【要約】第1部:コモンウェルス(国家)は神の技術を真似して作られた人工的人間ですが、その材料となる人間の性質についてまず考察します。人間は感覚を通じて考えを形成し、様々な情念を抱いて行動します。人間本性の本質上「力」への志向には限りがありませんが、そういうものとして人間は皆が心身の力を平等に作られており、平等だからこそ利得・安全・評判・名誉を求めてお互いに争い合います。すべての人間を共通に統治する権力が存在しない自然状態では、人間の本性によってすべての人間がすべての人間の敵となり、戦争状態の中であらゆる文化と文明が存立基盤を失い、法と正義は存在の余地を持たず、常に死の危険と恐怖に悩まされる人間の生は惨め極まりないものになります。だから死の恐怖と安全への意欲という人類共通の情念に基づき、理性による示唆に従って、人々は平和に向かって生存権を守ろうとします。ポイントは、自由に基づいた権利(jus)と義務によって拘束する法(lex)が異なるものだということです。人間は自分を守るために自然権(jus)を持ちますが、しかし理性が見出す自然法(lex)は第一に「平和のためにはあらゆる手段を用いよ」と示唆し、第二に「自分の権利(jus)を捨てることで平和が訪れるなら、他の人々と共に進んで捨てるべきだ」と結論し、さらに平和な共同体を維持するために全部で19個の自然法を導き出します。バカにもわかりやすく「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」とか「己の欲する所を人に施せ」と要約できます。そして「人格」の定義と用例について詳述して、人間の群衆がひとつの人格に代表されるとき、群衆はひとつの人工的な人格と見なされることを示します。
第2部:こうして群衆を人工的に一人格に統一したコモンウェルスこそが可死の神であるリヴァイアサンです。しかしどれほど強力なリヴァイアサンであろうとも、可死である以上は、うまく運営しなければ滅びます。最大のポイントは、主権者が君主であれ合議体であれ、権力と暴力と正義の一切を握って内部分裂を起こさないことです。臣民たちの義務と権利(自由)の範囲、経済政策(栄養)や相続の段取り(生殖)、法制や裁判や刑罰の運営、教育に対する介入など、自然法が示唆する諸条項を理性より導き出します。
第3部:カトリックとローマ法王はコモンウェルス内で一切の権力を持たず、単に最後の審判後の救済へ至る道を示す教師としての役割を持っているにすぎません。旧約聖書を精査すれば、神との契約(旧い信訳)を結んで現実的な「神の国」の実定法に従う義務を負ったのはアブラハムとその子孫であるユダヤの民だけであって、契約を引き継いだモーシェの権威も人民の同意と服従への約束に基づいており、ユダヤ以外の国民は旧約聖書の法とはまったく関係がありませんし、ユダヤの民にしてもサウルを王に選んだ時に神との契約は破棄されています。そして救世主が新しい信約で約束したのは最後の審判後に現実世界に神の国が実現することであって、復活後に神の国は現れておらず、現在のコモンウェルスの諸法に対しては守るようにとしか勧めていません。そしてコモンウェルスの主権者たちがキリスト教に改宗する前であれば教会もなんらかの指導力を持ったかもしれませんが、主権者たちがキリスト教信者になった以上は、コモンウェルス内で精霊の人格を代表できるのは主権者だけです。そもそも現在のカトリック教会が精霊を代表することは聖書のどこを読んでも書いてありませんし、教会が「神の国」だという根拠は何もありません。イエスが救世主であることを信じている限り、他の相違は些末なことで、コモンウェルスのやりかたに教会が口を出す理由も権限もありません。
第4部:カトリック教会は煉獄とか魔物のような聖書からは証明できないようなデタラメを平気で言う上に、偶像崇拝までしています。教会はコモンウェルスの権力を掠め取ろうとしていい加減な嘘をついているので、コモンウェルスからは排除されるべきです。プラトンやアリストテレスのような古代哲学者やスコラ学者もデタラメを言っています。私の論理がいちばん世界を平和にします。
【感想】自分なりに読み込んでみた結果として、先行研究の言っていたことはなんだったんだろう?という、先学諸氏に対して不遜な感想を抱くことになった。大半の先行研究は、決定的に重要なことをことごとく見逃しているとしか思えない。本書で決定的に重要なのは「人格」という言葉だ。キリスト教最大の秘儀である三位一体論と世俗的な法学論を貫いて機能する「人格」という概念の定義とその運用が、本書の極めてユニークな論理を底から支えている。個人的には古代からルネサンス、そして近代初期に至る重要な哲学書をそこそこ読んできたつもりだが、ここまで「人格」という概念を使いこなしている著述には初めて出くわした(いやまあ、20年前にはそうではないかと見当はつけていたのだが)。エラスムスやモアやビーヴェスやモンテーニュにはない、ベーコンにもデカルトにもスピノザにもライプニッツにもない。このホッブズにだけあるのが「人格」という概念の厳密な定義と縦横無尽な運用であり、そしてこの概念なくしてリヴァイアサンの論理は成立しない。リヴァイアサンの社会契約論とカトリック批判は、「人格」という概念があって初めて成り立つ上に、両者が整合的に結びつく。この極めて重要な論点に、解説を含めて先行研究はまったく触れない。何を見ているんだ?という感想しか出てこない。
リヴァイアサン研究では、ホッブズが民主主義者か専制君主論者かで意見が真っ二つに割れているそうだが、虚心坦懐に通読した印象としては、専制君主論者という説に与したい。というのは、民主主義論者が大きな論拠としている「抵抗権」と「内心の自由」というテーマについて、確かに丁寧に論じられているところだけ切り取ると民主主義的に読めなくもないが、しかしその背後にある人間観と世界観が民主主義的な個人主義ではなく、「人間に自由意志はなく、すべては必然」という哲学であり、だからこそ利己的な情念を持つ人間本性を突き詰めた結果として「必然的」にそう考えざるを得ないという記述に至る。この論理展開を「民主主義を擁護しよう」として書かれたものと理解することはできない。本書の全体的な記述を踏まえても、ホッブズが心から主張したいことはコモンウェルス(イギリス王国)の教会権力からの独立にしか読めず、「抵抗権」とか「内心の自由」どころではない大量のエピソードが主権者権力擁護のために費やされており、民主主義擁護の論理として読むのは無理筋すぎる。民主主義論者がリヴァイアサンをアクロバティックに読み替えようと試みることは問題ないし、積極的に行っていいと思うが、ホッブズの執筆意図にまで及ぶのはフェアだとは思えない。そういうものとして批判すればよい。
いずれにせよ、極めて重要な古典であり、これを読まずに近代を語るのはモグリ、というところまでは言っていいと思う。オリジナリティに溢れる怪作。
【要検討事項】スピノザやデカルトとの関係
第6章「情念」に関わる記述で「努力」という単語が止揚されるが、この語はただちにスピノザの「コナトゥス」概念を想起させる。
「人間の身体のなかにあるこれらのちいさな運動の端緒が、あるくこと、はなすこと、うつこと、その他の見える諸行為に、あらわれるまえには、《努力》それらはふつうに、努力とよばれる。」1巻98頁
「あなたがもし、かれらは重さによってなにを意味するのかと、たずねるならば、かれらはそれを、大地の中心へいこうとする努力だと、定義するであろう。」4巻122頁
この文章内の「努力」という語は、明らかにスピノザの言うコナトゥスと同じく「傾向性」という意味を持つ。ホッブズとスピノザは完全に同時代の思想家なわけだが、なんらかの影響関係があってこういう似た記述になっているのか、翻訳の問題か、それとも二人だけに限った特別なことではなく同時代的な常識に属する記述なのか。
また、そもそも第1部で展開される「情念」に関する記述は、ただちにデカルト『情念論』とスピノザ『エチカ』第3部を想起させるものだ。どういう影響関係にあるのか、またはないのか。デカルト本人はホッブズの感覚論を剽窃だと批判したらしいが。
【要検討事項】dignityの意味について
ホッブズが使用しているdignityという英単語を、訳者は「位階」と翻訳している。
「ある人の公共的な値うちは、コモンウェルスによってかれにつけられた価値であり、それは人びとがふつうに、位階DIGNITYとよぶものである。」1巻153頁
「人びとはたえず、名誉と位階[ディグニティ]をもとめて競争しているが(後略)」2巻31頁
しかしこのdignityという英単語は、現代日本においては「位階」ではなく「尊厳」と訳されることが多い。そして「尊厳」と聞くと、ただちにルネサンス期に現れた「人間の尊厳」という観念を想起する。残念ながら不勉強のせいでルネサンス期のラテン語において「人間の尊厳」がどういう単語で表記されていたかが分からないのだが、仮に原語がdignitatis humanaeであったとして、ルネサンス期の論者たちがdignitatis humanaeをホッブズと同じく「人間の位階」という意味で使用していた可能性はないか。というのは、ルネサンス期に「人間の尊厳」というテーマで具体的に議論されていた中身は、神と獣の中間にある人間の性格規定についてだったからだ。つまり、ひょっとしたら議論されていた内容は神→人間→獣という「位階」の関係というくらいのニュアンスに過ぎず、われわれがいまイメージするような「尊厳」について語ろうという意図はなかったかもしれないのだ。仮にそうだとすると、人権に関わる様々な話の歴史的前提(特にルネサンスという時期が持つ意義)が違ってくる。
また訳文ではこうもある。
「これらの犯罪は、ラテン人が、尊厳を毀損する犯罪Crimina lœsœ Majestatistとして理解するもの」2巻221頁
ここで訳者が「尊厳」としているラテン語の「Majestatist」とは日本語では「陛下」とも訳されるし、本文では「不敬罪」について言及されるところなので、もちろん「人間の尊厳」という意味での「尊厳」ではなく、「陛下」という意味で理解してよいところだろう。dignitatisとはニュアンスがかなり異なる。ちなみに3巻208頁ではマジエスティが「王の威厳」と訳されている。このあたり、「尊厳」とはいったいなんなのか、古英語とラテン語に造詣のある識者に聞いてみたいところだ。
【要検討事項】資本主義における「生産」と「労働」
解説は「生きるための殺し合いという矛盾(中略)この矛盾は、ホッブズが生きるための生活資料の生産に気づかなかったために起こった」(1巻378-379)とか「ホッブズの論理のなかで、生活資料の生産という観点の欠如が、自然状態を戦争状態とせざるをえなくした」(2巻6頁)というが、今になってみると、この非難は言いがかりに過ぎなかったのではないか。なぜなら、現代日本のように生活資料に困らないほど生産力が上がったところで、悲惨な戦争状態は続いているからだ。SNSを見よ。日々戦争状態にある。人間が生活資料のために争うだけではなく、ホッブズが第1部の情念論で明らかにしたように名誉とか評判というもので争う本性を持っているとすれば、いくら生活資料が増えようが、戦争状態は終わらない。仮に生活資料が万人に行き渡ったとしても、名誉や評判は万人に行き渡らない。生産力が上がって生活資料が行き渡ることで戦争状態が終わると夢想したのは、ただただ資本主義を賛美する立場からの世迷言に過ぎなかったのではないか。人間が名誉や評判をめぐっていつまでも争いをやめないと「情念」の本質を見切ったホッブズの方が何枚も上手でははなかったか。
あるいはホッブズはコモンウェルスの経済活動を分析する部でこう言っている。
「人間の労働もまた、他のどんなものともおなじく、便益と交換しうる財貨なのである。」2巻138頁
「所有権の導入がコモンウェルスの結果であり、コモンウェルスは、それを代表する人格によらずにはなにもできないことをみれば、それは、主権者のみの行為である。」2巻139頁
このような「交換財としての労働」という現実的な把握の仕方や「後付けの所有権」という考え方は、ロックのような「所有権を正当化する労働」という資本主義の矛盾を覆い隠すファンタジーよりも遥かに健全ではなかったか。
【要検討事項】ホッブズは「個人」を想定しているのか
ホッブズに限らず社会契約論を語る時には互いに闘争したり社会を構成する単位を無条件に「個人」だと思い込む傾向があるが、実は「個人」ではなく「家族」だということはないか。たとえばホッブズは以下のように言っている。
「人びとが小家族をなして生活していたあらゆるところでは、たがいに強奪し略奪することが、ひとつの生業であって」(2巻28頁)
「父および主人は、コモンウェルスの設立以前には、かれら自身の家族における絶対主権者であった」2巻120頁
ホッブズと同じくロックやルソーが社会契約論の単位として想定しているのは「家族」(あるいは家長のみを個人とみなす)ではないのか。
【個人的な研究のための備忘録】人格の定義
本書では「人格」という単語が連発されるだけでなく、その定義や使用法についても原理的に突っ込んだ話が展開する。さらに、この概念そのものがリヴァイアサンの論理展開に必要不可欠な前提となっていく。「人格」という概念なくして、リヴァイアサンは成立しない。記述の順番は逆になるが、まず「人格」の語源的考察についてホッブズが何と言っているか見てみよう。
「《人格という語はどこからきたか》人格という語は、ラテン語である。それのかわりにギリシャ人は、プロソーポンという語をもっていて、それは顔をあらわし、ラテン語のペルソナPersonaが、舞台上でまねられる人間の仮装や外観をあらわし、ときには、もっと特殊的に、仮面や瞼甲のように、それの一部分で顔を仮装するものを、あらわすのとおなじである。そして、それは舞台から、劇場においてと同様に法廷においても、ことば[スピーチ]と行為を代表するすべてのものに、転化した。それだから、人格とは、舞台でも日常の会話でも、役者Actorとおなじであって、扮するPersonateとは、かれ自身や他の人を演じるActこと、すなわち代表するRepresentことである。そして他人を演じるものは、その人の人格をになうとか、かれの名において行為するとかいわれる。(キケローがUnus sustineo tres Personas; Mei, Adversarii, & Judicisすなわち、私はひとりで三つの人格をもつ、私自身と私の敵たちと裁判官たちの人格である、というばあいに、かれはそれをこの意味でもちいているのだ)。そしてそれは、さまざまなばあいに、代表者Representerまたは代表Representative代行者Lieutenant代理人Vicar代人Attorney副官Depty代官Procurator行為者Actorなどと、さまざまによばれる。
ギリシャ語やラテン語の語源は現代において「人格」を説明する際にも触れられてお馴染みのものではあるが、個人的には370年前のホッブズの方が切れ味が鋭い。というのは、ギリシャ語とラテン語の捻じれに言及している他、「代表」という概念との関係にも丁寧に触れているからだ。現代の「人格」語源論には、これが欠けている。「人格」と「代表」という概念の関係は、このあとのリヴァイアサンの展開にとって決定的に重要な役割を果たすことになる。
次に「人格」の定義を確認しよう。
「第16章 人格、本人、および人格化されたものについて
《人格とは何か》人格PERSONとは、「かれのことばまたは行為が、かれ自身のものとみなされるか、あるいはそれらのことばまたは行為が帰せられる他人またはなにか他のもののことばまたは行為を、真実にまたは擬制的に代表するものとみなされる」人のことである。
《自然的人格と人為的人格》それらがかれのものとみなされるならば、そのばあいにはかれは、自然的人格Naturall Personとよばれる。そして、それらがある他人のことばと行為を代表するものとみなされるならば、そのばあいには、かれは仮想のFeignedまたは人為的なArtificiall人格である。」1巻260頁
「《行為者と本人》人為的人格のうちのあるものは、かれらのことばと行為が、かれらが代表するものに帰属Ownedする。そしてそのばあい、その人格は行為者[役者]であって、かれのことばと行為が帰属するものは本人AUTHORであり、こういうばあいに、行為者は、本人の権威によって行為するのである。」1巻260-261頁
簡潔にして明確な定義である。「人格」という概念(特に人為的人格)と「代表」という概念の密接な関係をチェックしておこう。
話は「人格化」へと進む。
「《人格化された無生物》擬制[フィクション]によって代表されることができないものは、ほとんどない。教会、慈悲院、橋のような無生物は、教区長、院長、橋番によって、人格化Personateされうる。(中略)そういうものは、市民政府のなんらかの状態が存在するよりまえには、人格化されることができない。」1巻263頁
「《非理性的なもの》同様に、子ども、愚人、狂人、すなわち理性を使用できないものは、後見人や管理人によって、人格化されうるが、(中略)これもまた、社会状態State Civillのなかにしか、場所をもたない。なぜなら、そのような状態よりまえには、人格に対する支配はないからである。
《虚偽の神がみ》偶像すなわち頭脳のたんなる虚構は、異教徒の神がみがそうであったように、人格化されうる。(後略)」1巻263-264頁
社会契約論を理解しようとする立場からは「市民政府のなんならかの状態」とか「社会状態」という表現が気にかかるところだが、ここに続く「神」に絡む記述はさらに興味深い。1巻の市民社会論だけでなく、3巻のカトリック批判の場面もまとめて確認しよう。
「《真実の神》真実の神は、人格化されうる。たとえば、まずモーシェによって人格化されたのであり、かれはイスラエル人たち(それはかれのではなく神の人民であった)を、かれ自身の名において、「これをモーシェがいうHoc dicit Moses」といってではなく、神の名において、「これを神がいう」といって統治したのである。第二には、人の子であり神自身の子であり、われわれの祝福された救世主であるイェス・キリストによって、人格化されたのであり、かれは、ユダヤ人たちをかれの父の王国に復帰させ、すべての国民をそこへみちびくために、かれ自身でではなく、かれの父によってつかわされたものとして、きたのであった。そして第三に、使徒たちのなかでかたりはたらく、精霊すなわちなぐさめるものComforterによって、人格化されたのであり、その精霊は、かれ自身できたのではなく、かれら双方によって、つかわされ、生じてきたのである。」1巻264-265頁
「《まさに同一の神が、モーシェにより、キリストによって、代表されている人格なのである》したがって、われわれの救世主は、おしえることと支配することとの、双方において(モーシェがしたのとおなじく)神の人格を代表する。その神は、そのとき以後、しかしそのまえにではなく、父とよばれる。そして、しかも、まさに同一の実体でありながら、モーシェによって代表されたものとしての人格と、かれの息子、キリストによって代表されたものとしての人格とは、べつなのである。なぜなら、人格は、代表者につながるものなので、まさに同一の実体の人格であっても、複数の人格があることが、代表者が複数であることに一致しているのだからである。」3巻200頁
「《三位一体について》ここにわれわれは、これで三度目にうまれた神の人格をもつ。すなわち、モーシェと祭司長たちが、旧約において神の代表であり、われわれの救世主自身が、かれの地上滞在の間、人間としてそうであったように、それいらいずっと、精霊Holy Ghostが、いいかえれば精霊Holy Spiritをうけた使徒たちと、説教と教化の職務におけるかれらの継承者たちが、かれを代表してきた。しかしながら、ひとつの人格は、それによって代表される人なのであって、かれが代表されるたびにそうである。したがって、三回代表されてきた(すなわち人格化されてきた)神は、人格という語も三位一体Trinityという語も聖書のなかではかれに帰せられないにしても、三つの人格であるといっても十分にただしいであろう。(中略)すなわち、そのようにして、父である神は、モーシェによって代表されたものとして、ひとつの人格であり、そして、使徒たちにより、またかれらからひきだされた権威によっておしえた博士たちにより、代表されたものとして、第三の人格である。しかもここにおける各人格は、まさに同一の神の、人格なのである。(中略)それらすべては、かれらの時代において、神の人格を代表したのであり、イェス・キリストを予言するか説教するかしたのである。(中略)天の三位一体では、その諸人格は、三つのちがった時期と機会において代表されるにしても、まさに同一の神の諸人格なのである。結論すれば、三位一体についての教義は、聖書から直接に推論しうるかぎりでは、実質的にはつぎのことである。すなわち、つねにまさに同一である神は、モーシェによって代表される人格、肉化したかれの子によって代表される人格、使徒たちによって代表される人格であった。(中略)すなわち、それらは人格であって、そのことは、かれらがその名称を代表することからえる、ということである。そういうことは、さまざまな人が、神のもとで支配し指導するにあたって、かれの人格を代表してしまうまでは、ありえなかったのである。」3巻203-205頁
この三位一体に絡む記述は、もちろん神の3つの「位格」がラテン語でpersonaと表記される事実を踏まえている。ちなみに1巻部分の記述に対しては、リヴァイアサンのラテン語版への付録の第3章「リヴァイアサンに対するいくつかの反論について」で「著者は三位一体の教義を、三位一体とよんではいないけれども、説明しようとしたよう」だと触れた上で、「意図は敬虔であるが、説明はあやまりである」(第4巻320頁)としている。
この記述が極めて重要なのは、1巻と2巻で展開されてきた世俗世界のコモンウェルスにおける社会契約の論理が、そのままそっくり旧約におけるユダヤ人や新約における使徒の契約の論理として反復されているところだ。というか、旧約聖書における契約と「神の国」のありかたを解明するための道具として、世俗世界における社会契約論が用意されていたかのようにすら読める。というのは、「人格」という本来であれば三位一体に関わる神学用語が、ここでは本来の神学用語ではなく一貫して社会契約論における法学的な「人格」として運用されているからだ。しかも話の流れから言ってここまで突っ込んで三位一体論に言及する必要があるか分からないところで、ホッブズは敢えて意図的に深く三位一体論に突っ込んでいる。おそらくホッブズは、「三位一体」というカトリック最大の秘儀においてpersonaという用語が極めて重要な役割を果たしていることを十分に理解した上で、そのpersonaという用語を敢えて世俗社会の法学的用語として貫徹しようと試みている。そして、それはカトリック教会の論理を完全にひっくり返すための前提となる。社会契約論が世俗世界と神的世界を貫く論理として期待されていたとすれば、その論理にとって決定的に重要なのは「人格」という概念の定義と、その運用にある。教科書が言うような「万人の万人に対する闘争」というアイデアでは、世俗社会の話ができたとしても、カトリック教会の論理を突き崩す材料にはならない。カトリック教会を倒すには、三位一体という最大の秘儀に関わる「人格」という概念が絶対に必要となる。
そして三位一体については、ラテン語版付録第1章「ニケア信仰箇条について」で詳細に触れている。
「聖書のどこに、あるいはニケア信仰箇条に、三つの位格、すなわち三つの実体、すなわち三つの神があるということ、あるいはほかの、これにひとしいことが、書いてあるだろうか。もし書いてあるならば、なぜラテン教会が、そのことばを援用することを拒否するのか。なぜ、アウグスティヌスが、ギリシャ人がもっと適切なことばをもたないことを、ゆるすのか。ギリシャ語に、ラテン語の人格Personaに対応する語がないことは、たしかである。しかし、かれらは位格という語を使用する必要はなかったのであって、それは、かれらがその神秘を説明する必要がなかったからである。」4巻220頁
「A それでは、三位一体の諸位格はどうやって区別されるのか。
B 信仰箇条においても、聖書においても、三位格は、区別も命名もされていない。
A しかしわたくしのみるところ、アタナシウス信仰箇条には三位格があるし、それはイングランド教会の典礼の一部分である。
B しかしそこでは、ギリシャ語で位格Hypostasisというところを、ラテン語および英語で人格Personaといっている。
A これらの位格、人格、実体substantiaと、その他の多くのことばについては、あなたが信仰箇条全体を説明するときに、たずねることにしよう。」4巻251-252頁
「A (前略)しかしこんどは、位格Personaが、真実かつ本来的になにを意味するのかを、かたってもらいたい。
B それはラテン語で、自分の意志または外部の意志でうごいているある単一の物を意味する。だからキケローはいう、「わたしはひとりで三つの位格[ペルソナ]をもつ。すなわち、わたくし自身の位格、審判者の位格、反対者の位格をである。」キケローが自分に固有の役割、審判者の役割、反対者の役割を演じるのでないとすれば、それはなんのことか。イングランドの教理問答にみられるように、(中略)この教理問答のなかにみいだされるものは、なんであるのか。それは神がその固有の位格においてすべてを創造し、その子としての位格において人類を救済し、そして、精霊の位格において聖教会を聖別したということに、ほかならない。神の諸位格については、これ以上に明らかで信仰に合致するどんなことがいいえようか。しかしもし、位格のかわりに、ギリシャの教父たちのように、われわれが(ヒュポシュタシスと実体が同じ意味をもつとして)ヒュポスタシスということばをもちいるならば、三つの位格にかわって、三つの神的実体うなわち三つの神がえられる。(中略)これらを三つの神的実体とすることは、信仰に反している。ベラルミーノはラテン語の位格Personaの意味を知っていなかった。もしこの語が第一実体を意味するとしたら、プロソーポンがギリシャ語で同じ意味をもつことにならないだろうか。それは真実ではなく、プロポーソンの固有の意味は、自然の顔にしろ、仮面のような人工的な顔にしろ、さらには代表的な顔にしろ、人間の顔なのであり、それは、劇場だけでなく、議場Forumおよび教会において、そうなのである。代表的な顔とは、代表されるものの影像または像Character以外のなんであろうか。したがってわれわれの救世主は、ヘブル・一・四で、聖パウロによって神の実体の像とよばれるのである。
A しかし、プロソーポンは聖書においてなにを意味するのか。
B 顔あるいは表情以外に、固有の意味はない。換喩により、それは、プロソーポレープシアということばのばあいのように、時として人間そのものを意味するように、つかわれる。しかし信仰箇条は、位格、ヒュポスタシスあるいは三位一体について、なにものべていない。(後略)
A それではなぜ、古代の教父たちや最近のおおくの博士たちは、それらのことばを用いたのか。
B そのわけは、(後略)」4巻270-272頁
「A (前略)もし位格をそれ固有の真の意味で、それ固有のおよび他のものの役割を演じるものという意味で、理解するならば、父、子、精霊というこれらの三つは、三つの位格よりなる唯一の神なのだと、ある。しかし、もし位格という語が単純に、ペテロ、パウロ、ヨハネのような(ベラルミーノが把握するように)単一の知性的実体の意味で、あるいは(同じことであるが)ヒュポスタシスの意味で理解されるとするならば、わたくしには、父と子と精霊が、なぜ個別の三つの実体すなわち数的に区別される神でないのか、わからないし、どのようにしてそれを聖書によって証明することができるのかわからないのであって、聖書では神においてヒュポスタシスも位格も、識別できないのである。(後略)」4巻278頁
後半は議論が錯綜しているような印象だが、まずペルソナの定義を「ラテン語で、自分の意志または外部の意志でうごいているある単一の物を意味する」としているところには注目しておきたい。リヴァイアサン本文の定義とは、けっこうニュアンスが違っているような印象だ。
さて、ギリシャ語のヒュポスタシス(ラテン語では実体=substantiaにあたる)とラテン語のペルソナを比較・吟味しているが、これはもちろん三位一体論をテコにしてカトリックをやっつけようとするホッブズの罠である。(ちなみにこのギリシャ語とラテン語の言葉の違いはカトリックと東方教会の教義の違いの根底にあるわけだが、ホッブズはそれを理解しているかどうかは分からない)。三位一体の神をラテン語のペルソナと厳密に理解することで、社会契約論の肝にある「人格」という概念が教会にダメージを与える武器となる。
本書の記述の順番を入れ替えて教会批判パートにおける「人格」の働きを確認したが、世俗社会の説明で「人格」概念がどのように働いているか確認しよう。
「《人間の群衆がどのようにしてひとつの人格となるか》人間の群衆a Multitude of menは、かれらがひとりの人、あるいはひとつの人格によって、代表されるときに、ひとつの人格とされる。だからそれは、その群衆のなかの各人の個別的な同意によって、おこなわれる。なぜなら、人格をひとつにするのは、代表者の統一性であって、代表されるものの統一性ではないからである。そして、その人格をになうのは、代表者であるが、しかしひとつの人格をになうのであり、統一性ということは、群衆については、このようにしか理解されえない。」1巻265頁
「ひとりの人間または人びとの合議体を任命して、自分たちの人格をになわせ、また、こうして各人の人格をになうものが、共通の平和と安全に関することがらについて、みずから行為し、あるいは他人に行為させるあらゆることを、各人は自己のものとし、かつ、かれがその本人であることを承認し、そして、ここにおいて各人は、かれらの意志をかれの意志に、かれらの判断をかれの判断に、したがわせる、ということである。これは同意や和合以上のものであり、それは同一人格による、かれらすべての真の統一であって、この統一は、各人が各人にむかってつぎのようにいうかのような、各人対各人の信約によってつくられる。すなわち、「私は、この人、また人びとのこの合議体を権威づけAthorize、それに自己を統治する私の権利を、与えるが、それはあなたもおなじようにして、あなたの権利をかれに与え、かれのすべての行為を権威づけるという、条件においてである」。このことがおこなわれると、こうして一人格に統一された群衆は、コモンウェルス、ラテン語ではキウィタスとよばれる。これがあの偉大なリヴァイアサン、むしろ(もっと敬虔にいえば)あの可死の神Mortall Godの、生成であり、われわれは父子のImmortall神のもとで、われわれの平和と防衛についてこの可死の神のおかげをこうむっているのである。」2巻33頁
「《コモンウェルスの定義》それは(それを定義するならば)、「ひとつの人格であって、かれの諸行為については、一大群衆がそのなかの各人の相互の信約によって、かれらの各人すべてを、それらの行為の本人としたのであり、それは、この人格が、かれらの平和と共同防衛に好都合だと考えるところにしたがって、かれらすべての強さと手段を利用しうるようにするためである。
《主権者および臣民とは何か》そして、この人格をになうものは、主権者とよばれ、主権者権力Soveraigne Powerをもつといわれるのであり、他のすべてのものは、かれの臣民である。」2巻34頁
上記引用部は、リヴァイアサンにおける社会契約論の核心部分にあたるが、ここでまさに「人格」という言葉が連発されていることに注意しておきたい。「人格」という言葉がなければ、社会契約論を記述することは不可能なのだ。あるいは逆に、「人格」という言葉を厳密に定義しようとすると、どうやら「代表」という概念に絡んで社会契約論的な議論が展開されることになる。そしてこの社会契約論的な「人格」の用法をそのまま神学的な三位一体論の記述に滑り込ませると、「代表」という概念も滑り込んでいき、旧約聖書(父なる神)も新約聖書(救世主)も使徒(精霊)も、世俗の社会契約論と同じ水準で記述できてしまうのだ。三位一体論にペルソナという言葉が使われているからこそ可能になった、アクロバティックな展開である。「万人の万人に対する闘争」どころのアイデアではない(だってそれは既に古代のエピクロス主義が言っていて、ホッブズだけでなく知識人はみんな知っている)。凄いことになっている。どうして先行研究はこの論理展開に注目しないのか。あるいは業界の常識になっていて研究者が触れるまでもないことなのか?
ということで、今後の研究に役に立つこともあろうかと、リヴァイアサンにおける「人格」の用例をできるかぎりサンプリングしておいた。文脈によって意味は微妙に異なるが、分類はまた暇なときにやろう。
「かれ[シドニー・ゴドルフィン]のりっぱな人格」1巻31頁
「ある人が、かれ自身の人格の影像と、他の人の諸行為の影像とを複合させるとき」1巻50頁
「これらの善、悪、軽視すべきという語は、つねに、それらを使用する人格[パースン]との関係において使用されるのであって」1巻100頁
「(コモン・ウェルスがないばあいは)その人の人格から、あるいは(コモン・ウェルスにおいては)それを代表する人格から」1巻100頁
「社交をもとめての、人物[パースン]への愛は、親切とよばれる。」1巻105頁
「そのばあいには、論究はものごとにかんするよりも、人格にかんするものなのである。」1巻120頁
「その人格への信用ではなく、その教義の告白と承認」1巻121頁
「われわれが信頼あるいは信用するのは、話し手または人格であり」1巻121頁
「時と所と人格が識別されなければならない交際と事業のことがら」1巻126頁
「われわれの救世主が、病気にむかって、人格に対するようにかたったことについていえば…」1巻139頁
「人間の力のなかで最大のものは、きわめて多数の人びとの力の合成であって、それは同意によって、自然的または社会的な一人格に合一され、その人格は、かれらのすべての力を、コモンウェルスの力がそうであるように、かれの意志にもとづいて使用しうるか…」1巻150頁
「社会的名誉については、その源泉は、コモンウェルスの人格であり、主権者の意志に依存する。」1巻157頁
「詩人が人格としてかれの詩のなかにいれることができたもので、かれらが神か悪魔かどちらかにしなかったものは、なにもなかったほどであった。」1巻189頁
「自分をおびやかすほどのおおきな力を、ほかにみないように、強力または奸計によって、できるかぎりのすべての人の人格[パースン]を、できるだけながく支配することである。」1巻209頁
「第一は自分たちを他の人びとの人格、妻子、家畜の支配者とするために、暴力を使用し(中略)それらが直接にかれらの人格にむけられたか、間接にかれらの親戚、友人、国民、職業、名誉にむけられたかをとわず、暴力を使用する。」1巻210頁
「どんな法も、それをつくるべき人格についてかれらが同意するまでは、つくられえない」1巻212頁
「すべての時代に、王たち、および主権者の権威をもった諸人格は…」1巻213頁
「権利のこの放置と譲渡がひきおこされる動機と目的は、かれの身がら[パースン]を、その生命において、また声明を嫌悪すべきものとしてではなく維持する手段において、安全に確保することにほかならない。」1巻221頁
「債務の遅延はかれら自身に対する侵害であるが、強盗と暴力は、コモンウェルスの人格に対する侵害なのだからである。」1巻244頁
「えこひいきacception of Persons」1巻250頁
「かれらすべての人格を表現する権利」2巻36頁
「かれらの人格を、それをになっているものから、他の人または人びとの合議体へと、移転させることもできない。」2巻37頁
「神との信約は、神の人格を代表するなにものかの媒介によらなくては、ありえないのだが」2巻37-38頁
「未成年相続者たちの財産と人格を処分する権力」2巻46頁
「人びとがもし、「すべてをいっしょに」というときに一人格としての集合体collective bodyを意味しないならば、そのばあいには、「すべてをいっしょにしたもの」と「おのおの」とはおなじものをあらわし、このことばは背理である。しかし、もし、「すべてをいっしょに」というときに、かれらがそれらを一人格(その人格を主権者がになう)として理解するならば、そのばあいには、すべてをいっしょにしたものの権力とは、主権者の権力とおなじであって、このことばもやはり背理である。」2巻48-49頁
「諸コモンウェルスのちがいは、主権者すなわち、群衆のすべておよび各人を代表する人格の、ちがいにある。」2巻52頁
「各人はその人格をふたりの行為者によって代表されることになり」2巻54頁
「人民の人格をになうもの、あるいはそれをになう合議体の成員であるものは、だれでも、同時にまたかれ自身の自然的人格をもになうのである。そして、かれが自分の政治的人格において、共通利益の獲得に注意ぶかいにしても、しかもかれは、かれ自身とその家族、親戚、友人の、私的な善の獲得については、それ以上あるいはそれにおとらず、注意ぶかいのである。」2巻55頁
「未成年者(中略)かれの人格と権威の管理者および保護者として」2巻58頁
「かれらは、ひとつの人格に統治されたのであり、それはローマの市民については、市民の合議体すなわち民主政治であったが、しかし、統治に参加する権利をまったくもたないユダヤの人民については、君主であった。」2巻62頁
「臣従する人格[パースン・サブジェクト]のなかにある」2巻63頁
「ある人の人格に対して支配をもつものは、かれが有するすべてに対してもそうなのであって、そうでなければ支配は、効果のない称号にすぎない」2巻74頁
「あるいは、政治体および法人格Persons in Lawともよばれる」2巻106頁
「かれが団体の人格においてすること」2巻109頁
「かれは自分以外のなにものの人格をも代表しない」2巻109頁
「政治体の人格がひとりの人にあり」2巻110頁
「統治の運営はさまざまな人格に委任される」2巻113頁
「植民地のだれかの身柄[パースン]や財貨」2巻114頁
「全国を代表する一人格をもってする」2巻119頁
「代表的な一人格において結合されるから、正規とみなされる」2巻120頁
「自分たちを代表的な一人格に結合する」2巻120頁
「なにか外国の人格の権威」2巻120頁
「権威をもってそのコモンウェルスの人格を代表する」2巻128頁
「かれらは代表的人格に奉仕するものであって」2巻130頁
「一兵士は、命令権をもたなければ(中略)その人格を代表するのではない。」2巻130頁
「かれらはの裁判の席において、主権者の人格を代表し」2巻131頁
「これらの公共的人格は、自然人の肉体における発声諸機関に比較するのがふさわしい」2巻133頁
「諸外国に対して、かれら自身の主権者の人格を代表する人びと」2巻133頁
「仕事は私的であり、自然的資格におけるかれに属しているのだから、私的人格である。」2巻134頁
「それは公共的人格ではない」2巻134頁
「コモンウェルスの人格に対しては、かれの忠告者たちが、記憶と心の説話のかわりをつとめる」2巻156頁
「それより少数の、もっとも精通している諸人格からなり」2巻160頁
「市民法については、命令する人格の名称だけがつけくわえられるが、それは都市の人格Persona Civitatisすなわちコモンウェルスの人格である。」2巻163-164頁
「コモンウェルスは人格ではないし、代表(すなわち主権者)によらなければなにをする能力もない」2巻165頁
「どのような人格にとっても、かれ自身に拘束されることは不可能」2巻165頁
「コモンウェルスは、その代表においてただひとつの人格であるから」2巻170頁
「コモンウェルスの人格においては、公正と理性に一致するものとつねに想定される」2巻173頁
「特定の一国民または特定の諸人格だけにつげられるもの」2巻189頁
「ひとりまたは数人の人格に対してなされる諸侵害」2巻221頁
「一私人に対する犯罪もまた、人格と時と所によって、おおいにおもくなる。」2巻222頁
「有罪とされる人格を、本人としてもたない」2巻227頁
「コモンウェルスの人格としてでなく、かれの自然的人格として考察された」2巻236頁
「それはひとつの独立のコモンウェルスではなくて、三つの独立の分派であり、また、ひとつの代表人格ではなくて、三つのそれである。神の王国では、三つの独立の人格が、おさめる神における統一をやぶることなく存在しうるが、しかし意見の相違をきたしがちな人間たちがおさめるところでは、それはそうではありえない。したがってもし、王が人民の人格をにない、一般的合議体もまた人民の人格をにない、もうひとつの合議体が人民の一部の人格をになうとすれば、かれらはひとつの人格でもひとりの主権者でもなく、三つの人格と三人の主権者なのである。」2巻251頁
「反乱によって自然的人格におけるかれ自身におよぶべき危険」2巻263頁
「富裕で有力な人格も、貧乏で無名の人格も」2巻270頁
「上流の諸人格[グレート・パーソンズ]」2巻271頁
「かれら自身の人格についてのみならず、さらにおおくの人格について、債務者でありうる」2巻272頁
「賦課の平等は、消費する人格の財産の平等よりもむしろ、消費されるものの平等にある」2巻272頁
「私的諸人格の慈恵にまかせられるべきではなくて」2巻273頁
「忠告する諸人格は、忠告される人格の諸構成員なのだから」2巻278頁
「隊長の人格だけでなくその大義名分をも愛しているばあい」2巻281頁
「神は、そういうようにしてではなく、個別的な諸人格に、そして、ちがった人びとにちがったことを、かたる」2巻287頁
「公共的なとは、コモンウェルスがひとつの人格として遂行する崇拝である。」2巻293頁
「コモンウェルスは、ただひとつの人格であるから」2巻299頁
「これら三つは、それぞれのときにおいて、神の人格を代表した。」3巻48頁
「しかし、教会は、もしそれがひとつの人格であるならば、キリスト教徒のコモンウェルスとおなじものであって、それは、ひとつの人格すなわちかれらの主権者において合一した、人びとからなるために、コモンウェルスとよばれ、そして、ひとりのキリスト教的主権者において合一した、キリスト教的な人びとであるために、教会とよばれる。けれども、もし教会が、ひとつの人格でないとすれば、そのばあいには、それはまったく権威をもたない。」3巻50-51頁
「神の人格においてかたっている」3巻67頁
「どんな国の王も、公共の人格であり」3巻87頁
「その主権者すなわち公共の人格の、国民である。」3巻88頁
「神はときどき、かれがその人格を容認していなかった預言者たちによってかたる」3巻116頁
「侵犯された人格person offended」3巻159頁
「《どんな意味で教会は一人格であるのか》そして、このさいごの意味においてのみ、教会はひとつの人格と解されうる。すなわち、それは、意志し、断定し、命令し、服従され、諸法をつくり、あるいはなんであれその他の行為をする力を、もつものといわれうるのである。」3巻166頁
「イスラエル人にたいして神の人格[パースン]を代表した」3巻174頁
「地上で神の人格を代表する人びとの法」3巻176頁
「政治的および教会的権力は、ともに、一にして二ならぬ人格、すなわち祭司長において、結合されていた」3巻178頁
「神の人格、すなわち父である神の人格を、代表した」3巻186頁
「他の主権者人格」3巻211頁
「その神の人格は」3巻219頁
「べつべつの人格の代行者」3巻260頁
「公共収入は、公共的人格であったもの、そして(捕囚までは)王であったものの、処理にゆだねられていた」3巻264頁
「精霊によって意味されるものが、三位一体における第三の人格ではなくて、牧者の職務にとって必要なおくりもの(資質)であることに、注意されたい。」3巻278頁
「救世主がかれの教会を聖ペテロの身がらPersonのうえにたてることを意図して」3巻285頁
「ある一人格としての特定的な反キリストがあり」3巻289頁
「臣従、指揮権、権利、権力は、諸権力のではなく諸人格の、偶有性なのだから」3巻318頁
「自然の肉体の四肢が、それらをいっしょにしておくひとつのたましいの欠如のために、解体して土になる」3巻321頁
「手段の運営における一人格の他の人格への臣従」3巻321頁
「異端とは、公共的人格(いいかえればそのコモンウェルスの代表者)がおしえられるべきだと命令した意見に反対して、頑強に保持された私的な意見」3巻324頁
「《キリスト教徒の信仰において信じられるべき人格はだれであるか》(前略)われわれが信じる人格についていえば、その人がなにをいうかをわれわれがしるまえには、いかなる人格を信じることも不可能なのだから(中略)アブラハム、イサーク、ヤコブ、モーシェおよび預言者たちが信じた人格は、かれらに超自然的にかたりかけた、神自身であった。そして、キリストとことばをかわした使徒たちおよび弟子たちが信じた人格は、われわれの救世主自身であった。しかしながら、父なる神もわれわれの救世主も、かつてかたりかけたことのない人びとについては、かれらの信じた人格が神であったとはいえない。(中略)現在ではキリスト教徒が神からのはなしかけをきく唯一の人格なのである。(中略)特別の啓示をもたぬすべての人びとが信じるべき人格は、(どのコモンウェルスにおいても)、最高の牧者、いいかえれば政治的主権者なのである。」3巻341-342頁
「すべてのキリスト教徒に対してかれの人格を代表すべきだとか」4巻21頁
「それぞれに人格において、および全三位一体において」4巻28頁
「かれらの個別的な人格において、生殖という種の永遠性なしに、永遠に生きる」4巻44頁
「それは種族の不死性であるけれども、人びとの人格(身がら)のそれではない。」4巻46頁
「かれらの人格の名誉のため」4巻48頁
「三位一体の第三の人格である精霊にそむいてかたることは、精霊がすんでいる教会にそむいてかたることである」4巻50頁
「かれらの死んだ友人たちの人格にかわって」4巻51頁
「教会とコモンウェルスとは同一の諸人格であるから」4巻140頁
「キリストの代行者の人格」4巻149頁
「知恵の人格においてかたられたソロモンのことば」4巻221頁
「もし、武力と財力が、ひとつの人格の手のなかにあつめられていないならば、権力はただのことばであって」4巻226頁
最後に、これほど「人格」という言葉を連発したリヴァイアサンが、ついぞ一回たりとも「個性」という言葉を使用しなかったことには注意しておくのがよいだろう。完全な近代は、「人格」と「個性」が出そろったところで始まる。つまりリヴァイアサンは、まだ近代ではない。
【個人的な研究のための備忘録】教育
ホッブズの論理から言えば脇筋ではあるが、教育学者である以上は「教育」に関わる記述も気になるところだ。まず注目すべきところは、ホッブズが心身の能力において諸個人が平等だと前提しているが、知力の格差の原因を「情念」の違いに見出している点だ。
「知力のこのちがいの諸原因は、諸情念にある。(中略)もっともおおく知力のちがいをひきおこす諸情念は、主として、力、財産、知識、名誉に対する大小の意欲である。それらすべては、第一のものすなわち力への意欲に、帰着させうる。」1巻130頁
文部科学省流の学力の三要素に落とし込めば、「主体的な態度」に対応するところか。
続いて、「教育権」の記述に注目するが、ここはホッブズの表記が揺れているところだ。全体を通じてみても、教育権がコモンウェルスの主権者にあるのかカトリック教会にあるのか判然としないところだが、おそらく「キリスト教に改宗した主権者」か「異教徒の主権者」かで話が異なっていて分かりにくいのが原因だと推測する。
「《人民の指導のためのもの》つぎのような権威をもつ人びともまた、公共的代行者である。すなわち、人民に対して、主権者権力に対するかれらの義務をおしえ、何が正しく何が不正であるかの知識についてかれらを指導し、そうすることによって、かれらがますます、かれらのあいだで敬虔に平和に生活し、公共の敵に抵抗しようという、傾向をもつようにする、あるいは、他の人びとがそれらのことをするのを可能にする、という権威である。(中略)君主または主権合議体だけが、人民を教育し指導するという権威を、神から直接に有するのであり、他のだれでもなく、主権者だけが、ただ神のめぐみによってDei gratia、いいかえれば、他のなにものでもなく神だけの好意によって、かれの権力をうけとるのである。」2巻130-131頁
「主権者の職務は、(それが君主であれ合議体であれ)、かれがそのために主権者権力を信託されたところの、目標に存する。それはすなわち、人民の安全の達成であって、かれは、自然の法によってそれへ義務づけられ、その法の創造者である神に対して、しかもかれのみに対して、それについて説明するように義務づけられる。(中略)
そしてこのことは、個々人に対して、かれらが不平をうったえるばあいの、諸侵害からの保護以上に与えられる配慮によってではなく、学説および実例による公共的指導[パブリック・インストラクション]と、個々の人格がそれに対して自己のばあいを適用しうるよい法の、作成および実施とのなかにふくまれる、一般的な慎慮によって、なされるように意図されている。」2巻259頁
上記引用部では、臣民への教育権を持つのは明らかにコモンウェルスの主権者であり、さらに注目されるのは「神」に対して責任を持つとしているところだ。社会契約論(政治)においては、主権者の権力の源は臣民たちの同意と服従にあるが、教育に関しては「神」が召喚される。つまり、ホッブズにあっては政治を語る言葉と教育を語る言葉は完全に異なっている。
続いて、親の教育義務について触れている。
「そして、子供たちの最初の指導は、かれらの親たちの配慮にもとづくのであるから、かれらが親たちの補導下にあるあいだは、親たちに対して従順であることが必要である。それだけではなく、かれらが、のちになっても、(報恩が要求するように)、尊敬の外的なしるしによって、親たちによる教育の便益をみとめることが必要である。この目的のためにかれらがおしえられるべきことは、ほんらい各人の父は、かれに対して生殺の権力をもつ、かれの主権者的主人であったことであり、そして、諸家族の父たちが、コモンウェルスの設立にさいしてその絶対権力をゆずりわたしたばあいにも、かれらが与えた教育に対してうけるのが当然な尊敬を、うしなうべきだとは、けっして意図されなかったことである。なぜなら、こういう権利の放棄は、主権者権力の設立に必要ではなかったし、また、人びとがのちに子供からうける便益が、もし他人からのそれとおなじであるとすれば、だれも、子供たちをもとうと意欲したり、かれらを養育し指導するように配慮したりすべき理由は、なにもないだろうからである。」2巻266-267頁
ここでホッブズは極めて重要なことをさらりと言っている。教科書ではリヴァイアサンでは絶対権力とされているが、その絶対権力には「親が子どもの教育から尊敬と便益を受ける権利」は含まれていないのだ。究極の絶対権力の下にあってすら、政治と教育の論理は異なるのである。
そしてホッブズは現実の大学教育や人文主義を非難する。
「したがってあきらかに、人民の指導は、大学における青年のただしい教育に、まったく依存する。(中略)ヘンリ八世のおわりごろまで、法王の権力が主として大学によって、つねにコモンウェルスの権力に反対して支持されたこと、および、そこで教育をうけたあれほどおおくの説教者によって、また法律家やその他の人びとによって、王の主権者権力に反対する諸学説が主張されたことは、大学が、それらの虚偽の学説の創造者ではなかったにせよ、真実のものをいかにしてうけつけるべきかを知らなかったという、十分な証拠である。」2巻269-270頁
「《ギリシャ人たちの学校は有益でない》(前略)かれらの読書と論争によって獲得されたどんな科学が、今日存在するか。すべての自然科学の母である幾何学について、われわれがもつものについて、われわれはそれらの学校のおかげをうけてはいない。(中略)自然科学において、今日アリストテレースの形而上学とよばれているもの以上に背理的なことを、なにもいうことはできないし、彼がその政治学においていったことのおおくよりも、統治に反することを、またかれの倫理学の大部分よりも無知なことを、なにもいうことはできない。
《ユダヤ人の学校は無益である》」4巻110-111頁
「プラトーンは、かれ自身すぐれた哲学者であり幾何学者であったが、それは学校のおかげではなかった。」4巻217頁
「《大学とはなにか》現在、大学とよばれているものは、同一の町または都市にあるおおくの公共的な学校を、ひとつにまとめたもの、ひとつの統治のもとに一体化したものである。そのなかで、主要な諸学校は、三つの職業すなわちローマの宗教、ローマの法律、医術のためのものとして、制定された。そして、哲学の研究のためには、大学は、ローマの宗教の侍女としての場所しかもっていない。」4巻112頁
ホッブズは現実の大学教育の内容が反国家的だと非難している。どこかで見た風景だ。またアリストテレスのことがそうとう嫌いらしく、折に触れて強烈に非難している。
で、問題になるのは教育に関わる教会の権力である。
「《教会権力とはおしえる権力にすぎない》(前略)われわれの救世主によってかれらにはなんの強制権力ものこされていないで、つぎのような権力、すなわち、キリストの王国を布告し、人びとがみずからそれに服従するように、かれらを説得し、服従した人びとに、おきてとすぐれた忠告によって、神の王国がきたときにそれにうけいれられるためには、なにをなすべきかを、おしえる権力だけがのこされているということ、そして、使徒たちやその他の福音の代行者たちが、われわれの学校教師であって、われわれの指揮者ではなく、かれらのおきてが法ではなく有益な忠告にすぎないということが、あきらかになるとすれば、そのばあいには、それらの議論はすべてむなしいであろう。」3巻207頁
「ようするに、破門の権力は、教会の使徒たちと牧者たちが、かれらの使命をわれわれの救世主からうけたことの目的をこえては、拡大されえない。その使命とは、命令と強制によって指導することではなく、きたるべき世界における救済への道に、人びとをおしえ方向づけることによって、指導することである。そして、どの科学の教師でも、かれの弟子が、かれが指導することの実行を頑強に無視するならば、その弟子をすててもいいけれども、しかし、その弟子はけっしてかれに服従するように拘束されたのではないから、弟子にたいして不正義の非難をしてはならないのであって、これとおなじように、キリスト教の教義の教師も、頑強に非キリスト教的な生活をつづけるかれの弟子たちをすてていいけれども、しかしかれは、かれらがかれにたいして不正をなしたということはできない。なぜなら、かれらは、かれに服従することを義務づけられてはいないからである。」3巻231-232頁
「法王の権力は、かれが聖ペテロであったにしても、君主政治ではなく、また首長的あるいは有力者的ななにものでもなく、教師的Didacticallななにかであるにすぎない。」3巻311頁
上記引用部だけ読めば、カトリック教会に服従させる権力はなくとも、少なくとも「おしえる権力」は保持しているように読める。しかしどうやらそうではない。
「おのおののコモンウェルスにおいて、政治的主権者が最高の牧者であり、かれの臣民たちという羊のむれの全体が、かれの責務にゆだねられ、したがって、かれの権威によって他のすべての牧者がつくられ、おしえる権力をもち、他のすべての牧者としての職務を遂行する、ということからすれば、とうぜんにまた、つぎのことがでてくる。すなわち、他のすべての牧者が、その職務に属する、教授、説教、その他の諸機能についての権利をひきだすのは、政治的主権者からであること、かれらはかれの代行者たちにすぎず(中略)これについての理由は、おしえる人びとがかれの臣民であるからではなく、まなぶべき人びとがそうであるからなのである。」3巻270-271頁
「キリスト教の博士たちは、キリスト教についてのわれわれの学校教師である。しかし王たちは諸家族の父であり、かれらの臣民たちのための学校教師たちを、ひとりの外来者のすいせんによってうけいれるかもしれないが、その外来者の命令によってはそうしない。」3巻271頁
「各主権者は、キリスト教以前に、おしえる権力、教師叙任の権力をもっていたのであり、したがってキリスト教はかれらに、あたらしい権利をあたえたのではなく、真理をおしえる道にかれらをみちびいたにすぎない。」3巻279頁
どうやら「おしえる権力」なるものも教会が本来的に保持しているわけではなく、主権者の代行として許されているに過ぎないようだ。この部分が分かりにくいのは、おそらく「キリスト教に改宗した主権者」と「異教徒の主権者」によって「おしえる権力」の実際の運用が異なるからだろう。
ホッブズは、自らの見解がどういう扱いを受けるかについて、以下のように言及する。
「キリスト教のコモンウェルスをあつかう部分のなかには、いくつかのあたらしい学説があって、それはおそらく、その反対がすでに十分に決定された国家においては、公表の許可をもたない臣民としては、まちがいであろう。それは教師の地位を、僭取することだからである。」4巻169頁
あくまでも「教師の地位」はコモンウェルスの主権者が決める者であって、ホッブズ個人の自由になるものではないらしい。
また教育に関しては、以下の記述は興味深い。
「しかし、もし、おしえることが信仰の原因であるならば、なぜすべての人が信じないのか。だから、たしかに、信仰は神のおくりものであって、かれはそれを、かれがあたえたいとおもうものだけにあたえるのだ。それにもかかわらず、かれは、それをあたえる人びとにたいして教師たちをつうじてあたえるのだから、信仰の直接の原因は、きくことなのである。学校において、おおくの人がおしえられ、ある人は利益をえて他の人はそうではないが、利益をえる人における学識の原因は、教師である。それでも、そこから、学識は神のおくりものではないと、推論することはできない。すべての善なるものごとは、神からでてくる。」3巻344-345頁
どうして人は「教えられたものごとを理解することができるのか」という問題である。ただちにアウグスティヌス「教師論」の論理を想起するところだ。
ほか、教育に言及した箇所をサンプリングしておく。おそらくラテン語の原語はそれぞれ違っている。ここまで出てきた「教育」についても、educationではないはずだ。
「これらの双方[勇気と臆病]が、同一の人格のなかに両立するのは不可能だと、人びとはいうのである。(中略)それにたいして、わたくしは、これらはたしかにおおきな困難ではあるが、不可能なことではないとこたえる。なぜなら、教育と規律によって、それらは和解させられうるし、ときどき和解させられているのだからである。」第4巻158頁
「第一の意味において、大地に投下された労働は、育成Cultureとよばれ、子供たちの教育は、かれらの精神の育成とよばれる。」2巻291頁
【個人的な研究のための備忘録】大航海時代
本書には、大航海時代の知識を前提とした記述を散見することができた。メモしておく。
「虚偽の哲学の導入に、われわれは、真理の判定者たる能力を合法的な権威によっても充分な研究によってももたぬ人びとが、真実の哲学を抑圧することをも、むすびつけていい。対蹠人というものがいることを、われわれ自身の諸航海は明白にするし、人間の諸科学についての学識があるすべての人びとは、いまでは承認する。」4巻134頁
【個人的な研究のための備忘録】ラテン語
ラテン語に対する見解もメモしておく。
「かれらが教会とかれらの公共的行為との双方において使用する言語もまた、ラテン語であって、それはこんにちの世界のどの国民によっても、ふつうには使用されていないのであるが、それは、ふるいローマの言語の幽霊以外のなにものであろうか。」4巻150-151頁
【個人的な研究のための備忘録】有機体論
本書はもちろん最初から最後まで徹頭徹尾「国家有機体論」で記述されているわけだが、国家にとって都合の悪いものを「ガン」だと表現しているのはどれくらい一般的に見られるのか。
「合法的なものは筋肉に、非合法なものは、わるい体液の不自然な合流によって生じさせられた、こぶや胆汁や膿腫と比較されうるのである。」2巻125頁
【個人的な研究のための備忘録】子ども
この時代は、もちろん子どもは人間と見なされていない。関連記述をメモしておく。
「それは、ちいさな子どもたちが、よい態度わるい態度について、自分たちの親や教師からうける匡正のほかには、なんの規則ももたないようなものであって、ただちがうのは、子どもたちはかれらの規則に忠実であるのに、人びとはそうではないということである。」1巻176頁
「法は命令であり、命令は、命令するものの意志の、声や書面やその他の、それについての十分な証拠による、宣告または表示であるが、われわれはこのことから、コモンウェルスの命令は、それを知る手段をもっている人びとに対してのみ法であることを、理解しうる。うまれながらの白痴や、子供たちや狂人たちに対しては、野蛮な獣に対するとおなじく、法は存在しないし、かれらは正または不正という称号を与えられる資格がない。」2巻171頁
「ただ子供たちと狂人たちだけが、自然法に対する犯行から免罪されるのである。」2巻213頁
■ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(1)』岩波書店、1954年
■ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(2)』岩波書店、1964年
■ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(3)』岩波書店、1982年
■ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(4)』岩波書店、1985年