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【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』

【要約】トマス・アクィナスの仕事は、現在ではカトリックの王道と理解されることもありますが、実際当時においては、特にアリストテレスの受容と解釈において、時代状況に即した新しいチャレンジでした。トマスは、アリストテレス的な「理性」とキリスト教的な「神秘/信仰」を、対立するものではなく、相互補完的なものと捉え、アリストテレスの論理を足がかりにして神学的な思考を力強く前に進めます。それは「理性」だけでも「信仰」だけでも不可能な、トマスだったからこそできた独創的な仕事です。その固有の論理を、具体的に徳論や自由意志論、愛徳論の展開を通じて確認していきます。
 ところが、三位一体の教義と受肉の神秘について考え始めると、もう間違いなく人間理性を超越していきます。だからといって理性的に追及することをあきらめるのではなく、理性を超えた「神秘」を手掛かりにしてさらに理性的な探求を推し進めるのがトマスのすごいところであり、現代に生きる我々にも大きな示唆を与えるところです。

【感想】まあ、神秘を手掛かりに理性的な追及を進めてはいけませんよ、理性は間違えますよ、しかるべき限界をわきまえましょう、と釘を刺したのがカント「純粋理性批判」の仕事ではあるし、やっぱりそれは抑制された丁寧な考え方であって、三位一体とか受肉の神秘を理性的に考えようという姿勢は、どうしても破綻しているようにしか見えない。そこは単に「理性を超えている」だけでいいじゃない。理性的に理解しようとするから徹底的に話がおかしくなり、胡散臭さが充満するのだと、改めて認識したのであった。しかしそれはトマスとかカトリック特有の問題というより、「特異点」一般に当てはまる話ではある。たとえば「人格」とか「個性」というものを理性的に捉えようとすると、やはりおかしなことになる。そこはカントに倣って「理性を超えているものを理性的に考えても絶対に答えに辿り着かない」と理解しておくのが、みんなが幸せになる無難な道であるように思ってしまうのであった。

【眼鏡論に使える】とはいえ、だ。個人的に大きな興味を引くのは、やはり「三位一体」の教義と「受肉」の神秘、そしてそれについてキリスト教神学が突き詰めてきた理性的思考は、眼鏡っ娘を考えるうえで極めて有益な示唆を与える。眼鏡と娘の分離主義に対しては、「っ」(カトリック的には精霊≒教会にあたる)を交えた三位一体論が決定的な反論となる。眼鏡だけを神、あるいは娘だけを神と理解するのは、三位一体論的にいえば問題なく異端である。
 こういうふうに「理性を超えたもの」を「理性的に理解しようとする」ところから視界が急速に開けてくる様を自ら体験してみると、一概にトマスやカトリック神学の思考を切り捨てるわけにもいかない。そこに何か大切なものがありそうなことを直観するのである。他人を説得したり説伏したりするためでなく、自らの体験を言葉にするという意味で。「特異点」という光の届かない闇を見定めるために。

山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』岩波新書、2017年

【要約と感想】マイケル・ローゼン『尊厳―その歴史と意味』

【要約】「尊厳」という言葉の歴史を辿り、具体的な場面でどのように使われているか分析を施したうえで、哲学的な知見と手法で深堀りします。
 言語分析的には、「尊厳」という言葉は3つないし4つの場面で使われています。すなわち、(1)地位としての尊厳(2)本質としての尊厳(3)態度としての尊厳(4)敬意の表現、の4つです。それぞれ意味内容はズレています。
 そして歴史的なルーツを紐解くと、カトリック思想とカント哲学が大きな柱として浮かび上がってきますが、お互いに両立せず、矛盾するものです。カトリック思想をルーツとした「尊厳」は、「地位としての尊厳」の発想を土台にしていて、近代人権思想とは実は相容れない要素を多く含んでいます。いちおう第二次世界大戦後には、カトリック側の考え方が柔軟に変化しています。いっぽう、カント倫理学思想における「尊厳」についても、現実的にドイツ連邦共和国基本法の原理に決定的な影響を与えていることもあり、数多くの研究が行われてきましたが、それらの解釈(主意主義や人間主義)にはいろいろ問題が見受けられます。特に、原理的には理屈を理解できるとしても、その理屈を現実に適用しようとしたときに、大きな問題が生じます。
 それらの議論を踏まえて、特に死者や胎児に対する「尊厳」というものを具体的に視野に入れて考えてみると、やはり「尊厳」とは、具体的な表現形態が時代や文化によって異なることは確かであるとしても、私たちが人間であるうえで決定的に大切な何か、もはや私の一部になっている義務のようなものであることは疑えません。

【感想】ああでもないこうでもないと、あっちにいったりこっちにいったり、論点はすっきり整理されているわけでもなく、議論の行程には散漫な印象を受け、そしてそれは英米系哲学によく見られるものでもあるが、しかし、むしろこのテーマに対して敬意を持って手続きを尽くそうとする著者の誠実な態度を強く感じた。言いたいことはよくわかる。良い本だった。勉強になった。
 本書は「尊厳」という言葉を対象として議論を進めているが、同じような議論はたとえば「良心」という言葉を対象にしても成り立つような気もする。「良心」という言葉も現実的にはさまざまな場面で多様な用いられ方をして、意味内容も拡散しているが、間違いなく宗教的・哲学的なルーツを持ち、人間について何か大切なことを言い当てるような言葉だ。そしてその「大切な何か」は最終的には「人格」という言葉の中に収斂してくることになる。本書にもやたらと「人格」という言葉が登場する所以である。個人的には「尊厳とは人格の属性である」と一言でまとめたくなるが、乱暴だろうか。
 またあるいは、この理解の先に生じてくるのが、中世的には「共通善」と呼ばれる概念であり、近代的には「公共」という領域に関する議論となるだろう。本書は「尊厳」を最終的に「それがなければ、私たちは人として成り立たなくなってしまう」という地点で理解しているが、その具体的な中身が中世的には「共通善」であり、自由主義・民主主義には「公共」と呼ばれる領域として立ち上がってくるだろう。本書の射程はここまで伸びていないが、特に問題ということではない。

【要検討事項】ちなみに日本国語大辞典によれば、「尊厳」の用例は日本近世にも中国古典にもある。おそらくdignityの翻訳者が漢籍に詳しかったのだろう。誰が翻訳したか特定してみたいものだ。ちなみに近代では、坪内逍遙と若松賤子が例示されていた。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 カトリックの思想的転回のキーパーソンとして名前が挙げられていたジャック・マリタンが、気になった。

「カトリック思想は、どの時点で、自由主義と民主主義について曖昧な態度をとらなくなり、社会的、政治的な平等を伴う人間の尊厳の考え方を受け入れるようになったのだろうか。確実なことを言うのは非常に難しい。とりわけ、カトリックは自らの教えが聖書の啓示と時間を超越した自然法則の権威を体現していると公に主張している組織なので、考えを変えたことを認めるのを明らかに嫌がっているからである。私は、第二次世界大戦が分岐点だったと考えている。世界人権宣言(とりわけカトリックの思想家ジャック・マリタンを通じて)とドイツ連邦共和国基本法に対するカトリックの影響は、間違いなく重大であった。両文書において、尊厳には非常に際立った地位が与えられ、侵すことのできない人権の観念と結びつけられたのである。」pp.69-70

 というのは、教育基本法制定時に文部大臣として尽力し、特に第一条の「教育の目的は人格の完成」という条文にこだわったカトリック主義者が田中耕太郎なわけだが、その田中耕太郎が戦前からジャック・マリタンと交流があったことが研究で明らかになっているからだ。先行研究が示す通りマリタンの人格理論が田中耕太郎に影響を与えているのが事実とするならば、もちろん「尊厳」の概念が影響を与えていないわけがない。特に、「人格」という言葉だけなら大正人格主義の影響を考慮するだけで事足りる一方で、「目的」とか「完成」という言葉について深く考えようとしたときにはどうしてもカトリックの思想に手を突っ込む必要が出てくる。そしてもちろんマリタンの背後には、トマス・アクィナスがいる。そんなわけで、教育基本法第一条「人格の完成」について深く考えるためには、改めてマリタンにチャレンジする必要を感じたのであった。

マイケル・ローゼン/内尾太一・峯陽一訳『尊厳―その歴史と意味』岩波新書、2021年

【要約と感想】稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』

【要約】中世の神学者トマス・アクィナスの主著『神学大全』が議論の対象ですが、内容を紹介する本ではありません。現代に生きる我々が見失ってしまった大事なものを甦らせるために「挑戦の書」として『神学大全』を読み解きます。
 具体的には、「存在」や「人格」や「目的」や「正義」や「自由」や「幸福」という言葉の本質的な意味が、現在では完全に見失われています。トマスの知恵の探究に付き合うことで、これらの言葉が本来持っていた本質的意味が浮き彫りになります。

【感想】さっくり『神学大全』の概要等を理解したい方面にはまったくお勧めしない。トマス・アクィナスの記述に寄り添いつつも、徹底的に著者自身が哲学する過程に付き合う本だ。そして著者が遂行する哲学も、我々が馴染んでいるような近代以降の哲学ではない。キリスト教への「信仰」を前提とした公理系でのみ意味を持つような演繹を連ねる思考が延々と続く。帰納的な思考は、「不完全な感覚に依拠している」ということで最初から排除されている。近代的思考に馴染んでいる読者がイライラすることは間違いない。わたしもイライラした。
 だから、まず言っていることを理解しようと思ったら、帰納的な近代思考をとりあえず棚に上げていったん忘れ、仮にカトリックの公理を前提として受け容れて、「自分を無」にして、「そういう世界なんだ」と読み進めていくしかない。そうすると確かに、「私が無」であるような地点から初めて立ち上がってくるような知見というものが出てくるわけだ。だがしかし、その知見が仮に納得できる結論を示しているとしても、前提として仮に受け容れていた公理が正しいことを保証するものでは、もちろんない。
 こういう経験を経て逆によく分かるのは、中世の思考様式が徹底的に「帰納」を排除することで成立しているということだ。「帰納」を知らなかったのではない。蓋然的な知しかもたらさないものとして、意図的に排除しているのだ。徹底的に帰納的思考を排除して、ごくごく基本的な公理からあらゆる論理が演繹される様は、まさにユークリッド幾何学のようだ。(いちおう『神学大全』は、ユークリッド幾何学のような純粋な演繹推論ではなく、弁証法的な体裁で記述されている)。が、むしろ演繹の技術が見事であればあるほど、公理系全体を支える重要な何かが私から遠ざかっていくのである。その「重要な何か」を私個人はずっと「特異点」と呼んできているわけだが。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 ま、とはいえ、いろいろなものを棚に上げて特異点さえ受け入れてしまえば、論理整合的に美しい世界が広がることは間違いない。一言で「目的論の世界」と言ってよいのかもしれない。「この世界には意味がある」という確信に満ちた世界であって、それだけで特異点を受け入れる価値があると思う人もいるのだろうし、実際にいるわけだ。(まあそれは「目的論の世界」でありさえすれば、カトリック的特異点である必要はないのだが)。この「目的」という言葉の意味自体が、トマスの中世と近代以降では決定的に異なっていることを著者は丹念に説明する。

「ここでまず「目的」という言葉(ラテン語finisは英語のendと同じく「終わり」「終点」を意味する)がトマスにとっては、こんにちのわれわれとはかなり違った意味と重みをもつものであったことに注意しておいた方がよいかもしれない。われわれが理解する「目的」とは、人性の目的にせよ、旅行やパーティの目的にせよ、われわれ自身が自由に選び、計画を立てて能動的に実現をめざすものに限られている。これに対してトマスが理解する「目的」は「善」と同じものであり、しかも中間的な善、つまり手段として位置づけられる善ではなく、「終わり」の善、それへと行きつくために手段が選びとられ、「善」という側面を帯びるようになる、高次の善なのである、したがって、トマスの言う「目的」は、われわれが能動的にそれの実現をめざすというよりは、それの「善さ」がわれわれをひきつけ、われわれに働きかけて、それの実現のためのエネルギーをわれわれのうちに呼びさます、つまりわれわれを能動的たらしめる根源なのである。
 われわれにとっては、そのような「目的」、つまり能動的な原因よりもさらに根源的な「原因」あるいは「根拠」であるような「目的」という概念はもはや存在しないか、あるいは縁遠くなってしまっている。」p.125

 こういうふうに「目的」という言葉の意味が根底から違っているのであれば、また必然的に「存在」という言葉の意味と役割も中世と近代以降では決定的に異なってくることになる。

「すべてのものの「存在」はただそこに「在る」という事実にとどまるものではけっしてなく、その「存在」――それが何であるか、つまり各々のものの「本質」「本性」の探究はわれわれにとっての課題であるが――そのもののうちに善や価値のすべてが内在する、というふうに考えない限り、トマスが考えるような「人間の目的」という概念は不可解なものにとどまらざるをえないのである。」p.127

 すべての「存在」は、必ずなにかしらの「目的」を持っている。というか、何かしらの「目的」を持っているからこそ「存在」している。それは人間も同じである。

「「人間とは何か」という問いで問われているのは人間本性にほかならないが、その人間本性について正しく理解するためには、何よりも人間の目的について確実に認識しなければならない、とトマスは確信していた。なぜなら人間の目的とは、そこにおいて人間本性がその本来の姿をあますところなく現すものだからである。」p.131
「しかし目的はたんに終わりではなく、むしろそれにたどりつくことによってわれわれの願いがあますところなく満たされる「善き」終わりなのである。したがって、目的において人間本性の本来の姿が全体的に現れるとは、たんに「本性をさらけだす」といったことではなく、完全に実現される、完成される、ということなのである。」p.132

 ここの記述で気になるのは、人間の「目的」が、人間本性の「完成」であると強調されていることだ。なぜ気になるかというと、教育基本法第一条に「教育の目的は人格の完成」と書いてあり、この条文の実現にこだわったのがカトリック信者の田中耕太郎だからだ。
 改めて教育基本法第一条を精査してみると、異常なことばかりである。まず、「教育の目的は人格の完成」とあるうちの「完成」という言葉が異常だ。どうして「成長」や「発達」という言葉ではダメだったのか。なぜ「完成」という言葉がチョイスされたのか。戦後から現代にいたるまで、この「完成」という言葉の中身を徹底的に深堀りしよう試みた「教育基本法研究」はあまりない。だいたいスルーするか、触れるにしても、ほぼほぼ「成長」とか「発達」のようなものだとお茶を濁している。いや、田中耕太郎としては、ここは「成長」や「発達」という言葉ではダメで、やはり「完成」でなければいけなかったのだ。「人間性」ではダメで「人格」でなければならなかったのと同様に。そして「成長」や「発達」という言葉ではなく「完成」でなければならない理由は、本書が明らかにしている通りだ。「目的において人間本性の本来の姿が全体的に現れるとは、たんに「本性をさらけだす」といったことではなく、完全に実現される、完成される、ということなのである。」

 そんなわけで「人格」=「ペルソナ」という言葉についても、三位一体の教義を踏まえて徹底的に議論されていて、極めて興味深く勉強にもなるわけだが、これについては著者の別の本(『人格《ペルソナ》の哲学』)で抱いた感想と重なるところだ。しかしやはり改めて、著者の言う「存在・即・交わり」は、般若心経が言う「色即是空空即是色」で言い尽くされているような気がしたのでもあった。

【眼鏡論にも使える】
 しかしさすがにカトリックが徹底的に鍛え上げてきた教義を踏まえている議論だけあって、演繹体系としての完成度はすさまじく、勉強になることこの上ない。この論理は眼鏡論にも積極的に応用できるものでもある。特に「愛」を根底に置いた三位一体的存在論および創造論に関する議論は、そのままそっくり援用できそうだ。

「トマスは三位一体論のなかで、神のペルソナについての認識は、事物の創造についてわれわれがただしく考えることのために必要であった、と述べている。それは、神は御自身の言というペルソナ)によって万物を造り給うた、と認識することで、諸々の事物は事前必然性によって神から流出したのではなく、言、すなわち神の知恵にもとづいて造られたことが肯定され、また聖霊のペルソナ、すなわち神自身の恵み深い愛によって造られたことが肯定されるからである、と彼は言う、それに続いて、三位一体なる神についての認識は、人類の救いが、神の御子である言の受肉と、聖霊の賜物によって成就されるものであることについてただしく考えることのために必要であった、と言われている。そこで、この三つのことを結びつけると、トマスが創造を、三位一体なる交わりの神による人類の救いという枠組みのなかで考えていたことはあきらかである、と言えるであろう。
 たしかに、創造するという働きは神の存在、すなわち神の本質に即して神に適合することであり、神のどれか一つのペルソナに固有の働きではない。しかし、神の諸々のペルソナは、それらが(神のうちなる)発出(processio)であるという本質側面に即して、事物の創造(つまり神の外への発出)に関して原因性(causalitas)を有する、とトマスは主張する。つまり、神は自らの知性と意志によって諸々の事物の原因なのであり、それは父なる神(のペルソナ)が言である御子のペルソナと、愛である聖霊のペルソナによって諸々の被造物を造りだす、ということである。「そして、このことにもとづいて、諸々のペルソナの発出は、それらが知(scientia)と意志(voluntas)という本質的属性をふくむかぎりにおいて、諸々の被造物の産出の根拠(ratio)である」とトマスは言明している。さらに彼は「諸々のペルソナの発出は、或る意味で、創造の原因であり根拠で或」と付言しており、神の創造の働きは三位一体という神のうちなる交わりにもとづいて、つまり神の救いの業という枠組みにおいてのみ、その意味を適切に理解できることを強調している。」pp.89-90

 なるほどである。「眼鏡っ娘」の働きは、どれか一つのペルソナ(眼鏡単独、あるいは娘単独)による働きではない。それは「眼鏡っ娘」という三位一体的な神自らの「知性」と「意志」を基にした内なる交わりに由来する、「救いの業」ということなのだ。眼鏡のみ、あるいは娘のみを強調する議論は異端への道に続いている。あくまでも三位一体論的に理解してこそ、初めて「眼鏡っ娘」そのものの働きを捉えることが可能になる。やはりカトリックの論理は侮れないのである。

稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』講談社選書メチエ、2009年>講談社学術文庫、2019年

【要約と感想】稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』

【要約】「神とは何か」について、人間本性に植えつけられた理性(哲学)によって探究することができるし、する価値があるし、というか人間として探究するべき最も相応しいテーマです。が、残念ながら理性で辿り着けるのは「神とは何ではないか」までで、「神とは何か」は「信仰」によってのみ光が当たるところです。そして信仰の支えによって、理性はさらに先に進むことが可能で、それこそが神学という学問の真価が発揮されるところです。人間の理性は、神が最高度に「一」であり、さらに言えばペルソナ的に「三・一」であるという神秘の骨頂に到達することができます。その土台に立つことで、初めて人間の「尊厳」というものの本質を理解することが可能になります。

【感想】率直に言えば、読んでいてイライラした。中世哲学の碩学泰斗に対して私如き教育学の末席に引っかかってるだけの者が不遜ではあるのだが、そう思ってしまったから仕方がない。まあ、もちろんそれは私の側の主観的な問題であって、この本の問題ではない。
 さて、イライラした理由は明らかで、読者の私がまったく同意しないしできるわけがないしするつもりがない命題について「同意したものと前提」して話がどんどん進んでいって、置いてけぼり感が半端ないせいだ。なんとかついていくために、同意するつもりがないし同意などできない自分をいったん脇に置いて棚に上げて、「仮に同意したとしよう」と別の人格を自分の中に作って先を読み進めるのだが、そこでもさらに同意しないしできるわけがないしするつもりがない新たな命題が登場し、そこで私の人格はさらに分裂していってしまう。そうやって数多くの自分を棚に上げて、ようやく理解することが可能になる文章が延々と続くのだから、まあ、イライラする。(繰り返すが、イライラするのは私個人の主観的な問題であって、著書の問題ではない)

 とはいえ、いったん高所から俯瞰して、現代数学の「公理系」をイメージすれば、全体像は見えやすくなるような気はする。まずいくつかの「公理」を前提する。それらの公理は証明が不可能なのだが、それが公理というものだ。そしてその公理群のみを真理と仮定して、そこから論理必然的な演繹作業を繰り返していき、どこまで現実を説明できて、どこまで結論の射程距離が伸びるか、理性を働かせる。著者の言ういわゆる「信仰」に関わる公理をいったん真理と仮定すれば、確かに実り豊かな結論を導き出すことはできる。
 できるのだが、問題は前提とした「公理」が証明不可能である、というところである。そして、私には、その公理を受け容れることは不可能である。荒唐無稽だからだ。つまり、本書で示された実り豊かな結論は、私自身にとっては何の意味も持たないのであった。
 しかしまあ、私自身にとって意味がなくとも、世界中のどこかにそれに意味を見いだしている人間がいて、そういう「公理系」の宇宙に充実して生きている人々がいるということを知っていることそれ自体は、無意味ではないかもしれない。

 で、「公理系」であるから、実は別の「公理」を導入しても、同じ結論はいくらでも導き出せたりする。同じ結論に辿り着くために、公理にキリストを置く必要は、実は、特にない。公理は置き換え可能だ。たとえば「Q」という公理を容認することで、一気に世界全体の秩序が立ちあがってくる場合だって現実にあったわけだ。悲しいことに、それが理性の権能というものだ。いちど世界が整序されてしまったら、その前提にある「公理」を取り去ることは極端に困難になる。いったん「Q」という公理を容認してしまった人々は、仮にそれに反する事実をいくら突きつけたとしても、公理そのものを反省することはない。「公理」と「事実」では、理性における機能がまるで異なっているからだ。
 であれば、かつてキリスト教の公会議で争われたことは、理性で推し量ることが可能な論理ではなく、それ自体は証明不可能な「公理」の選択だ。具体的に、いわゆる三一論は、公理系の無矛盾性を担保するためには相当アクロバティックな跳躍を余儀なくされるものの、完全性を追究するためには敢えてその立場を選択するだけの価値はある、というもののようだ。神の「完全性」を演繹することが可能な公理系の構築を目指す場合、諸公理間の矛盾には目をつぶらざるを得ない。誰にでも分かってしまう公理間の矛盾については、「信仰」という名で呼ばれる「特異点」を設定して見ないふりを決め込み、やりすごすことになる。一方、いわゆる異端とされる公理系は、公理系の無矛盾性を優先するが故に、逆に完全性を犠牲にすることを厭わない形式のようだ。しかしもちろんこの公理系から神の「完全性」の概念を導き出すことはできない。
 となると、トマス・アクィナス『神学大全』は、公理系の無矛盾性と完全性の双方を極大化する解を探究しようと試みた仕事ということで、確かに理性を最大限に活用して初めて可能となるような大変な難事業だったのだろう。が、やはりどうしても公理同士の矛盾は、残らざるを得ない。だからこそ、最終的には矛盾を押し潰す論理としての「信仰=公理系の無謬性担保」が必要となる。まあ、お互いに矛盾する公理を許容していいのなら、キリスト教に限らず、完全性を実現することはさほど難しいことではない。

  またあるいは、キリスト教神学の公理系を支える根本原理は「自己言及」と「無限」なのだろう。たとえば「この文はウソである」という命題が与えられたとき、この命題そのものの真と偽を論理的に判定することは不可能だ。それでも敢えて論理的に判定しようとすると、「無限」の遡及に陥る。いわゆる「人間本性」に由来する「神」とは、否定的な自己言及による無限の展開に由来するものなのだろう。いわゆる「否定神学」を極度にまで推し進めたキリスト教神学が、「無限」を含み込んだ公理系を発展させたのは、いわれのないことではないのだろう。こういう「自己言及」による「無限」の論理的制御という観点からは、キリスト教神学のお手並みは実に見事なように見える。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 これほど「三位一体」について真正面から説明を試みている誠実な本は、なかなか他にないように思う。「ペルソナ」の使い方とも絡んで、とても勉強になった。

「そして、神における父・子・霊というペルソナの区別は、神自身が親しく神の「何であるか」について教え、示した啓示であるから、それはまさに神の「一」であることを、神の本質に即して教える啓示として受けとるべきものである。言いかえると、神の「一」なることに関する知的な探究は「三位一体なる神」という信仰の神秘に基づいてのみ、有効、確実な仕方で進めることが可能なのであり、われわれが次に試みるのはまさにそのことなのである。」p.150
「しかし私は神が「一」であることの解明に向けられた探究や考察は、「神は何であるか」という問いをめぐる知的探究全体の総括とも言えるほどの重要性をふくむものであり、「三位一体なる神」という信仰の神秘にあえて立ち入る価値は十分にあると考える。言うまでもなくそれは、「神は何であるか」と問うことが、知ることを自然本性とする人間にとって――まさにこの問いを適切かつ徹底的に問い、十分に満足すべき答えを発見することが人間本性そのものの完全な実現であり、真実の幸福に他ならないのであるから――すべての問いのなかにあって最も重要で中心的な問いであることを前提とした場合のことである。」p.151

「ベルナルドゥスが「三つのペルソナが一つの実体であるという三位一体の一性は、すべての直しい仕方で≪一≫と言われるもののうちで最高の一性である」と言明するのは、諸々の「一」と言われる事物を厳密かつ詳細に考察し、それらが「一」であるのは三・一なる神の最高の一性を何らかの仕方で分有することによってであることを確認したことに基づくものである。」p.160

「しかし、われわれは神が「一」なること、しかも最高度に「一」なることは「信仰のみによって」肯定される「三・一なる神」の「一」性、すなわち神は父・子・霊の三つのペルソナの交わりにおいて「一」であることに基づいて理解すべきことを学んだ。」p.165

 なるほど、である。「多と一」が同時成立する根拠を理解することは、確かに理性を超える。その成立根拠を「三と一」の「一性」に落とし込んでくるのは、ものすごい知恵だ。そしてそれを本書は「創造」の解釈にも結びつけて、「存在」という概念の根底に切り込んでいく。キリスト教神学、凄い。
 一方、穿った見方をすれば、キリスト教神学の公理系の中でもっとも矛盾が甚だしい公理こそが「三位一体」(および「受肉」)の神であって、どうしても公理系の無矛盾性を優先してしまいがちな「理性」を説得するためには、この難問を完全スルーするか、あるいは正面突破するかしなければ、これ以上先に進めない、ということではある。そして確かにこの公理さえ受け容れることができれば、キリスト教神学の全体系は無矛盾で完全なものとなる。そして著者によれば、それこそが真の「浄福」ということらしい。実際、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは真の幸福に辿り着いたのだろう。
 が、まあ、私個人は、公理系が無矛盾かつ完全であることに、そんなに魅力を感じないのだった。矛盾に満ちあふれて完全性にはほど遠い公理系を、それはそれとして楽しく生きようと思う。

 また一方、否定的な「自己言及」を通じた「無限」の発生に関する洞察が示された箇所も記憶しておきたい。ここでは「人格」という言葉に対する洞察も示されている。

「これとは反対に人間は自己を否定して、自己を超えて進むべき存在であるとの見通しに立って、自己の中に入り、自己へと立ち帰る立場に立った場合には、右に述べた自己中心主義は消滅する。この場合には真の意味の自己認識が成立するのであるが、それは自己が自己をそこにおいて認識すべき「場」を発見することであり、そのことによって自己が万物の中心であるという幻想は消滅し、同時に自己は単なる「点」ではなくなり、ある意味では(認識することを通じて存在するものすべてと合一することによって)「全体」となるのである。」p.74
自己が自己を認識すると言う場合、認識する自己と認識される自己は同一であるから空虚な同語反復のように思われるかもしれないが、じつは自己認識は高度の知性的認識の条件が満たされて初めて成立するのであり、それが右に触れた「自己が自己をそこにおいて認識すべき場を発見する」ということである。」pp.74-75

「つまりこの完全な自己帰還という自己認識の在り方が、そのまま、人間精神という実在は「自分自身において在る」(in se ipso est)という完全な在り方をする(感覚によって捉えられる諸々の物体的事物と較べてはるかに)高次の存在であることを示すのである。ただ単に不可分な個であるという意味で「在る」のではなく、精神は「自分自身において在る」ということは、当の存在が関係ないし交わりを含みつつ「」であることを示している。」p.112
「さきに私は近代思想の根本的前提とも言える個体主義について批判的な見解を述べたが、その理由の一つはここで指摘した、自己ないし人間精神という存在は関係・交わりを含む「一」性によって「一」なる存在だ、ということである。各々の人間精神あるいは人格は単に不可分で、他とは共有不可能という意味での「一」性あるいは「個体性」において存在しているのではない。むしろ人間精神あるいは人格は、それ自体が関係的・交わり的であり、対話的存在である。そして人格がこのような自らの関係的・交わり的存在の豊かさを他の人格と共有することを本性的に望むことが人間の社会性であり、人間的社会・共同体は決して社会契約のような人為的制度に基づくものではなく、人間の自然的本性である社会性に基づく、と理解すべきであろう。」pp.112-113

 人間性の本質が、仮に否定を通じた「自己言及」にあるとして、そしてそれが外部を導入するまでもなく論理必然的に「無限」なるものを発生させるとして、さらに理性を超えたその「無限」なるものに人が直面した時、確かにそれは「神」としか呼びようのない何者かであるような気はしないでもない。あるいはヘーゲルが精神現象学で追究した何者かでもよい。しかし実は、「この文章は間違っている」という自己言及的な命題を真か偽か判定しようとしたときに生じる、ある種の「オーバーフロー」に似た何かなのかもしれないが、それを仮に「無限」と呼べるとしても、果たして「神」と呼んでいいのかどうか。

稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』講談社現代新書、2019年

【要約と感想】ボエティウス『哲学の慰め』

【要約】著者ボエティウスは、無実の罪を着せられて処刑されることとなり、牢屋の中でこの世の不条理に絶望しています。そこに「哲学」が現れて、世界は神の摂理で成り立っていることを教え、彼は不幸どころではなく、本当は至福であることを諭そうとします。死を目前に控えながら、「本当の幸福」とは何かに目を開いていきます。

【感想】もうすぐ処刑されて命を落とすことが確実な人間が「論理的に考えれば私は幸福だ」という内容を淡々と書き連ねている本で、そういう状況を思い浮かべると、類書が見当たらないものすごい迫力の本なのだった。同じような前例としてソクラテスという偉大な人物の処刑死もあるにはあるものの、ソクラテス刑死の様子を描いた『パイドン』は長生きするプラトンの手になる書物であって、実際に処刑される当の本人が死を目前にしながら書いている本書とは当事者具合がまるで異なる。本書が内容的に区切りの良くないところでプッツリ終わっているのも、ああ、ここまで書いたところで連行されて処刑されたんだなと、実に生々しいのであった。

 内容としては、『パイドン』の他にもプラトンの影響を顕著に感じる。善人が苦しむ一方で悪人が栄華を誇るのは何故かというテーマは、『国家』序盤で扱われているものだ。またさらに「一」に対する信仰は、プロティノス等新プラトン主義の影響が色濃いように読める。自由意志と決定論に関する問題については、両方が両立すると主張するのはストア派的か懐疑主義的か。いちおうアウグスティヌスもそういう立場ではあるが。ともかく全体的には、あまりキリスト教的には読めないような印象を受ける。
 まあそういう観点からすればオリジナリティや独創性というものを感じることはないのだが、本が書かれた状況が状況だけに、むしろ実践的な説得力の高さは半端ないのだった。死に臨んだ著者の生き様そのものを含みこむ形で、本書特有の迫力が立ち上がってくる。

【個人的な研究のための備忘録】
 「一」に関する記述サンプルをたくさん得た。まあ、内容そのものは新プラトン主義が到達した地点を越えてくることはないのだが、古代思想の到達点を端的に示しているという点で参照する意味があるように思う。

「だが、理由は極めて明白だ。すなはち、その本性上単一的で不可分的なものを人間が誤つて分割し、かくて、真実なもの・完全なものを、偽なもの・不完全なものに変へてしまふのだ。」p.113
「では、その本性上一にして単一なるものが、人間の斜視に依つて、部分に分けられてゐるのだ。そして人間は、もともと部分のないものについて部分を得ようと努力してゐるのであつてみれば、全然存在しないその部分は得られる筈もないし、全く得ようと力めないところのその全体も亦得られる筈がないのである。」p.115

「多くの人々に依つて追求される諸物が真の完全な善でない所以は、それらのものが相互に異つてゐるからであるといふこと、つまりそれらの各々は、互に他のものを欠くが故に充実した・完全な善を与へることが出来ないのだといふことを。更にまたこれらが、いはば一形相・一作用にまで結合される時、例へば満足が同時に勢力であり、尊敬であり、名誉であり、愉快である時には真の善となるが、之に反して、これらすべてがにして同一物でないやうでは、それらは願はしいものの中に数へ入れられる所以の何者をも持たぬといふことを。」p.131
「では、分離しては決して善でない諸物が、たり始めると善になるのだ。それならこれらはたることの獲得に依つて善となるわけではなからうか。」p.131
「それではお前は同様に、たること(unum)と善とは同一であるといふことをも認めなくてはならない。本性上同じ結果をもたらすものは、同じ実体を持つわけだから。」p.132

「存在する一切は、たる限りに於て存続し・持続するが、ひとたびたるを失ふや滅亡し・崩壊するといふことを知つてゐるか。」
「どうして?」
「それは諸生物に就いて考へて見るとわかる、」と彼女は言つた、「すなはち魂と身体とがに結合しそしてたるに留まる限り、それは生物と名づけられる。だが、両部の分離に依つてこのたることが崩壊するや、それは明かに滅亡し、もはや生物でなくなつてしまふ。身体そのものもまた、それが各部分の結合に依つての形相を保持する限り人間の外形を呈してゐるが、しかし、身体の各部分が分裂し・離散してそのたることが壊されるや、今まであつたところのものは無くなつてしまう。これと同様に、その外の諸物をひとわたり観察してみるに、如何なる事物も、それがたる間は存続したるをやめると滅びるといふことが疑ひもなく明白になるのであらう。」pp.132-133

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」p.135
「一切のものはたるを欲する」
「然るに、我々の示したところに依ればそのものが善である。」
「それでは、一切の事物は善を求める。」p.136

 プラトンやプロティノスが抽象的に表現していた思想内容が、本書だとかなり具体的な記述に落とし込まれて分かりやすくなっているような気がする。中世末までよく読まれていたというのも、なんとなく分かる気がする。

【要検討事項】カトリック教義との関連
 中身はキリスト教っぽくないと思ったのだが、しかしボエティウス(480-525)の生きた時代が、西ローマ帝国滅亡(西暦476年)直後のゲルマン人東ゴート族支配の時期で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と国家的にも教会的にも対抗していたことを考え合わせると、当然なのかもしれない。なにしろ、公会議が立て続けに行われた時期で、三位一体やイエスの神性に対する教義そのものが定まっていない。ちなみにフランク人メロビング朝のクローヴィスがカトリックに改宗したのが西暦508年で、カロリング朝カール戴冠が西暦800年。西ローマ教会(カトリック)は、完全にゲルマン人に乗り換えると割り切るまでは、やはり東ローマ(ビザンツ)教会との協調関係を模索せざるを得ない。西ローマ教会と東ローマ教会が教義の面で対立していた段階では、東ゴートとしては西ローマ教会と協力する意義が大いにある。ボエティウスもラヴェンナの東ゴート宮廷で重きをなしていだだろう。しかし西ローマ教会が東ローマ教会に接近すると、東ゴートとしては西ローマ教会を疑いの目で見ざるを得なくなる。ローマ貴族の末裔であったボエティウスの身柄も危なくなる。で、現在私たちがカトリックの教義と思っているもの(三位一体やキリストの神性)は、度重なる公会議の過程で、東ローマ教会に馴染みやすい教義(ネストリウス派、キリスト単性説)と対決しながら鍛え上げられてきたものだ。で、西ローマ教会が東ローマ教会と仲が良かったということは、逆に言えば今わたしたちがカトリックの真正教義と思っているものがないがしろにされていたということでもある。そして、西ローマ教会がネストリウス派や単性説を批判してカトリック特有の理論を打ち出すと、今度は東ローマ帝国との仲が険悪になる。で、ボエティウスが東ゴートに睨まれたということは、西ローマ教会と東ローマ教会が仲が良くなったということで、つまり教義的にはカトリック特有の考えがないがしろにされるということになり、『哲学の慰め』にカトリックの匂いがしないことにも説明がつく。さて、はたして。

ボエティウス『哲学の慰め』畠中尚志訳、岩波文庫、1938年