【要約と感想】聖アウグスティヌス『告白』

【要約】若い頃は名誉欲に駆られたり、乱暴な仲間たちと盗みを働いたり、軟弱文学やマニ教にはまったり、旧約聖書を荒唐無稽な与太話として馬鹿にしたり、性欲から抜け出せずにいたりしましたが、悩みに悩んだ末、様々な先人の助けを借りつつ、最終的には敬虔な母の願いどおり、キリスト者になりました。神様ありがとうございます。(第1巻~第9巻)
さらに、現在の私が如何様なものかを、認識の仕方、幸福の感じ方、情念に縛られる様を通じて示しますが、それが人間の在り方というものです。神様ありがとうございます。(第10巻)
そして聖書の理解について、時間論、天地論(空間論)、聖霊論(三位一体論)、生物論を通じて示します。神様ありがとうございます。(第11巻~第13巻)

【感想】かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーは「告白とは内面を作り出す制度」だというようなことを言った。まず内面があって次に「告白」という形の言表が行われるのではなく、まずは「告白」という制度に則った行動が行われて、それに伴って近代的内面が創出されるという洞察だ。フーコーは中世の教会における告解制度を想定してこう言ったわけだけど、本書読了後には、このような洞察をたちどころに想起する。本書に描かれているのは、まさに近代的内面であるように思われる。
とはいえ、著者アウグスティヌスが生きていたのは西洋古代最末期であって、我々が想定するような近代的自我がそのままの形で存在できるような社会経済史的条件は欠けている。我々が本書に近代的自我を読み取ってしまうのは、近代に生きる我々の側の思い入れに過ぎない可能性が高い。この違和感は、第11巻(岩波邦訳版では下巻)以降の展開に顕著に表れているのかもしれない。第10巻までは近代的感覚から見ても「告白」と呼ぶに相応しい内容に読めるが、第11巻以降の内容は「告白」という言葉のイメージからはかなり乖離している。しかし実はこの違和感バリバリの第11巻以降の行論こそ、まさに内面が創出される過程に立ち会うという経験を可能にしてくれるものなのかもしれない。

さて前半は、幼年期→少年期→青年期→壮年期の自伝的な記述となっている。言葉の獲得過程など、発達心理学的な洞察が各所で示されていたり、当時の学校の具体的な様子や学歴に関する事情が記されていて、教育学的にもたいへん興味深い。間違いなく第一級の史料だ。
また一方で、古代末期に新アカデミア派(懐疑主義)や新プラトン主義が大きな役割を果たしていたことが具体的によく分かる。マニ教も最終的には邪教ということになるが、実はこういう知的営為の一環を構成していたものとして理解できる。「自由意志と運命」とか「悪の由来」など、現代においても哲学上の問題として議論されるテーマをめぐって、1600年前にも様々な流派が鎬を削っていたのだ。最終的に西洋世界でキリスト教が説得力を持つのも、こういう古代末期の思想環境を踏まえて考える必要があるのだろう。
とはいえ一番おもしろく読めるのは、性欲に対する葛藤に関する記述かもしれない。それは、時代も地域も遠く離れた我が国の親鸞のエピソードを思い起こさせる。親鸞が性欲に対する葛藤に正面から立ち向かったところである種の悟りを得たのと同じく、アウグスティヌスもこの葛藤の克服過程を通じてある種の悟りを得ている。この性欲というやつは、自分以外の誰かに対しては表面的な糊塗によって誤魔化しがきくものだが、こと自分自身に対しては、自分自身の身体が自分の意志を裏切るという形で、しかも極めて厄介なことに寝ているときにも襲ってきたりして、まったく誤魔化しがきかないものだ。案外、近代的自我というやつが立ち上がってくるときには、この葛藤が重要な役割を果たしているのかもしれない。というか少なくとも親鸞とアウグスティヌスでは、そうだ。

【個人的な研究のためのメモ】
今後いろいろな場面で使えそうな示唆に溢れる文言が多く、おもしろい本だった。
まずキリスト教の「子ども観」について、疑いようもなく明瞭な言質を与えてくれる。

【子ども観】
「だれがわたしに幼年期の罪を思い起こさせるのであるか。何人も、あなたのみ前で、罪なく清らかであるものはないのであって、地上に生きること一日の幼児でさえも清くはないからである。」第1巻第7章11

これが「原罪」というものだ。いま私たちが想起する「子どもは純真で清らか」というイメージは、キリスト教が力を失っていく近代以降に創出されたものだ。
また、幼児の世話についても言質を得た。

【幼児の世話】
「幼児はかなり大きくなった少女の背中に負われるのがつねであった」第9巻第8章17

日本でも高度経済成長期頃までは、幼児の世話をするのは少女の役割だった。大人が野良仕事に精を出している間、乳幼児の世話をするのは10歳前後の少女、いわゆる「子守」だった。これは日本だけの事情ではなく、どうやら世界共通で見られる現象のようだ。
そして当時の学校の様子が、生々しく記録されている。

【学校の様子・体罰】
「神よ、わたしの神よ、わたしがこの世で成功して、人間の名誉と虚偽の富をうるのに役たつのみである弁論の術に秀でるために、教師に対する服従が少年時代のわたしに生活の規範として示されたとき、わたしは人生の荒波だつ社会にどんな悲惨と嘲弄をなめたことだろう。それからわたしは学問を学ぶために、学校へおくられたが、それが何の役に立つかはあわれなわれわれの知らぬところであった。しかも学習をなまけると、笞で打たれた。年長の人びとはこういうことをも是認していた。」第1巻第9章14

「しかもわたしたちは書くことも読むことも考えることも、教師たちから命ぜられていたようにせずに罪をおかした。主よ、じっさいわたしたちは、記憶力も知能もなかったわけではなく、わたしたちはそれらの能力をあなたの望みどおりにわれわれの年齢のわりに十分もっていた。しかし、わたしたちは、遊ぶことに熱中して、われわれと同じようなことをしている人によって罰せられた。年長者のいたずらは「つとめ」といわれたのに、少年たちが同じことをすればかれらによって罰せられ、少年たちをあわれむひとも、年長者をあわれむひとも、まして両者をあわれむひともいない。」第1巻第9章15

学習を怠けると体罰を受けるというのは、前近代の日本では見られない現象だったように思う。西洋世界が体罰を躊躇しなかった理由について、キリスト教の「原罪観」が槍玉に挙がることがしばしばあるが、アウグスティヌスの報告によれば、キリスト教に影響を受けるまでもなく、もともとローマ世界に体罰上等の文化が広がっていたことが分かる。
また、言語を学ぶことについて言及している部分で、学ぶ際には強制されるよりも自由に任せるほうが効果的だと指摘している。

【強制と自由】
「しかしわたしの少年時代は青年時代ほど心配されはしなかったが、わたしは学問を好まず、それを強制されることを嫌っていた。それにもかかわらずわたしは、強制された。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしに強制的に学ばせていたことがらを、ゆたかな窮乏と不名誉な欲望を満たすことにすぎないということに気付いていなかった。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしはギリシア語を少しも知らなかったので、それを覚えるために残酷な脅迫と懲罰をもって激しく責め立てられた。」第1巻第14章23
「言語を学ぶには恐ろしい強制よりも自由な好奇心のほうが有力であることはまったく明らかである。」第1巻第14章23

そしてアウグスティヌス自身は、言葉は「教える人」からはまったく学ばず、「語り合う人びとから覚えた」(第1巻第14章23)と言っている。現代日本でも、しばしば英語教育に関して同じことを主張する人がいる。

さすが古代最大の神学者と呼ばれるだけあって、「一性」や「同一性」や「三位一体」に関する言及が、本書の中にも極めて多く現れる。

【一性・同一性】
一なる者であられる方よ、あなたからすべての尺度は起こるのであり、もっとも美しい者であられる方よ、あなたはすべてのものを美しく形成し、あなたの法をもってすべてのものを統べられるのである。」第1巻第7章12
「しかしあなたは物体ではなく、また物体の生命である魂でもない。この物体の生命は物体そのものよりもすぐれて、いっそう確実である。あなたは、魂の生命であり、生命の生命であり、わたしの魂の生命よ、あなたは生命そのものでありながら、しかもけっして変化することがない。」第3章第6章10
「侵されないものは侵されるものよりも尊く、変化しないものは変化するものにまさると考えたのである。」第7巻第1章1
「それからわたしは、あなたの下にあるものを眺めて、それがまったく存在するのでもなく、またまったく存在しないのでもないということを知った。それらはあなたによって存在するのであるから、たしかに存在するが、あなたが存在するような存在ではないから、けっして実在しない。変化することなく、常住するもののみが真実に存在するのである。」第7巻第11章17
「わたしはあなたが存在すること、無限でありながらしかも有限の空間にも、無限の空間にもひろがらないこと、あなたが真に存在し、つねに同一であってどの関係においても、またどの運動によっても変化しないこと、しかしあなた以外のものは、それが存在するというもっとも確実な証拠から見ても、あなたによって創造されたものであるということを確信していた。」第7巻第20章26←プラトン派の書物の影響
「また、見るものがつねに同一であるあなたを眺めるようにすすめられるばかりでなく、」第7巻第21章27
「あなたはつねに同一であって、けっして移り変わることがない。つねに同一の仕方で存在しないものをも、あなたはつねに同一の仕方で知っておられるからである。」第8巻第3章6←「詩編」101の28
「しかしあなたのあわれみは、生命にまさるのであるから、どうであろう、わたしの生命は分散なのである。しかしあなたの右手はわたしをわたしの主において、すなわち一なるあなたと多なる――多によって多となれる――わたしたちとの間の仲保者である人の子において、支えられたのであるが、それはわたしがかれによってわたしがすでに捉えられたものにおいて捉え、わたしの以前の行状から呼び戻されて、一なるものを追い求めるようになされたのである。」第11巻第29章39
「つぎのような被造物でさえもあなたと等しく永遠であるのではないと語られた。この被造物というのは、ただあなたのみがそれによって喜びであり、永久不変の貞節を守って、あなたをそれ自身のうちに吸収し、いついかなるところにおいても、それ自身の変易性を示すことなく、それにむかってつねに現存されるあなたに衷心からよりすがり、それが期待する未来をもつこともなく、それが記憶するものを過去に移しいれることもなく、どんな変化によっても変わることなく、どんな時間にも分散しないのである。」「もしこのようなものがあるなら、それは他のものに移るという背反の心なしにただ一途にあなたの喜びのみを観照するものであり、聖なる霊的存在の、すなわちわたしたちの見る天の上の天にあるあなたの国の市民たちの平和の紐帯によってまったく一心に結ばれたただ一つの純粋な知性である。」第12巻第11章12

一性の考え方そのものは、キリスト教に傾倒する以前、新プラトン主義(プロティノス・プロクロス)の書物から学んでいるようだ。新プラトン主義の「一性」とキリスト教の一神教教義が親和的であることは自明ではあるにせよ、どうして結果的に親和的となったかについてはいろいろなストーリーが考えられそうだ。
そしてこの「一性」に対する理解を踏まえて、「三位一体」について独特の考え方を示している。

【三位一体】【眼鏡っ娘論に使える】
「さて、わたしの挙げる三者というのは、存在と認識と意志である。じっさい、わたしは存在し、認識し、意志する。わたしは認識し、意志しながら存在し、わたしが存在して意志することを認識し、存在して認識することを意志するのである。それゆえ、この三者において、生命が、いや、一つの生命、一つの精神、一つの本質がどれほど不可分的であるかを、またその区分がどれほど不可分的でありながら、しかもなお区分であるかを、自己に注視し、それを認めて、わたしに語るがよい。しかし、それらのうちにある手懸かりとなるものを見いだして、それを語るとき、それらのものの上にある不変的なもの、すなわち不変的に存在し、不変的に認識し、不変的に意志するものを見いだしたと考えてはならない。この三者のゆえに、その上にあるものにも三位一体が存するのであるか、あるいいは三位の各々にこの三者が存して、三者が三位の各々に属するのであるか、あるいはまた、不可思議な仕方で、単純でしかも複雑に、同時にそのいずれでもあって、三位一体においてはそれ自身がそれの制限をなしながら、しかも無限であり、そのような仕方によってそれは存在し、それ自身に認識せられ、その統一性の豊富な広大性によって不変的に同一なものとして、それ自身充ち足りているのであるか、だれがそれを容易に考えようか。」第十三巻第十二章12

人間の認識を超えたものを記述しようと努力すると、こういう言い回しに落ち着くということかもしれない。とはいえ、まずはアウグスティヌスの公式見解として、三位一体が「存在/認識/意志」の可分と不可分として議論されていることは、重要な基本知識として押さえておきたいところだ。この三位一体の公式は、眼鏡っ娘論で言えば、「娘/眼鏡/っ」に当たる。神秘である。

聖アウグスティヌス『告白(上)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年
聖アウグスティヌス『告白(下)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年