのもいい経験になるんだろうけどね。

【冷めた目で読んで得たもの】
「個性」や「人格」という言葉についての言質をいくつか得られた。個人的に大きな収穫だ。まず「個性」について。

北川「ヨーロッパ型の教育に出会って、おもしろいと思ったのは、「個性」といったときに、「ほんとうに個性的なものは、極めて個人的なもので、他人には理解不能なものである」と考えるところでした。(中略)
互いにわかり合えない超個性的な状態の子どもを「野性的な個性」というような言い方をしているんですが、そういう子どもに、一般的に分かりやすく表現する方法を教える。そして、共感というものを認識させて、他人と共通性のある表現の大切さを知らせていく。それによってそういう野性的な個であったものが、社会における個とか、社会的な個性として育つのだと。」(102-103頁)

まあ「窓のないモナド」として「個」を把握するという理解の仕方は、日本人にはなかなか分かりにくいものだ。こういう「個」のありかたと「個性」という言葉の意味について反省する上では、とても役に立つ文章だと思う。
続いて「人格」について。

平田「仕事がら、不登校の子どもたちと付き合うことがよくあります。(中略)
さらに、彼ら/彼女らは、「ほんとうの自分は、こんないい子の自分ではない」と言う。そこでわたしは、「でもね、ほんとうの自分なんて見つけちゃったら大変だよ。新興宗教の教祖にでもなるしかないよ」と答えます。
わたしたち大人は、ふだんからいろいろな役割を演じています。父親という役割、夫という役割、会社での役職、マンションの管理組合やPTAの役員、いろいろな社会的な役割を演じながら、人生の時間をかろうじて、少しずつ前に進めていっている。自分のなかで、その役割同士の調和を取りながら、一つの人格を形成している。
こういった概念を、演劇の世界では「ペルソナ」と言います。ペルソナには、仮面という意味と、パーソンの語源になった人格という意味の両方が兼ね備えられています。仮面の総体が人格なんですね。わたしたちは、社会的な関係のなかで、さまざまな役割を演じながら、一つの人格を形成している。
そんなことは、大人は充分わかっているはずなのに、子どもたちには、家でも学校でも「ほんとうの自分を見つけなさい」「ほんとうの自分の意見を言いなさい」と強要している。
ほんとうの自分の意見なんてあり得ない。わたしたちは、相手に合わせて、さまざまに意見やその言い方を変えていくし、それは決してまちがったことではない。」(183-184頁)

この「人格」観は、アメリカの哲学者J.H.ミードが90年ほど前に述べたのとまったく同じ見解だ。逆に言えば、この発言は、1920年代のアメリカと高度経済成長以後の日本が似たような社会状況にあるという示唆をも与えてくれるわけだ。そういう意味で興味深い発言ではあるのだ。
「ほんものの自分=近代的自我」を探すアイデンティティ・ゲームの行き着く先に幸せが待っているかどうか、極めて不透明であることについては、私も同じ意見ではある。

が、以下の言葉は、私自身を省みるものとして、自分事としてしっかり味わわなければならない。

平田「ほんとにだめなのが、中高年の男性たちです。これがいちばん対話下手。(中略)自分の経験や知識をひけらかすためだけの発言をする。それはもう、つまみ出そうかと思うくらい。」(67頁)

いやあ、心当たりがありまくるなあ。すみませんね>各位。

北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』日経ビジネス人文庫、2013年<2008年