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【要約と感想】蓑手章吾『個別最適な学びを実現するICTの使い方』

【要約】単にICTを使うことを目的にするのではなく、これまでの教育の形(チョーク&トーク)が根本から変わることを実感しましょう。これまではやりたくてもできなかったようなことが、ICTを活用することでどんどん実現できます。具体的な実践例多数。

【感想】東洋経済オンライン「education×ICT」でも安定した記事を配信している蓑手氏の著書で、非常に明快で分かりやすい。特に良いのは、単にICTを活用する方法だけ紹介しているのではなく、一貫した「子ども観」を土台として、実現したいことを実現するための手段としてテクノロジーを利用しているところだ。子どもの主体性や学びに向かう力を全面的に信じるところから、様々な実践が成立する。フレーベルが現代に甦ったとしたら、たぶん同じようにICTを使いこなしまくるだろう。だから逆に言えば、本書を読んで、表面だけマネしようと思ってもなかなかうまくいかないだろうと思う。一番のポイントは、子どもの力を信じることだ。

蓑手章吾『個別最適な学びを実現するICTの使い方』学陽書房、2022年

【要約と感想】稲葉一将・稲葉多喜生・児美川孝一郎『保育・教育のDXが子育て、学校、地方自治を変える』

【要約】教育DXによって学校や地方自治が変わりそうですが、「悪い意味」で変わるということなので、気をつけて下さい。命令・強制型の権力から監視・管理型の権力に切り替わる際に鍵を握っているのが、DXという技術なのです。

【感想】タイトルだけ見て、教育DXのポジティブな可能性について書かれた本だと思っていたら、中身はまったく反対だった。世の中が危険な方向に進んでいることを警告する本だった。
 本書には「フーコー」という人名は出てこないものの、ポイントはやはりフーコーの言う生・権力の要としてDXという技術が活用される、ということだと読んだ。命令・強制型の権力を維持すしようとすると、どうしても警察・軍隊のような暴力装置や大規模な官僚組織などのメンテナンスに莫大な維持費がかかる。これが監視・管理型の権力になると、一気に官僚組織をスリム化できて、低コストでの体制維持が可能となる(ように見える)。学校スリム化に見られるような公教育を解体しようとする意志も、根底にある欲望はこれだ。そしてDXは、これらを一気に実現するような技術に見える。本書は、生・権力の欲望のありかと、欲望を支える技術の仕組みを示そうと努力している。

【今後の研究のための備忘録】人格
 読む前の安易な予想を裏切り、「人格」に関する言質をたくさん得た。

「2006年に全部が改正されたとはいえ、教育基本法は、「個人の尊厳」(前文)や「人格の完成」(1条)といった旧教育基本法(1947法律第25号)の性格を特徴づける文言を、そのまま維持しています。明治期の君主制国家が臣民を教育したのとは逆で、「個人」単位でその「人格」を尊ぶというのが、日本国憲法や教育基本法の「精神」でしょう。大量の「教育データ」が連携されることで、保育期以降の「こども」の像や類型が、徐々に精緻なものとして形成されるようになれば、「個人」であるはずの子どもが「データ連係」によって形成された「こども」に適合するように「転形」しかねません。これを、教育基本法1条が定めているような「人格の完成」のための教育といえるのか否かが、これから問われてきます。」42-43頁、稲葉一将執筆部

「しかし、残念なことに、この報告書は、全体としては経産省の政策構想に対抗できるような内容にはなっていません。それは、報告書のタイトルに「教育」ではなく(ましてや、教育基本法第1条が掲げる「人格の完成」でもなく)、「人材育成」という用語、しかも、Society5.0という特定の社会に向けた「人材育成」という表現が採用されていることに象徴的に示されていると言えます。つまり、ここでの教育は、子どもたちの「人格の完成」という教育独自の目的や価値を持つものではなく、特定の社会の実現のための手段に成り下がっているのです。」77頁、児美川執筆部。

 個人的な感想から言えば、「人格の完成」の理念は1970年代後半には既に失われている。現在のOECDが言うような「エージェンシー」に夢中の人々は、「人格の完成」などに見向きもしない。というか、内容に対する無理解以前の話として、そもそも理解しようとする関心や意欲すらないように見える。重要なのは個人の「能力」の開発であって、「人格」という概念がそこに介在する余地は一切ない。仮に彼等が「人格」という言葉を使っていても、それは教育基本法が言う「人格」という概念にはかすりもしていない。本書が言う教育DXに関わる人々も、いちおう「人格」という言葉を使う場面もないこともないが、その意味内容は空疎で、「個々の能力を束ねる主体」程度のことしか言っていない。上記引用部が危惧することは、まさにその通りに実現してしまうだろう。「人格の完成」とはまったく無関係のところで、粛々と教育DXは進むのだろう。そして、それが「悪いこと」かと聞かれれば、まあ、特に「悪いこと」ではないと言うしかない。そういう時代ということに過ぎない。
 ただ個人的には、何も考えずこういう時代風潮に流されるのは気持ち悪い、とは思うのであった。

稲葉一将・稲葉多喜生・児美川孝一郎『保育・教育のDXが子育て、学校、地方自治を変える』自治体研究社、2022年

【紹介と感想】授業づくりネットワーク『個別最適な学び』

【要約】中央教育審議会答申で掲げられた「個別最適な学び」が注目されていますが、実は現場では「自由進度学習」という形で古くから先進的な実践が積み重ねられてきています。かつての実践を振り返って成功の要点を確認し、最新のICTやユニバーサルデザインの思想など新しいテクノロジーも視野に入れて、令和の新しい個別最適な学びの形を考えていきます。

【感想】いわゆる「自由進度学習」で注目されていた緒川小学校は、実は私の実家からほど近いところにあるため、なんとなく親近感があるのだった。で、かつての実践では教員の側が周到にプリントを用意するなど丁寧な準備が必要だったのが、今後はICTの活用によって実践がより容易になっていく。さて、文部科学省が目論むように「個別最適な学び」が現場に広がっていくのか、どうか。自由進度学習が可能かどうか、私自身もいま大学で実践を試みている最中だったりする。ICT活用は必須としても、一方でやはりカリキュラムと教育内容全体に対する教員の徹底的な理解も欠かせないことを実感しつつある。

授業づくりネットワーク『個別最適な学び』学事出版、2022年

【要約と感想】野田敦敬・田村学編著『学習指導要領の未来』

【要約】1947年に経験主義カリキュラムで始まった「学習指導要領」は、冷戦や高度経済成長等による紆余曲折を経ながらも、子どもを中心とした生活科や総合的な学習の時間を創出し、熱心な指導者の努力で優れた実践を積み重ねてきました。今後も探究的な学習を推進していくために、生活科や総合的な学習の時間の方向性は維持しつつ、さらに弾力性を高めていく必要があります。

【感想】熱量の高い本だった。多くの著者が関わっていて、細かいところを見ていくと当然違いもあるのだが、大まかにはみんな同じ方向を見ている。一致しているのは、生活科と総合的な学習(探究)の時間を軸にカリキュラムを構想することがSociety5.0時代の教育にとって決定的に重要だ、と考えているところだ。私もその流れに棹さすものである。

【要確認】カリキュラム・オーバーロード
 本書の本筋とは関係ないが、日本教育史プロパーとして気になってしまったのでメモしておく。

「現象としてのカリキュラム・オーバーロードへの気付きとそのメカニズムの解明は、さらにさかのぼって1930年代に存在する。」39頁、奈須正裕執筆箇所

 いや、私の研究では、カリキュラム・オーバーロードへの気付きは、既に初代文部大臣森有礼の段階で存在する。森有礼や、そのブレーンであった教育学者・能勢栄はカリキュラム・オーバーロードのことを「学科多端」と表現していた。そして問題の所在をペスタロッチー主義を直輸入した「開発主義」カリキュラムと特定し、制度改革に着手している。この森・能勢の段階では学科多端の問題を解決することは叶わなかったが、明治33年に文部省普通学務局長だった沢柳政太郎が携わり、ヘルバルト主義のアイデアを取り込んだ小学校令改正によって一定の解決を見ることになる。ややもすると教職課程の教科書レベルではヘルバルト主義は「五段階教授法」という形で授業方法にのみ関わっているかのような記述も散見されるところだが、実際にはカリキュラム構成の論理に深く影響を与えている。「学科多端」の問題に対するヘルバルト主義の回答は、「多方の興味」と「開化史的段階」の理論だった。これにより、開発主義の時代にはありとあらゆるサイエンスの成果を教え込もうとしていた系統的(演繹的)カリキュラムが、教育学の論理によって開化史的(発生論的)カリキュラムへと整理されることになる。(このあたりの詳細は私の論文「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」を参照)
 まあ、専門的な細かい話に過ぎず、本書の大筋にはまったく影響しないのではあった。

■野田敦敬・田村学編著『学習指導要領の未来―生活科・総合そして探究がつくる令和の学校教育』学事出版、2021年

【要約と感想】髙谷浩樹『「GIGAスクール」を超える』

【要約】ICT教育について語る前に、まずは道具としてのICTを理解しましょう。まずこれまでの学校DX化失敗の歴史を反省して、官民協働で一人一台端末を実現しました。教育DX化を進めることで、個別最適化した学習などテクノロジーを活用した新たな取り組みが進むことに加え、教育データ駆動によって思いもよらなかったイノベーションを期待することもできます。しかし教育データ駆動のためには単に一人一台端末の整備だけでは不十分で、セキュリティを踏まえてデータを収集・分析・可視化・活用するためのクラウドやプラットフォーム標準化などの整備が必要です。教育DX化を妨げる学校文化が残存しているので、打破しましょう。

【感想】GIGAスクール構想立ち上げに関わったキーパーソンが内部から見たこと考えたことを書き連ねていて、まずは手っ取り早く事実関係を把握できるのがありがたい。
 内容としては、具体的な授業改善へのICT活用についてはさらっと触れるだけで、主にビッグデータを教育的に活用する意義と、それを実現するためのインフラやセキュリティについての解説、さらにDX化を阻む教育界の障壁について詳しく書いてあるのが類書と異なる特徴だろう。
 ということで、現場の最前線に立つ教師向けに書かれたというより、教育政策立案や条件整備やカリキュラム編成に携わる立場、つまり教育委員会や管理職に向けて書かれた本ということになる。まあ、現場の教員が知っていて損はないだろうとは思う。

■髙谷浩樹『「GIGAスクール」を超える―データによる教育DX実現への道程』東洋館出版社、2022年