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【要約と感想】聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』

【要約】「有」と「本質」について、それぞれ何を意味するか、現実においてはどのように見いだされるか、論理学的にどのような関係にあるか等について、基本的に理解しておかなければ、後々ひどい誤りを犯すことになります。とういことで、アリストテレスの議論に沿って考えていくと、現実の「有」および「本質」について理解するためには、「形相/実質」とか「類/種差/種/個体」という概念の内容と関係を丁寧に把握しておく必要があります。そうすると、「有」と「本質」とは、それぞれ異なっています。
 ところで本当の問題は、「神」や「天使」や「魂」など、質量をもたない英知体の「有」と「本質」をどう考えるかで、これについてはアリストテレスの預かり知らないところでした。前半で明らかになった定義を踏まえて考えると、神の場合は「本質」こそが「有」であり、天使のような英知体の場合は「本質」と「有」は異なっているが質量を持たないために一つの種には一つの個体しか属さず、一般的な存在者については形相によっても質量によっても「本質」が変化するために一つの種のなかに様々な個体が生じることになります。
 こうやって考察を重ねることで、「有」と「本質」の意味や関係だけでなく、論理的普遍概念がどのように見いだされるかも明らかになりました。

【感想】本訳書の初版は1935年とクレジットされている。古い。ちなみに二二六事件の前年だ。故に漢字が舊字體のうえに、紙版もつぶれていて、読みにくいことこの上ない。旧字体を読むトレーニングを経た人でないと、とりつくことさえできないだろう。そんなときに、今はインターネットで現代語訳されたものを読むことができる。便利な時代になったものだ。
▼存在者と本質について(Wikisource)
 ちなみに本書が「有」と呼んでいる鍵概念は、現代語訳では「存在者」となっている。

 さて、そんなわけで90年近く前の翻訳で、というか原著そのものは800年近く前に書かれているわけだが、内容そのものは驚くほど古くなっていない、ように個人的には思う。それはおそらく人間の認識に関わる普遍的で本質的なテーマを扱っているからなのだろう。またあるいは現代西洋哲学を理解する上でも決定的に重要な鍵を握っている諸概念について根底から考えているからでもあるだろう。またあるいはトマスを批判するオッカムの思想(ひいては普遍論争)を理解する上でも、本書の見解は決定的な補助線となるはずだ。そしてそれはもちろん本書の底本となっているアリストテレス『形而上学』の射程距離が極めて長いということでもある。本書が扱っているテーマに関しては、底本のほうがより深く、広い視野で扱っているように、個人的には思う。本書の持ち味は、アリストテレスの論理をカトリックの教義へと発展的に接続したところにある。トマスの仕事が「アリストテレスに洗礼を施す」と言われいるとおりの内容のように思う。

 本書が示す重要な帰結はいろいろあるが、個人的に気になっているのは「有と本質は異なる(ただし神だけは除く)」という結論だ。これは日本語で一般化すると、「現実と現実性は異なる」とか「男性と男性性は異なる」とか「個と個性は異なる」ということ(前者が有あるいは存在者で後者が本質)で、文法的には「述語されるかどうか」が決定的に異なる。具体的には、「私は男性だ」とは言えるが「私は男性性だ」とは言えない、という違いになって現れる。これ自体はさほど難しくないように思えるものの、問題は「ただし神だけは除く」という結論だ。
 トマスによれば、神だけは「本質が有」であるために、有と本質は同じものだ。この論点がゆくゆくは神の存在証明等に結びついてくるところで、カトリック思想を論理的に理解しようと思ったら、まさにこの「神の本質は有」というテーゼにどう対峙するかが決定的なポイントになってくる。真剣に対応しようと思えば、もうどうしても「有」や「本質」という概念について本質的に考えざるを得ない。そのために本書は極めて大きな示唆を与えてくれる。
 ちなみにトマスのすぐ後に現れる神秘主義者エックハルトは「神と神性は異なる」と断言してしまっている。明らかにトマスとは異なる神観を示している。またその一方で、エックハルトと同時期に異端審問を受けるオッカムは、「本質」という概念そのものを否定し、さらに「本質」と「有」の区別はないとし、トマスの論理に真っ向から反対する。トマスの「有と本質の区別(ただし神以外)」に関する学説は、神秘主義者と現実主義者から挟み撃ちにされることになる。このあたりの中世スコラ学のダイナミックな展開は、「近代」に向けての胎動をどう考えるかにも関わってきて、なかなか大変なところである。

聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』高桑純夫訳、岩波文庫、1935年

【要約と感想】トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』

【要約】この本の目的は、立派な君主を教育することです。そのために聖書や先哲の議論から、具体的な事例が豊富に示されています。
 君主制は、先哲の議論と歴史の経験と論理的な理屈を踏まえれば、貴族制や民主制よりも優れた、最高の政治形態です。しかし君主制には僭主制へと堕落する弱点もありますので、民衆のほうは用心しておくのがよいでしょう。
 ところで人間の最高目的は神によって定められており、カトリック教会が指導しているので、君主もそれに従わなければなりません。君主の仕事の範囲は、俗界の指導に限られます。君主固有の仕事をまっとうするためには、政治的な力量ではなく、高潔な人格のほうが重要です。それこそがカトリックの指導に従ったあり方です。教会の言うことを守って立派な君主になりましょう。
 都市を建設したり維持したりするために気をつけるべき注意点も示しました。

【感想】本文よりも、訳注と解説のほうが長い、岩波文庫にしばしば見られるスタイルの、気合が入った本だった。解説に書いてあったことは、不勉強にも知らないことばかりで、とても勉強になった。
 本書はいわゆる「君主の鑑」とカテゴライズされる、カトリック教会の価値観に従って俗界君主を教育することを目的とした内容の本で、ヨーロッパ中世には類書がたくさんあったらしい。そして直ちに想起されるように、マキアベッリ『君主論』が暗に批判するようなキレイゴトの記述に満ちている。逆に言えば、マキアベッリが政治のキレイゴトを粉砕するまでは、「君主の鑑」のようなあり方のほうが常識的だったということでもある。
 また直ちに想起されるのは、東洋の君主論(貞観政要や資治通鑑など)との類似だ。論語の精神である徳治主義(修己治人)や「天」への畏敬の念とトマスが示す君主の理想は、もちろん具体的な細部はまったく異なるものの、大枠では響き合っているように思う。君主にとって大事なのは、政治的力量ではなく徳である。ちなみに本書訳注や解説でもヘレニズムとの関係が指摘されてはいるが、全面的に議論が展開されているわけでもない。しかし東洋にはマキアベッリを待つまでもなく、既に韓非子もいたりするわけではあるが。

【要検討事項】本文ではなく解説のところに示されている文章だが、「教育」という翻訳語が気になった。

「まず指摘しておかねばならないのは、それら作品の表題である。「道」(スマラグドクス『王の道』Via Regia)、「教育」(オルレアンのヨナス『王の教育について』De Institutione Regia)、「人格」(ランスのヒンクマルス『王の人格と王の職務について』De Regis Persona et Regio Ministerio)といったタームが用いられている。」pp.157-158

 現代英語ではinstitutionとなっている単語が、ここでは「教育」となっている。まあそれ自体は西洋教育史を勉強すれば常識に属する知識であって、特に驚くことではない。ただしそれがeducationでもなくinstructionでもなかったことについて、特別に意識を払っても損はないように思うのでもある。ここで使用されている「Institutione」が示す具体的な内容は、もちろん現代の私たちが用いる「教育」という言葉が示す内容とは、大きくかけ離れている。大枠の大枠では「教育」と呼んでもちろん差し支えないわけだが、この「Institutione」を適切に表現する現代日本語を考えることは、現代教育についての知見を深める上でも、おそらく無駄な作業ではない。
 それと同様に、この文章では「Persona」というラテン語が「人格」と翻訳されている。もちろんここでは「人格」という日本語を使うしかない。しかし現代の我々が使用する「人格」という言葉の意味内容が、中世からは、特にカント以後に決定的に転回していることを踏まえると、いま私たちがイメージする近代的な「人格の陶冶」概念を、この中世の「君主の鑑」に当てはめることがどれくらい適切か、ある程度疑って留保しておいた方がいいのだろう。そして「Persona」と「Institutione」の転回は、「目的」の転回と深く関わってくる。

【今後の研究のための備忘録】
 例えば「目的」について、以下のように記されている。

「しかし人間は徳にしたがって生活しながら、既に上述したように、神の享受のうちにあるより高次の目的に向かって秩序づけられているので、多数の人間の目的と一人の人間の目的は同一のものでなければならない。それゆえ会い集う民衆の終局目的は徳にしたがって生きることではなく、有徳な生活を通して神の享受へと到達することなのである。」第1巻第14章107

 このような考え方は、もちろん近代的な「教育」や「人格」がまったく知らないものである。というか、こういう考え方を覆したところで、近代の「教育」や「人格」という観念は成り立っている。だとするなら、このような中世的目的観の下で行なわれる「Persona」への「Institutione」は、はたして「人格の陶冶」と考えてよいかどうか、ということになる。
 ちなみにもちろん著者を批判しているのではなく、私が批判的に行なうべき仕事として留意しておこう、という話である。

 またそれから「国家有機体論」について触れていることについては、しっかり記憶にとどめておきたい。

「それゆえ君主たる者は王国における自己の職務が、ちょうど肉体における魂や、世界における神のごときものである、とういことをよく認識しておかなければならない。」「かれの支配下にいる人びとをかれ自身の四肢のように考え、柔和と寛容の精神を発揮することができるであろう。」第1巻第12章95

 ただしもちろん、近代国民国家とは条件が決定的に異なっていることについては忘れてはならない。

トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』柴田平三郎訳、岩波文庫、2009年

【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』

【要約】トマス・アクィナスの思想について、従来はその論理的な側面ばかりに注目が集まっていましたが、その魅力は、実は「感情論」によく現れています。トマスの感情論を具体的に検討することで、それが徹底的に「肯定」の精神に基づいていることを解き明かします。すると最終的には、カトリックの根本原理である「善の自己伝達」=「愛の共鳴」が明らかになります。

【感想】個人的な感想では、ヨーロッパ思想家の「論理的な面」にばかり日本人が注目するのは、特にトマス・アクィナスに限った話ではない。古代のプラトン(饗宴やパイドロス)にしろアリストテレス(弁論術)にしろ、近代のアダム・スミス(道徳感情論)にしろデカルト(情念論)にしろ、西洋哲学は常に「情念=パッション」を思考の対象としてきた。それを見逃してきたのは、日本人の側の問題だ。要するに、感情論について西洋から学ぶことはないとたかをくくっているというだけのことだ。
 しかし情念論がヨーロッパの思想家にとって極めて重要なのは、それがイエス・キリスト論に直接的に結びついているからだ。具体的には、「神は情念を持つのか?」という問題に明確な解答を用意しておく必要があるわけだ。そしてもちろん神が情念を持つはずはないという結論は最初から決まっており、その結論を成立させるために生じる多種多様な矛盾を丁寧に整理しておかなければならない。特にイエスが十字架にかけられた時に嘆いたり悲しんだり苦しんだりするなど明らかに情念を表現しており、一般キリスト教信者にとってはそれで何も問題ないわけだが、哲学者・神学者の方はそういった聖書の情念表現と「神は情念を持たない」という命題を両立させなければならない。明らかに矛盾する課題を達成するための前提として、「情念」を徹底的に分析しておく必要が生じてくる。
 本書も、まず前半では人間のレベルで「情念」を取扱ったあと、後半で「神の情念」の問題に突入する。神の情念というテーマが、近年の研究でも大問題になっている様子がよく分かる記述になっている。で、それは、カトリック信者ではない私からすると、あらかじめ決まっている結論に着地するために飛躍が甚だしいアクロバティックな理屈を恣意的に言い放っているようにしか見えないわけではあるが、「そういう考え方もあるのか」と理解するぶんには吝かではない。実際、特に「受肉」に関する論理については、眼鏡っ娘を理解するために極めて有益な示唆を与えてくれる。伊達に何百年も論理を鍛え上げてきているわけではない。勉強になる。

【この論理は眼鏡っ娘学にも使える】
 本書は神学という学問の意義を次のように説明する。

「現代では、「信仰」は非理性的・反理性的なものと捉えられることが多いが、トマスのテクストには、そういった考え方とはきわめて異なった信仰理解が現れている。「神」という他者の言葉は、理性と相反するどころか、理性的な哲学のいとなみに新たな探究の領野を開示する契機として機能しうる。それは、理性の徹底的ないとなみが、理性のいとなみであるままに、理性を超えたものへと開かれていくという自己超越的な在り方を可能にするものなのだ。啓示の言葉をも探究の視野のなかに収めることによって、知的探究は、非理性的で硬直化したものになってしまうどころか、新たな刺激と探究材料を与えられ豊かになる。」pp.144-145
「神学という学問は、狭い意味での信仰者のみにとってしか意味を有さないのではなく、人間に関する普遍的な洞察を与えてくれるもう一つの「光源」ともなりうるのだ。」p.146

 ここの文章に出てくる「神」という言葉を全て「眼鏡っ娘」に置き変えると、私が常に言っていることとほぼ同じ内容になる。私は常々「眼鏡っ娘が分かれば世界が分かる」と言い続けてきたわけだが、その理屈は、こういうことなのだ。

山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』慶応大学出版会、2014年

【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』

【要約】トマス・アクィナスの仕事は、現在ではカトリックの王道と理解されることもありますが、実際当時においては、特にアリストテレスの受容と解釈において、時代状況に即した新しいチャレンジでした。トマスは、アリストテレス的な「理性」とキリスト教的な「神秘/信仰」を、対立するものではなく、相互補完的なものと捉え、アリストテレスの論理を足がかりにして神学的な思考を力強く前に進めます。それは「理性」だけでも「信仰」だけでも不可能な、トマスだったからこそできた独創的な仕事です。その固有の論理を、具体的に徳論や自由意志論、愛徳論の展開を通じて確認していきます。
 ところが、三位一体の教義と受肉の神秘について考え始めると、もう間違いなく人間理性を超越していきます。だからといって理性的に追及することをあきらめるのではなく、理性を超えた「神秘」を手掛かりにしてさらに理性的な探求を推し進めるのがトマスのすごいところであり、現代に生きる我々にも大きな示唆を与えるところです。

【感想】まあ、神秘を手掛かりに理性的な追及を進めてはいけませんよ、理性は間違えますよ、しかるべき限界をわきまえましょう、と釘を刺したのがカント「純粋理性批判」の仕事ではあるし、やっぱりそれは抑制された丁寧な考え方であって、三位一体とか受肉の神秘を理性的に考えようという姿勢は、どうしても破綻しているようにしか見えない。そこは単に「理性を超えている」だけでいいじゃない。理性的に理解しようとするから徹底的に話がおかしくなり、胡散臭さが充満するのだと、改めて認識したのであった。しかしそれはトマスとかカトリック特有の問題というより、「特異点」一般に当てはまる話ではある。たとえば「人格」とか「個性」というものを理性的に捉えようとすると、やはりおかしなことになる。そこはカントに倣って「理性を超えているものを理性的に考えても絶対に答えに辿り着かない」と理解しておくのが、みんなが幸せになる無難な道であるように思ってしまうのであった。

【眼鏡論に使える】とはいえ、だ。個人的に大きな興味を引くのは、やはり「三位一体」の教義と「受肉」の神秘、そしてそれについてキリスト教神学が突き詰めてきた理性的思考は、眼鏡っ娘を考えるうえで極めて有益な示唆を与える。眼鏡と娘の分離主義に対しては、「っ」(カトリック的には精霊≒教会にあたる)を交えた三位一体論が決定的な反論となる。眼鏡だけを神、あるいは娘だけを神と理解するのは、三位一体論的にいえば問題なく異端である。
 こういうふうに「理性を超えたもの」を「理性的に理解しようとする」ところから視界が急速に開けてくる様を自ら体験してみると、一概にトマスやカトリック神学の思考を切り捨てるわけにもいかない。そこに何か大切なものがありそうなことを直観するのである。他人を説得したり説伏したりするためでなく、自らの体験を言葉にするという意味で。「特異点」という光の届かない闇を見定めるために。

山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』岩波新書、2017年

【要約と感想】稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』

【要約】中世の神学者トマス・アクィナスの主著『神学大全』が議論の対象ですが、内容を紹介する本ではありません。現代に生きる我々が見失ってしまった大事なものを甦らせるために「挑戦の書」として『神学大全』を読み解きます。
 具体的には、「存在」や「人格」や「目的」や「正義」や「自由」や「幸福」という言葉の本質的な意味が、現在では完全に見失われています。トマスの知恵の探究に付き合うことで、これらの言葉が本来持っていた本質的意味が浮き彫りになります。

【感想】さっくり『神学大全』の概要等を理解したい方面にはまったくお勧めしない。トマス・アクィナスの記述に寄り添いつつも、徹底的に著者自身が哲学する過程に付き合う本だ。そして著者が遂行する哲学も、我々が馴染んでいるような近代以降の哲学ではない。キリスト教への「信仰」を前提とした公理系でのみ意味を持つような演繹を連ねる思考が延々と続く。帰納的な思考は、「不完全な感覚に依拠している」ということで最初から排除されている。近代的思考に馴染んでいる読者がイライラすることは間違いない。わたしもイライラした。
 だから、まず言っていることを理解しようと思ったら、帰納的な近代思考をとりあえず棚に上げていったん忘れ、仮にカトリックの公理を前提として受け容れて、「自分を無」にして、「そういう世界なんだ」と読み進めていくしかない。そうすると確かに、「私が無」であるような地点から初めて立ち上がってくるような知見というものが出てくるわけだ。だがしかし、その知見が仮に納得できる結論を示しているとしても、前提として仮に受け容れていた公理が正しいことを保証するものでは、もちろんない。
 こういう経験を経て逆によく分かるのは、中世の思考様式が徹底的に「帰納」を排除することで成立しているということだ。「帰納」を知らなかったのではない。蓋然的な知しかもたらさないものとして、意図的に排除しているのだ。徹底的に帰納的思考を排除して、ごくごく基本的な公理からあらゆる論理が演繹される様は、まさにユークリッド幾何学のようだ。(いちおう『神学大全』は、ユークリッド幾何学のような純粋な演繹推論ではなく、弁証法的な体裁で記述されている)。が、むしろ演繹の技術が見事であればあるほど、公理系全体を支える重要な何かが私から遠ざかっていくのである。その「重要な何か」を私個人はずっと「特異点」と呼んできているわけだが。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 ま、とはいえ、いろいろなものを棚に上げて特異点さえ受け入れてしまえば、論理整合的に美しい世界が広がることは間違いない。一言で「目的論の世界」と言ってよいのかもしれない。「この世界には意味がある」という確信に満ちた世界であって、それだけで特異点を受け入れる価値があると思う人もいるのだろうし、実際にいるわけだ。(まあそれは「目的論の世界」でありさえすれば、カトリック的特異点である必要はないのだが)。この「目的」という言葉の意味自体が、トマスの中世と近代以降では決定的に異なっていることを著者は丹念に説明する。

「ここでまず「目的」という言葉(ラテン語finisは英語のendと同じく「終わり」「終点」を意味する)がトマスにとっては、こんにちのわれわれとはかなり違った意味と重みをもつものであったことに注意しておいた方がよいかもしれない。われわれが理解する「目的」とは、人性の目的にせよ、旅行やパーティの目的にせよ、われわれ自身が自由に選び、計画を立てて能動的に実現をめざすものに限られている。これに対してトマスが理解する「目的」は「善」と同じものであり、しかも中間的な善、つまり手段として位置づけられる善ではなく、「終わり」の善、それへと行きつくために手段が選びとられ、「善」という側面を帯びるようになる、高次の善なのである、したがって、トマスの言う「目的」は、われわれが能動的にそれの実現をめざすというよりは、それの「善さ」がわれわれをひきつけ、われわれに働きかけて、それの実現のためのエネルギーをわれわれのうちに呼びさます、つまりわれわれを能動的たらしめる根源なのである。
 われわれにとっては、そのような「目的」、つまり能動的な原因よりもさらに根源的な「原因」あるいは「根拠」であるような「目的」という概念はもはや存在しないか、あるいは縁遠くなってしまっている。」p.125

 こういうふうに「目的」という言葉の意味が根底から違っているのであれば、また必然的に「存在」という言葉の意味と役割も中世と近代以降では決定的に異なってくることになる。

「すべてのものの「存在」はただそこに「在る」という事実にとどまるものではけっしてなく、その「存在」――それが何であるか、つまり各々のものの「本質」「本性」の探究はわれわれにとっての課題であるが――そのもののうちに善や価値のすべてが内在する、というふうに考えない限り、トマスが考えるような「人間の目的」という概念は不可解なものにとどまらざるをえないのである。」p.127

 すべての「存在」は、必ずなにかしらの「目的」を持っている。というか、何かしらの「目的」を持っているからこそ「存在」している。それは人間も同じである。

「「人間とは何か」という問いで問われているのは人間本性にほかならないが、その人間本性について正しく理解するためには、何よりも人間の目的について確実に認識しなければならない、とトマスは確信していた。なぜなら人間の目的とは、そこにおいて人間本性がその本来の姿をあますところなく現すものだからである。」p.131
「しかし目的はたんに終わりではなく、むしろそれにたどりつくことによってわれわれの願いがあますところなく満たされる「善き」終わりなのである。したがって、目的において人間本性の本来の姿が全体的に現れるとは、たんに「本性をさらけだす」といったことではなく、完全に実現される、完成される、ということなのである。」p.132

 ここの記述で気になるのは、人間の「目的」が、人間本性の「完成」であると強調されていることだ。なぜ気になるかというと、教育基本法第一条に「教育の目的は人格の完成」と書いてあり、この条文の実現にこだわったのがカトリック信者の田中耕太郎だからだ。
 改めて教育基本法第一条を精査してみると、異常なことばかりである。まず、「教育の目的は人格の完成」とあるうちの「完成」という言葉が異常だ。どうして「成長」や「発達」という言葉ではダメだったのか。なぜ「完成」という言葉がチョイスされたのか。戦後から現代にいたるまで、この「完成」という言葉の中身を徹底的に深堀りしよう試みた「教育基本法研究」はあまりない。だいたいスルーするか、触れるにしても、ほぼほぼ「成長」とか「発達」のようなものだとお茶を濁している。いや、田中耕太郎としては、ここは「成長」や「発達」という言葉ではダメで、やはり「完成」でなければいけなかったのだ。「人間性」ではダメで「人格」でなければならなかったのと同様に。そして「成長」や「発達」という言葉ではなく「完成」でなければならない理由は、本書が明らかにしている通りだ。「目的において人間本性の本来の姿が全体的に現れるとは、たんに「本性をさらけだす」といったことではなく、完全に実現される、完成される、ということなのである。」

 そんなわけで「人格」=「ペルソナ」という言葉についても、三位一体の教義を踏まえて徹底的に議論されていて、極めて興味深く勉強にもなるわけだが、これについては著者の別の本(『人格《ペルソナ》の哲学』)で抱いた感想と重なるところだ。しかしやはり改めて、著者の言う「存在・即・交わり」は、般若心経が言う「色即是空空即是色」で言い尽くされているような気がしたのでもあった。

【眼鏡論にも使える】
 しかしさすがにカトリックが徹底的に鍛え上げてきた教義を踏まえている議論だけあって、演繹体系としての完成度はすさまじく、勉強になることこの上ない。この論理は眼鏡論にも積極的に応用できるものでもある。特に「愛」を根底に置いた三位一体的存在論および創造論に関する議論は、そのままそっくり援用できそうだ。

「トマスは三位一体論のなかで、神のペルソナについての認識は、事物の創造についてわれわれがただしく考えることのために必要であった、と述べている。それは、神は御自身の言というペルソナ)によって万物を造り給うた、と認識することで、諸々の事物は事前必然性によって神から流出したのではなく、言、すなわち神の知恵にもとづいて造られたことが肯定され、また聖霊のペルソナ、すなわち神自身の恵み深い愛によって造られたことが肯定されるからである、と彼は言う、それに続いて、三位一体なる神についての認識は、人類の救いが、神の御子である言の受肉と、聖霊の賜物によって成就されるものであることについてただしく考えることのために必要であった、と言われている。そこで、この三つのことを結びつけると、トマスが創造を、三位一体なる交わりの神による人類の救いという枠組みのなかで考えていたことはあきらかである、と言えるであろう。
 たしかに、創造するという働きは神の存在、すなわち神の本質に即して神に適合することであり、神のどれか一つのペルソナに固有の働きではない。しかし、神の諸々のペルソナは、それらが(神のうちなる)発出(processio)であるという本質側面に即して、事物の創造(つまり神の外への発出)に関して原因性(causalitas)を有する、とトマスは主張する。つまり、神は自らの知性と意志によって諸々の事物の原因なのであり、それは父なる神(のペルソナ)が言である御子のペルソナと、愛である聖霊のペルソナによって諸々の被造物を造りだす、ということである。「そして、このことにもとづいて、諸々のペルソナの発出は、それらが知(scientia)と意志(voluntas)という本質的属性をふくむかぎりにおいて、諸々の被造物の産出の根拠(ratio)である」とトマスは言明している。さらに彼は「諸々のペルソナの発出は、或る意味で、創造の原因であり根拠で或」と付言しており、神の創造の働きは三位一体という神のうちなる交わりにもとづいて、つまり神の救いの業という枠組みにおいてのみ、その意味を適切に理解できることを強調している。」pp.89-90

 なるほどである。「眼鏡っ娘」の働きは、どれか一つのペルソナ(眼鏡単独、あるいは娘単独)による働きではない。それは「眼鏡っ娘」という三位一体的な神自らの「知性」と「意志」を基にした内なる交わりに由来する、「救いの業」ということなのだ。眼鏡のみ、あるいは娘のみを強調する議論は異端への道に続いている。あくまでも三位一体論的に理解してこそ、初めて「眼鏡っ娘」そのものの働きを捉えることが可能になる。やはりカトリックの論理は侮れないのである。

稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』講談社選書メチエ、2009年>講談社学術文庫、2019年