【要約と感想】稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』

【要約】「神とは何か」について、人間本性に植えつけられた理性(哲学)によって探究することができるし、する価値があるし、というか人間として探究するべき最も相応しいテーマです。が、残念ながら理性で辿り着けるのは「神とは何ではないか」までで、「神とは何か」は「信仰」によってのみ光が当たるところです。そして信仰の支えによって、理性はさらに先に進むことが可能で、それこそが神学という学問の真価が発揮されるところです。人間の理性は、神が最高度に「一」であり、さらに言えばペルソナ的に「三・一」であるという神秘の骨頂に到達することができます。その土台に立つことで、初めて人間の「尊厳」というものの本質を理解することが可能になります。

【感想】率直に言えば、読んでいてイライラした。中世哲学の碩学泰斗に対して私如き教育学の末席に引っかかってるだけの者が不遜ではあるのだが、そう思ってしまったから仕方がない。まあ、もちろんそれは私の側の主観的な問題であって、この本の問題ではない。
 さて、イライラした理由は明らかで、読者の私がまったく同意しないしできるわけがないしするつもりがない命題について「同意したものと前提」して話がどんどん進んでいって、置いてけぼり感が半端ないせいだ。なんとかついていくために、同意するつもりがないし同意などできない自分をいったん脇に置いて棚に上げて、「仮に同意したとしよう」と別の人格を自分の中に作って先を読み進めるのだが、そこでもさらに同意しないしできるわけがないしするつもりがない新たな命題が登場し、そこで私の人格はさらに分裂していってしまう。そうやって数多くの自分を棚に上げて、ようやく理解することが可能になる文章が延々と続くのだから、まあ、イライラする。(繰り返すが、イライラするのは私個人の主観的な問題であって、著書の問題ではない)

 とはいえ、いったん高所から俯瞰して、現代数学の「公理系」をイメージすれば、全体像は見えやすくなるような気はする。まずいくつかの「公理」を前提する。それらの公理は証明が不可能なのだが、それが公理というものだ。そしてその公理群のみを真理と仮定して、そこから論理必然的な演繹作業を繰り返していき、どこまで現実を説明できて、どこまで結論の射程距離が伸びるか、理性を働かせる。著者の言ういわゆる「信仰」に関わる公理をいったん真理と仮定すれば、確かに実り豊かな結論を導き出すことはできる。
 できるのだが、問題は前提とした「公理」が証明不可能である、というところである。そして、私には、その公理を受け容れることは不可能である。荒唐無稽だからだ。つまり、本書で示された実り豊かな結論は、私自身にとっては何の意味も持たないのであった。
 しかしまあ、私自身にとって意味がなくとも、世界中のどこかにそれに意味を見いだしている人間がいて、そういう「公理系」の宇宙に充実して生きている人々がいるということを知っていることそれ自体は、無意味ではないかもしれない。

 で、「公理系」であるから、実は別の「公理」を導入しても、同じ結論はいくらでも導き出せたりする。同じ結論に辿り着くために、公理にキリストを置く必要は、実は、特にない。公理は置き換え可能だ。たとえば「Q」という公理を容認することで、一気に世界全体の秩序が立ちあがってくる場合だって現実にあったわけだ。悲しいことに、それが理性の権能というものだ。いちど世界が整序されてしまったら、その前提にある「公理」を取り去ることは極端に困難になる。いったん「Q」という公理を容認してしまった人々は、仮にそれに反する事実をいくら突きつけたとしても、公理そのものを反省することはない。「公理」と「事実」では、理性における機能がまるで異なっているからだ。
 であれば、かつてキリスト教の公会議で争われたことは、理性で推し量ることが可能な論理ではなく、それ自体は証明不可能な「公理」の選択だ。具体的に、いわゆる三一論は、公理系の無矛盾性を担保するためには相当アクロバティックな跳躍を余儀なくされるものの、完全性を追究するためには敢えてその立場を選択するだけの価値はある、というもののようだ。神の「完全性」を演繹することが可能な公理系の構築を目指す場合、諸公理間の矛盾には目をつぶらざるを得ない。誰にでも分かってしまう公理間の矛盾については、「信仰」という名で呼ばれる「特異点」を設定して見ないふりを決め込み、やりすごすことになる。一方、いわゆる異端とされる公理系は、公理系の無矛盾性を優先するが故に、逆に完全性を犠牲にすることを厭わない形式のようだ。しかしもちろんこの公理系から神の「完全性」の概念を導き出すことはできない。
 となると、トマス・アクィナス『神学大全』は、公理系の無矛盾性と完全性の双方を極大化する解を探究しようと試みた仕事ということで、確かに理性を最大限に活用して初めて可能となるような大変な難事業だったのだろう。が、やはりどうしても公理同士の矛盾は、残らざるを得ない。だからこそ、最終的には矛盾を押し潰す論理としての「信仰=公理系の無謬性担保」が必要となる。まあ、お互いに矛盾する公理を許容していいのなら、キリスト教に限らず、完全性を実現することはさほど難しいことではない。

  またあるいは、キリスト教神学の公理系を支える根本原理は「自己言及」と「無限」なのだろう。たとえば「この文はウソである」という命題が与えられたとき、この命題そのものの真と偽を論理的に判定することは不可能だ。それでも敢えて論理的に判定しようとすると、「無限」の遡及に陥る。いわゆる「人間本性」に由来する「神」とは、否定的な自己言及による無限の展開に由来するものなのだろう。いわゆる「否定神学」を極度にまで推し進めたキリスト教神学が、「無限」を含み込んだ公理系を発展させたのは、いわれのないことではないのだろう。こういう「自己言及」による「無限」の論理的制御という観点からは、キリスト教神学のお手並みは実に見事なように見える。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 これほど「三位一体」について真正面から説明を試みている誠実な本は、なかなか他にないように思う。「ペルソナ」の使い方とも絡んで、とても勉強になった。

「そして、神における父・子・霊というペルソナの区別は、神自身が親しく神の「何であるか」について教え、示した啓示であるから、それはまさに神の「一」であることを、神の本質に即して教える啓示として受けとるべきものである。言いかえると、神の「一」なることに関する知的な探究は「三位一体なる神」という信仰の神秘に基づいてのみ、有効、確実な仕方で進めることが可能なのであり、われわれが次に試みるのはまさにそのことなのである。」p.150
「しかし私は神が「一」であることの解明に向けられた探究や考察は、「神は何であるか」という問いをめぐる知的探究全体の総括とも言えるほどの重要性をふくむものであり、「三位一体なる神」という信仰の神秘にあえて立ち入る価値は十分にあると考える。言うまでもなくそれは、「神は何であるか」と問うことが、知ることを自然本性とする人間にとって――まさにこの問いを適切かつ徹底的に問い、十分に満足すべき答えを発見することが人間本性そのものの完全な実現であり、真実の幸福に他ならないのであるから――すべての問いのなかにあって最も重要で中心的な問いであることを前提とした場合のことである。」p.151

「ベルナルドゥスが「三つのペルソナが一つの実体であるという三位一体の一性は、すべての直しい仕方で≪一≫と言われるもののうちで最高の一性である」と言明するのは、諸々の「一」と言われる事物を厳密かつ詳細に考察し、それらが「一」であるのは三・一なる神の最高の一性を何らかの仕方で分有することによってであることを確認したことに基づくものである。」p.160

「しかし、われわれは神が「一」なること、しかも最高度に「一」なることは「信仰のみによって」肯定される「三・一なる神」の「一」性、すなわち神は父・子・霊の三つのペルソナの交わりにおいて「一」であることに基づいて理解すべきことを学んだ。」p.165

 なるほど、である。「多と一」が同時成立する根拠を理解することは、確かに理性を超える。その成立根拠を「三と一」の「一性」に落とし込んでくるのは、ものすごい知恵だ。そしてそれを本書は「創造」の解釈にも結びつけて、「存在」という概念の根底に切り込んでいく。キリスト教神学、凄い。
 一方、穿った見方をすれば、キリスト教神学の公理系の中でもっとも矛盾が甚だしい公理こそが「三位一体」(および「受肉」)の神であって、どうしても公理系の無矛盾性を優先してしまいがちな「理性」を説得するためには、この難問を完全スルーするか、あるいは正面突破するかしなければ、これ以上先に進めない、ということではある。そして確かにこの公理さえ受け容れることができれば、キリスト教神学の全体系は無矛盾で完全なものとなる。そして著者によれば、それこそが真の「浄福」ということらしい。実際、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは真の幸福に辿り着いたのだろう。
 が、まあ、私個人は、公理系が無矛盾かつ完全であることに、そんなに魅力を感じないのだった。矛盾に満ちあふれて完全性にはほど遠い公理系を、それはそれとして楽しく生きようと思う。

 また一方、否定的な「自己言及」を通じた「無限」の発生に関する洞察が示された箇所も記憶しておきたい。ここでは「人格」という言葉に対する洞察も示されている。

「これとは反対に人間は自己を否定して、自己を超えて進むべき存在であるとの見通しに立って、自己の中に入り、自己へと立ち帰る立場に立った場合には、右に述べた自己中心主義は消滅する。この場合には真の意味の自己認識が成立するのであるが、それは自己が自己をそこにおいて認識すべき「場」を発見することであり、そのことによって自己が万物の中心であるという幻想は消滅し、同時に自己は単なる「点」ではなくなり、ある意味では(認識することを通じて存在するものすべてと合一することによって)「全体」となるのである。」p.74
自己が自己を認識すると言う場合、認識する自己と認識される自己は同一であるから空虚な同語反復のように思われるかもしれないが、じつは自己認識は高度の知性的認識の条件が満たされて初めて成立するのであり、それが右に触れた「自己が自己をそこにおいて認識すべき場を発見する」ということである。」pp.74-75

「つまりこの完全な自己帰還という自己認識の在り方が、そのまま、人間精神という実在は「自分自身において在る」(in se ipso est)という完全な在り方をする(感覚によって捉えられる諸々の物体的事物と較べてはるかに)高次の存在であることを示すのである。ただ単に不可分な個であるという意味で「在る」のではなく、精神は「自分自身において在る」ということは、当の存在が関係ないし交わりを含みつつ「」であることを示している。」p.112
「さきに私は近代思想の根本的前提とも言える個体主義について批判的な見解を述べたが、その理由の一つはここで指摘した、自己ないし人間精神という存在は関係・交わりを含む「一」性によって「一」なる存在だ、ということである。各々の人間精神あるいは人格は単に不可分で、他とは共有不可能という意味での「一」性あるいは「個体性」において存在しているのではない。むしろ人間精神あるいは人格は、それ自体が関係的・交わり的であり、対話的存在である。そして人格がこのような自らの関係的・交わり的存在の豊かさを他の人格と共有することを本性的に望むことが人間の社会性であり、人間的社会・共同体は決して社会契約のような人為的制度に基づくものではなく、人間の自然的本性である社会性に基づく、と理解すべきであろう。」pp.112-113

 人間性の本質が、仮に否定を通じた「自己言及」にあるとして、そしてそれが外部を導入するまでもなく論理必然的に「無限」なるものを発生させるとして、さらに理性を超えたその「無限」なるものに人が直面した時、確かにそれは「神」としか呼びようのない何者かであるような気はしないでもない。あるいはヘーゲルが精神現象学で追究した何者かでもよい。しかし実は、「この文章は間違っている」という自己言及的な命題を真か偽か判定しようとしたときに生じる、ある種の「オーバーフロー」に似た何かなのかもしれないが、それを仮に「無限」と呼べるとしても、果たして「神」と呼んでいいのかどうか。

稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』講談社現代新書、2019年