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【要約と感想】ダンテ『神曲【完全版】』

【要約】ダンテは地獄・煉獄・天国を巡る数奇な体験を得て、詩を詠みました。
 まず古代詩人ウェルギリウスの案内で地獄を経巡ります。地獄では、カトリック法王を始めとして、様々な罪を犯した人々が呵責ない責めにあって苦しむ様子を見ます。中には旧知の人々もいましたが、地獄に落ちて当然の奴らなので悲しんではいけません。
 煉獄では、天国に行くまでに様々な罪科の禊ぎを済ませるために苦しんでいる人々を見ます。中には旧知の人々もいて、地上に戻ったらよろしく伝えてくれと言われます。
 天国に入ると、それまで案内を努めてくれた頼もしいウェルギリウスの姿は見えなくなり、代わって初恋の女性であったベアトリーチェが至高天まで先導してくれます。ご先祖様から激励されたり、キリスト教の聖人たちと学理問答をしたりして、最終的に神の領域に辿り着きますが、それは言葉にできません。

【感想】予習をぬかりなくしたので噂には聞いていたものの、初恋の人ベアトリーチェをここまで神々しく描くというのは、いやはや、ちょっと私の感覚からは理解しがたい。やり過ぎ感がすごい。単に好きというレベルを遙かに超えるストーカー的偏執も含みこんだような情念を感じて、そこそこ怖い。

 地獄編は、訳者もノリノリに翻訳している感じが伝わってきて、けっこう楽しい。コントのような展開も多い。地獄に落ちた人々は基本的にダンテの独断と偏見で選ばれている。露骨に党派性が現れていて、槍玉に挙げられた人たちがちょっとかわいそうではある。しかし一方、党派性を離れて、キリスト教の原理原則に従って地獄に落ちざるを得なかった人々の立ち居振る舞いには、見所が多い。具体的には例えば男色などカトリック教義的に許容できない人々は、原理原則に従って地獄に落とされるものの、人格的矜持は高潔に保っていたりする。そういうところにキリスト教原理主義をはみ出す「人文主義」の臭いを感じる。
 天国篇は、訳者も言っていたように、確かに抽象度がくんと上がって、物語的に興趣が減じる上に、人文主義の臭いもなくなる感じがする。まあ個人的にはキリスト教神学の構成に興味があるので、そこそこおもしろく読める。

 文体的には、いわゆる「直喩」のオンパレードで、意外性のある喩えも多く、とても楽しい。現代で言えば、お笑いのくりぃむしちゅー上田のツッコミ(まるで○○のようだな!)を想起させる直喩だ。具体的な次元では遠くかけ離れていても形式的には似ている、というものを繋げて表現する才能は、ダンテと上田はよく似ているのかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】子どもに関する言及
 各所に子どもに関する言及があったので、サンプリングしておく。というのは、子どもに対する意識が中世と近代を切り分けるメルクマールだ、というアリエス『子供の誕生』が示唆するテーゼを検証する資料になるからだ。ダンテが属するのが中世なのか近代なのか、あるいはアリエスのテーゼそのものが信用に足るのかを検証するために、『神曲』の記述は有力な資料になる。

ウゴリーノ伯爵がおまえ〔ピーサ〕を裏切って
 城を敵方に明け渡したという風評があるにせよ、
 おまえは子供をああした刑に処するべきではなかった。
ああ第二のテーバイよ、ウグイッチョーネやブリガータ、
 また前に詩に出たあと二人の子供たちは
 年端もゆかず無邪気だった。
(地獄編第33歌85-87)

 ウゴリーノ伯爵と共に塔に閉じ込められた幼い子どもたちが餓死に追い込まれるという陰惨な場面で、よほど印象深いのか、訳者も何回も繰り返し言及している。ただ個人的に注目したいのは、ダンテが子どもたちを「年端もゆかず無邪気」と表現し、父親との連帯責任を取らせることに批判的な姿勢を示しているところだ。アリエス的な理論枠組みからは、少々外れている。

そこで私は、人間の罪から免れる〔洗礼の〕前に
 死の歯にかまれてしまった
 あどけない幼児たちと一緒にいる。
三つの聖なる徳に身を包むことをしなかった人たちと
 そこで私は一緒なのだ。
(煉獄篇第7歌31-35)

 ダンテの案内役ウェルギリウスがどうして天国に行けないかを説明している箇所で、子どもへの言及がある。イエス降誕前に死んだウェルギリウスはもちろんイエスに対する信仰を持てるはずがないわけだが、それを理由として天国に行かせてもらえない。日本人からしたらわけが分からない変な理屈だ。ダンテも同じように感じていたらしく、何カ所かでこの理屈に言及して疑問らしきものも呈しているが、最終的には神の摂理として受け容れている。問題は、天国に行けない人々の中に、洗礼を受ける前に亡くなった「幼児」も含まれていることだ。これもやはり日本人からしたら意味が解らない理屈だが、ダンテも不審に思いつつ神の摂理として受け容れている。キリスト教の子ども観を考える上では重要なポイントになる。

だから、自分たちの行いやその功徳とは関係なく、
 もっぱら最初の視力の鋭さの違いによって
 子供たちは違った段に据えられている。
世界がまだ創られたばかりのころには
 ただ両親に信仰がありさえすれば、
 無垢な子供たちはそれで十分救うことができた。
そのはじめの時代が過ぎた後は
 罪のない男の子は割礼を受けることにより
 天へ舞いあがる力をその羽に得た。
しかし恩寵の時代が到来した後は
 キリストのまったき洗礼を受けぬ場合は
 このような無垢な子供たちもあの下界にとどめおかれた。
(天国篇第32歌73-84)

 いわゆる「洗礼」というものの秘儀を担保するためには、洗礼前の用事を犠牲にしても構わない、というところか。目の前の人間に対する救いよりも神学の論理的一貫性の方が大事というカトリック教義。

信仰と清純は幼児たちの中にしか
 見あたらなくなりました。しかもそのいずれもが
 頬に髭が生えるよりも前に逃げ出してしまいます。
口がまだまわらないころは、断食を守る子供も、
 舌がまわりだすと、食物の如何や月日の如何を問わず、
 大食らいとなってしまうのです。
口がまわらないころは、母親になついて言うことを
 よく聞いた子供も、弁が立つようになると、
 母親は墓にいる方がよい、などと思うようになるのです。
(天国篇第27歌127-135)

 子どもたちにピュアさを見出すのは近代的な心性だという見解があるが、これを見るとダンテは近代的だということになってしまう。アリエスのテーゼが間違っているのか、本当にダンテが近代的なのか、あるいは別の解釈があるか。

【今後の研究のための備忘録】個性に関する記述
 「個性」というものを考える上で興味深い箇所があったのでサンプリングしておく。

すると彼がまた尋ねた、「では訊くが、もし地上で人が
 市民生活を営まないとすれば、事態はさらに悪化するだろうか?
 私が答えた、「むろん悪くなります」
「とすると人がさまざまの職務についてさまざまの生活を送ることなしに
 地上で市民生活が満足に営まれるだろうか?〔答えは〕
 否だ。その点は君らの師の書物にもはっきりと出ている」
こうして彼はここまで演繹的に論をひろげ、
 ついで結論をくだした、「そうしたわけだから
 君らの職務には職掌柄さまざまの根が必要とされるのだ。
それである人はソロンに、ある人はクセルクセスに、
 またある人はメルキゼデク、またある人は
 空中飛行をこころみて子をなくした人のように生まれつくのだ。
天球は回転しつつ、正確に仕事を営み、
 人間という蝋に型を捺すが、
 ひとりひとりが生まれる家に区別はつけていない。
それでエサウとヤコブは体内にいるうちからすでに違っていた。
 それでクィリヌスのような男が生まれ出たりするのだ。
 実父の身分が賤しいからマルスが彼の親ということになっている。
もし神の摂理に力がなかったとするならば、
 生まれ出た子は必ず生みの親に似、
 かつ似通った道をたどるはずだ。
これで前に見えなかった点が見えるようになったろう。
 君の訳に立てば私には嬉しいのだ。だから
 いま一つ補足して君の身に着けさせようと思う、
運命が性に合わないと、性に合わぬ土地にまかれた
 種と同じで、およそ生命のあるものは
 どうしても育ちが悪くなる。
自然によって人々各自の中に据えられたこの基盤に
 もし下界の人が留意し、かつそれに従うならば、
 人々はみなその処を得るはずだ。
しかるに君らは剣を帯びるべく生まれついた人を
 無理強いに宗門に入れ、
 説教をするべく生まれついた人を国王に仕立てたりする。
君らが道を踏みはずす原因は実はそこにあるのだ」
(天国篇第8歌115-148)

 人それぞれに持ち味や特徴があって、それに応じて相応しい役割が与えられるのが一番理に適っているという主張だ。これはたとえばガチガチの身分制では成立しない考えで、脱中世的な発想なのかもしれない。またあるいは119行に「市民生活」とあるように、適材適所の経済活動を想定した理屈なので、フィレンツェの卓越した商業活動が背景にあるのだろう。これが「個性」という概念の展開とどう関係してくるのか。

【今後の研究のための備忘録】近代科学観?

実験こそ人間の学芸の流れの変わらぬ泉なのです。
(天国篇第2歌96)

 訳註によれば「フィレンツェ市は(中略)ルネサンス期には自然科学の研究が非常に盛んになった学芸の都市である。その種の実験の精神ははやくもダンテのこの詩行に観取される。」とされる。一般的に科学的な実験で最初に名を挙げたのはイギリスのロジャー・ベーコンで、生年は1214年~1294年だ。ダンテはベーコンの約半世紀後に生まれているので、ベーコンの影響があっても不思議ではない。が、註が指摘しているとおり、ベーコン云々というより、フィレンツェの先進的な学芸を観取するところなのだろう。「ルネサンス」というものを考える上でもかなり気をつけるべき論点になる。

【今後の研究のための備忘録】三位一体

その時が来るに及び、神は造物主から離れていた人性を
 永遠の愛の働きによって
 神に、神の位格において、結びつけました。
(天国篇第7歌31-33)

 三位一体の秘儀について語られているところだが、訳者はペルソナを伝統通り「位格」と訳している。

この人性が結びついていた
 〔神の〕位格が蒙った非礼を考えてみると、
 かつてなく不当な罰といえるわけです。

 こちらは人性と神性の結びつきという観点から神のペルソナについて語った部分だ。問題になるのは、この「位格」という言葉の具体的な中身になる。

ダンテ/平川祐弘訳『神曲【完全版】』河出書房新社、2010年<1966年

【要約と感想】平川祐弘『ダンテ『神曲』講義』

【要約】ダンテ『神曲』の日本語翻訳者による連続講義です。『神曲』のストーリー全体を概観できる構成になっている上に、訳者ならではの適切な読書案内がありがたいことこの上ないのですが、本当の見所は、著者の学問や文学や教育に対する姿勢を垣間見ることができる様々なエピソードです。
 『神曲』そのものについては、特に地獄篇を大きく取り上げて、煉獄篇と天国篇については触りだけ扱っています。これは作者の『神曲』観が深く関わった処置です。また随所で様々な日本古典文学や西洋の詩作品との比較を行っており、これこそ著者の本領発揮です。特にボッカッチョとの比較を行って、世間的にダンテを高く祭り上げる傾向があるのを批判し、むしろ好感を持ってボッカッチョを遇すのは、ダンテに精通している著者だからこそ可能な真摯な身振りです。

【感想】500頁二段組の大著なのだが、著者の洒脱な語り口や豊富なエピソードのなせる業のせいなのかどうか、飽きずに読み通すことができた。私はダンテ『神曲』を読む前に本書を手にとって予習してしまったが、著者の文学観によればあまりよろしくない行為だったようで、失礼いたしました。

 で、そもそも私がダンテ『神曲』に手を出したのは、作品そのものに興味があったというよりは、「ルネサンス」という概念を批判的に検討するための材料を手に入れるのが目的であった。教科書的にはルネサンスは14世紀初頭、ダンテやペトラルカの人文主義から始まったとされることが多いが、個人的にはこれに大きな違和感を持つ。個人的な意見では、メディア論的に考えて、印刷術を経た15世紀末から16世紀がルネサンスの本丸であって、ダンテやペトラルカは本質的には中世に属するのではないかと思っている。で、こういうことを『神曲』も読んだこともないくせに主張するのは最悪なので、最低でも翻訳には一通り目を通しておくべきだと思いつつ、まずは予習として本書を手に取った次第。
 ちなみに本書では、『神曲』のことをルネサンスともルネサンスでないとも言っていない。そんなことは著者の関心にはない。ただただ、作品そのものに対してまっすぐに向きあう姿勢が大切なのだというメッセージが力強く繰り返される。なんだか私の動機が邪だったように思えてきて、ちょっぴり恥ずかしい感じになったのであった。

平川祐弘『ダンテ『神曲』講義』河出書房新社、2010年

【要約と感想】山田晶『アウグスティヌス講話』

【要約】カトリックの聖人アウグスティヌスを、近寄りがたい偉人としてではなく、具体的なエピソードを通じて身近な人間として捉えながら、煉獄と地獄、三位一体論、悪、終末、休日など、カトリックのトピックについての理解を深めます。

【感想】特に日本人が誤解しがちなトピックにターゲットを絞って、カトリックの教義を解説しているように読んだ。東洋思想との類似性を挿入しているのも、意図的なのだろう。カトリックとしての言い分はよく分かった気がする。が、言い分を理解したとして、納得するかどうかはまったく別の話なのだった。やはり私には、カトリックの言う神とは別の神がいるようだ。

【個人的な研究のための備忘録】三位一体
 本書は、カトリックの最重要奥義である「三位一体」について、非常に分かりやすく解説している。特に感心したのは、アウグスティヌスを媒介にして西方教会と東方教会の考え方の違いを極めて明快に打ち出すことで、三位一体教義と「ペルゾーン」の意味内容を浮き彫りにしているところだ。これで「人格」という日本語の意味内容がペルゾーンという原語と比較して圧倒的に貧弱であることも明確になる。勉強になった。「解説」では本書の中で最も困難だなどと書いてあったが、三位一体の奥義をこれ以上分かりやすく説明することはできないのではないか。

「たしかに「人格」はペルゾーンであるが、ペルゾーンはすべて「人格」であるとはいえない、と。というのは、人格だけがペルゾーンであるのではなくて、神もまたペルゾーンである。したがってペルゾーンは、神にも人間にも通じるもっと広い概念であるといわなければならない。」p.115
「この「ペルソナ」というラテン語を三位一体における御父、御子、聖霊にあてはめたのは、二世紀後半から三世紀前半にかけて活躍したアフリカの教父テルトゥリアヌスです。彼はもともと法律学を勉強した人です。ですから法律的な概念を三位一体の教義に適用したといえるでしょう。すなわち、御父、御子、聖霊はその本質は一なる神であるが、それぞれの役割において相互に区別される独立の主体であるという意味で、ペルソナなる名を三者に適用したのであると思われます。」pp.121-122

 私の興味関心に照らして、決定的に重要なポイントに触れている。ペルソナというラテン語(つまりローマ帝国首都の言葉)は、もともとローマ法の中で鍛えられた言葉だ。近代日本の法体系においても、ローマ法以来の伝統を引き継いで、「人格/物件」の厳密な峻別をいちばん根底の土台に据えている。この場合の「人格=ペルソナ」は、法的責任の主体という意味であって、禁治産者や奴隷や精神異常者など法的責任の主体たり得ない者には適用されない。だから単純な「人間」という意味ではない。共同体の中でしかるべき責任を取り得るような、「自由」と「責任」を持つ人間にだけ適用される言葉だ。
 で、著者によると、このローマ法以来の伝統を持つ言葉をテルトゥリアヌスが宗教用語に援用したということになる。ポイントは、「自由と責任」という概念と表裏一体の「ペルソナ」というラテン語を援用したのが西方教会(いわゆるカトリック)だけであって、東方教会では別の言葉(ギリシア語のヒュポスタシス)が使用されたという事実だ。このヒュポスタシスなるギリシア語は、英語ではsubstanceにあたり、日本語では「基体」とか「実体」などと呼ばれる。これも日本語では極めて分かりにくい概念ではあるが、さしあたっての要点は、このヒュポスタシスという言葉には「自由と責任」というイメージがつきまとわないというところだ。西方教会と東方教会で同じ三位一体の教義を説きながら、西方では「自由と責任」と密接な関連を持つペルソナなるラテン語を用い、東方教会では「自由と責任」とは無関係なヒュポスタシスなるギリシア語を用いた。この差が、後に西と東の間に決定的な懸隔を生じさせる、というストーリー。

「ただ、私の思いますのに、聖霊は「父から子を通して」出ると取るのと、聖霊は「父と子とから」出る取るのとでは、実質的に何の相違もないとしても、何か力点の置き方に相違が出てくると思います。そしてその相違が、三位一体なる神の捉え方においても、相違を生じてくると思います。そしてこの相違は、東方教会においては、父、子、聖霊が「ヒュポスタシス」として把握されたのに対し、西方教会においては「ペルソナ」として把握されたというこの相違に何か関係が在るように思われます。そしてそのことが、東方においては発展しなかったペルソナの概念が、西方において発展したこととも何か関係が在るように思われます。」pp.126-127
「ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。」p.129
「東方教会に属する神学者たちが、多く否定神学的傾向を有し、その思惟方法においてアリストテレスよりもネオ・プラトニズムに近いのは、上に述べられたような三位一体の把握の仕方に由来するところが多いと思います。またこのような否定神学的傾向にもとづいて、西方教会において異端視されたエックハルトの思想が、現代の東方教会の代表的神学者たるロスキによって、高く評価され、深い共感をもって受け容れられる理由も理解されます。」p.131
西方教会の「このような三位一体の関係の把握は、神が理解する者であるとともにまた愛する者であることを前提としてはじめて成立します。それゆえこのような三位一体の把握においては、三者が「ヒュポスタシス」ではなく「ペルソナ」という名で呼ばれた世界において、すなわち西方教会の世界において、このような三位一体のペルゼーンリッヒな把握の仕方がはじめて可能になったというべきかもしれません。」p.134

 ここで、現時点でもちろん想起せざるを得ないのは、東方教会の正統な後継者を自認するロシア正教会の振る舞いである。ロシア正教会は完全にプーチンを支持し、侵略戦争を正当化するイデオロギーを提供している。もちろんカトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいなことをしているわけだが、最終的には一人一人の個人の自由と責任を尊重し、多様性を容認する民主主義の理念に馴染んでくる。ここにローマ法以来の伝統である「ペルソナ」概念が深く関わってくることを考えてはいけないだろうか。そしてその伝統と無関係のところで展開してきたロシア正教会の垂直的な権威主義を想起してはいけないだろうか。まあ、いっぺんに決めつけるには極めてデリケートなテーマであることは間違いないが、思ってしまったので、読了直後の個人的感想として書き記しておく。

「誰かにこのような附加をなさしめ、またその附加のなされた信経が、教皇の制止にもかかわらず、よろこんで唱えられるように西方教会の三位一体の解釈の方向をみちびいた者は誰であったかと問われるならば、それに対してははっきりと答えることができます。それはアウグスティヌスです。」pp.134-135
「アウグスティヌスの三位一体論が、西方教会に与えた影響が決定的であったことは、東方教会の神学者たちのアウグスティヌス批判からも知ることができます。(中略)一般に、東方教会の神学者たちの間で、アウグスティヌスの評判はかんばしくありません。このことは裏からみれば、西方教会の神学の形成において、アウグスティヌスの思想の影響力がいかに強大であったかを証明します。ペルソナの思想の発展は、西欧に固有のものであり、その根底に、アウグスティヌスによって捉えられた三位一体の思想が存しています。」p.137
「ところでわれわれ個々の人間も、理解し愛するはたらきの主体であるかぎりにおいて、それぞれ一個のペルソナであります、そこで、その理解し愛する対象が人間である他者に向い、私というペルソナと他人というペルソナとの間に、相互に理解し愛し合うという関係が成立するとき、そこに人間同士の間にペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係が成立します。親子、夫婦、兄弟、友人同士、等のいわゆる人倫関係は、その意味でペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係であり、この関係の場に在るかぎりの個人は、それぞれ一個のペルソナ→ペルゾーンです。この意味で、神のうちに三つのペルソナペルソナ的関係が成り立つように、人間の世界に人間同士の間にペルソナ的関係が成立します。」pp.139-140

 つまり、ペルソナとは単なる「個人」ではない。社会から切り離されてあらゆる文脈を無視したところに浮遊する「個人」ではない。社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主体」である。稲垣良典の言う「存在・即・交わり」だ。
 そしてヨーロッパとは、この「存在・即・交わり」という有り様を、国の有り様にも適用して理解した。一つ一つの国には、国際社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主権」を持つ。そうして、大きな国も小さな国も、それぞれの役割を果たしながら、国際社会の中で同等の尊厳を持つ。ロシアのプーチンには完全に欠落している考え方である。
 さて、とはいえ、このストーリーは西欧(およびカトリック)にとって都合の良い仮説に過ぎない。カトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいだったことは忘れてはならない。「ペルソナ」概念の展開を考える際には、一つの立場から決めつけることを慎み、多様な観点から丁寧に光を当てていく必要がある。

山田晶『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、1995年

【要約と感想】中谷功治『ビザンツ帝国―千年の興亡と皇帝たち』

【要約】4世紀始めのコンスタンティノープル遷都から、1204年の第四回十字軍による占領を経て、1453年にメフメト2世によって首都が陥落するまで、1000年以上にわたるビザンツ帝国の激動の歴史を、皇帝の事跡を中心に、皇帝と貴族の関係、首都と地方の関係(テマ制)、政治と宗教(ギリシア正教)との関わりという観点に注目しながら描きます。

【感想】高校世界史の教科書レベルでは書いていないことばかりでとても勉強になった上に、昨今の世界情勢も踏まえていろいろ思うところがあった。

 まず「中世」という概念について。「中世とは何か?」という問いは、「近代とは何か?」とか「ルネサンスとは何か?」という問題意識とセットとして追求するべき問題なわけだが、本書を読んでいると、まさにビザンツ帝国(=東ローマ)の存在こそが中世だとも考えたくなってくる。東ローマの文化と宗教と皇統を引き継ぐビザンツ帝国が存在感を発揮している限り、いわゆるヨーロッパ(=西ローマ)が独自の領域と歴史を持った世界として認識されることはなかったのではないか。というかそもそもヨーロッパ人がビザンツ帝国を「ビザンツ」と呼ぶこと自体が失礼な話であって、ビザンツ帝国は実質的にも手続き的にも「ローマ帝国」と呼ぶに相応しい国家だ。それを「ローマ帝国」と呼ばないのは、ヨーロッパ人がそれを事実として認めたくないというだけの話だ。
 そんなわけで、現在の我々がイメージする近代ヨーロッパ(時間的にも空間的にも)は、ビザンツ帝国(つまり中世)を忘却したところに成り立つ。あるいは、ビザンツ帝国を完全に忘却しても時間と空間の辻褄が合うように捏造された概念がいわゆる「ルネサンス」ということになるのだろう。実際に、いまヨーロッパが自らのルーツと自認しているギリシアの伝統は、実はもともと西ヨーロッパ(つまりゲルマン人の世界)には影も形も存在せず、ビザンツ帝国に蓄えられていた文化を学習(あるいは簒奪)して獲得したものだ。
 そういうふうに、ヨーロッパ近代を「ビザンツ帝国を忘却してギリシア文化を自らの起源だと強弁するもの」だと定義するなら、それが可能になるのはビザンツ帝国が滅亡した後になるから、必然的に「中世」の定義は「ビザンツ帝国が存在している世界」ということになる。

 そして「帝国」という概念について。ビザンツ帝国は、紛れもなく「帝国」だ。というのは、近代的なnationalityの概念を当てはめることがまったくできない多民族国家だからだ。ビザンツ帝国が国として存在できるのは皇帝という一つの人格の下に「力」が統一されているからであって、この皇帝の人格が失われたときに、「ビザンツ民族」なるnationは存在しない以上、国体=nationalityは容易に失われることになる。たとえば逆にユダヤnationのあり方を考えてみると、ユダヤ人には「王」という「力の統一」は長らく失われているにも関わらず、nationalityそのものは失われていない。「ユダヤ民族」というnationが存続している以上、王という人格の有無はnationality存亡の決定的な要因とならないわけだ。同様に、フランス革命によって「フランス王という人格」が失われたとしてもフランスというnationalityはむしろ強固になったことを思い出してもよい。しかしビザンツ帝国の場合は、国を国として統一する原理が「力」しかなかったために、皇帝の人格が失われると共に国体も失われることになる。つまり「帝国」とは本質的に中世的な概念であって、逆に近代とはnationalityが根本的な原理となった時代を指す。
 そう考えると、本書が中央政権と地方行政の関係をテマ制を中心に丁寧に見ているのは、「帝国」のあり方を考える上で本質を突いているわけだ。本書を読んで驚くのはあまりにも地方の反乱が続出するところだが、nationalityが成立していないとは要するにそういうことだ。国を国としてまとめる原理が「力」しかないのであれば、もし仮に地方が「力」を持てばそこが一種の「国」となるのも当然の話だ。そして最も「力」を持つ者を「ローマ皇帝」と呼ぶのであれば、皇統の正統性もなにもあったものではなく、ただただその時点で最大の力を握った者が皇帝を僭称するだけの話だ。しかしnationalityが成立しているところでは、そういう話にならない。

 ただ問題になるのは「宗教」だ。ビザンツ帝国が国としての体裁を保てたのは、実は単に「力」の論理だけでなく、ギリシア正教という宗教的な権威が背景にあってのことだった。ビザンツ皇帝が皇帝であるためには、軍事力だけでは十分ではなく、宗教的な権威も味方につける必要がある。近代国家ではnationalityが国を国としてまとめる凝集力になっているが、中世国家では宗教がこの凝集力を集めていた。日本の歴史を振り返ってみても、武家政権という最高の軍事力が皇統の正統性を冒さなかったのは、nationalityというよりは宗教的権威に理由があるだろう。本書ではいわゆる「皇帝教皇主義」に関する通説に留保をつけていたものの、ビザンツ帝国の国体を考える上ではどうしてもギリシア正教との関係を考えざるを得ない。国が国として成立する凝集力を保つために、軍事力以上に宗教というものが決定的な役割を果たすことについては、ユダヤ人のあり方を考えてもよいのだろう。

 そして現在の世界情勢との絡みでどうしても念頭に浮かぶのは、本書でも触れられている「第三のローマ」であるところのロシアの帝国主義的な蛮行である。4世紀前半、コンスタンティヌス帝によってローマ帝国の首都がローマからコンスタンティノープルへと遷された。そしてコンスタンティノープルの陥落に伴って、その都は今はモスクワに遷っているとロシア正教は言う。これは現実的な政治の話ではなく、国が国として成立するための凝集力がどこにあるのかという宗教的権威に関わる話だ。ロシア正教会は、「第三のローマ」というスローガンを掲げて、2000年の伝統を誇るキリスト教の正統性を自らが握っていると主張する。西ローマ帝国の消長に連なるローマ・カトリック教会としては認めがたい主張だろうが、東ローマからビザンツに連なる勢力としてはカトリックの方が無茶苦茶やっている(具体的にはカール戴冠とかオットー戴冠にどんな正統性があるというのか)という見方になるし、その主張に一定の理があることは認めなければならない。
 思い返してみれば、かつて「第三の帝国」を標榜した集団があったことに気がつく。ナチス・ドイツだ。第一帝国がオットー戴冠によって成立した神聖ローマ帝国、第二帝国がビスマルクによるドイツ帝国、そしてワイマール体制という国家の体をなしていない時期を挟んで、第三帝国がナチス・ドイツということになる。そしてこの「第三帝国」には、キリスト教神学を背景に「神の国の到来」をイメージさせる響きもある。そういう歴史的事実を踏まえると、ロシア正教会が「第三のローマ」を自称して宗教的権威の正統性を主張していることについてどう考えればいいのか。まあ、陰謀論でも何でもなく、プーチンとロシア正教会大主教自ら帝国主義的な侵略路線を大々的に宣言しているわけだが。

 言うまでもなく、ロシアは多民族国家だ。ロシアという領域に住んでいるのはロシア人だけではない。だから、国を国としてまとめる凝集力として「ロシア民族性というnationality」に期待することはできない。もしnationalityに依拠すると、ロシア領内に住む多民族(nation)の自決権をも認めなくてはならない理屈になってしまう。だからプーチンとしては、ロシア領内の多民族の自決権を否定しつつも、国を国として凝集させる論理を構築しなければならない。結果として、「主権」という概念を弄して「nationではあるがstateたる要件はない」という理屈を繰り返し強弁して民族自決権を挫き、現実的には「力」を見せつけつつ、しかし多数のnationを帝国主義的にまとめあげる原理としては宗教に期待するしかない。ロシア正教が果たしている役割は、「第三のローマ」というスローガンも深く絡んで、おそらく我々日本人が想像する以上に大きいような気がする。

 ということで、本書を読みながら、まさにビザンツ帝国が体現していた「中世」と「帝国」と「宗教的凝集力」という前時代の亡霊がプーチンの背後で蠢いているような気がしたのであった。しかしロシア正教は仮にも2000年の伝統を誇るだけ、まだマシなのかもしれない。中国が国民的凝集力の核として「習近平思想」を持ち込んでくるのは、ギャグとしか思えない。中国には他に誇るべきものがいくらでもあるというのに。今こそ「国破れて山河あり」という章句を味わうのがよろしいのではなかろうか。

「ところが、ビザンツ帝国では「デモクラティア」という養護の意味は、これらとはまったく異なる軽蔑的な色彩を帯びていった。そもそも史料でこの用語が登場するケースはまれになるのだが、その際の意味は「混乱」とか「騒乱」なのである。つまり、ビザンツにあっては皇帝が君臨する君主政体が常態であって、デモクラティアとはそれを欠いた不測の事態なのであった。」96頁
「ところが、帝国は崩壊の局面に入ると予想外にあっけない、あるいは長い混迷の時期が続くケースが多いようだ。そして、帝国が解体するとき、そこに混在して生活してきたエスニックな諸集団が「民族」などの形態をとってシビアな対立抗争を展開する。」288頁

 引用したのはもちろん本書内でビザンツ帝国を説明した文章なのだが、さてはて、ロシア(あるいは中国)の現状と未来を言い当てる文章になるかどうか。
 ただ心配なのは、日本にもこういうふうにデモクラティアを否定してビザンツ(およびロシア・中国)のような権威主義専制国家に憧れる層がそうとうたくさん存在しているというところだ。習近平思想を想起させるような文章で国民統合を実現しようと試みるところもよく似ている。今後の世界で説得力を持つのは、デモクラティアか、権威主義的専制か、さてはて。

中谷功治『ビザンツ帝国―千年の興亡と皇帝たち』中公新書、2020年

【要約と感想】鈴木宣明『ローマ教皇史』

【要約】ローマ教皇2000年の歴史を、使徒ペトロを初代として、現代まで辿りました。

【感想】一般的な世界史の大半は、フランスとかドイツとか国民国家を単位として記述するため、ローマ教皇はその時々に脇役として登場してくるに過ぎない。たとえば「カール戴冠」や「カノッサの屈辱」などのエピソードで、何の脈絡もなくいきなりローマ教皇が登場して、「そういえば、いたんだ」って思い出すことになる。が、もちろんそれは国民国家を単位として歴史を見ているからそういう印象になるだけであって、ローマ教皇の方にも文脈があるに決まっているのだった。逆に、ローマ教皇の立場からヨーロッパの歴史を眺めることで、国民国家という単位の射程の短さが明瞭に見えてきたりする。
 しかしまあ、追放されたり、幽閉されたり、連れ去られたり、無視されたり、破門されたり、毒を盛られたり、暗殺されたり、何度も分裂したりして、ローマ教皇も大変だ。
 で、今後西洋史の勉強を進める上で注意しておくべき論点が浮き彫りになった気がするので、以下にメモしておく。著者の主張ではなく、あくまでも私が疑問に感じたことである。

【要検討事項】使徒ペトロ
 現代に至っては、ローマ教皇の権威は使徒ペトロに由来するというのが当たり前のように言われたりするけれども、実はその主張そのものが歴史的に形成されてきた神学の産物だということは押さえておく必要がある。実際、仮にペトロの権威を認めるとしても、それがカトリック教会及び歴代教皇に引き継がれる根拠については別に考慮する必要がある。ひょっとしたら、ないかもしれない。で、この根拠が崩れるとローマ・カトリックの権威が土台から崩れる。ので、カトリックがこの論点で譲るわけがない。本書でも、古代教皇のところではもっぱらこの論点が検討される。

【要検討事項】西ローマ帝国は滅亡したのか
 そして古代ローマ教皇はコンスタンティノープルの東方教会との主導権争いに明け暮れるわけだが、それはいわゆる西ローマ帝国滅亡(476年)をどう評価するかという話にも繋がってくる。いわゆる「西ローマ帝国滅亡」という考え方は、実はカトリック教会にとって都合の良い考え方に過ぎず、実態を表わしているわけではないと疑ってもよい。というのは、いわゆる西ローマ帝国滅亡以降も、ローマ教会はずっとずっと長い長い期間、東ローマ帝国からの関与と圧力を受け続けるからだ。東ローマ帝国の立場から言えば、そもそも西ローマ帝国は滅びてなんかおらず、というか最初からそもそも西ローマ帝国と東ローマ帝国が分離していることもなく、ローマ帝国はコンスタンティノープルに健在であって、だとすればローマ教皇はコンスタンティノープル宮廷であるところのローマ帝国に当然従う義務があるだろう、という話になる。しかしローマ教皇側としてはビザンツ帝国に従いたくないので、「私たちが従っていた西ローマ帝国は滅亡しました、だからもう教会は自由。ビザンツ帝国に従う理由はありません。」と主張して対立を煽ることになる。というわけで、「476年の西ローマ帝国滅亡」という事案そのものが、利害関係者によって都合良く拡大解釈されたものかもしれない、と疑ってもよい。
 たとえば神学論争についても、純粋にキリスト教神学として極められたというよりは、政治的・現実的動機によってことさら相違を強調されたと勘ぐることもできる。特にエフェソス公会議やカルケドン公会議等で問題になった「三位一体」とか「キリスト単性説」とか、大局的に見れば心底どうでもいいことで、コンスタンティノープル総主教ネストリウスが言いがかりを付けられただけのようにも見える。率直に言って、「三位一体」にこだわる理由や意義は論理的にはさっぱり分からないが、政治的な動機で騒ぎたてたと勘ぐれば極めてすっきりとよく分かる。
 となると、いわゆる西ローマ帝国滅亡後に発生した「聖画像崇拝」の問題にしても、ローマ・カトリックが聖画像崇拝を認めるのは、神学的な根拠に基づくものではなく、ことさら東方教会との違いを際立たせて、ビザンツから距離を取ってやろうという政治的意図から出たものではないか、と勘ぐることもできてしまう。
 いずれにせよ、ビザンツ(東ローマ)帝国の存在を視野に入れて「そもそもローマ帝国は滅亡していない」という主張を受け容れ、そして事実としてローマ教皇がビザンツ帝国からの影響と圧力を受けていたことに配慮することで、ヨーロッパ中心史観が描く物語とは別の側面に光が当たることは間違いないのだった。

【要検討事項】カール戴冠の意味
 西暦756年の「ピピンの寄進」や西暦800の「カールの戴冠」は高校世界史でも扱われる題材で、現在の西ヨーロッパ世界成立の原点とされているが、ビザンツ帝国が絡んでくると急にきな臭い話になる。そもそもローマ教皇がフランク国王カールに「西ローマ皇帝」の称号を授けるためには、前提として、西ローマ帝国が滅んでいなければならない。西ローマ帝国が滅んでいなければ、カールに称号を授けることはできない。ローマ教皇としては、是が非でも西ローマ帝国が滅んだことになっていなければならない。そこで邪魔になるのがビザンツ帝国=東ローマ帝国だ。ビザンツが「ローマ帝国は滅んでいない」と言い張ったら、ローマ教皇はカールにローマ皇帝の称号を与えることなどできない。実際、東ローマ帝国はカール戴冠の実効性を認めない。ローマ教皇の方としては、現実的にはただただビザンツ帝国を完全に見限ってフランク王国=ゲルマン人に乗り換えただけなのだが、その行為を正当化するためには、「西ローマ帝国は実は滅亡していたんだよ」という歴史を創作しておく必要が出てくる。となると、カール戴冠によって「西ローマ帝国が復活した」と言っている人もいるが、極めて怪しい話になってくる。そもそも滅亡していなければ、復活のしようがない。逆に言えば、復活したと言い張ることで、滅亡していたことにできる。カール戴冠は、本当に「西ローマ帝国の復活」としていいのか。ローマ教皇に、そんな権能が本当にあったと考えていいのか。というか、仮に権能がなかったとしても、後に何も事情を知らない人たちに対して「西ローマ帝国の復活」と言い張り続けることで、ローマ教皇に権能があったことにできてしまうのだ。こういうふうに既成事実の神話化を試みているのはローマ・カトリックだけではないのだが、ローマ教皇はこの技術が実に巧みだ。とういか、その知恵だけで生き抜いてきたようにも見えてしまう。

【要検討事項】神聖ローマ皇帝位の行方
 高校世界史のレベルでは、西ローマ皇帝の称号はその後ドイツ国王との関係で云々されることになるのだが、それも怪しい話だ。ローマ教皇は、カール戴冠の後、特に一貫してドイツ国王(東フランク王)に皇帝位を与え続けたわけではない。実は西フランクに浮気していたりもするし、10世紀初頭には形骸化して消滅している。
 神聖ローマ帝国皇帝の称号がドイツ国王と結びつくのは、西暦962年のオットー1世戴冠からのことだ。逆に言えば、ここでもまた歴史が創作されたと考えて良い。カール大帝の戴冠とオットー1世の戴冠には、直接的な連続性は認められない。それを連続していると理解できるのは、オットー1世とローマ教皇が歴史を創作したからに過ぎない。しかし実はそれすらも後世の創作に過ぎないのだろう。オットー1世に皇帝の称号を与えたローマ教皇ヨハネス12世は、物理的支配の後ろ盾を得るために皇帝の称号を形式的に利用しただけであって、それを理念の次元で「ローマ帝国の継承」などと考えていたわけはなかろう。またオットーはオットーで単にローマ教皇を利用しようとしただけで、実際に皇帝の称号を得てからは、ローマ教皇ヨハネス12世を殺人罪や汚聖罪を理由に退位させている。オットーがローマ皇帝の称号を得たのは、どうもローマ教皇ヨハネス12世が軽率で迂闊だったからに過ぎず、カール戴冠とオットー戴冠を理念的に繋げようとするのは、後の時代の創作に過ぎないだろう。
 そのあたり、ナポレオンの戴冠については神話化を許容できないほど生々しくも野蛮な剥き出しの実力主義だったことを記憶しているわけだが、そういうふうに生々しいのは事情が詳細に知られている(おそらく印刷術の効果)からであって、実際にはオットー1世の戴冠にも似たり寄ったりの事情があったのをみんな忘れてしまった(おそらく印刷術がなかったため)だけなのだろう。

【要検討事項】イタリア・ローカリズム
 現代ではローマ教皇の権威は全世界に普遍的であると見なされているのだが、それは極めて近年の話で、中世からルネサンスあたりまではそうとうローカルな政治権力として機能していたことをイメージしておく必要があるように思う。たとえばマキアヴェッリ『君主論』ではローマ教皇アレクサンデル6世(およびその息子)が大活躍するのだが、それは西ヨーロッパに普遍的な宗教的権威としてではなく、ただただイタリアの現実政治に影響を及ぼすローカルな権力としてだ。
 14世紀のフランス王国によるアヴィニョン捕囚も、その文脈で理解しておく必要がある。フランス王国は宗教的に何かしようとしてローマ教皇を捕えたのではなく、ただただイタリア(特にナポリとシチリア)に影響力を行使するべく、ローカル権力であったローマ教皇を拉致していただけなのだろう。実際、ローマ教皇が捕囚されていたアビニョンは、フランス王家の支配地ではなく、ナポリとシチリアに極めて大きな関心を抱いていたアンジュー家の所領だった。捕囚直前の13世紀には、アンジュー家のシャルル・ダンジュー(シチリア王)が、ビザンツ帝国を征服して地中海の覇者となることをも夢見ていおり、ローマ教皇もその野望(東ローマ帝国征服)に乗っかっていた。ローマ教皇としては、やはり相変わらず東ローマ帝国の存在は目の上のたんこぶのようなものだったのだろう。
 ビザンツ帝国は1453年にイスラム勢力によって滅ぼされるわけだが、ローマ教皇は特に十字軍の発令などをすることもなく、ルネサンス美術にうつつをぬかしてローマ市内の美的整備に力を尽くしている。世界全体の動向などどうでもよく、ローマが美しくなればそれで嬉しいという、ただただローカルな権力になっている。その勢いのまま1517年、いわゆるルターの宗教改革に突入していくわけだが、ローマ教皇に対応する力がなかったのは当然だったかもしれない。とすれば、たとえばイギリスが国教会を打ち立ててローマから離反し、宗教的寛容を唱えたジョン・ロックが「カトリックと無神論者は例外だ」と主張することになる気持ちにも想像が及びそうだ。
 そんなカトリックが、いつの間にか「普遍」を装っているのはどういうことか、そこに至るまでにどういう歴史の創作があったのかは、しっかり把握しておく必要がある。案外、日本人だけが勘違いしていて、ヨーロッパ現地の人はそんなふうに思っていないかもしれない(たとえば日本人が神社やお寺に対して抱いている程度の感覚)ということも視野に入れておく必要がある。

鈴木宣明『ローマ教皇史』ちくま学芸文庫、2019年<1980年