【要約と感想】イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』

【要約】考えるな、感じるんだ!

【感想】読んで知識を蓄えるタイプの本ではなく、修行を実践するための指南書だ。頭で理解するのではなく、行動と実践を通じて「体験」しなければ、本書に書いてあることは何の意味も持たない。だから、修行も体験もしなかったし、最初からするつもりもなく、おそらく今後もしないであろう私にとっては、ほぼ無意味な読書ではあった。まあ、私にとって無意味であることを知っただけでも意味があるのかもしれない。他の誰かにとって有意義であればいいのだ。他の誰かにとって無意味だと主張するつもりは、まったくない。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンスと人文主義
 ロヨラの本文ではなく、解説のところで、ルネサンスと人文主義に関する言及があった。が、その記述には疑問なしとしない。

「パリ大学で学んだことはイグナチオに多くのことを教えた。まず第一に、ルネサンス・人文主義を学び、ルネサンスの最初のヒューマニストと見なされるようになった。」36頁

 わたしの知識の範囲だと、ルネサンス最初のヒューマニストと呼ばれるべき人物はペトラルカだし、百歩譲って「ヒューマニスト」という言葉にケチをつけて範囲を絞るとしても、他にエラスムスやトマス・モアなど候補はいくらでも挙げられる。本書がどういう観点からどういう意図でロヨラを「ルネサンス最初のヒューマニスト」と言うのか、よく分からない。
 で、ここに続く文章は、教育史的に考慮すべき材料を多く含んでいるのでサンプリングしておく。

「というのは、イエズス会を創立し、若い会員を養成するとき、ラテン語・ギリシャ語とギリシャ・ローマの文学の徹底的な勉学を義務づけ、その上で哲学・神学の研究をさせるようになったからだ。その後、イエズス会のコレジウムが全ヨーロッパに拡がり、この教育方針が受け継がれ(一六世紀には二百校を数えた。その中の一つ、ラフレーシュ王立コレジウムから近代哲学の祖デカルトが生まれた)、西洋近代教育史に絶大な影響を与え、西洋文化にヒューマニズムの伝統を築き上げる上に大きな影響を与えた。」36頁

 イエズス会が近代に続く学校制度の源流の一つであろうことまでは否定しない。ヒューマニズムの伝統を築き上げる上で影響を与えたこともある程度は事実だろう。だがしかし、たとえば同時代のエラスムスと比較した時、どうなのか。最終的には徹底的に宗教的修行と神秘的体験を重んじて「考える」ことを相対的に低く置いたイエズス会の理念と、とにかく「考える」ことを中心に丁寧なテキストクリティークを積み重ねていったエラスムスなど人文主義者の活動では、どちらがヒューマニズムの伝統の中核に位置付くのか。ロヨラやイエズス会が仮にヒューマニズムの時代的雰囲気に棹さしていたとしても、本質はまったく別のものではないのか。

「「霊操を授ける人」から「霊操を受ける人」へ神体験が伝えられ、霊的伝承がイグナチオから現代にまで継承され続けている。それがキリスト教の本質を形成する上の根幹となっているだけでなく、この霊的伝承から近代教育が生まれ、西洋文化全体を活性化させている。」41頁

 教育学者から見れば、筆が滑っているように見える記述である。確かにロヨラの活動の一端は近代教育に繋がるのだろうとしても、いやいや、他にもっと源流として重要な要素がいくらでもある。
 あるいは、そもそも、「キリスト教の本質を形成する上の根幹」というところが、意味が分からない。例えばアウグスティヌスから見たら、ロヨラの考え方はペラギウス的異端に似ていたりしないか。実際、ヒューマニズム的感性からキリスト教の本質に迫ろうとしたエラスムスの試みは、カトリックからもルター派からも異端の疑いを受けた。だとしたら、著者が言うようにロヨラが「ルネサンス最初のヒューマニスト」とすれば、異端へ転がり落ちるのは容易だ。実際、自らの意志による修行で神に近づけるという傾向を持つビザンツ的な修道士たちは、ペラギウスがアウグスティヌスから批判されたのと同様に、カトリックから何度も異端の烙印を押されている。ロヨラのように自らの修行で神的体験を得ようという傾向は、「キリスト教の本質」から言えば極めて危険な考え方ではないだろうか。
 解説者は「禅宗の師資相承による法灯伝統とそれによる日本文化への影響を考えれば、日本の読者にはわかり易いかも知れない」(41頁)と畳みかけるが、それこそビザンツ(東方)的な小乗の感性に近いということであって、カトリック(西方)的な大乗の本質からすれば危険であることの証拠に過ぎない。キリスト教の本質とは、貧しく、弱く、醜いものにこそ神への道が開かれているという考え方ではなかったか。厳しい修行を経なければキリスト教の本質に近づけないという「強者」の発想は、キリスト教の土台を掘り崩すものではないのか。

 とはいえ、アウグスティヌスに非難されたペラギウスが極めて高潔な人物で、カトリックから異端の烙印を押されたネストリウスが人望厚い立派な人物であったのと同様、仮にロヨラの思想と活動がカトリックから見てどうだったとしても、立派な人物だったであろうことには変わりない。ただそれが「キリスト教の本質」とか「ルネサンス最初のヒューマニスト」だったかと聞かれると、それはさすがに怪しいですよね、となるだけの話だ。

イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』門脇佳吉訳・解説、1995年、岩波文庫