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【要約と感想】稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』

【要約】「神とは何か」について、人間本性に植えつけられた理性(哲学)によって探究することができるし、する価値があるし、というか人間として探究するべき最も相応しいテーマです。が、残念ながら理性で辿り着けるのは「神とは何ではないか」までで、「神とは何か」は「信仰」によってのみ光が当たるところです。そして信仰の支えによって、理性はさらに先に進むことが可能で、それこそが神学という学問の真価が発揮されるところです。人間の理性は、神が最高度に「一」であり、さらに言えばペルソナ的に「三・一」であるという神秘の骨頂に到達することができます。その土台に立つことで、初めて人間の「尊厳」というものの本質を理解することが可能になります。

【感想】率直に言えば、読んでいてイライラした。中世哲学の碩学泰斗に対して私如き教育学の末席に引っかかってるだけの者が不遜ではあるのだが、そう思ってしまったから仕方がない。まあ、もちろんそれは私の側の主観的な問題であって、この本の問題ではない。
 さて、イライラした理由は明らかで、読者の私がまったく同意しないしできるわけがないしするつもりがない命題について「同意したものと前提」して話がどんどん進んでいって、置いてけぼり感が半端ないせいだ。なんとかついていくために、同意するつもりがないし同意などできない自分をいったん脇に置いて棚に上げて、「仮に同意したとしよう」と別の人格を自分の中に作って先を読み進めるのだが、そこでもさらに同意しないしできるわけがないしするつもりがない新たな命題が登場し、そこで私の人格はさらに分裂していってしまう。そうやって数多くの自分を棚に上げて、ようやく理解することが可能になる文章が延々と続くのだから、まあ、イライラする。(繰り返すが、イライラするのは私個人の主観的な問題であって、著書の問題ではない)

 とはいえ、いったん高所から俯瞰して、現代数学の「公理系」をイメージすれば、全体像は見えやすくなるような気はする。まずいくつかの「公理」を前提する。それらの公理は証明が不可能なのだが、それが公理というものだ。そしてその公理群のみを真理と仮定して、そこから論理必然的な演繹作業を繰り返していき、どこまで現実を説明できて、どこまで結論の射程距離が伸びるか、理性を働かせる。著者の言ういわゆる「信仰」に関わる公理をいったん真理と仮定すれば、確かに実り豊かな結論を導き出すことはできる。
 できるのだが、問題は前提とした「公理」が証明不可能である、というところである。そして、私には、その公理を受け容れることは不可能である。荒唐無稽だからだ。つまり、本書で示された実り豊かな結論は、私自身にとっては何の意味も持たないのであった。
 しかしまあ、私自身にとって意味がなくとも、世界中のどこかにそれに意味を見いだしている人間がいて、そういう「公理系」の宇宙に充実して生きている人々がいるということを知っていることそれ自体は、無意味ではないかもしれない。

 で、「公理系」であるから、実は別の「公理」を導入しても、同じ結論はいくらでも導き出せたりする。同じ結論に辿り着くために、公理にキリストを置く必要は、実は、特にない。公理は置き換え可能だ。たとえば「Q」という公理を容認することで、一気に世界全体の秩序が立ちあがってくる場合だって現実にあったわけだ。悲しいことに、それが理性の権能というものだ。いちど世界が整序されてしまったら、その前提にある「公理」を取り去ることは極端に困難になる。いったん「Q」という公理を容認してしまった人々は、仮にそれに反する事実をいくら突きつけたとしても、公理そのものを反省することはない。「公理」と「事実」では、理性における機能がまるで異なっているからだ。
 であれば、かつてキリスト教の公会議で争われたことは、理性で推し量ることが可能な論理ではなく、それ自体は証明不可能な「公理」の選択だ。具体的に、いわゆる三一論は、公理系の無矛盾性を担保するためには相当アクロバティックな跳躍を余儀なくされるものの、完全性を追究するためには敢えてその立場を選択するだけの価値はある、というもののようだ。神の「完全性」を演繹することが可能な公理系の構築を目指す場合、諸公理間の矛盾には目をつぶらざるを得ない。誰にでも分かってしまう公理間の矛盾については、「信仰」という名で呼ばれる「特異点」を設定して見ないふりを決め込み、やりすごすことになる。一方、いわゆる異端とされる公理系は、公理系の無矛盾性を優先するが故に、逆に完全性を犠牲にすることを厭わない形式のようだ。しかしもちろんこの公理系から神の「完全性」の概念を導き出すことはできない。
 となると、トマス・アクィナス『神学大全』は、公理系の無矛盾性と完全性の双方を極大化する解を探究しようと試みた仕事ということで、確かに理性を最大限に活用して初めて可能となるような大変な難事業だったのだろう。が、やはりどうしても公理同士の矛盾は、残らざるを得ない。だからこそ、最終的には矛盾を押し潰す論理としての「信仰=公理系の無謬性担保」が必要となる。まあ、お互いに矛盾する公理を許容していいのなら、キリスト教に限らず、完全性を実現することはさほど難しいことではない。

  またあるいは、キリスト教神学の公理系を支える根本原理は「自己言及」と「無限」なのだろう。たとえば「この文はウソである」という命題が与えられたとき、この命題そのものの真と偽を論理的に判定することは不可能だ。それでも敢えて論理的に判定しようとすると、「無限」の遡及に陥る。いわゆる「人間本性」に由来する「神」とは、否定的な自己言及による無限の展開に由来するものなのだろう。いわゆる「否定神学」を極度にまで推し進めたキリスト教神学が、「無限」を含み込んだ公理系を発展させたのは、いわれのないことではないのだろう。こういう「自己言及」による「無限」の論理的制御という観点からは、キリスト教神学のお手並みは実に見事なように見える。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 これほど「三位一体」について真正面から説明を試みている誠実な本は、なかなか他にないように思う。「ペルソナ」の使い方とも絡んで、とても勉強になった。

「そして、神における父・子・霊というペルソナの区別は、神自身が親しく神の「何であるか」について教え、示した啓示であるから、それはまさに神の「一」であることを、神の本質に即して教える啓示として受けとるべきものである。言いかえると、神の「一」なることに関する知的な探究は「三位一体なる神」という信仰の神秘に基づいてのみ、有効、確実な仕方で進めることが可能なのであり、われわれが次に試みるのはまさにそのことなのである。」p.150
「しかし私は神が「一」であることの解明に向けられた探究や考察は、「神は何であるか」という問いをめぐる知的探究全体の総括とも言えるほどの重要性をふくむものであり、「三位一体なる神」という信仰の神秘にあえて立ち入る価値は十分にあると考える。言うまでもなくそれは、「神は何であるか」と問うことが、知ることを自然本性とする人間にとって――まさにこの問いを適切かつ徹底的に問い、十分に満足すべき答えを発見することが人間本性そのものの完全な実現であり、真実の幸福に他ならないのであるから――すべての問いのなかにあって最も重要で中心的な問いであることを前提とした場合のことである。」p.151

「ベルナルドゥスが「三つのペルソナが一つの実体であるという三位一体の一性は、すべての直しい仕方で≪一≫と言われるもののうちで最高の一性である」と言明するのは、諸々の「一」と言われる事物を厳密かつ詳細に考察し、それらが「一」であるのは三・一なる神の最高の一性を何らかの仕方で分有することによってであることを確認したことに基づくものである。」p.160

「しかし、われわれは神が「一」なること、しかも最高度に「一」なることは「信仰のみによって」肯定される「三・一なる神」の「一」性、すなわち神は父・子・霊の三つのペルソナの交わりにおいて「一」であることに基づいて理解すべきことを学んだ。」p.165

 なるほど、である。「多と一」が同時成立する根拠を理解することは、確かに理性を超える。その成立根拠を「三と一」の「一性」に落とし込んでくるのは、ものすごい知恵だ。そしてそれを本書は「創造」の解釈にも結びつけて、「存在」という概念の根底に切り込んでいく。キリスト教神学、凄い。
 一方、穿った見方をすれば、キリスト教神学の公理系の中でもっとも矛盾が甚だしい公理こそが「三位一体」(および「受肉」)の神であって、どうしても公理系の無矛盾性を優先してしまいがちな「理性」を説得するためには、この難問を完全スルーするか、あるいは正面突破するかしなければ、これ以上先に進めない、ということではある。そして確かにこの公理さえ受け容れることができれば、キリスト教神学の全体系は無矛盾で完全なものとなる。そして著者によれば、それこそが真の「浄福」ということらしい。実際、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは真の幸福に辿り着いたのだろう。
 が、まあ、私個人は、公理系が無矛盾かつ完全であることに、そんなに魅力を感じないのだった。矛盾に満ちあふれて完全性にはほど遠い公理系を、それはそれとして楽しく生きようと思う。

 また一方、否定的な「自己言及」を通じた「無限」の発生に関する洞察が示された箇所も記憶しておきたい。ここでは「人格」という言葉に対する洞察も示されている。

「これとは反対に人間は自己を否定して、自己を超えて進むべき存在であるとの見通しに立って、自己の中に入り、自己へと立ち帰る立場に立った場合には、右に述べた自己中心主義は消滅する。この場合には真の意味の自己認識が成立するのであるが、それは自己が自己をそこにおいて認識すべき「場」を発見することであり、そのことによって自己が万物の中心であるという幻想は消滅し、同時に自己は単なる「点」ではなくなり、ある意味では(認識することを通じて存在するものすべてと合一することによって)「全体」となるのである。」p.74
自己が自己を認識すると言う場合、認識する自己と認識される自己は同一であるから空虚な同語反復のように思われるかもしれないが、じつは自己認識は高度の知性的認識の条件が満たされて初めて成立するのであり、それが右に触れた「自己が自己をそこにおいて認識すべき場を発見する」ということである。」pp.74-75

「つまりこの完全な自己帰還という自己認識の在り方が、そのまま、人間精神という実在は「自分自身において在る」(in se ipso est)という完全な在り方をする(感覚によって捉えられる諸々の物体的事物と較べてはるかに)高次の存在であることを示すのである。ただ単に不可分な個であるという意味で「在る」のではなく、精神は「自分自身において在る」ということは、当の存在が関係ないし交わりを含みつつ「」であることを示している。」p.112
「さきに私は近代思想の根本的前提とも言える個体主義について批判的な見解を述べたが、その理由の一つはここで指摘した、自己ないし人間精神という存在は関係・交わりを含む「一」性によって「一」なる存在だ、ということである。各々の人間精神あるいは人格は単に不可分で、他とは共有不可能という意味での「一」性あるいは「個体性」において存在しているのではない。むしろ人間精神あるいは人格は、それ自体が関係的・交わり的であり、対話的存在である。そして人格がこのような自らの関係的・交わり的存在の豊かさを他の人格と共有することを本性的に望むことが人間の社会性であり、人間的社会・共同体は決して社会契約のような人為的制度に基づくものではなく、人間の自然的本性である社会性に基づく、と理解すべきであろう。」pp.112-113

 人間性の本質が、仮に否定を通じた「自己言及」にあるとして、そしてそれが外部を導入するまでもなく論理必然的に「無限」なるものを発生させるとして、さらに理性を超えたその「無限」なるものに人が直面した時、確かにそれは「神」としか呼びようのない何者かであるような気はしないでもない。あるいはヘーゲルが精神現象学で追究した何者かでもよい。しかし実は、「この文章は間違っている」という自己言及的な命題を真か偽か判定しようとしたときに生じる、ある種の「オーバーフロー」に似た何かなのかもしれないが、それを仮に「無限」と呼べるとしても、果たして「神」と呼んでいいのかどうか。

稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』講談社現代新書、2019年

【要約と感想】平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』

【要約】本当の自分などありません。人間とは、ネットワークの「束」に過ぎません。そう考えた方が楽に生きられます。

【感想】まあ、同じようなことは100年くらい前にG.H.ミードがもっと徹底的に掘り下げていたりする。もっとちゃんと「自分と世界の相互作用」の理屈について分かりたい人は、ミードの1925年の論文『自我の発生と社会的統制』を一読することをお勧めする。
 で、おそらく著者はミードを知らずに同じようなことを言っているわけだが、意図せずに似てしまっているのは、1920年代のアメリカと1980年代の日本の歴史経済的状況が似ているせいでもあるだろう。現代人の人格が細分化されていくのは、生産と消費が一体化していた生活が、消費社会の高度な進展に伴って単なる消費の対象として切り離されてパッケージ化され、仕事も高度な分業体勢で切り刻まれて世界の中での位置づけを見失い、世界の全体像が失われて細分化していくこととパラレルな現象だ。それは人間にとって必ずしも普遍的な現象ではない。「本当の自分はひとつじゃない!」と50年前の日本で主張したら、「何を言ってるんだこの人」となっただろう。この主張が説得力を持つのは、高度に成熟した資本主義社会の下で、現代人の生そのものがズタズタに細分化されているせいだ。そのあたりの歴史的条件には、本書はまったく突っ込んでくれないのであった。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 「個性」という言葉に対する言質を得た。分析の対象というよりは、リード文として活用しやすそうで、ありがたい。

「雑誌の占い特集や自己啓発書などでしょっちゅう目にする「本当の自分」という言葉。これとセットになっているのが、「個性」である。そして、個性とは、一人一人の「個人」に特徴的な性質のことである。
 私たちは、自分の中に、何か人とは違う個性的なところを見つけたいと願い、人に左右されず、その個性を大切にしたいと思っている。
 にも拘らず、その個性がわからないというのは、いつでも煩悶の種だ。
 一体、個性とは何なのか?
 文部科学省(当時の文部省)の中央教育審議会で、「個性の尊重」が明確に目標として掲げられるようになったのは、一九八〇年代前半のことである。七五年生まれの私が小、中学生になったころには、教育現場でも、やかましいくらいに「個性を伸ばせ」、「個性的に生きなさい」と言われていた。
 私が属する段階ジュニア世代は、そもそも人数が多く、受験競争も激化の一途を辿っていたので、詰め込み式の画一化教育からの脱却という問題意識自体は、真っ当だったと思う、しかし、年がら年中、念仏のように聞かされていた「個性」という言葉は、まったくもってうっとうしかった。
 そもそも、個性的に生きろと言われても、その年頃の子供は、何をどうして良いのかわからない。みんな同じ制服を着て、朝から夕方まで、同じカリキュラムに従って勉強している。部活動でもすれば、個性的ということなのか? 仕方がないから、髪型に凝ってみたり、制服を改造してみたりすると、それは個性を履き違えている!と、職員室に呼び出されたりする。
 個性というのは、実のところ、だれにでもある。まったく同じ人間は、この世の中に二人といない、ものの見方から感じ方、考え方まで、十人十色である。そして、際立って個性的である人は、社会との軋轢も大きくなる分、苦しむことも多い。自分は周りから浮いていると感じる人は、むしろ平凡さにこそ、憧れる者だ。
 結局、教育現場で「個性の尊重」が叫ばれるのは、将来的に、個性と職業とを結びつけなさいという意味である。」38-40頁

 で、教育史的な観点からは少々不正確な記述なので、補足しておくと、いちおう文部省もオイルショック後の1977年学習指導要領改訂で「ゆとり」と「個性や能力に応じた教育」を打ち出して詰め込み教育からの転換を図ってはいるが、教育の場面に「個性」を積極的に持ち込んだのは文部省の中央教育審議会ではなく、中曽根康弘総理大臣の直下に置かれた「臨時教育審議会」であり、新自由主義による「教育の自由化」が挫折した結果としてオブラートに包まれて登場したのが「個性の重視」というスローガンだ。まあ、「個性」という言葉に対して当時の「ゆとり第一世代」が抱いた実感であり、貴重な証言である、ということについては間違いはない。引用していきたい。

 また、「人格」という言葉についても大量の言質を得た。

「分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。」7頁
「一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。」7頁
「私たちは、朝、日が昇って、夕方、日が沈む、という反復的なサイクルを生きながら、身の回りの他者とも、反復的なコミュニケーションを重ねている。人格とは、その反復を通じて形成される一種のパターンである。」70頁

 これだけ見ると、あたかもヒュームのようだ。まあ、ドイツ的というかフンボルト的な教養が後退していることの一つの表現系なのかもしれない。

 それからキリスト教への言及について。

「人間が「(分割不可能な)個人」だという発想は、そもそもは一神教に由来するものである。一なる神と向かい合うのは、一なる人間でなければならない。」49頁

 大雑把に言えばそうかもしれないけれども、大雑把すぎる。キリスト教の中にも、エヴァンゲリオンの人類補完計画のようなことを言っている派閥(というか異端)もあったりして、「一」がなんなのかについては極めて錯綜とした議論が積み重なっており、なかなか一筋縄ではいかない。新プラトン主義との関係も慎重に見極める必要がある。こう断言して許されるのなら、なんと楽なことか。まあこれは新書だからいいんだけれども。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』講談社現代新書、2012年

【要約と感想】金子晴勇『アウグスティヌスの知恵』

【要約】アウグスティヌスの膨大な著作全体に目配りした上で、重要なキーワードを含む記述を引用して、専門的な知見から解説を加えています。アウグスティヌスの思想を全体的に概括できる構成になっています。

【感想】多くのアウグスティヌス概説書は、おおむね『告白』と『神の国』に依拠してアウグスティヌスの経歴と思想を説明している。それが悪いというわけではないし、分かった気にも一応なれるのだが、なんとなく食い足りないと感じた時にとても良い本のような感じがする。膨大なアウグスティヌスの著作の中から、専門研究が蓄積してきた知見を踏まえて重要な記述を抜粋し、周辺情報も加えて解説してくれている。著作全体に直接当たるつもりはないけれども『告白』『神の国』以外の本に何が書いてあるかをさっくり仕入れておきたい向きは重宝するでしょう。まあ最終的には、本書を入口にして、著作そのものに触れる必要が出てくるのでしょう。

【個人的な研究に関する備忘録】
 三位一体と「ペルソナ」に関する言質を得た。

「「したがって、御父であることと御子であることは異なるが、しかも実体が異なるのではない。なぜなら、御父といい、御子という表現は実体によって言われるのではなく、関係によって言われるからである。しかも、この関係は可変的ではないがゆえに、付帯性ではない」(同V.5.6)。したがって神の三位格「父」「子」「聖霊」が相互に「関係的」に述べられるのは、それぞれのペルソナに固有の意味で属している特性を意味するものである。それゆえ「ペルソナ」は「関係」を意味する
 ところで、このペルソナの理解はそれまでは明確でなかった。元来は役者が付けた「仮面」の意味や「役割」や「人物」を意味していた言葉であるが、ペルソナ(persona)は対話する者の間に相互に言葉が「響き渡る」(per sonare)ことを意味する。そこでアウグスティヌスはペルソナを三位の間の関係を示すものとして使用した。それを示したのが上記の引用文である。それ以来ペルソナは中世を通してキリスト教神学においては「関係」概念として用いられるようになった。だが近代に入ると、ルネサンスの影響から人間的な尊厳を表わす概念として「人格」の意味をもつようになった。」pp.47-48

 個人的に関心を持っている課題について、知りたいことがかなり簡潔に述べられている。「ペルソナ」という言葉が古代から近代的な「人格」の意味で用いられていたと考えている研究も多いところだが、本書では「古代中世のペルソナ」と「近代の人格」を異なる概念として理解している。私も常々そうだと思っており、個人的には極めて都合の良い記述となっている。その主張に説得力を持たせるために必要なのが、アウグスティヌスの言うペルソナが「関係」という観点から使用されているというところ、とても勉強になった。やはり『三位一体』という著作には直接当たらなくてはならない。

 また、「個体発生が系統発生を繰り返す」という発想について、アウグスティヌスが『真の宗教』で言及していることもメモしておく。

「全人類はアダムから現世の終末まであたかも一人の人間の生涯のようなものであって、神の摂理の法則の下に導かれて二つの種類に分かれて現われる。」p.94

 このテーゼは『神の国』でも繰り返し現れているところである。正しいか間違っているかは別として、「個体発生が系統発生を繰り返す」という発想がどこから何に由来して生じてきているのか考えるために重要な証言だ。

金子晴勇『アウグスティヌスの知恵』知泉書院、2012年

【要約と感想】國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち』

【要約】西洋哲学史のうち、特に紀元前4世紀(ヘレニズム期)から紀元2世紀(ローマ帝政前期)までに活躍した、ストア派の哲学者たちの思想を詳説しています。ストア前史としてキュニコス派の樽のディオゲネスから始まって、ストア前期(ゼノンなど)、ストア中期(パナイティオスなど)を経て、後期ストア派のキケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを大きく扱っています。
 ストイックとは、痩せ我慢とか諦念の態度などではなく、強い意志を持って自分の人生を「自由」で「幸福」に生きる姿勢のことです。

【感想】ギリシア時代の哲学(ソクラテス・プラトン・アリストテレス)については入門書も概説書もたくさんあるのだけれど、ヘレニズム期からローマ期の思想状況について扱った本は、がくっと少なくなる傾向にある。そんな状況にあって、さっくり時代状況を概観できて、痒いところにしっかり手が届く、とてもありがたい本なのであった。
 一方で、近年はストア派の思想に脚光が当たっているような印象がある。おそらく、現代日本の時代状況が、2000年前のローマの状況とよく似ている(行き詰まり感という意味で)から、ストア派の考え方に対して需要が生じているのだろう、と思う。プラトンやアリストテレスのような閑暇と観照の哲学ではなく、人生の指針となり行動に反映するような「幸福になるための知恵」に対する需要。
 そんなわけで、ストア派固有の壮大な宇宙論にはあまり注目されず、自分の心をコントロールする知恵と技術に焦点が当たりがちなのだが、本書にもその傾向が見られるような気はする。個人的な関心から言えば、有機体論の系譜に興味があるわけで、そのあたりは食い足りない印象ではあった。まあ、それが別に悪いというわけではない。

【今後の個人的な研究に対する備忘録】
 「人格」に関する記述があった。著者が翻訳したエピクテトス『人生談義』にもほぼ同じ記述があったけれども、やはり微妙な違和感がある。

「「それぞれの人格、状況、年齢に照らして何がふさわしいか、何が適性かを問うならば、たいてい義務が見出されることになる。」キケロ『義務について』(Ⅰ 125)
とある。ここで義務と関連の深い言葉が人格である。ラテン語では人格はペルソナという語で表現される。そして、キケロの『義務について』において独特の人格論を展開しているのがパナイティオスである。」pp.109-110

「ギリシア語で「顔」はプロソーポンと言う。プロソーポンはまた「仮面」の意味をも持ちうる。仮面とは悲劇や喜劇において舞台俳優が着けるものであり、表面的な顔とは違ったもうひとつの顔である。いわば内面の自己を言う。それがその人の「人格」にもなる。人格は英語ではpersonality(パーソナリティ)であるが、これはもともとラテン語のペルソナに由来している。ペルソナはギリシア語のプロソーポンに相当する語で、同様に「顔」や「仮面」の意味を持っている。これがキケロなどを通じて後に近代の人格概念に受け継がれていく。カントの場合、『人倫の形而上学』において展開された人格性(Personlichkeit)の概念が倫理学だけでなく彼の哲学において重要な意味を持つが、このような議論の淵源は中期ストア派のパナイティオスの思想にある。先に述べたように、パナイティオスの書物は失われて現存せず、『義務について』において、特にその第一~第二巻で紹介されているが、ペルソナ論はその第一巻(Ⅰ 107-125)で展開される。
 キケロは言う。まず自然は二つのペルソナを私たち人間に身につけさせた。ひとつは人間が理性を持つことによって得られるすべての人間に共通の人格である。もうひとつは足の速い人もいれば遅い人もあり、腕っぷしの強い人もいれば弱い人もいるように、個人に固有のものとしてある人格である。そして、個々の人格に応じてなすべき行為もまた異なってくる。」p.110
「第三のペルソナは偶然や機会に左右されるものである。たまたま王位に即くことができたとか、富、財産を得たとかいったことで、持つに至るのがこれである。第四のペルソナはそれぞれの選択によって得られたものを言う、哲学に向かう人もいれば、市民法に関わる人もいるし、軍人となる人もいる。以上の四つのペルソナを簡略化して示せば、(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナがあって、それらが人間の人格を形成すると考えられるわけである。」p.111

 まず違和感を持つのは、ペルソナ=仮面が「表面的な顔とは違ったもうひとつの顔」であるのはいいとししても、すぐさま「いわば内面の自己を言う」と続くところだ。論理的には、順接しない。飛躍がある。常識的に考えれば、仮面はただの「仮」の面に過ぎず、内面は「内」の面として別のところにある、となりそうなものだ。「仮」面を直ちに「内」面に結びつけるのは、理解しがたい。(まあ、このあたりの論理の飛躍には坂部恵の影響が大きいような印象はあるが)
 実際、上記引用した「ペルソナ」という語は、「内面」と理解するのではなく、「社会的役割」と考えた方が落ち着きが良い。「仮面」というものは、「内の面とは全く関係がない、一時的に担わなければならない仮の社会的役割」と考えた方が、論理的にも常識的にも座りがいい。仮面を外したら、もうその社会的役割を担う必要はない。キケロのいう「義務」も、ペルソナを「内面」ではなく「社会的役割」と考えた方がしっくりくる。著者が整理する「(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナ」も、それを「内面」と理解する理由も必然性もなく、単にそれぞれ「時と状況によって付け替え可能な社会的役割」があると理解するほうが、「仮面=内面とは無関係に付け替え可能な役割」というものの機能ともすんなりと順接する。
 で、こういう内面とはまったく関わりのないただの「ペルソナ=仮面」が、近代になると、カントに代表されるように、極めて重要な意味を担う言葉になる。なんでこうなったのかについてはいろいろな論者が関心を持って追究しているのだが、個人的に共感するのは、八木雄二の見解だったりする。要するに、キリスト教の論理(とくに三位一体の教義)が決定的な仲介者になるという考え方だ。八木の見解(と私の直観)が正しいとすれば、キリスト教の影響を受けていないストア派の「ペルソナ」が近代的な「人格」概念が担うような意味を持つわけがない、ということになるし、実際にテキストに触れてもそうだろうとしか思えないわけだ。
 ただし、だからといってストア派に近代的な人格概念がないかと言われれば、即座にそう決めつけることもない。個人的には「ペルソナ」という言葉以外の部分で、総合的に表明されているように思う。特に「宇宙は有機体として一つ」であり、「人間はその大いなる一の部分」であるという考え方は、近代的な人格概念を理解する上で決定的に重要な背景を為すだろうと思っている。そんなわけでストア派や新プラトン主義の「有機体」に対する考え方には興味津々なのであった。
 まあ、このあたりは、ライフワークとしてゆっくり追究していこう。(と言っているうちに人生が終わるからさっさとやりましょう、というのがストア派の思想だけれども)

國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、アルクス・アウレリウス』中央公論新社、2019年

【要約と感想】マーヴィン・ミンスキー/大島芳樹訳『創造する心―これからの教育に必要なこと』

【要約】「考えること」を考えてみましょう。どんなに大がかりで複雑なシステムでもごく単純な部品から組み立てられるし、小さな部品はそれ自体が何であっても構いません。大切なのは小さな部品同士の関係性によって表現された「状態」であり、「状態の変化」です。どのような「状態」を理想とするかが「目標」であり、「現在の状態」との「差異」を理解してそのギャップを埋めるために試行錯誤を繰り返すことが「学習」です。このような「状態の変化」を起こす構造を身につけるためには、特定のカリキュラムに従って何らかの教科を幅広く学ぶ必要はなく、子ども自身の趣味を突きつめていくのが一番です。大事なのは「目標」に向かって「状態の変化」を引き起す効果的な行動とは何かを理解し、身につけ、実行することであり、それが「創造性」というものです。既存の教科教育では、創造性を育むのは無理でしょう。コンピューター・サイエンスが大きな意義を持つはずです。

【感想】小学生の頃からコンピュータに慣れ親しめる環境にあった私にとってみれば、極めて納得感の高い本だった。言っていることが、よく分かる気がする。逆に、コンピュータにまったく触れたことのない人が理解できる内容と形式なのかどうか、気になるところでもある。

教育学的に言えば、「転移」という概念に対して示唆を与える内容だったように感じた。大昔の教育では、「転移」という概念がしばしば持ち出された。具体的には、「ラテン語のような実際に使用しない言語を学んで何の役に立つのか?」という疑問に対して、「ラテン語で身につけた論理的な力が転移して様々な場面に役に立つ」というような形で持ち出された。これを専門用語で「形式的陶冶」という。なんらかの「形式」を身につければ、それがあらゆる「内容」に適用できるという考え方だ。しかしソーンダイクという心理学者によって「転移」は否定されることになる。学んで身につけた知識は、学んだ領域でしか役に立たない。これを「実質的陶冶」という。ラテン語を学んだら確かにラテン語を話せるようになるが、フランス語やドイツ語など他の語学を学ぶ上ではまったく意味がない。ラテン語を学んで身につけたものは、フランス語やドイツ語の学習に「転移」をしないということだ。
しかし一方、本書では身につけたことの「転移」が発生することが示唆される。ポイントは、単なる「知識」や「スキル」のレベルで転移が起こると言っているのではなく、ひとつ上のメタレベルである「問題解決」の領域で応用が効くということだ。そして単に「条件反射の繰り返しで身についたこと」ではなく、「フィードバックの過程で考えて身についたこと」は転移するということだ。「条件反射」は「S→R」という一方向の単純な結果しか導かないが、フィードバックは双方向で再帰的で複雑な構造そのものを作っていくことが決定的に重要ということだ。古典的な心理学と現代的な認知心理学では、環境との相互的なフィードバックの論理を含み込んでいるかどうかが決定的に異なっているということになるのだろう。

しかしまったく別の部分で印象に残ったのは、著者やその弟子たちが、芸能人やスポーツ選手に対する敵意を隠さず、逆に「オタク」への敬意を高めるよう努力しているところだ。これは認知心理学者の先輩であり、本書でもところどころで名前が挙がっていたブルーナーにも同じく見られた傾向だった。どうやらアメリカでは、日本以上に「反知性的」なスクールカーストの風潮が蔓延しているようだ。いやはや。

【個人的な研究のための備忘録】
人格というものの「一性」に関して示唆をするような文章があったのでメモしておく。

「もし、あなたが自分自身のことを私(単数形のI)だと思っている時には、自分自身を単一の「何か」であるかのように考えていて、その中には部分ごとに変更できるようなものはないとみなしていることになるだろう。しかし、もし「私の何か(My)」からなっていると考えてみれば、自分自身を部品から構成されたものだとみなして、特定の部位を変更しながら考え方を改良できると考えられる。言い換えれば、もし自分の心が修理可能な機械だと思うことができれば、その改良法について考えることができるわけである。」194頁

まず思い浮かべるのは、フロイトが人間の心を「自我/エス/超自我」に三分割したことだ。人間は「単数形のI」ではなく、複数の部品が組み合わさったものだという観点が示されている。また同じくプラトンは、人間の心を「哲学者(理性)/戦士(気概)/生産者(欲望)」に分類した。そして「正義」とは、この三者の調和がとれて、心が統一されている状態のことだと説明した。本書では「部分と全体」の関係については言及されるが、「全体」を全体たらしめる原理については言及されていないように思える。プラトンが「正義」に求めた全体の原理を、本書は直接的に明示しているわけではないが、ひょっとしたら「創造」という言葉に込めているのかもしれない。

マーヴィン・ミンスキー/大島芳樹訳『創造する心―これからの教育に必要なこと』オライリー・ジャパン、2020年