【紹介と感想】沖田行司編著『人物で見る日本の教育 第2版』

【紹介】近世から近現代まで、教育史に関わる人物の簡単なプロフィールと思想を簡潔に紹介しています。それぞれその道の専門家が書いており、簡にして要を得た内容となっています。人物とその仕事を通じて、その時代の教育の特徴や課題も分かるようになっています。

【感想】教員採用試験に出てこないような人物も扱っているけれど、教職課程の学部生レベルでも読んでおいて損はないでしょう。近現代に厚い代わりに、菅原道真や世阿弥のような古代・中世の人物を扱っていなかったり、近世でも池田光政やシーボルト、近代では高嶺秀夫や井上毅が落選していることを云々しようと思えばできるのだろうが、そういう人選に教育観が具体的に出てくるもので、本書の在り方にはナルホドの説得力を感じている。天野貞祐、林竹二あたりを語ることで埋まってくるものはけっこう大きい。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 倉橋惣三に関して言質を得た。こういう予定になかった出会いが生じるので、概説書は定期的に読んでおく必要がある。本書は倉橋が1919年から欧米留学に赴き、米国進歩派教育に学んだことに触れ、以下の文章を引用する。

「フレーベルの説は哲学的な人格本位教育であつて、従つて其の社会生活観も、個人の人格を完全なものとして、その個人が集まつて一つのよき社会を創るというのでありました。処が、現今は、非常に社会的生活を主体とする傾向になりまして、従つて教育も、個人的よりは一層社会的に考へねばならなくなつてまゐりました。……ミスヒル、及びキルバトリツク教授二人は、此の考へに基いて、社会的教育主義を幼稚園に実現さす事に力を尽したのでります。即ち、一般教育の原理なる社会生活を主体とした教育目的を幼稚園の日々の保育の実際に取り入れる事に尽力したのであります。(『幼児教育』22-10・11、1922年)

 これを踏まえて本文はこうなっている。

「アメリカにおいて倉橋が学んだもの、それは個人の人格の完成を目指す従来の「人格本位教育」から、社会的場面の学習を通じて、社会的性格や態度の形成を目指す「社会的教育主義」への大きな転換であり、それこそ複雑化し変動する社会に適応しつつ、主体的に生きるために必要な教育であるということであった。」200-201頁

 ところで私の理解では、「個人の人格の完成を目指す教育」はようやく1890年代以降に始まる。1880年代の「開発主義」は、徹底的に自然科学および能力心理学に基づく発想で組み立てられていた。だから倉橋が1922年段階で「従来の」と言っていても、それはしょせん20~30年の浅い歴史しか持たないものだ。そしていわゆる「社会的教育学」は日露戦争の後にヘルバルト主義に代わってナトルプ等の受容から勃興している(アメリカではなく)はずで、1922年段階では一周遅れだ。むしろ「個人の人格の完成を目指す教育」はグリーンを経由した新カント主義(ナトルプでない方)の受容を通じて「大正教養主義」として盛り上がっているはずで、1922年時点でことさら「人格の完成を目指す教育」を否定して「社会的教育」を称揚する姿勢には何かしらの意図を感じざるを得ないが、どんなもんか。

■沖田行司編著『人物で見る日本の教育 第2版』ミネルヴァ書房、2015年