「キリスト教」タグアーカイブ

【要約と感想】稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』

【要約】「神とは何か」について、人間本性に植えつけられた理性(哲学)によって探究することができるし、する価値があるし、というか人間として探究するべき最も相応しいテーマです。が、残念ながら理性で辿り着けるのは「神とは何ではないか」までで、「神とは何か」は「信仰」によってのみ光が当たるところです。そして信仰の支えによって、理性はさらに先に進むことが可能で、それこそが神学という学問の真価が発揮されるところです。人間の理性は、神が最高度に「一」であり、さらに言えばペルソナ的に「三・一」であるという神秘の骨頂に到達することができます。その土台に立つことで、初めて人間の「尊厳」というものの本質を理解することが可能になります。

【感想】率直に言えば、読んでいてイライラした。中世哲学の碩学泰斗に対して私如き教育学の末席に引っかかってるだけの者が不遜ではあるのだが、そう思ってしまったから仕方がない。まあ、もちろんそれは私の側の主観的な問題であって、この本の問題ではない。
 さて、イライラした理由は明らかで、読者の私がまったく同意しないしできるわけがないしするつもりがない命題について「同意したものと前提」して話がどんどん進んでいって、置いてけぼり感が半端ないせいだ。なんとかついていくために、同意するつもりがないし同意などできない自分をいったん脇に置いて棚に上げて、「仮に同意したとしよう」と別の人格を自分の中に作って先を読み進めるのだが、そこでもさらに同意しないしできるわけがないしするつもりがない新たな命題が登場し、そこで私の人格はさらに分裂していってしまう。そうやって数多くの自分を棚に上げて、ようやく理解することが可能になる文章が延々と続くのだから、まあ、イライラする。(繰り返すが、イライラするのは私個人の主観的な問題であって、著書の問題ではない)

 とはいえ、いったん高所から俯瞰して、現代数学の「公理系」をイメージすれば、全体像は見えやすくなるような気はする。まずいくつかの「公理」を前提する。それらの公理は証明が不可能なのだが、それが公理というものだ。そしてその公理群のみを真理と仮定して、そこから論理必然的な演繹作業を繰り返していき、どこまで現実を説明できて、どこまで結論の射程距離が伸びるか、理性を働かせる。著者の言ういわゆる「信仰」に関わる公理をいったん真理と仮定すれば、確かに実り豊かな結論を導き出すことはできる。
 できるのだが、問題は前提とした「公理」が証明不可能である、というところである。そして、私には、その公理を受け容れることは不可能である。荒唐無稽だからだ。つまり、本書で示された実り豊かな結論は、私自身にとっては何の意味も持たないのであった。
 しかしまあ、私自身にとって意味がなくとも、世界中のどこかにそれに意味を見いだしている人間がいて、そういう「公理系」の宇宙に充実して生きている人々がいるということを知っていることそれ自体は、無意味ではないかもしれない。

 で、「公理系」であるから、実は別の「公理」を導入しても、同じ結論はいくらでも導き出せたりする。同じ結論に辿り着くために、公理にキリストを置く必要は、実は、特にない。公理は置き換え可能だ。たとえば「Q」という公理を容認することで、一気に世界全体の秩序が立ちあがってくる場合だって現実にあったわけだ。悲しいことに、それが理性の権能というものだ。いちど世界が整序されてしまったら、その前提にある「公理」を取り去ることは極端に困難になる。いったん「Q」という公理を容認してしまった人々は、仮にそれに反する事実をいくら突きつけたとしても、公理そのものを反省することはない。「公理」と「事実」では、理性における機能がまるで異なっているからだ。
 であれば、かつてキリスト教の公会議で争われたことは、理性で推し量ることが可能な論理ではなく、それ自体は証明不可能な「公理」の選択だ。具体的に、いわゆる三一論は、公理系の無矛盾性を担保するためには相当アクロバティックな跳躍を余儀なくされるものの、完全性を追究するためには敢えてその立場を選択するだけの価値はある、というもののようだ。神の「完全性」を演繹することが可能な公理系の構築を目指す場合、諸公理間の矛盾には目をつぶらざるを得ない。誰にでも分かってしまう公理間の矛盾については、「信仰」という名で呼ばれる「特異点」を設定して見ないふりを決め込み、やりすごすことになる。一方、いわゆる異端とされる公理系は、公理系の無矛盾性を優先するが故に、逆に完全性を犠牲にすることを厭わない形式のようだ。しかしもちろんこの公理系から神の「完全性」の概念を導き出すことはできない。
 となると、トマス・アクィナス『神学大全』は、公理系の無矛盾性と完全性の双方を極大化する解を探究しようと試みた仕事ということで、確かに理性を最大限に活用して初めて可能となるような大変な難事業だったのだろう。が、やはりどうしても公理同士の矛盾は、残らざるを得ない。だからこそ、最終的には矛盾を押し潰す論理としての「信仰=公理系の無謬性担保」が必要となる。まあ、お互いに矛盾する公理を許容していいのなら、キリスト教に限らず、完全性を実現することはさほど難しいことではない。

  またあるいは、キリスト教神学の公理系を支える根本原理は「自己言及」と「無限」なのだろう。たとえば「この文はウソである」という命題が与えられたとき、この命題そのものの真と偽を論理的に判定することは不可能だ。それでも敢えて論理的に判定しようとすると、「無限」の遡及に陥る。いわゆる「人間本性」に由来する「神」とは、否定的な自己言及による無限の展開に由来するものなのだろう。いわゆる「否定神学」を極度にまで推し進めたキリスト教神学が、「無限」を含み込んだ公理系を発展させたのは、いわれのないことではないのだろう。こういう「自己言及」による「無限」の論理的制御という観点からは、キリスト教神学のお手並みは実に見事なように見える。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 これほど「三位一体」について真正面から説明を試みている誠実な本は、なかなか他にないように思う。「ペルソナ」の使い方とも絡んで、とても勉強になった。

「そして、神における父・子・霊というペルソナの区別は、神自身が親しく神の「何であるか」について教え、示した啓示であるから、それはまさに神の「一」であることを、神の本質に即して教える啓示として受けとるべきものである。言いかえると、神の「一」なることに関する知的な探究は「三位一体なる神」という信仰の神秘に基づいてのみ、有効、確実な仕方で進めることが可能なのであり、われわれが次に試みるのはまさにそのことなのである。」p.150
「しかし私は神が「一」であることの解明に向けられた探究や考察は、「神は何であるか」という問いをめぐる知的探究全体の総括とも言えるほどの重要性をふくむものであり、「三位一体なる神」という信仰の神秘にあえて立ち入る価値は十分にあると考える。言うまでもなくそれは、「神は何であるか」と問うことが、知ることを自然本性とする人間にとって――まさにこの問いを適切かつ徹底的に問い、十分に満足すべき答えを発見することが人間本性そのものの完全な実現であり、真実の幸福に他ならないのであるから――すべての問いのなかにあって最も重要で中心的な問いであることを前提とした場合のことである。」p.151

「ベルナルドゥスが「三つのペルソナが一つの実体であるという三位一体の一性は、すべての直しい仕方で≪一≫と言われるもののうちで最高の一性である」と言明するのは、諸々の「一」と言われる事物を厳密かつ詳細に考察し、それらが「一」であるのは三・一なる神の最高の一性を何らかの仕方で分有することによってであることを確認したことに基づくものである。」p.160

「しかし、われわれは神が「一」なること、しかも最高度に「一」なることは「信仰のみによって」肯定される「三・一なる神」の「一」性、すなわち神は父・子・霊の三つのペルソナの交わりにおいて「一」であることに基づいて理解すべきことを学んだ。」p.165

 なるほど、である。「多と一」が同時成立する根拠を理解することは、確かに理性を超える。その成立根拠を「三と一」の「一性」に落とし込んでくるのは、ものすごい知恵だ。そしてそれを本書は「創造」の解釈にも結びつけて、「存在」という概念の根底に切り込んでいく。キリスト教神学、凄い。
 一方、穿った見方をすれば、キリスト教神学の公理系の中でもっとも矛盾が甚だしい公理こそが「三位一体」(および「受肉」)の神であって、どうしても公理系の無矛盾性を優先してしまいがちな「理性」を説得するためには、この難問を完全スルーするか、あるいは正面突破するかしなければ、これ以上先に進めない、ということではある。そして確かにこの公理さえ受け容れることができれば、キリスト教神学の全体系は無矛盾で完全なものとなる。そして著者によれば、それこそが真の「浄福」ということらしい。実際、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは真の幸福に辿り着いたのだろう。
 が、まあ、私個人は、公理系が無矛盾かつ完全であることに、そんなに魅力を感じないのだった。矛盾に満ちあふれて完全性にはほど遠い公理系を、それはそれとして楽しく生きようと思う。

 また一方、否定的な「自己言及」を通じた「無限」の発生に関する洞察が示された箇所も記憶しておきたい。ここでは「人格」という言葉に対する洞察も示されている。

「これとは反対に人間は自己を否定して、自己を超えて進むべき存在であるとの見通しに立って、自己の中に入り、自己へと立ち帰る立場に立った場合には、右に述べた自己中心主義は消滅する。この場合には真の意味の自己認識が成立するのであるが、それは自己が自己をそこにおいて認識すべき「場」を発見することであり、そのことによって自己が万物の中心であるという幻想は消滅し、同時に自己は単なる「点」ではなくなり、ある意味では(認識することを通じて存在するものすべてと合一することによって)「全体」となるのである。」p.74
自己が自己を認識すると言う場合、認識する自己と認識される自己は同一であるから空虚な同語反復のように思われるかもしれないが、じつは自己認識は高度の知性的認識の条件が満たされて初めて成立するのであり、それが右に触れた「自己が自己をそこにおいて認識すべき場を発見する」ということである。」pp.74-75

「つまりこの完全な自己帰還という自己認識の在り方が、そのまま、人間精神という実在は「自分自身において在る」(in se ipso est)という完全な在り方をする(感覚によって捉えられる諸々の物体的事物と較べてはるかに)高次の存在であることを示すのである。ただ単に不可分な個であるという意味で「在る」のではなく、精神は「自分自身において在る」ということは、当の存在が関係ないし交わりを含みつつ「」であることを示している。」p.112
「さきに私は近代思想の根本的前提とも言える個体主義について批判的な見解を述べたが、その理由の一つはここで指摘した、自己ないし人間精神という存在は関係・交わりを含む「一」性によって「一」なる存在だ、ということである。各々の人間精神あるいは人格は単に不可分で、他とは共有不可能という意味での「一」性あるいは「個体性」において存在しているのではない。むしろ人間精神あるいは人格は、それ自体が関係的・交わり的であり、対話的存在である。そして人格がこのような自らの関係的・交わり的存在の豊かさを他の人格と共有することを本性的に望むことが人間の社会性であり、人間的社会・共同体は決して社会契約のような人為的制度に基づくものではなく、人間の自然的本性である社会性に基づく、と理解すべきであろう。」pp.112-113

 人間性の本質が、仮に否定を通じた「自己言及」にあるとして、そしてそれが外部を導入するまでもなく論理必然的に「無限」なるものを発生させるとして、さらに理性を超えたその「無限」なるものに人が直面した時、確かにそれは「神」としか呼びようのない何者かであるような気はしないでもない。あるいはヘーゲルが精神現象学で追究した何者かでもよい。しかし実は、「この文章は間違っている」という自己言及的な命題を真か偽か判定しようとしたときに生じる、ある種の「オーバーフロー」に似た何かなのかもしれないが、それを仮に「無限」と呼べるとしても、果たして「神」と呼んでいいのかどうか。

稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』講談社現代新書、2019年

【要約と感想】金子晴勇『アウグスティヌスの知恵』

【要約】アウグスティヌスの膨大な著作全体に目配りした上で、重要なキーワードを含む記述を引用して、専門的な知見から解説を加えています。アウグスティヌスの思想を全体的に概括できる構成になっています。

【感想】多くのアウグスティヌス概説書は、おおむね『告白』と『神の国』に依拠してアウグスティヌスの経歴と思想を説明している。それが悪いというわけではないし、分かった気にも一応なれるのだが、なんとなく食い足りないと感じた時にとても良い本のような感じがする。膨大なアウグスティヌスの著作の中から、専門研究が蓄積してきた知見を踏まえて重要な記述を抜粋し、周辺情報も加えて解説してくれている。著作全体に直接当たるつもりはないけれども『告白』『神の国』以外の本に何が書いてあるかをさっくり仕入れておきたい向きは重宝するでしょう。まあ最終的には、本書を入口にして、著作そのものに触れる必要が出てくるのでしょう。

【個人的な研究に関する備忘録】
 三位一体と「ペルソナ」に関する言質を得た。

「「したがって、御父であることと御子であることは異なるが、しかも実体が異なるのではない。なぜなら、御父といい、御子という表現は実体によって言われるのではなく、関係によって言われるからである。しかも、この関係は可変的ではないがゆえに、付帯性ではない」(同V.5.6)。したがって神の三位格「父」「子」「聖霊」が相互に「関係的」に述べられるのは、それぞれのペルソナに固有の意味で属している特性を意味するものである。それゆえ「ペルソナ」は「関係」を意味する
 ところで、このペルソナの理解はそれまでは明確でなかった。元来は役者が付けた「仮面」の意味や「役割」や「人物」を意味していた言葉であるが、ペルソナ(persona)は対話する者の間に相互に言葉が「響き渡る」(per sonare)ことを意味する。そこでアウグスティヌスはペルソナを三位の間の関係を示すものとして使用した。それを示したのが上記の引用文である。それ以来ペルソナは中世を通してキリスト教神学においては「関係」概念として用いられるようになった。だが近代に入ると、ルネサンスの影響から人間的な尊厳を表わす概念として「人格」の意味をもつようになった。」pp.47-48

 個人的に関心を持っている課題について、知りたいことがかなり簡潔に述べられている。「ペルソナ」という言葉が古代から近代的な「人格」の意味で用いられていたと考えている研究も多いところだが、本書では「古代中世のペルソナ」と「近代の人格」を異なる概念として理解している。私も常々そうだと思っており、個人的には極めて都合の良い記述となっている。その主張に説得力を持たせるために必要なのが、アウグスティヌスの言うペルソナが「関係」という観点から使用されているというところ、とても勉強になった。やはり『三位一体』という著作には直接当たらなくてはならない。

 また、「個体発生が系統発生を繰り返す」という発想について、アウグスティヌスが『真の宗教』で言及していることもメモしておく。

「全人類はアダムから現世の終末まであたかも一人の人間の生涯のようなものであって、神の摂理の法則の下に導かれて二つの種類に分かれて現われる。」p.94

 このテーゼは『神の国』でも繰り返し現れているところである。正しいか間違っているかは別として、「個体発生が系統発生を繰り返す」という発想がどこから何に由来して生じてきているのか考えるために重要な証言だ。

金子晴勇『アウグスティヌスの知恵』知泉書院、2012年

【要約と感想】S.A.クーパー『はじめてのアウグスティヌス』

【要約】アウグスティヌスの生涯について、『告白』の摘要紹介と、それに対して最新の研究を踏まえたコメントを加えることで、分かりやすく解説しています。

【感想】『告白』という本は、アウグスティヌスが修辞学の高度な専門家だったことからか極めて凝った言い回しが多く、また文脈に即した聖書からの引用が頻繁にあったりして、文体に慣れていないと何が言いたいかよく分からなかったりする。本書は、そういう修辞学的に凝った部分をスパッと切り落として『告白』という本の概要を分かりやすく再構成している上に、最新の研究成果を踏まえて多角的な視点から解説を加えている。『告白』の原典そのものに挫折した方も、こちらなら読めるかもしれない。アウグスティヌスの伝記的知識を一通り押さえておきたい向きにはお勧めの本になる。
 が、アウグスティヌスの他の著作(たとえば主著『神の国』)や『告白』の後半部に関する言及はそれほど厚くないので、思想の全貌を大掴みしたい場合は、他の概説書も併せて見ておくのがよいかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】
 「一」に関するコメントがあった。

「アウグスティヌスは、人間についての深い理解をもたらしている。自己は、徹底して社会的なものだとはいえ、個人は、神との関係のうちに、肯定的であれ否定的であれ、取り返しのつかない仕方で巻き込まれるのである。その内的な空間、その主観性において、人間の自己は、自らが経験を構成する時間の一瞬一瞬のうちにばらばらにされているのを見出している。それゆえに、私たちは決して完全ではないという感覚につきまとわれているのだ。実際、人間の自己はそれ自体としては不完全である。そして、そこに神が入ってくる――いやむしろ、神は常にそこにいる。なぜなら、そのようにして神は「存在する」のであり、いつもそうなのだ。自身の一体性を欠いている人間の自己は、神の一体性から見たときにのみ、その一体性を見出すことができる。そして、神の一体性――アウグスティヌスが、自らの回心と司教としての生活のうちに発見した――は、人間的な形で人間存在に手に入れることが可能になる。はじめは、キリストにおいて、つぎは教会においてである。というのも、教会は、キリスト教的な実存の社会的な「内在」であり、私たちの救いを実現するための空間なのだから。」pp.300-301

 個人的な感想を言えば、大雑把にはそうだろうとしても、雑なところが多い見解のようには思う。本当にこれでいいのかどうか。まあ察するに、著者としても詳しく見解を述べようとすればいくらでも言いたいことがあるところで、単に入門書に簡潔にまとめようときにこういう表現に縮減せざるをえなかったということだろうけれど。

S.A.クーパー『はじめてのアウグスティヌス』上村直樹訳、教文館、2012年

【要約と感想】宮谷宣史『人と思想 アウグスティヌス』

【要約】アウグスティヌスの生涯と思想を、「愛」というキーワードを中心に解説しています。類書と異なる本書の特徴は、著作の全体像について目配せが効いているところ、その後のヨーロッパへの影響と日本における研究史が簡潔にまとめられているところになります。

【感想】著者の誠実な研究姿勢が行間から滲み出ているような感じがして、味わいながら読める良い本だった。アウグスティヌスのキャッチフレーズが「愛の思想家」だということは知識としては知っていても、それが具体的にどういうことかは、愛に溢れる著述に実際に触れないと、本当のところは分からないものかもしれない。個人的には、彼の言う「愛」がどういうものか、その一端を垣間見たような気がしたのだった。世界が「愛」で成り立っていることを心の底から信じられたら、それは確かに掛け値なく「幸福」と呼んでいいものだろう。少なくとも「金」とか「力」で世界が成立していると思っているよりは、ずっと。

【今後の研究のための備忘録】
 教育に関して見逃すことのできない記述があった。

「若い教会の指導者から、初心者を教え導く時に、どのようにしたらいいか、何が大切か、という質問を受けたアウグスティヌスは、自分の考えをまとめて書いて、『教えの手ほどき』(400年)という本の形にしてそれを返事として送った。この文書のなかで、彼は教育において、指導するさいに、大切なのは、愛である、と繰り返し述べている。つまり、話す場合も、聞く場合も、愛が基本で、また愛が人を養い育てることを確信していた。」p.126

 文庫本の形で簡単に手に入る代表的著作『告白』と『神の国』は読了したものの、その他の膨大な著作に目を通す時間は確保できないなと思っていたが。この『教えの手ほどき』は読んでおかないとまずいような気がする。確かに教育で一番大切なものは「愛」ですよ。

宮谷宣史『人と思想 アウグスティヌス』清水書院、2013年

【要約と感想】アウグスティヌス『神の国』

【要約】「地の国」と「神の国」があります。アッシリアやローマなど人間が自分の知恵と才覚で治めていると思い込んでいるのが「地の国」で、一方、三位一体の神を信じて帰依する人々が集うのが「神の国」です。「地の国」は最後には滅び、「神の国」には真の浄福が訪れます。
 それを証明するために、間違った考えを持つ人々を次々と全方位に論破します。まずはローマ市民が信仰する多神教、続いてストア派やエピクロス派や新アカデミア派などの哲学者たち、さらに一番てごわい新プラトン主義、イエスをキリストと認めようとしないユダヤ教、そしてカトリックの教義に逆らう異端者たちをことごとく論破します。
 主な論点は、多神教の非合理性、ダエモン論、自由意志/因果論、天使論/悪の由来、幸福論、イエスの神性と受肉/三位一体の認否、旧約聖書の象徴的解釈、新約聖書のカトリック的解釈などなどです。

【感想】「地の国/神の国」と二項対立を設定し、あらゆるものや事象を二項対立の観点から迷いなくズバズバ切り分けることで、極めて分かりやすい論理構成になっている。何の迷いもなく確信を持って言い切ったら説得力が生じるという典型的な論理のように読んだ。
 ただし、ある論理が無謬であることをその論理の内部から証明することは論理的に不可能であり、したがって論理全体の整合性を内的に担保するためには必ず何らかの「特異点=物語」を必要とするし、無謬であることを証明するためには必ず「外部」を請求することとなる。本書は「特異点」を「聖書の無謬性」、「外部」を「復活の奇跡」として設定している。この2つの物語・設定に対して「ちゃんちゃらおかしい」と思う立場からは、本書全体が荒唐無稽なタワゴトにしか見えなくなる。実際、カトリック信者以外には、荒唐無稽だろう。たとえば仮に同じキリスト教徒であっても、プロテスタントから見たら、ちゃんちゃらおかしい(特に旧約聖書の象徴解釈)のではないだろうか。アウグスティヌスを扱った概説書をいくつか読んでみたが、この荒唐無稽な部分は、例外なく完全に無視されている。無視するしかないのも、分からないではない。しかしこの「バカバカしい子供じみた奇跡を信じる」という「特異点」がなければアウグスティヌスの思想体系そのものが成立しないことは、肝に銘じておかなければいけないと思う。その大事な要点に正面から突っ込まず、合理的に容認できるところだけ都合良く掬い取ってくるような研究というものは、あまり意味がないようにも思うのだ。(まあいちおう、17世紀の人文主義者モンテーニュがアウグスティヌスの語る奇跡を荒唐無稽に見えると断じた上で、しかしそれを単純に否定し去るのは人間の側の無知と傲慢に過ぎず、いったい誰がアウグスティヌスより鋭敏な精神を持っているかを考慮して軽はずみな真偽の判断は保留するべきだと言っていることにも触れておこう。『エセ―』第1巻第27章。)

 とはいえ、荒唐無稽だからといって読む価値がないかというと、即座にそう邪険にする必要もない。論理の整合性を保つために「特異点」を必要とするのは特に本書に限った話ではない。逆に「特異点」さえ客観的に特定して押さえておけば、あるいは特異点を特定するようなメタ的な視点を伴えば、本書の論理体系=世界観に呑み込まれることなく、楽しく読みこなすことができるというものだ。そう思って読めば、本書全体を貫く敬虔で誠実な姿勢は、たとえば実質的には著者が伝えたいだろう「霊」の概念を確かに漲らせていて圧倒的な迫力がある。すごい。本書全体に漲る「霊」の概念に対しては、個々のエピソードが荒唐無稽かどうかに関わらず、ある種の尊敬の念と畏怖の感情が湧いてくる。これがアウグスティヌス個人の「人格」の力というものだろう。「何を言っているかではなく、誰が言っているかが重要だ」ということをまざまざと見せつけるような本なのかもしれない。こんな凄い人が言っているのだから信じてもいいかな、と思わせるような。そしてそれは本書最大の特異点とも響き合う。「何を信じるかではなく、聖書が言うことを信じる」という。で、いったんこうなると、もはや外部が存在しない絶対無謬の無敵論理になって、二度と論破されなくなるわけだ。

 また一方たとえば、著者の知的な批判精神は形式的にであれ当時の哲学全般に対する確かで鋭い批判となっている。的確に相手の痛い要点を突いてくる哲学批判に対しては、謙虚に耳を傾ける価値がある。おもしろい。
 具体的には、キケローのストア派的な論理やエピクロスの快楽論、さらには新プラトン主義の論理をばったばったと斬りまくる。自由意志と運命論の関係、時間論等については、近代以降にカントがアウグスティヌスの立論をおさらいするような形で再論することになるだろう。さらに新アカデミア派の懐疑論に対する反駁は、あたかも近世デカルトの「我思うが故に我あり」を先取りしたような論理だ。というかデカルトのほうがアウグスティヌスをパクったのだろう。
 哲学批判に当たっては、「神の国/地の国」の二項対立が極めて有効に働く。特に論理の焦点となるのは「幸福論」の位置付けに思える。ギリシア・ローマの諸哲学は、一方で理念として「神の国」を仰ぎながら、幸福論の次元においては「地の国」に足を着けたままでいる。だから著者は、その引き裂かれた矛盾を突いていくだけでよい。そういう意味ではむしろ唯物論(デモクリトスやエピクロス)に対する切れ味はかなり鈍い。無神論に対しては批判のとっかかりがまるでない、というところではある。著者もそれは十分に自覚しているようで、本書では意図的に無神論者を相手にしていないように見える。逆にいちばんカトリックの立場に近い新プラトン主義者を説き伏せることには、極めて多大なエネルギーを割いている。
 こういう著者にかかれば、ローマの多神教のバカバカしさは、本当にバカバカしく見えてくる。多神教をバカにする論理はそのままそっくり日本の八百万神にも当てはまってしまうのが悲しいところではあるのだった。

 しかしそうなると最大の問題になるのは、「神の国」と「地の国」を橋渡しする「中間=メディア」の扱いになる。もし仮に「神の国」と「地の国」が完全な二項対立で、お互いに重なるところがまったくないのであれば、お互いに干渉することが不可能なのだから、そもそも議論する意味が前提から崩れる。だから二項対立図式を維持したままで、それでも相互に干渉することを可能にするためには、「中間=メディア」が絶対に必要になる。哲学史的には、ソクラテスがこの中間物を「エロス」に比定した(饗宴)ことは有名で、プラトンや新プラトン主義もその考えを基本的に引き継ぐ(というか饗宴に描かれたソクラテスの考えはプラトンの創作である可能性が高い)。しかしアウグスティヌスは、これを徹底的に批判する。なぜなら、カトリックにとって「神の国」と「地の国」を繋ぐものが「イエス・キリストの受肉の奇跡」に他ならず、ここが信仰の最大の特異点だからだ。絶対に譲るわけにはいかない。だからアウグスティヌスは中間物としての「ダエモン」を徹底的に、完膚なきまでに批判する(ダエモンとは、ソクラテスが言うところのエロスにあたる)。現代の我々の目から見れば、なんでそんなに熱心にダエモンを批判しなければいけないのか、まったく理解しがたい。しかしカトリックにとっては、この論点こそが天王山なのだ。「受肉という奇跡」を受け容れられるかどうか(そしてそれはユダヤ教とキリスト教を鋭く峻別する決定的なポイントにもなる)。現代の我々はともすると一笑に付してしまう話ではあるのだが、先入観を排除してよくよく考えてみると、この「受肉」という概念は極めて奥が深い。カトリックの教義に帰依するかどうかは別として、一生懸命に向きあってみる価値はあるように思うのであった。

【今後の個人的な研究に関するメモ】
 さすがに「ペルソナ」や「三位一体」に関する言及が豊富な本だった。納得するかどうかはともかく、カトリックの公式見解として味わっておきたい。

「このばあい、神ご自身のペルソナが、もちろんご自身の実体によってではなく――神の実体は死すべき者の視覚にはつねに見られないままであり続ける――、創造者の下に服する被造物を媒体とする確実なしるしによって明らかとなったのであった。」10-15

「したがって、わたしたちが神について語るばあい、二つの、または三つの神々を語ることがわたしたちにはゆるされていないように、いま述べられたような仕方で、わたしたちは二つの、または三つの始原を語るわけではない。わたしたちもそれぞれについて、すなわち、御父について、御子について、聖霊について語るとき、それぞれが神であるということを認めているのであるけれども、だからといって、サベリウスの異端説のように、御父が御子と同じであり、聖霊が御父および御子と同じである、とはいわない。わたしたちは、御父は御子の父であり、御子は御父の子であり、聖霊は御父と御子の霊であるが御父でも御子でもない、というのである。」10-24

「それというのは、単純な善から生れたものはそれと同じように単純であり、それがそこから生れたところのものと同じであるからである。この両者を、わたしたちは父と子とよぶのであり、そしてこの両者は、その霊とともに一なる神である。この父と子の霊は、聖書において、その名のいわば固有の意味で聖霊とよばれる。」11-10
「それゆえ、本質的に、真に神的であるとところのものが単純であるといわれるのは、それらのものにおいて、性質と実体とが別のものではなく、またそれらのものが、それら自身以外のものにあずかることによって、神的であったり、賢明であったり、至福であったりするのでもないからである。なるほど、聖書において、知恵の霊は、それ自身のうちに多くのものをもつゆえに多といわれているが、しかし、聖霊は、それがもつところのものであるとともに、一なるものとして、そのもつところのものすべてである。すなわち、多くの知恵があるのではなく、一なる知恵があるのであって、そのうちに、可知的なものの、いわば無限のしかも知恵の霊にとっては有限な宝があり、そしてそれらの可知的なもののうちに、その知恵を通じてつくられた可視的で可変的であるもののすべての不可視的で不変的な観念があるのである。」10-11

「それゆえ、各々の被造物について、だれがそれをつくったか、なにによってつくったか、なにゆえつくったかと問われるとき、わたしがさきにあげた三つの答え、すなわち、「神が、みことばによって、善なるがゆえにつくった」という答えに立ち帰ってみるのに、神秘的な深い意味において、三位一体――父と子と聖霊――自体がわたしたちに暗示されているのか、それとも聖書のこの箇所において、そのように解することを妨げるなにかが起こるのか、それは簡単に論じ去れない問題であり、また一巻によってすべてをせつめいすることを要求されてはならない。」11-23

「わたしたちはこう信じ、こう確立し、こう忠実に述べ伝える。父はみことばをお生みになった。みことばというのは万物がそれによってつくられた知恵であり、独り子である。一なる父が一なる子を、永遠なる父が等しく永遠なる子を、最高の善なる父が善なる子を生みだされたのである。そして聖霊は、父の霊であると同時に子の霊であり、聖霊は父と子とも実体を同じくし、それに等しく永遠である。この全体は、それぞれの位格の特殊性のゆえに三位でありながら、分かたれない神性のゆえに一なる神であり、それと同じように分かたれない全能性のゆえに一なる全能なものである。しかしそれにもかかわらず、その一々についてたずねてみても、その各々が神であり、全能と答えられるのであり、他方、そのすべてについていっしょに考えてみると、三なる神があるとか、三なる全能なものがあるとは答えられはしないで、一なる全能な神があるとこたえられるのである。このばあい、三なるものにそれほどまでに分かたれない統一性があり、そしてこの統一性がそのように述べ伝えられることを要求したのである。さて、善なる父と子との聖霊は、父と子との両者に共通であるゆえに、父と子との両方の善性とよばれて正しいかどうか、わたしは軽率な判断を早急に下すことをさし控えるが、しかしそれにもかかわらず、聖霊は両者の聖性である――といっても両者の性質であるのではなく、聖霊もまた実体であり、三位一体における第三の位格である――となら、いうことをはばからないであろう。わたしがこのような考えを抱くようになるのは、おそらく、父も霊であり、子も霊であり、また父も聖であり、子も聖であるが、それにもかかわらず、第三の位格は、実体的なしかも両者と実体を同じくする聖霊として、本来の意味において聖霊とよばれるからであろう。」11-24

わたしたちは、わたしたち自身のうちに神の像を、すなわち、かの最高の三位一体の像を認める。その像は、神と等しくはなく、いや、神とははなはだしく異なり、遠くかけはなれ、神と等しく永遠ではなく、一言でいえば、神と実体をおなじくはしないけれども、それにもかかわらず、神によってつくられたもののうち、それよりも本性上、神に近いものはなにもないのである。そしてその像は、なおその上に、神に似てもっとも近くなるように、なおつくりかえられて完成されるべきである。すなわち、わたしたちは存在し、わたしたちが存在するということを知り、わたしたちがこの存在し、知るということを愛するのである。」11-26

 そして「人間の完成」に関して、有機体理論が随所に示されていることもメモしておきたい。そしてその論理自体は聖書そのものに示されていることも記憶しておきたい。

「一つのからだには多くの肢体があるが、すべての肢体が同じはたらきをしていないように、わたしたちも数多いが、キリストにおける一つのからだであって、おのおのはたがいに肢体であるからである。そしてわたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもっているのである」。これこそが、「数多いが、キリストにおける一つのからだ」であるキリスト者たちの犠牲なのである。」10-6←「ローマ人への手紙」12の3-6

「他方、他の者たちが「天に属する人」と名づけられるのは、かれらが恩寵をとおしてキリストの肢体となって、キリストがかれらと共に、あたかも頭と身体のごとくにひとつとなられるからである。」13-23、3-241

「だからして使徒パウロは、「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といっているのである。」17-5←「コリント人への第一の手紙」10-27

「というのは、正しい比によって調整された多様な音色の和合というものは、調和のとれた多様性のうちに共に融合されて、よく秩序づけられた国の一性を暗示しているからである。」17-14

「それからこの地上で四十日間弟子たちと共にすごされ、かれらの注視のうちに天にのぼられて、その十日後に約束しておられた聖霊をおくられたのであった。当時、信じていた者たちへの聖霊の到来についての最大の、そしてもっとも重要なしるしは、かれらのだれもがあらゆる民族の言語で語ったということである。そのようにして、カトリック教会の一性がすべての民のうちに存在するであろうこと、そして、そこからしてすべての言語で語るであろうこと表示しているのである。」18-49

「ここで、全き人とは何を意味するかをわたしたちは知るのである。すなわち、かしらと身体とが一つになり、そして、それらは然るべき時に完成されるであろう。肢体は日々にこの身体に加えられ、教会が建てられるのである。この教会については、「あなたがたはキリストのからだでり、ひとりびとりはその肢体である」といわれ、また、他の箇所では、「教会であるかれのからだのために」といわれ、さらに他の箇所では「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といわれている。そして、身体を建てることについて、ここではこういわれている。「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」。それからわたしたちが引用したことばが加えられて、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致とかれを知る知識の一致とに到達し、全き人となり、キリストの満ちみちた年の大いさにまで至る」云々、といわれている。ここにいわれている大いさと身体について、いかに理解すべきであるか、かれは説明している。すなわち、「万事において成長し、かしらなるキリストに達するのである。かれによって全身が結ばれ、すべての節々の助けにより組み合わされ、それぞれの部分は分に応じてはたらき」といっているのである。
それゆえ、それぞれの部分に大いさがあるように、そのすべての部分から成る身体全体にも「キリストの満ちみちた年の大いさ」といわれている満ちみちた大いさがあるのである。この完成については、使徒はキリストについて述べた他の箇所でもいっている。「そして神はかれ(キリスト)を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」。」22-18←「コリント人への第一の手紙」12-27、「コロサイ人への手紙」1-24、「コリント人への第一の手紙」10-17、「エペソ人への手紙」1-22、「詩編」112-1

「そこでは、劣った者がすぐれた者をうらやみ、天使たちが大天使たちをうらやむことはない。だれも受けなかったものを受けようとはおもわないが、すでに受けた人とはかたい絆で結ばれているのである。ちょうど、身体においても、指は目になろうとはのぞまないがごとくである。それぞれが全身の肢体において結ばれて、調和のある結び付きのうちに包含されているからである。したがって、人が他の人より少ししか賜物を受けていないとしても、それ以上はのぞまないという賜物もまた受けているのである。」22-30

 まあ、エヴァンゲリオン「人類補完計画」とか、あるいは『地球幼年期の終わり』や『ブラッド・ミュージック』に描かれているように、個々人の境界線が融解して一つの有機体になったときが「人間の完成」というイメージである。この「完成」というイメージが、はたして教育基本法第一条の「人格の完成」にどこまで投映されているか。

 またあるいは、近代の民族国家(nation-state)は、国家を文字通り「身体」として表現してきた。特にドイツ国家学(あるいは官房学)は、国家を「君主を頭部、国民を肢体」というように、露骨に身体になぞらえて描写してきた。日本にはシュタイン等を介してもちこまれ、「国家有機体説」として影響力を持った。さてところが一方、本書では、アッシリアやローマなど「地の国」はそもそも「国家」としての体をなしておらず、それに対して本当に「国家」と呼ぶにふさわしいのは「神の国」だけだと言うのだが、その根拠こそがまさに上に引用した「キリストを頭部、教会を肢体」という有機体イメージであった。論理構成そのものは、近代の国家学とまったく変わりがない。さらにそこにアウグスティヌスが言う「神は命の命」などという言辞を組み合わせると、19世紀の「生命主義」の思想とも考え方がオーバーラップしてくる。そう考えていくと、民族国家(nation-state)の実質的な誕生は確かにフランス革命以後19世紀初頭あたりであるとしても、実は必要な素材は既にアウグスティヌスの段階で揃っていたようにも見えてきてしまうわけだ。ドイツ国家学者は、アウグスティヌスの論理そのものを換骨奪胎して、「神の国」の構成を「地の国」に当てはめた、ということかもしれない。あるいは中世においてはそれらの資源をカトリック教会が独占していたが、宗教改革以降に各種素材が俗世国家へと払下げされて馴致された、ということなのかもしれない。

 さて、そしておそらく著者自身が本当にいいたいことではないだろうけれども、するっと当時の教育の様子が分かるようなエピソードを書いているのもメモしておきたい。

「愚かさと無知そのものが小さからざる罰である。それを避けるために、子どもたちが苦痛にみちた罰によって技能や学問を学ぶことは当然であると考えられているほどである。それに付随する罰は苦痛にみちたものであるので、かれらによっては、しばしば学ぶことよりも、むしろ学ぶことをかれらに強制するところの罰を甘受したいと思うほどである。
もしも死を堪え忍ぶか、ふたたび幼児になるか、という選択に直面するなら、身震いして恐れ、死を選ばない者がだれかいるであろうか。じっさい、幼児は笑いと共にではなく涙と共にこの世の生をはじめるのであって、このことはある意味で、どんな悪に出会わねばならないかを無意識のうちに予告しているのである。」21-14、5-309

「じっさい、小さい子どもたちに、その愚かさを抑えるためにわたしたちが用いるさまざまな恐怖は何であろうか。教育、教師、棒、皮ひも、枝むち、その他すべての強制手段は、聖書が教えるように愛する子の横腹を打って、かれらが粗暴なまま成長するのを抑えるためであり、また、強情を張って教育をまったく受けつけない、あるいは、ほとんど受けつけない、といったことをなくすためである、
これらの罰はすべて、わたしたちがその悪を伴ってやって来た無知をとり除き、邪悪な欲望を抑制するためでなければ何であろうか。わたしたちは、想起するためには労苦をもってするが、忘れるためには労苦はなく、学ぶためには労苦をもってするが、無知でいるためには労苦はなく、活動的であるためには労苦をもってするが、怠惰でいるためには労苦はない、というのは、どういうことであろうか。ここからして、わたしたちの損なわれた自然本性が、いわば自分の重みにしたがって傾いて落ちていくのは何に向かっているのか、そして、そこから解放されるためにはどれほどの助けが必要であるか、が明らかとなるのではないであろうか。怠惰、無気力、怠慢、無関心、――これらはたしかに労苦を逃れようとする悪徳である。労苦は、わたしたちにとって有益であるときでさえ、それ自身は罰だからである。
しかし、年長者は、罰なしにみずから欲するところのことを少年に教えられないとしても――年長者が欲するところのことは少年の益になることはほとんどないのであるが――、それ以外にも、人類はどれほど多くの、そしてどれほどきびしい罰によって苦しまされていることであろうか。」22-22

 アウグスティヌスによって教育や学校とは、本質的に「罰」なのであった。おそらくその考え方は西洋中世を通じて変わらないのだろう。

アウグスティヌス『神の国(一)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(二)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(三)』服部英次郎訳、岩波書店、1983年
アウグスティヌス『神の国(四)』服部英次郎訳、岩波書店、1986年
アウグスティヌス『神の国(五)』服部英次郎訳、岩波書店、1991年