【要約と感想】河合隼雄『子どもと学校』

【要約】これからの教育は多様な価値を認めていかなくては成り立ちません。そのために「臨床」の知恵が役に立ちます。大人から一方的に「教える」ことではなく、子どもの自発的な「育つ」を支援することが大切です。
価値観が大きく変わっているのは、もともと女性原理で動いていた日本社会に、西洋の男性原理が入ってきたのが原因です。どちらかが正しいということではなく、両方を大切にして、子どもの個性を伸ばしていきましょう。

【感想】二項対立的に「共同体/個人」を切り分け、それぞれに「女性的/男性的」を割り振って、さらに「日本/西洋」を当てはめ、その止揚を目指すという構図は、まあ、陳腐には感じる。「またですか」という気にはなる。とはいえ、分かりやすい構図ではある。これで分かった気になる人が多いのは、間違いないのだろう。私もこの図式に乗っかるのが無難なのかもしれない。いやはや。

しかし、「性」と「自立」に関する考察のところは、感心した。ナルホドなあと思った。多方面に波及しそうな論理なので、しっかり自分の中で消化していきたい。

【要検討事項】
不登校やひきこもりに関して、著者は「さなぎ」の比喩を使っている。他の本でも「さなぎ」の比喩を見かけることがあるのだが、そのオリジナルはどこにあるのか。ひょっとして河合隼雄か、どうか。「ひきこもり」に関する言説史に関わる課題として、ちょっと気にしておきたい。

「人間にとって子どもが大人になるということは、なかなかのことである。毛虫が蝶になる中間に「さなぎ」になる必要があるように、人間にもある程度「こもる」時期が必要なのである。(中略)
そのような「さなぎ」状態が他の子どもよりもきつい形であらわれてくると、不登校になり、文字どおり部屋にこもるようになる。」(143-144頁)

【個人的な研究のための備忘録】
本書ではやたらと「個性」という言葉が登場する。臨時教育審議会の答申が出てまもなくの1992年出版の本でもあり、影響が色濃く反映しているようにも見える。河合隼雄自身の思想変遷を睨みながら、「個性」概念の歴史を研究する上で考慮に入れる価値がある史料なのかもしれない。

「わが国の母性原理の強さに基因する一様序列性の害は、いくら強調しても足りないほどのものである。一人ひとりが個性をもち異なる存在であることをほんとうに自覚できたなら、全員が一様に順序づけられることなど考えられるはずがない。しかし日本人の場合、自分がそのような場の序列のどこにいるのか、部長か課長か、課長でも一番目か二番目か、ということによって自分のアイデンティティーを保っている人が多いのではなかろうか。
もし、生徒たちに対して、ほんとうに個性の伸張などということを期待するのなら、教師や教育委員会の人たち、そして文部省の役人が、一様序列的アイデンティティー以外の個性に基づくアイデンティティーをもつべきであろう。」(29頁)

「次に「個性の伸張」ということだが、これも実に大変なことだ。このことは、先に述べた事実とも関連してくると思うが、日本の教育が、個性や創造性を伸ばす点において他の先進国に劣るものであることは、つとに指摘されているところである。」(46頁)
個性の尊重という点について、教育のことを考える人であれば、その重要性をすべての人が指摘するであろう。しかし、これはわが国の教育を考えてみると、相当に困難な問題なのである。」(56頁)
「これは、大学人としては、各大学が大学としての個性をもっていないことをまず反省すべきだろう。各大学が多様な個性を持てば、それを一様に順序づけることができないし、受験生は大学の個性と自分の個性とのからみで大学の選択をするので、すべての人が特定のひとつの大学へ行きたがるなどということがなくなって、少しは受験競争も緩和されるであろう。」(57頁)
「生徒の個性を尊重するためには、教師が自分自身の個性を大切にしなくてはならない。」(113頁)

そして「個性」に対する考察が進むうちに、日本人の近代性の話に迷い込んでいく。この話の構成自体は極めて陳腐なように思わざるを得ないところではある。

「ここで「日本人論」を展開するのもどうかと思うが、「個性」のことを考えはじめると、どうしても日本人の特性について考えざるを得なくなってくる。簡単に言ってしまえば、欧米人の近代合理主義に支えられた自我の確立ということを、日本人がいまだ充分に成し遂げていないということである。」(58頁)
「しかし、問題は簡単ではない。近代自我はそろそろ行きづまりを見せ、人間の自我意識のあり方においても、まさに転換期に来ていることを自覚させられるからである。わが国の教育が、したがって、西洋に追いつこうとして、近代自我を確立するような教育にそのあり方を変えたとしても、それはたちまち時代おくれとなってしまうであろう。近代自我を超えたあり方を、われわれは探索しなくてはならない。わが国の教育のあり方は、欧米をモデルにするわけにもゆかず、日本の従来の方法をよしとするわけにもゆかず、「個性」を見出してゆくのには、いったいどのようにすべきか、強いジレンマに悩まされるのである。」(63-64頁)

通説的に言えば、近代自我に対する疑念は20世紀初頭の段階ですでにフロイトによって提出されたことになっていると思うし、著者御専門のユングもいろいろ言っているはずではあるのだが、著者はまさに眼前の問題として理解している。そしてこの解決を「日本的=女性的/西洋的=男性的」の止揚に求めることとなれば、その構図はそれこそ戦前の「近代の超克」から見られる陳腐なものになるのであった。

そしてまた教育基本法の第一条を掲げた上で、内容に対して違和感を表明しているのは、個人的には見逃せないところだ。

「教育基本法にはいいことが書いてあるが、それはそのような人間の「育成を期して」教育が行われるのであり、ここに登場した人たちは、子どものときこそ問題があったが、基本法にあるようなことを目指しての「育成を期した」教育を受けたから、今日のようになったのだ、などと言えるだろうか。
それよりも、個性を豊かにするためには、教育基本法の第一条をあらためて、「心身ともに不健康な国民の育成を期して」とでもするべきであろうか。木村素衛氏の指摘している、教育における「根本的矛盾」というものは、実に根が深いのである。」(40-41頁)

個人的には、教育基本法の成立過程と哲学に対する根本的な誤解があるように読めるところではある。が、それを期待してもしかたがない。「教育基本法に対する見解」の歴史的な変遷を考えるときの参考資料の一つとして扱うべき文章なのだろう。

河合隼雄『子どもと学校』岩波新書、1992年