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【要約と感想】アウグスティヌス『神の国』

【要約】「地の国」と「神の国」があります。アッシリアやローマなど人間が自分の知恵と才覚で治めていると思い込んでいるのが「地の国」で、一方、三位一体の神を信じて帰依する人々が集うのが「神の国」です。「地の国」は最後には滅び、「神の国」には真の浄福が訪れます。
 それを証明するために、間違った考えを持つ人々を次々と全方位に論破します。まずはローマ市民が信仰する多神教、続いてストア派やエピクロス派や新アカデミア派などの哲学者たち、さらに一番てごわい新プラトン主義、イエスをキリストと認めようとしないユダヤ教、そしてカトリックの教義に逆らう異端者たちをことごとく論破します。
 主な論点は、多神教の非合理性、ダエモン論、自由意志/因果論、天使論/悪の由来、幸福論、イエスの神性と受肉/三位一体の認否、旧約聖書の象徴的解釈、新約聖書のカトリック的解釈などなどです。

【感想】「地の国/神の国」と二項対立を設定し、あらゆるものや事象を二項対立の観点から迷いなくズバズバ切り分けることで、極めて分かりやすい論理構成になっている。何の迷いもなく確信を持って言い切ったら説得力が生じるという典型的な論理のように読んだ。
 ただし、ある論理が無謬であることをその論理の内部から証明することは論理的に不可能であり、したがって論理全体の整合性を内的に担保するためには必ず何らかの「特異点=物語」を必要とするし、無謬であることを証明するためには必ず「外部」を請求することとなる。本書は「特異点」を「聖書の無謬性」、「外部」を「復活の奇跡」として設定している。この2つの物語・設定に対して「ちゃんちゃらおかしい」と思う立場からは、本書全体が荒唐無稽なタワゴトにしか見えなくなる。実際、カトリック信者以外には、荒唐無稽だろう。たとえば仮に同じキリスト教徒であっても、プロテスタントから見たら、ちゃんちゃらおかしい(特に旧約聖書の象徴解釈)のではないだろうか。アウグスティヌスを扱った概説書をいくつか読んでみたが、この荒唐無稽な部分は、例外なく完全に無視されている。無視するしかないのも、分からないではない。しかしこの「バカバカしい子供じみた奇跡を信じる」という「特異点」がなければアウグスティヌスの思想体系そのものが成立しないことは、肝に銘じておかなければいけないと思う。その大事な要点に正面から突っ込まず、合理的に容認できるところだけ都合良く掬い取ってくるような研究というものは、あまり意味がないようにも思うのだ。

 とはいえ、荒唐無稽だからといって読む価値がないかというと、即座にそう邪険にする必要もない。論理の整合性を保つために「特異点」を必要とするのは特に本書に限った話ではない。逆に「特異点」さえ客観的に特定して押さえておけば、あるいは特異点を特定するようなメタ的な視点を伴えば、本書の論理体系=世界観に呑み込まれることなく、楽しく読みこなすことができるというものだ。そう思って読めば、本書全体を貫く敬虔で誠実な姿勢は、たとえば実質的には著者が伝えたいだろう「霊」の概念を確かに漲らせていて圧倒的な迫力がある。すごい。本書全体に漲る「霊」の概念に対しては、個々のエピソードが荒唐無稽かどうかに関わらず、ある種の尊敬の念と畏怖の感情が湧いてくる。これがアウグスティヌス個人の「人格」の力というものだろう。「何を言っているかではなく、誰が言っているかが重要だ」ということをまざまざと見せつけるような本なのかもしれない。こんな凄い人が言っているのだから信じてもいいかな、と思わせるような。そしてそれは本書最大の特異点とも響き合う。「何を信じるかではなく、聖書が言うことを信じる」という。で、いったんこうなると、もはや外部が存在しない絶対無謬の無敵論理になって、二度と論破されなくなるわけだ。

 また一方たとえば、著者の知的な批判精神は形式的にであれ当時の哲学全般に対する確かで鋭い批判となっている。的確に相手の痛い要点を突いてくる哲学批判に対しては、謙虚に耳を傾ける価値がある。おもしろい。
 具体的には、キケローのストア派的な論理やエピクロスの快楽論、さらには新プラトン主義の論理をばったばったと斬りまくる。自由意志と運命論の関係、時間論等については、近代以降にカントがアウグスティヌスの立論をおさらいするような形で再論することになるだろう。さらに新アカデミア派の懐疑論に対する反駁は、あたかも近世デカルトの「我思うが故に我あり」を先取りしたような論理だ。というかデカルトのほうがアウグスティヌスをパクったのだろう。
 哲学批判に当たっては、「神の国/地の国」の二項対立が極めて有効に働く。特に論理の焦点となるのは「幸福論」の位置付けに思える。ギリシア・ローマの諸哲学は、一方で理念として「神の国」を仰ぎながら、幸福論の次元においては「地の国」に足を着けたままでいる。だから著者は、その引き裂かれた矛盾を突いていくだけでよい。そういう意味ではむしろ唯物論(デモクリトスやエピクロス)に対する切れ味はかなり鈍い。無神論に対しては批判のとっかかりがまるでない、というところではある。著者もそれは十分に自覚しているようで、本書では意図的に無神論者を相手にしていないように見える。逆にいちばんカトリックの立場に近い新プラトン主義者を説き伏せることには、極めて多大なエネルギーを割いている。
 こういう著者にかかれば、ローマの多神教のバカバカしさは、本当にバカバカしく見えてくる。多神教をバカにする論理はそのままそっくり日本の八百万神にも当てはまってしまうのが悲しいところではあるのだった。

 しかしそうなると最大の問題になるのは、「神の国」と「地の国」を橋渡しする「中間=メディア」の扱いになる。もし仮に「神の国」と「地の国」が完全な二項対立で、お互いに重なるところがまったくないのであれば、お互いに干渉することが不可能なのだから、そもそも議論する意味が前提から崩れる。だから二項対立図式を維持したままで、それでも相互に干渉することを可能にするためには、「中間=メディア」が絶対に必要になる。哲学史的には、ソクラテスがこの中間物を「エロス」に比定した(饗宴)ことは有名で、プラトンや新プラトン主義もその考えを基本的に引き継ぐ(というか饗宴に描かれたソクラテスの考えはプラトンの創作である可能性が高い)。しかしアウグスティヌスは、これを徹底的に批判する。なぜなら、カトリックにとって「神の国」と「地の国」を繋ぐものが「イエス・キリストの受肉の奇跡」に他ならず、ここが信仰の最大の特異点だからだ。絶対に譲るわけにはいかない。だからアウグスティヌスは中間物としての「ダエモン」を徹底的に、完膚なきまでに批判する(ダエモンとは、ソクラテスが言うところのエロスにあたる)。現代の我々の目から見れば、なんでそんなに熱心にダエモンを批判しなければいけないのか、まったく理解しがたい。しかしカトリックにとっては、この論点こそが天王山なのだ。「受肉という奇跡」を受け容れられるかどうか(そしてそれはユダヤ教とキリスト教を鋭く峻別する決定的なポイントにもなる)。現代の我々はともすると一笑に付してしまう話ではあるのだが、先入観を排除してよくよく考えてみると、この「受肉」という概念は極めて奥が深い。カトリックの教義に帰依するかどうかは別として、一生懸命に向きあってみる価値はあるように思うのであった。

【今後の個人的な研究に関するメモ】
 さすがに「ペルソナ」や「三位一体」に関する言及が豊富な本だった。納得するかどうかはともかく、カトリックの公式見解として味わっておきたい。

「このばあい、神ご自身のペルソナが、もちろんご自身の実体によってではなく――神の実体は死すべき者の視覚にはつねに見られないままであり続ける――、創造者の下に服する被造物を媒体とする確実なしるしによって明らかとなったのであった。」10-15

「したがって、わたしたちが神について語るばあい、二つの、または三つの神々を語ることがわたしたちにはゆるされていないように、いま述べられたような仕方で、わたしたちは二つの、または三つの始原を語るわけではない。わたしたちもそれぞれについて、すなわち、御父について、御子について、聖霊について語るとき、それぞれが神であるということを認めているのであるけれども、だからといって、サベリウスの異端説のように、御父が御子と同じであり、聖霊が御父および御子と同じである、とはいわない。わたしたちは、御父は御子の父であり、御子は御父の子であり、聖霊は御父と御子の霊であるが御父でも御子でもない、というのである。」10-24

「それというのは、単純な善から生れたものはそれと同じように単純であり、それがそこから生れたところのものと同じであるからである。この両者を、わたしたちは父と子とよぶのであり、そしてこの両者は、その霊とともに一なる神である。この父と子の霊は、聖書において、その名のいわば固有の意味で聖霊とよばれる。」11-10
「それゆえ、本質的に、真に神的であるとところのものが単純であるといわれるのは、それらのものにおいて、性質と実体とが別のものではなく、またそれらのものが、それら自身以外のものにあずかることによって、神的であったり、賢明であったり、至福であったりするのでもないからである。なるほど、聖書において、知恵の霊は、それ自身のうちに多くのものをもつゆえに多といわれているが、しかし、聖霊は、それがもつところのものであるとともに、一なるものとして、そのもつところのものすべてである。すなわち、多くの知恵があるのではなく、一なる知恵があるのであって、そのうちに、可知的なものの、いわば無限のしかも知恵の霊にとっては有限な宝があり、そしてそれらの可知的なもののうちに、その知恵を通じてつくられた可視的で可変的であるもののすべての不可視的で不変的な観念があるのである。」10-11

「それゆえ、各々の被造物について、だれがそれをつくったか、なにによってつくったか、なにゆえつくったかと問われるとき、わたしがさきにあげた三つの答え、すなわち、「神が、みことばによって、善なるがゆえにつくった」という答えに立ち帰ってみるのに、神秘的な深い意味において、三位一体――父と子と聖霊――自体がわたしたちに暗示されているのか、それとも聖書のこの箇所において、そのように解することを妨げるなにかが起こるのか、それは簡単に論じ去れない問題であり、また一巻によってすべてをせつめいすることを要求されてはならない。」11-23

「わたしたちはこう信じ、こう確立し、こう忠実に述べ伝える。父はみことばをお生みになった。みことばというのは万物がそれによってつくられた知恵であり、独り子である。一なる父が一なる子を、永遠なる父が等しく永遠なる子を、最高の善なる父が善なる子を生みだされたのである。そして聖霊は、父の霊であると同時に子の霊であり、聖霊は父と子とも実体を同じくし、それに等しく永遠である。この全体は、それぞれの位格の特殊性のゆえに三位でありながら、分かたれない神性のゆえに一なる神であり、それと同じように分かたれない全能性のゆえに一なる全能なものである。しかしそれにもかかわらず、その一々についてたずねてみても、その各々が神であり、全能と答えられるのであり、他方、そのすべてについていっしょに考えてみると、三なる神があるとか、三なる全能なものがあるとは答えられはしないで、一なる全能な神があるとこたえられるのである。このばあい、三なるものにそれほどまでに分かたれない統一性があり、そしてこの統一性がそのように述べ伝えられることを要求したのである。さて、善なる父と子との聖霊は、父と子との両者に共通であるゆえに、父と子との両方の善性とよばれて正しいかどうか、わたしは軽率な判断を早急に下すことをさし控えるが、しかしそれにもかかわらず、聖霊は両者の聖性である――といっても両者の性質であるのではなく、聖霊もまた実体であり、三位一体における第三の位格である――となら、いうことをはばからないであろう。わたしがこのような考えを抱くようになるのは、おそらく、父も霊であり、子も霊であり、また父も聖であり、子も聖であるが、それにもかかわらず、第三の位格は、実体的なしかも両者と実体を同じくする聖霊として、本来の意味において聖霊とよばれるからであろう。」11-24

わたしたちは、わたしたち自身のうちに神の像を、すなわち、かの最高の三位一体の像を認める。その像は、神と等しくはなく、いや、神とははなはだしく異なり、遠くかけはなれ、神と等しく永遠ではなく、一言でいえば、神と実体をおなじくはしないけれども、それにもかかわらず、神によってつくられたもののうち、それよりも本性上、神に近いものはなにもないのである。そしてその像は、なおその上に、神に似てもっとも近くなるように、なおつくりかえられて完成されるべきである。すなわち、わたしたちは存在し、わたしたちが存在するということを知り、わたしたちがこの存在し、知るということを愛するのである。」11-26

 そして「人間の完成」に関して、有機体理論が随所に示されていることもメモしておきたい。そしてその論理自体は聖書そのものに示されていることも記憶しておきたい。

「一つのからだには多くの肢体があるが、すべての肢体が同じはたらきをしていないように、わたしたちも数多いが、キリストにおける一つのからだであって、おのおのはたがいに肢体であるからである。そしてわたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもっているのである」。これこそが、「数多いが、キリストにおける一つのからだ」であるキリスト者たちの犠牲なのである。」10-6←「ローマ人への手紙」12の3-6

「他方、他の者たちが「天に属する人」と名づけられるのは、かれらが恩寵をとおしてキリストの肢体となって、キリストがかれらと共に、あたかも頭と身体のごとくにひとつとなられるからである。」13-23、3-241

「だからして使徒パウロは、「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といっているのである。」17-5←「コリント人への第一の手紙」10-27

「というのは、正しい比によって調整された多様な音色の和合というものは、調和のとれた多様性のうちに共に融合されて、よく秩序づけられた国の一性を暗示しているからである。」17-14

「それからこの地上で四十日間弟子たちと共にすごされ、かれらの注視のうちに天にのぼられて、その十日後に約束しておられた聖霊をおくられたのであった。当時、信じていた者たちへの聖霊の到来についての最大の、そしてもっとも重要なしるしは、かれらのだれもがあらゆる民族の言語で語ったということである。そのようにして、カトリック教会の一性がすべての民のうちに存在するであろうこと、そして、そこからしてすべての言語で語るであろうこと表示しているのである。」18-49

「ここで、全き人とは何を意味するかをわたしたちは知るのである。すなわち、かしらと身体とが一つになり、そして、それらは然るべき時に完成されるであろう。肢体は日々にこの身体に加えられ、教会が建てられるのである。この教会については、「あなたがたはキリストのからだでり、ひとりびとりはその肢体である」といわれ、また、他の箇所では、「教会であるかれのからだのために」といわれ、さらに他の箇所では「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といわれている。そして、身体を建てることについて、ここではこういわれている。「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」。それからわたしたちが引用したことばが加えられて、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致とかれを知る知識の一致とに到達し、全き人となり、キリストの満ちみちた年の大いさにまで至る」云々、といわれている。ここにいわれている大いさと身体について、いかに理解すべきであるか、かれは説明している。すなわち、「万事において成長し、かしらなるキリストに達するのである。かれによって全身が結ばれ、すべての節々の助けにより組み合わされ、それぞれの部分は分に応じてはたらき」といっているのである。
それゆえ、それぞれの部分に大いさがあるように、そのすべての部分から成る身体全体にも「キリストの満ちみちた年の大いさ」といわれている満ちみちた大いさがあるのである。この完成については、使徒はキリストについて述べた他の箇所でもいっている。「そして神はかれ(キリスト)を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」。」22-18←「コリント人への第一の手紙」12-27、「コロサイ人への手紙」1-24、「コリント人への第一の手紙」10-17、「エペソ人への手紙」1-22、「詩編」112-1

「そこでは、劣った者がすぐれた者をうらやみ、天使たちが大天使たちをうらやむことはない。だれも受けなかったものを受けようとはおもわないが、すでに受けた人とはかたい絆で結ばれているのである。ちょうど、身体においても、指は目になろうとはのぞまないがごとくである。それぞれが全身の肢体において結ばれて、調和のある結び付きのうちに包含されているからである。したがって、人が他の人より少ししか賜物を受けていないとしても、それ以上はのぞまないという賜物もまた受けているのである。」22-30

 まあ、エヴァンゲリオン「人類補完計画」とか、あるいは『地球幼年期の終わり』や『ブラッド・ミュージック』に描かれているように、個々人の境界線が融解して一つの有機体になったときが「人間の完成」というイメージである。この「完成」というイメージが、はたして教育基本法第一条の「人格の完成」にどこまで投映されているか。

 またあるいは、近代の民族国家(nation-state)は、国家を文字通り「身体」として表現してきた。特にドイツ国家学(あるいは官房学)は、国家を「君主を頭部、国民を肢体」というように、露骨に身体になぞらえて描写してきた。日本にはシュタイン等を介してもちこまれ、「国家有機体説」として影響力を持った。さてところが一方、本書では、アッシリアやローマなど「地の国」はそもそも「国家」としての体をなしておらず、それに対して本当に「国家」と呼ぶにふさわしいのは「神の国」だけだと言うのだが、その根拠こそがまさに上に引用した「キリストを頭部、教会を肢体」という有機体イメージであった。論理構成そのものは、近代の国家学とまったく変わりがない。さらにそこにアウグスティヌスが言う「神は命の命」などという言辞を組み合わせると、19世紀の「生命主義」の思想とも考え方がオーバーラップしてくる。そう考えていくと、民族国家(nation-state)の実質的な誕生は確かにフランス革命以後19世紀初頭あたりであるとしても、実は必要な素材は既にアウグスティヌスの段階で揃っていたようにも見えてきてしまうわけだ。ドイツ国家学者は、アウグスティヌスの論理そのものを換骨奪胎して、「神の国」の構成を「地の国」に当てはめた、ということかもしれない。あるいは中世においてはそれらの資源をカトリック教会が独占していたが、宗教改革以降に各種素材が俗世国家へと払下げされて馴致された、ということなのかもしれない。

 さて、そしておそらく著者自身が本当にいいたいことではないだろうけれども、するっと当時の教育の様子が分かるようなエピソードを書いているのもメモしておきたい。

「愚かさと無知そのものが小さからざる罰である。それを避けるために、子どもたちが苦痛にみちた罰によって技能や学問を学ぶことは当然であると考えられているほどである。それに付随する罰は苦痛にみちたものであるので、かれらによっては、しばしば学ぶことよりも、むしろ学ぶことをかれらに強制するところの罰を甘受したいと思うほどである。
もしも死を堪え忍ぶか、ふたたび幼児になるか、という選択に直面するなら、身震いして恐れ、死を選ばない者がだれかいるであろうか。じっさい、幼児は笑いと共にではなく涙と共にこの世の生をはじめるのであって、このことはある意味で、どんな悪に出会わねばならないかを無意識のうちに予告しているのである。」21-14、5-309

「じっさい、小さい子どもたちに、その愚かさを抑えるためにわたしたちが用いるさまざまな恐怖は何であろうか。教育、教師、棒、皮ひも、枝むち、その他すべての強制手段は、聖書が教えるように愛する子の横腹を打って、かれらが粗暴なまま成長するのを抑えるためであり、また、強情を張って教育をまったく受けつけない、あるいは、ほとんど受けつけない、といったことをなくすためである、
これらの罰はすべて、わたしたちがその悪を伴ってやって来た無知をとり除き、邪悪な欲望を抑制するためでなければ何であろうか。わたしたちは、想起するためには労苦をもってするが、忘れるためには労苦はなく、学ぶためには労苦をもってするが、無知でいるためには労苦はなく、活動的であるためには労苦をもってするが、怠惰でいるためには労苦はない、というのは、どういうことであろうか。ここからして、わたしたちの損なわれた自然本性が、いわば自分の重みにしたがって傾いて落ちていくのは何に向かっているのか、そして、そこから解放されるためにはどれほどの助けが必要であるか、が明らかとなるのではないであろうか。怠惰、無気力、怠慢、無関心、――これらはたしかに労苦を逃れようとする悪徳である。労苦は、わたしたちにとって有益であるときでさえ、それ自身は罰だからである。
しかし、年長者は、罰なしにみずから欲するところのことを少年に教えられないとしても――年長者が欲するところのことは少年の益になることはほとんどないのであるが――、それ以外にも、人類はどれほど多くの、そしてどれほどきびしい罰によって苦しまされていることであろうか。」22-22

 アウグスティヌスによって教育や学校とは、本質的に「罰」なのであった。おそらくその考え方は西洋中世を通じて変わらないのだろう。

アウグスティヌス『神の国(一)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(二)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(三)』服部英次郎訳、岩波書店、1983年
アウグスティヌス『神の国(四)』服部英次郎訳、岩波書店、1986年
アウグスティヌス『神の国(五)』服部英次郎訳、岩波書店、1991年

【要約と感想】聖アウグスティヌス『告白』

【要約】若い頃は名誉欲に駆られたり、乱暴な仲間たちと盗みを働いたり、軟弱文学やマニ教にはまったり、旧約聖書を荒唐無稽な与太話として馬鹿にしたり、性欲から抜け出せずにいたりしましたが、悩みに悩んだ末、様々な先人の助けを借りつつ、最終的には敬虔な母の願いどおり、キリスト者になりました。神様ありがとうございます。(第1巻~第9巻)
さらに、現在の私が如何様なものかを、認識の仕方、幸福の感じ方、情念に縛られる様を通じて示しますが、それが人間の在り方というものです。神様ありがとうございます。(第10巻)
そして聖書の理解について、時間論、天地論(空間論)、聖霊論(三位一体論)、生物論を通じて示します。神様ありがとうございます。(第11巻~第13巻)

【感想】かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーは「告白とは内面を作り出す制度」だというようなことを言った。まず内面があって次に「告白」という形の言表が行われるのではなく、まずは「告白」という制度に則った行動が行われて、それに伴って近代的内面が創出されるという洞察だ。フーコーは中世の教会における告解制度を想定してこう言ったわけだけど、本書読了後には、このような洞察をたちどころに想起する。本書に描かれているのは、まさに近代的内面であるように思われる。
とはいえ、著者アウグスティヌスが生きていたのは西洋古代最末期であって、我々が想定するような近代的自我がそのままの形で存在できるような社会経済史的条件は欠けている。我々が本書に近代的自我を読み取ってしまうのは、近代に生きる我々の側の思い入れに過ぎない可能性が高い。この違和感は、第11巻(岩波邦訳版では下巻)以降の展開に顕著に表れているのかもしれない。第10巻までは近代的感覚から見ても「告白」と呼ぶに相応しい内容に読めるが、第11巻以降の内容は「告白」という言葉のイメージからはかなり乖離している。しかし実はこの違和感バリバリの第11巻以降の行論こそ、まさに内面が創出される過程に立ち会うという経験を可能にしてくれるものなのかもしれない。

さて前半は、幼年期→少年期→青年期→壮年期の自伝的な記述となっている。言葉の獲得過程など、発達心理学的な洞察が各所で示されていたり、当時の学校の具体的な様子や学歴に関する事情が記されていて、教育学的にもたいへん興味深い。間違いなく第一級の史料だ。
また一方で、古代末期に新アカデミア派(懐疑主義)や新プラトン主義が大きな役割を果たしていたことが具体的によく分かる。マニ教も最終的には邪教ということになるが、実はこういう知的営為の一環を構成していたものとして理解できる。「自由意志と運命」とか「悪の由来」など、現代においても哲学上の問題として議論されるテーマをめぐって、1600年前にも様々な流派が鎬を削っていたのだ。最終的に西洋世界でキリスト教が説得力を持つのも、こういう古代末期の思想環境を踏まえて考える必要があるのだろう。
とはいえ一番おもしろく読めるのは、性欲に対する葛藤に関する記述かもしれない。それは、時代も地域も遠く離れた我が国の親鸞のエピソードを思い起こさせる。親鸞が性欲に対する葛藤に正面から立ち向かったところである種の悟りを得たのと同じく、アウグスティヌスもこの葛藤の克服過程を通じてある種の悟りを得ている。この性欲というやつは、自分以外の誰かに対しては表面的な糊塗によって誤魔化しがきくものだが、こと自分自身に対しては、自分自身の身体が自分の意志を裏切るという形で、しかも極めて厄介なことに寝ているときにも襲ってきたりして、まったく誤魔化しがきかないものだ。案外、近代的自我というやつが立ち上がってくるときには、この葛藤が重要な役割を果たしているのかもしれない。というか少なくとも親鸞とアウグスティヌスでは、そうだ。

【個人的な研究のためのメモ】
今後いろいろな場面で使えそうな示唆に溢れる文言が多く、おもしろい本だった。
まずキリスト教の「子ども観」について、疑いようもなく明瞭な言質を与えてくれる。

【子ども観】
「だれがわたしに幼年期の罪を思い起こさせるのであるか。何人も、あなたのみ前で、罪なく清らかであるものはないのであって、地上に生きること一日の幼児でさえも清くはないからである。」第1巻第7章11

これが「原罪」というものだ。いま私たちが想起する「子どもは純真で清らか」というイメージは、キリスト教が力を失っていく近代以降に創出されたものだ。
また、幼児の世話についても言質を得た。

【幼児の世話】
「幼児はかなり大きくなった少女の背中に負われるのがつねであった」第9巻第8章17

日本でも高度経済成長期頃までは、幼児の世話をするのは少女の役割だった。大人が野良仕事に精を出している間、乳幼児の世話をするのは10歳前後の少女、いわゆる「子守」だった。これは日本だけの事情ではなく、どうやら世界共通で見られる現象のようだ。
そして当時の学校の様子が、生々しく記録されている。

【学校の様子・体罰】
「神よ、わたしの神よ、わたしがこの世で成功して、人間の名誉と虚偽の富をうるのに役たつのみである弁論の術に秀でるために、教師に対する服従が少年時代のわたしに生活の規範として示されたとき、わたしは人生の荒波だつ社会にどんな悲惨と嘲弄をなめたことだろう。それからわたしは学問を学ぶために、学校へおくられたが、それが何の役に立つかはあわれなわれわれの知らぬところであった。しかも学習をなまけると、笞で打たれた。年長の人びとはこういうことをも是認していた。」第1巻第9章14

「しかもわたしたちは書くことも読むことも考えることも、教師たちから命ぜられていたようにせずに罪をおかした。主よ、じっさいわたしたちは、記憶力も知能もなかったわけではなく、わたしたちはそれらの能力をあなたの望みどおりにわれわれの年齢のわりに十分もっていた。しかし、わたしたちは、遊ぶことに熱中して、われわれと同じようなことをしている人によって罰せられた。年長者のいたずらは「つとめ」といわれたのに、少年たちが同じことをすればかれらによって罰せられ、少年たちをあわれむひとも、年長者をあわれむひとも、まして両者をあわれむひともいない。」第1巻第9章15

学習を怠けると体罰を受けるというのは、前近代の日本では見られない現象だったように思う。西洋世界が体罰を躊躇しなかった理由について、キリスト教の「原罪観」が槍玉に挙がることがしばしばあるが、アウグスティヌスの報告によれば、キリスト教に影響を受けるまでもなく、もともとローマ世界に体罰上等の文化が広がっていたことが分かる。
また、言語を学ぶことについて言及している部分で、学ぶ際には強制されるよりも自由に任せるほうが効果的だと指摘している。

【強制と自由】
「しかしわたしの少年時代は青年時代ほど心配されはしなかったが、わたしは学問を好まず、それを強制されることを嫌っていた。それにもかかわらずわたしは、強制された。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしに強制的に学ばせていたことがらを、ゆたかな窮乏と不名誉な欲望を満たすことにすぎないということに気付いていなかった。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしはギリシア語を少しも知らなかったので、それを覚えるために残酷な脅迫と懲罰をもって激しく責め立てられた。」第1巻第14章23
「言語を学ぶには恐ろしい強制よりも自由な好奇心のほうが有力であることはまったく明らかである。」第1巻第14章23

そしてアウグスティヌス自身は、言葉は「教える人」からはまったく学ばず、「語り合う人びとから覚えた」(第1巻第14章23)と言っている。現代日本でも、しばしば英語教育に関して同じことを主張する人がいる。

さすが古代最大の神学者と呼ばれるだけあって、「一性」や「同一性」や「三位一体」に関する言及が、本書の中にも極めて多く現れる。

【一性・同一性】
一なる者であられる方よ、あなたからすべての尺度は起こるのであり、もっとも美しい者であられる方よ、あなたはすべてのものを美しく形成し、あなたの法をもってすべてのものを統べられるのである。」第1巻第7章12
「しかしあなたは物体ではなく、また物体の生命である魂でもない。この物体の生命は物体そのものよりもすぐれて、いっそう確実である。あなたは、魂の生命であり、生命の生命であり、わたしの魂の生命よ、あなたは生命そのものでありながら、しかもけっして変化することがない。」第3章第6章10
「侵されないものは侵されるものよりも尊く、変化しないものは変化するものにまさると考えたのである。」第7巻第1章1
「それからわたしは、あなたの下にあるものを眺めて、それがまったく存在するのでもなく、またまったく存在しないのでもないということを知った。それらはあなたによって存在するのであるから、たしかに存在するが、あなたが存在するような存在ではないから、けっして実在しない。変化することなく、常住するもののみが真実に存在するのである。」第7巻第11章17
「わたしはあなたが存在すること、無限でありながらしかも有限の空間にも、無限の空間にもひろがらないこと、あなたが真に存在し、つねに同一であってどの関係においても、またどの運動によっても変化しないこと、しかしあなた以外のものは、それが存在するというもっとも確実な証拠から見ても、あなたによって創造されたものであるということを確信していた。」第7巻第20章26←プラトン派の書物の影響
「また、見るものがつねに同一であるあなたを眺めるようにすすめられるばかりでなく、」第7巻第21章27
「あなたはつねに同一であって、けっして移り変わることがない。つねに同一の仕方で存在しないものをも、あなたはつねに同一の仕方で知っておられるからである。」第8巻第3章6←「詩編」101の28
「しかしあなたのあわれみは、生命にまさるのであるから、どうであろう、わたしの生命は分散なのである。しかしあなたの右手はわたしをわたしの主において、すなわち一なるあなたと多なる――多によって多となれる――わたしたちとの間の仲保者である人の子において、支えられたのであるが、それはわたしがかれによってわたしがすでに捉えられたものにおいて捉え、わたしの以前の行状から呼び戻されて、一なるものを追い求めるようになされたのである。」第11巻第29章39
「つぎのような被造物でさえもあなたと等しく永遠であるのではないと語られた。この被造物というのは、ただあなたのみがそれによって喜びであり、永久不変の貞節を守って、あなたをそれ自身のうちに吸収し、いついかなるところにおいても、それ自身の変易性を示すことなく、それにむかってつねに現存されるあなたに衷心からよりすがり、それが期待する未来をもつこともなく、それが記憶するものを過去に移しいれることもなく、どんな変化によっても変わることなく、どんな時間にも分散しないのである。」「もしこのようなものがあるなら、それは他のものに移るという背反の心なしにただ一途にあなたの喜びのみを観照するものであり、聖なる霊的存在の、すなわちわたしたちの見る天の上の天にあるあなたの国の市民たちの平和の紐帯によってまったく一心に結ばれたただ一つの純粋な知性である。」第12巻第11章12

一性の考え方そのものは、キリスト教に傾倒する以前、新プラトン主義(プロティノス・プロクロス)の書物から学んでいるようだ。新プラトン主義の「一性」とキリスト教の一神教教義が親和的であることは自明ではあるにせよ、どうして結果的に親和的となったかについてはいろいろなストーリーが考えられそうだ。
そしてこの「一性」に対する理解を踏まえて、「三位一体」について独特の考え方を示している。

【三位一体】【眼鏡っ娘論に使える】
「さて、わたしの挙げる三者というのは、存在と認識と意志である。じっさい、わたしは存在し、認識し、意志する。わたしは認識し、意志しながら存在し、わたしが存在して意志することを認識し、存在して認識することを意志するのである。それゆえ、この三者において、生命が、いや、一つの生命、一つの精神、一つの本質がどれほど不可分的であるかを、またその区分がどれほど不可分的でありながら、しかもなお区分であるかを、自己に注視し、それを認めて、わたしに語るがよい。しかし、それらのうちにある手懸かりとなるものを見いだして、それを語るとき、それらのものの上にある不変的なもの、すなわち不変的に存在し、不変的に認識し、不変的に意志するものを見いだしたと考えてはならない。この三者のゆえに、その上にあるものにも三位一体が存するのであるか、あるいいは三位の各々にこの三者が存して、三者が三位の各々に属するのであるか、あるいはまた、不可思議な仕方で、単純でしかも複雑に、同時にそのいずれでもあって、三位一体においてはそれ自身がそれの制限をなしながら、しかも無限であり、そのような仕方によってそれは存在し、それ自身に認識せられ、その統一性の豊富な広大性によって不変的に同一なものとして、それ自身充ち足りているのであるか、だれがそれを容易に考えようか。」第十三巻第十二章12

人間の認識を超えたものを記述しようと努力すると、こういう言い回しに落ち着くということかもしれない。とはいえ、まずはアウグスティヌスの公式見解として、三位一体が「存在/認識/意志」の可分と不可分として議論されていることは、重要な基本知識として押さえておきたいところだ。この三位一体の公式は、眼鏡っ娘論で言えば、「娘/眼鏡/っ」に当たる。神秘である。

聖アウグスティヌス『告白(上)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年
聖アウグスティヌス『告白(下)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年

【要約と感想】八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』

【要約】カトリックの正統思想である三位一体で使用された「ペルソナ」という言葉が、中世ストア哲学によって鍛え上げられて「個」と「普遍」の関係性が厳密に考察され、それがさらにキリスト教の本質である「恩恵」と結びついて、理性の二つの働きのうち「個への気づき」が打ち出されることで、近代的な「人権」という考え方に開かれていきました。
 それとは別に、ソクラテスの「無知の知」とは、本質的には愚直であることです。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 日本での「人格」概念の定着課程を探っている私としては、知りたいことがそのまま書いてあった本だったわけだけど、私のシロウト予想とぴったり合いすぎていて、むしろ警戒感を持ってしまう。本当はしっかり論証しなければいけないところで、安易な類推が滑り込んでいないか。

 「ペルソナ」に至る経緯を私なりまとめておくと。
(1)キリスト教の正統教義(カトリック)では、「三位一体」が絶対に譲れない一線である。
(2)しかし、実際には「父/子/聖霊」が区別されていることを、どうやって説明するのか。
(3)神の本性は一つではあるが、顕れ方には複数あるということにすればよい。
(4)本性は一つであるから、それ以外の適当な言葉をもってきて、顕れ方に複数あることを表現しよう。
(5)「仮面」を意味する「ペルソナ」という言葉は、神の本性が一つであっても場面場面で仮面を付け替えて顕れるように見えるということで、都合が良さそうだ。
(6)さしあたって「ペルソナ」という言葉の中身は真剣に考えなくてもいいから、まずは複数であることを表現する言葉を作ってしまおう。
(7)ところが中世になると、哲学的議論が深まってしまったせいで、何の考えもなしにつけてしまった「ペルソナ」という言葉についても真剣に考えなければならなくなった。
(8)「ペルソナ」という言葉を突き詰めて考えると、その性格は「理性」と「個」にある。
(9)「理性」とは、ことばで以て認識する主体のことである。「個」とは、それぞれ共有不能な孤立体であることである。
(10)つまり、他から独立して理性を働かせる主体が「ペルソナ」である。

 まあ、中世哲学の原典テキストを読まなくても「三位一体」について知っていれば想像できるストーリーな気はする。しかし中世哲学の専門家がテキストを踏まえて主張しているわけで、信用してもいいのか。
 とはいえ、ここから近代的な人格概念に至るまでには、もう一歩の飛躍が必要な気もする。個人的にはホッブズが重要な役割を果たしているような予感がしているわけだが。あと個人的には「人格」概念の中核を構成する「個」概念については、新プラトン主義の言う「一」が極めて重要な役割を果たしている気がしないでもないのだが、本書では言及されていない。

 ちなみに最近では、「人格=personality」という古来からの言葉に手垢がつきすぎてむしろ何も表現できないことが多くなったためなのだろう、従来は「personality」という言葉で言い表してきたであろう概念を「agency」という言葉で表現する機会が増えてきているように思う。agencyは「代理人」という意味を持つ。そういう意味では、父や子なる神の地上代理人としての「教会」を言い表す上でもなかなか適切な言い回しあって、カトリック三位一体思想とも相性が良さそうに感じるのだが、如何だろうか。

【感想】ソクラテスの「無知の知」についての解釈は、通説とはまるで違っていて、「ナルホドそういう考えもあるのね」という感じ。
 しかしこういうテキストへの接し方の態度は、カトリックに対抗する聖書原理主義に似ている気もする。カトリックが主張するところでは、聖書の読み方についてカトリックは気が遠くなるほど長い時間をかけて解釈を積み重ねてきて、その解釈を経由しないで聖書を読んでも内容は理解できない。だから聖書の研究をしていない一般人が聖書を読んでもあまり意味はなく、特別に訓練を受けた神父の説教が重要な意義を持つ。しかし聖書原理主義者は、虚心坦懐に聖書を読めば、神の言葉なのだから理解できないはずはないと考える。だから神父など必要がない。
 同様に古代のテキストについても、先人たちが積み重ねてきた解釈を踏まえて理解すべきか、それとも先行研究を一切無視して自分の感性だけを信じるのか。どちらが素直なのかは、なかなか判断が難しいように思うのであった。

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』春秋社、2019年

【要約と感想】青野太潮『パウロ―十字架の使徒』

【要約】キリスト教はパウロの思想を土台として成り立っています。その思想の根幹は、現在のキリスト教の常識(イエスの贖罪と復活)ではなく、十字架にかけられたままの弱々しい人間イエスを信じるところにあります。というのは、イエスの「贖罪」はユダヤ教の律法と供犠を前提とした発想であって、キリスト教の本質とは無関係ですし、復活の奇跡ような「強い」イエス像に依拠することはむしろ人間の罪(傲慢)を増幅するだけだからです。パウロが本当に伝えたいのは、人間の「弱さ」に謙虚に向き合って自覚するところに本当の強さがあるということです。

【感想】キリスト教の本質的な思想に関して私が知識として理解していたところ(贖罪と復活)を、本書は徹底的に否定してきた。とてもおもしろかった。まさに目から鱗が落ちた(この表現もパウロの故事に由来するそうだ)。
ポイントは、「贖罪」に関する常識的な理解(イエスが人間の原罪を一身に背負って身代わりになってくれた)が、キリスト教の本質とは全く無関係のユダヤ教的伝統に由来するという理解だ。本当は破棄しなければならないはずの「律法」に依拠している上に、ユダヤ教伝統の「供犠=身代わり」による祓いに堕しているところが決定的な誤りということらしい。なるほど。
ちなみに「復活」に関しては、私はかねてからそんな奇跡に頼るまでもなくキリスト教は成立するだろうと思っていたわけだが、本書はその立場を補強してくれたような気はする。「復活の奇跡」を信じるか信じないかこそがキリスト教の本質だと主張する人々は極めて多く(現在も昔の偉人たちも)、私個人としては「?」となるしかないわけだが、だから逆に人間イエスを強調して神性を重んじない本書の論理は、よく理解できる。

しかしまあ、人間の弱さに徹底的に向き合いつつ、自力救済への努力を度しがたい傲慢さの表れと見なし、人は「信」のみによって救われるという思想は、本当に親鸞(悪人正機説と他力本願)にそっくりだと、改めて思うのであった。そこに普遍性を持つ何かを感じざるを得ない。
あるいは現代的な関心として。いまは「弱さ」を徹底的に悪として排除する傾向が強まりつつあるように見える。たとえば生活保護にしろ、少年法に関する議論にしろ、「自己責任」に関する主張の数々にせよ、「弱さ」ゆえに転落した人々に寄り添って歩むどころかさらに冷たく叩き落とし、自己努力と自己救済だけを声高に叫ぶ優勝劣敗の論理がまかり通っている。話題になった東大での上野千鶴子のスピーチは、フェミニズム的な文脈のみで理解するような視野狭窄な人々も散見されるところではあるが、本質的には「弱さの必然性/強さの偶然性」を謙虚に直視するパウロ=親鸞的な観点から理解されるべきものであるように思う。その論点がまるで理解されないところに、現代の恐ろしさの一端があるように思うのだった。

【個人的な研究のためのメモ】
いやしかし、あからさまには言っているわけではないものの、明確に「三位一体説はデタラメ」というメッセージを発しているのは、印象深い。(ちなみに174頁では三位一体説のフィクション性について直接触れている)。まあ「贖罪」を明確に否定した上で「復活」を婉曲的に否定し、「人間イエス」を強調するわけだから、論理必然的に三位一体説を採用することなどできないわけだが。すると結局、古代のグノーシス派だったりマニ教だったりと同じように、旧約聖書(さらにはユダヤ教)の扱いや、新約聖書の正典(カノン)の範囲が問題となる。パウロ原理主義に依拠する場合、本書でもマルキオンの名前が挙がったわけだが、当然ながら旧約聖書や新約聖書の一部福音書は論理必然的に排除されるべきものという理屈となる。その理屈は少し前に読んだ加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』の主張とほぼ重なってくる。
アウグスティヌスが解決したはずの異端問題が現代の精密な書誌学的知見を伴いながら復活してきているのは、キリスト教信者ではない私から見れば正直言って単に知的関心の対象でしかないわけだが、キリスト教内部から見た場合はどういう景色になるのだろうか。特に本書はグノーシス主義のような新発見の資料を用いたわけではなく、新約聖書に収められたパウロの手紙という誰もが否定できないカノンを用いながらカトリックの教義を土台から崩すような論理を展開しているわけで、いやはや、かなり大変なことを言っているのではないだろうか。実際、amazonレビュー等では怒り狂っておられる方々が本書に呪詛の言葉の数々をぶつけているのだった。さもありなん。

青野太潮『パウロ―十字架の使徒』岩波新書、2016年

【要約と感想】出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』

【要約】4世紀末から5世紀初頭のローマ帝国末期に活躍したキリスト教の教父アウグスティヌスについて、生涯を辿りながら、その思想の展開と特徴について要点を簡潔に紹介しています。
思想については、青少年期の放蕩やマニ教への傾倒など伝記的な事実を踏まえつつ、新プラトン主義や敬虔なキリスト教信者であった母親の影響等によって形成されていく様子が描かれています。特に立ち向かったテーマは、「自由意志」や「悪の原因」さらに「三位一体」というような、マニ教やペラギウス派など異端との対決で焦点となる概念です。
これらの課題への取り組みを通じて一貫しているのは、人間の「心」を深く見つめる姿勢です。

【感想】他の著書でマニ教について知識を得ていたので、その知識を踏まえて改めてアウグスティヌスの生涯に触れてみると、「自由意思」と「悪の由来」と「三位一体」がまさに不可分な問題であることが分かる。カトリックの「三位一体」の教義は、マニ教とかアリウス派などの<異端>の思想と比較して初めて意味を理解できるような気がする。まあ、「三位一体」に対するそういう理性的な理解の仕方は、アウグスティヌスの推奨するところではないんだろうけれども。
また新プラトン主義の影響など、アウグスティヌスの思想は<普遍的>なものというよりは、その時代の影響をそうとう明瞭に表わしているもののように思った。が、偉大な思想家が常にそうであるように、時代に固有の問題に真剣に取り組むことで普遍的な問題へ接続するということなんだろうなあと。

【この本は眼鏡論に使える】
アウグスティヌスを語るときに絶対に外せない「三位一体」について、当然本書も触れているわけだけれども。本書は、被造物である人間にも三位一体性が表れていると言う。

「たとえば、一つの視覚対象認識の成立においても、「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の三者は切っても切れない関係にあるなど、三一性は私たちの内にも存在する。それは、私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考えるのである。」141頁

この考察が人間の本質を捉えているかどうかは、さしあたって問題にしないし、私にその資格はない。私が関心を持つのは、もしも仮にこのようなレトリックが成立するのであれば、「眼鏡っ娘」こそが三一性の根本的な体現者であると言えるのではないかということだ。なぜなら、単に「眼鏡」と「娘」を合体させるだけでは単に「眼鏡をかけた女性」になるだけで、決して「眼鏡っ娘」は生じない。ここに何らかの意味での「霊」が宿ることで初めて単なる「眼鏡をかけた女性」ではなく「眼鏡っ娘」が生じるからだ。要するに、「眼鏡っ娘」とは、唯物的に「眼鏡+娘」と考えるだけでは生じ得ず、「眼鏡+娘+何らかの霊性」という三一性を承認して初めて認識できる何者かなのだ。
このような眼鏡っ娘認識は、新プラトン主義のプロティノス『善なるもの一なるもの』にも見られたものであった。キリスト教が言う三位一体の教義は、おそらく新プラトン主義の「一」に対する洞察とも共鳴するものであるし、そうであれば普遍的なものとしての「眼鏡っ娘」とも必然的に響き合うものとなる。つまりそれは、理性的に理解する対象ではなく、「信仰」によって飛躍する特異点である。
改めて「三位一体」に対する研究を深める必要を痛感するのだった。

出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』岩波新書、2018年