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【岩手県盛岡市】盛岡城ともりおか歴史文化館

 盛岡城は、関東以北にはとても珍しい、重厚な石垣が張り巡らされたお城として大注目です。とても格好いい城です。

 北側の三の丸から攻め入ります。さらに北側にある下曲輪跡に飲食店が建ち並ぶ現在の風情も興味深いところではありますが、城としては三の丸からが本番かなあ。

 盛岡城は、北側から下曲輪→三の丸→二の丸→本丸というふうに順番に並べて設計されている、いわゆる連郭式のお城になります。連郭式は横からいきなり本丸を攻められると弱いのですが、盛岡城は中津川と北上川に挟まれていて、いきなり横から攻められる心配はあまりないんですね。

 三の丸の虎口の脇にある桜山神社には、烏帽子岩という巨大岩石が祀られています。

 三の丸から本丸方面を臨む。現在は多目的広場になっている部分は、台所と呼ばれている場所で、周りを高石垣に包囲されている巨大な枡形という趣ではあります。が、あまりにも巨大すぎて、枡形として機能するかどうか、ちょっと不思議な感じがします。こんなに巨大な枡形は、他に類例があるのかな。なかなか個性的な縄張のように思います。

 台所から盛岡城をパノラマで見る。左側が本丸で、右側が三の丸。

 改めて、三の丸から城内へ。クランク型の虎口を抜けると、城に入ったって気分が高まりますね。

 二の丸付近から、本丸の石垣を見る。極めて立派な高石垣です。盛岡城は、各所の石垣が本当に素晴らしい。

 この橋を渡ると本丸です。江戸時代には、この橋には屋根がかかっていたようですね。

 盛岡城はところどころの案内板も充実していて、見学のしがいがあります。

 三の丸の東には、もりおか歴史文化館が建っています。一階は盛岡のお祭りなどを展示する無料スペースで、2階が有料の博物館施設になっています。
 博物館の展示は、南部家の宝物が素晴らしいのと、模型や復元などものすごく気合いが入っているのとで、たいへん見応えがありました。中世以前の蝦夷の歴史等にも触れられていて、東北地方の個性を考える上でも貴重な施設です。

 また、歴史館から東に中津川を越えたところに、もりおか啄木・賢治青春館があります。ここでは盛岡中学で学んだ石川啄木と宮沢賢治の事跡が紹介されています。一階には喫茶店も併設されていて、趣がある建物でいただくコーヒーは格別です。こういう文化の香りがする場所があるのは、とても貴重ですね。
(2015年10月訪問)

【青森県青森市】浪岡城は、中世東北のイメージを一新させる凄い史跡だ

 浪岡城は、弘前と青森のほぼ中間に位置します。青森から電車に乗って山を越えると津軽に出るわけですが、津軽平野の入口に位置しています。

 地図上の赤で示したところが浪岡城の位置です。航空写真で見ると、津軽平野の奥まったところに位置しているのが分かります。青森や八戸に抜ける交通の要衝であると共に、三方を山に囲まれて前面を川で塞ぐという、防御に適した要害の地であることが分かります。津軽平野に睨みを効かせるのに絶好の立地条件ですね。

 浪岡城が築かれたのは室町時代後期。北畠親房や顕家の子孫、浪岡北畠家の城です。京都から遠く北の果てにあるように思われますが、さすが名門北畠家だけあって、史跡からの出土品等を見る限り、かなり優雅な生活を送っていたように思われます。城内には商人や職人も居住しており、往時は一大城郭都市として繁栄していたようです。

 浪岡城は、大規模な開発に見舞われることもなく、堀や土塁や郭の跡が良好に残っています。たいへん見応えがあります。

 建物の跡もたくさん確認されており、大きな館であっただろうことが推測されます。

 広大な敷地に、たくさんの館があったようです。当時の繁栄の様子が偲ばれます。

 浪岡城全体図の案内板。浪岡側の北岸に広大な城館が築かれていたことが分かります。

 史跡にあった案内掲示によると、1578年に津軽氏によって滅ぼされたようです。東北中世の終わりの始まりですね。

 関係年表等からは、浪岡北畠家が朝廷から官位をもらっており、京都との深い繋がりが保たれていたことが分かります。

 「北畠古城跡」の石碑。

 城跡の近くには「青森市中世の館」という歴史資料館施設があります。展示はかなり充実していて、浪岡城の歴史的位置のほか、縄文時代からの発掘品が展示されています。
 平安時代の東北地方については、蝦夷征伐の経緯を中心に歴史教科書にも書かれていますが、鎌倉期や室町期の様子は教科書にも出てこず、なかなか様子が分かりません。浪岡城は、その教科書空白期間を埋めてくれる、たいへん興味深い史跡です。浪岡城からは中国製の青磁や白磁なども大量に出土し、室町期の浪岡がかなり栄えていた様子が分かります。

 その繁栄は今は見る影もなく、現在はただ堀と土塁の跡が残されているばかりです。
中世東北のイメージを更新して、浪岡を後にするのでした。
(2015年10月訪問)

【青森県弘前市】天守閣移動中の弘前城と、弘前市立博物館

 青森県の弘前城と弘前市立博物館に行った2015年は、弘前城の石垣工事準備が始まったところでした。

 一口に準備と言っても、石垣を修復するために天守閣を移動させるという、ものすごく大変な準備です。日本伝統の曳屋という手法で、天守閣を解体せずに、そのまま移動させています。すごい大技です。写真では、天守閣がレールに乗っている姿が見えます。
 ちなみに、弘前城天守は江戸時代からそのまま残っている12の天守閣のうちの一つで、とても貴重です。間近で見ると、けっこうこぢんまりとして見えます。
 石垣工事と調査が終わって天守閣が元の位置に戻るのは、2021年の予定のようです。

 弘前城の案内板。
 弘前城は、現存天守の他にも堀や郭の状態が良好に保存されていて、石垣もたいへん立派で、見応えがあります。素晴らしい城です。

 絶賛工事中の石垣。本当はここに天守閣がありました。

 本丸の石垣工事中。なかなか見られる景色ではありません。

 北の郭から内堀を通して天守閣跡を臨む。お堀も石垣もとても立派です。天守閣が建っていたら、いい絵になりますね。

 石垣についての案内板。なかなか詳しく解説しています。

 城内三の丸の一角には弘前市立博物館があり、津軽氏の事跡や弘前城の推移などが展示されていました。津軽氏の事跡を通じて、津軽と南部の確執についてもなんとなく分かるようになっています。歴史関連の展示だけでなく、美術品展示も充実している総合博物館です。陸羯南の企画展示は見たかったなあ。

 そんなわけで、石垣の修復がなって天守閣が元の位置に戻る頃には、もう一度行きたいなあと思いつつ、津軽を離脱するのでした。
(2015年10月訪問)

【北海道木古内町・松前町】木古内町郷土資料館と松前城

 北海道の木古内町と松前城に行ってきました。

 まずは2016年に開通したばかりの北海道新幹線、木古内駅へ。

 北海道新幹線の木古内駅には、北海道日本ハムファイターズの大谷翔平顔出しパネルが木古内町キャラクターと共に設置されていました。新函館北斗駅にも大谷翔平顔出しパネルが設置されているのですが、一緒に並ぶ北斗市キャラクターはなかなか強烈です。参照:ずーしーほっきー公式facebook

 木古内駅前には道の駅があって、特産物を手に入れることができます。ここにある顔出しパネルもなかなか強烈。1831年に始まった「寒中みそぎ祭り」という奇祭なわけですが、1/15の津軽海峡に飛び込むって、死んじゃいそう。

 木古内駅から2kmほど西に木古内町郷土資料館があります。2011年に廃校になった鶴岡小学校を利用した資料館で、目玉展示は咸臨丸の碇です。本来の役目を終えた咸臨丸は、明治政府に接収された後は輸送船として第二の人生を送っていましたが、明治4年に木古内沖で沈没してしまいます。
 資料館には開拓民と本土を結ぶ様々な資料がある他、鉄道マニア垂涎の資料がたくさんあります。学芸員の方にいろいろ案内していただきました。体育館に、校歌の歌詞パネルが2つ飾られていたのが印象的でした。北海道にできた鶴岡小学校の校歌と並んで、開拓元の鶴岡の小学校の歌詞があったのでした。木古内は、山形県鶴岡市からの開拓民によって開かれた町で、姉妹都市になっていたんですね。北海道の歴史の一端を垣間見た気がしました。

 さて、木古内からバスに乗って松前へ。1時間30分かかります。北海道は広い。

 松前城の入り口。信長の野望だと、最後に勧告で落としちゃうから、実際に攻め込んだことはないなあ。

 松前城の案内板。天守閣は国宝だったのに、昭和24年に焼失というのは、本当に勿体ないことをしました。

 本丸から天守閣を臨む。現在の天守閣は鉄筋コンクリートによる再建ですが、現在は木造による復興を目指しているようですね。

 天守閣。

 松前城全景の模型。津軽海峡が目前です。

 そして松前には、菅江真澄が松前に上陸した沖ノ口番所があります。

 菅江真澄は江戸時代の旅行者ですが、同郷の三河出身で、しかも鵜殿兵庫之城がある牟呂生まれということで、何かと親近感があります。

 そんなわけで、はるばる蝦夷地までやってきた大先輩を思いつつ、松前を後にしたのでした。
(2017年8月訪問)

【北海道函館市】五稜郭と碧血碑に、戊申の涙を見る

 北海道函館市、五稜郭と戊辰戦役慰霊碑「碧血碑」に行ってきました。

 五稜郭タワーに登ると、城郭構造の全体像を見渡せます。地上にいても全体像を想像することが難しいから、ありがたいですね。

 函館奉行所。中は博物館になっていて、戊辰戦争関連の展示が充実しています。

 五稜郭タワー内にあった、往年の五稜郭全体像。鉄砲と大砲の時代に合わせた城づくりというコンセプトは分かるものの、素人に設計を任せざるを得ないというのは、幕末だから仕方ないところでしょうか。

 五稜郭を満喫した後は、路面電車に乗って函館岬の南端へ移動。函館は路面電車で移動するのが風情あります。

 函館山の東側麓には、函館護国神社があります。こちらには、官軍側の墓地があります。

 奥まったところにひっそりと。

 戊申戦役薩摩藩戦死者墓。箱館戦争では何かと旧幕府軍の悲劇の方に脚光が当たりがちですが、当然のことながら官軍の方にも大量の戦死者が出ているんですね。

 さらに函館山の東麓を南下して岬の先の方に向かうと、旧幕府軍側の戦没者慰霊碑「碧血碑」があります。

 昼なお暗い、山の中。ひっそりと建っています。

 碧血碑。当時は逆賊ということでひっそりと立っていたと思われますが、現在では熱心な土方歳三ファンなどが訪れ、コミュニケーションノートなども設置されています。

 案内板には、土方歳三の他、中島三郎助のことにも触れられていますね。題字を書いたのは幕府歩兵隊の大鳥圭介でしたか。なかなか感慨深いものがあります。

 幕末維新の動乱期に命を落とした人々に思いを馳せつつ、ラッキーピエロで巨大ハンバーガーを食して函館を後にするのでした。
(2017年8月訪問)