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【要約と感想】中畑正志『アリストテレスの哲学』

【要約】何かと評判の悪いアリストテレスですが、それは古代以来の不幸なテキストの伝来の仕方による偏りに加えて、デカルト以降の近代的な観点によって本来の姿が分かりにくくなっているからです。実際には「われわれによって知られること」からスタートする日常的な考え方を突き詰めることで「探究」の道筋そのものを示すと同時に、その探究の在り様を具体的な成果として豊富に残しており、現代でも多方面の研究から参照されています。何もないところから作り上げた論理学、共同体の在り様を前提とした徳倫理学、変化を記述する概念を整備した自然学、生命原理としての魂、「ある」について根源的に考える形而上学など、「文学」を除いたアリストテレスの哲学の基礎を説明します。

【感想】個人的には良い復習になった読書であった。よくまとまっていた。
 とはいえ気にかかるのは、ルネサンス期のアリストテレスの需要の在り方だ。たとえばルネサンスの入り口にいるペトラルカは、アリストテレス主義者から散々にコケにされて「無知でいいでーす」と開き直っていたりする。実は初期ルネサンス(特に文学)とアリストテレス(科学主義)とは極めて相性が悪いはずだが、そのあたりの事情には本書はまったく触れてくれない。そして一方ルネサンスの出口に関しては、デカルトがアリストテレスをけちょんけちょんにしたことには触れているものの、それ以前にガリレオなど科学者たちがアリストテレス(というかアリストテレス主義者たち)を時代遅れと見なしたことにも触れていない。問題は、12世紀以降に現実的な科学主義の急先鋒として受容されたはずのアリストテレスが、16世紀には逆に科学主義から空想的だと批判されていたというところだ。果たしてアリストテレスは、科学の進歩に貢献したのか、それとも進歩を阻害したのか。それはルネサンスの評価に直結する問題だ。本書ではまったくわからないので、自分で探究するしかない。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 アリストテレスの倫理学は政治学と密接な関係があることに本書もしっかり触れているが、その政治学はさらに教育の話に全面的に関わってくることになる。

「徳の概念の重要性を強調するだけでは汲み尽くせない第二の論点は、教育の公共性という観点である。」74頁
「アリストテレスは、習慣づけを通じて欲求を方向づけることの必要性を語った直後に、教育における法の役割に言及する。」75頁

 これはその通りだ。だからアリストテレスは、国家の存在意義は教育機能にあるという。教育機能が欠けた国家は、国家としての要件に欠けている。たとえば社会契約論的に人々が集合したもの(エピクロス派が主張する)は、アリストテレスにおいては断じて国家ではない。そして教育が欠けた国家は、同一性を維持することができず、滅びる。アリストテレスによれば、仮に外面的に国家が存続したとしても、政体が変わった場合には滅びたものと見なされる。だから国家を維持する手段として教育は不可欠という話になる。つまり教育は、アリストテレスの四原因説に照らせば、国家は形相因(共同性の在り様)としても、質量因(構成員の在り様)としても、始動因(国法の在り様)としても、目的因(国家の存在意義)としても、教育が原因である。本書は教育については眼中にないようなので、私が個人的に探究するしかない。

中畑正志『アリストテレスの哲学』岩波新書、2023年

【要約と感想】スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』

【要約】狂信的なキリスト教信者の旧約聖書の解釈はめちゃくちゃです。奇跡なんて起こるわけありませんし、預言者を自称している人たちはバカばかりですし、神がユダヤ人だけを選んだなんてことがあるわけないし、そもそも聖書は神の言葉ではありません。宗教なんてものは人々が道徳的に暮らすための方便として役に立てばいいのであって、そこに真実を求めようとするからおかしなことになります。真実とは本ではなく自然の中にあり、そしてそれこそが神でもあります。
 人間が平和で文明的に暮らすためには人々をまとめる政府が必要ですが、だからといって個人がもともと持っている自然権をすべて譲り渡して放棄する必要もありません。あらゆるものが自然の法則に従わざるを得ないことを考えると、政府がどれだけ人々をコントロールしようと試みても、それが人間の本質に反している限り、うまくいくわけがありません。そして人間というものは欲することを考え、考えたことを言ってしまう本性を持つ生き物なので、それを止めようとしても無駄ですし、止めようとすると国家の方が壊れます。

【感想】そりゃあ発禁にもなるよなあと。無神論者のチャンピオンとしてスピノザの名前が轟いてしまう、ホッブズもびっくりの宗教論と政治論だ。
 宗教論についてはその筋の人に任せておいて、個人的な研究上の興味関心は政治論にある。というのは、社会契約論が全面的に展開されているからだ。スピノザはひとまずホッブズの社会契約論をそのまま踏襲しているように見せて、それを明確に否定する。『エチカ』で詳しく述べることになる人間本性に基づいて、現実的には人間が自然権を100%放棄することなどありえないと主張する。というのは、人間には自己の本性を維持しようとする傾向性(コナトゥス)があり、どんな圧力を加わえてもその傾向性を変えることはできないからだ。さらに、政府の方も無敵の権力を持っているわけではなく、人間本性に反するような運用をするとたちまち人々から見放されて政権崩壊してしまうので、人間本性に配慮した枠の中での権力行使に禁欲せざるを得ない。ということで、自然権の完全な放棄は理論的には考えられるかもしれないが、現実の政治過程を考えた場合、人間本性の許す限りのところでバランスがとれて、一定程度の自然権は必ず各人に残る。そして各人に保持される自然権として要点になるのが「表現の自由」だ。人間の本性として、人間は欲望に基づいてものごとを考えるし、考えたことは表現してしまう。それは自然の摂理であって、国家が止めようとして止められるものではない。表現の自由を制限しようとする国家は、必然的に滅びる。
 ただし現代的な観点から問題になるのは、私人間の自然権を調整する、いわゆる「公共の福祉」をどう考えるかだろう。確かにスピノザは政府と個人の間の権力関係については「表現の自由」は尊重されるべきだと結論した。しかし現代日本における「表現の自由」は、国家権力による抑圧というより(依然として重要な観点ではあるが)、私人間の権利調整のほうが難しい問題になっている。この「公共の福祉」という論点については、スピノザから回答を得ることはできない。とはいえ、もちろんそれはスピノザの視野が狭かったという話ではなく、「表現」というものの公共性と私事性の関係が現代日本とはまったく異なっているせいではある。「表現の自由」という自然権が私人の間で衝突したときは、スピノザが言うように「欲望は他人に何らかの損害を引き起す限りは之を抑制し、自分がされたくないことは他人にもせず、最後に他人の権利を自己の権利同様に守る」という原則で知恵を出し合うしかない。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
  スピノザは、後半で展開する政治思想をダイジェストでまとめている。概略、ここだけ読めば、言いたいことは分かる。

「これを証明する為に余は各人の自然権から出発し、各人の自然権は各人の欲望と力とが及ぶところまで及ぶこと、又自然権に依れば何人も他人の意向に従つて生活すべく義務づけられて居らず、むしろ各人は自己の自由の擁護者なのであることを余は示してゐる。この外に余は、人がこの権利を実際に放棄することは、その人が同時に自己を護る力をも他人へ委譲するのでなくては出来ないこと、又各人が自己自らの意向に従つて生活する権利を自己を擁護する力共々に或人に委譲した場合に、その委譲された人は必然的にこの自然権を無制限に保持すること、さうしたことを示してゐる。尚ほここからして余は、最高の統治権を握る人々はその為し得る一切を為す権利を持つこと彼らのみが権利と自由の擁護者であること、他の人人は彼らの決定に従つてのみすべてを為さねばならぬことを示してゐる。然し何人も人間としての立場を失ふまでに自己自身を護る力を奪はれることは不可能なのだから、これから余は、何人も自己の自然権を完全には奪はれ得ないこと、むしろ臣民はある種の権利をいはば自然権に依つて保持すること、かうした権利は国家の大きな危険を伴はずには彼らから奪ひ取られ得ないこと、従つてかゝる権利は臣民に対し暗黙的に認められるかそれとも臣民が統治権を握る人々と明示的にこれを契約するかであること、さうしたことを結論してゐる。」上巻54-55頁

 が、細かく見ていこう。まず注目しておきたいのは、「自然権」の具体的な中身が、ホッブズのように単に生命を維持するということではなく、『エチカ』で具体的に展開する人間の本性であるコナトゥス概念を踏まえた形で、「自己の状態に固執する最高の権利」とされていることだ。私個人としては、これは「わたしがわたしでありたい」という再帰的な願いということで理解したい。そしてこの「わたしがわたしでありたい」という再帰的な願いは、各個人の資質や能力とは全く関係がなく、すべての人間(どころかあらゆる個物)に平等だというところが極めて重要だ。スピノザが「欲望と力」と言った場合、ホッブズのいう無軌道なやりたい放題ではなく、「わたしがわたしでありたい」という願いを意味していることには注意したい。

「各々の個物は自己の状態に固執する最高の権利を、換言すれば自然から決定されてゐる通りに存在し、活動する最高の権利を、持つといふことが帰結される。
 この際我々は、人間と自然に於ける他の個物との間に、また理性を付与された人間とまことの理性を知らない人間との間に、更に又魯鈍者乃至精神錯乱者と精神的健全者との間に何らの相違を認めない。事実各物が自己の本性の諸法則に従つて為すすべてのことを各物は最高の権利に従つて為してゐるのである。各物は自然から決定されてゐる通りに行動し、それ以外には行動し得ないのであるから。」下巻164-165頁
「故に各々の人間の自然権は、健全な理性に依つてでなく、反つて欲望と力とに依つて決定される。実際すべての人間が理性の諸規則・諸法則に従つて行動すべく自然から決定されてゐるわけではないのである。むしろ反対に、すべての人間は全く無智の状態で生れるのであり、そして彼らが真の生活方法を知り又有徳の状態をかち得るまでには生涯の大部分(たとへ彼らがうまく教育された場合でも)が経過するのである。だがそれにも拘はらず彼らはそれまでの間生活をし、且つ自己を出来得る限り維持せねばならぬのであり、そしてそれを欲望の衝動のみに従つてせねばならぬのである。自然は彼らに対して他の何物をも与へなかつたし、又健全な理性に従つて生活する実際の力を拒んだのであるから。」下巻165-166頁
「これからして、すべての人間がそのもとに生れ、又多くの場合そのもとに生活してゐるところの自然の権利及び自然の法則は、誰もが欲せず、誰もが為し得ないことのほかには何ごとをも禁じないとふことが帰結される。」下巻167頁

 またここに子どもの姿と教育について触れられていることも頭の片隅に置いておきたい。
 続いて、ホッブズの理屈が展開される。ここだけ切り取って理解するとホッブズとの違いが分からなくなってしまうので、この後で否定されることを前提に読んでいく必要がある。

「とはいえ、理性の諸法則・理性の一定命令に従つて生活する方が人間にとつて遥かに有益であることは何ぴとも疑ひ得ない。理性の命令は、既に述べたやうに、人間の真の利益をのみ目ざすから。その上、誰しも出来るだけ安全に且つ危惧の念なしに生活することを望まない者はないのであるが、このことたるやしかし、各人が勝手にどんなことでも為し得る限り、又憎しみや怒りに対してよりも理性に対して多くの権利が認められない限り、絶対に不可能なのである、事実、敵意や憎しみや怒りや欺瞞の間にあつては何ぴともびくびくした生活をせざるを得ないのであり、従つて各人はさうしたものを出来る限り避けようと力めるであらう。更に又我々が、人間は相互的援助なしには極めて惨めな、理性の涵養も出来ないやうな生活をせねばならぬことを考へるなら、我々は明らかに次のことを、即ち人間は安全に且つ立派に生活するためには必然的に一つに結合しなければならなかつたのであり、そしてこれに依つて彼らは各人が万物に対して自然から与へられた権利を共同的に所有するやうにし、又その権利がもはや各人の能力と欲望に依つてではなく万人の力と意志とに依つて決定されるやうにしたのであることを認めるであらう。然しかうした試みは、若し彼らが欲望の囁きにもに従ふとしたらうまく行かなかつたであらう(各人は欲望の諸法則に依つて種々の方向へひきずられるから)。従つて彼らは理性の命令(何ぴとも無分別であると思はれたくないために正面から理性の命令に反対することを敢へてしない)のみから一切を導き、欲望は他人に何らかの損害を引き起す限りは之を抑制し、自分がされたくないことは他人にもせず、最後に他人の権利を自己の権利同様に守るといふことを固取決めに依つて契約せねばならなかつた。」下巻168-169頁
「即ち各人がその有するすべての力を社会に委譲すればよいのであり、かくて社会のみが万事に対する最高の自然権を、換言すれば最高の統治権を保持し、各人は之に対して自由意志に依つてなり或は重罰への恐れに依つてなり従ふべく拘束されることになるのである。かうした社会の権利関係を民主制と名づける。」下巻173頁

 ここまではホッブズの理屈をそのまま祖述しただけだが、ここからその否定に入る。

「一切に対する最高権力の権利、並びに最高権力に委譲された各人の自然権についての前章の考察は、なるほど実践と大体に於て合致し、又実践はこの考察に益々歩み寄るやうな風に整備され得るとは言へ、その考察はやはり多くの点に於て純粋な理論に止まらざるを得なかった。思ふに何ぴとも自分の力を、従つて自分の権利を、自分が最早や人間としての立場を失ふ程にまで他者に委譲し切ることは出来ないであらうし、又何ごとをも自分の思ひ通りに果し得るやうな最高権力といふものは存在しないであらう。(中略)故に我々は各人が自己の権利の中の多くのものを保留すること、かくてその保留された権利は他者の決定にではなく自分の決定にのみ左右されるといふことを容認せねばならぬ。」下巻189-191頁
「かくして、我々の見るところに依れば、統治権の権利と力は充分大きいものであるけれども、然しそれは統治権を握る者ならその欲するいかなることをでも無制限になし得ると言つたほど大きいものではないのである。」下巻193頁

 ホッブズの理屈は理屈としては正しいのだが、ただそれだけで、人間の本性を踏まえた現実の政治過程においては実現不可能だ、というのがスピノザの主張である。だからこのスピノザの主張を擁護するためには、人間の本性が丁寧に論述されていなければならない。実際、スピノザは繰り返して人間の本性について語るし、主著『エチカ』全編がその根拠となっているといってよいだろう。

【個人的な研究のための備忘録】神の法
 スピノザは以上の社会契約論的の帰結を、ユダヤ人の「神の法」にも適用する。

「我々が自然状態を啓示された神の法に先立つもの・それと関係なしにあるものと考へるのは、人がそれを自然的には知り得ないといふ故ばかりではなく、すべての人間が依つて以て生れる自由の故にでもある。(中略)神の法は人間が特別の契約に依つてすべての点に於て神に服従すべく約束した時に始まつたものと確認せねばならぬのであり、人間はこれに依つていはば自己の自然的自由を放棄し・自己の権利を権利を神へ委譲したのである。恰も国家状態に於てそれが行はれるやうに。」下巻184頁
「ヘブライ人たちの各者も、預言的に啓示された宗教が彼らの間で法的効力を持つ為には、先づ自己の自然権を放棄し、すべての者が、共通の同意を以て、神から彼らに預言的方法に於て啓示された命令にのみ服従すべく決心することが必要であつた。このきは民主国家に於て行はれるやり方と全く同様である。といふのは、民主国家ではすべての者が、共通の同意に依つて、理性の指令にのみ従つて生活すべく決意するのであるから。」下巻252頁

 本書が1944年に出版されたことを考えると、かなりすごいことを言っている。ここでスピノザがユダヤ教に対して述べている理屈が、太平洋戦争最中の日本の神道にも適用されたらどういう帰結になるか。もちろん文部省は1890年「教育勅語」以来、そして特に1937年「国体の本義」と1941年「臣民の道」ではオカルト的に、日本人にとっての「神の法」は自然状態に先立つと主張し続けてきた(つまり文部省の見解では、縄文時代と弥生時代は存在しない!)。しかしスピノザは、「神の法」が自然状態に先立つわけはないと言っているし、本書はそれを1944年に世に示した。社会契約論(およびそれに基づいた共和制)というものがある特定の日本人論者にとって蛇蝎のごとく忌み嫌われたのは、おそらく現実の革命に結びつくかどうか以上に、「自然状態」という概念が日本の皇室の正統性にとって致命的だからだ。

【個人的な研究のための備忘録】子ども
 子どもに関する記述があった。

「同様に又子供も、たとへ両親のあらゆる命令に従はねばならぬとしてもやはり奴隷ではない。何となれば両親の命令は子供たちの利益をなによりも目指してゐるからである。我々はそれゆえに奴隷と子供と臣民との間に大きな相違を認める。これを我々は次にやうに定義する。即ち、奴隷とは命令者の利益をのみ目指す命令に従はねばならぬ者である。子供とは全し自分の利益になることを両親の命令に基づいて行ふ者である。最後に臣民とは公共の利益になること、従つて又自分の利益にもなることを最高権力の命令に基づいて行ふ者である。」下巻178-179頁

 素朴な形ではあるけれど、「子どもの最善の利益」を目的とする両親の教育権という発想が生じている。近代の法理論では「子ども」がほとんど眼中に置かれない中、スピノザがこういう考えを既に持っていたことは頭の片隅に置いておきたい。

【個人的な研究のための備忘録】分業
 分業の観念そのものは古くから見られるが、社会契約論の理屈に組み込まれるのはスピノザ特有か。ホッブズ、ロック、ルソーの理屈を確認しておきたい。

「社会といふものは、敵から安全に生活する為にばかりでなく、又多くの事柄に関して手間をはぶく為にも、極めて有利であり、必要欠くべからざるものでさへある。実際若し人間が相互に助け合ふことをしなければ、人間には自己を出来得る限り継続し涵養する為の技術と時間が不足するであらう。何故ならすべての人がすべての仕事に同等に適当してゐるわけではなく、従つて各人はさうなればその最も必要とするところの品々を獲ち得ることが出来ないであらうからである。」上巻181頁

【個人的な研究のための備忘録】教育
 意外な文脈から教育に言及している。新約聖書の福音記者が、「使徒」なのか「教師」なのかという文脈である。

「理性は、教へる権能を持つ者は自己の欲する方法を選ぶ権能をも持つといふことをはつきり教へてくれるから。(中略)実際世間一般の教師も各々特有の教授方法を有し、従つて語学や科学について、否、その真理性に関しては何人も疑はぬところの数学についてさへも、まだ他の誰からも学んでゐない全く無素養の人々を教へたがるものなのである。」下巻93頁

 ここで言っている「教授方法」というものがどのレベルのものなのか気になって仕方がないが、スピノザのテキストからはこれ以上のことは分からないのであった。

スピノザ/畠中尚志訳『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―上巻』岩波文庫、1944年
スピノザ/畠中尚志訳『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―上巻』岩波文庫、1944年

【要約と感想】スピノザ『エチカ―倫理学』

【要約】本書は幾何学的な手続きで記されていますが、人間の知性を改善して神とシンクロする至福に到達するためには、これが最善の方法です。
 自己原因である神(つまり自然)は唯一存在する実体として無限の属性で構成されていますが、人間に知覚できるのは精神と延長だけで、神の様態である一切の個物は神の本性の法則に従って必然的に変状を蒙った結果の表現です。
 人間の精神と身体はある一つの様態を精神・延長両側面から表現したもので、精神は身体の観念です。人間の認識には3つの様式があります。(1)表象(2)理性(3)直観。(1)表象は感覚的経験から生じますが、認知の歪みの原因となり、自由意志も錯覚です。真理は真理であるというだけで真理と分かるので、概念的・推理的認識の(2)は確実ですが、神の認識に到達できるのは(3)だけです。
 人間の根本的感情は3つだけです。(1)欲望(2)喜び(3)悲しみ。この3つから人間の感情一切を説明し尽くせますが、根源にあるのは「わたしがわたしでありたい」という自己の存在を維持しようとする傾向性(コナトゥス)であり、その傾向を実現しようとする欲望は人間の本質そのものであり、その必然的な本性に従うことが人間の自由です。
 人間の自由とは、外部から感情を刺激する受動性に隷属せず、能動的な感情に基づいた理性の指図と自己の本性のみによって判断し行動することであって、それが徳です。世界を知れば知るほど、理性と自己の本性に対する理解が高まり、行動の自由が増し、神の認識に近づきます。徳によって報酬が与えられるのではなく、徳のあること自体が至福そのものです。

【感想】西洋哲学史における「人格」ないし「個性」概念の発生地点に立ち会うことを目指して古典を読み進め、古代から中世、ルネサンスを経て近代の入り口に差し掛かり、ここまでにも近代的自我の萌芽らしきものは様々確認できてはいるものの、ここに来てようやく近代性の閾値を越えた感じがする。スピノザはコナトゥスという概念を通じて「わたしがわたしでありたい」という近代的自我の在り様をそうとう剔抉してきたような印象だ。単に「わたし」という自己意識の在り様であれば、たとえばルネサンス期ペトラルカに明瞭に見られるし、あるいは古代アウグスティヌスにまで遡っていいかもしれない。また、様々な特性を持った人がいるという程度の「個性」の表現は、古代からルネサンス期まで満遍なく見つけることができる。しかし「わたしがわたしでありたい」あるいは「わたしはわたしでしかありえない」という再帰的な自我の在り方は、まずモンテーニュに文学的な表現を得て、次いでスピノザに哲学的な表現を得た、ということでいいかもしれない。ちなみにベーコンやデカルトには「わたし」意識は強烈に見られても、「わたしがわたしでありたい」という再帰的な欲望はない。
 となると、モンテーニュやスピノザに至って初めて再帰的な自我の表現が見られることの意味や背景を考えなければならない。大航海時代とか宗教改革とか重要な観点はいろいろあるが、哲学史的には、どうだろう、「懐疑論」への対決というのは一つの契機になるだろうか。懐疑論を「人間には思考の足掛かりなどない」という考え方だと捉えるとして、これを雑に一蹴する(ある特定の思考の足掛かりを示す)のはそんなに難しくないけれども、懐疑論の主張を正面から丁寧に捉えた上で乗り越えていこうと努力したとき、生産的な表現に至るかもしれない。たとえばスピノザは「真理は真理それ自体で真理を表現する」と再帰的な認識論を打ち出して懐疑論を乗り越えているわけだが、それは「私は私それ自身で私を表現する」という再帰的自我論まで紙一重だ。一方モンテーニュはもともと古代懐疑論を信奉していたように見えるが、ひょっとしたらそれを乗り越える過程で「わたしがわたしでありたい」という再帰的な思考(あるいは情念)の「足掛かり」を捉え、文学的な表現に鍛え上げたのではないか。そして仮にそうだとすると、実は懐疑論など一顧だにせず「真実が真実にしか見えない」という認識で突っ走ったガリレオやデカルトの自然科学革命が、やはりそうとう重要な役割を果たしているのかもしれない。人間が頭の中で何を考えようと、懐疑しようと、あるいは考えてはいけないと他人に強制しようと、それでも地球は回っているのである。

【個人的な研究のための備忘録】アイデンティティ
 「流れる川は同じ川か?」というアイデンティティ(同一性)に関わる問題に対して、スピノザは明快に「同じ川だ」と言い切る。

「【第2部公理3補助定理4】もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。」
「【補助定理7】もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限の仕方で変化することを容易に理解するであろう。」

 そして同一性の考えを突き詰めていくと、世界は一つの個体だという結論に至る。というか、スピノザの人間(あるいはすべての個物)は、鴨長明にかかれば「かつ消えかつ結ぶ、淀みに浮かぶうたかた」のようなものではある。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 スピノザは子どもについて積極的に語ることはない。否定的な文脈で比喩として登場するだけだ。

「【第2部定理49備考】もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら縊死する人間を何とみるべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。」
「【第3部定理32備考】というのは、小児はその身体がいわば絶えざる動揺状態にあるゆえに、他の人々の笑いあるいは泣くのを見ただけで笑いあるいは泣くのを我々は経験している。さらにまた小児は他の人々がなすのを見て何でもすぐに模倣したがるし、最後にまた他の人々が楽しんでいると表象するすべてのことを自分に欲求する。」
「【第5部定理6備考】幼児が話すことも散歩することも推理することもできず、その上に幾年間も自己意識を欠いたような生活をするからといって、誰も幼児を憐れまないことを我々は知っている。しかしもし多くの人が成人として生まれ、一、二の者が幼児として生まれるのだとしたら、誰しも幼児を憐れむだろう。なぜならこの場合は、人は幼児の状態を自然的あるいは必然的なものとは見ないで、自然の欠陥あるいは過失として見るからである。」

 子どもは愚者や狂人と同じカテゴリーだ。まあ、こういう子ども観はスピノザに限った話ではなく、近代初期までのヨーロッパに共通して広くみられる。というか、ルソーが異常だっただけか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 積極的に子ども観が示されないので、教育の話も積極的に展開されることはない。しかしごく一部に教育の話が現れるので、サンプリングしておく。

「【第3部定理55備考】こんな次第で、人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこの傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とするからである。」
「【第三部「諸感情の定義」27】それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞賛し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって瀆神的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。」

 この場合の教育とは、何かしらの知識を与えるinstructionではなく、ましてや内面から可能性を引き出すeducationでもなく、習慣形成のためのtrainingのようなものだし、そもそもスピノザの思想体系に内在的に関わる話でもない。
 しかし一方、以下に引用した文章では、スピノザの認識論に関わるものとして教育を語っている。

「実際また、幼児や少年のように、きわめてわずかなことにしか有能でない身体、外部の原因に最も多く依存する身体、を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見られる限り、自己・神および物についほとんど意識しない。これに反してきわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見て、自己・神および物について多くを意識している。ゆえにこの人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるように努める。」

 しかし、目指すべき教育の具体的なプログラムは示されない。スピノザが目指す「知性改善」は本書に示された理路に基づいて各自が認識を改めていくことでしか進まないのであって、何らかのカリキュラムを備えた学校で一定期間過ごせば身につく類のものでもない。となると、スピノザの「知性改善」を実現するためには、いわばプラトンの言う「魂の向け変え」のような契機が必要になるのではないか。
 ということを考えると、最終定理(第5部定理42)で示される「至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。」なるテーゼは、プラトン『国家』で示された問いに対するスピノザの回答だ、という理解でいいか。魂の向け変えが人々を徳に導き、それがそのまま至福への唯一の道となる。

「【第4部「付録」第9項】ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の伎倆と才能を証明することができる。」 

 ということで最終的には人々に対する教育へと足を踏み出すことになるのだった。世界を変えるためには、やはり教育に頼るしかないのだ。注目すべきなのは、ここでスピノザが示している教育の内容が「各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやる」となっていることだろう。この場合、はたして教育内容は「理性」に従って同一メニューになるのか、それとも各人のコナトゥスに応じて個別最適なメニューが用意されるべきなのか。

【個人的な研究のための備忘録】欲望
 デカルトは『情念論』で積極的に欲望を肯定したが、スピノザも「欲望」をコナトゥス概念を通じて「人間の本質」だと見なしている。

「【第4部定理18備考】これを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳および道義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私にひきつけたいためである。今私は事態がこれと反対であることを簡単に示したのだから、ひきつづき私はこれをこれまでやってきたのと同じ方法で証明していくことにする。」
「【第4部定理38】人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。」

 こういう表現が見られるようになると、しみじみと「近代だな」という印象を強める。古代や中世には見られない展開だ。それは以下にサンプリングした知識観と響き合っているかもしれない。

「【第5部定理24】我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)」

 西洋哲学史ではソクラテスの「無知の知」から始まって、キリスト教の反知性主義を経て、ルネサンス期になってもペトラルカやエラスムスなど「無知」を称揚する言説に事欠かない。モンテーニュだって自分が無知であると繰り返し韜晦しているし、あのデカルトもなかなか謙虚な姿勢を示している。しかしスピノザにはそんな身振りは一切見られない。認識すればするほど、知識は増えれば増えるほど良いのだ。これは自然科学的(スピノザにおいては幾何学的)な知識観に基づいた身振りと考えていいか。ちなみに人間の認識が有限であることは、もともと織り込み済みだ。

【個人的な研究のための備忘録】国家論
 スピノザの国家論については別の著作『神学・政治論』で本格的に展開されるが、本書にも考え方の概要が示されている。

「【第4部定理37備考2】それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。(中略)そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。(中略)以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。」

 ポイントは、まず「自然権」を「断念」するとは書いてあるが「放棄」や「譲渡」とは書いていないところだろう。国家成立後も、国民は自然権を保持している。
 そして続いて「正義」を「外面的概念」と断言していることから、いわゆる「自然法」をまったく認めていないらしいところも注目だ。スピノザにとっては神(自然)の法則こそが唯一の規範なわけだが、自然の必然的な成り行きとは異なる「人間のルールとしての自然法」の客観的存在は認めないということでいいか。

【個人的な研究のための備忘録】死
 「死」に関するおもしろい文章があったのでサンプリングしておく。

「【第4部定理39備考】身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解している(中略)人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。」

 「死」というものを考える上でもなかなか示唆深い文章だが、「わたしがわたしである」という事態を考える上でも、この説明に付された事例も含めて、興味深い。「わたしがわたし」でなくなってしまうことは、スピノザにとってはただちに「死」を意味するのである。
 ところでこの一文は、ただちにローマ帝政期のストア派哲人皇帝マルクス・アウレリウスの言葉「たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。」を思い出す。スピノザの思想がストア派と親和性が高い証拠の一つとしていいか。

スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(上)』岩波文庫、1951年
スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(下)』岩波文庫、1951年

【要約と感想】スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』

【要約】スピノザの初期の思想を垣間見ることができる論文ですが、生前に出版されることなく、全貌が明らかになったのも19世紀以降です。
 神の存在や実体と属性、様態と変状、コナトゥス、必然性、能産的自然・所産的自然、人間の情念の分析、認識の類型、人間の自由などに関する考え方にはすでに『エチカ』と同じものが見られ、しばしば主著『エチカ』のプロトタイプともみなされます。
 一方、神の存在と定義の順序、悪魔への言及、神とシンクロする際の神秘的表現など、要所要所で『エチカ』と異なっているところもあります。

【感想】いきなり神の存在証明から始まるが、本書の最終的な目的はタイトルにあるように「人間の幸福」の条件と方法を明らかにすることで、その意図は『エチカ』まで一貫している。そういう執筆意図を踏まえると、個人的な印象では、スピノザの思想は何か新しいものを示しているというよりは、デカルト、あるいは中世スコラ学よりも古代哲学の原点に還っているように見える。というのは、古代ギリシア哲学やヘレニズム哲学は徹底して「人間の幸福」の条件と方法を考察したが、その哲学の伝統はキリスト教によって断ち切られる。キリスト教にあっては、人間に浄福をもたらすのは人間自身の認識や努力ではなく、神の恩恵である。ルネサンス・人文学によって古代哲学が復興した際も、確かに世界の真理や道徳性についての関心は盛り上がったものの、「人間の幸福」という古代哲学のテーマが前面に打ち出されたような印象はない。「幸福」というテーマでは、ルネサンス期はキリスト教の圏内にあるように思える。潮目が変わるのはモンテーニュやデカルトがあっけらかんと「快楽」の肯定に回るあたりだろうが、彼らには「人間の幸福」に対する原理的な洞察は欠けている。ということで、スピノザが真正面から「人間の幸福」の在り様と方法に取り組んで、見かけ上古代哲学の原点に立ち返っているのは、実はスピノザ思想の内容以上に、完全にキリスト教の軛から抜け出したことを意味するのかもしれない。同時代から無神論者のチャンピオンとして恐れられるわけだ。
 確認すると、スピノザによれば、人間の幸福は神(という名の全自然)とシンクロする認識に達することである。「信仰」ではなく「認識」によって「幸福」に達すると主張したので、カトリック大激怒だ。そしてその結論自体は『エチカ』と変わらないのだけど、表現は本書の方が極めて神秘的で印象的だ。そしてそれはヘレニズム期ストア派の宇宙論を髣髴とさせる。確認すると、ストア派は人間に小宇宙を見出し、宇宙=自然とシクロすることで心の平安(アパテイア)を得ることを目指した。スピノザの言う「神=自然」とストア派の言う「宇宙」は、もちろん実体に対する理解などあらゆる面で違っているが、その自然論・宇宙論が「人間の幸福」の在り様と内在的に関わっているという点で、個人的には本質的に似ているような印象を持つ。(と思ってciniiを検索したら、スピノザとストア派を比較する論文がいくつかあった。私が思いつく程度のことは、だいたいとっくに他の人も気がついている)。

【個人的な研究のための備忘録】完全性
 本書(というか西洋哲学全般)には「完全性」という言葉が繰り返し登場し、重要な役割を担って使用されている。ただしスピノザの「完全性」は、他の哲学者の使う「完全性」とは微妙に意味や役割が違っているようだ。

「我々が我々の知性の中に完全な人間の観念を形成する場合、それは(我々が我々自身を観察する時)さうした完全性へ到達する為の何らかの手段を我々が有するかどうかを顧るよすがとなり得るであらう。そしてこの際我々をさうした完全性へ促進する一切を我々は善と名づけ、反対にこれを阻害するもの、或はさうした完全性へ我々を促進しないものを悪と名づけるのである。
 故に私が人間の善悪に関して何ごとかを述べようとすれば、私は或る完全な人間の観念を形成せねばならぬと私は言ふのである。」125頁

 ここは「完全性」と「善・悪」の関りから見て、『エチカ』の記述との整合性が気になるところだ。というのは、『エチカ』でスピノザはあらゆる個体はある種の「完全性」を有していると言っている。ただし「大きな完全性」か「小さな完全性」かの違いはある(そして「善」とは完全性をより大きくするものであり、「悪」とは完全性をより小さくするものだ)。その際に、スピノザは通俗的な「完全性」の概念は勘違いで生じたに過ぎないと批判する。引用箇所にある「完全な人間の観念」とは、そのような勘違いに過ぎないはずだ。本書の記述は、『エチカ』に示された「完全性」と、中身や用法がそうとう違っているように思える。

【個人的な研究のための備忘録】二度生まれ
 ルソー『エミール』で重要な役割を果たす「二度生まれ」という表現に、思いがけずここで出くわした。

「思ふに、我々の第一の誕生は、我々が身体と合一してそれに依つて動物精気の活動と運動が成立した時であった。しかし、我々のこの新しい、或いは第二の、誕生は、我々がこの非物体的客観の認識に相応する全く異なれる愛の諸結果を我々のうちに知覚する時に起るであらう。この諸結果と最初のそれとは、恰も非物体的なものと物体的なものが異なり、霊と肉とが異なるだけ異つてゐる。そしてこの愛と合一とから初めて永遠不変なる恒常性が生ずるのであるから、それは益々多くの権利と真理とを以つて更生と呼ばれ得るのである。」193頁

 本書はスピノザ生前には出版されず、ルソーが目にしていた可能性は限りなく低い。よって、ルソーがこの表現から「二度生まれ」という霊感を得たわけではない。ということは、実は17世紀時点で「第二の誕生」というような言い回しが一般的にあったということを想定していいのかもしれない。
 そして上記引用箇所は、個人的には、本書と『エチカ』の決定的な相違点を示しているのではないかと思う。引用箇所でスピノザは、精神と肉体が合一するのが「第一の誕生」で、精神が神と合一するのが「第二の誕生」としており、それこそが真の「人間の幸福」の形だと言っている。そのエッセンス自体はもちろん『エチカ』と同じなのだが、筆の運びがまったく違う。本書には「霊」だとか「愛」だとか「永遠不変なる恒常性」だとか「更生」だとか、『エチカ』には見当たらない神秘主義的な言葉が連発される。ここで言及される神秘的な「愛」は、『エチカ』の第3部で分析される功利的な「愛」とはまったく違うものだ。この「神との合一」は、ストア派の言う「宇宙=自然との合一」を想起させると同時に、中世神秘主義のエックハルトやイエズス会創始者のイグナチウス・ロヨラをも連想させる。本当にスピノザが書いたのか?

スピノザ/畠中尚志訳『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』岩波文庫、1955年

【要約と感想】スピノザ『知性改善論』

【要約】スピノザの主著『エチカ』の序論として方法論ないし認識論を述べた著作のように読めますが、未完です。
 快楽、財産、名誉を得ても幸福になれません。真実最高の幸福とは、精神が全自然(つまり神)とシンクロすることです。そのためにやるべきことはたくさんありますが、最優先で行うべきなのは、知性の改善です。
 知覚様式には4種類あります。(1)言語と文字(2)経験(3)推論(4)直観。(1)はいい加減だし、(2)は偶然だし、(3)は確実ですが完全性には及ばないので、(4)が目指すべき認識です。(1)(2)(3)の様式は使わず、人間の「生得の力」を使って認識の手続きを進めましょう。真理は、真理であるというただそれだけで、それが真理であると分かります。真の観念の本性によって明らかになった規範に従って精神を導くのが正しい「方法」です。探究を始めるためには足掛かりが必要なので、何らかの「真の観念」から探究を始めますが、神から始めるのがいちばんクールなので、なるべく早く神に到達しましょう。
 さっそく「真の観念」を明確に理解するため、虚構された知覚、虚偽の知覚、疑わしい知覚の発生メカニズムを明らかにして斥けます。続いて「定義」というものは、単なる固有な特性の列挙ではなく、「本質」でなければなりません。この定義から生得の力を使って認識の手続きを進めれば、確固・永遠なる事物の認識にたどりつきます。しかし個物はだめです。そして「生得の力」の条件を提示したところで、未完。

【感想】何の予備知識もなしに読んだら途方に暮れるだけだろう。一つ一つの用語が日常的な意味からかけ離れている。入門本を3冊ほど読んでおいてよかった。たとえば本書の「観念」という言葉は、まずリンゴとか犬のような具体物を思い浮かべてしまうと躓きやすくて、「三角形」とか「円」のような幾何学図形をイメージすると多少は分かりやすくなるように思う。また「確固・永遠なる事物」とは幾何学的な真理だと考えるとよいか。
 とはいえ、本書の認識論で決定的なカギを握る「生得の力」について、8個の特徴を列挙したところで未完となってしまっており、痒いところに手が届いていない感じは否めない。

 またスピノザは「与えられた真の観念」から規範に従って探究の手続きを進めよと言う。確かに何もないところから探究は始められないので、思考の足掛かりとして何かしら任意の「真の観念」が与えられなければいけないのだが、それは何でも構わないというような書きっぷりが不思議だ。たとえば理論上は「めがね」から始めても真理に到達できることになる(うまくいくことはまれにしか起こらないらしいが、可能性はゼロじゃない)。
 しかし思い返してみれば、プラトンが『国家』などに記した「哲学的対話法」で突き詰めていたのは、この「足掛かり」を見つける原理ではなかったのか(そして善のイデアにたどりつく)。デカルトにしても、思考の「足掛かり」の確信を得るためにノイブルクの炉部屋で瞑想にふけったのではなかったか。しかしそこでスピノザは「足掛かりはなんでも構わない」という身振りを示すわけだ。なんでも構わないのは、もちろん自然のすべてが神の様態だから、ということになるのだろう。
 この「思考の足掛かり」に関わる議論に関しては、個人的には「特異点」という用語でいろいろ考えていて、一家言(?)あったりする。(→【要約と感想】J.アナス・J.バーンズ『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』)。スピノザの「なんでも構わない」という身振りは、おそらく「大いなる一」のバリエーションだろう。というのは、あらゆるものが神の様態という設定が背景にあって、初めて足掛かりはなんでも構わないという身振りが可能になるからだ。

 また一読して気がつくのは、明らかにデカルトを意識した書きっぷりだ。冒頭の過剰な自分語りとか、最終的な目的にたどりつく前に暫定的な生活規則を立てるところなどはデカルト『方法序説』そのままだし、知識の四様式にも影響が見られる。「或る懐疑論者」(39頁)とか「精神を全く欠く自動機械」(40頁)という書きっぷりなど、対抗意識が強烈に出ていたような印象だ。もちろん一番重要な比較の論点は、デカルトが「懐疑」を根本的な方法として定立させたのに対し、スピノザが「肯定」を方法として打ち出したところだろう。デカルトが外堀を埋めるような論の運びをするのに対し、スピノザは虎口から本丸まで一直線に攻め込むような論の運びを見せる。一見同じようなことを言っているところでも、中身がそうとう異なるのはなかなかおもしろい。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 思いがけず、「教育」についての言及があった。

「なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。」18頁

 自ら発見した探究の道筋を人々に会得させようという狙いがあるのだろうか。しかし児童教育学の優先順位はまったく下の方なので、未完の本書では展開されることがなかったのであった。何らかのカリキュラム論も残っていたらおもしろかったのにな(ちなみにデカルトにはある)。

■スピノザ/畠中尚志訳『知性改善論』岩波文庫、1968年<1931年