【要約と感想】出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』

【要約】4世紀末から5世紀初頭のローマ帝国末期に活躍したキリスト教の教父アウグスティヌスについて、生涯を辿りながら、その思想の展開と特徴について要点を簡潔に紹介しています。
思想については、青少年期の放蕩やマニ教への傾倒など伝記的な事実を踏まえつつ、新プラトン主義や敬虔なキリスト教信者であった母親の影響等によって形成されていく様子が描かれています。特に立ち向かったテーマは、「自由意志」や「悪の原因」さらに「三位一体」というような、マニ教やペラギウス派など異端との対決で焦点となる概念です。
これらの課題への取り組みを通じて一貫しているのは、人間の「心」を深く見つめる姿勢です。

【感想】他の著書でマニ教について知識を得ていたので、その知識を踏まえて改めてアウグスティヌスの生涯に触れてみると、「自由意思」と「悪の由来」と「三位一体」がまさに不可分な問題であることが分かる。カトリックの「三位一体」の教義は、マニ教とかアリウス派などの<異端>の思想と比較して初めて意味を理解できるような気がする。まあ、「三位一体」に対するそういう理性的な理解の仕方は、アウグスティヌスの推奨するところではないんだろうけれども。
また新プラトン主義の影響など、アウグスティヌスの思想は<普遍的>なものというよりは、その時代の影響をそうとう明瞭に表わしているもののように思った。が、偉大な思想家が常にそうであるように、時代に固有の問題に真剣に取り組むことで普遍的な問題へ接続するということなんだろうなあと。

【この本は眼鏡論に使える】
アウグスティヌスを語るときに絶対に外せない「三位一体」について、当然本書も触れているわけだけれども。本書は、被造物である人間にも三位一体性が表れていると言う。

「たとえば、一つの視覚対象認識の成立においても、「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の三者は切っても切れない関係にあるなど、三一性は私たちの内にも存在する。それは、私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考えるのである。」141頁

この考察が人間の本質を捉えているかどうかは、さしあたって問題にしないし、私にその資格はない。私が関心を持つのは、もしも仮にこのようなレトリックが成立するのであれば、「眼鏡っ娘」こそが三一性の根本的な体現者であると言えるのではないかということだ。なぜなら、単に「眼鏡」と「娘」を合体させるだけでは単に「眼鏡をかけた女性」になるだけで、決して「眼鏡っ娘」は生じない。ここに何らかの意味での「霊」が宿ることで初めて単なる「眼鏡をかけた女性」ではなく「眼鏡っ娘」が生じるからだ。要するに、「眼鏡っ娘」とは、唯物的に「眼鏡+娘」と考えるだけでは生じ得ず、「眼鏡+娘+何らかの霊性」という三一性を承認して初めて認識できる何者かなのだ。
このような眼鏡っ娘認識は、新プラトン主義のプロティノス『善なるもの一なるもの』にも見られたものであった。キリスト教が言う三位一体の教義は、おそらく新プラトン主義の「一」に対する洞察とも共鳴するものであるし、そうであれば普遍的なものとしての「眼鏡っ娘」とも必然的に響き合うものとなる。つまりそれは、理性的に理解する対象ではなく、「信仰」によって飛躍する特異点である。
改めて「三位一体」に対する研究を深める必要を痛感するのだった。

出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』岩波新書、2018年