【要約と感想】水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』

【要約】「新プラトン主義」とは後世になってからつけられたラベルで、当事者たちが自身をそう自認していたわけではありません。そして新プラトン主義と呼ばれている人々の思想内容も様々です。おおまかに一致するのは、存在の階梯の最上位に「一者」を据え、そこからの「流出」を通じて世界の成り立ちを説明し、一者との「合一」を志向するところです。
 新プラトン主義はもちろんプラトンの思想にコミットしていますが、現代のように「弁明」や「国家」を重要視するプラトン読解とは大きく異なり、「パルメニデス」や「ティマイオス」を尊んでいます。
 新プラトン主義の影響は、キリスト教教父アウグスティヌスを始め、射程距離は近現代まで及びます。

【感想】新プラトン主義についてさくっと体系的に教えてくれる本が全然ないので(新書レベルで存在しない)、本書の存在は極めて貴重である。ありがとうございます。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 多少なりとも西洋思想史にコミットするような読書人であれば、もちろん新プラトン主義について何かしらの知識を持つはずではあるが、世間一般的にはどの程度認知されているのか。いちおう高校倫理の教科書にはプロティノスの名前くらいは挙がることがあるものの(記述の内教科書もある)、思想内容と後世への影響について詳しく説明されているわけではないので、ほとんど認知されていないだろうとは予測する。とはいえ、私が追究している「人格」の概念を理解するためには、新プラトン主義への目配りは絶対に外せない。というか個人的には、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」概念と近代の「人格」概念を隔てるミッシングリンクが、新プラトン主義に対する深い理解によって埋められる可能性が極めて高いように感じている。

 個人的な理解では、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」には、「かけがえのない実存」とか「尊厳」という観念は欠けている。もともとペルソナという言葉は「役者のつける仮面」を指しており、そこから「その個人が演じるべき役割」とか「果たすべき役割に応じて期待される責任」というような意味は持ちつつも、近代において「人格」が持つような法的主体あるいは実存的主体というニュアンスは感じない。古代のペルソナはあくまでも表面に顕れて人の目に触れる「仮面」であって、個人の内奥に隠された領域に踏み込んでいるような印象はない。
 ところで、新プラトン主義が最重要視するのは「一」という概念だ。この「一」は、もともとは宇宙全体を「一」の相の元に理解するという形で外界に対して適用される概念ではあるのだが、新プラトン主義はこの究極的な「一」に対して、個人の「合一」を志していく。その個人的な神秘体験は、中世キリスト教の異端的な立場からは「神化」と理解されることになるだろう。このように神的な「一」と合一化した「個」こそが、近代における「かけがえのない尊厳をもつ自律的な個」の原初的な姿のように見えるわけだ。ここからキリスト教神学や中世スコラ哲学の議論を通じて神秘的な要素を剥がし落としていくことで、単なる「法的主体としての個」だったり「かけがえのない尊厳」だったりする「一」としての「人格」概念が成立していく、というような見通し。とういことで仮に古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりがあるとすれば、そのミッシングリンクとしての新プラトン主義への目配りは絶対に欠かせないのである。逆に言えば、古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりなどないと喝破できてしまえば、新プラトン主義に対する目配りは一気に必要がなくなるということでもある。さてはて。

【今後の研究のためのメモ】
「一」に関する記述をサンプルしておく。

水地宗明「一者」
「次に「」という名称も、「何かであって一つであるもの」をではなく、純然たるそのものを表す。すべて一つであるものは、この「」の力によって一つである。「という名称は、かのものの単一性を、したがってまた自足性を表す。というのも、かのものは何も必要としないのである。有るということも、能力もはたらきも、むしろ、かのものはこれらすべての原因なのである」(ポルフュリオス、断片220)、プロティノス自身は、七番目に書いた短い論文の中で、こう述べている。……。「」が「善」との呼ばれる理由の一つは、「」のこの統一力こそが、それぞれのものがそのものとして存在するための基本的な支えだからである。「」の力がはたらかないならば、すべてのものは瞬時にして四散消滅するというわけである。」pp.60-61
「歴史的には、「」という名称は特にプラトンの『パルメニデス』に由来すると言えるだろう。この対話篇のいわゆる第一仮定の終わりの方(142A)で、「は有るものでもなく、名前もなく、説明されることもできない」などと言われていて、プロティノスはたびたびこの箇所に言及しているのである。
 なおアリストテレスによると、晩年のプラトンはこう言ったという。イデアは他のすべてのものの原因であるが、イデアの原因は「」と「大かつ小」であると(『形而上学』1.6)。つまり、大きいとも小さいとも、その他何とも言えないような不定で素材的なものが「」を分有することによって、もろもろのイデアが生じた、ということであろう。
 もちろん、「」という名称は、(そして始原を「」とみなす思想は)もともとはピュタゴラス派に由来するものだと言えるであろう。ピュタゴラス派によれば、すべてのものは数にかたどられていて、そして数はから生じるのであるから。そしてプラトンがピュタゴラス派から影響を受けたことは、周知の事実であるから。しかし、ピュタゴラス派の「」からプラトンの「」を経てプロティノスの「」に至る道程は、何と大きな展開であろう。」pp.61-62

袴田玲「ビザンツ正教思想における新プラトン主義」
「「無形相の神、あるいは一者との一化」という主題への強い関心もまた、プロティノスとパラマスに共通する。……。パラマスのこれらの言葉づかいからは、プロティノスと同じ「」への渇望、つまり、修行者があらゆる多様性を脱して自己自身と一つになり、さらに主客を超えて神(一者)と真にとなることへの欲求が感じられるであろう。また、合一の動きに「見る」という同士が好んで使われる点、神(一者)が光として表現される点も、両者に共通である。」p.303

山﨑達也「エックハルト――始原への探究――」
「ところでエックハルトは、中世においてアリストテレスの存在者に関する一〇のカテゴリーを超えるものとして理解されていた、いわゆる「超範疇的概念」(transcendentia, termini generale)――存在(esse)・(unum)・真(verum)・善(bonum)――を神の固有性と解している。存在とは、それ自体規定することができない神の絶対的存在(esse absolute)を意味するが、その存在の第一の規定がであり、そのから生まれたものが真である。神学的に解せば、一は産む者として父を意味し、真は父から生まれた者として子を意味する。善は真を媒介にしてから発出するものとして、父と子との愛の結合すなわち聖霊である。
 エックハルトは、神は父・子・聖霊という三つのペルソナ(persona)を有しながら、その本性(natura)はであるという三位一体の神学において、神の本性としてのをどこまでも追究していく。においてはあらゆる他が否定されるだけではなく、否定すること自体も否定される。この二重の否定すなわち「否定の否定」一(negatio negationis)によって、神の一性と心的な統一の深遠への研ぎ澄まされた洞察が可能になる。父・子・聖霊は数として数えられるものではなく、根源的にして神的なる存在・生として一なのである。この一性と統一は「一なる一」、「本来からの一」、「単純なる一」として、多様なるものとの差異的なるものの彼岸に求められなければならない。」pp.331-332

 しかしこうなってくると、老荘思想の「太一」とか「一元二気万物」だとか、朱子学の「太極」なども参照せざるを得なくなってきて、目眩がするところではある。というのは、西洋の「一」が「人格」の概念に昇華したのに対し、東洋の「一」が「人格」に至らなかったことを、合理的に解釈しなければいけないのであった。

水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年