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【要約と感想】上田閑照『私とは何か』

【要約】私は、私ならずして、私である。

【感想】基本構造としては、「否定の否定」という弁証法的な作法で以て主体を立ちあがらせることを柱に据えている。参考までにヘーゲルの弁証法を極めて単純化すると、未分化な主客一体から、主観と客観が分離し(否定あるいは止揚)、改めて主客が統合される(総合)。またいっぽう東洋哲学の場合は、よりプリミティヴな未分化状態を未分化なまま捉えようという志向を示すことになる(たとえば純粋経験)。本書の持ち味は、東洋哲学的なセンスを踏まえつつ、弁証法的な「過程」ないしは「運動」全体を「私」であると理解しているところにあるように読んだ。

  まあ、この「聞かれないうちは知っているけれど、答えようとすると知らない」という類のあれこれを、私個人は「特異点」と呼んできた。本書のテーマになっている「私」も、「特異点」の一つだ。本書も、「私」を特異点として理解している(もちろん著者は「特異点」という言葉は使わないけれど)。逆に、同じようなテーマを扱っているにも関わらず、それを特異点とは理解しないような論考もあったりする(平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』とか)。個人的な見解では、これを「特異点」と理解しないような論考は、問題の入口にすら立っていない。ということで、しっかり特異点として理解を示している本書は、安心して読むことができるのであった。
 ただやはり、「聞かれないうちは知っているけれど、答えようとすると知らない」というものを言語化しなければいけないので、行論は行ったり来たり、同じようなことを別の表現で繰り返したり、なかなか大変なのだ。そしてそこは百戦錬磨の老獪な著者だけあって、豊富な例と多角的・多面的な説明で、分かった気にさせてくれる。

【この理論は眼鏡学にも使える】
 そしてもちろん、本書は眼鏡っ娘について語っている。というのは、本書の結論である「私は、私ならずして、私である」なるテーゼこそが、「私(眼鏡と未分化)は、私ならず(眼鏡と分離)して、私(再び眼鏡と総合)である」という眼鏡っ娘弁証法の過程を述べているのである。仮に本書の内容が分かりにくいとしたら、「私」という言葉をすべて「眼鏡っ娘」に変換すると、とたんに言っていることがクリアに見えてくるだろう。「眼鏡っ娘は、眼鏡っ娘ならずして、眼鏡っ娘である」

上田閑照『私とは何か』岩波新書、2000年

【要約と感想】聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』

【要約】「有」と「本質」について、それぞれ何を意味するか、現実においてはどのように見いだされるか、論理学的にどのような関係にあるか等について、基本的に理解しておかなければ、後々ひどい誤りを犯すことになります。とういことで、アリストテレスの議論に沿って考えていくと、現実の「有」および「本質」について理解するためには、「形相/実質」とか「類/種差/種/個体」という概念の内容と関係を丁寧に把握しておく必要があります。そうすると、「有」と「本質」とは、それぞれ異なっています。
 ところで本当の問題は、「神」や「天使」や「魂」など、質量をもたない英知体の「有」と「本質」をどう考えるかで、これについてはアリストテレスの預かり知らないところでした。前半で明らかになった定義を踏まえて考えると、神の場合は「本質」こそが「有」であり、天使のような英知体の場合は「本質」と「有」は異なっているが質量を持たないために一つの種には一つの個体しか属さず、一般的な存在者については形相によっても質量によっても「本質」が変化するために一つの種のなかに様々な個体が生じることになります。
 こうやって考察を重ねることで、「有」と「本質」の意味や関係だけでなく、論理的普遍概念がどのように見いだされるかも明らかになりました。

【感想】本訳書の初版は1935年とクレジットされている。古い。ちなみに二二六事件の前年だ。故に漢字が舊字體のうえに、紙版もつぶれていて、読みにくいことこの上ない。旧字体を読むトレーニングを経た人でないと、とりつくことさえできないだろう。そんなときに、今はインターネットで現代語訳されたものを読むことができる。便利な時代になったものだ。
▼存在者と本質について(Wikisource)
 ちなみに本書が「有」と呼んでいる鍵概念は、現代語訳では「存在者」となっている。

 さて、そんなわけで90年近く前の翻訳で、というか原著そのものは800年近く前に書かれているわけだが、内容そのものは驚くほど古くなっていない、ように個人的には思う。それはおそらく人間の認識に関わる普遍的で本質的なテーマを扱っているからなのだろう。またあるいは現代西洋哲学を理解する上でも決定的に重要な鍵を握っている諸概念について根底から考えているからでもあるだろう。またあるいはトマスを批判するオッカムの思想(ひいては普遍論争)を理解する上でも、本書の見解は決定的な補助線となるはずだ。そしてそれはもちろん本書の底本となっているアリストテレス『形而上学』の射程距離が極めて長いということでもある。本書が扱っているテーマに関しては、底本のほうがより深く、広い視野で扱っているように、個人的には思う。本書の持ち味は、アリストテレスの論理をカトリックの教義へと発展的に接続したところにある。トマスの仕事が「アリストテレスに洗礼を施す」と言われいるとおりの内容のように思う。

 本書が示す重要な帰結はいろいろあるが、個人的に気になっているのは「有と本質は異なる(ただし神だけは除く)」という結論だ。これは日本語で一般化すると、「現実と現実性は異なる」とか「男性と男性性は異なる」とか「個と個性は異なる」ということ(前者が有あるいは存在者で後者が本質)で、文法的には「述語されるかどうか」が決定的に異なる。具体的には、「私は男性だ」とは言えるが「私は男性性だ」とは言えない、という違いになって現れる。これ自体はさほど難しくないように思えるものの、問題は「ただし神だけは除く」という結論だ。
 トマスによれば、神だけは「本質が有」であるために、有と本質は同じものだ。この論点がゆくゆくは神の存在証明等に結びついてくるところで、カトリック思想を論理的に理解しようと思ったら、まさにこの「神の本質は有」というテーゼにどう対峙するかが決定的なポイントになってくる。真剣に対応しようと思えば、もうどうしても「有」や「本質」という概念について本質的に考えざるを得ない。そのために本書は極めて大きな示唆を与えてくれる。
 ちなみにトマスのすぐ後に現れる神秘主義者エックハルトは「神と神性は異なる」と断言してしまっている。明らかにトマスとは異なる神観を示している。またその一方で、エックハルトと同時期に異端審問を受けるオッカムは、「本質」という概念そのものを否定し、さらに「本質」と「有」の区別はないとし、トマスの論理に真っ向から反対する。トマスの「有と本質の区別(ただし神以外)」に関する学説は、神秘主義者と現実主義者から挟み撃ちにされることになる。このあたりの中世スコラ学のダイナミックな展開は、「近代」に向けての胎動をどう考えるかにも関わってきて、なかなか大変なところである。

聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』高桑純夫訳、岩波文庫、1935年

【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』

【要約】トマス・アクィナスの思想について、従来はその論理的な側面ばかりに注目が集まっていましたが、その魅力は、実は「感情論」によく現れています。トマスの感情論を具体的に検討することで、それが徹底的に「肯定」の精神に基づいていることを解き明かします。すると最終的には、カトリックの根本原理である「善の自己伝達」=「愛の共鳴」が明らかになります。

【感想】個人的な感想では、ヨーロッパ思想家の「論理的な面」にばかり日本人が注目するのは、特にトマス・アクィナスに限った話ではない。古代のプラトン(饗宴やパイドロス)にしろアリストテレス(弁論術)にしろ、近代のアダム・スミス(道徳感情論)にしろデカルト(情念論)にしろ、西洋哲学は常に「情念=パッション」を思考の対象としてきた。それを見逃してきたのは、日本人の側の問題だ。要するに、感情論について西洋から学ぶことはないとたかをくくっているというだけのことだ。
 しかし情念論がヨーロッパの思想家にとって極めて重要なのは、それがイエス・キリスト論に直接的に結びついているからだ。具体的には、「神は情念を持つのか?」という問題に明確な解答を用意しておく必要があるわけだ。そしてもちろん神が情念を持つはずはないという結論は最初から決まっており、その結論を成立させるために生じる多種多様な矛盾を丁寧に整理しておかなければならない。特にイエスが十字架にかけられた時に嘆いたり悲しんだり苦しんだりするなど明らかに情念を表現しており、一般キリスト教信者にとってはそれで何も問題ないわけだが、哲学者・神学者の方はそういった聖書の情念表現と「神は情念を持たない」という命題を両立させなければならない。明らかに矛盾する課題を達成するための前提として、「情念」を徹底的に分析しておく必要が生じてくる。
 本書も、まず前半では人間のレベルで「情念」を取扱ったあと、後半で「神の情念」の問題に突入する。神の情念というテーマが、近年の研究でも大問題になっている様子がよく分かる記述になっている。で、それは、カトリック信者ではない私からすると、あらかじめ決まっている結論に着地するために飛躍が甚だしいアクロバティックな理屈を恣意的に言い放っているようにしか見えないわけではあるが、「そういう考え方もあるのか」と理解するぶんには吝かではない。実際、特に「受肉」に関する論理については、眼鏡っ娘を理解するために極めて有益な示唆を与えてくれる。伊達に何百年も論理を鍛え上げてきているわけではない。勉強になる。

【この論理は眼鏡っ娘学にも使える】
 本書は神学という学問の意義を次のように説明する。

「現代では、「信仰」は非理性的・反理性的なものと捉えられることが多いが、トマスのテクストには、そういった考え方とはきわめて異なった信仰理解が現れている。「神」という他者の言葉は、理性と相反するどころか、理性的な哲学のいとなみに新たな探究の領野を開示する契機として機能しうる。それは、理性の徹底的ないとなみが、理性のいとなみであるままに、理性を超えたものへと開かれていくという自己超越的な在り方を可能にするものなのだ。啓示の言葉をも探究の視野のなかに収めることによって、知的探究は、非理性的で硬直化したものになってしまうどころか、新たな刺激と探究材料を与えられ豊かになる。」pp.144-145
「神学という学問は、狭い意味での信仰者のみにとってしか意味を有さないのではなく、人間に関する普遍的な洞察を与えてくれるもう一つの「光源」ともなりうるのだ。」p.146

 ここの文章に出てくる「神」という言葉を全て「眼鏡っ娘」に置き変えると、私が常に言っていることとほぼ同じ内容になる。私は常々「眼鏡っ娘が分かれば世界が分かる」と言い続けてきたわけだが、その理屈は、こういうことなのだ。

山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』慶応大学出版会、2014年

【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』

【要約】トマス・アクィナスの仕事は、現在ではカトリックの王道と理解されることもありますが、実際当時においては、特にアリストテレスの受容と解釈において、時代状況に即した新しいチャレンジでした。トマスは、アリストテレス的な「理性」とキリスト教的な「神秘/信仰」を、対立するものではなく、相互補完的なものと捉え、アリストテレスの論理を足がかりにして神学的な思考を力強く前に進めます。それは「理性」だけでも「信仰」だけでも不可能な、トマスだったからこそできた独創的な仕事です。その固有の論理を、具体的に徳論や自由意志論、愛徳論の展開を通じて確認していきます。
 ところが、三位一体の教義と受肉の神秘について考え始めると、もう間違いなく人間理性を超越していきます。だからといって理性的に追及することをあきらめるのではなく、理性を超えた「神秘」を手掛かりにしてさらに理性的な探求を推し進めるのがトマスのすごいところであり、現代に生きる我々にも大きな示唆を与えるところです。

【感想】まあ、神秘を手掛かりに理性的な追及を進めてはいけませんよ、理性は間違えますよ、しかるべき限界をわきまえましょう、と釘を刺したのがカント「純粋理性批判」の仕事ではあるし、やっぱりそれは抑制された丁寧な考え方であって、三位一体とか受肉の神秘を理性的に考えようという姿勢は、どうしても破綻しているようにしか見えない。そこは単に「理性を超えている」だけでいいじゃない。理性的に理解しようとするから徹底的に話がおかしくなり、胡散臭さが充満するのだと、改めて認識したのであった。しかしそれはトマスとかカトリック特有の問題というより、「特異点」一般に当てはまる話ではある。たとえば「人格」とか「個性」というものを理性的に捉えようとすると、やはりおかしなことになる。そこはカントに倣って「理性を超えているものを理性的に考えても絶対に答えに辿り着かない」と理解しておくのが、みんなが幸せになる無難な道であるように思ってしまうのであった。

【眼鏡論に使える】とはいえ、だ。個人的に大きな興味を引くのは、やはり「三位一体」の教義と「受肉」の神秘、そしてそれについてキリスト教神学が突き詰めてきた理性的思考は、眼鏡っ娘を考えるうえで極めて有益な示唆を与える。眼鏡と娘の分離主義に対しては、「っ」(カトリック的には精霊≒教会にあたる)を交えた三位一体論が決定的な反論となる。眼鏡だけを神、あるいは娘だけを神と理解するのは、三位一体論的にいえば問題なく異端である。
 こういうふうに「理性を超えたもの」を「理性的に理解しようとする」ところから視界が急速に開けてくる様を自ら体験してみると、一概にトマスやカトリック神学の思考を切り捨てるわけにもいかない。そこに何か大切なものがありそうなことを直観するのである。他人を説得したり説伏したりするためでなく、自らの体験を言葉にするという意味で。「特異点」という光の届かない闇を見定めるために。

山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』岩波新書、2017年

【要約と感想】マイケル・ローゼン『尊厳―その歴史と意味』

【要約】「尊厳」という言葉の歴史を辿り、具体的な場面でどのように使われているか分析を施したうえで、哲学的な知見と手法で深堀りします。
 言語分析的には、「尊厳」という言葉は3つないし4つの場面で使われています。すなわち、(1)地位としての尊厳(2)本質としての尊厳(3)態度としての尊厳(4)敬意の表現、の4つです。それぞれ意味内容はズレています。
 そして歴史的なルーツを紐解くと、カトリック思想とカント哲学が大きな柱として浮かび上がってきますが、お互いに両立せず、矛盾するものです。カトリック思想をルーツとした「尊厳」は、「地位としての尊厳」の発想を土台にしていて、近代人権思想とは実は相容れない要素を多く含んでいます。いちおう第二次世界大戦後には、カトリック側の考え方が柔軟に変化しています。いっぽう、カント倫理学思想における「尊厳」についても、現実的にドイツ連邦共和国基本法の原理に決定的な影響を与えていることもあり、数多くの研究が行われてきましたが、それらの解釈(主意主義や人間主義)にはいろいろ問題が見受けられます。特に、原理的には理屈を理解できるとしても、その理屈を現実に適用しようとしたときに、大きな問題が生じます。
 それらの議論を踏まえて、特に死者や胎児に対する「尊厳」というものを具体的に視野に入れて考えてみると、やはり「尊厳」とは、具体的な表現形態が時代や文化によって異なることは確かであるとしても、私たちが人間であるうえで決定的に大切な何か、もはや私の一部になっている義務のようなものであることは疑えません。

【感想】ああでもないこうでもないと、あっちにいったりこっちにいったり、論点はすっきり整理されているわけでもなく、議論の行程には散漫な印象を受け、そしてそれは英米系哲学によく見られるものでもあるが、しかし、むしろこのテーマに対して敬意を持って手続きを尽くそうとする著者の誠実な態度を強く感じた。言いたいことはよくわかる。良い本だった。勉強になった。
 本書は「尊厳」という言葉を対象として議論を進めているが、同じような議論はたとえば「良心」という言葉を対象にしても成り立つような気もする。「良心」という言葉も現実的にはさまざまな場面で多様な用いられ方をして、意味内容も拡散しているが、間違いなく宗教的・哲学的なルーツを持ち、人間について何か大切なことを言い当てるような言葉だ。そしてその「大切な何か」は最終的には「人格」という言葉の中に収斂してくることになる。本書にもやたらと「人格」という言葉が登場する所以である。個人的には「尊厳とは人格の属性である」と一言でまとめたくなるが、乱暴だろうか。
 またあるいは、この理解の先に生じてくるのが、中世的には「共通善」と呼ばれる概念であり、近代的には「公共」という領域に関する議論となるだろう。本書は「尊厳」を最終的に「それがなければ、私たちは人として成り立たなくなってしまう」という地点で理解しているが、その具体的な中身が中世的には「共通善」であり、自由主義・民主主義には「公共」と呼ばれる領域として立ち上がってくるだろう。本書の射程はここまで伸びていないが、特に問題ということではない。

【要検討事項】ちなみに日本国語大辞典によれば、「尊厳」の用例は日本近世にも中国古典にもある。おそらくdignityの翻訳者が漢籍に詳しかったのだろう。誰が翻訳したか特定してみたいものだ。ちなみに近代では、坪内逍遙と若松賤子が例示されていた。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 カトリックの思想的転回のキーパーソンとして名前が挙げられていたジャック・マリタンが、気になった。

「カトリック思想は、どの時点で、自由主義と民主主義について曖昧な態度をとらなくなり、社会的、政治的な平等を伴う人間の尊厳の考え方を受け入れるようになったのだろうか。確実なことを言うのは非常に難しい。とりわけ、カトリックは自らの教えが聖書の啓示と時間を超越した自然法則の権威を体現していると公に主張している組織なので、考えを変えたことを認めるのを明らかに嫌がっているからである。私は、第二次世界大戦が分岐点だったと考えている。世界人権宣言(とりわけカトリックの思想家ジャック・マリタンを通じて)とドイツ連邦共和国基本法に対するカトリックの影響は、間違いなく重大であった。両文書において、尊厳には非常に際立った地位が与えられ、侵すことのできない人権の観念と結びつけられたのである。」pp.69-70

 というのは、教育基本法制定時に文部大臣として尽力し、特に第一条の「教育の目的は人格の完成」という条文にこだわったカトリック主義者が田中耕太郎なわけだが、その田中耕太郎が戦前からジャック・マリタンと交流があったことが研究で明らかになっているからだ。先行研究が示す通りマリタンの人格理論が田中耕太郎に影響を与えているのが事実とするならば、もちろん「尊厳」の概念が影響を与えていないわけがない。特に、「人格」という言葉だけなら大正人格主義の影響を考慮するだけで事足りる一方で、「目的」とか「完成」という言葉について深く考えようとしたときにはどうしてもカトリックの思想に手を突っ込む必要が出てくる。そしてもちろんマリタンの背後には、トマス・アクィナスがいる。そんなわけで、教育基本法第一条「人格の完成」について深く考えるためには、改めてマリタンにチャレンジする必要を感じたのであった。

マイケル・ローゼン/内尾太一・峯陽一訳『尊厳―その歴史と意味』岩波新書、2021年