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【要約と感想】大田堯『子どもと教育 なぜ学校へ行くのか(新版)』

【要約】学校は近代という時代に特有の施設です。学校には近代科学の知恵がパッケージ化されており、本質的な役割を考えれば「知育」は外せません。しかし現在の学校は偏差値で人間を比べるばかりで、劣等感を植付けることしかしていません。
人は、自主的な選択を繰り返しながら自分の個性を作り上げていきます。これからは選抜ではなく選択を土台として学校をつくっていきましょう。

【感想】学校選択制を肯定的に理解していることに、まずは素直に驚く。もちろんそれは新自由主義的な立場からの学校選択制ではない。子どもの「個性」の尊重を出発点にして表現された、教育学者ならではの見解ではある。とはいえ、そのアイデアがひょっとすると「公共性」を土台から覆してしまうものではないかという畏れを感じとることができないのには、違和感を持たざるを得ない。まあ、1995年という出版時期が、危機感の低さに表れているということなのかもしれない。臨時教育審議会が打ち出した方向性とどう関わっているのか、あるいは関わっていないのか、興味が出るところではある。
昨年亡くなられた大田先生の仕事と人格に対しては心から尊敬して止まないのではあるが、とはいえ本書の表現のそこかしこには時代による制約も同時に感じざるを得ないところである。

【今後の研究のための備忘録】
「人格」や「個性」ということばの用例サンプルをたくさん得た。

「あるドイツの社会科学者の表現を借りますと、私たちのいうコツとか勘のことを、「体の中にめりこんだ知識」というふうにいっています。「人格知」とも訳せますけれども、英語に直せば、パーソナル・ウィズダム、そういうものである。パーソナルというのは、一人ひとりの体の中まで、めりこんでいるという意味だ、それがコツとか勘とかという日本語の表現に通じるものだということです。」42頁
「これは人格と解け合っているものですから、その「技術」なり「知識」なりは、持ち主の心身の状態、また主観の状態によっても左右されるのです。」43頁

率直に言えば、ここで出てくる「人格」は、少々違和感のある表現ではある。2019年現在の教養から言えば、むしろ知識は「状況」に埋めこまれていると言うほうが普通だ。いわゆるアフォーダンスと呼ばれる概念だったり、正統的周辺参加として理解されるべき事柄である。

「コツと勘の修得でも、画一的で単純な反復訓練とみえるものの中から個性がにじみ出るのが、人間の文化のねうちでもあるのです。」56頁
「かけがえのない個性にこだわって、人は順番によって並べられないというのではなくて、順位をもって示さないとなんとなく不安定だという意識です。」70頁
「このばあいに特徴的なのは、人格から切り離したある特定の能力の出来高によって人間を評価するという傾向です。つまり人格とか個性とかにとらわれていたのでは、ある分野で効率的な人間を手っとり早く育てることはできませんから、人格から一応切り離した技術、「できる人間」の養成に強調点がおかれることになります。人格から切り離されたある種の効率を上げる能力は、客観的テストによって見当をつけやすいところでもあるので、テストによる教育評価が重い比重をもち、テストで高い評価を得るための教育に重点がおかれるようになります。」82-3頁
「この効率主義、能力主義の考え方は、競争原理を基本においているということがまた一つの特徴です。人格全体からみた人間の値打ちというものは、一人ひとりがそれぞれ違った持ち味をもっているのですから、くらべることがむずかしいのです、それをあえてある能力分野にかぎって、そこをくらべて優劣を競わせる。それによって、人格個性とは切り離された、能力のある面を訓練して当面の社会の需要にあてるのです。」84頁
「この能力主義は、人格から能力を切り離して考えるものであるということを申し上げました。それはいい直しますと、個性という問題を計算の外におくということです、つまり一人ひとりの人間の独特の持ち味、そういう人間の個性的な面は一応捨象する。」86頁
「ところが、分別する力がその人の個性をつくっていきますと、四角い顔がその人のトレードマークに転化する。つまり四角い顔そのものは変わらないが、いかにもその人らしい人格の一部に位置づけられる、こういうことがあり得るのです。」123-4頁
「その選びに選んだ大きな選択、小さな選択というものが、実はその人の人格を形成することになるのです。」136頁

21世紀の現在から見ると、「人格」や「個性」という言葉を実に屈託なく使っているなあ、というところだ。良いとか悪いとかそういうレベルの話ではなく、そもそも反省の対象となっていないという印象ではある。

また、教育基本法と「人格の完成」について触れている個所もある。

「明治以来の公教育の展開の中では国家のための臣民、戦時下では皇国民に育てるという教育目的が優先していましたから、人の子育てに本質的な「ひとなす」「ひとなる」という思想はずっと地下にもぐるという状態におかれるのです。教育基本法第一条になりまして、初めてこの「ひとなす」「ひとなる」の思想が法文に浮び上ってくるのです。ご承知のように、「教育は人格の完成を目ざす」という教育の目的を示す第一条によって、これが表現され、国民としてあるべき資質は、この大目的の属性として示されるようになります。以前の学校令とは全く違った新しい主張として、人格の完成を目ざすということが、皇国民や国家の子どもを育てるなどという目的にかわって、そこに出てきたのです。敗戦直後にできた教育刷新委員会の委員の先生たちが、ヨーロッパのヒューマニズムを援用して、そういう教育目的を立てたはずなのですけれども、実ははからずもその考え方というのは、日本の民衆の中にも昔から存在してきたものだと、私は習俗の勉強を通じて教えられました。」101-2

なかなか考えさせられる文章である。率直に言えば、古来の日本の習俗である「ひとなす」「ひとなる」と、教育基本法第一条に示された「人格の完成」とは、まったく異なる考えのようにしか思えない。一方は共同体に分かちがたく結びつけられた人間形成であり、一方は完全に孤立した個体としての人間形成である。日本の習俗とヨーロッパのヒューマニズムには、結びつく要素が、ない。
とはいえ、本来は結びつくはずのない二つの人間形成を結びつける見解が、本書だけでなく、様々な形で表明されている。この奇妙な現象自体が、教育基本法第一条「人格の完成」の受容史を考える上で、大きな関心の対象となる。

また、教育を宗教の比喩で語る文章もピックアップしておく。

「EC諸国からの教育家たちに対して、私は、日本の学校制度は親や子どもたちの前に巨大な神殿のようにそびえ立っているのだといいました。そして、かつて学校教師はこの神殿に使える聖職者のごとくに、国家の旨をうけて人民教化にあたり、この神殿にまつられているご神体は、冷めた人材分配器であったと説明しました。(中略)
「学校信仰」「学歴信仰」の社会にあって、学校が子どもや若者たちにとって、いやでもそこを通過しなくてはならない絶大な強制力をもっていることは、以上からもおわかりいただけると思います。」210頁

学校や教育を宗教的信仰に喩える言説は数限りなく見つけることができるのではあるが、ひょっとしたら単なる比喩ではなく、本質を突いている可能性があることは反省してもいいのかもしれない。教育の「教」は宗教の「教」であり、「学校」はもともと宗教施設だったのだから。

大田堯『子どもと教育 なぜ学校へ行くのか(新版)』岩波書店、1995年

【要約と感想】河合隼雄『子どもと学校』

【要約】これからの教育は多様な価値を認めていかなくては成り立ちません。そのために「臨床」の知恵が役に立ちます。大人から一方的に「教える」ことではなく、子どもの自発的な「育つ」を支援することが大切です。
価値観が大きく変わっているのは、もともと女性原理で動いていた日本社会に、西洋の男性原理が入ってきたのが原因です。どちらかが正しいということではなく、両方を大切にして、子どもの個性を伸ばしていきましょう。

【感想】二項対立的に「共同体/個人」を切り分け、それぞれに「女性的/男性的」を割り振って、さらに「日本/西洋」を当てはめ、その止揚を目指すという構図は、まあ、陳腐には感じる。「またですか」という気にはなる。とはいえ、分かりやすい構図ではある。これで分かった気になる人が多いのは、間違いないのだろう。私もこの図式に乗っかるのが無難なのかもしれない。いやはや。

しかし、「性」と「自立」に関する考察のところは、感心した。ナルホドなあと思った。多方面に波及しそうな論理なので、しっかり自分の中で消化していきたい。

【要検討事項】
不登校やひきこもりに関して、著者は「さなぎ」の比喩を使っている。他の本でも「さなぎ」の比喩を見かけることがあるのだが、そのオリジナルはどこにあるのか。ひょっとして河合隼雄か、どうか。「ひきこもり」に関する言説史に関わる課題として、ちょっと気にしておきたい。

「人間にとって子どもが大人になるということは、なかなかのことである。毛虫が蝶になる中間に「さなぎ」になる必要があるように、人間にもある程度「こもる」時期が必要なのである。(中略)
そのような「さなぎ」状態が他の子どもよりもきつい形であらわれてくると、不登校になり、文字どおり部屋にこもるようになる。」(143-144頁)

【個人的な研究のための備忘録】
本書ではやたらと「個性」という言葉が登場する。臨時教育審議会の答申が出てまもなくの1992年出版の本でもあり、影響が色濃く反映しているようにも見える。河合隼雄自身の思想変遷を睨みながら、「個性」概念の歴史を研究する上で考慮に入れる価値がある史料なのかもしれない。

「わが国の母性原理の強さに基因する一様序列性の害は、いくら強調しても足りないほどのものである。一人ひとりが個性をもち異なる存在であることをほんとうに自覚できたなら、全員が一様に順序づけられることなど考えられるはずがない。しかし日本人の場合、自分がそのような場の序列のどこにいるのか、部長か課長か、課長でも一番目か二番目か、ということによって自分のアイデンティティーを保っている人が多いのではなかろうか。
もし、生徒たちに対して、ほんとうに個性の伸張などということを期待するのなら、教師や教育委員会の人たち、そして文部省の役人が、一様序列的アイデンティティー以外の個性に基づくアイデンティティーをもつべきであろう。」(29頁)

「次に「個性の伸張」ということだが、これも実に大変なことだ。このことは、先に述べた事実とも関連してくると思うが、日本の教育が、個性や創造性を伸ばす点において他の先進国に劣るものであることは、つとに指摘されているところである。」(46頁)
個性の尊重という点について、教育のことを考える人であれば、その重要性をすべての人が指摘するであろう。しかし、これはわが国の教育を考えてみると、相当に困難な問題なのである。」(56頁)
「これは、大学人としては、各大学が大学としての個性をもっていないことをまず反省すべきだろう。各大学が多様な個性を持てば、それを一様に順序づけることができないし、受験生は大学の個性と自分の個性とのからみで大学の選択をするので、すべての人が特定のひとつの大学へ行きたがるなどということがなくなって、少しは受験競争も緩和されるであろう。」(57頁)
「生徒の個性を尊重するためには、教師が自分自身の個性を大切にしなくてはならない。」(113頁)

そして「個性」に対する考察が進むうちに、日本人の近代性の話に迷い込んでいく。この話の構成自体は極めて陳腐なように思わざるを得ないところではある。

「ここで「日本人論」を展開するのもどうかと思うが、「個性」のことを考えはじめると、どうしても日本人の特性について考えざるを得なくなってくる。簡単に言ってしまえば、欧米人の近代合理主義に支えられた自我の確立ということを、日本人がいまだ充分に成し遂げていないということである。」(58頁)
「しかし、問題は簡単ではない。近代自我はそろそろ行きづまりを見せ、人間の自我意識のあり方においても、まさに転換期に来ていることを自覚させられるからである。わが国の教育が、したがって、西洋に追いつこうとして、近代自我を確立するような教育にそのあり方を変えたとしても、それはたちまち時代おくれとなってしまうであろう。近代自我を超えたあり方を、われわれは探索しなくてはならない。わが国の教育のあり方は、欧米をモデルにするわけにもゆかず、日本の従来の方法をよしとするわけにもゆかず、「個性」を見出してゆくのには、いったいどのようにすべきか、強いジレンマに悩まされるのである。」(63-64頁)

通説的に言えば、近代自我に対する疑念は20世紀初頭の段階ですでにフロイトによって提出されたことになっていると思うし、著者御専門のユングもいろいろ言っているはずではあるのだが、著者はまさに眼前の問題として理解している。そしてこの解決を「日本的=女性的/西洋的=男性的」の止揚に求めることとなれば、その構図はそれこそ戦前の「近代の超克」から見られる陳腐なものになるのであった。

そしてまた教育基本法の第一条を掲げた上で、内容に対して違和感を表明しているのは、個人的には見逃せないところだ。

「教育基本法にはいいことが書いてあるが、それはそのような人間の「育成を期して」教育が行われるのであり、ここに登場した人たちは、子どものときこそ問題があったが、基本法にあるようなことを目指しての「育成を期した」教育を受けたから、今日のようになったのだ、などと言えるだろうか。
それよりも、個性を豊かにするためには、教育基本法の第一条をあらためて、「心身ともに不健康な国民の育成を期して」とでもするべきであろうか。木村素衛氏の指摘している、教育における「根本的矛盾」というものは、実に根が深いのである。」(40-41頁)

個人的には、教育基本法の成立過程と哲学に対する根本的な誤解があるように読めるところではある。が、それを期待してもしかたがない。「教育基本法に対する見解」の歴史的な変遷を考えるときの参考資料の一つとして扱うべき文章なのだろう。

河合隼雄『子どもと学校』岩波新書、1992年

【要約と感想】岡本富郎『子どものいじめと「いのち」のルール』

【要約】保育や教育で最も重要なことは「いのち」の教育です。しかし日本では経済的効率が優先され、いのちの教育がないがしろにされています。「いのち」とは、単なる生物学的な生命ではなく、もっと大きなもの(宇宙など)と繋がった根元的なものです。いじめをなくすために決定的に重要なのは「いのち」を大切にする心であり、それを育む愛です。自分のいのちを愛し、同様に他人のいのちも愛せることこそ、教育基本法が目指す「人格の完成」の中身です。

【感想】本文中では出てこない固有名詞だが、「いのち」の教育というと、やはりディルタイとかシュプランガーといった「生の哲学」とか、あるいは大正生命主義を想起してしまうのであった。この「いのち」という概念に著者が相対する態度は、私が「人格」概念に相対する際に見習うべきものだと思った。

【個人的研究のためのメモ】
教育基本法や「人格」に関する言及があって、私の関心と響き合うものがある。

「「教育基本法」第1条には教育の目的が次のように書かれています。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。」
まずここで考えたいことがあります。ここには、教育の目的が「人格の完成を目指す」と記されています。このことはとても大切です。教育の目的は、知識の取得や高学歴を得ることとは書かれてはいません。就職のためとも書かれていません。「人格の完成を目指す」と書かれているのです。そこでですが、この「人格の完成を目指す」とはどういうことなのでしょうか。ここでいう人格は、人間としての倫理的な在り方を指します。もっとわかりやすくいうと人間として善い人を目指す、ということです。
そこで、善い人間とはどういう人のことをいうのでしょうか。わたしは「自分を愛するように、人をも愛する人」のことだと考えます。「自分のいのちを愛し、人のいのちをも愛する人」のことだと考えます。教育はこのような人間になることを目指して行なわれなければならないのです。」(11-12頁)

「ここに記されている人格の内容は倫理学的な内容です。つまり人格は変化しないのではなく、完成に向かって高まっていく内容として考えられています。そしてこの人格の中心を私は「愛」だと思っています。愛自体の定義は多くあります。私は私なりに「愛とは、生きとし生けるものの幸せを願うところの絶対無償の受容であり、その受容に基づいていのちを捨てることである。」と考えています。」(29頁)

「そして「いのち」は人を人として支える大本、大きな宇宙的な支えといってよいでしょう。」(75頁)

「人格」の中心に「愛」があることの確信など、聞くべきものは多い。そして「いのち」という概念は、ほぼほぼ「人格」という概念と重なってくる。

「まず「いのちとは何なのか」ということについて考えましょう。先にもいったように、私たちは誰もがいのちをもっていると普通考えます。あたり前のこととしてそう考えます。しかし、いのちとは誰もが「これがいのちです」と答えられるものなのでしょうか。まずいのちは見えるのでしょうか。触ることができるのでしょうか。そして、いのちがなくなると人間はどうなるのでしょうか。
見えるいのち、触ることが可能ないのちはどこにあるのでしょうか。そしていのちは誰にも共通してあるものなのでしょうか。違いや位、高さ低さなどはかんがえられるのでしょうか。
こう考えてくると何かしら、いのちが何であるかということはそう簡単ではないように思えてきます。」(58-59頁)

ここで著者が展開している「いのちとは何なのか」という問いは、私が10年前から大学の講義で語っている「人格とは何か」という問いとほぼ重なる。ほぼ同じことを考えている人がいるということを知り、感慨深いというか、「そりゃそうだろ」というか、意を強くしたのであった。

岡本富郎『子どものいじめと「いのち」のルール―いのちから子育て・保育・教育を考える―』創成社新書、2009年

【要約と感想】高橋哲哉『教育と国家』

【要約】戦後教育を批判する人々は、少年犯罪がまったく増えていないにも関わらず散発的に起きた犯罪を利用したり、伝統でもない伝統文化を捏造したりして、教育基本法を変え、教育勅語体制を復活させ、国旗・国歌を強制し、政権に従順で無批判な国民を作ろうとしています。権力が教育に干渉することは極めて恐ろしいことです。そもそも法律で教育を規定して行政が積極的に介入することで、本当に人々が幸せになれるものなのか、疑いがあります。

【感想】教育基本法が改正される前に出版された本で、道徳が教科化されるに至った現在においては、個別具体的な話はもちろん既に古くなっているのだが、教育と国家権力の関係についての考察は原理的・普遍的であって、論理的には古くなっているようには思わない。国家権力が教育を恣意的に牛耳ることの恐ろしさについては、事あるごとに確認していく必要と意味がある。
とはいえ一方で、「学校教育」の歴史的な在り方自体が問い直しの対象となっている現在においては、「教育と国家権力」という問題の立て方自体も相対化されつつある。むしろAmazonとかGoogleのような、国家権力とは無関係な巨大国際企業が作り出す現実のほうが、いまや「教育の自由」にとっては脅威になりつつあるのかもしれないのだった。
そしてそうやって「教育と国家権力」という問題の立て方を相対化するという脱・政治的な語り口自体が政治的に狡猾であることも忘れてはならないだろう。教育に関わる立場の者が「教育と国家権力」という問いから本質的に無関係ではいられないということを改めて自覚する上で、本書の存在意義はあるのかもしれない。いやはや。

【個人的な研究のためのメモ】
本書は教育基本法改訂に対して疑義を呈する立場から書かれており、教育基本法条文に対する言及が多い。私が研究の対象としている第一条「人格の完成」にも言及している。

ここで、現行教育基本法を見直してみると、そこでうたわれている「人格の完成」には二つの側面があることがわかります。一つは、修養をした結果、人格が完成されるという儒教的なニュアンスがあります。もう一つの側面としては、西洋のカント的な人格主義のニュアンスも含まれています。(115頁)

著者はこう言って、前者の「儒教的なニュアンス」に関しては議論を展開せず、後者の「西洋のカント的な人格主義」について話題を広げ、この対抗概念として和辻哲郎などが日本の共同体的な倫理を持ち上げることを批判していく。その構成自体に言うことはない。
私がメモしておきたいのは、教育基本法第一条に現れた「人格の完成」という文言は周知のとおり田中耕太郎の「キリスト教」的な立場から滲み出てきたもののはずであって、基本法制定の経緯を踏まえていれば「儒教的なニュアンス」など思いもよらないはずにも関わらず、著者が「儒教的なニュアンス」を感じ取っているという事実だ。
そう言うのは、著者の勉強不足などを指弾したいわけではなく、何の予備知識や前提もなく無心に教育基本法第一条「人格の完成」という文言を眺めた場合、そこに「儒教的なニュアンス」を感じ取る人が実際にいるのだと、一つの証拠というか言質というかを得たという思いがするからだ。法律制定当時の経緯を越えて、昭和・平成と展開してきた「人格の完成」という文言そのものを考察しようとするときに、参照に値する一つの言質となるのかもしれない。
まあ、著者が本書で主張したい内容とは本当に無関係のところで、ただ私個人の研究的な興味関心に引っかかったというだけの話ではある。

高橋哲哉『教育と国家』講談社現代新書、2004年