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【要約と感想】会田雄次・渡辺一夫・松田智雄『ルネサンス』

【要約】タイトルは「ルネサンス」となっていますが、実はルネサンスを直接検討の対象とした本ではありません。マキアヴェッリ、エラスムス、トマス・モア、ルターの4人の思想と著作に関するエッセイ集です。著者が3人いて、ルネサンス観はそれぞれバラバラです。

【感想】中公バックス『世界の名著』冒頭の「解説」をある共通項に沿って一冊にまとめた叢書で、本書はルネサンスが一応の共通項。中公バックス『世界の名著』の解説は、原著者の履歴や内容の説明だけでなく、学問の歴史における位置づけや、日本が受容した経緯、その時点での最新研究動向などがコンパクトにまとまっている上に、解説者個人の関心や研究姿勢が伺えるエッセイ風の読み物としても読み応えがある。本書も斯学の泰斗の筆が冴えているのではあるが、ただしタイトルにもなっている「ルネサンス」について理解を深めようとすると、肩すかしを食らう。というか混迷が深まる。というのは、そもそも中公バックス発行当初の「解説」がルネサンス概念を明らかにしようという目的で書かれたものではないからだ。そしてもちろん著者3人で打ち合わせたわけもないので、ルネサンス観もバラバラ、共通点が見当たらない。「いわゆるルネサンスと呼ばれる時期に活躍した思想家3人のごった煮」という副題が相応しいかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンスの定義
 ルネサンスに関わる記述があったので、メモしておく。

ルネサンスとは周知のように、一四世紀のイタリアにはじまって全ヨーロッパにひろがった、ギリシアーローマの古典復興の運動をいう。中世の暗黒時代が去って、人々が封建制とローマ教会によって歪められた人間性を回復し、現実主義、合理主義にのっとって生きようとしだしたとき、かつてそういう立場で輝かしい文化と社会を築いたギリシアーローマ時代を再現しようとした運動である。」17-18頁。会田執筆「マキアヴェリ」

 ブルクハルト(1860年)以来の教科書的な見解である。しかしこの解説が書かれた時点で、既にこの教科書的見解には様々な疑義が寄せられている。著者(会田)もおそらくそのことを知っており、この文章の後にはイタリア・ルネサンスを可能にした北イタリアの経済史的条件についての解説が続く。グローバルな商業活動と羊毛産業による潤沢な資本を背景として北イタリア諸都市に大商人を中心とする共和的な政体が生まれ、それが世俗的で合理的な考え方を育んだという、わかりやすい図式だ。しかし一方その共和的な政体は、もちろん当時ヨーロッパで立ち上がりつつあった絶対王政へは向かわない。その弱点はフランスや神聖ローマ帝国による侵略という形で露呈する。この共和制と絶対王政の相反する2つのベクトルの力学から『君主論』が登場するという筋立てで、マキアヴェッリはこの矛盾の解決を「決断」と「力(ヴィルトゥ)」に見出した、と会田は見る。ここまでくると、実は本当の問題は「いわゆるルネサンス」にはなく、お互いに無関係に急速に発展する経済と政治との間の矛盾であることが分かる。ホイジンガ風に、「内容と形式」の間の矛盾と言っていいだろうか。

【今後の研究のための備忘録】ユマニスムの定義
 ユマニスム(日本語では伝統的に「人文主義」と訳される)の定義についてもメモしておく。著者の意見ではなく、フランス人歴史家の言である。

「ヘブライ、ギリシア、ローマなどの古代の学芸の復興から糧を与えられた人々が、まず具体的には、福音精神の探究と聖書の再検討という形でキリスト教の自己批判を要求し、ひいては既成のさまざまな制度や学芸にも批判を加え、より血の気の通った(humanior)制度・学芸を招来しようと望んだのが、人文主義(ユマニスム humanisme)の最初の姿であると考えたい。」94-95頁

 教科書的な「人文主義」の定義からすると圧倒的に控え目な言い方になっていて、ここからは「中世を脱して近代へ向かう」ような強烈なエネルギーは感じられない。それは著者(渡辺)も踏まえていて、「生ぬるいほどの正気」(95頁)と評している。
 思い返してみれば、ユマニストたちが対峙したスコラ学の形式的表現には、たしかに寸分の血の気も通っていないような印象を持つ。ユマニストたちがスコラ学の「哲学」に対して「雄弁」を重んじた事情もある程度理解できる。しかしそれは、自然科学に通じるアリストテレス主義を批判し、キケロを経由してプラトンを称揚する貴族主義的な姿勢であって、近代の啓蒙主義にも民主主義にも繋がらない。むしろ社会契約説も含めて、近代化への傾向に関してはプラトンよりもエピクロスの方が重要ではないか(だからヴァッラは侮れない)。だとすれば、実はヨーロッパの近代(資本主義と民主主義)は、スコラ学でも人文主義でもないところから立ちあがってくるのではないか。たとえばコペルニクスは、どういうふうに人文主義の文脈に回収できるのか。アリストテレス主義から説明する方が素直に分かりやすいのではないか。むしろいわゆる人文主義は、勃興しつつある唯物主義・拝金主義的な資本主義の世相に対する道徳主義・高踏主義的な反動だったのではないか。ペトラルカが徹底的に批判したようなところ(アリストテレス主義に基づく自然探求)からホンモノの近代が立ちあがってきたのではないか。そういう疑問に本書はまったく答えてくれないのだが、もちろんそれは著者たちのせいではない。
 そんなわけで、ルネサンスや人文主義というものに対する理解がますます混迷の度を増していくのであった。

会田雄次・渡辺一夫・松田智雄『ルネサンス』中公クラシックス・コメンタリィ、2008年

【要約と感想】エラスムス『平和の訴え』

【要約】権力者たちは戦争ばかりします。権力者たちは、自分の欲望を満足させれば、いくら人が死んでも平気です。狂っています。平和を愛する一般民衆が力を合わせて、権力者たちの横暴を止めましょう。それがキリスト教本来の精神ってもんでしょう。

【感想】本書が出版されたのは西暦1517年。ルターが宗教改革の口火を切る「九十五箇条の提題」を掲げた年でもあるが、今からもう505年も前のことだ。しかし言っていることは、今でも通じる。というか、ロシアがウクライナに侵攻してから10日経ち、戦火が広がる今だからか、むしろ迫力がある。

「大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和を悲願しています。ただ、民衆の不幸の上に呪われた栄耀栄華を貪るほんの僅かな連中だけが戦争を望んでいるにすぎません。こういう一握りの邪悪なご連中のほうが、善良な全体の意志よりも優位を占めてしまうということが、果たして正当なものかどうか、皆さん自身でとくと判断していただきたいもの。」76節、96頁

 500年経っても人間が進歩していないというのは、とても悲しいことだ。

【研究のための備忘録】ナショナリズム
 ナショナリズムに関する興味深い言質を得た。

「というわけで、イングランド人はフランス人を敵視していますが、その理由はといえば、それはただフランス人であるということのほか何もないのです。イングランド人はスコットランド人に対し、ただスコットランド人というだけのことで敵意をいだいているのです。同じように、ドイツ人はフランス人とそりが合わず、スペイン人はこれまたドイツ人ともフランス人とも意見が合いません。ほんとうにまあ、なんというひねくれ根性!(中略)なぜ人間が人間にたいして好意をもてないのでしょうか? なぜキリスト教徒がキリスト教徒に対して好意が持てないのでしょうか? (中略)それぞれの祖国にただ違った名前がついているというだけで、国民を駆りたてて他国民の絶滅に征かせるのが正しいと思うのでしょうかしらね?」59節、78-79頁

 16世紀初頭の段階で、現代に通じるナショナルな感覚が定着していたことを伺うことができる。が、こういうナショナルな感覚は、12世紀の段階ではまだ成熟していなかったはずだ。13世紀~16世紀の間に何が起こったかを理解することは、ナショナリズム(あるいは近代国家の成立)を考える上で極めて重要だ。そしてエラスムスが、そういうナショナリズムの感覚を人文主義的な立場から軽蔑しているのも印象的だ。

【研究のための備忘録】人間の平等
 さすが人文主義の王エラスムスだけあって、「人間」というものに対する洞察が簡潔に示されている。

「洗礼はすべての人にとって共通のものです。そのおかげで、われわれはキリストにおいて蘇り、この俗世から切り離されてキリストの四肢に合入されてしまうのでし。それにしても、一つの肉体の各部分以上に同じ一体をなしているものが、他に何かあるでしょうか? 誰であろうと、洗礼を受けた後は、奴隷でもなく、自由民でもなく、異邦人でも、ギリシア人でもなく、男でも、女でもありません。あらゆる人がすべてを和合させるキリストに帰して一つとなるのです。」30節、47頁

 ここでは形式的にはキリスト教における平等が説かれているのだが、本質的にはあらゆる人間の平等が説かれている。性別も国籍も関係なく、「みんな同じ人間」であることが強調されている。これは古代ギリシアやローマにはあり得なかった考え方だし、中世キリスト教に萌芽はあるものの、全面的に展開するのは16世紀人文主義以降のことだ。この「みんな同じ人間」という意識を打ち出したことこそが人文主義の決定的な成果であり、近代化への大きな一歩だ。こう、「同じ人間」だと思えば、鉄砲の引き金は引けない。

エラスムス『平和の訴え』箕輪三郎、岩波文庫、1961年

【要約と感想】マキアヴェッリ『君主論』

【要約】君主の中でも特に新しく権力を奪取した立場に限れば、綺麗事を言っている場合ではありません。権力を維持したければ、現実を直視し、ありとあらゆる手練手管を用いて、果敢に運命に立ち向かいましょう。特に重要なのは、自前の軍事力を確保することです。

【感想】岩波文庫版は注釈と解説で分量のほぼ半分を占め、半ば研究書のようで読み応えがある。
 教科書にも出てくる本で書名はよく知られていると思うのだが、中身を実際に読んでみると、世間一般で言ういわゆる「マキアヴェリズム」とは、なんとなく様子が違っている。まず、確かに「目的のためなら手段を選ばない」という話を展開してはいるのだが、前提として条件をかなり限定している。たとえば、歴史が長い国の正統性ある君主であれば特に無理をして策を弄する必要はないと言う。無理をする必要があるのは、無理をしなければいけない条件の君主に限られる。具体的には、新たに権力を奪取して政権基盤の安定しない君主は、権力を維持するために、ありとあらゆる手練手管を用いなければならない。まあ、そりゃそうだ。
 また、無闇矢鱈に権力闘争を推奨しているわけではなく、古典的な教養に基づいて具体例を豊富に提示しながら議論を進めているのも印象的だ。マキアベッリが活躍したのは15世紀後半から16世紀前半で、北イタリアでは印刷術が隆盛し始めた時期に当たる。まったく同時期に、ピコ・デラ・ミランドッラ、エラスムス、トマス・モアたちが活躍している。印刷術を土台にした人文主義の雰囲気が背景にあるのは間違いないように思う。いわゆる「マキアヴェリズム」も、プラトン『国家』なり「君主の鑑」などに対する知的パロディのようにも読める。
 またタイトルが「君主論」となっているので表面的には絶対王政的なものを推奨しているように思えるものの、実際には共和政の精神を尊重しているように見える。やはりフィレンツェという街の歴史と伝統の影響は極めて大きいだろうと思う。商工業で発展し、自由と世俗性を謳歌し、しかも古代ローマ共和政の伝統を引き継いでいるという自負を持つフィレンツェの伝統と文化を背景に、本書は成り立っているのだと思う。
 キリスト教に対する冷淡な姿勢も気になるところだ。教会をコケにする点ではフィレンツェの大先輩ボッカッチョに較べて大したことがないとはいえ、本書が成立した時期がまさにルター宗教改革(1517年)の前年(1516年)だということを考え合わせると(出版は宗教改革後)、「人間中心主義」へ結実する流れの一つとして考えてみたくもなる。実際に、カトリック教会からは禁書に指定されている。中世から近代へと時代が移り変わる流れを考えると、1516年~1517年はそうとう重要なタイミングだったように見えてくる。

 さて同じ頃に我が国は戦国時代に突入しているわけだが、フィレンツェが置かれていた状況は信州真田家を彷彿とさせる。西から武田、北から上杉、南から北条に圧力をかけられる上田の状況は、まさにフランス・神聖ローマ帝国・ローマ教皇の三者に囲まれて右往左往するフィレンツェの状況とよく似ているように思えてしまう。真田昌幸が『君主論』を読んだとしたら、「そりゃそうだ」と言いそうなものだが、どうか。逆に言えば、織田信長や豊臣秀吉が読んだとしたら、「違う違うそうじゃない」で終わりそうでもあるのだった。帝王学の本ではない。話がセコいのである。
 マキアヴェッリから遡ること250年(モンゴル帝国の最前線がヨーロッパにまで届いている時期)、シチリア王シャルル・ダンジューが画策していたのは、北イタリア統一どころか、ビザンツ帝国をやっつけてコンスタンティノープルを占領し、十字軍も絡めてシリアやエルサレムをも包含し、南仏から東地中海一帯を総攬する大帝国(まさにかつてのローマ帝国)を作り上げることだった。いいか悪いかは別として(平和の観点からは最悪だが)、壮大な天下統一構想だ。織田信長や豊臣秀吉なら、断然こっちの話に身を乗り出すだろう。こういう天下統一を志す世界戦略の視点に立つと、『君主論』の話はセコすぎて何の役にも立たない。逆に、信州真田家には役に立つ。つまり『君主論』は、天下統一を目指すための指南書なんかではなく、生き馬の目を抜く苛酷な現実の中で、それでも弱者が自由を維持して生き残るために知恵を振り絞った、切実な本だったと理解するところだろう。

 さて、この後、フィレンツェは共和政体を失い、急激に存在感を失っていく。レオナルド・ダ・ビンチがイタリアを去ってフランスへ向かったのは、まさに『君主論』が成立しただろう年のことだ。ルネサンス期にはヨーロッパ最先端を走っていた街が急激に落ちぶれてしまったのは、新大陸発見によって地政学的な位置関係が急激に変化したという事情が大きいだろうけれども、ダンテ・ペトラルカ・ボッカッチョと続いたフィレンツェの人文主義が最後っ屁のように放ったのが、マキアヴェッリだった。美術史においてはラファエロの死(1520年)を以て「ルネサンスの終わり」としているようだが、思想史的には『君主論』を以て「ルネサンスの終わり」と見なすのも一興かもしれない。

マキアヴェッリ『君主論』河島英昭訳、1998年、岩波文庫

【要約と感想】『エックハルト説教集』

【要約】神は否定の否定であるところの一なるものであり、魂もまた同じです。一なるものの内には、神もわたしもなく、私は神であり、神はわたしです。「神」のない最内奥の光こそ、この世界のすべてを超えた浄福です。

【感想】エックハルト「獣を超え、人を超え、そして神になる。」
信徒「おお、言葉の意味は分からんが、とにかくすごい自信だ!」

【今後の研究のための備忘録】新プラトン主義
 言っている内容の大半は、ほぼ新プラトン主義の主張を素直に繰り返しているだけのように見える。具体的には「一なるもの」に対する強烈な信仰と、それに基づく自己言及的な流出論である。プロティノスやプロクロスを直接参照しているというよりも、アウグスティヌスおよび偽ディオニュシオス・アレオパギテースからの影響なのだろうけれども、プラトンという固有名詞にも直接言及している箇所がある。

「ところで、大いなる事物について語るのを好む偉大なる師プラトンは、この世にはない純粋性について語っている。それはこの世の内にも外にも存在せず、それは時間の内にも、永遠の内にもなく、外も内もないあるものである。このものから、永遠なる父である神は、神のすべての神性の豊かさと深遠とを現し出すのである。これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである。そして父が生むことは、父が内にとどまることであり、父が内にとどまることは父が外に生み出すことである。常にあるのは、それ自身の内で湧き出ずる一なるものである。「われ(ego)」という言葉は、その一性における神だけに固有な言葉である。「汝ら(vos)」という言葉は、「一性の内で汝らは一である」という意味である。「われ」と「汝ら」、この言葉は一性を指し示している。」p.136

 言っている内容は完全に新プラトン主義の主張そのままではあるが、エックハルトの固有性という観点から興味深いのは、「われ(ego)」および「汝ら(vos)」に対する言及だ。真に主語になることができるのは「神」のみという理屈は古代哲学にも見られるものの、二人称複数型である「汝ら」を一性のうちに捉えるのはユニークな見解と思っていいのか、あるいはこれにも先行例があるのか。そしてこの場合の「汝ら」の具体的な中身は、キリストも共有した「人性=人間の本質」ということになる。「人性」は一つであって、それは私も持ち、あなたも持ち、あるいはその他の誰も彼もが持ち、キリストも持つという、人間すべてに共有のものだ。人間すべてに共有する本質だから、「汝ら」というふうに二人称複数型になる。問題は、この「人性=人間の本質」の共有というアイデアを突きつめていったとき、さて、「人間の平等」を前提に成り立つ近代人権思想に行きつくのかどうか、というところだ。

【今後の研究のための備忘録】神を超える人間中心主義の萌芽
 エックハルトが死後に異端宣告を受けたことは解説でも触れているところで、中身を読んでみると、確かに異端宣告を受けるだろうという、大胆不敵な理屈が並んでいる。なかでも、神がいらないとか、神を超えるという理屈は、かなり強烈だ。

「もしわたしがそう望んだのならば、わたしもすべてのものも存在しなかったであろうし、わたしがなければ、「神」もまたなかったであろう。神が「神」であることの原因はわたしなのである。もしわたしがなかったならば、神は「神」でなかったであろう。」p.173

 このようなまさに神をも畏れぬ物言いは、「わたし」というものの特権性に対する洞察に由来するように読める。「人性=人間の本質」は他人(あるいはキリスト)と共有できるが、「わたしであること」は共有できない。

「わたしがひとりの人間であるということ、そのことは他の人間もまた同様であり、わたしが見たり聞いたり、食べたり飲んだりすること、これもまた動物でもなすことである。しかしわたしであること、このことはわたし以外のだれにも属すことはない。どんな人にも、天使にも、わたしが神と一である場合以外には、神にもこのことは属すことはないのである。それはひとつの純粋さでありひとつの一性である。」p.134

 おそらくエックハルトが「魂」と呼ぶものと「神」との類似性も、この共約不可能な「わたしの特権性・唯一性」に由来する。エックハルトは、「わたし」というものが、他の何ものによっても代替の効かない世界で唯一の何かであるということに対して、強烈な霊感、それこそ「神」の拠って立つところを見ている。この「わたしがわたしである」ことの<唯一性・特権性>(そしてこれが「魂」と呼ばれている何かの根底)が「神が神である」ことの<唯一性・特権性>と同じだということを、エックハルトは繰り返し繰り返し強調する。勢い余って、「わたしがわたしである」という悟りに到った場合、もはや神は必要ないというようなことを言い始める。それはカトリックの論理から言えば、明らかに被造物である分を超えた畏れ多い主張で、異端とされるのも仕方あるまい。が、神を不必要とするエックハルトの異端的見解は、近代人権思想の根底にある「人間の尊厳」(神がいなくても世界が成り立つための根拠)まで、もう一歩のところまで来ているのではないか。

「神が魂の単一なる光(知性)の内で働くただひとつのわざは、全世界よりもすばらしいものであり、神がこれまでにあらゆる被造物の内で働いたすべてのことよりも神の気に入っているものなのである。」p.152

 この魂の働きは、人類に共通の二人称複数である「人性」に基づく。だとすれば、エックハルトが「全世界よりも素晴らしい」と褒め称えているものは、端的には「人間の本質」だということになる。「人間の本質が全世界よりも素晴らしい」という見解は、古代哲学には見当たらない。古代哲学において人間とは、神の前では吹けば飛ぶ塵の如き取るに足らないものにすぎず、だからこそ謙虚になるための教説(ストア派など)が意味を持った。しかしエックハルトは、人間の本質が「全世界よりも素晴らしい」と言う。この新しい感覚は、キリスト教を背景として生じたと考えるべきなのか、あるいはエックハルトの生きた中世の社会経済的な背景が決定的な要因とみるべきところか、あるいはエックハルトだけオカシイのか。しかしこれが近代に入ってからはより広い範囲で聞かれる見解になることも、確かなのだ。果たして、神を必要としなくなった近代の「人間中心主義」に、エックハルトはどの程度踏み込んでいるのか。

【今後の研究のための備忘録】否定神学
 ちなみに否定神学に関する公式見解に満ちあふれている本だった。否定神学とは何かを説明する羽目に陥ったときは、ここから引用しよう。

「ある師は、一とは否定の否定であると語る。わたしが、神は善なるものであると言えば、それは神に何かを付け加えることになる。これに対して、一は否定の否定であり、否認の否認である。「一」とは何を意味するものであろうか。一とは何ものもそれに付け加えられないようなものを意味するのである。魂は、何も付け加えられていない、また何も考え足されていない、それ自身の内で純化されている、神性をつかむのである。一とは否定の否定である。すべての被造物はみずからに否定をたずさえている。つまりある被造物であることは別の被造物であることを否定するのである。ある天使は、別の天使であることを否定する。神はしかしながら、否定の否定である。神は一であり他の一切のものを否定する。なぜならば神の外には何もないからである。一切の被造物は神の内にあり、そして神の固有の神性である。これがわたしがさきに豊かさといった意味である。神は全神性の一なる父である。わたしが一なる神性というのは、そこではいまだ何ものも流れ出さず、何ものも触れず、思惟されることもないからである。わたしが神の何かを否認するとすればそのことにおいて――たとえばわたしが神の善を否認するならば、本当はもちろんわたしは神のいかなるものも否認することはできないのだが――つまり、わたしが神の何かを否認すれば、そのことにおいて、わたしは神ではない何かをつかむこととなるのである。ところでまさにこのなにかが捨て去られねばならないのである。神は一であり、神は否定の否定なのである。」pp.106-108

【今後の研究のための備忘録】同一性と差異性
 フランス現代思想が、近代の哲学を「同一性の哲学」と批判し、意図的に「差異性」の論理を前面に打ち出したことはよく知られているが、エックハルトもそれを彷彿とさせる一文を遺している。

「区別性は一性に由来する。この区別性とは三位一体における区別性である。一性は区別性である。そして区別性は一性である。区別性が大きければ大きいほど、一性もますます大きくなる。というのもこれはまさに区別なき区別性だからである。もしもそこに千の位格があるとしても、そこにあるのは一性の他の何ものでもないであろう。」p.74

 要点は、「区別」と「区別性」の意味の違いにあるのだろう。「区別」とは端的に区別だが、「区別性」とは「区別の本質」のことだ。「区別」と「区別の本質」では、意味がまったく異なる。エックハルトが「一は区別である」と言ってるわけではなく、「一性は区別性である」と言っていることには注意する必要がある。「一の本質」が「区別の本質」と同じだと言っているわけだ。だから仮に感覚的に「区別」のようなものを認めたとしても、それが本質的に「区別」であるとは限らない。「一」か「区別」かを決めるのは、感覚ではないからだ。たとえばいま目の前にある「眼鏡」を「一」とするかどうかは、感覚で決めることではない。というのは、いま目の前にあるのは「一つの眼鏡」ではなく「2つのレンズ」かもしれないからだ。実際に英語では「glasses」と、複数形で理解している。英語話者は目の前にあるものを「2つ」と認識しているのだ。だとすれば、目の前にあるこれは、「一つの眼鏡」なのか「二つのレンズ」なのか。もうそれは感覚で決めることではない。エックハルトが言う「三位一体における区別性」とは、そういう事態を解釈しようとするときに生じる言葉だ。何かが「一」であるかないかを決めるのは、感覚ではなく、「一性」および「区別性」という<本質>であり、それを見極めることこそ「知性」の役割なのだ。
 で、古代からの西洋哲学は確かに「同一性」を土台にして議論を進めて成果を挙げてきた。しかしエックハルトが言うように「一性は区別性」であるのなら、「区別性」を根拠にして議論を展開したらどうなるか。そしてそれは東洋的なセンスが伝統的に表現してきたことなのかもしれないし、「無」とか「空」とか「非連続」とかの哲学が言いたいことなのかもしれない。

『エックハルト説教集』田島照久編訳、岩波文庫1990年

【要約と感想】上田閑照『私とは何か』

【要約】私は、私ならずして、私である。

【感想】基本構造としては、「否定の否定」という弁証法的な作法で以て主体を立ちあがらせることを柱に据えている。参考までにヘーゲルの弁証法を極めて単純化すると、未分化な主客一体から、主観と客観が分離し(否定あるいは止揚)、改めて主客が統合される(総合)。またいっぽう東洋哲学の場合は、よりプリミティヴな未分化状態を未分化なまま捉えようという志向を示すことになる(たとえば純粋経験)。本書の持ち味は、東洋哲学的なセンスを踏まえつつ、弁証法的な「過程」ないしは「運動」全体を「私」であると理解しているところにあるように読んだ。

  まあ、この「聞かれないうちは知っているけれど、答えようとすると知らない」という類のあれこれを、私個人は「特異点」と呼んできた。本書のテーマになっている「私」も、「特異点」の一つだ。本書も、「私」を特異点として理解している(もちろん著者は「特異点」という言葉は使わないけれど)。逆に、同じようなテーマを扱っているにも関わらず、それを特異点とは理解しないような論考もあったりする(平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』とか)。個人的な見解では、これを「特異点」と理解しないような論考は、問題の入口にすら立っていない。ということで、しっかり特異点として理解を示している本書は、安心して読むことができるのであった。
 ただやはり、「聞かれないうちは知っているけれど、答えようとすると知らない」というものを言語化しなければいけないので、行論は行ったり来たり、同じようなことを別の表現で繰り返したり、なかなか大変なのだ。そしてそこは百戦錬磨の老獪な著者だけあって、豊富な例と多角的・多面的な説明で、分かった気にさせてくれる。

【この理論は眼鏡学にも使える】
 そしてもちろん、本書は眼鏡っ娘について語っている。というのは、本書の結論である「私は、私ならずして、私である」なるテーゼこそが、「私(眼鏡と未分化)は、私ならず(眼鏡と分離)して、私(再び眼鏡と総合)である」という眼鏡っ娘弁証法の過程を述べているのである。仮に本書の内容が分かりにくいとしたら、「私」という言葉をすべて「眼鏡っ娘」に変換すると、とたんに言っていることがクリアに見えてくるだろう。「眼鏡っ娘は、眼鏡っ娘ならずして、眼鏡っ娘である」

上田閑照『私とは何か』岩波新書、2000年