【要約と感想】加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』

【要約】ユダヤ教神学の根幹である「契約」や「罪」という概念は、「神との断絶」の意識が根底にあります。「律法」や「神殿」とは、神を理解したなどと人間が勘違いしないための工夫でした。
いっぽうキリスト教にとって意味があるのは「神の支配」であって、「契約」という概念や「洗礼」という儀式はさして重要でもないし、「聖書」も本質的なものではありえないし、そもそもイエスに神格を認める必要すらありません。イエスが予言した「神の支配」の「神」も、旧約のヤーヴェと同一であるかどうかはわかりません。「精霊」は、初期エルサレム協会が「人による人の支配」を正当化するために持ち出したものであって、キリスト教にとって本質的なものではありません。
いずれにせよ、たかだか人間の努力によって至高の神を動かせると考えるのは、傲岸不遜の極みです。人間の小賢しい知恵ごときで神を本当に理解できるなどと思い上がってはいけません。

【感想】本の序盤から慎重な言い回しが続くなあと思っていたら、中盤から凄い展開になって、椅子から転げ落ちそうになった。かなり凄いことを言っているような気がするのだが、amazonレビューとかを見ても本書の恐ろしさに気がついていない人ばかりなのはどういうことだ?
しかしまあ、初期協会の欺瞞性を浮き彫りにしたり「奇跡」に対して距離を置くのはプロテスタント的には良しとしても、イエスの神格性に疑問を呈したり、「聖書」は必要に迫られて行き当たりばったりに作られたものであって正典としては疑わしいものだとしたり、「精霊」を機能的に捉えることによって三位一体説を相対化するなど、私が知っていると思っていたキリスト教の根幹をことごとく引っくり返してしまう。まあ私個人はキリスト教信者ではないから「ふーん」と思いながら他人事のように読めるけれども、まじめなカトリック信者は大激怒だろうし、プロテスタントの立場でも混乱に陥る人が多いのではないだろうか。いやあ、キリスト教神学の懐の深さを垣間見たような気がする。

【今後の研究のための備忘録】かねがね「personality」概念を追究する関心から、キリスト教の言う「三位一体」の本質はどういうことなのか気になっていたわけだけど(三位一体説でいう「位格」がpersonaの翻訳語)。キリスト教関係者に接触するたびに「三位一体の本質」を質問してきたけれども、これまで要領を突いた回答を得たことはなかった。が、この年来の疑問に対して、本書は明快な答えを与えてくれる。本書から得た知見を総合すれば、「三位一体」とはキリスト教の本質から出てくるものではなく、単に「教会の都合」で捏造されたものに過ぎない。そもそも本書の立場から言えば、「三位一体」の前提となっている「イエスが神格性」からして怪しいし、「精霊の神格性」にいたっては、もはやキリスト教の本質とはなんの関係もない「教会が人々を支配下に置く方便」に過ぎない。そして仮に「イエスの神格性」を認めたとしても、イエスの言う「神」とユダヤ教の「神=ヤーヴェ」が一致するかどうかが保障されないとき、グノーシス的なマンダ教やマニ教が主張するように「新約の神と旧約の神は異なる」という立場だってありえるわけだ。カトリック教会は「新約の神=旧約の神」という立場をとり、さらに「教会の指導性」を確保するために「精霊」を捏造したとき、「三位一体」の説は極めて都合が良いものになる。しかしグノーシス的立場から言えば、新約の神が旧約の神とは異なるわけだから、「三位一体」など、ありえない。わざわざニカイア公会議で「三位一体」を採用したのは、旧約の神と新約の神を峻別するグノーシス的見解を完全排除するために必要な措置だったわけだ。
まあ、本書から得た知見が正しいとした場合の理解ではあるが。さしあたってこの見解を崩す新たな証拠が手に入らない限り、私としては「三位一体説とは、カトリック教会が人々を支配する都合で捏造したもの」という見解を採用せざるを得ない。いやあ、恐ろしい結論に至ってしまった。アリウス派だ。どうしよう。

加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』講談社現代新書、2002年