「栃木県」タグアーカイブ

【栃木県日光市】日光の紅葉2020

神橋から日光金谷ホテルへの入口。

日光金谷ホテル。

板垣退助像。

神橋。

勝道上人。

輪王寺。

輪王寺の逍遙園。

駐車場付近。

輪王寺の裏道から石垣越え。

仏岩。

塀越しに二荒山神社。

大猷院仁王門。

大猷院。

大猷院参道。

大猷院展望台。

大猷院二天門。

大猷院二天門。

コロナウイルス第三波が押し寄せた2020年11/12。

【栃木県大田原市】大田原城址は桜が綺麗

栃木県大田原市にある大田原城に行ってきました。こちらは桜の名所ということです。ちなみに6kmほど東にある黒羽城は紫陽花の名所です。

案内パネル等によると、城主の大田原氏は、もともと那須氏の部下でしたが、小田原征伐や関ヶ原の功績によって近世大名に成り上がったもののようです。特に関ヶ原の際の対上杉(会津)戦では、黒羽城の大関氏と共に最重要防衛ラインを担っています。

案内パネルは本丸の真下に設置されていますが、比高差がありすぎて、本丸の様子はまったく分かりません。なかなか巨大な城です。

下の写真は、二の丸と本丸を隔てる空堀です。現在は煉瓦の橋がかかっていますが、当時はもちろん木橋だったでしょう。

先に黒羽城の超巨大空堀を見てしまったので、その時点では「ふーん」という感じでしたが、改めて見てみればなかなか立派です。

二の丸から本丸に入る虎口には、当時は築地塀が張り巡らされ、冠木門が築かれていたようです。

下は土塁の上に登って本丸を見ているところです。

当時は城主の住居と政庁がありましたが、現在は市民の憩いの場として利用されています。

土塁の上には散歩道が整備されていて、犬の散歩をしている人などがいました。当時は築地塀が張り巡らされていたところですが、現在は桜の木で囲われています。春は、さぞ綺麗なことでしょう。

下は、北曲輪に降りて本丸を見上げている図です。

かなりの比高差で、迫力があります。この土木造成の跡は当時からまったく変わっていないだろうところで、なかなかの見応えです。

下は城の東側、蛇尾川と本丸の間の場所です。

現在は帯曲輪のようになっていますが、図面を見ると、当時は整備されていたなったかもしれません。

この城のおもしろいところは、蛇尾川の河川敷と一体になっているところです。

上の写真では、右にこんもり見える森が城です。今は埋め立てられてしまっていますが、川から城内に水堀が引き入れられていたので、水運も利用していたのではないでしょうか。

蛇尾川の河川敷から城を一望できますが、現在は樹木に囲まれて全体像がよく分かりません。当時は木々もなく、白い築地塀に囲まれた立派な御殿が聳え立っていたことでしょう。

大田原藩は一万二千石ということで小さめの藩ですが、城はかなり立派でした。奥州街道をすぐ西に抱えた交通の要衝で、人の往来も多く、蛇尾川の水運も利用でき、財政的には潤っていたのかもしれません。
すぐ東隣にある黒羽藩は一万八千石と大田原藩より大きいのですが、両藩のライバル関係がどのような感じだったのか、お互いに気にしていなかったのか。少し興味があるところです。
(2018年6/14訪問)

【栃木県大田原市】黒羽城址は紫陽花が綺麗

栃木県大田原市にある黒羽城に行ってきました。6kmほど西にある大田原城は桜の名所ですが、こちらは紫陽花の名所として知られています。

黒羽城は、地図で見る通り、西を那珂川、東を松葉川に挟まれた、天然の要害です。城を作るならここしかないだろうという恵まれた立地条件です。

とはいえ、奥州街道からは少し東に外れており、交通の要衝という感じではない気もしますが、経済圏の中心としてはどうだったのでしょうか。(那須盆地東端を走る関街道直下ではあります)。黒羽藩も一万八千石と、それほど大きな藩ではありません。水戸に繋がる那珂川水系の水運がどれくらい発達していたかが問題ですが、手っ取り早く分かる資料はなさそうですね。

城はかなり広大で、とても立派でした。一万八千石の城としては破格の大きさなように思います。関ヶ原合戦の際の対上杉防衛ラインとして重要視されたことは分かりますが、太平の世にあっては維持がかなり大変だったと思います。なにかしら儲かっていたのでしょうか。

案内パネル等によると、城主の大関氏は小田原征伐と関ヶ原合戦を巧妙に切り抜けて、かつての主である那須氏を追い落として近世大名に成り上がったもののようです。

さて、本丸はかなり広大です。

かつてはここに城主大関氏の居館がありました。案内パネルを見ると、こちらは一万八千石っぽい構えになっているような気はします。

本丸西側には櫓型の展望台あって、那須盆地を一望することができます。

木立に遮られて全貌が分かりにくいですが、那珂川からの比高差はかなりあって、城としては相当に防御力が高そうに思います。

そして黒羽城の一番の見所は、本丸と二の丸を隔てる空堀ではないかと思います。巨大です。さすがに水戸城ほどではありませんが、かなり巨大な空堀です。関東の土の城を代表する空堀の一つなのではないでしょうか。

現在は空堀の斜面にたくさんの紫陽花が植えられています。訪れたのは6月半ばで、ちらほら花が開いていました。見頃になると、ライトアップなどもあって、かなりの壮観となりそうです。

二の丸から三の丸へ向かう道も、なかなか味わい深い感じになっております。

三の丸には、馬に跨がる松尾芭蕉と弟子の曽良の像が建っていました。

案内石盤によれば、奥の細道紀行の途次、知人のいる黒羽に立ち寄ったようですね。

単に奥州街道を北上するだけなら大田原から白河に抜けて行ってしまうわけで、黒羽に寄るためには遠回りをしなければなりません。それを思えば、わざわざ芭蕉が遠回りしてまで黒羽に立ち寄ったことは、地元の人にとっては大きな誇りとなったのかもしれません。特に2005年に平成の大合併によって旧黒羽町が大田原市に編入された中、「黒羽」の名を冠する城址は今後も地域のアイデンティティを保つ上で重要な役割を果すのではないかと推察します。
(2018年6/14訪問)

【栃木県佐野市】佐野城に行くと、いつも若いカップルがいる

佐野城跡に行ってきました。JRと東武の佐野駅改札からいきなり徒歩10秒で三の丸に行けるという、たいへん立地条件のいい城です。

現在は公園として整備されています。が、大きな堀切の跡をしっかり見ることができます。
入口の案内パネルによると、関ヶ原後に唐沢山城を廃城にして、新たにこちらに築城したようですね。完全に山城の唐沢山城よりは、確かに平地が広がっている佐野城のほうが行政の中心としては都合が良さそうです。

南から北へ、三の丸・二の丸・本丸・北出丸と続く連郭式の城です。かなりの比高差があって、駅から続く跨線橋がそのまま三の丸の高さになっています。縄張図を見ると、外堀もたいへん立派です。近世城郭としてかなりの規模であったことが分かります。

見所は、やはり堀切です。こちらは二の丸と本丸を隔てる巨大堀切。

関東の「土の城」らしい佇まいが、見事です。
本丸の案内パネルによると、どうも石垣も残っていたようです。ただし保存のために埋め戻されていて、見学はできません。

石畳の様子も見たかったのう。

本丸と北出丸を隔てる堀切も、迫力があります。かなりの比高差があることが分かります。

北出丸の北は断崖絶壁になっていて、こちらから攻め上ることはほぼ不可能ではないかなと思います。絶好の要害に城を作ったなあ。

現在、本丸には東屋が、二の丸には文化施設が建っています。2019年に訪れたときには二の丸で、2012年に訪れたときには本丸で、高校生らしきカップルがいちゃついていたのでした。どうやらここは現在ではカップル憩いの場として定着しているようでありました。

佐野らーめんチャーシュー増し増しをいただいて、佐野を離脱するのでありました。
駅直結の「らーめんミニ博物館」には、佐野市内のラーメンが高クオリティの食品サンプルで展示されていて、一見の価値はあるかも知れません。
(2019年8月訪問、2012年5月訪問)

【栃木県佐野市】関東七名城の唐沢山城は、暑すぎて猫が伸びていた

唐沢山城に行ってきました。関東七名城の誉れも高く、2014年にはめでたく国指定史跡となりました。続百名城にも選出されています。

国指定史跡になる前、2012年にも一度訪れています。そのときはゴールデンウィークで、ツツジが見事に咲いていたのでした。

唐沢山城は、案内板によれば、藤原秀郷が築城したとのこと。

とはいえ、現在の見事な高石垣の姿は、戦国時代の佐野氏によって整備されたものでしょう。上杉謙信の猛攻を何度も耐えた城として知られています。関東戦国史を語る上で絶対に外せない城です。

縄張図を見るだけで、固い城だということが分かりますね。現地に行くとよく分かるのですが、平野の端にいきなり断崖絶壁が屹立しており、まさに天然の要害といった趣です。関東平野の北端に位置し、戦略上も極めて重要なところです。

さっそく虎口から城に入りましょう。駐車場からすぐ虎口が見えます。

実に見事な食い違い虎口です………ん? 虎口の脇になにやら白い物体が見えますが。

どうやら猫が二匹倒れていたようです。

生きてます。ただ伸びているだけでした。
この日の佐野は、気温38.7度を記録する大変な猛暑でありました。やる気が出ないのは分かります。しかし、どう見ても「警備警戒中」とは思えない、ダラけた姿です。

起きる気配のない猫を虎口に残し、東方向、本丸へと向かいます。現在は神社の参道として整備されています。途中で何か寝てますけどね。

西側から三の丸に入るところには、立派な堀切があります。「四つ目堀」と名前がついています。

三の丸と二の丸の南側には、神社に向かう参道が整備されています。当時は帯曲輪だったのかなあ。現在は「風鈴参道」ということで、たくさんの風鈴が並べられています。

気温は38度ですが、木陰で風鈴の音が鳴ると、なんとなく涼しく感じます。

この参詣道を進むと、直接本丸に行くことができます。やはり虎口から本丸に直通することは考えにくいので、戦国時代当時の道ではなく、後から整備されたのでしょう。
本丸には唐沢山神社が鎮座しております。

唐沢山神社の祭神は、藤原秀郷公です。佐野市には秀郷の墓もあるようです(未訪)。

本丸は中世山城らしく、こぢんまりとしています。なんとなく後詰めの城という趣ではあって、従来の居館は麓にあったような気もするところです。

神社の境内は、なかなか清廉な雰囲気が漂っております。

本丸境内でも風鈴が爽やかな音を奏でていました。

本丸の南西側には、たいへん立派な石垣が組まれています。

関東戦国期の城で、これほど立派な高石垣を見ることはほとんどありません。他には八王子城か金山城くらいでしょうか。

二の丸から西に本丸を見るの図。今は神社本殿への参道として整備されていますが、かつては虎口等が整備されていたのでしょうか。

二の丸から本丸の高石垣を臨む。

実に見事です。国指定史跡になるのも、頷けます。

虎口まで戻って、南側の天狗岩に登ります。

天狗岩からの眺望は、実に見事です。

唐沢山城が関東平野の北の端に位置していることが、よく分かります。何も遮るものがなく、遙か彼方まで見晴らすことができます。空気が澄んだ冬なら、新宿のビル群まで見えるようです。いやあ、絶景。

しかしそんな見事な眺望も、ニャンコどもにはまったく意味がないのでありました。人間が近寄っても、ぴくりともしません。だらしないなあ。

駐車場脇のレストハウスでソフトクリームをいただき、焼き付けるような日差しの中を下山するのでした。空気が澄んだ季節に、また来よう。
(2019年8月訪問、2012年5月訪問)