「人格」タグアーカイブ

【要約と感想】デカルト『方法序説』

【要約】学校で学ぶことはデタラメで何の意味もないことを悟り、自分自身の内部と世界そのものだけに真実を求めて旅に出ました。そしたら旅先でもみんな言っていることがそれぞれ違うので、人が言っていることは何も信じてはいけないことを確信しました。
 これまでに教師からデタラメを教え続けられたことが分かった以上、曖昧でいい加減な知識は全部捨て去り、焦らず時間をかけて、確実な思考を進めるための原理を考えた結果、4つの規則に落ち着きました。
(1)疑う余地のない明晰で判明な真実以外は判断の材料としない。
(2)解決すべき問題はできるだけ細かい部分に分割する。
(3)もっとも単純で認識しやすいものから階段を上るようにして順番に理解し、最終的に複雑なものの認識に至る。
(4)あらゆる要素を完全に枚挙して見落としがなかったと確信する。
 この思考法を数学で試すとたちまち難問を解きまくることができるようになり、これでいけるという自信を持ったので、最も重要な哲学で同じことができるかチャレンジしてみることにしましたが、焦らず時間をかけて丁寧に考えようと思ったので、決定的な答えを見出す前に暫定的な行動方針を立てました。
(1)わたしの国の法律と慣習、そして最も良識ある穏健な人の意見に従う。
(2)一度決断を下したら、多少怪しくても首尾一貫してそれに従う。
(3)他人を変えようと無駄なことはせず、自分を変える。
 この方針でしばらく大丈夫そうだったので、予定通り少しでも疑わしいものはどんどん捨て去りました。しかしあらゆるものを疑い続けるうちに、考えている自分自身の存在だけは疑えないことは、何があっても揺るぎない確実な真理であることを見つけました。「われ惟う故にわれ在り」こそ探し求めていた哲学の第一原理ということでファイナルアンサーです。そうなるとたちまち(2)仮に身体(物体)がなくても考えるわたし(精神)は存在する。(3)わたしたちが明晰かつ判明に捉えることはすべて真実である。(4)完全な神が存在する。(5)われわれの理性には何かしら真理の基礎がある、という真理が演繹されます。
 この原則に立って考え始めると、これまで哲学上の難問と思われてきたことにも簡単に答えを出すことができます。たとえば地球を含むこの世界全体の成り立ちやあらゆる現象、さらに人間の体の仕組みは、古代哲学やスコラ学が駆使する概念なんかなくても、すべてメカニカルに説明し尽くせます。ただし人間の魂は物質ではないので、別に考えなければいけません。
 ここまでの考えを論文にまとめて出版する準備を進めていましたが、宗教裁判でガリレオが有罪になったのを見て、やめました。しかしやはり自分が到達した真実へ至る方法は人々を幸福に導くものです。なぜなら自然の原理を解明し、それを応用することで、われわれは自然の主人となり所有者となることができるからです。わたしが到達した地点はごくごく初歩的なところにすぎませんが、この方法を貫徹すれば、人間はますます発展していきます。今後の探究では実験が重要になります。序説はこれで終わりますので、次の章から具体的な成果をご覧ください。(翻訳はここでおしまい)

【感想】まあ私が改めて評価するまでもないことだが、新しい時代の幕開けを告げる画期的な論考だ。いよいよ近代に突入した。
 まず重要な事実は、中世的スコラ学を徹底的に排除しているのに加えて、ルネサンス的人文主義も完全に排除している点である。デカルト的近代は人文主義(ヒューマニズム)の伝統から完全に切り離されている。ルネサンス的人文主義の研究者たちはもちろん人文主義こそが近代の幕開けだと主張するわけだが、虚心坦懐に本書を読めば、そんなことはない。むしろ人文主義は近代化を妨げるような世迷言に過ぎない。古代哲学など、現実を理解するのに何の役にも立たない。デカルトに直接連なるのは、コペルニクス、ブルーノ、ベーコン、ガリレオなど、自然科学の発展に果敢に尽くした人々だ。
 とはいえ判断が難しいのは、デカルトの自己主張にも関わらず、既存の権威を相対化するという批判的な姿勢や態度を育む上で人文主義が何の貢献もしていないと即断するわけにはいかない、というところだ。15世紀後半から17世紀前半に至る100年強の時間の中で、人文主義の活動(そして宗教改革)によって少しずつ既存の権威が失われていく。この既存の権威への批判と相対化という地ならしがなければ、デカルトの画期的な論考も芽生えることがなかったかもしれない。というか、たぶんそうだろう。となると、人文主義とデカルトの間に直接的な繋がりがなくとも、時代背景や土台づくりという点で人文主義の意義を認めることはできる。
 また、実は「我惟う故に我在り」というアイデアそのものが既にアウグスティヌス『神の国』に見られるという事実には配慮しておいて損はしないだろう。デカルト自身がアウグスティヌスに言及することはもちろんないのだが、あれほどデカルトがバカにしているイエズス会の学校でアウグスティヌスについて聞いていないなんてことがあるわけないので、意識的にパクったか無意識的に参照したかはともかく、アイデアそのものがデカルトの完全オリジナルでないことは間違いないと思う。もちろんそれを第一哲学の原理に据えたのはデカルトの創見だが、学校で学んだことをそんなにコケにすることもないということでもある。
 そんなわけで、ルネサンスや人文主義の歴史的意義については、デカルトの方針に従って、少ない情報のみで即断することなく、時間をかけて丁寧に見ていかなければならない。

 次に個人的な関心から問題になるのは、「かけがえのない人格」という近代的自我の観念形成に対してデカルトがどれほどの貢献をしているか、というところだ。
 まず「我惟う故に我在り」という例のテーゼそのものが「かけがえのない我」という観念を浮上させるのは間違いない。しかも哲学の第一原理ということで、荘子など中国哲学的な独我論とも異なり、あるいは仏教で乗り越える対象となる「欲望の主体としての我」とも異なり、間主観的な議論に発展させることが可能な、つまり民主主義の土台となる健全な個人主義の原理として意味を持つ。デカルトそのものには「かけがえのない人格」という表現を明確に見ることはできないが、ここに個人主義の哲学的土台を見ることは許されるだろう。
 そして本書を通読して改めて思ったのは、デカルトは自身の主張を論理形式のみにおいて成立させようとしているのではなく、自分の独自な生育史を踏まえて説得力を持たせようとしている、ということだ。本書の書き方そのものが「過剰な自分語り」になっていて、たとえば扱っている内容や主張がまったく違うように見えるモンテーニュ『エセー』における「私」と立ち位置が実はよく似ている。こういう「自分語り」は古くはペトラルカやダンテあたりの詩的表現には見られるが、哲学の領域において、プラトンのような対話形式でもなく、アリストテレスのような客観的論文調でもなく、過剰に自分語りをしながら表現してみせたのは実はけっこうすごいことではないか。そもそもデカルトは真理の「伝え方」にそうとう意図的で、客観的な真理として他人に押し付けようとはしておらず、あくまでも「自分自身がたどりついた確信」について述べるという表現形式を徹底している。つまり、自分がたどりついた真理を自分自身の表現形式に忠実に適用している。デカルトが画期的なのは、内容だけでなく表現形式と伝達手法においても「我惟う」を貫いたところだ。ここに近代的自我(かけがえのない人格)の始まりを見たくなるわけだ。

 ちなみに評判が悪い「神の存在証明」は、確かに無理筋だ。「完全性」という中世スコラ的概念を持ち込んだ瞬間に話がおかしくなった。逆に、いかに「完全性」という概念が中世を支配していたかを照射する表現としては注目できる。そして、実はここにこそ「人格の完成」という概念の根っこがあるのかもしれないので、侮れない。ちなみに「神」を必要としない「我惟う」哲学第一原理の確立は、フッサールを待つことになる。

【個人的な研究のための備忘録】
 スコラ学や人文主義に対する批判については直接的な表現を確認できる。

「わたしは子供のころから文字による学問(人文学)で養われてきた。そして、それによって人生に有益なすべてのことについて明晰で確実な知識を獲得できると説き聞かされてきたので、これを習得すべくこのうえない強い願望をもっていた。けれども、それを終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全課程を終えるや、わたしはまったく意見を変えてしまった。」11頁
「わたしは雄弁術をたいへん尊重していたし、詩を愛好していた。しかしどちらも、勉学の成果であるより天賦の才だと思っていた。」14頁
「以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。」17頁
「われわれが人生にきわめて有用な知識に到達することが可能であり、学校で教えているあの思弁哲学の代わりに、実践的な哲学を見いだすことができ、この実践的な哲学によって、火、水、空気、星、天空その他われわれをとりまくすべての物体の力や作用を、職人のさまざまな技能を知るようにはっきりと知って、同じようにしてそれらの物体をそれぞれの適切な用途にもちいることができ、こうしてわれわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。」82頁
「これまでの医学で知られているすべてのことは、今後に知るべく残されているものに比べたら、ほとんど無に等しい」83頁
「しかも実験については、知識が進めば進むほど、それが必要になることをわたしは認めていた。」86頁

 あとはスコラ学や人文主義を批判する文脈で「自然の主人にして所有者たらしめる」という近代の人間中心主義が露骨に表明されていることについては、やはり見逃すわけにはいかない。

「われわれはみな、大人になる前は子供だったのであり、いろいろな欲求や教師たちに長いこと引き回されねばならなかった。しかしそれらの欲求や教師は、しばしば互いに矛盾し、またどちらもおそらく、つねに最善のことを教えてくれたのではない。」22頁

 大人と子どもの比較が表現されていたのでサンプリングしておきたい。またここでさりげなく「教師」に対する批判が見られることも確認しておく(ただしヴィーヴェス等に見られるような倫理的人格に対する批判ではないのだろう)。

「しかし、だからといってわたしは、疑うためにだけ疑い、つねに非決定でいようとする懐疑論者たちを真似たわけではない。」41頁

 モンテーニュと比較されることに対する牽制だと理解していい表現か。ともかく16世紀前半の段階で一般的に「懐疑論」について理解されていただろうことは確認しておく。
 確認しておけば、デカルトは「方法的」に懐疑しているだけで、結論として懐疑を容認しているわけではない。デカルトの「我惟う」は独我論に陥らず、間主観的な議論が成立する土台となる健全な個人主義に結びつく。そういう意味で、フッサール現象学が方法論としてエポケー(判断停止)するのは、確かにまったくデカルト的である。

「続いてわたしは、わたしが疑っていること、したがってわたしの存在はまったく完全ではないこと――疑うよりも認識することのほうが、完全性が大であるとわたしは明晰に見ていたから――に反省を加え、自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。(中略)完全性の高いものが、完全性の低いものからの帰結でありそれに依存するというのは、無から何かが生じるというのに劣らず矛盾しているからだ。そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている。つまり一言でいえば神である本性だ。」48-49頁

 デカルト自身が「スコラ学」から言葉を借りてきていると正直に表明している通り、この神の存在証明に近代的な表現は見当たらない。荒唐無稽だ。
 ただし、「完全性」という概念がヨーロッパ思想史で極めて重要な役割を果たしてきたことだけは明瞭に理解できる。そして近代の「人格の完成」という概念は、私の感想では、おそらくこの「完全性」の概念を背景として成立している。デカルトのこの荒唐無稽でデタラメな神の存在証明には、しかし繰り返し立ち戻ることになるだろう。

デカルト/谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫、1997年

【要約と感想】アルベルト・レーブレ『教育学の歴史』

【要約】ドイツの教員養成課程で教育史の基礎知識を身につけるための教科書です。単に人名を並べて個々の思想を解説するのではなく、背景にある精神文化生活についての深い洞察を土台として、一貫した観点から教育思想の展開を叙述します。
 古代ギリシア・ローマから始まり、中世とルネサンス・宗教改革を経て、バロックと啓蒙思想あたりまでは西ヨーロッパ全体の教育思想の展開を見ていきます。一転して18世紀古典主義・理想主義から産業化を経て20世紀に至るところでは、ドイツ語圏の教育思想に記述の焦点が当たり、イギリスやフランスはほとんど参照しません。

【感想】やはり定期的に教科書的な通史のようなものは読んでおいた方がいい。モノグラフは確かに個々の観念の解像度を格段に上げてくれるが、個人的な興味関心の全体像を俯瞰しながら個々の観念の位置を調節するためには解像度が低くとも教科書的な通史が大きな役割を果たす。
 もちろん個別的な思想に関してもとても勉強になった。特に汎愛派がコテンパンに批判されているところは「へぇ~」連発だった。さすがドイツ人がドイツ人向けに書いている教科書だけあって、日本人が記述する西洋教育史ではここまでこき下ろすことは難しそうだ。

【個人的な研究のための備忘録】古代の個性と人格
 個人的にとてもありがたかったのは、著者が「個人性と普遍性」について満遍なく配慮して記述を進めてくれた点だ。というか、本書が書かれた時期にはまさにそれこそが教育学(および人文科学全体)が解明すべき論点として共通の理解となっていたはずだ。しかし現在では多様化した論点が多方面に拡散して、もはや「個人性と普遍性」という観点から問題が立てられることがない。まあ、私が古い論点にこだわって研究をしているということなのだが、しかしこれが本質を捉えていると信じて研鑽を続けるしかない。というわけで、「個性」という概念に注目してサンプリングをしていく。

「アテネにおいては紀元前約400年頃にはじめて、高等教育理念が既存の義務教育では満足がいかないほどに発展し、その後特に紀元前四世紀に入って二方向に分かれて展開していく。すなわち、一方は(ソフィスト達の)実際生活上で用いる修辞学(詭弁術)の方向であり、他方は(ソクラテスープラトンーアリストテレスの所謂アカデメイア学派の)哲学的、学問的方向である。」32-33頁
「この合理主義者たちは自らを、それらを教える義務を果たす者とはみなしていなかった。彼らは七科(三形式科目:文法、弁論術、修辞学と四内容科目:算術、幾何学、天文学、音楽)を教えたが、これらの諸科目は西洋の近世にまで及んで一般高等教育の骨格となり、初等教育と職業教育の中間に位置して、普通高等学校の特別な基本教科目となった。」35頁

 まずソフィストを起源とする修辞学の伝統が近世にまで及ぶ射程を持つことが、しっかり教科書的な記述になっていることを確認しておきたい。「人間の尊厳」という観念の考古学を深めようという場合、古代の修辞学や雄弁術は常に参照の対象となる。

「しかし、その際に十分注意すべき点は、ここで言うところの「人間的なもの」とは未だ今日言うところの個性の意味ではなく、「型」[ここに原文傍点]としての、換言すると、国家共同体の構成員、都市国家の市民を意味しているという点である。/特に古代ギリシア初期において、個人はまだ共同体の生活秩序に強固に組み込まれていた。」22頁
「ソクラテスはこの道徳的・自主的人格を全ての共同生活の核心と見なして、人間が第一義的には国家市民ではなくて、人間である、ということを強調した。」39頁
プラトン「このようにして、彼の国家は成文化された法律によるのではなく、修練に基づいた教育を根拠にした理想国家を意味している。しかもその教育のうちでも哲学こそが最高の教育力であり、プラトンにとって哲学研究とは、いわば仮象を超克して万物の原像を観照するための極めて人間的な努力に他ならない。」43頁
アリストテレス「そして人間にとって自己自身に関する継続的な仕事、すなわち人格形成[原文傍点]が彼にとってもまた重要な課題であったことは言うまでもない。」46頁
「そもそも国家の存在意義は、万人が個性の伸長や完成を目指すと共に狭義の道徳的共同生活の実現を可能にすることにある。このような観点からすると、個性の完成と家庭生活は国家にとっての必要不可欠な基礎となる。」47頁
「後期ギリシア文化期の特徴は、ソクラテス、プラトンに端を発し、アリストテレスにおいてさらに顕著となった超国家的、普遍的人間の出現にあった。今や誰もが自覚的な「世界市民」であり、もはや単に一ポリスの市民ではない。この時期には文明と都市文化が見事に開花し、人類の概念や独自な個性の分野が自然発生的集団(家族、種族、民族)以上に高く評価されるようになった。」50頁
「しかし、同時に集団作業や世界市民的考え方と共に個性的、人格的なものに対する特別な関心、すなわち、顕著な個人主義もまた成長してきた。」51頁

 「個性」という言葉が連発されて、とても気になる。というのは、プラトンやアリストテレス自身は「個性」という概念をストレートには表現していないように思うからだ(だから著者の過剰な投影の疑いもある)。たとえばプラトンが探究する「善のイデア」の前では人間個人の差異そのものが最初から問題にならない。そもそもイデアとは個物の差異性を捨象する普遍性そのものだ。また一方プラトンとは逆に個物の唯一性に着目したアリストテレスも、エネルゲイアとかエンテレケイアとかエイドスなどという考え方に見られる通り、普遍性を看過しているわけではない。アリストテレスの詩論や雄弁論(同じものはテオプラストスの性格論に見られる)に確認できる個々人の差異的な性格描写についても、それぞれの個人の「かけがえなさ」にはまったく配慮しておらず、一般的な性格描写として理解できるものだ。そういう観点から、本書が古代ギリシア思想を評して「人格形成」とか「個性の完成」と呼ぶものがいったい何なのかは、鵜吞みにしないで突き放して考えておく必要がある。

キケロ「そのような両者の統一的総合形態の内に彼が追求したものは最高の人間性であった。その意味でキケロこそが、その後2000年に亘って重要な教育理想として尊重された人文主義的な教育理念を最初に明確に理解し根拠づけた人物と言える。(中略)キケロの求めた理想は全人(ganz Mensch)教育に他ならず、彼にとって全人とは真の政治的・国家的思考に養われ、包括的な専門的知識に精通して、内的文化や哲学的教養も豊かでなければならなかった。」60頁

 確かにキケロの後の世への影響は絶大だ。特にルネサンス期の「人間の尊厳」にダイレクトに結びつく雄弁術の伝統を考える上で無視するわけにいかない。しかしおそらく忘れてはならないのは、ポジとしてのカエサルに対してネガとしてキケロがいる、という全体理解だろう。キケロだけ取り出して云々し始めると、おそらく何か大事なものを取りこぼすことになるような気がするのだ。ともかく、キケロについてはアウグスティヌスからルネサンス期に至る評価を念頭に入れて位置付けていくしかないわけだが、「個性」という概念が明確になったと見なすこともできない。キケロに個性概念を見出すのは後知恵による過剰な投影ということになるだろうし、それでも一方で重層的な個性概念の基底的な層の一つであることも確かなのだろう。端的な評価が難しい。

【個人的な研究のための備忘録】中世の有機体とルネサンスおよび宗教改革の個性
 本書の中世理解は、完全にゲルマン民族中心主義的である。その偏りはベルギーの歴史家ピレンヌによって完膚なきまでに批判されており、それを著者も多少は気にしているのか、少々奥歯にものが挟まったような表現も見当たる。とはいえ中世理解は本書において致命的な論点ではなく、もちろん主たる問題はルネサンスと宗教改革の評価と位置づけにある。本書は、中世の有機体的世界観の下では「個性」という考え方がまったく見られなかったが、ルネサンスと宗教改革によって浮上したと明確に評価している。教科書的にはそれで問題ない。

「それと同時に中世というこの時期――この時期の個々の変化や特徴も決して無視されてならないことは言うまでもないが――を支配する統一体も形成されて行く。すでにこの中世期にロマン主義が早くも大規模な「有機体」について言及しているが、事実あらゆる領域で大規模な統一的生活秩序が明らかになってくる。すべての現象が巨大な全体的統一体に組み込まれてくる。」73頁
「またそのような力は人間を決して画一化することはないが、しかしまた個々人の個性を主張することもない。換言すると、そのような統制的に働く力は決して個性的なものではなく定型なのである。個性的なものはこの中世的生活形態においてはまだ言わば自己覚醒までに至っていないそれは後のルネサンスに入って初めて生じてくるのである。」74頁
「もちろん、学問の独立の意義は、人間が自己と世界に対して獲得する新しい位置を認識するときに初めてより深い意味で理解される。すなわち、今や単に理性の自律のみならず、個人の自我の自律を求める努力が目覚めてくる。中世期の強力な[宗教的]絆からの解放を求めた人間は、今や最も深い意味で自己への回帰を願望し、全く新しい方法で自己自身と世界を見出した。彼は自己をまさしく自我として、個性として発見し、今や初めて世界をも真に認識するようになる。」94頁
「しかし、既にこの個性の視点は中世期に際立って存在していたことも明らかなことである。主として規格品の作成の場合ではあったが、それでも独自の作品が誕生し、けっして個性的特徴を欠いていなかった。だが今や人間は個性ある存在の新しい立場を獲得した。個性的であることとは、もはや単なる客観的事実ではなく、喜びに満ち溢れた内的体験であり本来の生活理想である。中世期には個人は服装、生活態度、生活様式、心術などにおいて、自己の所属する集団と違ったり目立ったりすることを躊躇し、自らの社会階層に強固に組み込まれていたが、ルネサンス期に入ると、人間はまさしく個性としての承認と名誉を求めた。」94-95頁
「宗教改革は既に概略したように生活全体の大規模な変化との密接な関連性において考察しなければならないことが判明する。事実、今や宗教改革を通して宗教の領域に生じた個性のより深い自主独立への自覚はさらに一般的傾向となり、伝統の呪縛や中世の強固な秩序からの解放に向けての奮闘努力が出現してきた。」107頁

 本書は「個性」の目覚めに関して、なんとなくルネサンスよりも宗教改革の方を高く評価しているわけだが、それはドイツ人の偏った見方だと考えていいところかどうか。あるいはルネサンスは焦点がぼやけているが、宗教改革は論点が明確になっているということだろうか。

【個人的な研究のための備忘録】バロック・啓蒙期の普遍性志向
 そして17世紀に入ると、個性的なものに対して普遍的なものの見方が優勢になったという記述が見える。もちろん教科書的にはそうなるだろう。

「今や自律的思考や探求の原理が活発に活動し始める。この原理は既にルネサンス期に根づいていたが、具体的、個人的なものへの関心が強烈であったために妨害されていた。十五、十六世紀には思考は伝統の外的権威から解放されていたが、十七世紀になって初めて世界の普遍的法則性が本質的なものとして把握された。教会や国家の領域においてまた今や学問の領域においても、個性的なものは後退し、普遍的なものが前面に現れてきた。」144頁
啓蒙期「もちろん、この時期を(ヨエルに従えば)「個人的」と呼ぶことはできない。なぜなら合理主義とは個々人における一回性や演繹不可能性に注目するのではなく、万人に共通する法則性に注目するものだからである。合理主義とはまさしく個人を「個体」として評価するが、「個人格」としては評価しない。しかし、合理主義の関心はもっぱら人間にあり、しかも種としての人間個々人のあるべき典型に向けられており、そうして合理主義はまさしく合理的手法で自らの自律性の根拠づけを試み、理性の名において人間に自由と尊厳を約束する。」181-182頁

 ただし問題になるのは、デカルト、スピノザ、ホッブズ、ライプニッツを本当に「個性より普遍」を志向した思想家と理解していいのか、というところだ。確かに科学的な考え方(特に空間の無機質的同質性)を踏まえると、普遍的なものの見方が優勢に見える。しかし例えばデカルトの「我思うゆえに我在り」という著しく個人的な主観から始まる哲学は、もちろん最後には人間理性の平等性に行きついて個人性というよりは普遍性を土台とする考え方に落ち着くのだが、丁寧に見ていくと単純な普遍主義と見なすことには躊躇したくなる。ここには後の「個性」概念に繋がるような何かしらの種が撒かれていないか。丁寧に考えていきたいところではある。
 そしてこの時代は、ドイツ人といえどもロックとルソーを無視して議論を進めるわけにはいかない。

ジョン・ロック「そして子どもにとって生き生きしていることと同様に、個性的であることもまた高く価値づけられる。(中略)この個性教育論が取り上げられたのは、ロックが家庭教師による教育を好んだためでもある。」196-197頁
ルソー「「自然教育」は、また教育目標に関して、なによりもまず普遍的な人間性を優先してあらゆる特殊な観点、すなわちすべての政治、社会、職業などの上位に根本的に位置づけられている。この普遍的な人間性に対する視野のために特殊的な観点を排除したことはルソーの革命的な業績であり、この業績こそが啓蒙主義を超克し、啓蒙主義の実用的、市民的有用性を目指す考えを遥かに乗り越えていることの証に他ならない。そしてこの普遍的人間教育の思想はその後、ゲーテの時代になって初めて完全な成果を見ることになる。」210頁

 本書では、ルソーはロマン主義の先輩のような位置づけを与えられている。まあ、教科書的にはそれでまったく問題ないだろう。ただ、ルソーには汲めども尽きぬ紛れが多すぎて、丁寧に考え始めると手に負えなくなってくる。

【個人的な研究のための備忘録】古典主義・理想主義の個性
 そして18世紀に入ると、本書は怒涛のドイツ人思想家ラッシュになる。もはやイギリス人やフランス人思想家には目もくれない。そして実際、確かにこの時代のドイツ人教育学者が果たした役割は極めて大きい。そして本書がドイツ人によって書かれたこともあるのだろうか、ここからの記述は私の知らないことが多く(いや単に私の勉強不足のせいか)、とても勉強になった。
 まず「疾風怒濤」については、もちろん日本人による西洋教育史概説でも無視されるわけではないが、本書の記述はやたらと躍動していた印象だ。ここで「個性」という言葉が連発される。

「この若者たちが埋もれていた非合理性を発見することによって、彼らはまたルネサンスが既に持っていた個性への眼差しを再び獲得した。(中略)――啓蒙主義からは本気にされなかった――民衆詩、民衆歌、神話、童話は、今や自然のままの真の芸術として見いだされ、民族の個性を特徴づける表現として称賛された。というのも「個性」は単に個人の個性であるだけでなく、また集団の個性としても評価されるからである。」239-240頁
「したがって今や真実な人間性の要請として浮かび上がってきたことは、他方ではけっして思考する理性や抽象的な道徳律だけを認めるのではなく、その自分の存在全体を尊重することであった。これによって啓蒙主義が布告された人間の尊厳と個性の自律という理念は進化するのである。」240頁
「同様にこの古典主義の時期は自由と法則の総合、すなわち人間の個性的なものと超個性的なものとの総合を目指している。(中略)その際『理念』は歴史的特殊を超えた理性的普遍性としてではなく、特殊なものにおける普遍性として理解されている。」243-244頁
「この運動は、文学や哲学にとってと同様にまた教育思想にとっても大きな意味を持っていた。すでにあげた一般的特徴からも認識できるのは、人格教育こそがこの運動な主要関心事の一つであったということである。この運動がその有機的世界像から本来の意味で初めて「形成」(Bildung)の概念を想像しドイツ語で普及させた。」247頁

 注目したいのは、ここからいきなり「民族の個性」についての記述が登場するところだ。実際、フランス革命以降にドイツ・ナショナリズムが激しく燃え上がることは世界史の一般常識ではあるが、この点が「個性」や「人格」概念の展開を考える上でも極めて重要だという印象を改めて深めた。「人間の個性」という概念の浮上は、おそらく「民族の個性」という概念の浮上と並行している。あるいは「国家主権」という概念の浮上と「人格」という概念の浮上も。疾風怒濤の探究を進めなければと思った次第。

「ジャン・パウルはヘルダー以上に教育目標の個性化をおこなった。彼の確信していたところによると、各人は誕生から定められた個性的理想像を持っており、教育はこの「価値ある人間」を自由にすること以外に何らの関係も有しない。」262頁
「ジャン・パウルの教育理論を特徴づけていた個性の原理は、ヴィルヘルム・フンボルトでは、なお一層際立たせられる。」263頁

 不勉強にも名前しか知らない教育学者だが、ここまで評価されていたら読むしかない。

「すでに『独語録』では、シュライエルマッハーはまさしく教育(Bildung)の問題を、特に自己教育の問題を追及している。その際、特に強調しているのは、個性を目指した人間教育であり、「誰もが独自の方法で人間であることを表現すべきである」としていることである。」285頁
「教育の全体目標は次のような両極的対極の中で把握される。教育は一面において人間を純粋に個人的生活圏内から導き出して、客観的全体性に能力を与えることができるように教え導くべきである。シュライエルマッハーが極端に言っているように、すなわち人間を学問、国家、教会、共同体に「引き渡す」べきである。他方、教育は人間を未発達で何物にも染まらない個人から彼本来の個性的人格をつくり出し、すなわち個性を形成すべきである。この二つの課題は種々の矛盾を孕みながらも、すべて対立しているにもかかわらず、二つの異なる大きな教育的課題の二面にすぢないのであり、それらはじょじょにさらに次第に遠ざかるに過ぎない。両者とも他方を抑圧してはならず、もしそうすれば、自ら被害を受けることになるであろう。なぜならはっきりした個性だけが完全な意味で生活全体に奉仕することができるからである。」290-291頁

 シュライエルマッハーは明治期日本教育界でも頻繁に言及される学者だ。日本の教育学への影響を考える上でもしっかりやっておかなければという認識を新たにした。勉強すればするほど勉強すべきことが増えていく。

アルベルト・レーブレ、広岡義之・津田徹訳『教育学の歴史』青土社、2015年

【要約と感想】吉田量彦『スピノザ―人間の自由の哲学』

【要約】17世紀オランダの哲学者スピノザの生涯を辿り、著書の要点を解説し、スピノザ研究史についても概略します。
 宗教的不寛容によって自由が失われつつあった時代に、実際にスピノザは自由を奪われましたが、しかし徹底的に自由の意義と可能性を考え抜きました。国家論的な観点からは、寛容性を失った国が必然的に滅び、自由を尊重する国が栄えることを唱えました。その自由とは単に考える自由だけでなく、それを表現し行動する自由でなければなりません。いっぽう倫理的な観点からは、いったん人間の自由など原理的にあり得ないかのような決定論を展開しながら、しかし最終的には現実の人間の在り様を考え抜くことによって「理性」の役割を解き明かし、人間にとっての自由の意味を根拠づけました。人間は目の前の出来事に必ず感情を揺さぶられてしまう受動的な存在ですが、しかし理性と直観を働かせて世界がまさにそうあるべき必然的な姿とその原因を判明に理解することにより、能動的に感情を馴致することができます。
 スピノザの思想は、しばらく宗教的不寛容や哲学的無理解のために不遇な扱いを受けていましたが、「自由」について根源的に考えようとするとき、必ず甦るのです。

【感想】やたらと読みやすく、初学者にも絶賛お勧めだ。平易な語り口で分かりやすいだけでなく、ところどころの悪ふざけがアクセントになっていて飽きが来ない。どうやら学術論文でも「悪ふざけ」していると叱られているとのことで、親近感が湧く。それに加えて語り口だけでなく構成も考え抜かれている印象だ。また主人公スピノザだけでなく、脇役たちの描写にも無駄がない。というか、脇役たちの描写によって時代背景が浮き彫りになり、スピノザ哲学が持つ意味がより鮮明となる。

 本書ではドイツ観念論の論者たちがスピノザ哲学の一部(エチカ第一部)にしか注目せず、政治社会的な議論については完全に無視していたとのことだが、個人的な印象では30年前の学部生の時に読んだ哲学史の概説書にもその傾向が根強かったように思う。単に私の読解力不足だった可能性もなくはないだろうが、実際にスピノザの本(翻訳だが)を読むまでは、スピノザといえば「一つの実体に二つの属性」と「汎神論」というくらいの教科書的理解から「デカルトの下位互換」程度に思い込んでおり、特にいま改めて読む必要なんてあるのかな、という印象だった。が、実際にいくつかの翻訳書に目を通してみると、これが意外にサクサク読めておもしろい。ひょっとしたら翻訳が良かったのかもしれないが、やはり内容そのものがおもしろくないと刺さらないはずで、俄然個人的なスピノザ熱が高まり、改めて基礎から勉強してみようとなった次第。本書を読んで、自分なりにスピノザ哲学の意義が明確になった気がするのだった。特に個人的な興味関心から言えば、ホッブズ社会契約論との相違に関する理解がものすごく深まって、とてもありがたい。

【個人的な研究のための備忘録】近代的自我
 個人的な研究テーマとして「人格」とか「近代的自我」というようなものの立ち上がりの瞬間を見極めようとしており、数年前から改めて西洋古代のテキストから読み始め、ようやく中世を抜けて17世紀に差し掛かりつつあるわけだが。やはり古代はともかく中世には「人格」とか「自我」というものの芽生えを感じさせる表現に出会うことはない。トマス・アクィナスやダンテやペトラルカはいい感じではあるものの、決定打にはならない。そして問題は、いわゆるイタリアルネサンスにも決定打が見当たらないところだ。確かにフィチーノやピコやビーヴェスやヴァッラはいい感じだが、決定打ではない。エラスムスやトマス・モアもまだまだだ。16世紀後半モンテーニュはそうとういい感じだが、明確な表現にまで成熟しているわけではない。そろそろ、近代的な「人格」や「自我」の概念に対してルネサンス人文主義は大した影響力を持っていなかったと結論してもいいような気がしている。そして、だとしたら、ポイントになるのはデカルト、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツということになるのだ。
 そういう関心からすると、本書の以下の記述は見逃せない。

「わたしがそれに固執しようとするのは、むしろ現に存在している一人の人間としてのわたし、つまり今ここにこうして生きているわたしが、そうあることを望んでいるようなあり方です。そのあり方はわたしに固有のものであり、同じ一人の人間ではあっても、他のだれかがそう望んでいるあり方とは(もちろん共通点も少なくないでしょうが)どこかが必ず違っています。そういう、それぞれの具体的な人間がそれぞれ具体的に望んでいるあり方に固執しようとする営みこそ、人間のコナートゥスの本質だとスピノザは言いたいのでしょう。したがってそれは、形式面からみればあらゆる人に共通する営みではありますが、内容面から見れば決して同じではなく、あくまで個々の人がそれぞれ現にそうありたがっているあり方に固執しようとする営みであり、その意味では「そのものの現に働いている本質」とでも表現するしかない営みなのです。」294頁
「このように、「自らの存在に固執しようとする」人間の力=コナートゥスは、最初から具体的に内実の決まったものではなく、むしろ一人一人の人間がそれぞれの人生を送る中で「これが自分の存在だ」と考えたことに、つまりひとそれぞれの自己理解に大きく左右されます。人間はどうあがいても結局は自分がそう考えるように生きようとするし、それ以外の生き方をめざすことが精神の構造上不可能になっている生き物なのです。」295頁

 ここで決定的に重要なのは、294頁の「形式面からみればあらゆる人に共通する営みではありますが、内容面から見れば決して同じではなく」という表現だ。この「形式的な共通性」と「内容的な独自性」こそが近代的な「人格」を理解するうえで決定的に重要なポイントであり、古代・中世にはそのどちらか片方を洗練させた表現には出会えても、この両方を満足させる表現には出くわさない(たとえばイタリアルネサンスの「人間の尊厳」という概念は前者にしか響かないし、いっぽうモンテーニュは後者にしか響かない)。さらに295頁の「それぞれの自己理解」という表現にみられるように、再帰的な自己理解まで至れば完璧だ。いよいよ17世紀スピノザで出てきた、というところだが、本書の表現はあくまでもスピノザ本人ではなく研究者による解釈なので、しっかりオリジナルな表現で確認しなければならない。ともかく、個人的には盛り上がってまいりました、というところだ。

【個人的な研究のための備忘録】属性
 スピノザ哲学を把握するうえで「属性」という概念の正確な理解は欠かせないわけで、もちろん本書でも「属性」概念について解説が施されるが、そこで眼鏡が登場したとあっては見逃すわけにいかない。

「一般的には、何かに本質的に属する性質、それがその何かに属していないとその何かをその何かと同定できなくなってしまうような性質、それが属性です。あえて変な例で説明しますが、きわめて個性的な、そこを捨象したらその人らしさが根こそぎ消えてしまうほど特異な性的嗜好を表現するのに「〇〇属性」という言葉を使ったりしませんか。メガネをかけた異性(同性でもいいですが)にしか欲情しない人を「メガネ属性」と呼んだりする、あれです。あれはじつは、属性という概念の基本に意外と忠実な用法なのです。」262頁

 筆者は私より年齢が一つ上でほぼ同世代であり、おそらく我々は文化的な経験を共有している。「属性」という言葉でもって「特異な性的嗜好を表現」することが広がったのは、我々が学生の頃だったはずだ。ひょっとしたら二回り上の世代や、あるいは二回り下の世代には通用しない恐れがある。いま現役のオタクたちは「属性」という概念でもって諸現象を理解していない印象があるし、そもそも使い方を間違っている例(もちろん彼らにとってみれば間違いではない)を散見する。

吉田量彦『スピノザ―人間の自由の哲学』講談社現代新書、2022年

【紹介と感想】沖田行司編著『人物で見る日本の教育 第2版』

【紹介】近世から近現代まで、教育史に関わる人物の簡単なプロフィールと思想を簡潔に紹介しています。それぞれその道の専門家が書いており、簡にして要を得た内容となっています。人物とその仕事を通じて、その時代の教育の特徴や課題も分かるようになっています。

【感想】教員採用試験に出てこないような人物も扱っているけれど、教職課程の学部生レベルでも読んでおいて損はないでしょう。近現代に厚い代わりに、菅原道真や世阿弥のような古代・中世の人物を扱っていなかったり、近世でも池田光政やシーボルト、近代では高嶺秀夫や井上毅が落選していることを云々しようと思えばできるのだろうが、そういう人選に教育観が具体的に出てくるもので、本書の在り方にはナルホドの説得力を感じている。天野貞祐、林竹二あたりを語ることで埋まってくるものはけっこう大きい。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 倉橋惣三に関して言質を得た。こういう予定になかった出会いが生じるので、概説書は定期的に読んでおく必要がある。本書は倉橋が1919年から欧米留学に赴き、米国進歩派教育に学んだことに触れ、以下の文章を引用する。

「フレーベルの説は哲学的な人格本位教育であつて、従つて其の社会生活観も、個人の人格を完全なものとして、その個人が集まつて一つのよき社会を創るというのでありました。処が、現今は、非常に社会的生活を主体とする傾向になりまして、従つて教育も、個人的よりは一層社会的に考へねばならなくなつてまゐりました。……ミスヒル、及びキルバトリツク教授二人は、此の考へに基いて、社会的教育主義を幼稚園に実現さす事に力を尽したのでります。即ち、一般教育の原理なる社会生活を主体とした教育目的を幼稚園の日々の保育の実際に取り入れる事に尽力したのであります。(『幼児教育』22-10・11、1922年)

 これを踏まえて本文はこうなっている。

「アメリカにおいて倉橋が学んだもの、それは個人の人格の完成を目指す従来の「人格本位教育」から、社会的場面の学習を通じて、社会的性格や態度の形成を目指す「社会的教育主義」への大きな転換であり、それこそ複雑化し変動する社会に適応しつつ、主体的に生きるために必要な教育であるということであった。」200-201頁

 ところで私の理解では、「個人の人格の完成を目指す教育」はようやく1890年代以降に始まる。1880年代の「開発主義」は、徹底的に自然科学および能力心理学に基づく発想で組み立てられていた。だから倉橋が1922年段階で「従来の」と言っていても、それはしょせん20~30年の浅い歴史しか持たないものだ。そしていわゆる「社会的教育学」は日露戦争の後にヘルバルト主義に代わってナトルプ等の受容から勃興している(アメリカではなく)はずで、1922年段階では一周遅れだ。むしろ「個人の人格の完成を目指す教育」はグリーンを経由した新カント主義(ナトルプでない方)の受容を通じて「大正教養主義」として盛り上がっているはずで、1922年時点でことさら「人格の完成を目指す教育」を否定して「社会的教育」を称揚する姿勢には何かしらの意図を感じざるを得ないが、どんなもんか。

■沖田行司編著『人物で見る日本の教育 第2版』ミネルヴァ書房、2015年

【要約と感想】工藤勇一・植松努『社会を変える学校、学校を変える社会』

【要約】教育が変われば社会が変わります。人口増加時代の成功体験を引きずった賞味期限切れの教育(暗記中心・前例主義・集団主義・学歴主義)をおしまいにし、人口減少時代に対応した新しい形の教育(主体性・好奇心・チャレンジ精神・失敗上等・個別最適化)に取り組みましょう。

【感想】工藤先生はいつも通りの工藤節で安心するわけだが、対談相手の植松氏のキャラが立っていて、時折工藤先生を圧倒しているように見えるところがすごい。面白く読んだ。ロケットを飛ばす実践の話には、感動した。実は似たような経験は私にもあるが、こういう奇跡的な瞬間に立ち会うことができる(かもしれない)のが教育という仕事の醍醐味だ。
 個人的には、ときどき学生指導に対して自信を喪失するようなタイミングもなくはないのだが、そういうときに思い返したい本だ。もう一度子どもたちが本来的に持っている力を思い出すことができる。

【個人的な研究のための備忘録】人格の完成
 工藤先生が他の本でも主張しているところで、だから単なる思い付きなどではなく確固とした持論であるところの教育基本法一条批判をサンプリングしておく。

「教育基本法の第1条も僕から見ると問題で、教育の目標として「人格の完成を目指し」から入るのですが、そもそも、「人格の完成」って何でしょうか(中略)。しかも、「人格の完成」と条文にあるから、「人格」とは何かという解説書を作る人が出てくるんですよ。解説しないと分からないようなことを法律にするのかって話ですよね。」127-129頁

 まあ仰る通りで、教育基本法が誕生した1947年の時点ではある程度解説なしでも理解できたことのはず(とはいっても旧制高等学校の教養主義の文脈において)だが、おそらく1960年代の天野貞祐や高坂正顕など京都学派あたりの策動を最後に、もはや理解するための文脈が途絶えている。現在、主に道徳教育関連の研究者や実践者が「人格の完成」について分かったかのような解説をすることもあるが、法制当初の精神のかけらも残っていない、頓珍漢なタワゴトになってしまっている。工藤先生が時代に合わせて法律をアップデートさせるべきだと主張する気持ちも分からなくもない。

工藤勇一・植松努『社会を変える学校、学校を変える社会』時事通信社、2024年