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【福島県会津若松市】幻の神指城の近くには、斉藤一本陣や中野竹子殉節之地がある

 神指城跡は、JR会津若松駅から西に5kmほど行ったところにあります。

 会津の城というと普通は真っ先に鶴ヶ城を思い浮かべるはずです。ですが、城マニアとしては、会津の城として神指城は絶対に外せません。「幻の城」としてあまりにも有名なのです。一般にはちっとも知られていませんけれども。

 というわけで、神指城の本丸跡へ。現在はただの原っぱになっています。とても平ら。

 地図を見ると、神指城が会津盆地のほぼド真ん中にあることが分かります。現在の鶴ヶ城が盆地の南東側に寄っているのと比較すると、その地政学的な意図が極めて明らかになるように思います。戦国時代の合戦重視の山城ではなく、領国経営のための政治経済的拠点として、城下町を含む都市経営が重点に置かれていたと思われるわけです。

 が、今はただ広大な空き地が広がっているだけです。城の資材は全部鶴ヶ城建設のために再利用され、持ち去られたと思われます。

 神指城をアピールする幟が、かつて城があったことを窺わせてくれます。

 本丸跡も荒れ放題。

 城跡にあった案内板には、CGで神指城の完成予想図が展示されていました。凄いことになっています。まあ、姫路城に匹敵するような城を想像するなら、あながち的外れとも言えないようには思います。

 案内板の説明によると、関ヶ原に絡んで城の命運が尽きたことが分かります。

 わずかに土木工事の痕跡が認められるような感じです。

 本丸から北東の方に「高瀬の大木」という場所が整備されています。こちらは二の丸北東隅の土塁にあたる場所のようです。

 

地図で見ると、神指城の広大な縄張が分かります。

 本丸の石垣造営のために運ばれた巨石が、こちらに移動して並べられています。

 神指城二の丸北東付近から東方向を臨むの図。広々としています。山並みが近くに迫っていた鶴ヶ城からの眺めとかなり異なって、神指城が会津盆地のド真ん中に位置することが実感できます。

 高瀬の大木付近の案内板では、昭和22年当時の空撮画像があって、神指城の土塁跡が見事に残っていることが確認できます。デカいなあ。

 そして神指城本丸の南西隅には、新撰組の斉藤一が本陣を構えた如来堂があります。

 「新選組殉難地」の石碑が残されています。

 案内板によれば、土方歳三が函館まで転戦したのに対して、斉藤一は会津降伏後も残り、苦渋を共にしたようです。斉藤一と会津というと、『SHIDO』というマンガ作品を思い出しますね。

 如来堂の建物自体は、新選組の提灯と共に、ひっそりと残っています。

 神指城本丸から東に1km弱ほどのところに「中野竹子殉節之地」石碑が立っています。

 戊申会津戦争の際に、長刀で戦った娘子隊(じょうしたい)の一員だった中野竹子の顕彰碑です。

 薙刀を構える中野竹子の石像も建てられています。

 案内板。会津戦争では、婦女子まで戦いに出る総力戦になっていたことが伺えます。壮絶な覚悟で戦地に赴いた竹子は、生け捕りにしようと迫る新政府軍を寄せ付けない奮闘を見せ、痺れを切らした新政府軍が遠巻きに放った銃弾を額に受けて戦死したとも伝えられています。

 竹子たち侍の娘たちの奮闘はすさまじかったわけですが、実際には会津のために命を賭けていたのは武士階級だけであって、搾取される側だった農民たちが無関心であったことは各種資料から分かっています。会津戦争では、身分制の限界もあからさまになったと言えます。

 晩夏の太陽が照らす顕彰碑からは、日本人同士で殺し合った殺伐とした当時を思うことはまったくできません。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】鶴ヶ城は茜色の瓦が素敵

 会津若松の鶴ヶ城は、THEお城という佇まいのたいへん立派なお城で、初心者が行っても素直に楽しめると思います。そして城マニアにはマニアなりの楽しみ方がある、奥が深い城でもあります。

 北側から見る天守閣。かっこいい。鉄筋なのは多少残念だけど。茜色の瓦も素敵です。

 南側、南走り長屋から連なる天守閣を見る。かっこいい。青空に茜色の瓦がよく映えます。

 南側、鉄門の下から天守閣を臨む。かっこいい。

 西側、石垣の下から天守閣を仰ぐ。かっこいい。

 案内板。鶴ヶ城というと、やはり幕末戊辰戦争での籠城戦が印象的なわけですが、松平家以前にも長い歴史がありますね。

 天守閣に登って、南側の窓から鉄門を見下ろすの図。長屋と門が組み合わさって、鉄壁の防御です。

 天守閣の中は郷土博物館になっています。訪問した2014年は戊辰戦争150周年を4年後に控え、会津の正統性を強調しようと力がこもった展示でした。映像資料も充実しており、明治新政府の非道ぶりがよく分かるようになっています。

 天守閣内の郷土博物館からの出口は、南走長屋を通った先にあります。なかなか嬉しい構造です。

 天守閣の北東方向に、白虎隊士たちが自刃した場所としてあまりにも有名な飯盛山が見えます。本丸広場では、会津まつりが絶賛開催中です。ちょうど「八重の桜」が放映された直後で、出演者たちも集合し、盛り上がっていました。
 しかし向こうの山の上から大砲の弾が飛んでくるのは、怖いなあ。

 鶴ヶ城の見所は天守閣だけではありません。石垣と堀も実にかっこいいです。高石が木から廊下橋を臨むの図。薩長の攻撃を一ヶ月も阻んだ立派な高石垣です。

 高石垣の上から廊下橋門の跡を見下ろすの図。鶴ヶ城は石垣の上に登ることができて、城マニアにはたまりません。

 北側の追手門跡。石がデカいです。

 石垣の上に登って、追手門跡を見下ろすの図。鉄壁の虎口。かっこいい。

 ところで、地政学的に見た場合、会津若松の重要具合がいまいちピンと来ていません。奥羽全体を押さえようという場合は、会津若松よりも、米沢と仙台が決定的に重要なように見えてしまいます。しかし現実には中世以降に会津若松を押さえた蘆名氏が勢力を誇っているから、交通の要衝として機能していたのでしょう。米沢から新発田に抜けるルートが現実的でなかったりして、いったん会津に出るルートが有力だったんでしょうか。このあたりは、中世交通史をしっかり勉強しないといけないところです。
(2014年9月訪問)

【栃木県足利市】足利織姫神社は恋人の聖地だが、足利城は山の奥

足利市の足利織姫神社に行ってきました。
織姫神社の背後に続く山道をさらに進むと足利城の跡に行けて、こちらは2012年5月と2020年10月に訪問しています。

さて、足利織姫神社は機神山の中腹にあります。

鳥居をくぐったら、階段が待ち受けています。

階段は229段あります。がんばりましょう。

階段の途中、ところどころに足利市の文化を示す様々な記念碑や銅像等が据えられています。足利氏の家系図には、歴代室町将軍や古河公方などのメジャー系列のほか、千葉県小弓を本拠地とした小弓公方=足利義明の系列もしっかり書き込まれていました。鑁阿寺に寄進した足利国朝が「喜連川公方」って書かれていて、興味をそそられます。「喜連川公方」ってメジャーな呼ばれ方なんでしょうか?

山腹にある梅の花は、見頃を迎えておりました(2018年2月)。

秋は、同じ角度から紅葉が見事なのです(2020年10月)

織姫神社の御祭神は、天八千々姫命と天御鉾命の二柱。もともとは伊勢で機織りに関わる神様だったのが、いわゆる織姫と彦星に習合していった感じです。

階段を登りきると、目の前に本殿が現れます。本殿は鮮やかな朱色を基調としていて、なかなか見事です。階段を登りきったという達成感を増幅させてくれます。

振り返ると、足利の街と渡良瀬川を一望できます。229段上ってきた甲斐がある、清々しい眺めです(2018年2月)。

秋は紅葉が見事ですね(2020年10月)。

ところで、2012年にも織姫神社に来ているのですが、その時とは境内の印象がかなり変わっています。というのは。

2012年にはこういう萌え幟がそこかしこに立っていたんですね。2008年に西又葵が描いたイラストで萌え米が話題になって以降、萌えキャラによる町おこしが盛んになっていた時期です。足利も萌えキャラで頑張っていたんですね。2018年訪問時には、神社境内からは萌え幟が消えてしまっていましたが、町中ではまだまだひめちゃんとたまちゃんは頑張っています。

境内には「恋人の聖地」の鐘が設置されています。七夕のロマンスにあやかるのと、機織りで縦糸と横糸が結び合わさるという連想から、足利織姫神社は恋愛パワースポットということになっています。
(2018年2月には修復工事中で鐘そのものは取り外されていましたが、2020年10月には工事完了していました。)

さて、2018年は神社に参拝してすぐに帰りましたが、2012年と2020年はここからさらに山の奥へ、足利城を目指して踏み入ります。

織姫神社から北の山一帯は自然公園として整備されていて、ハイキングコースとしてとても人気があります。織姫神社を起点とするハイキングコースを、足利城を超えてさらに進むと名草巨石群というパワースポットがあって、そこを目指すハイカーが多いのですが、私は足利城まで。

地図で見るとこんな感じ。足利城は織姫神社のほぼ真北に位置しています。

で、ゴツゴツした岩が露出する山道を進んでいくと、おっさんの声が響き渡ってきました。

断崖絶壁の岩の上で叫ぶおっさん。まあ、眺めがとてもいいので、ヤッホーの一つでも叫びたくなる気持ちは分からないでもありません。
で、こういうふうに岩が露出しているので、足利城とか金山城とか唐沢山城とか、関東の城には珍しく石垣が組まれるのかなと思いました。

細尾根の岩道をさらに進むと、足利城跡に着きます。

2012年に来たときは、手前の紅葉が新緑で輝いていましたが。

2020年は紅葉の見頃にやってきました。

本丸下の東屋から切り取られる風景が、なかなか趣深かったのでした。

案内板。足利城は両害山城とも呼ばれているようですね。源平合戦と戦国時代に機能したお城のようです。足利氏の勃興についても完結にまとめられていて、分かりやすいです。

縄張の様子が分かる案内板。

案内板。

本丸は、神社として整備されています。ところが2021年2月に山火事があり、全焼したとの報道がありました。驚きました。

美しい風景も灰燼に帰しているのでしょうか。被害が少ないことを祈ります。

足利城本丸跡から東方の足利市街を臨むの図。ここからの眺めを見る限りでは、ここに城を設置するのは地政学的に合理的な気はします。まあ、広域的な観点で見た場合、前橋や佐野ほどの地政学的重要性はないような気もしないではないですが、今と昔では川の流れや道筋が違っているから、一概には言えないんだよなあ。関東の戦国時代には、古河公方や上杉謙信等も絡んで、何度か争いに巻き込まれているようです。

さて、織姫神社の少し北は織姫公園として整備されていて、「もみじ谷」と名付けられたエリアは、名前の通り秋は見事に真っ赤になります。

谷を埋める紅葉。

見事ですね。

春は梅、秋は紅葉で彩られる織姫神社ですが、春も秋も境内でいちゃいちゃするカップルを横目に見ながら、足利を後にしたのでした。
(2018年2/26訪問、2020年11/18訪問)

【埼玉県越生町】高取城と越生神社で関東戦国史に思いを馳せる

埼玉県越生町の高取城跡へ行きました。

高取城は、越生駅からまっすぐ西の方に見える山の中にあります。山腹までは舗装された道路がありますが、最終的にただの山道になります。

舗装路が終わって山道に入るところ。花粉が凄いよ。

というか、往復2時間強程度の、親子で楽しめる手頃なハイキングコースとして人気のようです。道は岩が露出してゴツゴツしていますが、坂もきつくなく、歩きやすいですね。私は実習指導訪問の後に寄ったので、ビジネスシューズで登山でしたが。

途中でハイキングコースと分岐して、高取城へ。明らかに人工的に造成されたとおぼしき平坦な場所に出ます。写真を撮っている場所はたぶん第二曲輪で、本曲輪を見上げています。

本丸跡には、神社がありました。扁額がないので詳細は分かりませんが、麓にある越生神社の奥宮のようです。

本丸はそれほど広くなく、非常時用の後詰の城か、物見櫓として利用されていたようです。大きなスダジイの根元には小御岳や浅間神社の祠もあって、戦国の世が終わった後は信仰の場となっていたようですね。

山を下りると、麓に越生神社があります。御祭神はスサノヲですが、明治後期の神社合祀令のために様々な神社がここに集められています。たとえば稲荷の祠は4社、狐の石像は4体ありました。祠も狐も、越生村各地から集められたのでしょう。
いま考えれば神社合祀令は野蛮な政策なわけですが、まあ、自然村から行政村へと地方行財政制度の再編成を目指す権力機構としては避けて通れない課題ではあります。こういうところに近代化の爪痕が残るわけですね。

神社にあった説明看板によると、越生神社の下方に越生四郎左衛門の屋敷があったようです。この越生四郎左衛門、太平記によれば、なんと北畠顕家を討ち取った武将のようです。ものすごいヒーロー(あるいは北朝の憎き手先)です。
遺構は、太田道灌と長尾景春の戦いの時期のものと見る説があるのですね。燃える。確かに鉢形城(長尾景春本拠地)から鎌倉に通じるルートを考えると、越生は地政学的に極めて重要な位置にあります。ここを押さえているのと押さえていないのとでは、まるで戦況が変わってきます。太田道灌ゆかりの地として名高いのも、地政学的な観点から、よく分かります。

南北朝から戦国期の関東戦国史の全体像を思い描きつつ、お土産に梅酢を買って越生を後にするのでした。
(2018年2/27訪問)

【宮城県多賀城市】多賀城と東北歴史博物館

 宮城県多賀城市の多賀城跡と東北歴史博物館に行ってきました。

 多賀城は、奈良時代に作られて平安時代まで機能した、大和朝廷が奥羽を支配・経営するための拠点です。全国に62箇所しかない特別史跡のうちの一つです。

 外郭南門から政庁まで続く直線道路が、萩によって表現されています。とても長い道です。

 案内板によると、多賀城を後背地として、奥羽各地に大和朝廷による支配拠点が築かれていったことが分かります。

 政庁推定復原模型。伊治公砦麻呂による反乱などで、政庁は何度か作り直されているようです。

 気になるのは、南北朝で北畠親房と顕家が義良親王(後醍醐天皇の跡を継いて後村上天皇となる)を奉じて多賀城に入城していることです。多賀城を軍事拠点にしようとした後醍醐天皇の地政学観が気になるところです。まあ、14世紀の多賀城の様子は、現地の見学だけでは分からないですね。

 政庁跡の広場。

 案内板。

 政庁正殿跡。礎石部分が復原されています。

 案内板。

 政庁跡南門から外郭南門方面を見る。けっこう高いところに築かれていることが分かります。奈良や平安の当時は、かなり遠くまで見晴らすことができた場所ではないかと思います。

 外郭南辺築地の案内板。多賀城の敷地は約1km四方という広大な規模で、それを囲っていた築地塀の跡。

 多賀城跡の近くには、東北歴史博物館があります。宮城県だけではなく東北地方全体の歴史をカバーする、模型や映像も豊富な素晴らしい展示で、たいへん充実しています。続縄文文化とか、蝦夷と呼ばれていた人々の稲作文化とか、伊治公呰麻呂などの大和朝廷の支配に対する抵抗だとか、奥州藤原氏の栄枯盛衰だとか、大和朝廷中心史観とは一味違った歴史を見ることができます。

 博物館のツアーで、多賀城廃寺の見学に連れて行ってもらいました。

 博物館から東に200mほどのところに、石碑があります。

 太宰府の観世音寺とよく似ているということで、やはり多賀城と太宰府が大和朝廷の政治と軍事の拠点として重要視されていただろうことが想像されます。ただ、関東の戒壇が多賀城廃寺ではなく下野薬師寺に置かれた理由は少し気になります。多賀城周辺が軍事的に安定していなかったからという理由でいいのかな。

 かつては繁栄を誇ったであろう多賀城廃寺も、今は礎石を残すのみ。奥羽の栄枯盛衰を思いつつ、多賀城を後にするのでした。
(2015年9月訪問)