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【要約と感想】水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』

【要約】「新プラトン主義」とは後世になってからつけられたラベルで、当事者たちが自身をそう自認していたわけではありません。そして新プラトン主義と呼ばれている人々の思想内容も様々です。おおまかに一致するのは、存在の階梯の最上位に「一者」を据え、そこからの「流出」を通じて世界の成り立ちを説明し、一者との「合一」を志向するところです。
 新プラトン主義はもちろんプラトンの思想にコミットしていますが、現代のように「弁明」や「国家」を重要視するプラトン読解とは大きく異なり、「パルメニデス」や「ティマイオス」を尊んでいます。
 新プラトン主義の影響は、キリスト教教父アウグスティヌスを始め、射程距離は近現代まで及びます。

【感想】新プラトン主義についてさくっと体系的に教えてくれる本が全然ないので(新書レベルで存在しない)、本書の存在は極めて貴重である。ありがとうございます。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 多少なりとも西洋思想史にコミットするような読書人であれば、もちろん新プラトン主義について何かしらの知識を持つはずではあるが、世間一般的にはどの程度認知されているのか。いちおう高校倫理の教科書にはプロティノスの名前くらいは挙がることがあるものの(記述の内教科書もある)、思想内容と後世への影響について詳しく説明されているわけではないので、ほとんど認知されていないだろうとは予測する。とはいえ、私が追究している「人格」の概念を理解するためには、新プラトン主義への目配りは絶対に外せない。というか個人的には、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」概念と近代の「人格」概念を隔てるミッシングリンクが、新プラトン主義に対する深い理解によって埋められる可能性が極めて高いように感じている。

 個人的な理解では、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」には、「かけがえのない実存」とか「尊厳」という観念は欠けている。もともとペルソナという言葉は「役者のつける仮面」を指しており、そこから「その個人が演じるべき役割」とか「果たすべき役割に応じて期待される責任」というような意味は持ちつつも、近代において「人格」が持つような法的主体あるいは実存的主体というニュアンスは感じない。古代のペルソナはあくまでも表面に顕れて人の目に触れる「仮面」であって、個人の内奥に隠された領域に踏み込んでいるような印象はない。
 ところで、新プラトン主義が最重要視するのは「一」という概念だ。この「一」は、もともとは宇宙全体を「一」の相の元に理解するという形で外界に対して適用される概念ではあるのだが、新プラトン主義はこの究極的な「一」に対して、個人の「合一」を志していく。その個人的な神秘体験は、中世キリスト教の異端的な立場からは「神化」と理解されることになるだろう。このように神的な「一」と合一化した「個」こそが、近代における「かけがえのない尊厳をもつ自律的な個」の原初的な姿のように見えるわけだ。ここからキリスト教神学や中世スコラ哲学の議論を通じて神秘的な要素を剥がし落としていくことで、単なる「法的主体としての個」だったり「かけがえのない尊厳」だったりする「一」としての「人格」概念が成立していく、というような見通し。とういことで仮に古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりがあるとすれば、そのミッシングリンクとしての新プラトン主義への目配りは絶対に欠かせないのである。逆に言えば、古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりなどないと喝破できてしまえば、新プラトン主義に対する目配りは一気に必要がなくなるということでもある。さてはて。

【今後の研究のためのメモ】
「一」に関する記述をサンプルしておく。

水地宗明「一者」
「次に「」という名称も、「何かであって一つであるもの」をではなく、純然たるそのものを表す。すべて一つであるものは、この「」の力によって一つである。「という名称は、かのものの単一性を、したがってまた自足性を表す。というのも、かのものは何も必要としないのである。有るということも、能力もはたらきも、むしろ、かのものはこれらすべての原因なのである」(ポルフュリオス、断片220)、プロティノス自身は、七番目に書いた短い論文の中で、こう述べている。……。「」が「善」との呼ばれる理由の一つは、「」のこの統一力こそが、それぞれのものがそのものとして存在するための基本的な支えだからである。「」の力がはたらかないならば、すべてのものは瞬時にして四散消滅するというわけである。」pp.60-61
「歴史的には、「」という名称は特にプラトンの『パルメニデス』に由来すると言えるだろう。この対話篇のいわゆる第一仮定の終わりの方(142A)で、「は有るものでもなく、名前もなく、説明されることもできない」などと言われていて、プロティノスはたびたびこの箇所に言及しているのである。
 なおアリストテレスによると、晩年のプラトンはこう言ったという。イデアは他のすべてのものの原因であるが、イデアの原因は「」と「大かつ小」であると(『形而上学』1.6)。つまり、大きいとも小さいとも、その他何とも言えないような不定で素材的なものが「」を分有することによって、もろもろのイデアが生じた、ということであろう。
 もちろん、「」という名称は、(そして始原を「」とみなす思想は)もともとはピュタゴラス派に由来するものだと言えるであろう。ピュタゴラス派によれば、すべてのものは数にかたどられていて、そして数はから生じるのであるから。そしてプラトンがピュタゴラス派から影響を受けたことは、周知の事実であるから。しかし、ピュタゴラス派の「」からプラトンの「」を経てプロティノスの「」に至る道程は、何と大きな展開であろう。」pp.61-62

袴田玲「ビザンツ正教思想における新プラトン主義」
「「無形相の神、あるいは一者との一化」という主題への強い関心もまた、プロティノスとパラマスに共通する。……。パラマスのこれらの言葉づかいからは、プロティノスと同じ「」への渇望、つまり、修行者があらゆる多様性を脱して自己自身と一つになり、さらに主客を超えて神(一者)と真にとなることへの欲求が感じられるであろう。また、合一の動きに「見る」という同士が好んで使われる点、神(一者)が光として表現される点も、両者に共通である。」p.303

山﨑達也「エックハルト――始原への探究――」
「ところでエックハルトは、中世においてアリストテレスの存在者に関する一〇のカテゴリーを超えるものとして理解されていた、いわゆる「超範疇的概念」(transcendentia, termini generale)――存在(esse)・(unum)・真(verum)・善(bonum)――を神の固有性と解している。存在とは、それ自体規定することができない神の絶対的存在(esse absolute)を意味するが、その存在の第一の規定がであり、そのから生まれたものが真である。神学的に解せば、一は産む者として父を意味し、真は父から生まれた者として子を意味する。善は真を媒介にしてから発出するものとして、父と子との愛の結合すなわち聖霊である。
 エックハルトは、神は父・子・聖霊という三つのペルソナ(persona)を有しながら、その本性(natura)はであるという三位一体の神学において、神の本性としてのをどこまでも追究していく。においてはあらゆる他が否定されるだけではなく、否定すること自体も否定される。この二重の否定すなわち「否定の否定」一(negatio negationis)によって、神の一性と心的な統一の深遠への研ぎ澄まされた洞察が可能になる。父・子・聖霊は数として数えられるものではなく、根源的にして神的なる存在・生として一なのである。この一性と統一は「一なる一」、「本来からの一」、「単純なる一」として、多様なるものとの差異的なるものの彼岸に求められなければならない。」pp.331-332

 しかしこうなってくると、老荘思想の「太一」とか「一元二気万物」だとか、朱子学の「太極」なども参照せざるを得なくなってきて、目眩がするところではある。というのは、西洋の「一」が「人格」の概念に昇華したのに対し、東洋の「一」が「人格」に至らなかったことを、合理的に解釈しなければいけないのであった。

水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年

【要約と感想】吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

【要約】2015年に「文系学部廃止」通知を巡ってメディアが沸騰しましたが、勘違いが甚だしいものでした。とはいえ、本質的な問題は、その勘違いが発生した背景にあります。「文系学問は役に立たない」という誤りを、本書は糺していきます。
文系学問は総合的に言って、近代に勃興した国民国家権力と市場経済が取りこぼした領域である「価値」を対象とするものです。それは国家権力や市場経済よりも長い命脈を保っています。長い目で見れば、大学で扱っている対象の方が、「役に立つ」のです。
しかし日本の大学がこのままでいいということではありません。18歳若年人口に対して大学の数が多すぎます。しかし大学が変われないのは、組織が硬直化しているからです。年齢の壁と分野領域の壁を取り払って進化しなければ、このままでは大学は滅びます。
コペルニクスによる地動説は、印刷術というメディア環境の激変=ボーダーレス化が背景にあります。現代のデジタル技術とグローバルな金融市場は、ボーダーレス化という意味で、16世紀の状況によく似ています。大学が生き残るとしたら、この状況で存在感を示すことがポイントでしょう。

【感想】「一点突破全面展開」の見本のような構成で、感心しながら読んだのであった。視野の広さと教養の深さには、さすがだなあと唸るしかない。
と、人ごとのように言っても始まらないのは、私自身がこの問題に巻き込まれているからだ。大学に関わる当事者として主体的に考えなければならない極めて切実な問題なのだ。本当は。だがしかし、著者が言うとおり、既存の体制の中で身動きを取りようがないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「教養」や「人格」さらに「文化/文明」や「国民国家」という概念同士の関係についての記述を楽しく読んだ。既に研究されて専門書等では様々に指摘され、識者の間では常識となっているところではあるのだが、新書レベルで話がまとまっているのは貴重かなと思った。

「他方、「教養」概念の成立は、「国民国家」の形成、それと並行して生じた大学の「第二の誕生」と切り離せません。一九世紀初頭、瀕死の状態にあった大学は、ナショナリズムの高揚を背景に、劇的な「第二の誕生」を迎えます。」80頁
「このドイツ流のナショナリズムは、大学が目指す価値にも明瞭に反映していました。すなわち、フランスが掲げた「文明」の概念とアカデミーや専門学校、美術をはじめとする新しい知の制度に対抗して、ドイツはむしろ「文化=教養Kultur」の概念を掲げ、そうした「文化=教養」の府として大学を立て直さなければならなかったのです。」81頁
「大学教育の場で、そのような近代的国民的理性の概念を具現していくのが、まさに「文化=教養」という考え方です。その場合、大まかにいうならば、「文化Kultur」は自然から理性に向かう歴史的プロセスを指し示し、それが個人の発達プロセス、人格の陶冶としても理解されたのが「教養Bildung」です。近代の大学では、学問的な研究対象としての「文化/自然」と教育の目的としての「教養/人格」が統合されなければならないとされました。そのようにして、一九世紀以降の大学は、国民国家の発展と人格的理性の発達を重ねあわせようとする傾向を内包してきたのです。」82頁
「「文化=教養」を通じた国民主体と国家の一致―この考え方こそ、やがて日本で帝国大学の創出を担う森有礼から戦後初の東大総長・南原繁までのナショナリストを捉えて離さなかった大学理念であり、そうした発想は、ある意味で前述した「教養」擁護の所論にまで引き継がれているのです。」83頁

コンパクトにまとまった記述で、なるほどなあと。私も教育史の立場から「人格の完成」概念にアタックしてきたわけだが、「人格」概念の成立がやはり「国家理性」概念を伴うことを独自に確認してきたつもりではある。→「個性概念についての一考察

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書、2016年

【要約と感想】加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』

【要約】日本ではジョン・ロックの思想が誤解されているのですが、それは合理的な近代性や自由主義という一面のみ見ているからです。最先端の研究では、ロックの矛盾や挫折から、総合的にロックの思想を理解しようという試みが進んでいます。ロックの「生」に深く根ざした「神学的パラダイム」を踏まえることで、経験主義的な認識論にせよ、社会契約論的な政治論にせよ、実は宗教(プロテスタント)的な道徳への信念が土台となっていることが分かり、一見すると矛盾に満ちて錯綜としたロックの思想構造の全体を掴むことができます。

【感想】さしあたって、著者の言うように世間の教科書的なロック理解が世俗的で自由主義的であるとしても、いちおう私個人としてはロックの思想が宗教によって貫かれていることは既知の基本情報ではあった。たとえばロック『教育に関する考察』の訳者である服部知文は解説で以下のように言っているが、それはもう50年以上前のことだ。

「ロックの体系の主要部をなす認識論、宗教論、政治論の三者が、彼の宗教思想によって貫かれていることが明らかになると思われる。この「教育論」についても、その中心の眼目となるものは、その顕著な世俗主義にも拘わらず、やはり彼の宗教思想を根底とした道徳的性格形成の主張であろう。」『教育に関する考察』351頁

逆に言えば、専門家の間ではロックの思想を「宗教思想」を土台として理解しようと姿勢が少なくとも50年以上前からあったにも関わらず、教科書的な理解はいっこうに変わらなかったということでもある。私が専門とする教育学の世界でも、やはりロックといえば相変わらず「市民革命の世俗主義を背景とするタブラ・ラサと紳士教育」であって、その宗教性にスポットライトが当たることはないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のためのメモ】
さてところで、私の研究の興味関心からいえば、本書でかなり詳しくつっこんでいるところの「プロパティ」概念がとてもおもしろかった。プロパティとは現在では「財産」とか「所有権」という程度の意味ではあるが、ロックはその言葉をもっと広い意味で使用しているとのことだった。

「私有と共有との関係や、法と私的所有との関係を主要論点とする「プロパティ」論の十七世紀的文脈のなかで、「プロパティ」は、動産や不動産のようなモノとしての資産やそれに対する各人の所有権を意味するものとされていた。それに対して、ロックのいう「プロパティ」は、十七世紀の用法よりもはるかに広い意味をあたえられていた。それは、「資産」のほかに、人間の身体や人格にかかわる「生命、健康、自由」までをふくむものとされていたからである。」87頁
「ロックの「プロパティ」は、それなしに人間が神への義務をはたすことができないもの、伝統的な哲学用語を使えば、人間が神に対して負った全義務の基礎をなす「基体」そのものであったからである。」88頁
「まず注意すべきことは、ロック独自の用語法で、「プロパティ」が「神の作品」としての人間に「固有のもの」、人間とそれ以外の被造物とを分かつ人間の全属性を意味していたことである。(……)ロックにおける「プロパティ」の概念は、人格と存在、精神と身体、「不死なる魂と現世的な生」を持って想像された人間の全局面にあいらかにかかわるものであったからである。」88頁

この文脈で「人格」という日本語が出てきて、赤字にしてしまっているが、ハッとしたわけだ。ちなみに私がこだわっている「personality」という言葉は、私個人の印象ではホッブズあたりから現在のような意味で使われ始めたような感じがする。そしてロックの時代には(あるいはその後の英米系思想全体において)、それほどこなれた形で使用されるには至っていない。逆にロックが使う「property」とは、今で言うところの「personality」とか「冒すべからざる人格の尊厳」というような概念を何とか言い表そうとする中で発せられた言葉であるような感じを受けたわけだ。
しかしそういう意味で言うと、現在のコンピュータ界隈で使用される「property」という言葉の意味は、なかなか興味深いかもしれない。たとえばWindowsのシステム関連で使用されるpropertyという言葉には、ただの「所有物」とか「属性」という意味では捉えきれない、もう少し深い何かを言っている感じがするのだ。
「人格」という言葉の意味を捉える上でも、ロックやWindowsの言う「property」は、補助線として極めて有効なのかもしれない。

また、本書では、私が気にしている「人格的同一性」とか「アイデンティティ」という言葉が頻出する。なかなかおもしろい言い回しが多く、感心しながら読んだ。

「ロック自身がいうように「意識が人格的同一性をつくる」とすれば、思考する存在としての自己意識は、ロックがその後の人生において揺らぐことなく持ちつづけたアイデンティティの根底をなすものであった。」9頁
「変容し、矛盾をふくみつつも、全体としては自己同一性を保ちつづけた点にロックの思索の構造的な特質があった」45頁
「論理的な非一貫性や亀裂の存在がかえって思想の自己同一性を暗示するという逆説のうちに、ロックにおける発展する精神の謎を解く鍵がひそんでいる」45頁
「ロックも用いたスコラ哲学の伝統的な概念を使っていいかえれば、それは多面的なロックの思想を個性的な同一性を持つロックの思想それ自体にした「個体化の原理」にほかならなかった。」57頁

絶対矛盾的自己同一という(これは個人的には決して西田幾多郎の専売特許ではないと思っているわけだが)、私の問題関心の核心に触れるものではあった。実は終章で著者が語る「ロックの現代的意義」にはピンとくるものがまったくなかったが、そうでない部分は極めて現代的な意義で溢れているように感じた。おもしろく読んだ。

加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』岩波新書、2018年

人格とは何か?―心理学・法学・哲学で絶望的に意味が違っています

人格は「人柄」ではない

 人格は、「個人の心理面での特性」ではありません。また、「人柄」でもありません。Wikipediaの記述は、間違っています。(Wikipediaにはいい加減な情報が載っていることが多いので、あまり信用してはいけません。参考程度に留めましょう)。
 もしも「特性」とか「人柄」という言葉と同じ意味なら、わざわざ「人格」などと言う必要はありません。「特性」とか「人柄」と言っていればいいのです。「特性」や「人柄」という言葉では伝わらない極めて重要な中身があるからこそ、特別に「人格」という言葉が用意されているのです。
 特に、心理学が扱う「人格」という言葉は、世間一般で使用されている「人格」という言葉の意味とあまり関係がない独特な専門用語であることには注意したほうがいいでしょう。たとえば「コトバンク」等のWeb辞書では冒頭に心理学事典等の用例が出てきますが、世間一般で使用されている「人格」という言葉の意味とは根本的に異なっていますので、心理学という専門領域に限って通用すると承知しておくのが無難です。教育に関して言えば、教育基本法が言う「人格の完成」の「人格」と、心理学が言う「人格」とは、まるで意味が違っています。(どっちが良くてどっちが悪いという話ではありませんよ)
 では「人格」という概念について理解するために、まず歴史的な観点から論点を整理した上で、学問分野ごとに「人格」をどう考えているか具体的に見てきましょう。

歴史的に「人格」概念を検討する

明治:お前に人格という言葉の意味が解るか

 「人格」という言葉の意味を考える上で参考になる一節が、夏目漱石の絶筆となった小説『明暗』(1916年)に見られます。

「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
 津田の癇癪は始めて破裂した。
お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
夏目漱石『明暗』1916年

 場面は、妹のお秀の非難に対して、主人公の津田が癇癪を起こしたところです。妹が「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。」と非難したところで、兄の方は「お前に人格という言葉の意味が解るか」と切り返しています。女学校を卒業した程度の人間には「人格」という言葉の意味など理解できるわけがないと、酷い言いようです。女学校とは、現代で言えば高校程度のレベルの学校です。つまり津田は、「高校を卒業したくらいでは人格という言葉の意味は解らない」と主張していることになります。もし人格という言葉の意味が「人柄」で構わないのなら、こんな面倒な話にはなりません。実際のところ、明治時代後期の段階では、「人格」という言葉を日常生活で聞く機会などまずあり得ませんでした。主に帝国大学の哲学科のような学問の場で、ヨーロッパ由来の哲学・倫理学・教育学を理解するための重要なキーワードとして研究され始めた、純粋な学術用語でした。津田は、そういう事情を踏まえて、「人格」という言葉は帝国大学以上で扱われる高尚な学問的概念であって、女学校卒業程度の人間が日常会話で軽々しく使っていいものではない、と主張したのでした。津田は嫌なやつですが、明治時代の状況は実際そういうものでした。明治前半の日本には「人格」という言葉すら存在せず、personalityという英語は「人となり」などと翻訳されていました。「人格」という言葉が見え始めるのは、明治も半ばを過ぎた明治28(1895)年頃からのことです。(このあたりの詳しい事情を知りたい方は、私の学術論文をご参照下さい。「日本の教育学説における人格概念の検討」)

大正:人格を認知せざる国民

 しかし実際のところ、明治時代が終わって大正時代に入り、『明暗』が書かれた頃には、「人格」という言葉は一般的にも使用されるようになっていました。特に「大正教養主義」の中で頻繁に「人格」という言葉が使用されました。教養主義を代表する人物、新渡戸稲造が大正2(1913)年に発表した文章を見てみましょう。「人格を認知せざる国民」という、少々物騒なタイトルの文章です。

「時々、胸襟を開いて話をしては馬鹿を見る、度々「お前もか」というような目に遇て、失望することが多い。要するに吾々日本人は、人格なるものを認知し得ないのではなかろうか。
 階級で人を度ったり、衣服で人を度ったり、ないしは成功で人を度ったり、官吏ならば、勅任だの、奏任だのと、官等で人を度ったり、あるいはまた学問や技芸で人を度ったりして、人格で人を度らぬ、附属で人を度って人格で人を度らぬ。全く今の日本には男一匹の交際が少ない。」
新渡戸稲造『人格を認知せざる国民』1913年

 タイトル通り、日本人には「人格」というものが分かっていないという主張で、現代風に言えば「肩書きばかり見て内面を見ない」ということになりそうです。今ではよく耳にする意見ですが、実は明治時代中期までほとんど見られず、明治後期から大正時代にかけて「人格」という言葉を通じて喧伝された新しい考え方でした。これは当時の知識人に共通の考え方だったようで、彼らはいわゆる「大正教養主義」の中で、いかに人格が重要かを繰り返し主張するようになります。これが若者たちを熱狂させました。大正5(1916)年に書かれた夏目漱石『明暗』との関係で言えば、おそらく大正3(1914)年に発表された阿部次郎『三太郎の日記』が極めて重要な意味を持ちます。この本では、「人格」という言葉が連発されます。まさに連発です。ちょっと見てみましょう。

「聖オーガスチンは神の中に憩ふに非ざれば平安あることなしと云つた。自分は要求の點に於て未だ中世に彷徨つてゐる男であらう。思想が欲しい。人格が欲しい。「神」が欲しい。」
阿部次郎『三太郎の日記 第一』1914年

 率直に言って何を言っているかさっぱり分かりませんが、当時の学生はむさぼるように『三太郎の日記』を読んだと伝わっています。この流行書で「人格」という言葉が連発されました。また仮にこういう難しい本を読まなくとも、様々な大衆向けメディア(おそらく特に重要なのが『太陽』などの総合雑誌)を通じて「人格」という言葉や教養主義的な考え方が日常生活の中に浸透しはじめます。こういう背景を考えると、高等女学校で学んだお秀が大正6年の段階で「人格」という言葉を問題なく使っても、まったく違和感はありません。
 あるいは、明治的な兄と大正的な妹の意識の決定的なズレが、この「人格」という言葉に象徴的に現れているということかもしれません。おそらく漱石は、こういう時代状況と世代間格差に自覚的でした。そしてこれを読んだ当時の読者も、「人格」という言葉から、明治時代の古臭い兄と大正時代の新しい妹のセンスの違いを感じとったはずです。
 ちなみにこの時点では、心理学は「人格」を扱っていません。

平成:日本人は「人格」概念を理解したか?

 では「人格」概念の輸入から100年を経た平成の世で日本人がそれを理解していたかというと、残念ながら極めて怪しいところです。西欧中世史家の阿部謹也が平成に入ってすぐ、こう言っています。

「私たちは明治以後、近代学校教育の中で、自分を個人として意識し、一つの人格をもつ存在であることを学んできた。そのばあい、人格とは何かとか、近代以前において日本人は個人の人格をどのように考えてきたのか、などと問うこともなく、私たちは過ごしてきたように見える。とくに周囲の人間関係の中で、一個人が自分の人格をもちつつ生きることの意味について、深い省察はなされていないように思われるのである。」
阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』1992年

 阿部は、日本に「民主主義」や「個人の尊厳」という考え方が根付かない根本的な原因を、「人格」概念に対する無理解だと考えています。
 しかし一方、教育社会学者の苅谷剛彦は、2019年、日本人は「人格」という概念を問題なく理解しているという見解を示しています。

「ここでは「日本国民は人間性、人格、個性を十分に尊重しない」という問題を構築したうえで、「人間性、人格、個性」の三つの言葉にわざわざ説明を加えている。これらの概念が日本人には理解されていなかったという暗黙の前提がはたらいたのだろう。今日これらの言葉にこのような説明が不要なことを念頭に置けば、異様な感のする説明である。」
苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』2019年

 阿部謹也は平成の始めに「日本人は人格を理解していない」と言ったのに対し、苅谷剛彦は平成の終わりに「日本人が人格を理解していないとは異様な感のする説明」と言っています。平成30年の間に、日本人が「人格」概念を理解できたということでしょうか、さてはて。

人格を見る3つの観点:心理学・法学・哲学

 さて現在、人格という言葉の意味を掴みにくいのは、3つの観点からまったく異なる意味で使われているからです。逆に言えば、そこさえ整理できれば、全体像がすっきり見えやすくなります。
 その3つの観点とは、
(1)実体的な人格(主に心理学が対象とする)
(2)仮想的な人格(主に法学や経済学が対象とする)
(3)実存的な人格(主に哲学や神学が対象とする)
 です。大雑把には、学問分野によって観点が異なってくるということになります。
 以下、それぞれの立場を確認していきましょう。

(1)実体的な人格:心理学

 実体的な人格とは、主に心理学の分析対象となり、数字で評価できるものです。近年のパーソナリティ心理学ではBIG5と呼ばれる評価規準が設定され、数字によって人格特性を表現することができるようになっています。つまり、この立場では、人格は客観的に測定できる対象です。ロールプレイングゲームに登場するキャラクターたちのステータスが数字で表されているように、実際の人間の様々な特性も数字で表現できるという考え方ですね。

 が、このように人格を実体的に考えてしまうことは、哲学の立場から見れば、ただの勘違いにすぎません。

「人間理性にとって、自分の実体(何であるか)は他者の実体と同様に、けして認識できない。この実体とは「人格」のことである。したがって心理学によって人の性格を調べたとしても、それは人格そのものの認識ではなく、あくまでも人格という実体にともなっている偶性(たまたま他人、ないし他者との関係でその人に生じる性質)にすぎないと見なすことになる。」
八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ』春秋社、2019年、30頁

 そして、人格を実体的に見ることは、パーソナリティ心理学の立場からも批判が加えられています。

「しかし、客観的にみるかぎりでは、パーソナリティ(特性)は構成概念として考えるべきものであり、それ自体が実体として(脳のなかに)存在していると仮定することは妥当とは思われない。しかし、現在のパーソナリティ研究の多くは、依然として実在論的なパーソナリティ概念を暗黙の前提としている。」
若林明雄『パーソナリティとは何か その概念と理論』培風館、2009年、47頁

 このような批判があるにも関わらず、学術研究の世界でも、人格を実体的に理解する立場は衰える様子を見せません。一般的にも、人格を実体的に理解する姿勢に根強いものがあることは、間違いないところでしょう。たとえば「スペック」などという言葉には、そういう意識が色濃く反映しています。ゲームのキャラクターの能力を数字で表すことができるのと同様に、人間の能力も数字で表せると考えてしまうわけです。

 ちなみに心理学の領域で「人格」が浮上したのは、オールポートという心理学者が大きな仕事をしたからです。オールポートは人格の定義を分析し、過去に提出された定義を50も示した上で、心理学においてどのようにパーソナリティを扱うべきか、詳細に議論を展開しました。ちなみにこのオールポートの仕事は、大雑把な概説書では本人の意図とは違った形で解説されるケースもあるので、注意が必要です。というのは、オールポート自身は「法則定立的学問」を原理的に批判して特性記述的な方法論の樹立を目指したにも関わらず、後のパーソナリティ心理学は一般的・分析的な法則定立を目指す傾向(いわゆる特性論)にあり、つまり両者は原理原則的に噛み合うところがないのにも関わらず、なぜかオールポートをパーソナリティ心理学の開祖にしてしまうケースがあるからです。オールポートは人格を「実体的」に考えていません。オールポートにしてみれば、人格心理学の祖に祭り上げられるのは、ありがた迷惑といったところでしょうか。(参照:オールポート『パーソナリティ心理学的解釈』)。そんなわけで、オールポートの仕事は教科書を読んで分かった気になるとかなり誤解しやすいので、しっかり原典に当たって本人の主張を捉えたいものです。原典を丁寧に読めば、オールポートが提出する「人格」の定義は、極めて重要な示唆を与えてくれます。

(2)仮想的な人格:法学

 実体的な人格理解に対して、「人格なんてものは現実には存在しない」と言い切るのが、次の立場です。この立場では、人格が現実に存在するなどという非科学的な戯言など、断じて認めません。実際、人格の存在は、どれだけ科学的に分析しても、証明することなどできません。
 しかしこの立場は、いったん人格というものの物理的存在を否定した上で、仮想的に存在を認めます。なぜ仮想的に存在を認めるかというと、あたかも人格というものが存在しているかのように世の中を組み立てておいた方が、世の中がうまくいくからです。
 具体的には、たとえば法学では、人格なんてものは現実には存在しないのだと見切りつつ、それでもあたかも存在しているかのように振る舞います。法学者の安藤馨は、こう言い切っています。

個人の人格は、そこに天然自然のうちに存在しているものではなく、それがあると考えた方が人々の効用が増大する(=気持ちよくなる)から設定されたもの、あると考えられるようになったものであるに過ぎない。となれば、個人の人格を基礎とする自律という観念も、単にそう考えることによってもっとも社会全体における功利が増大するという理由によって正当化し得るものに過ぎないということになろう。」
安藤馨「統治と功利-人格亡きあとのリベラリズム」『創文』2007年1-2月号

 実際、法律というものは、「人格」と「物件」の厳密な峻別を土台にして、全体が構成されています。もしも「人格」という概念を認めないと、法律の体系全体が崩壊します。しかし人格そのものはあくまでも仮説的に存在を認められたもの(カント的に言えば論理的に要請されるもの)であって、現実に物理的に存在するわけではありません。

 また第一次世界大戦から第二次世界大戦期にかけてアメリカで影響力を持った精神科医のハリー・スタック・サリヴァンは、「人格」なる概念が単なる仮説に過ぎず、しかも臨床の場面では役に立たないことを主張しています。

人間が個々独立した個体であるというのは可能性の一つに過ぎないわけです。そして私が言っているのは、その考え方が果たして役に立っていますか、ということです。」113頁
「ここでは「人格の一部分」としたが、「人格」がそもそも仮説である」114頁
ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』阿部大樹訳、講談社学術文庫、2022年

 法学という領域では「人格」という仮説を置くことでシステム全体が機能することがあるとしても、精神医学の領域では「人格」という概念を持ちだしたところでクライアントを理解する上で何の役にも立ちません。仮説として導入されていた「人格」という概念が、もはや実践の場面で仮説としても役に立たないのであれば、その限りにおいて廃棄して差し支えないということになります。
 そしてサリヴァンに触れたところで、統合失調症の治療に取り組んだ日本の精神科医、中井久夫を思い出してもいいのでしょう。私たちが自分のことを「個々独立した個体=人格」であると思い込んでいるのは、実は農耕社会以降に一般化した「強迫症」の働きのせいかもしれません。強迫症のメカニズムによって、われわれの人格はかろうじて統合されているように観察できるだけなのかもしれません。

(3)実存的な人格:哲学・神学

 これらに対して、まったく別の観点から、人格が現実に存在していることを主張する立場があります。この立場では、仮説的に存在を認めるなどという生ぬるいことは言いません。しかし、(1)にように物理的に存在しているなどと言いたいわけではありません。この立場では、人格とは、精神的に存在するものです。もっと言えば、霊的に存在するものです。物理の世界を超越したところに、物体よりも遙かに存在感あるものとして存在していると主張します。
 たとえば神学者の稲垣良典は、次のように述べています。

「私自身が根本的に前提としている「人間」理解と、聴講者たちの間で「自明の理」とされている常識的な人間観との間の著しい隔たりは、時がたつにつれて次第に重い問題として私に迫ってきたのである。
その隔たりとは、一言でいえば、常識的な人間観における「人格」概念の完全な欠如であった。(中略)
社会通念ともいえる人間観にひそんでいるこうした欠陥は、いずれも「人格」概念の不在――「人格」という言葉、あるいは「人格の尊厳」「人格の形成」という標語は広く流通しているにもかかわらず――に由来する、と私には思われた。なぜなら、この後の本論で詳細に論じられるように、われわれが「私」「自己」と呼んでいる存在を明確に認識し、その存在に固有な価値を基礎づけることができるのは、人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場を超え出て、人間を明確に「人格」として経験し理解することによってだからである」
稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年、vii頁

 稲垣のこの言葉は、(1)の立場の批判であると同時に、(2)の立場に対する批判でもあります。(2)の立場とは、「人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場」であって、その立場を成立させるために「人格」という観念を仮構したのでした。しかし稲垣は、これを批判して、「人格」とは仮構物などではなく、実際に「存在」するのだと主張しているわけです。
 そしてここでいう「存在」とは、もちろん物理的に存在しているなどという通俗的な意味ではありません。稲垣は次のように述べます。

「このように、「人格」について語ることの難しさは、私が私自身に現存している「私」「自己」を認識し、それについて語ることの難しさであり、精神が精神自身に現存している「精神」を認識し、それについて語ることの難しさである。ということは、少し変った言い方になるが「人格」は自己自身に現存している「人格」を認識し、それについて語ることが難しい、ということであり「人格」とはそのような自己自身への現存という存在の仕方をするものである、ということである。言いかえると、「人格」「自己」「精神」などの名で呼ばれるものは、「存在する者」である限り「一」であるが、それは量的な「一」、数の単位とか点のような「一」ではなく、自己還帰的な「一」、すなわち同一のものが自己に現存し、自己へと立ち返るような仕方で「一」なのである。」
同上書6頁

 つまり、「存在」という言葉の意味そのものが既に(1)や(2)の立場と異なっていることに注意しなければ、稲垣の言う「人格」の意味内容を捉えることはできません。人格とは、「存在」という言葉のもっとも純粋な意味において「存在」しているものです。

まとめ:3つの観点の噛み合わなさ

 以上、3つの観点から人格という言葉の意味内容を確認してきました。そして確認したように、もはや絶望的に、まったく噛み合うところがありません。それぞれ、何も意味が重なっていません。そういうまったく違うものが、同じ一つの「人格」という言葉で呼ばれているために、「人格とは何か?」がまったく分からなくなり、混乱してしまうのです。
 が、その混乱ぶりから、むしろ明確に分かることがあります。それは、「人格」という言葉の意味は、「世界」をどう見るかによって根本から変わるということです。逆に言えば、「世界をどう見るか」という観点が伴わないかぎり、「人格」という言葉だけを取りだして議論しても、あまり意味がないということです。
 学問分野の違いによって「人格」に対する見方がまるで異なるのは、学問それぞれの世界観が異なっている以上、当然のことになります。どれが正しくてどれが間違っているという話ではありません。

「人格の完成」とは何か?

 では、教育学では、「人格」をどう捉えるべきでしょうか? 決定的に重要な事実は、教育基本法の第一条に、日本の教育の目的は「人格の完成」であると明記されていることです。人格の完成という教育の目的を達成するには、そもそも「人格とは何か?」が分かっていなければいけません。
 ということで、「人格の完成」については、ページを改めて考えますが、参考になる文章を見ておきましょう。太宰治が太平洋戦争まっただ中に書いた『正義と微笑』から、主人公が通う学校の黒田先生が授業中に脱線して放った長演説の一部です。

「勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!」
太宰治『正義と微笑』1942年

 引用した文章で言っていることは、大正教養主義が繰り広げていた主張そっくりそのままです。「教養」とは、引用文中に出てくる「カルチベート」を日本語に翻訳した言葉です。ちなみに太宰「正義と微笑」(1942年)は、1935年頃に書かれた若者の日記を題材に採ったものです。作中には「黒田先生は、いまどうしているだろう。ひょっとしたら出征したかも知れない。まだ三十歳くらいの筈だから」ともありますので、逆算すれば、この主張を展開した黒田先生は明らかに大正時代に教養主義の薫陶を受けた世代に当たります。言っている内容からも、新渡戸稲造や阿部次郎ら教養主義の議論から影響を受けていることは、間違いないでしょう。新渡戸稲造が明治44(1911)年、あと1年で大正時代が始まるという時に書いた文章を見てみましょう。

「切言すれば宇宙の言いうべからざる一種異様なる力と交わり、時の要求と共に推移り活社会に活動するの人格を養うを教育の最大目的とせねばならぬ。」
新渡戸稲造「教育の最大目的」『精神修養』1911年

 そんなわけで、「人格の完成」について根本から理解しようと思ったら、大正教養主義が決定的に重要な鍵を握っています。というのはもちろん、教育基本法第一条に「人格の完成」を盛り込んだ文部大臣、田中耕太郎(大正四年に東大卒業)その人も、明らかに教養主義の影響下にあるからです。ただし田中の場合は、カトリック思想の影響も極めて大きいことを踏まえて考える必要があります。
(つづく?)

 

アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

アイデンティティの定義

ありがちな勘違い

 アイデンティティとは、個性のことではありません。もしも個性と同じ意味なら、「個性」と言えば用が足りるわけで、わざわざ「アイデンティティ」という別の言葉を使う必要はありません。
 また、Wikipedia(2019年12月閲覧)の「アイデンティティ」には「アイデンティティとは自己と同一化している要素」と書いてありますが、トンデモない大間違いです。アイデンティティは、「要素」なんかではありません。Wikipediaにはいい加減なデタラメが書いてあることがしばしばあるので、注意しましょう。

アイデンティティの定義

 わかりやすく言えば、アイデンティティとは「私が私であること」を表現する言葉です。

 「えっ、私が私であるって、当たり前じゃ」と思う人がいるかもしれませんが、実はこれ、よく考えると当たり前のことではありません。以下、アイデンティティが「私が私であること」を示す言葉であることを、哲学的に吟味していきましょう。

 ちなみにエリクソンなどが使っているような歴史が浅い心理学的アプローチについては議論の対象としませんので、ご了承ください。

要素が変化しても変わらないもの

私が私であることを証明したいとき

 たとえば「IDカード」の「ID」は、identityあるいはidentificationという言葉の最初の2文字を取ったものです。
 さて、IDカードが必要になるのは、どんなときでしょうか? たとえばレンタルビデオ屋でDVDを借りたいとき、カウンターにDVDを持っていって「貸してくれ」と言ったところで、貸してくれるわけではありません。あなたがちゃんとした会員であることを店員に証明しなければ、DVDは借りられません。しかし「私は確かに会員だ」と言い張ったところで、店員さんとしては本当かどうか、確かめる手段はありません。こういうときにIDカードの出番です。店員さんにIDカードを示せば、きっと「いつもありがとうございます」と返事をしてもらえるでしょう。
 IDカードを示すことで店員さんが理解するのは、「会員であるあなたと、目の前のあなたが、確かに同一人物だ」ということです。店員さんは「あなたがあなた」であることを理解します。私自身には「会員である私と、いまここにいる私が同一人物である」ことは自明なことですが、これを他人に分からせるためにIDカードが役に立つわけです。

 だから、identityのことを「自我同一性」と翻訳したりします。「会員である私と、いまここにいる私が、同一」であることを示しているからです。あるいはidentityは「存在証明」と翻訳されることがあります。「いまここにいる私が、会員である私と同じ存在であることを証明する」という役割を果たしているからです。

本当に同一なのか?

 しかし、本当に「会員である私」と「いまここでDVDを借りようとしている私」は、同一人物なのでしょうか?
 人間は、日々、新陳代謝を繰り返しています。人間は生命活動によってエネルギーを消費し、老廃物を体外に排出します。失った分のエネルギーは、体外から栄養として取り入れて、消化し、新たに自分の肉体としなければいけません。そうして人間は、常に外部から栄養をとりいれると同時に老廃物を外部に排出しています。
 つまり、いま現在の私を構成している物質は数ヶ月後にはほとんどが排出され、数ヶ月後の私の体は、これから取り入れるであろう食物の栄養素によって組み立てられることになります。現在の私の体は、数ヶ月前の私の体とは違うし、数ヶ月後の私の体とも異なっているでしょう。こんなふうに新陳代謝を繰り返す私は、本当に過去の私と同じだと言えるのでしょうか?

東洋の例=鴨長明

 実はそういう疑問に対して、われわれ人類はかなり昔から取り組んできております。たとえば鴨長明はこのように言っています。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
鴨長明『方丈記』

 河というものは依然として河であるにも関わらず、しかしそれを構成する水は刻一刻と変化しています。人間というものが依然として人間であるにも関わらず、しかしそれを構成する物質が刻一刻と変化することと、同じような現象です。
 ところが鴨長明は、続けて「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」と述べます。鴨長明は、河が「同じであること」に注目せず、水の泡が「刻一刻と変化する」ことの方に物事の本質を見ています。

 いろは歌も、鴨長明と同じように「移り変わること」に物事の本質を見ていますね。

色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
(美しく咲き誇っている花も散ってしまった。われわれ人間だって、いつまでも同じだと言えるだろうか。いや言えない。みんな結局は死んでしまう。)

 「ものごとの本質は一定ではない」ということが、東洋的思考の基本にあります。

西洋の例=アリストテレス

 ところが同じ現象に対して、西洋の哲学者は「同じ河である」ことのほうに本質を見ます。たとえば古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、鴨長明と同じく河の流れを例に挙げて、次のように言っています。

「ちょうど河や泉は、絶えず或る水は流れ来り或る水は流れ去っていても、それらを同一であるとわれわれが言うのを常としているように」
アリストテレス『政治学』1276b

 鴨長明とアリストテレスが同じ現象を見ているにも関わらず、物事の捉え方が完全に正反対になっていることが分かります。同じ河の流れを見て、鴨長明が「変化」のほうを本質と見ているのに対し、アリストテレスは「同一である」ことのほうを本質と考えています。
 そしてアリストテレスは、河の流れのたとえに続けて、次のように言い切っています。

「水の流れのようなことを理由にして人間は同一であると言わなければならない」
アリストテレス『政治学』1276b

 どんなに水が変わろうとも河の流れが同じであるように、どんなに構成物質が変わろうとも人間は同一である、というわけです。ここにアイデンティティという言葉の本来の意味を見ることができます。
 プラトンも、同じようなことに言及しています。

「例えば人が子供の時から老人に成ってしまうまで、同じ人といわれるようなものなのです。実際彼は自分の内には瞬時も同一要素を保有するようなことがないが、それでもなお終始同じ名で呼ばれている。しかも他方彼は髪も肉も骨も血も、要するに肉体の全体にわたって不断に新しくなるとともに、旧いものを失ってゆくのです。」
プラトン『饗宴』

 もしもただ単に「同一」と言うだけでは、アイデンティティの本質を捉えているとは言えません。「どんなに要素が変化しようとも、同一である」というところが、アイデンティティという言葉の本質です。ここが、「個性」や「性質」という他の類語と決定的に異なるポイントです。そして、だからこそアイデンティティを「要素」としてしまったWikipediaは最悪の間違いを犯しているわけです。2400年前に、プラトンに間違いを指摘されています。「要素」が変化したとしても「アイデンティティ」は変わりません。つまり「要素」と「アイデンティティ」は一切の関係がないのです。

川の流れのように

 というわけで、鴨長明の見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は、構成要素が違っているため別の人物ということになるでしょう。が、アリストテレスの見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は問題なく同一人物ということになります。
 ではたとえば、美空ひばりが歌った「川の流れのように」では、どうでしょう?

ああ 川の流れのように ゆるやかにいくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく空が黄昏に染まるだけ
秋元康作詞『川の流れのように』

 全編を通じて、変化を感じながらも、ひとつ芯の通った人生観を感じる歌詞ではあります。鴨長明から800年を経て、日本人も西洋的なアイデンティティの感覚を身につけるようになってきたということかもしれません。

 ところでちなみに、西洋にも、実は東洋的な「諸行無常」の考えを表明している文章が存在します。

「この世界に、恒常的なものはないのだ。万物は流転し、万象は、移り変わるようにできている。『時』さえも、たえず動きながら過ぎてゆく。それは、河の流れと同じだ。河も、あわただしい時間も、とどまることはできぬ。波は、波に追いたてられる。同じ波が、押しやられながら進みつつ、先行する波を押しやるように、時間も、追われながら、同時に追ってゆく。こうして、それは、つねに新しい。以前にあったものは捨て去られ、いまだなかったものがあらわれるからだ。(中略)。われわれ自身のからだも、つねに休みなく変化している。昨日のわれわれ、今日のわれわれは、明日のわれわれではないのだ。
オウィディウス『変身物語』岩波文庫版(下)308-310頁

 今から2000年ほど前、ローマ時代の詩の一節です。ここには「方丈記」と同じように「河の流れ」と「人間」を捉える視点が見られます。ちなみにこの詩の作者のオイディウスは、ピュタゴラスを通じて東洋的な考え方を身に付けたのではないかと考えられています。さて、常に流れている川は、同じ川でしょうか、違う川でしょうか。

主語としてブレないというあり方

私の変わらないところとは何か?

 さて、以上までの検討で、「私が私であること」というアイデンティティの定義の具体的な中身が見えてきました。より正確に言えば、「たとえ私を構成している様々な要素が変化したとしても、私が私であること」と言えそうです。水がどれだけ流れていっても河が相変わらず河であるように、私は私であるようです。
 が、その場合の「変わらない私」とはいったい何でしょうか? いったい私のどこが相変わらず私なのでしょうか?

 年齢は変わります。身長も体重も変わります。肌の張りも変わります。名前だって、その気になれば変えることができます。性格だって、変えることができます。
 それら変わることができるものが全て変わったとしても、相変わらず変わらない私とは、何を指しているのでしょうか?
 たとえばルソーはこう言っています。

「わたしによくわかっていることは、「わたし」の同一性は記憶によってのみたもたれること、そして、じっさいに同一のものであるためには、わたしは以前にもあったことを思い出す必要があることだ。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』中158頁

 ルソーによれば、記憶によって「私が私である」ことが保証されるようです。実はジョン・ロックも、同じように記憶の継続性がアイデンティティを保証すると言っています。ではしかし、記憶がなくなったら、私は私でなくなってしまうのでしょうか? 昨日の昼に食べたものさえ忘れている私は、もはや私ではないのでしょうか?
 社会学者の大澤真幸は、次にように言い切っています。

「かつてロックは、人格の同一性とは記憶の継続性にほかならない、と論じた。しかし、この説は、明らかに間違っている。」
大澤真幸『自由という牢獄-責任・公共性・資本主義』岩波書店、105頁

 どうも「記憶」というものを持ち出すと、少々厄介な議論に迷い込んでしまいそうです。

私にとって変わらないものとは何か?

 改めて、私とは何なのか、一から考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

 上に列挙した「私」の説明を吟味してみましょう。
 たとえば「私は、東京都民である。」という文章は、2018年現在においては正しいのですが、かつて私は埼玉県民でしたし、その前は愛知県民でした。今後、東京都民でなくなる可能性は極めて高いでしょう。「東京都民」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
 同様に、2018年現在、私は「准教授」ですが、将来は嬉しいことに教授に昇任することもあれば、クビになって失業者となる可能性もあるでしょう。「准教授」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
 血液型は変わらなそうな気もしますが、問題なく、変わります。2008年に骨髄移植手術をした市川團十郎は、血液型がAからOに変わりました。ちなみに性格は変わらなかったそうです。ということで、血液型も、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
 「男」はどうでしょう? これだって現在は変更可能なものと考えられています。
 としても、出身地や生年月日はさすがに変わらないのではないでしょうか。このように変わらないものを「アイデンティティ」とするべきなのでしょうか。しかしよくよく考えてみれば、東京都民になったり男に生まれたのがたまたまであったように、愛知県に生まれたり1972年に生まれたのも、たまたまのように思えてきます。たまたまそうであっただけのものを、本当にアイデンティティとして大丈夫なのでしょうか?

再び、私にとって変わらないものとは何か?

 もう一度、私とは何なのか、しっかり考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

 この文章を無心にじっと眺めていると、実は変わらないところがあることに気がつきます。実はよく見ると、縦の列が、変わっていないのです。一つ目の文章も、二つ目の文章も、常に主語が「私は」となっています。文章を10個並べようが、100個並べようが、1000個並べようが、どこまでいっても絶対に変わりません。私を説明する文章は、常に「私は」という主語で始まります。実は変わらないものとは、主語だったのです。

 一方、述語はめまぐるしく変わり、一定を保つことがありません。述語には同一性を認めることはできません。述語のほうが常に移り変わり流れ去っていく水なのに対して、主語のほうは河の流れのように変わらない、ということになります。
 ちなみにかつて、「変わらないもの=同一性」を対象とする学問のことを「哲学」と呼び、「変わるもの=差異性」を対象とする学問のことを「自然学」(今で言うところの科学)と呼びました。川が「変わるもの」であることを前提に探究するのが科学の態度なのに対し、「川が川である」のはどういうことかを理解しようとするのが哲学ということになりそうです。さて、「私が私であること」がどういうことかを理解しようとするときに、科学的な心理学は役に立つでしょうか。

主語と述語

 主語にはアイデンティティが成立し、述語にはアイデンティティが成立しません。このことは、日常的な経験からも裏付けることができます。

 たとえば私が女性を口説こうとしたとして、「私は愛知県出身なんだよね。イチローと同じなんだ、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。「私は准教授なんだよね、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。どれだけ述語を積み重ねていっても、私の人となりを伝えることはできません。なぜなら、たまたまそうなっているだけだからです。たまたまそうなっているだけだから、そこに私の本質は見つけられません。どれだけ述語を増やして「私」を説明しても、どこまでいっても「たまたま」を抜けられないので、説得力が生じないのです。これが「アイデンティティが成立していない」という状態です。
 しかし一方、「私は、こう思う」とか「私は、こう考える」とか「私は、こう信じる」とか「私は、こういう人間になりたい」とか「私は、こういうふうに社会と関わっていきたい」などと、主語に立ってものを語る人は、一本筋が通っているように見えます。相手がだれだろうが、自分の立場がどうだろうが、ブレていないからです。主語で語る人は、どんなに述語が変化しようと、語るべき内容は変わりません。これが「アイデンティティが成立している」という状態です。

 このように、述語に寄りかかるような語りがたいへん情けなく、主語に立つ語りには筋が通っているように見えることは、ギリシア時代の哲学者にも気づかれています。たとえばアナカルシスについて、次のような言葉が伝えられています。

「彼がスキュティア人であることを、あるアッティカの人間が嘲ったとき、「なるほど、わたしの祖国はわたしにとって恥であるが、君の方は祖国の恥になっているのだ」と言い返した。」
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波文庫、96-97頁

 私の価値は述語によって決まるのではなく、主語のあり方によって決まるのだという、ブレない姿を見ることができます。述語に寄りかかるのではなく、主語としてブレない姿勢を保つことが、「アイデンティティ」です。

哲人皇帝の生き方

 このようなブレないアイデンティティを確立すべく努力した具体的な生き方を、「哲人皇帝」の愛称で知られるローマ帝国第16代皇帝マルクス・アウレーリウスの人生に見ることができます。
 哲人皇帝は、この世の儚い存在を「河」に喩えます。完全に鴨長明とシンクロしています。

「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消していくかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」
『自省録』第5巻23章

 そしてそれを踏まえて、人間という存在も絶え間なく変化し、一瞬たりとも同一性を保てないものだと理解します。

「絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく、流転と変化が世界をたえず更新する。(中略)実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは我々が各瞬間にしていることだが――昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。」
『自省録』第6巻15章

 そしてその上で、人間という存在には「自己との一致」が成立しないと断言します。

「人生は短い。褒める者にとっても褒められる者にとっても、記憶する者にとっても記憶される者にとっても。しかもすべてこの地域のこの小さな片隅でのこと。その上そこでは万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致しているものはない。」
『自省録』第8巻21章

 しかしそんなちっぽけな儚い人間という存在であっても、「一生を通じて同じ人間」であり得ることを哲人皇帝は信じています。

つねに同一の人生目的を持たぬ者は一生を通じて一人の同じ人間でありえない。しからばその目的はなんであるべきか、ということを付け加えなくては以上いったことは足りない。というのは、大衆がなんらかの意味で善しと見なすものについての世論は必ずしも一致せず、その中にあるもの、すなわち公益に関するものについてのみ一致するようであるが、我々もまた同様に公共的市民的福祉を目的とせねばならない。自己のあらゆる衝動をこれに向ける者は、彼の全行動を首尾一貫したものとなし、それによってつねに同じ人間として存在するであろう。」
『自省録』第11巻21章

 内容の是非はともかくとして、ここで注目したいのは「つねに同一の人生目的」を持つということが「一人の同じ人間」であることの必要十分条件だと示されていることです。これが「述語」ではなく「主語」であるということの具体的な表現となります。「述語」とは、哲人皇帝の言葉では「大衆がなんらかの意味で善しと見なすもの」で、具体的には「お金」や「名誉」を指しています。哲人皇帝にとって、お金や名誉などは儚く移り変わっていくものに過ぎず、人生の目的たりえません。哲人皇帝が目指すのは「つねに一人の同じ人間」でいることです。

アイデンティティが表現されている具体例

 「つねに一人の同じ人間」でありたいという希望は、ローマ時代の皇帝だけを捉えたものではありません。現代日本でも、そのような希望を表明している表現はたくさんあります。

僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
尾崎豊『僕が僕であるために』

 タイトルそのものがアイデンティティ概念を表現しています。歌詞を解釈するのは野暮ではありますが、敢えて解釈を加えてみます。「勝ち続ける」とは、自分自身の在り方が主語としてブレないということを意味します。外側からやってくる「述語」に飲み込まれた時が、「負け」です。「男だから」とか「中学生だから」とか、外在的な述語によって自分自身の在り方を規定されるのが「負け」です。この場合、「勝ち続ける」という言葉の本質は、「勝つ」ではなく「続ける」のほうにあります。常に主語であり「続ける」ことがアイデンティティの本質です。
この曲、ミスチルもライブでカバーしましたね。

秋が終われば冬が来る ほんとうに早いわ
私がオバさんになったら あなたはオジさんよ
かっこいいことばかりいっても お腹がでてくるのよ
私がオバさんになっても 本当に変わらない?
森高千里『私がオバさんになっても』

 年をとると、派手な水着は着られなくなります。ミニスカートもはけなくなります。お腹も出てきます。目に見えるものは必ず変わります。それでも「変わらない」ものはあるのか? あるわけです。「あなたが私を愛する」という「主語としての在り方」です。述語が変わっても主語が変わらないことをアイデンティティと呼んでいます。

僕は僕のままで ゆずれぬ夢を抱えて
どこまでも歩き続けていくよ いいだろう? Mr.myself
君は君のままに 静かな暮らしの中で
時には風に身を任せるのも いいじゃない Oh, miss yourself
Mr.Children『innocent world』

 「Mr.myself」という単語、天才すぎるだろうと、震えます。アイデンティティ概念を過不足なく言い当てている一言です。凄すぎ。野暮ながら、いちおう解釈を加えておくと、直前に語られている「僕は僕のままで」が、もちろんアイデンティティの表現です。そして「myself」とは「再帰的な自己」を表わす言葉ですが、そこに「Mr.」とつけることで一挙に「主語」と化しているわけです。自分自身が常に「主語」であり続けるというアイデンティティ概念の本質をたった2語で突き刺す、類を見ない強烈な表現です。「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失ってた」とか「いつの日もこの胸に流れてるメロディ」も、アイデンティティの在り方を端的に示す天才的な歌詞です。

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるなら
僕だってそうなんだ
Mr.Children『名もなき詩』

 神ならぬ身の人間にはアイデンティティを確立することが本質的に不可能であることを示唆している歌詞です。自分が主体的に選んでいたと思っていたものがいつのまにか述語になってしまったものが「自分らしさの檻」です。思い起こすのは、岡倉天心が「最悪の模倣とは自分自身を模倣することだ」と言っていたことです。「自分らしさの檻」とは、「自分自身を模倣すること」です。述語に縛られている状態です。しかし、人間は、その檻から逃れられません。岡倉天心は、芸術という創作活動だけがその可能性を持っていると考えていたのでしょう。

僕が僕であるため oh I have to go
君が君であるため oh you’ll have to go
oh we’ll have to go
Mr.Children『SINGLES』

 日本語の部分は、まさにそのままアイデンティティの表現です。気になるのは英語の部分、「I」は現在形なのに対し、「you」と「we」は未来形になっています。この違いには、必ず何かしらの意味が込められています。そしてそれはアイデンティティを超えて「他者性」へ開かれる端緒なのかもしれません。

「僕はボクさ」と主張をしたって 僕もボクをよく知らなくて
ぐるぐる自分のしっぽを追いかけ回して
ひょっとしたらあなたの瞳に いつか出会った本当の僕が
迷い込んでやしないかなぁ?って探してみる
きっと今日もあなたの瞳で
僕も知らない新しい僕は ぐるぐる旅をしてる
Mr.Children『fanfare』

 ここではもはや古典近代的な再帰的アイデンティティを超えて、他者の目から見た自分を自分の本質として受け容れる「他者性」というものに拓かれる回路が示されています。

明日にはきっと今日も今日じゃないし
いつもがいつもどおりでも なんか違う ちょっと違う
誰かがわたしになっていく わたしがわたしになりたいの
相対性理論『わたしがわたし』

 そのまま、アイデンティティ概念をテーマにしている歌です。「誰かがわたしになっていく」とは、「要素」の次元の話です。私の要素であったはずのものが、誰か別の人のものになっていきます。たとえば可愛かった私は年をとってオバさんになって、別の誰かが可愛くなります。私が彼の恋人であったはずなのに、別の人が彼の恋人になります。要素の次元では、すべてが変わっていきます。それでは「わたしがわたしになりたい」とは、どういうことでしょうか? 要素の次元に留まっていたら、「わたしがわたし」になることはできるでしょうか?

I am eccentric. 変わり者でいい 普通なんかごめんだ
僕は僕でいさせてくれ
敬遠されたって 好きなように生きてくよ
カメレオンみたいに同じ色に染まれない
欅坂46『エキセントリック』

 「僕は僕でいさせてくれ」が、そのままアイデンティティの表現です。カメレオンは周りの環境に合わせて色を変えます。「述語」に寄りかかっていることの暗喩です。「主語」に立つ人は、周りの環境に合わせて色を変えるどころか、自分の内部から光を放っています。
ただ、「カメレオンの色」を通じたアイデンティティ表現については、レオ・レオーニの絵本『じぶんだけのいろ』をぜひ参照したいところです。「たとえ自分を構成する要素が変わったとしても、わたしはわたし」という強烈な表現を見ることができます。

何度否定(やみ)に晒され 何度叩きつけられても
僕が僕であり続ける覚悟さえあればいい
水樹奈々『FIRE SCREAM』

 「僕が僕であり続ける」がそのままアイデンティティの表現ですが、重要なのはそれに続く「覚悟さえあればいい」という言葉です。仮に自分を構成する諸要素が変化したとしても、「覚悟」という主体的な姿勢が「keep in mind」な限り、「僕が僕であり続ける」のです。そしてその覚悟は命尽きたとしても永遠に鳴り響く愛の旋律となります。

僕は僕でしかない
下向いていたら 「上向きなさい」って
無理矢理「頑張らされた」
でも下向きながら 目線だけ上げて
睨む方が僕らしいや
僕の哲学は 揺れ続けるだろう
それでいいだろう あてもないまま
抗っていこう
Alexandros『Philosophy(18祭Mix)』

 「僕は僕でしかない」がそのままアイデンティティの表現です。「僕の哲学は揺れ続ける」というのは、常に変化することを余儀なく強いられるこの世界の存在すべてに当てはまる客観的現実ですが、それでも「あてもないまま抗っていく」という主体的な姿勢こそが「僕は僕でしかない」というアイデンティティを支える主観的現実になります。

強く強くなりたいんだよ 僕が僕でいられるように
清く正しく生きること 誰も悲しませずに生きること
はみ出さず真っ直ぐに生きること それが間違わないで生きること
ありのまま生きることが正義か
騙し騙し生きるのは正義か
僕の在るべき姿とはなんだ 本当の僕は何者なんだ
教えてくれよ…
YOASOBI『怪物』

 「僕が僕でいられるように」がアイデンティティの表現ですが、その先が大変なことになっています。完全に自分を見失っています。プラトン的に言えば、それは「正義」の問題ではありません。「在るべき姿」や「本当の僕」は、もちろん他人から教えてもらうものではありませんし、そもそも誰にも教えることはできません。そしてこうやって自分を見失うことは、「僕が僕でいられる」ためには大切なことだったりします。

「自分の核となるアイデンティティを持つということは、人生に起こる様々な困難に自分が潰されないということです。(中略)
それは、自分の拠りどころとするものが、他人や物ではいけないということです、あくまでも、己に立脚した自分自身でなくてはならないのです。(中略)
 頑丈なアイデンティティは揺らぐことがありません。
 どんな肩書きであろうが、地位や名誉がなくなろうが、何歳であろうが、自分が自分でいられるのが成熟した大人なのです。」
小池一夫『人生の結論』236-237頁

 まあ、そういうことですね。アイデンティティには、肩書も地位も名誉も年齢も関係ないということです。「要素」ではないということです。学歴も出身地も性別も関係ありません。「自分が自分でいられる」かどうかだけが問題です。

まとめ:「私が私である」とは?

 さて、ここまで来て、「アイデンティティとは、私が私である」という定義の中身が、かなり明らかになったようです。たとえどんなに環境や境遇が変化しようとも、相手が変わろうとも、それでも私は主語として変わらない私である。そういう意味で「私が私である」ということが、アイデンティティです。逆に、どれだけ述語の要素をたくさん積み上げても、知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいたり、ぐるぐる自分のしっぽを追いかけるようなもので、永遠に「わたし」には辿り着きません。
だから、「日本人としてアイデンティティを持つ」とか、「男としてアイデンティティを持つ」という発言は、主語に重きを置くという本来の意味からすれば、述語に寄りかかるようなとても奇妙な言い方になっているわけです。本来なら、「日本人であろうとなかろうと、私は私」とか「男だろうが女だろうが、私は私」とならなければいけないはずです。

 「なにがあっても、どうなろうと、私は私」と、言えますか? 言えるとしたら、アイデンティティは確立しています。