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【要約と感想】堀江剛著・中岡成文監修『ソクラティク・ダイアローグ 対話の哲学に向けて』

【要約】現場の役に立つ哲学を考えると、それはほぼ「対話」と同じものになります。とはいえ、もちろんただ漫然と話すのではなく、参加者にとって意義のある結果をもたらすために、練り上げられた技法を伴った対話です。そのモデルとなるのは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの実践です。
練り上げられてきた対話のルールとして、本や他人から仕入れた知識ではなく自分の経験に基づいた話だけをする、簡潔に話す、文章として記録する、全員が参加する、誰も置き去りにしない、対話のルールに対する見当の時間も設ける、等々があります。

【感想】新しい学習指導要領では、アクティブ・ラーニングという言葉が消えて、代わりに「主体的・対話的で深い学び」という言葉が踊っている。表面的に言葉が変わっただけではなく、そこそこ中身も変わっている。そんなわけで、教育における「対話」について改めて考え直す機運が(個人的に)高まっている。実際に対話に関する論文も書いてみたり。そういう流れで、「対話の哲学」というタイトルを冠する本書を手に取ったわけだ。残念ながら締切り後の発行のため、自分の論文に参照することはできなかったけれども。

で、事前に予想していた内容とはずいぶん違っていた。そして、とても興味深く読んだ。まあ、これがタイトル買いの醍醐味ではある。

事前に予想していたのは、ソクラテス対話篇のテキストに即して対話の技法を抽出し、実践を再構成するんだろうなという程度だったけど。実際は、対話の論理を具体的かつ実践的に考え抜いた上で、試行錯誤の過程を経て鍛え上げられてきた技術の集成だった。そして現在の技術水準は、本書の報告を見る限り、ソクラテスが実践した哲学的問答法の核心にそうとう近づいているように思う。実践の裏付けが着実に積み重ねられてきていることも、説得力を強烈に担保している。
思わず自分も真似してみようかな、などと思ってしまった。

個人的な研究のための備忘録

ソクラティク・ダイアローグの創始者ネルゾンが言う「教育のパラドクス」の解きほぐし方は、なるほど、一つの知見であると思った。私なんかは教育のパラドクスに居直ってきた類の人間なわけだけど、このパラドクスに真摯に向き合う姿勢は、いやはや、なんだか格好いい。

【教育のパラドクスを踏まえて技法を練り上げる】
「まずネルゾンは言う。ソクラテス的方法とは、哲学ではなく「哲学することを教える」技法であり、哲学に関する授業ではなく「生徒を哲学するようにさせる」技法である。(中略)
哲学的方法が目ざすのは「原理へと遡る」作業を安全・確実にすることである。(中略)
では「原理へと遡る」作業を、どのようにして実現するのか。それは通常の授業によっては実現できない。結果として得られた哲学的な諸真理を伝えるだけでは、単なる哲学の歴史の授業に過ぎない。そうではなく、生徒が「自分で考え、抽象の技法を自ら行なう」授業が求められる。このとき模範となるのがソクラテスである。(中略)
しかし教育は、生徒に対して外的影響を行使することである。外的影響に左右されない人間を、外的影響によって育てる。これは可能なのか。ネルゾンによれば、外的影響の意味を二つに区別することで解決できるという。すなわち、単なる「外的刺激」と「外的決定の根拠」である。外的決定の根拠を教える場合、それは他人の考えを受け入れるよう強制することになる。他方、外的刺激を通して、人間精神本来の「自ら判断し行動する」という活動が呼び覚まされうる。それゆえ、哲学の授業は「哲学的理解を阻む外的影響を計画的に弱め、哲学的理解を促す外的影響を計画的に強める」ことを課題とする。」128-129頁

で、外的影響を二つに区別するとして、教育学は伝統的に「興味」という外的刺激を効果的なものとし、単なる「注入」を悪いものと考えてきた(ヘルバルトとか)。パッと見、ネルゾンの言う「単なる外的刺激/外的決定の根拠」の区別は、伝統的な「興味/注入」という区分とはかなり違うように思える。その違いは、具体的には「技術」の有無にあるように思える。ネルゾンの方には対話を効果的に導く技法への配慮が見える。とはいえ、ヘルバルトも「興味」を放任するのではなく、「教育的タクト」という技術的概念を提出しているわけで、実は本質的なところで重なり合ってくる可能性はある。

堀江剛著・中岡成文監修『ソクラティク・ダイアローグ 対話の哲学に向けて』大阪大学出版会、2017年

【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

【要約】神など持ち出すまでもなく、世界を説明することは可能です。雷だろうが、地震だろうが、日食だろうが、なんだろうが、すべて「原子」の振る舞いによって合理的に説明することができます。そうやって神様抜きで物事の本質を捉えれば、迷信から抜けだし、不安が消えてなくなり、平穏で幸福に暮らすことができます。

【感想】エピクロスの教説を、ほぼそのままなぞっている。原子説や、自由意思の発生の根拠や、気象地質学に関する見解や、幸福と倫理に関わる議論や、社会契約論など、基本的にエピクロスからの逸脱は見られない。

顕著な特徴を挙げるとすれば、繰り返し強調される「宗教」への敵意だろうか。ルクレーティウスによれば、この世の不幸の原因は全て宗教(あるいは宗教による迷信)にある。雷や地震などの自然現象を徹底的に合理的に解釈するのは、宗教による迷信を取り払うためだ。
とはいえ、彼の自然科学的な説明は、現在の科学水準からすると、思わず笑ってしまうほどトンチンカンではある。が、故に、真空中での物体の落下速度は等しいとか、可算無限の等質性とか、エネルギー保存法則への言及があるところには、けっこう驚く。

【要確認事項】
個人的に気になったのは、全体的な論調がルソーを思い起こさせるところだ。特に似ているのは、(1)自然科学に対する素朴な信奉、(2)人間の自然状態を根拠とした社会契約論にある。

(1)自然科学の知識に関しては、もちろんルソーの水準はルクレーティウスを遙かに上回ってはいる。また、ルソーは物理学というよりも普遍的な数学理論の方をより本質的なものと見ているようではある。とはいえ、自然科学的な知識を土台として世界を合理的に見ていこうとする姿勢は、極めてよく似ているように思う。

(2)そしてそれ以上に気になるのは、自然状態を根拠とした社会契約論がよく似ていることだ。特に本書の議論は、要所要所でルソー『人間不平等起源論』を直ちに思い起こさせるような言い回しに溢れている。ルソーがエピクロスやルクレーティウスからどの程度の影響をうけているのか、専門家でない私には今のところ見当がつくわけはないが、素人でも明らかに気がつく類似であることは、メモしておきたい。

その上で、ルソーとの決定的な違いは、ルソーがそれでも最後には神の存在を認めている点と、社会契約論を単なる現状説明で終わらせずに理想の社会を描いている点にあるように思う。

【今後の研究のための備忘録】

本書に見られる社会契約説的な議論は、単にスローガンを掲げるだけのエピクロス教説とは異なり、人間の自然状態の記述から説き起こしており、近代の社会契約説を直ちに想起させるものとなっている。(ちなみにエピクロス本人も、今はすでに失われてしまった書物のなかで社会契約論を詳細に展開していた可能性は高そうだ)

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力な力か、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

ルクレーティウス『物の本質について』樋口勝彦訳、岩波文庫、1961年

【要約と感想】プロチノス『善なるもの一なるもの』

【要約】「存在」とは要するに「ひとつ」であることです。「ひとつ」とは、「知性」や「精神」や、あるいは「万有」といったものよりも先の何かです。われわれはその「ひとつ」と一体になることによってのみ、本当に存在し、幸福になることができます。しかしその有り様は言葉によって説明することがそもそも不可能な事態であって、実際に経験するしかありません。
ただし、どうして「一」から「多」が生じたのか、という問題に答えるのはとても難しいです。

【感想】プラトンが対話編で具体的に展開した議論を、筋道立てて抽象的な論理にまとめるとこうなるという、新プラトン主義の精髄のような論文だ。そして新プラトン主義の「存在」に対する議論は、キリスト教神学を経由して、近代西洋哲学の土台になっていく。これこそ「同一性の哲学」の核心だ。たとえば、ここに描かれた「一から多への運動」は、そのエッセンスをヘーゲル精神現象学もパクっているんじゃないかと思えたりするし、自己へ還る「ひとつ」という主体の様式の議論は、そっくりそのまま実存主義と重なる。極めて重要な霊感がたっぷり詰まっている論文であるように思う。

一方、訳者の翻訳の仕方にも関わってくるとは思うのだが、とても東洋的なセンスを感じる論文でもある。言葉では伝えられずに経験によって伝授するしかない真実の在り方に関しては禅が言う「不立文字」をどうしても想起せざるを得ないし、あるいは現実の物質的世界を解脱して「ひとつ」と精神的に一体化するという展望は、そのまま仏教の教えと重なる。神と一体化するというよりも歓喜のうちに神自体になるという論理には、東洋的なセンスを感じざるを得ない。

とはいえやはり、最終的には本書は「同一性」の哲学であって、東洋の「空」の思想とは決定的に異なる。この「同」と「異」をどう捉えるかは、西田幾多郎的な課題となる。

【この本は眼鏡論にも使える】
「一と二の関係」を原理的に考察する本書の論理は、もちろん眼鏡論にも多大な霊感を与える。なぜなら、「眼鏡っ娘は一」であるのに「眼鏡と娘は二」という根本的な絶望に対し、論理的な光明を与えてくれるからだ。

「かくて、見るものは見られたものと相対して二つになっていたのではなくて、見られたものと自分で直接に一つになっていたのであるから、相手は見られた者というよりは、むしろ自分と一つになっているものというべきであったろう。」47頁

プロチノスのいう「見るもの」と「見られたもの」との対立は、まさに眼鏡という視線を制御するアイテムが「媒介」するものにふさわしい論理構成と言える。

「ところで、これらの各は一つずつの知性であり、存在なのであるが、これらを合わせた全体は、知性の全体であり、存在の全体なのであって、その場合知性は直知することによって、存在を存立せしめ、存在は直知されることによって、知性にその有様を与え、直知することを得させているのである。とはいえ、直知の原因となるものは別にあるのであって、それはまた存在に対しても原因になっている。つまり両者に対して同時に原因となるものが別にあるのである。というのは、両者は同時に、しかもいっしょにあって、互いに見棄てることのない関係にあるけれども、この知性と存在のいっしょになっている一者は二者なのである。すなわち知性は直知する作用に即してあり、存在は直知されるものの側にある。これはすなわち、異の対立がなければ、直知は成り立たないであろうということなのである」63-64頁

この文章の解釈は困難ではあるが、眼鏡について語っていることは間違いない。「知性=眼鏡」と「存在=娘」を同時に成り立たせる原因である「別のもの=眼鏡っ娘」ということだろうか。さらに研究を深めなければならない。

プロチノス『善なるもの一なるもの』田中美知太郎訳、岩波文庫、1961年

【要約と感想】テオプラストス『人さまざま』

【要約】ギリシアでは気候も環境も教育も一緒のはずなのに、なぜか人々の性格が違ってしまいます。その現象に興味を持ち、様々な性格の特徴について書き記しました。
この本には、噂好きとか恥知らずなど、特に真似すべきでない人々の事例が集まっています。

【感想】著者は、アリストテレスの同僚で友人。アリストテレスも『弁論術』で人々の性格の相違について論じており、本書もそれに通じる。人々の性格が異なる現象に対して、昔から多大な興味関心が寄せられることを確認できるという点だけでも、本書の存在意義は大きいように思う。
ただしアリストテレスが比較的体系的に人間の性格を論じているのに対し、本書には体系性をまったく感じない。おもいつくままに様々な性格が列挙されているだけのように思える。
まあ、2300年も前の異国の人間たちについて書いているにも関わらず、現代日本人の私にも思い当たることが多く、なかなか興味深く読める。細かいギャグも多く、さくっと楽しみながら読める。

【備忘録】
「無駄口」について語る個所では、「今の人間は昔の人間よりも悪い」という例のアレを見ることができる。こういう話題は下劣な人間が口にするものだということが示されている好例。

▼無駄口
「さてそこで、いよいよ話に身がはいってくると、しゃべりつづける。近頃の人間は、ひと昔前のものより、相当たちがわるいですね、とか」p.21

テオプラストス『人さまざま』森進一訳、岩波文庫、1982年

【要約と感想】ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』

【要約】ギリシアの哲学者たちの経歴や思想内容を解説するものの、作者がいちばん興味を持って記録しているのはゴシップ的な雑知識だったりする。特に死に様を茶化して、おもしろおかしく書いていたりする。

【感想】哲学的な内容としては確かにショボイのだけれども、それでも本書が貴重な史料であることには変わりない。哲学内容に関しても、ほんとうに分かっているのかな?と不安になるところもあれば(特に哲学的対話法のあたり)、ストア派とエピクロス派の違いなど、よく分かるように描かれているところもある。

あるいは、哲学者の並び方自体に思想史的な背景を伺うこともできる。筆者はギリシア哲学者を、イオニア系とイタリア系と、大きく二つの系列に分けている。そしてイオニア系の始祖がタレスで、イタリア系の始祖がピュタゴラスだ。
そしてイオニア系は、タレスからソクラテスとプラトンを経て、アカデメイア派(正当プラトン流)、ペリパトス派(アリストテレス)、キュニコス派(アンティステネス)、さらにストア派へと展開する。
一方のイタリア系は、デモクリトスへと発展する一方、パルメニデスやエピカルモスでプラトンと合流したりする。
こういうふうに現在の常識となっている一連の哲学史的なストーリーは、既に本書に明確に現われている。そう考えると、人物の並び方自体に一つの知見が現われていると言えるわけだ。

またあるいは、哲学的な内容を離れ、哲学者たちのゴシップ集として興味本位に読むのも、けっこうおもしろいかもしれない。特に笑えるのは、飄々としたアリスティッポスの俗物ぶりや、樽のディオゲネスの風変わりなキャラクター描写だ。作者も、笑わそうとして、おもしろおかしく書いているように思える。

また、ちょっとした描写に、当時の価値観を垣間見ることができるのは、興味深いかもしれない。たとえば「子供」や「教育」に関する見解がそこかしこに現われていて、それぞれとてもおもしろい。(とはいえ、ギリシア語原典で読まないと言葉のニュアンスをしっかり理解できないので、翻訳文のみで早合点するのは迂闊であろうが。)

以下、気になったトピックを備忘録的に記録しておく。だいたい、みんな、素直じゃない。ひねくれた言葉が残っている。

【結婚について】
古代から結婚が人生の一大事であったことが、よく分かる。おおむね、ひねくれている。

■タレス
「彼の母親が彼をむりやりに結婚させようとしたとき、「まだその時期ではない」と彼は答えたが、その後、年頃をすぎてから、母親がもう一度つよく促すと、「もはやその時期ではない」と答えたということである。」上31頁

■ピッタコス
「あの子たちに見ならいなさい」とピッタコスは言った。そこでその男は子供たちのところに近づいた。
すると子供たちは、「お前のところにあるのを追いかけろ」と言っていた。
その男はこれを聞くと、子供たちの言葉に暗示されて、家柄の高い方から娘をもらうのを控えた。
ところで、あの者が身分の低い方の花嫁を家に迎え入れたように、
そのように君も、ディオンよ、君自身のところにあるものを追いかけるようにせよ。
ピッタコスのこの忠告は、彼自身の事情にもとづくものであったように思われる。というのも、彼の妻はペンティロスの子のドラコンの妹だったので、彼よりも生まれがよかったために、彼に対してたいへん横柄だったからである。」上74-75頁

■ソクラテス
「結婚したほうがよいでしょうか、それとも、しないほうがよいでしょうかと訊ねられたとき、「どちらにしても、君は後悔するだろう」と彼は答えた。」上144頁

■ビオン
「結婚したものかどうかと相談を受けたときには――というのも、この話はビオンにも帰せられているからであるが――彼の答は、「君の結婚相手が醜い女なら、君は代償を支払うことになろうし、また美しい女なら、君だけのものというわけにはいかないだろう」というのであった。」上375頁

■アンティステネス
「どんな女と結婚したらよいだろうかと訊ねた人に対しては、「美しい女なら、それは君がひとり占めすることのできないもの(コイネー)となろうし、また醜い女なら、高い代価のつくもの(ポイネー)になろう」と彼は答えた。」中111頁
「賢者は結婚するだろうが、それは子供を産むためであり、そしてそのためには、最も育ちのよい女と一緒になるであろう。
さらにまた、賢者は恋もするであろう。なぜなら、賢者だけがどのような人たちを愛すべきかを知っているからである。」中117頁

■ディオゲネス
「どのような年頃に結婚すべきでしょうかと訊ねられたとき、彼は答えた、「青年はまだその年ではないし、老人はもうその年ではない」と。」中154頁

【教育について】
既に様々な立場から教育について論じられていたことが分かる。

■キロン
「教育のある者は無教育な者とどの点で異なるかと訊かれたときに、「よい望みがあるという点でだ」と彼は答えた。」上66頁

■クレオブゥロス
「彼はまた、ひとは自分の娘たちを、年齢の上では少女として、しかし思慮の点では女として嫁がせねばならないと言った。こうして、少女たちにも(少年たちと同様に)教育の必要があることを示したのである。」上84頁

■アリスティッポス
「教育を受けた者と無教育の者とはどの点でちがうかと訊ねられたとき、「それは調教された馬が調教されていない馬とちがうのと同じ点においてだ」と彼は答えた。」上174頁
「アリスティッポスは、立派な子供たちが学ぶべきことは何かと訊ねられたとき、「かれらが大人になったときに使うはずのことだ」と答えた。」上182頁

■アリストテレス
「彼はまた、「教育の根は辛いが、その果実は甘い」と言った。」中26頁
「教育を受けた人は無教育の人とどの点で異なるかと訊かれたとき、「生きている人が死んだ人と異なっているのと同じ程度にだ」と彼は答えた。」中27頁
「子供たちを教育した親のほうが、ただ産んだだけの親よりもいっそう尊敬されるべきである。なぜなら、後者は、生きることをもたらしただけであるが、前者は、立派に生きることをもたらしたのだから」中27頁

■樽のディオゲネス
「エウブゥロスが『ディオゲネスの売却』という表題の書物のなかで述べているところによると、彼は(主人の)クセニアデスの息子たちを、次のような仕方で教育したということである。すなわち彼は、他の学業をすませると、乗馬、弓引き、石投げ、槍投げの指導をしたし、またその後、息子たちが相撲場へ通うようになってからは、彼は体育教師に対して、競技選手向きの訓練を施すことを許さないで、ただ血色をよくし、身体を好調に保つことになるだけの訓練を行なわせたのであった。
また、その息子たちは、詩人や散文作家や、さらにはディオゲネス自身の書物のなかからも数多くの章句を覚えさせられたし、そして学んだことを記憶にとどめやすくするための早道となるありとあらゆる方法も練習させられたのであった。また家にあっては、彼らは身の廻りのことは自分で始末をし、粗食に甘んじ、水を飲んですますように彼はしつけた。さらに、髪は短く刈らせて飾りものはつけぬようにさせたし、また道中では、下着をつけず、靴もはかず、口はつぐんだままで、あたりをきょろきょろ見廻すこともないようにさせた。その上また、彼らを狩りにも連れて行ったのだった。」中135-136頁

▼ゼノン
「ところで、ある人たちは――そのなかには懐疑派のカッシオスとその弟子たちも含まれているが――多くの点にわたって、ゼノンを糾弾している。すなわち、かれらが非難しているのは、まず第一に、『国家』の初めのところで、彼が一般教育は無用であるという考えを表明している点である。」中232頁

そして、以下の引用は学校にまつわる話だが、とても酷い。今も昔もそんなに変わらないということか、どうか。

■ゼノン
「少年好きの一人の男に向かって、彼はこう言った。学校の先生たちだって、いつも少年たちの間で過していると、分別を失うものだが、あの連中だってそれは同じことだと。」中219頁

ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波文庫、1984年
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)』岩波文庫、1989年
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』岩波文庫、1994年