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【要約と感想】青木健『古代オリエントの宗教』

【要約】現代の世界宗教は、『旧約聖書』→『新約聖書』→『クルアーン』という聖書シリーズ体系が席巻していますが、そうなったのは13世紀のことで、それまではメソポタミアやイラン高原を中心に、様々なアナザーストーリーや外伝が紡ぎ出されていました。グノーシス神話の体系を継ぐマンダ教やマニ教が聖書体系を大胆に改変したり、土着のミトラ教やゾロアスター教等が聖書体系に別伝として取り込まれたり、イスラム教シーア派がグノーシス精神を復活させたりと、13世紀までのオリエントは宗教的創造性に満ち溢れていました。

【感想】いやあ、知らないことばかりだった。勉強になった。
私が高校生の時に仕入れたマニ教やゾロアスター教に関する知識は、もう完全に古くなっているようだ。30年も経てば、これだけ学問が進歩するということだろう。
聖書シリーズ体系を軸にして、様々な個別宗教を「アナザーストーリー」と「サブストーリー」として体系に組み込む構想は、とても分かりやすかった。ガンダムシリーズの様々な作品を「宇宙世紀」を体系の軸にして位置づけると分かりやすいのと同じく。マニ教は、さしずめ「ターンAガンダム」のようなものだったのだろう。
ともかく「新世紀エヴァンゲリオン」にハマるような中二的な人に与えたら、宗教的情熱が芽生えるかもしれない一冊であった。

それから個人的には、後書きに感じ入った。3つの大学の講義での試行錯誤が土台となって、本書を構成する様々なアイデアが浮かび上がったということだ。率直に言って羨ましいのは、現在の教員養成系の講義は「コア・カリキュラム」などという名目で文部科学省から一定の枠を嵌められてただの再生産に貶められ、学問的な生産性など望めない形式に強制されているからだ。思い返してみれば、昭和初期の学者たちは、様々な学問的アイデアを講義の試行錯誤の過程で見出していた。私個人としては、本来の大学の講義とは学生とともに知的生産の過程に携わるものであると思っていたのだが、文部科学省はそうは思っていないらしい。大学での講義の試行錯誤が純粋な知的生産に結びつくのは、本当に羨ましい。私も、法的に課せられた空疎な枠そのものは崩せないとしても、その範囲の中で学問的生産性を上げていく努力をするしかないのではあるが。

青木健『古代オリエントの宗教』講談社現代新書、2012年

【要約と感想】本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』

【要約】地中海地域はもともと多神教の世界でした。特にイシス崇拝やミトラス教はローマ帝国各地に広がっていました。が、現在の地中海地域はキリスト教とイスラム教という一神教で覆われています。
一神教へと変化した根本的な原因は紀元前1000年あたりにあります。まず重要な原因は、アルファベットが開発されて多種多様な文字が少数の文字へと収斂していったことです。文字の少数精鋭化は、アレクサンダー大王やローマ帝国がオリエント地域を支配して数々の神が少数の神格へと統合されていく動きと並行して理解することができます。
もうひとつの有用な原因は、危機と抑圧です。アルファベットの発明によって文字文化が拡大し、音声文化が痩せ細ったことによって、それまで人間に聞こえていた神の声が聞こえなくなります。地域や都市固有の神から切り離されてグローバル化した世界で個人化・孤立化した人々は、従来の形式的な儀礼宗教には頼ることができず、内面の救済を強烈に求めるようになります。この内面救済の要求に応えたのがキリスト教でした。

【感想】新書だからこそ書けるような大胆な仮説が繰り広げられて、わくわくしながら読める本だ。逆に言えば、大胆な仮説に過ぎない記述も多いので、眉に唾をつけながら読まなければいけないものでもあるだろう。
たとえばユダヤ教の起源がエジプトのアクエンアテン宗教改革にあるという仮説は、著者ではなくフロイトが言い出したものだが、なかなか刺激的ではある。旧約聖書との記述とも辻褄が合ってしまいそうではあるが、史料に基づいて実証することはできず、なかなか扱いに困る。
それから本書の根幹をなす「アルファベットの発明と神々の習合」の議論については、なかなか刺激的ではあるが、もちろん史料に基づいて実証することはできない。文字体系を合理化しようという志向と神々の体系を合理化しようという志向が、果たして同時並行的に起こるものなのか、まず俄には首肯しがたい。まず単純に言って、日本中世で起こった神仏習合は文字体系の合理化と何の関連もないからだ。とはいえ、明治以降の神社合併と文字体系の合理化が、同じ根から起こっているように見えるのも確かではある。一つの刺激的な仮説として頭に置いておくことについては吝かではない。印刷術の発明が人類史を大転回させた議論等とも関連して、「リテラシー・イノベーションと人類史」の枠組で捉えるべき具体的テーマのひとつではあろう。
それから、宗教的情熱の興隆と性的抑圧の関連についての記述もあって興味深いのだが、あまりにもあっさりとしていて、いまいち具体性に乏しい。まあ、著者の別の本で補完できるので、ないものねだりをするところではないのかもしれない。宗教的情熱の盛り上がりによって性的表現が規制されるというストーリーは分かりやすいのだが、しかし「禁欲」思想はストア派やヒポクラテス由来のものもあるはずなので、そう単純に扱えない気もする。

全体的に、具体的な事実に基づいた実証的な記述を期待する本というよりは、ある観点からのストーリーを俯瞰的に楽しむために読む本だった。どちらも歴史にとっては重要である。が、具体的な記述に期待している向きには、同じ時代と地域とテーマを扱っている小川英雄『ローマ帝国の神々―光はオリエントより』のほうが役に立つかもしれない。

本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書、2005年

【要約と感想】稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』

【要約】「人格」という概念を理解するためには、キリスト教神学が培ってきた伝統をしっかりと踏まえる必要があります。「人格」を単に「個人」と言いかえることができる形で捉えるのでは、薄っぺらい理解しかできません。「人格」の本質とは、量的な「一」ではなく、同一のものが自己に立ち帰るような仕方で存在する自己還帰的な「一」であることです。それがモノとは異なる「精神」の在り方であり、この在り方こそが本来の「存在」というものです。しかしそのような「人格」が本質的に他者との「交わり」において存在するという矛盾対立的な関係(本質的に「一」であるにも関わらず不可避的に他者を必要とする)を正面から理解しなければ、本当に「人格」を理解したとは言えません。「人格」が本質的に「存在」でもあり同時に必然的に「交わり」でもあるという矛盾は、トマス・アクィナスのように聖書の教えからの霊感を得て、初めて理論的に解決する道が開けます。

【感想】「人格」研究の最右翼と言える研究書だ。右翼と言っても、もちろん政治的スタンスを示しているわけではない。「人格」を語る際のスタンスが主に3つあるとして。左の方から数え上げていくと、まず物質的な規定に重きを置く立場(神経生理学や進化心理学など自然科学)があり、次に社会的フィクションとして理解する立場(社会学や法学など社会科学)があり、そして精神的価値に重点を置く立場(倫理学や教育哲学など人文科学)となる。本書はもちろん精神的な価値に重点を置く人文科学的な研究をしているわけだけど、カントの人格倫理学をさらに精神的に深い地点から批判するなど、人文科学の中でも飛び抜けて精神性を重んじているというか、霊性を核とする、神学的な立場である。

そんなわけで、人文科学が言う「人格」とはどういうものかを理解する際には、極めて有益な本だと思う。人文科学が「人格」をどう扱ってきたかという哲学史も簡潔にレビューされていて、何が問題の核心なのかが浮き彫りにされている。問題の本質をしっかり掴んでいる人だからこそできるような、論理的に緻密でありながらも簡潔に整理された分かりやすい表現になっている。勉強になる。

そして「人格とは何か」という問いに対して筆者が最終的に出した答えとは、「存在・即・交わり」というものだった。これは極めて含蓄が深い回答ではある。ここで示された「存在」と「交わり」という概念は、表面だけ見れば相互に排他的な矛盾対立である。たとえばヘーゲルが『精神現象学』等において総合しようとしたのは、この「存在=一つとして自立するもの」と「交わり=必然的に他者を前提とするもの」の矛盾対立であったと言えるかもしれない。あるいは古代からプラトンやアリストテレスが問い続けてきた哲学問題も、この矛盾の解消に帰結するとさえ言えるかもしれない。この根本的な矛盾対立を一気に呑み込んでしまおうというのが、トマス・アクイナスの議論に即しながら筆者が示した「存在・即・交わり」という概念である。筆者の論理展開が成功しているかどうかは各自が本文に当たって確認してもらうしかないわけだが、私自身はその豪腕ぶりに唸らされた。なるほど、と。

とはいえ、その論理展開が腑に落ちるかどうかは最終的には「信仰」の問題となってしまう。私自身は、恐縮ではあるが、筆者と信仰を同じくしないので、筆者の結論が腑に落ちたわけではない。頭で理屈は分かるが、しかし腑には落ちないということだ。これは「信仰」の問題である以上、仕方がないところだろう。
「信仰」を持たない私から見れば、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね。すごい。」としか言いようのないところである。そして「そういうふうに特異点を設定する」ことが正しいかどうかは、論理的には説明されていないし、不可能である。論理によっては絶対に超えられない谷は、「信仰」によって超えるしかない。それが「言語ゲーム」というやつの宿命だ。そして私は、「信仰」を同じくしない以上、その谷を超えることはできない。「超えたとしたら、こう言えますね」とは言えるけれども。

たとえば、筆者が辿り着いた結論について、筆者はキリスト教の信仰でしか不可能だと主張したいかもしれないが、私から見ると仏教の論理でも説明可能だろうと思ってしまう。般若心経が言う「色即是空空即是色」という言葉は、まさに筆者が辿り着いた「存在・即・交わり」という内容の深奥を極めて鮮烈に突いているのではないか。
私は別に仏教の方がキリスト教より優れていると言いたいわけではなく、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね」という感想が等しくキリスト教にも仏教にも当てはまるように見えるのであって、結局は「特異点」の設定の仕方だけが個性的なのかもしれないと思うわけだ。キリスト教や仏教に頼らなくても、「特異点」さえ上手に設定できれば、「存在・即・交わり」という深奥は如何様にも表現できるのではないか。しかし「存在・即・交わり」を合理的に解釈するためには何らかの「特異点」の設定が絶対に必要であるということはおそらく間違いない。ただし、おそらくどの「特異点」も相互に優劣はなく、キリスト教でも仏教でもどちらの特異点設定でも合理的解釈は可能であるし、もちろんまったく別の「特異点」でも同じように「存在・即・交わり」の合理的解釈は可能になるように思う。

具体的に思い起こすのは、「光」というものの物理的性質だ。高校物理で習うわけだが、光は「粒子」であると同時に「波」の性質を持つ。光は物理的に「粒子」という個別的な「存在」の様式を示すと同時に、互いに干渉する「波」であるという「交わり」としてに在り方を示す。つまり「光」とは物理的に「存在・即・交わり」という在り方を示しているのだ。そして量子力学で習ったところでは、「光」だけではなく、あらゆる「原子」が「粒子・即・波」という在り方を示す。どうして光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すのか、その根拠は、少なくとも私は物理的には理解できない。私にできるのは、現実として確かに光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すことを「信仰」するしかないのだ。そして光や粒子が「粒子・即・波」という在り方を示すことさえ無条件に受け入れてしまえば、そこから演繹される物理的な体系は問題なく理解することができる。「粒子・即・波」という不可解で非合理的な在り方さえ受け入れてしまえば、全体的な体系は合理的に解釈することができるのだ。しかし全体的な体系を合理的に解釈できるとしても、どうして「粒子・即・波」なのかは謎のまま残る。
物理の話に限らない。全体的な体系を内側から合理的に解釈しようと思うときには、どうしてもどこかに「特異点」が必要となる。「思考の支え」が存在しないとき、人は全体的な体系を合理的に解釈することができない。その「思考の支え」を外部に求めない場合は、体系内に「思考の支え」としての「特異点」を設定する必要がある。筆者は、その「特異点」の設定を聖書に求めた。それ自体はまったく問題ない。しかし、私としては、「特異点」の有り様は他にもあり得るようにしか見えない。その有り様の選択肢は、それこそ無限にあり得る。とはいえ、「うまい特異点」と「ダメな特異点」の違いは、確かにある。たとえば「ユダヤ人が悪い」とか「イワシの頭」というのは極めて質の悪い特異点だろう。それから「特異点」が多すぎる理論も、ダメなやつだ。「特異点」がうまいかダメかは、「特異点」自体の単純性と、そこから演繹される論理体系全体の広がりと深さの射程距離から判断することができる。聖書に「特異点」を設定したトマス・アクイナスや筆者の立論は、相当に「うまい特異点」に立っているとは言えるような気はする。うっかりすると谷を飛び越えてしまうほど、うますぎると言えるかもしれない。この論理構成の見事さについては、キリスト教神学が培ってきた伝統の奥深さに感服つかまつるというか、頭を垂れて教えを請うというか、恐れおののくしかないところだ。すごい。だがしかし。仏教の示す論理も負けず劣らずそうとう凄いように思えるので、そう簡単に飛び越すべき谷は決められない。渡ってしまったら、簡単には帰ってこられないものだろうし。(渡ったことがないから分からないけれど)。

そして、上記の見解が「信仰を持たない者の言いぐさ」であることを私は自覚しなければならないわけだが、「信仰を持たない者の言いぐさ」というものがこの文章全体を貫く「特異点」なのだった。人は何らかの「特異点」なしでモノを考えることはできない。(そんなわけで、私個人は最終的な「特異点」の審級を「眼鏡」に置いております。ご了承いただけると幸いです)

で、まとめ。
私個人の今現在の理解としては、「人格」という概念とは、「それが確実に存在するという根拠がないにもかかわらず、それが存在すると仮定することによって世の中全体を合理的に無矛盾な体系として構想することが初めて可能となるような特異点のうちでも、その単純性および射程範囲の広さと深さにおいて極めて優秀なものであり、現時点においてはこれに取って代われる概念は他にないような文化的到達点」と理解するのが、いちばんしっくり来る。筆者の言いたいこととは究極に根本的なところでズレちゃってて、申し訳ないところではあります。

稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年

【要約と感想】佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』

【要約】中世ヨーロッパで、古代ギリシアやローマの身体論を引き継ぎながら、女性に対する差別的な社会的地位の特殊性等が加味されて、独特な禁欲主義が始まりました。自分の中の「欲望」を剔出しようとする意志は、近代的自我発生の論理的前提となります。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=中世ヨーロッパの禁欲主義の源泉として、自分の肉体的欲望(主に性欲と食欲)を抑圧しようとする明確な論理と意志、そして社会的構造があったこと。修道院で決められていた具体的な戒律として、ダイレクトに男性器の状態に関心を寄せているところが、生々しくもあり、微笑ましくもあり。個人的には親鸞の女犯エピソードを思い出してしまう。
ともかく、古代ではそこまで禁欲主義的でなかったヨーロッパが、中世になってから修道院制度の整備に伴って禁欲主義に傾いていく流れは確認できた。

■要確認事項=しかし性的欲望を押さえつけて消滅させようとするのは、なにも中世キリスト教に限ったことではなく、中国や日本の仏教にも(そしておそらく世界的な宗教それぞれに)広く確認されることだ。世界的に広く確認できる普遍的な禁欲主義と中世ヨーロッパのそれとの違いは何なのか、本書だけでは見えてこない。

また一方で、性的欲望を押さえつけるのではなく、むしろ爆発させて無限のエネルギーを抽出し、それを自由自在にコントロールして還元することで肉体的超越および精神的覚醒を遂げようとする発想も普遍的に見られる。仏教の一部宗派とか、道教の一部宗派とか、キリスト教の一部宗派とか、精神分析学の亜種とか、有象無象の様々なカルトとか、SF風味エロ小説とかファンタジー風味エロマンガとか。これは禁欲主義とは一見正反対に見えるが、肉体のコントロールを通じた覚醒という意味では、実は同じコインの裏表に過ぎないと理解してよいのか、どうか。

また、本書では禁欲主義の源泉をギリシャ・ローマの身体論(ヒポクラテスおよびガレノス)というヘレニズムの系譜に見出しているわけだが、ヨーロッパ文化のもう一つの起源であるヘブライズムに対する目配りが少ないのは、どうなんだろう? 本書にあるような禁欲主義の東方起源ということになると、ユダヤ教の禁欲的な戒律主義という伝統は必然的に問題になるべきもののような気がするが。なんとなく、ユダヤ起源を意図的に隠蔽することによって、ルネサンス的伝統を捏造しようとする作為みたいなものすら感じ取ってしまう、そんな構図にはなっている。こういう起源の話をする場合、ギリシャ・ローマの系譜を追うのはとても大事だけれども、同じ程度にユダヤの系譜に目配りするのも必要だよなあと思った。

【感想】性的欲望は、要するに自分の中の「他者」ではある。ありていに言えば、上半身と下半身では考えることがズレているということである。このズレを真摯に見つめることから「個人」の意識が芽生えるというのは、そんなに難しい展開ではない。「私(下半身)なのに私(上半身)ではない」という同一性の危機が訪れて初めて、「私(全身)とはなんだろう?」という同一性に対する自覚が生じる。
おそらくこの意識自体は、人間の身体の生物学的構造に即する限りでは普遍的なものなのだろうが。ヨーロッパだけが自発的に近代化(とりわけ原始的な個人主義思想の剔出)に成功したのは、ヨーロッパだけがこの自覚を制度化(告解制度など)できたから、ということで今のところ納得するしかないか。

佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ – 修道院の起源』中公新書、2014年

【要約と感想】徳善義和『マルティン・ルター』

【要約】ルターは聖書を真剣に読んだ結果、カトリック教会のデタラメに気がついて、真実の信仰と救いを聖書の言葉のなかに求めました。ルターの主張は広い共感と指示を得て、宗教改革に結びつきました。

■確認したかったことで、本書に書いてあったこと=聖書を重要視して教会を批判するという点で、ルターとヤン・フスとの類似性は当時から広く認識されていた。ルター自身もフスとの近似を認めていた。

ルターのドイツ語著作は、書き言葉がマスメディアとしての役目を果たした歴史上初めてのケースだった。ルターの著作はどれもこれもベストセラーとなった。ルターは学生に配布するプリントにも印刷術を有効活用していた。

16世紀初頭は、土地に根ざした農業中心の世の中から、貨幣経済中心へと切り替わりつつあった。ルターを支持した勢力は、こうした新しい貨幣経済の担い手であった。また、ドイツ・ナショナリズムの担い手である領主層も、反教皇・反皇帝という点からルターの支持勢力となった。

宗教改革は、哲学を神学から切り離しただけではなく、絵画や音楽も宗教から切り離した。教会からの発注を期待できなくなった芸術家は、市民の中に新しい市場を見出さなければならなくなった。

■図らずも得た知識=ルターという名前は本名ではない。それは「自由であって僕」という逆説的な意味を持つものとして自覚されていた。この「自由」と「僕」のアポリアは教育を哲学的に考える上で極めて重要な論点なのだが、吟味してみれば、確かにそれは本来は信仰に関わる問題として決定的な論点だ。

■要確認事項=ルターが教育権の思想を述べていること。子供には教育を受ける権利があり、親はその権利を実現する義務を負い、各都市の参事会は親の委託を受けて教育義務の一翼を担うと、ルターは教育義務を理解していた。とすれば、近代的な教育権の思想が既にルターに確立していたこととなる。

また、自分の良心に従うことを明言したルターの発言を、本書では個人の人格や主体性、信念や信条を尊重する近代的意識の先駆けと表現している。本書はさらに踏み込んで、キリスト教的一体世界が崩壊したとして、1517年を中世と近代とを画する時代の転機と表現している。同時期にヨーロッパで起こっていた他の様々な出来事と比較したとき、ルターの重要性をどこまで評価するべきか。

【感想】改めてルターの思想を概観してみると、親鸞の考え方と似ていることに驚く。人間の努力の限界、律法の形式性への不信、人間の弱さの自覚、自力救済の諦め、外部からやってくる救い、信仰そのものへの傾斜。しまいには既存の権威を否定して、結婚して子供をもうけるところまで同じという。もちろん内容は大きく違ってくるけれど、考え方の道筋というか、思考の論理形式は、驚くほどそっくりのように思う。単なる偶然とは思えない。人間本来のあり方に即して救いの問題に直面したとき、洋の東西に関わらず、必然的に導き出される普遍的な結論なのではないか。

徳善義和『マルティン・ルター―ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年