【要約】本書は幾何学的な手続きで記されていますが、人間の知性を改善して神とシンクロする至福に到達するためには、これが最善の方法です。
自己原因である神(つまり自然)は唯一存在する実体として無限の属性で構成されていますが、人間に知覚できるのは精神と延長だけで、神の様態である一切の個物は神の本性の法則に従って必然的に変状を蒙った結果の表現です。
人間の精神と身体はある一つの様態を精神・延長両側面から表現したもので、精神は身体の観念です。人間の認識には3つの様式があります。(1)表象(2)理性(3)直観。(1)表象は感覚的経験から生じますが、認知の歪みの原因となり、自由意志も錯覚です。真理は真理であるというだけで真理と分かるので、概念的・推理的認識の(2)は確実ですが、神の認識に到達できるのは(3)だけです。
人間の根本的感情は3つだけです。(1)欲望(2)喜び(3)悲しみ。この3つから人間の感情一切を説明し尽くせますが、根源にあるのは「わたしがわたしでありたい」という自己の存在を維持しようとする傾向性(コナトゥス)であり、その傾向を実現しようとする欲望は人間の本質そのものであり、その必然的な本性に従うことが人間の自由です。
人間の自由とは、外部から感情を刺激する受動性に隷属せず、能動的な感情に基づいた理性の指図と自己の本性のみによって判断し行動することであって、それが徳です。世界を知れば知るほど、理性と自己の本性に対する理解が高まり、行動の自由が増し、神の認識に近づきます。徳によって報酬が与えられるのではなく、徳のあること自体が至福そのものです。
【感想】西洋哲学史における「人格」ないし「個性」概念の発生地点に立ち会うことを目指して古典を読み進め、古代から中世、ルネサンスを経て近代の入り口に差し掛かり、ここまでにも近代的自我の萌芽らしきものは様々確認できてはいるものの、ここに来てようやく近代性の閾値を越えた感じがする。スピノザはコナトゥスという概念を通じて「わたしがわたしでありたい」という近代的自我の在り様をそうとう剔抉してきたような印象だ。単に「わたし」という自己意識の在り様であれば、たとえばルネサンス期ペトラルカに明瞭に見られるし、あるいは古代アウグスティヌスにまで遡っていいかもしれない。また、様々な特性を持った人がいるという程度の「個性」の表現は、古代からルネサンス期まで満遍なく見つけることができる。しかし「わたしがわたしでありたい」あるいは「わたしはわたしでしかありえない」という再帰的な自我の在り方は、まずモンテーニュに文学的な表現を得て、次いでスピノザに哲学的な表現を得た、ということでいいかもしれない。ちなみにベーコンやデカルトには「わたし」意識は強烈に見られても、「わたしがわたしでありたい」という再帰的な欲望はない。
となると、モンテーニュやスピノザに至って初めて再帰的な自我の表現が見られることの意味や背景を考えなければならない。大航海時代とか宗教改革とか重要な観点はいろいろあるが、哲学史的には、どうだろう、「懐疑論」への対決というのは一つの契機になるだろうか。懐疑論を「人間には思考の足掛かりなどない」という考え方だと捉えるとして、これを雑に一蹴する(ある特定の思考の足掛かりを示す)のはそんなに難しくないけれども、懐疑論の主張を正面から丁寧に捉えた上で乗り越えていこうと努力したとき、生産的な表現に至るかもしれない。たとえばスピノザは「真理は真理それ自体で真理を表現する」と再帰的な認識論を打ち出して懐疑論を乗り越えているわけだが、それは「私は私それ自身で私を表現する」という再帰的自我論まで紙一重だ。一方モンテーニュはもともと古代懐疑論を信奉していたように見えるが、ひょっとしたらそれを乗り越える過程で「わたしがわたしでありたい」という再帰的な思考(あるいは情念)の「足掛かり」を捉え、文学的な表現に鍛え上げたのではないか。そして仮にそうだとすると、実は懐疑論など一顧だにせず「真実が真実にしか見えない」という認識で突っ走ったガリレオやデカルトの自然科学革命が、やはりそうとう重要な役割を果たしているのかもしれない。人間が頭の中で何を考えようと、懐疑しようと、あるいは考えてはいけないと他人に強制しようと、それでも地球は回っているのである。
【個人的な研究のための備忘録】アイデンティティ
「流れる川は同じ川か?」というアイデンティティ(同一性)に関わる問題に対して、スピノザは明快に「同じ川だ」と言い切る。
「【第2部公理3補助定理4】もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。」
「【補助定理7】もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限の仕方で変化することを容易に理解するであろう。」
そして同一性の考えを突き詰めていくと、世界は一つの個体だという結論に至る。というか、スピノザの人間(あるいはすべての個物)は、鴨長明にかかれば「かつ消えかつ結ぶ、淀みに浮かぶうたかた」のようなものではある。
【個人的な研究のための備忘録】子ども観
スピノザは子どもについて積極的に語ることはない。否定的な文脈で比喩として登場するだけだ。
「【第2部定理49備考】もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら縊死する人間を何とみるべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。」
「【第3部定理32備考】というのは、小児はその身体がいわば絶えざる動揺状態にあるゆえに、他の人々の笑いあるいは泣くのを見ただけで笑いあるいは泣くのを我々は経験している。さらにまた小児は他の人々がなすのを見て何でもすぐに模倣したがるし、最後にまた他の人々が楽しんでいると表象するすべてのことを自分に欲求する。」
「【第5部定理6備考】幼児が話すことも散歩することも推理することもできず、その上に幾年間も自己意識を欠いたような生活をするからといって、誰も幼児を憐れまないことを我々は知っている。しかしもし多くの人が成人として生まれ、一、二の者が幼児として生まれるのだとしたら、誰しも幼児を憐れむだろう。なぜならこの場合は、人は幼児の状態を自然的あるいは必然的なものとは見ないで、自然の欠陥あるいは過失として見るからである。」
子どもは愚者や狂人と同じカテゴリーだ。まあ、こういう子ども観はスピノザに限った話ではなく、近代初期までのヨーロッパに共通して広くみられる。というか、ルソーが異常だっただけか。
【個人的な研究のための備忘録】教育
積極的に子ども観が示されないので、教育の話も積極的に展開されることはない。しかしごく一部に教育の話が現れるので、サンプリングしておく。
「【第3部定理55備考】こんな次第で、人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこの傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とするからである。」
「【第三部「諸感情の定義」27】それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞賛し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって瀆神的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。」
この場合の教育とは、何かしらの知識を与えるinstructionではなく、ましてや内面から可能性を引き出すeducationでもなく、習慣形成のためのtrainingのようなものだし、そもそもスピノザの思想体系に内在的に関わる話でもない。
しかし一方、以下に引用した文章では、スピノザの認識論に関わるものとして教育を語っている。
「実際また、幼児や少年のように、きわめてわずかなことにしか有能でない身体、外部の原因に最も多く依存する身体、を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見られる限り、自己・神および物についほとんど意識しない。これに反してきわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見て、自己・神および物について多くを意識している。ゆえにこの人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるように努める。」
しかし、目指すべき教育の具体的なプログラムは示されない。スピノザが目指す「知性改善」は本書に示された理路に基づいて各自が認識を改めていくことでしか進まないのであって、何らかのカリキュラムを備えた学校で一定期間過ごせば身につく類のものでもない。となると、スピノザの「知性改善」を実現するためには、いわばプラトンの言う「魂の向け変え」のような契機が必要になるのではないか。
ということを考えると、最終定理(第5部定理42)で示される「至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。」なるテーゼは、プラトン『国家』で示された問いに対するスピノザの回答だ、という理解でいいか。魂の向け変えが人々を徳に導き、それがそのまま至福への唯一の道となる。
「【第4部「付録」第9項】ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の伎倆と才能を証明することができる。」
ということで最終的には人々に対する教育へと足を踏み出すことになるのだった。世界を変えるためには、やはり教育に頼るしかないのだ。注目すべきなのは、ここでスピノザが示している教育の内容が「各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやる」となっていることだろう。この場合、はたして教育内容は「理性」に従って同一メニューになるのか、それとも各人のコナトゥスに応じて個別最適なメニューが用意されるべきなのか。
【個人的な研究のための備忘録】欲望
デカルトは『情念論』で積極的に欲望を肯定したが、スピノザも「欲望」をコナトゥス概念を通じて「人間の本質」だと見なしている。
「【第4部定理18備考】これを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳および道義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私にひきつけたいためである。今私は事態がこれと反対であることを簡単に示したのだから、ひきつづき私はこれをこれまでやってきたのと同じ方法で証明していくことにする。」
「【第4部定理38】人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。」
こういう表現が見られるようになると、しみじみと「近代だな」という印象を強める。古代や中世には見られない展開だ。それは以下にサンプリングした知識観と響き合っているかもしれない。
「【第5部定理24】我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)」
西洋哲学史ではソクラテスの「無知の知」から始まって、キリスト教の反知性主義を経て、ルネサンス期になってもペトラルカやエラスムスなど「無知」を称揚する言説に事欠かない。モンテーニュだって自分が無知であると繰り返し韜晦しているし、あのデカルトもなかなか謙虚な姿勢を示している。しかしスピノザにはそんな身振りは一切見られない。認識すればするほど、知識は増えれば増えるほど良いのだ。これは自然科学的(スピノザにおいては幾何学的)な知識観に基づいた身振りと考えていいか。ちなみに人間の認識が有限であることは、もともと織り込み済みだ。
【個人的な研究のための備忘録】国家論
スピノザの国家論については別の著作『神学・政治論』で本格的に展開されるが、本書にも考え方の概要が示されている。
「【第4部定理37備考2】それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。(中略)そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。(中略)以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。」
ポイントは、まず「自然権」を「断念」するとは書いてあるが「放棄」や「譲渡」とは書いていないところだろう。国家成立後も、国民は自然権を保持している。
そして続いて「正義」を「外面的概念」と断言していることから、いわゆる「自然法」をまったく認めていないらしいところも注目だ。スピノザにとっては神(自然)の法則こそが唯一の規範なわけだが、自然の必然的な成り行きとは異なる「人間のルールとしての自然法」の客観的存在は認めないということでいいか。
【個人的な研究のための備忘録】死
「死」に関するおもしろい文章があったのでサンプリングしておく。
「【第4部定理39備考】身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解している(中略)人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。」
「死」というものを考える上でもなかなか示唆深い文章だが、「わたしがわたしである」という事態を考える上でも、この説明に付された事例も含めて、興味深い。「わたしがわたし」でなくなってしまうことは、スピノザにとってはただちに「死」を意味するのである。
ところでこの一文は、ただちにローマ帝政期のストア派哲人皇帝マルクス・アウレリウスの言葉「たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。」を思い出す。スピノザの思想がストア派と親和性が高い証拠の一つとしていいか。
■スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(上)』岩波文庫、1951年
■スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(下)』岩波文庫、1951年