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【要約と感想】聖アウグスティヌス『告白』

【要約】若い頃は名誉欲に駆られたり、乱暴な仲間たちと盗みを働いたり、軟弱文学やマニ教にはまったり、旧約聖書を荒唐無稽な与太話として馬鹿にしたり、性欲から抜け出せずにいたりしましたが、悩みに悩んだ末、様々な先人の助けを借りつつ、最終的には敬虔な母の願いどおり、キリスト者になりました。神様ありがとうございます。(第1巻~第9巻)
さらに、現在の私が如何様なものかを、認識の仕方、幸福の感じ方、情念に縛られる様を通じて示しますが、それが人間の在り方というものです。神様ありがとうございます。(第10巻)
そして聖書の理解について、時間論、天地論(空間論)、聖霊論(三位一体論)、生物論を通じて示します。神様ありがとうございます。(第11巻~第13巻)

【感想】かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーは「告白とは内面を作り出す制度」だというようなことを言った。まず内面があって次に「告白」という形の言表が行われるのではなく、まずは「告白」という制度に則った行動が行われて、それに伴って近代的内面が創出されるという洞察だ。フーコーは中世の教会における告解制度を想定してこう言ったわけだけど、本書読了後には、このような洞察をたちどころに想起する。本書に描かれているのは、まさに近代的内面であるように思われる。
とはいえ、著者アウグスティヌスが生きていたのは西洋古代最末期であって、我々が想定するような近代的自我がそのままの形で存在できるような社会経済史的条件は欠けている。我々が本書に近代的自我を読み取ってしまうのは、近代に生きる我々の側の思い入れに過ぎない可能性が高い。この違和感は、第11巻(岩波邦訳版では下巻)以降の展開に顕著に表れているのかもしれない。第10巻までは近代的感覚から見ても「告白」と呼ぶに相応しい内容に読めるが、第11巻以降の内容は「告白」という言葉のイメージからはかなり乖離している。しかし実はこの違和感バリバリの第11巻以降の行論こそ、まさに内面が創出される過程に立ち会うという経験を可能にしてくれるものなのかもしれない。

さて前半は、幼年期→少年期→青年期→壮年期の自伝的な記述となっている。言葉の獲得過程など、発達心理学的な洞察が各所で示されていたり、当時の学校の具体的な様子や学歴に関する事情が記されていて、教育学的にもたいへん興味深い。間違いなく第一級の史料だ。
また一方で、古代末期に新アカデミア派(懐疑主義)や新プラトン主義が大きな役割を果たしていたことが具体的によく分かる。マニ教も最終的には邪教ということになるが、実はこういう知的営為の一環を構成していたものとして理解できる。「自由意志と運命」とか「悪の由来」など、現代においても哲学上の問題として議論されるテーマをめぐって、1600年前にも様々な流派が鎬を削っていたのだ。最終的に西洋世界でキリスト教が説得力を持つのも、こういう古代末期の思想環境を踏まえて考える必要があるのだろう。
とはいえ一番おもしろく読めるのは、性欲に対する葛藤に関する記述かもしれない。それは、時代も地域も遠く離れた我が国の親鸞のエピソードを思い起こさせる。親鸞が性欲に対する葛藤に正面から立ち向かったところである種の悟りを得たのと同じく、アウグスティヌスもこの葛藤の克服過程を通じてある種の悟りを得ている。この性欲というやつは、自分以外の誰かに対しては表面的な糊塗によって誤魔化しがきくものだが、こと自分自身に対しては、自分自身の身体が自分の意志を裏切るという形で、しかも極めて厄介なことに寝ているときにも襲ってきたりして、まったく誤魔化しがきかないものだ。案外、近代的自我というやつが立ち上がってくるときには、この葛藤が重要な役割を果たしているのかもしれない。というか少なくとも親鸞とアウグスティヌスでは、そうだ。

【個人的な研究のためのメモ】
今後いろいろな場面で使えそうな示唆に溢れる文言が多く、おもしろい本だった。
まずキリスト教の「子ども観」について、疑いようもなく明瞭な言質を与えてくれる。

【子ども観】
「だれがわたしに幼年期の罪を思い起こさせるのであるか。何人も、あなたのみ前で、罪なく清らかであるものはないのであって、地上に生きること一日の幼児でさえも清くはないからである。」第1巻第7章11

これが「原罪」というものだ。いま私たちが想起する「子どもは純真で清らか」というイメージは、キリスト教が力を失っていく近代以降に創出されたものだ。
また、幼児の世話についても言質を得た。

【幼児の世話】
「幼児はかなり大きくなった少女の背中に負われるのがつねであった」第9巻第8章17

日本でも高度経済成長期頃までは、幼児の世話をするのは少女の役割だった。大人が野良仕事に精を出している間、乳幼児の世話をするのは10歳前後の少女、いわゆる「子守」だった。これは日本だけの事情ではなく、どうやら世界共通で見られる現象のようだ。
そして当時の学校の様子が、生々しく記録されている。

【学校の様子・体罰】
「神よ、わたしの神よ、わたしがこの世で成功して、人間の名誉と虚偽の富をうるのに役たつのみである弁論の術に秀でるために、教師に対する服従が少年時代のわたしに生活の規範として示されたとき、わたしは人生の荒波だつ社会にどんな悲惨と嘲弄をなめたことだろう。それからわたしは学問を学ぶために、学校へおくられたが、それが何の役に立つかはあわれなわれわれの知らぬところであった。しかも学習をなまけると、笞で打たれた。年長の人びとはこういうことをも是認していた。」第1巻第9章14

「しかもわたしたちは書くことも読むことも考えることも、教師たちから命ぜられていたようにせずに罪をおかした。主よ、じっさいわたしたちは、記憶力も知能もなかったわけではなく、わたしたちはそれらの能力をあなたの望みどおりにわれわれの年齢のわりに十分もっていた。しかし、わたしたちは、遊ぶことに熱中して、われわれと同じようなことをしている人によって罰せられた。年長者のいたずらは「つとめ」といわれたのに、少年たちが同じことをすればかれらによって罰せられ、少年たちをあわれむひとも、年長者をあわれむひとも、まして両者をあわれむひともいない。」第1巻第9章15

学習を怠けると体罰を受けるというのは、前近代の日本では見られない現象だったように思う。西洋世界が体罰を躊躇しなかった理由について、キリスト教の「原罪観」が槍玉に挙がることがしばしばあるが、アウグスティヌスの報告によれば、キリスト教に影響を受けるまでもなく、もともとローマ世界に体罰上等の文化が広がっていたことが分かる。
また、言語を学ぶことについて言及している部分で、学ぶ際には強制されるよりも自由に任せるほうが効果的だと指摘している。

【強制と自由】
「しかしわたしの少年時代は青年時代ほど心配されはしなかったが、わたしは学問を好まず、それを強制されることを嫌っていた。それにもかかわらずわたしは、強制された。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしに強制的に学ばせていたことがらを、ゆたかな窮乏と不名誉な欲望を満たすことにすぎないということに気付いていなかった。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしはギリシア語を少しも知らなかったので、それを覚えるために残酷な脅迫と懲罰をもって激しく責め立てられた。」第1巻第14章23
「言語を学ぶには恐ろしい強制よりも自由な好奇心のほうが有力であることはまったく明らかである。」第1巻第14章23

そしてアウグスティヌス自身は、言葉は「教える人」からはまったく学ばず、「語り合う人びとから覚えた」(第1巻第14章23)と言っている。現代日本でも、しばしば英語教育に関して同じことを主張する人がいる。

さすが古代最大の神学者と呼ばれるだけあって、「一性」や「同一性」や「三位一体」に関する言及が、本書の中にも極めて多く現れる。

【一性・同一性】
一なる者であられる方よ、あなたからすべての尺度は起こるのであり、もっとも美しい者であられる方よ、あなたはすべてのものを美しく形成し、あなたの法をもってすべてのものを統べられるのである。」第1巻第7章12
「しかしあなたは物体ではなく、また物体の生命である魂でもない。この物体の生命は物体そのものよりもすぐれて、いっそう確実である。あなたは、魂の生命であり、生命の生命であり、わたしの魂の生命よ、あなたは生命そのものでありながら、しかもけっして変化することがない。」第3章第6章10
「侵されないものは侵されるものよりも尊く、変化しないものは変化するものにまさると考えたのである。」第7巻第1章1
「それからわたしは、あなたの下にあるものを眺めて、それがまったく存在するのでもなく、またまったく存在しないのでもないということを知った。それらはあなたによって存在するのであるから、たしかに存在するが、あなたが存在するような存在ではないから、けっして実在しない。変化することなく、常住するもののみが真実に存在するのである。」第7巻第11章17
「わたしはあなたが存在すること、無限でありながらしかも有限の空間にも、無限の空間にもひろがらないこと、あなたが真に存在し、つねに同一であってどの関係においても、またどの運動によっても変化しないこと、しかしあなた以外のものは、それが存在するというもっとも確実な証拠から見ても、あなたによって創造されたものであるということを確信していた。」第7巻第20章26←プラトン派の書物の影響
「また、見るものがつねに同一であるあなたを眺めるようにすすめられるばかりでなく、」第7巻第21章27
「あなたはつねに同一であって、けっして移り変わることがない。つねに同一の仕方で存在しないものをも、あなたはつねに同一の仕方で知っておられるからである。」第8巻第3章6←「詩編」101の28
「しかしあなたのあわれみは、生命にまさるのであるから、どうであろう、わたしの生命は分散なのである。しかしあなたの右手はわたしをわたしの主において、すなわち一なるあなたと多なる――多によって多となれる――わたしたちとの間の仲保者である人の子において、支えられたのであるが、それはわたしがかれによってわたしがすでに捉えられたものにおいて捉え、わたしの以前の行状から呼び戻されて、一なるものを追い求めるようになされたのである。」第11巻第29章39
「つぎのような被造物でさえもあなたと等しく永遠であるのではないと語られた。この被造物というのは、ただあなたのみがそれによって喜びであり、永久不変の貞節を守って、あなたをそれ自身のうちに吸収し、いついかなるところにおいても、それ自身の変易性を示すことなく、それにむかってつねに現存されるあなたに衷心からよりすがり、それが期待する未来をもつこともなく、それが記憶するものを過去に移しいれることもなく、どんな変化によっても変わることなく、どんな時間にも分散しないのである。」「もしこのようなものがあるなら、それは他のものに移るという背反の心なしにただ一途にあなたの喜びのみを観照するものであり、聖なる霊的存在の、すなわちわたしたちの見る天の上の天にあるあなたの国の市民たちの平和の紐帯によってまったく一心に結ばれたただ一つの純粋な知性である。」第12巻第11章12

一性の考え方そのものは、キリスト教に傾倒する以前、新プラトン主義(プロティノス・プロクロス)の書物から学んでいるようだ。新プラトン主義の「一性」とキリスト教の一神教教義が親和的であることは自明ではあるにせよ、どうして結果的に親和的となったかについてはいろいろなストーリーが考えられそうだ。
そしてこの「一性」に対する理解を踏まえて、「三位一体」について独特の考え方を示している。

【三位一体】【眼鏡っ娘論に使える】
「さて、わたしの挙げる三者というのは、存在と認識と意志である。じっさい、わたしは存在し、認識し、意志する。わたしは認識し、意志しながら存在し、わたしが存在して意志することを認識し、存在して認識することを意志するのである。それゆえ、この三者において、生命が、いや、一つの生命、一つの精神、一つの本質がどれほど不可分的であるかを、またその区分がどれほど不可分的でありながら、しかもなお区分であるかを、自己に注視し、それを認めて、わたしに語るがよい。しかし、それらのうちにある手懸かりとなるものを見いだして、それを語るとき、それらのものの上にある不変的なもの、すなわち不変的に存在し、不変的に認識し、不変的に意志するものを見いだしたと考えてはならない。この三者のゆえに、その上にあるものにも三位一体が存するのであるか、あるいいは三位の各々にこの三者が存して、三者が三位の各々に属するのであるか、あるいはまた、不可思議な仕方で、単純でしかも複雑に、同時にそのいずれでもあって、三位一体においてはそれ自身がそれの制限をなしながら、しかも無限であり、そのような仕方によってそれは存在し、それ自身に認識せられ、その統一性の豊富な広大性によって不変的に同一なものとして、それ自身充ち足りているのであるか、だれがそれを容易に考えようか。」第十三巻第十二章12

人間の認識を超えたものを記述しようと努力すると、こういう言い回しに落ち着くということかもしれない。とはいえ、まずはアウグスティヌスの公式見解として、三位一体が「存在/認識/意志」の可分と不可分として議論されていることは、重要な基本知識として押さえておきたいところだ。この三位一体の公式は、眼鏡っ娘論で言えば、「娘/眼鏡/っ」に当たる。神秘である。

聖アウグスティヌス『告白(上)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年
聖アウグスティヌス『告白(下)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年

【要約と感想】八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』

【要約】カトリックの正統思想である三位一体で使用された「ペルソナ」という言葉が、中世ストア哲学によって鍛え上げられて「個」と「普遍」の関係性が厳密に考察され、それがさらにキリスト教の本質である「恩恵」と結びついて、理性の二つの働きのうち「個への気づき」が打ち出されることで、近代的な「人権」という考え方に開かれていきました。
 それとは別に、ソクラテスの「無知の知」とは、本質的には愚直であることです。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 日本での「人格」概念の定着課程を探っている私としては、知りたいことがそのまま書いてあった本だったわけだけど、私のシロウト予想とぴったり合いすぎていて、むしろ警戒感を持ってしまう。本当はしっかり論証しなければいけないところで、安易な類推が滑り込んでいないか。

 「ペルソナ」に至る経緯を私なりまとめておくと。
(1)キリスト教の正統教義(カトリック)では、「三位一体」が絶対に譲れない一線である。
(2)しかし、実際には「父/子/聖霊」が区別されていることを、どうやって説明するのか。
(3)神の本性は一つではあるが、顕れ方には複数あるということにすればよい。
(4)本性は一つであるから、それ以外の適当な言葉をもってきて、顕れ方に複数あることを表現しよう。
(5)「仮面」を意味する「ペルソナ」という言葉は、神の本性が一つであっても場面場面で仮面を付け替えて顕れるように見えるということで、都合が良さそうだ。
(6)さしあたって「ペルソナ」という言葉の中身は真剣に考えなくてもいいから、まずは複数であることを表現する言葉を作ってしまおう。
(7)ところが中世になると、哲学的議論が深まってしまったせいで、何の考えもなしにつけてしまった「ペルソナ」という言葉についても真剣に考えなければならなくなった。
(8)「ペルソナ」という言葉を突き詰めて考えると、その性格は「理性」と「個」にある。
(9)「理性」とは、ことばで以て認識する主体のことである。「個」とは、それぞれ共有不能な孤立体であることである。
(10)つまり、他から独立して理性を働かせる主体が「ペルソナ」である。

 まあ、中世哲学の原典テキストを読まなくても「三位一体」について知っていれば想像できるストーリーな気はする。しかし中世哲学の専門家がテキストを踏まえて主張しているわけで、信用してもいいのか。
 とはいえ、ここから近代的な人格概念に至るまでには、もう一歩の飛躍が必要な気もする。個人的にはホッブズが重要な役割を果たしているような予感がしているわけだが。あと個人的には「人格」概念の中核を構成する「個」概念については、新プラトン主義の言う「一」が極めて重要な役割を果たしている気がしないでもないのだが、本書では言及されていない。

 ちなみに最近では、「人格=personality」という古来からの言葉に手垢がつきすぎてむしろ何も表現できないことが多くなったためなのだろう、従来は「personality」という言葉で言い表してきたであろう概念を「agency」という言葉で表現する機会が増えてきているように思う。agencyは「代理人」という意味を持つ。そういう意味では、父や子なる神の地上代理人としての「教会」を言い表す上でもなかなか適切な言い回しあって、カトリック三位一体思想とも相性が良さそうに感じるのだが、如何だろうか。

【感想】ソクラテスの「無知の知」についての解釈は、通説とはまるで違っていて、「ナルホドそういう考えもあるのね」という感じ。
 しかしこういうテキストへの接し方の態度は、カトリックに対抗する聖書原理主義に似ている気もする。カトリックが主張するところでは、聖書の読み方についてカトリックは気が遠くなるほど長い時間をかけて解釈を積み重ねてきて、その解釈を経由しないで聖書を読んでも内容は理解できない。だから聖書の研究をしていない一般人が聖書を読んでもあまり意味はなく、特別に訓練を受けた神父の説教が重要な意義を持つ。しかし聖書原理主義者は、虚心坦懐に聖書を読めば、神の言葉なのだから理解できないはずはないと考える。だから神父など必要がない。
 同様に古代のテキストについても、先人たちが積み重ねてきた解釈を踏まえて理解すべきか、それとも先行研究を一切無視して自分の感性だけを信じるのか。どちらが素直なのかは、なかなか判断が難しいように思うのであった。

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』春秋社、2019年

【要約と感想】青野太潮『パウロ―十字架の使徒』

【要約】キリスト教はパウロの思想を土台として成り立っています。その思想の根幹は、現在のキリスト教の常識(イエスの贖罪と復活)ではなく、十字架にかけられたままの弱々しい人間イエスを信じるところにあります。というのは、イエスの「贖罪」はユダヤ教の律法と供犠を前提とした発想であって、キリスト教の本質とは無関係ですし、復活の奇跡ような「強い」イエス像に依拠することはむしろ人間の罪(傲慢)を増幅するだけだからです。パウロが本当に伝えたいのは、人間の「弱さ」に謙虚に向き合って自覚するところに本当の強さがあるということです。

【感想】キリスト教の本質的な思想に関して私が知識として理解していたところ(贖罪と復活)を、本書は徹底的に否定してきた。とてもおもしろかった。まさに目から鱗が落ちた(この表現もパウロの故事に由来するそうだ)。
ポイントは、「贖罪」に関する常識的な理解(イエスが人間の原罪を一身に背負って身代わりになってくれた)が、キリスト教の本質とは全く無関係のユダヤ教的伝統に由来するという理解だ。本当は破棄しなければならないはずの「律法」に依拠している上に、ユダヤ教伝統の「供犠=身代わり」による祓いに堕しているところが決定的な誤りということらしい。なるほど。
ちなみに「復活」に関しては、私はかねてからそんな奇跡に頼るまでもなくキリスト教は成立するだろうと思っていたわけだが、本書はその立場を補強してくれたような気はする。「復活の奇跡」を信じるか信じないかこそがキリスト教の本質だと主張する人々は極めて多く(現在も昔の偉人たちも)、私個人としては「?」となるしかないわけだが、だから逆に人間イエスを強調して神性を重んじない本書の論理は、よく理解できる。

しかしまあ、人間の弱さに徹底的に向き合いつつ、自力救済への努力を度しがたい傲慢さの表れと見なし、人は「信」のみによって救われるという思想は、本当に親鸞(悪人正機説と他力本願)にそっくりだと、改めて思うのであった。そこに普遍性を持つ何かを感じざるを得ない。
あるいは現代的な関心として。いまは「弱さ」を徹底的に悪として排除する傾向が強まりつつあるように見える。たとえば生活保護にしろ、少年法に関する議論にしろ、「自己責任」に関する主張の数々にせよ、「弱さ」ゆえに転落した人々に寄り添って歩むどころかさらに冷たく叩き落とし、自己努力と自己救済だけを声高に叫ぶ優勝劣敗の論理がまかり通っている。話題になった東大での上野千鶴子のスピーチは、フェミニズム的な文脈のみで理解するような視野狭窄な人々も散見されるところではあるが、本質的には「弱さの必然性/強さの偶然性」を謙虚に直視するパウロ=親鸞的な観点から理解されるべきものであるように思う。その論点がまるで理解されないところに、現代の恐ろしさの一端があるように思うのだった。

【個人的な研究のためのメモ】
いやしかし、あからさまには言っているわけではないものの、明確に「三位一体説はデタラメ」というメッセージを発しているのは、印象深い。(ちなみに174頁では三位一体説のフィクション性について直接触れている)。まあ「贖罪」を明確に否定した上で「復活」を婉曲的に否定し、「人間イエス」を強調するわけだから、論理必然的に三位一体説を採用することなどできないわけだが。すると結局、古代のグノーシス派だったりマニ教だったりと同じように、旧約聖書(さらにはユダヤ教)の扱いや、新約聖書の正典(カノン)の範囲が問題となる。パウロ原理主義に依拠する場合、本書でもマルキオンの名前が挙がったわけだが、当然ながら旧約聖書や新約聖書の一部福音書は論理必然的に排除されるべきものという理屈となる。その理屈は少し前に読んだ加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』の主張とほぼ重なってくる。
アウグスティヌスが解決したはずの異端問題が現代の精密な書誌学的知見を伴いながら復活してきているのは、キリスト教信者ではない私から見れば正直言って単に知的関心の対象でしかないわけだが、キリスト教内部から見た場合はどういう景色になるのだろうか。特に本書はグノーシス主義のような新発見の資料を用いたわけではなく、新約聖書に収められたパウロの手紙という誰もが否定できないカノンを用いながらカトリックの教義を土台から崩すような論理を展開しているわけで、いやはや、かなり大変なことを言っているのではないだろうか。実際、amazonレビュー等では怒り狂っておられる方々が本書に呪詛の言葉の数々をぶつけているのだった。さもありなん。

青野太潮『パウロ―十字架の使徒』岩波新書、2016年

【要約と感想】出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』

【要約】4世紀末から5世紀初頭のローマ帝国末期に活躍したキリスト教の教父アウグスティヌスについて、生涯を辿りながら、その思想の展開と特徴について要点を簡潔に紹介しています。
思想については、青少年期の放蕩やマニ教への傾倒など伝記的な事実を踏まえつつ、新プラトン主義や敬虔なキリスト教信者であった母親の影響等によって形成されていく様子が描かれています。特に立ち向かったテーマは、「自由意志」や「悪の原因」さらに「三位一体」というような、マニ教やペラギウス派など異端との対決で焦点となる概念です。
これらの課題への取り組みを通じて一貫しているのは、人間の「心」を深く見つめる姿勢です。

【感想】他の著書でマニ教について知識を得ていたので、その知識を踏まえて改めてアウグスティヌスの生涯に触れてみると、「自由意思」と「悪の由来」と「三位一体」がまさに不可分な問題であることが分かる。カトリックの「三位一体」の教義は、マニ教とかアリウス派などの<異端>の思想と比較して初めて意味を理解できるような気がする。まあ、「三位一体」に対するそういう理性的な理解の仕方は、アウグスティヌスの推奨するところではないんだろうけれども。
また新プラトン主義の影響など、アウグスティヌスの思想は<普遍的>なものというよりは、その時代の影響をそうとう明瞭に表わしているもののように思った。が、偉大な思想家が常にそうであるように、時代に固有の問題に真剣に取り組むことで普遍的な問題へ接続するということなんだろうなあと。

【この本は眼鏡論に使える】
アウグスティヌスを語るときに絶対に外せない「三位一体」について、当然本書も触れているわけだけれども。本書は、被造物である人間にも三位一体性が表れていると言う。

「たとえば、一つの視覚対象認識の成立においても、「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の三者は切っても切れない関係にあるなど、三一性は私たちの内にも存在する。それは、私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考えるのである。」141頁

この考察が人間の本質を捉えているかどうかは、さしあたって問題にしないし、私にその資格はない。私が関心を持つのは、もしも仮にこのようなレトリックが成立するのであれば、「眼鏡っ娘」こそが三一性の根本的な体現者であると言えるのではないかということだ。なぜなら、単に「眼鏡」と「娘」を合体させるだけでは単に「眼鏡をかけた女性」になるだけで、決して「眼鏡っ娘」は生じない。ここに何らかの意味での「霊」が宿ることで初めて単なる「眼鏡をかけた女性」ではなく「眼鏡っ娘」が生じるからだ。要するに、「眼鏡っ娘」とは、唯物的に「眼鏡+娘」と考えるだけでは生じ得ず、「眼鏡+娘+何らかの霊性」という三一性を承認して初めて認識できる何者かなのだ。
このような眼鏡っ娘認識は、新プラトン主義のプロティノス『善なるもの一なるもの』にも見られたものであった。キリスト教が言う三位一体の教義は、おそらく新プラトン主義の「一」に対する洞察とも共鳴するものであるし、そうであれば普遍的なものとしての「眼鏡っ娘」とも必然的に響き合うものとなる。つまりそれは、理性的に理解する対象ではなく、「信仰」によって飛躍する特異点である。
改めて「三位一体」に対する研究を深める必要を痛感するのだった。

出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』岩波新書、2018年

【要約と感想】加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』

【要約】ユダヤ教神学の根幹である「契約」や「罪」という概念は、「神との断絶」の意識が根底にあります。「律法」や「神殿」とは、神を理解したなどと人間が勘違いしないための工夫でした。
いっぽうキリスト教にとって意味があるのは「神の支配」であって、「契約」という概念や「洗礼」という儀式はさして重要でもないし、「聖書」も本質的なものではありえないし、そもそもイエスに神格を認める必要すらありません。イエスが予言した「神の支配」の「神」も、旧約のヤーヴェと同一であるかどうかはわかりません。「精霊」は、初期エルサレム協会が「人による人の支配」を正当化するために持ち出したものであって、キリスト教にとって本質的なものではありません。
いずれにせよ、たかだか人間の努力によって至高の神を動かせると考えるのは、傲岸不遜の極みです。人間の小賢しい知恵ごときで神を本当に理解できるなどと思い上がってはいけません。

【感想】本の序盤から慎重な言い回しが続くなあと思っていたら、中盤から凄い展開になって、椅子から転げ落ちそうになった。かなり凄いことを言っているような気がするのだが、amazonレビューとかを見ても本書の恐ろしさに気がついていない人ばかりなのはどういうことだ?
しかしまあ、初期協会の欺瞞性を浮き彫りにしたり「奇跡」に対して距離を置くのはプロテスタント的には良しとしても、イエスの神格性に疑問を呈したり、「聖書」は必要に迫られて行き当たりばったりに作られたものであって正典としては疑わしいものだとしたり、「精霊」を機能的に捉えることによって三位一体説を相対化するなど、私が知っていると思っていたキリスト教の根幹をことごとく引っくり返してしまう。まあ私個人はキリスト教信者ではないから「ふーん」と思いながら他人事のように読めるけれども、まじめなカトリック信者は大激怒だろうし、プロテスタントの立場でも混乱に陥る人が多いのではないだろうか。いやあ、キリスト教神学の懐の深さを垣間見たような気がする。

【今後の研究のための備忘録】かねがね「personality」概念を追究する関心から、キリスト教の言う「三位一体」の本質はどういうことなのか気になっていたわけだけど(三位一体説でいう「位格」がpersonaの翻訳語)。キリスト教関係者に接触するたびに「三位一体の本質」を質問してきたけれども、これまで要領を突いた回答を得たことはなかった。が、この年来の疑問に対して、本書は明快な答えを与えてくれる。本書から得た知見を総合すれば、「三位一体」とはキリスト教の本質から出てくるものではなく、単に「教会の都合」で捏造されたものに過ぎない。そもそも本書の立場から言えば、「三位一体」の前提となっている「イエスが神格性」からして怪しいし、「精霊の神格性」にいたっては、もはやキリスト教の本質とはなんの関係もない「教会が人々を支配下に置く方便」に過ぎない。そして仮に「イエスの神格性」を認めたとしても、イエスの言う「神」とユダヤ教の「神=ヤーヴェ」が一致するかどうかが保障されないとき、グノーシス的なマンダ教やマニ教が主張するように「新約の神と旧約の神は異なる」という立場だってありえるわけだ。カトリック教会は「新約の神=旧約の神」という立場をとり、さらに「教会の指導性」を確保するために「精霊」を捏造したとき、「三位一体」の説は極めて都合が良いものになる。しかしグノーシス的立場から言えば、新約の神が旧約の神とは異なるわけだから、「三位一体」など、ありえない。わざわざニカイア公会議で「三位一体」を採用したのは、旧約の神と新約の神を峻別するグノーシス的見解を完全排除するために必要な措置だったわけだ。
まあ、本書から得た知見が正しいとした場合の理解ではあるが。さしあたってこの見解を崩す新たな証拠が手に入らない限り、私としては「三位一体説とは、カトリック教会が人々を支配する都合で捏造したもの」という見解を採用せざるを得ない。いやあ、恐ろしい結論に至ってしまった。アリウス派だ。どうしよう。

加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』講談社現代新書、2002年