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【要約と感想】パスカル『パンセ』

【要約】当局から異端として弾圧されていたジャンセニズムを熱烈に信奉する著者がキリスト教護教論を書こうと試みて残したメモや書き抜きノートの断片集です。
 人間本性はアダムの堕落によって損傷してしまったので、人間とは本質的に惨めな存在ですが、その惨めさに自ら気付いていることにより他の被造物にはない尊厳があるし、キリスト教を信じていれば救世主による回復を期待できます。救いがあろうがなかろうがどっちにしろキリスト教を信じた方が理論的に考えてお得なので、信じることをお勧めします。キリスト教が素晴らしいのは、その敵であるユダヤ人の存在そのものによっても自明に証明されますが、いちばん説得力があるのは奇跡です。奇跡は、あります。

【感想】事前の期待値が高かったせいだろうが、少々ガッカリした。期待していたものが見いだせなかっただけでなく、失望させられるような文章ばかりが並んでいた印象だ。特に著者が奇跡を信じているだけでなく他人にも信じさせるように試みているのは、心底バカバカしく思った。本書を誉めそやす人々が多かったので名著だと思い込んでいたのだが、いやいや、著者がこういうバカバカしい世迷言を本気で吐いていることにもちゃんと言及しておいた方がよいのではないだろうか。「理性批判」だとか大層なことを述べている解説も目にするが、実はパスカルは単に子供騙しの奇跡を信じて理性を腐していただけのことで、カントの理性批判のような綿密な論理が背景にあるわけではないし、なんならトマス・ア・ケンピスとかイグナチウス・ロヨラのほうが徹底している。本書にはデカルト以後というインパクトがあるに過ぎない。また聖書解釈の恣意性にも心底呆れかえる。自説に都合の良い記述を聖書から一生懸命にかき集めて敵を論破しようとしているところが、極めて愚かしい。聖書の記述からはパスカルの敵にとって都合の良い記述だっていくらでも引っ張ってこられるはずだし、イエズス会は実際にそうした。そりゃそうだ。ユダヤ人に対する身勝手な解釈にもあきれ返る。数学や自然科学で素晴らしい成果を上げた人間がこういう愚かな作業に熱中してしまったことが残念でならない。
 そういうガッカリする残念な内容をざっくり削り落として、文学的に意味ありげで思わせぶりな名句だけ抜き取れば、確かに傑作に見えなくもないものができあがるかもしれない。しかしそういうふうに人文主義的な著作として読まれることは、おそらく著者の本意とはかけ離れているものだ。著者の本来の意図には、現代的な意義はまるでない。もしも断片ではなく完成した形で伝わっていたとしたら、おそらく凡作として歴史の波に埋もれていただろう。まあ、研究者か狂信者でなければ、名句をつまみ食いするのは何かしらの意味を持つとしても、全編を通読する価値はない本だ。特に聖書絡みのところなど、現代人が読む価値は一切ない。私は研究者なので、真実を語った本としてではなく、歴史的史料としておもしろく読んだが、ホメロス『イリアス』プラトン『ティマイオス』に並ぶ三大ガッカリ古典として印象を刻んだのであった。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論・社会有機体論
 パスカル本人が社会契約論を述べているわけではないが、それを彷彿とさせる記述が散見されて、気になるところだ。

「人間はすべて、生まれつき互いに憎みあっている。人々は、可能な限り、人間の欲心を利用して公共の利益に役立たせようとした。しかしそれは作り事であり、愛の偽りの姿にすぎない。実のところ、それは憎しみにすぎないのだ。」(ラ210/ブ451)
人々は欲心を基礎として、そこから統治と道徳と正義の素晴らしい原則を引き出した
 しかし結局のところ、人類のこの邪悪な核心、この「悪しきありさま」はただ覆われているだけで、取り除かれてはいない」(ラ211/ブ453)
「(前略)人間たちが群を作りはじめる場面に立ち会っていると想像してみよう。必ずや彼らは、より強い部分が弱い部分を押さえつけて、ついには支配勢力ができるまで戦うだろう。しかしいったんそれが決定されると、支配者たちは戦争が継続することを望まないので、今度は手中にある力が自分たちの思いのままに受け継がれるように定める。ある支配者たちはそれを人民の選挙に、他の支配者たちは世襲に委ねる、等々。」(ラ828/ブ304)

 これはすぐさまマンデヴィル(1670-1733)の「蜂の寓話」を想起させる記述だが、マンデヴィルはパスカル(1623-1662)が死んだ後に生まれている。つまり「欲心を利用して公共の利益に役立たせよう」というアイデアはマンデヴィルやパスカルの創見ではなく、17世紀後半には広く共感されるような考え方だったと見なす方がよいだろう。彼らに先行するのは、ホッブズ、スピノザ、モンテーニュの著述だ。彼らが出したり出さなかったりした結論はそれぞれ独特だが、人間の「欲心」を虚心坦懐に観察し、その欲心が社会を構成する基礎だと見抜いたところは共通している。そして社会契約論と呼ばれる考え方の肝は、この人間の自然心性に備わる欲心を基礎に理論を構成するところにある。パスカルは、この社会契約論的な考え方の肝に言及した上で、それを「邪悪な核心」だと批判しているわけだが、これがキリスト教護教論の立場ということだろう。ところで解説(上巻271頁)ではパスカルの記述が『プギオ・フィデイ』の内容に呼応しているとされていて、それは文献学的なレベルではそうなのだろうが、背景としてホッブズ・スピノザの影響はどうだったのかは気になるところだ。
 また、社会有機体論的な記述も散見され、どういう背景があるか気になるところだ。

「手足が幸福になるようにするためには、手足が意志をもち、それを体全体に合致させることが必要だ。」(ラ370/ブ480)
「考える手足が集まって出来上がった体を想像してみるがよい。」(ラ371/ブ483)
「もしも足と手に個別の意志があるとすれば、その個別の意志を、体全体を統御する第一の意志に従わせることによってしか、手足本来のあり方を守ることはできない。それを踏み越えれば、混乱と不幸に陥る。しかし体の幸福だけを望むことによって、手足は自分自身の幸福を実現する。」(ラ374/ブ475)

 これはもちろん具体的にキリスト教会をイメージした記述で、パスカル以前から広く見られる考え方ではあるが、ただ、手足が意志をもったり「第一の意志に従わせる」ことはホッブズ的社会契約論のイメージとも重なり合うところだ。どの程度の影響があったのかは気になる。
 そして実は、複数の人間を集めて一個人と見なす有機体論的発想は、『パンセ』以外の自然科学的な著作(真空論序言断章)でも表明されている。

「無限のためにのみ造られた人間は、人生の始まりの時期には、無知の状態にある。しかし彼は絶えず学びつづけて、進歩していく。こうして人間にのみ与えられた特権によって、個々の人間が日に日に学問において成長するばかりでなく、人類全体も、宇宙が年を取るのに応じて、絶えず学問の進歩を遂げる。じっさい一個人の異なった年代に生じるのと同じことが、人類の経歴においても生じる。こうしてこれほど多くの世紀の経過する間に相次いで登場した全人類は、つねに生存し、絶えず学んでいく同じ一個の人間と見なさなければならない。」(下巻287頁)

 これは明らかにキリスト教会的な社会有機体論ではない。16世紀以降のベーコン・デカルト的な学問観と響き合うものと理解していいのかどうか。デカルト『方法序説』には、科学による無限の進歩に関する楽観的な表明を見出すことができるが、有機体的な表現ではない。

【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
 パスカルは人間の立ち位置を神(創造主)と獣(被造物)の中間と見ているが、特に独創性があるというわけではなく、キリスト教の古代から引き継がれている伝統的な観念を繰り返しているに過ぎない。ただし、神と獣の間にある人間の「尊厳」をどこに見るかについてはルネサンス期から議論が積み重ねられてきており(たとえばピコ・デラ・ミランドラ)、その蓄積された議論をパスカルがどの程度参照しているのかは気になるところだ。

「人間は明らかに考えるために造られている。人間の尊厳、人間の取柄のすべてはそこにある。人間の務めのすべては、しかるべき考え方をすることにある。」(ラ620/ブ146)
人間の尊厳は、無垢の状態にあっては、被造物を用い、それを支配するところにあった。しかし今日では、被造物から離脱し、それに服従するところにある。」(ラ788/ブ486)

 一番有名なフレーズである「考える葦」にも見られる通り、パスカルは人間の尊厳の根拠を「考えること」に見出している。それがルネサンス期に尊厳の根拠として主張された「理性」と範囲が同じかどうかが問題になるところか。

【個人的な研究のための備忘録】私の同一性・人格
 同一性に関しては、人格という概念の召喚と絡んで、なかなか興味深いテキストが残されている。

「<私>とは何か
 (前略)誰かをその美貌のために愛する人は、その人を愛しているのか。否、天然痘にかかれば、命は失わなくても、美貌は失われるが、そうなれば、彼はもはやその人を愛さないだろうから。
 そして、もし私が、判断力や記憶力が優れているという理由で愛されるとして、この私はたしかに愛されているのか。否、私は自分を失うことなしに、これらの性質を失うことができるのだから。それでは、この<私>はどこにあるのか。体のうちにも、魂のうちにもないとしたら。そして体にせよ魂にせよ、その性質のためでなしに、どうしてそれを愛することができるのか。しかるにその性質は滅びゆくものである以上、<私>を形作るものではない。いったい、ある人の魂の実質を抽象的に、そこにどんな性質があろうと愛するなどということがあるだろうか。それは不可能だし、だいいち、不正だろう。だから人が愛されることは決してない、愛されるのは性質だけだ。」(ラ688/ブ323)
「彼は、十年前には愛していたあの人をもはや愛していない。無理もない。彼女はもはや同じではないし、彼にしても同様だ。彼は若かったし、彼女もそうだった。彼女は今や別人だ。昔のままの彼女だったら、まだ愛するかもしれないが。」(ラ673/ブ123)

 ただちに大澤真幸『恋愛の不可能性について』を想起させる記述ではある。<私>が性質の束に還元できない共約不可能な存在であるとして、その<私>が何なのかをパスカルは想定できないと言う。しかし実はそれは反語的に「神の愛」の絶対性を主張している。解説はこう言っている。

「彼が言おうとしているのは、人格に向けられる愛が存在しないということではない。逆に、人格に対する愛について、それに先行する原因として、何らかの永続的な価値を想定するのが間違っているということである。」下巻417頁、解説Ⅱ

 ここで個人的に注目したいのは、パスカルが本文中で一度たりとも使用していない「人格」という言葉が、解説で召喚されているという事実だ。つまり、性質や記述の束に還元できない何らかの「愛の対象」を指して本書解説は「人格」という言葉を呼び起こしている。個人的には、これこそが「人格という概念の誕生の瞬間であると思っている。仮に何かを「愛している」として、その愛の対象が性質ではないことを言い表そうとしたときに、初めて「人格」という言葉が必要となる。パスカルの「愛」に関する記述は、「人格」という概念の召喚を欲望する文学的な表現としてはオリジナリティを持っているように見えるが、どうなのか。
 またあるいは、その愛の対象としての「人格」は「魂」と呼ばれる概念と同じ輪郭を持っているだろうことが、次のパスカルの言葉からも分かる。

「私の体は、そこに私のが欠けていれば、一人の人間の体とはならないだろう。したがって、いかなる質量であれ、それと結びついた私のは、私の体となるだろう。」(ラ957/ブ512)

 ちなみに同じ節にある記述は、「同一性」という概念について考える際に、少し興味深いサンプルを与えてくれる。

「そこの流れる同じ川は、同時にシナの地を流れる川と数的に同一である。」(ラ957/ブ512)

 そしてパスカル本人が「本当の自分」という乙女チックな表現をしているが、これが当時のフランス語においてどういうニュアンスの表現だったかは気になるところだ。

「私たちは自分本来の存在のうちで営む人生に満足できない。私たちは、他人の心の中に形成される私のイメージに合わせてもう一つの想像上の私を生きることを望み、そのために見かけを整えようと努力する。絶えず人の目に現れる自分を飾り立て、それを後生大事に守り、本当の自分はなおざりにする。」(ラ806/ブ147)

 また解説で「紳士」という「普遍的な存在」に触れているところで、「人格」という言葉が召喚されている。

「「普遍的な存在」とは、すべての専門家の資質と能力を兼備した存在ではない。逆に、あらゆる役割と専門の手前にある生身の存在、すべての社会的属性を剥ぎとられた一個の、しかし丸ごとの人間である。(中略)人と人との人格的交わりの基礎にあるのは、この「人間としての完全な形を備えた」各人の「普遍的な存在」であり、その自覚が交流の糸口になる。パスカルが紳士を重視するのは、そこにモンテーニュの言う普遍的存在を見ていたからである。」420-421頁、解説Ⅱ

 この場合の「人格」とは、すべての社会的属性を剥ぎとられた裸の一個人という意味だ。先ほど確認したような、あらゆる具体的「性質」を剥ぎ取られた「愛の対象」という「人格」概念と響き合ってはいる。ただし完全に価値中立的というわけではなく、「紳士」という概念が貼りついている。日本語で言えば「人格者」とでも呼ばれるものだろう。つまり「人格」とは、建前上はあらゆる性質や社会的属性を剥ぎ取ったと言いつつ、実質的にはそうではない何らかの性質や属性を匂わせるものらしい。
 ところで、本文に「人格」という言葉は一度たりとも登場しないが、「ペルソナ」という言葉は登場している。

「人の心にとっては、三位一体のうちに三つのペルソナを信じようと、四つのペルソナを信じようと、どちらでもよい。」(ラ963/ブ940)

 三位一体の文脈で登場するわけだが、カトリック的にこれは大丈夫なのか。普通に考えたら異端以外の何物でもないが。

【個人的な研究のための備忘録】子ども
 そして17世紀において、やはり子どもはバカにされていたという記述もサンプリングしておく

「[偉人たち]は、私たち、最も小さな者、子供、獣に劣らず、おとしめられている。」(ラ770/ブ103)

パスカル『パンセ(上)』岩波文庫、2015年
パスカル『パンセ(中)』岩波文庫、2015年
パスカル『パンセ(下)』岩波文庫、2016年

【要約と感想】八木雄二『1人称単数の哲学―ソクラテスのように考える』

【要約】科学のように物事を三人称で表現しようと試みる道具的なことばに対して、ソクラテスは世間(第三者)の評価が紛れ込むような欺瞞的な「わたしたち」のことばを使わず、私とあなたの一対一の問答を通じて主体的な真理を見出すため、自分の知覚したことを率直に表現する一人称単数の哲学を貫きました。しかし西洋哲学は、スピノザやカントなど少数の例外を除き、不肖の弟子プラトンからフッサールに至るまでソクラテスの姿勢に反し、三人称の真理を追究してきました。しかし「死」に直面した時、人は必ず「わたし」に引き戻され、「命」に向き合う大切さに気がつくはずです。

【感想】著者が主張するところの「一人称単数」(かけがえのないわたし)のコミュニケーションの重要性については、よく分かるつもりだ。でもそれは、詩や小説やマンガなど、さらには絵や音楽やダンスなどの芸術表現で常に行われていたことではないか、とも思う。そういう営みに目を向けず、あえて哲学の世界でそれを追及しようとする試みにどのような意味があるのか、疑問なしとはしない。思い返してみると、たとえばフランシス・ベーコンは、そのあたりまでしっかり射程に入れて「学問」全体の議論をしている。個人的な知覚(直観)に基づいたコミュニケーションや表現は芸術に任せて、哲学は別の仕事をする、ではいけないのか。一人称単数のコミュニケーションを目指すなら、哲学者ではなく文学者になるのではいけないか。ルネサンス期にピコ・デラ・ミランドラが哲学者でなく雄弁家を目指したように。あるいは言語学的な探求ではいけないのか。バンヴェニストのように。ソクラテスがやっていたことは、「知を愛する」ことであって、哲学ではないのだろう。あるいは、ソクラテスがやっていたことだけを「哲学」と呼びたいのであれば、なるほど、副題が「ソクラテスのように考える」となっていることに合点がいく。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 本書では、著者は現代の学校教育を反ソクラテス的な営みとして引き合いに出してくる。

「わたしたちは、主観的であるもの(たとえば個人的意見)は、客観的であるもの(たとえば知識)によって、置き換えられるべきだと、学校で、人生の初期に教えられる。主観的意見は、主観的である(各人各様である)という理由で、社会においては、ほとんど無意味であると見なされる。」45-46頁
「ソクラテスが裁判で訴えられた問題の一つは、若者の教育問題であった。訴えたメレトスは、人間の教育は広く社会的になされるものだと主張した。さらに、ソクラテスが『弁明』でさまざまに述べているように、町なかで人を呼び止めて始められる彼の問答は、一人を相手にする一対一の問答であった。」46頁
「現代日本の学校教育は、「みなと同じように考える」ことを教える教育である。これは一様な考えを身に付けた一人の教員によって、多数を相手にできる演説教育である。なぜなら、「一様な考え」を教えることは、つねに「同じこと」を「知るべき知識である」と教えることだからである。しかしこの教育では、そのなかでどんなに「個性の尊重」を唱えても、「自分で考えて世界を変える」個性的判断能力は育たない。」180頁
「人間の一生を支える正しい教育は、「自己」に気づくことができる年齢からの正しい「自己教育」から始まる。なぜなら、「わたし」は、自分が他者とは異なる存在であることを意識していなければ、「自分の知覚」を大切にすることはできないからである。そして、自分の知覚を大切にすることが、すでに述べた理由で、「真理を知る」第一歩である。」183頁

 なるほどだ。しかしその程度のことなら200年前にヘルバルトが既に気がついていて、人格の形成と知識の取得を「思想圏の拡大」や「多方の興味」という契機で止揚している。科学的教育学の始祖によれば、客観的な知識の獲得と個性の尊重は、まったく矛盾しないどころか、相互に補完的な関係にある。あるいは古代中国でも、論語が「學びて思はざれば則ち罔し。思ひて學ばざれば則ち殆し」と言っている。知識だけでは個性を失うが、個性だけでは人々を不幸にする。

八木雄二『1人称単数の哲学―ソクラテスのように考える』春秋社、2022年

【要約と感想】八木雄二『「神」と「わたし」の哲学』

【要約】「普遍論争」を縦軸に、ギリシャ哲学(理性)とキリスト教(信仰)を横軸に、西洋中世哲学の論理を、日本語の考え方との比較を織り交ぜながら概観し、現代日本で研究する意義を主張します。
 中世哲学はしばしば神の存在証明を試みます。そもそも観察や実験によって物事を「客観的」に主体から切り離して第三者に共有できるような普遍的な真理を三人称で表現しようとする科学に対して、哲学は一対一の対話の場面で共有できる「ことば」を吟味することで主観的な真理を一人称で明らかにしようと努めるものです。中世哲学は、三人称の真理に対して、二人称の「神」を前にした一人称の真理を貫こうとする営為です。

【感想】話の流れの中で思いついたことを言いたい時に言うようなスタイルで、同じ話題が何度も繰り返されたり、論証に必要な前提がすっとばされたりするなど、論点がとっちらかって構造化されておらず、蓄積された研究史の中でどういう意味を持つかも意図的にか言及されないので、「だからなんなの?」と言いたくなるような場面は多いが、まあ、西洋中世哲学の基本的知識を持っていれば「ですよね」というような記述にもでくわして、全体的にはおもしろく読める。あまりにも現代人とは異質な中世人の思考を理解しようとする場合、こういう一人称スタイルの哲学書があってもいいのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格=ペルソナ
 とはいえ、やはり「ことば」は共同主観的に吟味させていただく。著者が言う「人格」と私が考えてきた「人格」とは、どうやら別のものを指しているように見える。

「じっさいヨーロッパは、近代以降、キリスト教会の権威から離れて、啓蒙哲学を通じて民衆道徳を実現する社会を模索する方向に舵を切った。近代フランス革命は、教会が求めた聖性を排除して、世俗性をもとめる「啓蒙主義」を哲学にもたらした。そのためヨーロッパは、たとえばすべての人間に「人格(ペルソナ)権」があることは、あくまでも「哲学」が見出した真理であると主張して、それを公共の真理と認める社会を実現した。しかし実際には、「人権の思想」は中世期の「ペルソナ神学」を機縁としている。たしかに近代哲学によって産業社会における民衆にとっての人権の研究が進んだが、人権の思想が生まれた機縁となったのは、あくまでも「聖三位一体」論というキリスト教の神学問題であった」53頁

 著者が他の著書でも主張している論点だが、個人的には強い違和感を持つ。個人的に研究してきたところでは、近代以降の「人権の思想」を中世からルネサンスにかけての哲学に見出すことは難しいと思っている。ポイントは、おそらく中世法学でlex(自然法)とjus(自然権)が分解していく過程にある。ギリシア哲学ではなく、ローマ法学が肝だ。著者も本文中でキケロに何回か言及しているが、基本的に雑魚扱いで、全体的にローマ文化を軽視している。おそらくその認識が根本的な間違いで、キケロの影響は「哲学」ではなく雄弁術も含み込んだ「法学」に色濃く表れるはずだ。たとえばルネサンス期の「人間の尊厳」概念は、哲学ではなく、雄弁術から立ち上がってくる(ピコ・デラ・ミランドラ)。そんなわけで、著者が「人権」や「人格」の概念の源泉を西洋中世哲学に見出そうとするのは、無理筋に見える。いやもちろん、中世法学は中世哲学と未分化に展開して、簡単に分けられるものではないが。

「キリスト教の「神」がもつ「人格性」(ペルソナ性)を理解することは、日本人にとっては特別なことであって、分かって当たり前のことではない。なおのこと、「三つの人格(ペルソナ)をもつ「一つの神」がキリスト教の神である。これらのすべてを理解することは日本人の手に余ることである。つまり日本語では、説明しきれない。(中略)
 まずボエティウスによれば、「ペルソナ」personaの語は、劇で使われる「仮面」を意味するラテン語である。それが神のもつ「人格」を指すことばに転用された。「仮面」とはいえ、「表面」的なことだと受け取ってはならない。じっさい、キリスト教の誕生以前、キケロは、「顔つき」vultusは、その人間の「人格」を表すと考えた。また、アメリカ大統領リンカーンは、四十を過ぎたら自分の顔に責任があると言ったという。この逸話は、「顔つき」と「人格」との間の関連が、ヨーロッパ文化の基層にあることを示している。」204頁

 哲学の世界では言われがちなこと(坂部恵)で著者の創見ではない記述だが、個人的にはもうこの「仮面」に基づく伝統的な説明が無理筋だと思っている。「法的人格」とは、その個人のあらゆる属性(性別・年齢・地位・財産など)に関わらず、ただルールにのっとって法的責任を果たす一個の主体として認識されるべきものだ。そういう「あらゆる属性を剝ぎ取られた一個の主体」を端的に示すのが「仮面」という表象であり、顔つきとは何の関係もないのではないか。ちなみにヘーゲルも「人格」という言葉を属性を抹消された「点」として認識している。

「そして神は、三つのペルソナでありながら、宇宙を創造し、人間を創造した一個の絶対者であると理解された。したがって、事実上、一方で神は「一個の人格」と見なされた。そして宇宙を創造し、人間を監視している神は、多数の国民を支配する国王と同じように、活発に活動し、すべてを支配している一個の「生きた主体」だと見られた。そして以上のように、「神」を人間の「王」(支配者)のように「生きた主体」であると理解することと、「神」は「人格をもつ」と理解することは、通じ合っている。」205頁
「じっさい『プロスロギオン』におけるアンセルムスの神の存在証明は、祈る相手である神を、「一個の人格」として見るのではなく、教会に属する人々の「客観的な対象」と見直すことによって、行われたものであった。つまり「神」を、「科学が対象にする客観的なもの」と見て、その存在を論じたものであった。他方、中世スコラ哲学によって、神の三つのペルソナが研究された。すなわち、三つのペルソナに共通に言われる「ペルソナ」という語が、注意深く吟味された。
 たどりついた結論は、「人格」(ペルソナ)とは、一個の個別的で完全な理性的主体である、という結論である。それは(1)理性的性格(特徴)をもつが、身体的性格(特徴)をもたない。それは(2)個々の主体(実体)であるかぎり、普遍的に対象化されない。そして(3)理性的主体性をもつゆえに、自発的な意志活動をもつ。これは、ボエティウスに始まり、リカルドゥス、トマスを経て、スコトゥスに至るまでの結論だと理解してほしい。
 ところで、自発的意思活動とは、自発的欲求活動であり、それは生命一般に見られる活動である。人間以外の命も、共通的に、個別で主体的な生命活動をもっている。したがって、個々の生命と、人格の違いは、「人格」には「理性」が加わっている、ということがあるだけである。
 また、「完全」であるとは、「正しい」ということである。したがって、「完全な理性」とは、「正しい理性」racta ratioである。そして「正しい理性」とは、「真なることばに即して考える力」である。そして正しい理性で考えて行動する人は、正しい行動をする人である。そして正しい行動を取って生きる人は、良く生きる人であり、徳の有る人である。そしてこのことにおいて最高度に完全であるのが、神の人格である。」209-210頁

 このあたりは常識的な理解のように見える。ただし三位一体と「人格」の関係を深めたのは、西ローマのカトリックではなく、東ローマ(ビザンツ)のギリシア教父だろう(坂口ふみ)。

「ところで、「ことば」によって考える能力は、「ことば」によって、自己の主体を「反省する」ことができる。そして自己の主体を反省することは、自己の存在を「自覚する」ことである。そして正しく自己を自覚する人は、「わたしが行為する」ことを自覚する人であり、それは自分の行為に責任を取る人である。」211頁

 これは稲垣良典が「再帰的な一」として詳細に展開したところだ。

「それゆえにまた、「今ここに生きて在る」ことを「正しいことば」で自覚する「わたし」は、真に「人格」(ペルソナ)と呼ばれるものである。それは「正しい理性」によってしか生じない「わたし」であり、言い換えれば「正しい理性」によってしか自覚されない「わたし」である。したがって、未熟な理性や、間違った「ことば」に沿って考える理性は、真の「人格」を構成できない。また、自己の人格を知ることが出来なければ、その「わたし」は、他者の人格を正しく理解して尊重することもできない。したがって、そのような人は「よく生きる」ことはできない。」211頁

 哲学的にはそう理解されるところが、法学的には「責任主体としての能力を持つ」という基本的な理解になるだろう。だから近代まで、奴隷や女性や子どもは「理性」があるかどうかを吟味されるまでもなく、人格を持たないことになっていた。哲学的理解の前に、法学的現実があるはずだ。「よく生きる」かどうかは、哲学ではなく、法が決める。ソクラテスもそういうふうに生きた。

「現代のわたしたちが「神」を見失っているのは、わたしたちが「真の人格」を「わたし」の内にもたないからである。すなわち、「わたし」を見失って、「みんなで」神に祈ることで安心しているからである。あるいは、「正しいことば」を得て、それに即して考える「正しい理性」をもたないからである。」215頁

 稲垣良典もそう主張する。なぜなら、「人格」という概念自体が「神の存在」を前提にできていると考えるからだ。田中耕太郎も前提としているだろうそういう発想自体が、個人的にはもうナンセンスに思える。

八木雄二『「神」と「わたし」の哲学―キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』春秋社、2021年

【要約と感想】三嶋輝夫『ソクラテスと若者たち』

【要約】ソクラテスが裁判にかけられた際、罪状の一つは若者を堕落させたことでした。実在した4人の若者、クレイトポン、アルキビアデス、アリスティッポス、プラトンの実際の言動を跡付けながら、ソクラテスの影響を考えると、思わせぶりなソクラテスの言葉にまったく問題がないというわけではないものの、仮に彼らが本当に堕落したとしたらもともとの資質によるものであって、全面的にソクラテスのせいにすることはできないでしょう。

【感想】先行研究に丁寧に当たりながら論点を明確化し、参照し得る限りの史料にあたって論理的に妥当な結論を導いていくという、テクストに即した思想史研究として極めてまっとうな行論で、おもしろく読んだ。また教育学という観点からは、ソクラテスが何を考えたかよりも、若者たちが実際にどのような影響を受けたか、のほうが主要な問題となる。そういう観点でもたいへん勉強になった。
 そして、著者は仄めかしてすらいないものの、現代の日本(あるいは世界全体)の滑稽ながらも危機的な言論状況に響き合う内容になっているのは興味深い。既存の価値観や権威が「正論」によってコテンパンに言い負かされるのを見るのは、昔も今も変わらず面白いことらしい。たとえばアルキビアデスなどは、まさに正論によって「はい論破」と既存の権威(ペリクレス)を滅多斬りにして喝采を浴びたが、それは現代SNSで「オールドメディア」を腐す投稿が喝采を浴びる様を想起させる。しかしアルキビアデスは実質的な実力が伴わないまま無責任な発言を続け、最終的には悲惨な末路を辿った。本人だけが滅びるのなら構わないのだが、国全体を巻き込んで破滅してしまったのだから質が悪い。同じように軽率で無責任に他人を巻き込む輩が、残念ながら現代日本にもうようよいるように見える。
 だからプラトンが論駁(エレンコス)技術の使用には年齢制限をかけようと言い出したわけだが、これは現代ではまさにSNSというテクノロジーの利用に対する年齢制限にあたる。それが良いか悪いかはともかくとして、テクノロジーが進歩してコミュニケーションの形は変わっても、対話作法に関する人間の知恵が2400年間進歩しなかったということは確かなのだろう。こうしてソクラテスは何度も処刑されるのだろう。

三嶋輝夫『ソクラテスと若者たち―彼らは堕落させられたか?』春秋社、2021年

【要約と感想】梅田百合香『甦るリヴァイアサン』

【要約】三十年戦争やピューリタン革命の時代に生きたホッブズは、宗教の影響力を全面否定し、世俗の主権者が統治する国家理論を打ち立てました。ホッブズの言う「自然状態」は、自由意志を持たない人間は神と善悪の基準を共有できず、自然法を持たないという考え方に基づいています。善悪の基準=法は国家が成立した後に初めて登場します。平和に暮らしたいという人間の「希望」に支えられて熟慮の総和が「意志」となったとき、自己保存のための合理的な帰結として自然法が立ち上がり、神の意志と結びいた倫理的法則となります。一方、カトリックの言う「神の王国」は既に存在しません。自然法に従うべく自らの自然権を放棄する契約に基づいて国家が成り立ちますが、実際に権力を維持するためには軍事力が必要であり、それを支えるのは教育です。
 この自然状態の考え方を国際関係に適用する風潮がありますが、ホッブズ解釈としては間違っています。希望に支えられた「意志」によって自然法が立ち上がり、教育や文化や市民的活動などによって自然法の隣人愛精神が国家内部に根づくことで、国際関係は自然法以前の「自然状態」とは異なる秩序と平和を形成できるはずです。

【感想】現代に生きるわれわれにとっては「法=lex」と「権利=jus」が異なるのは当然の感覚だが、どうやらそれを明確に峻別し切ったのはホッブズらしいことが分かる。そして我々がlexとjusを峻別するのは「国家状態」にあることを当然の前提としているからであって、国家以前の「自然状態」にあってはlexとjusを区別する指標は存在しない。人間はサバイバルのために自分にできること=jusはなんでもするし、自分にできることは神に定められたこと=lexだからだ。しかし自分にできること(自然権)=jusを放棄して、主権者の定めたルール=lexに従うことを「意志」したとき、「国家状態」に突入する。できること=jusと従うこと=lexを区別しなければいけなくなる。こうなるとlexとjusがカバーする範囲の相違が問題となるが、基本的にホッブズは個人の内面をjusの範囲とし、外面に出る行動をlexの適用範囲とする。これをもって「個人の誕生」と見なすかどうか。逆に言えば、個人主義が誕生していないことのメルクマールをjusとlexの混同に置いてよいかどうか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 教育に関する言及がたくさんあり、しかも急所に刺さる論点として提示されている。

「ホッブズによれば、このような人民の指導は、根本的には、彼らの指導者となる人々の教育、すなわち「大学における若者の正しい教育にまったく依存している」のである。それにもかかわらず、イングランドの大学では、ここで教育を受けた多くの説教者たちや法律家たちが、まったく反対に、主権者の権力に反対する学説を人々に説いてきた。したがって、ホッブズからすれば「正しい教育」が施されてきたとは言いがたく、まずは大学が、そこで学ぶ将来のエリートたちに主権者への服従義務を教育するよう改革されねばならないのである。」82頁
「彼にとって、軍事は教育と密接にかかわる問題であった。」84頁
「一人一人の兵士の強さを統一するにはどうすればいいのか。それは、一人一人の兵士の国家および主権者に対する服従心を養うしかない。それをもたらすのは武力ではなく、教育である。ホッブズは、国の平和と主権者権力の定着に必要なのは教育であると主張する。」99頁

 結局もっともらしい理屈を並べても、問題を実際に解決するためには人々に受け入れられる必要があり、それは「教育」という形でしか実現しない。ホッブズの言う社会契約説を見えない土台で支えるのは「教育」であり、おそらくそれはロックやルソーの社会契約論にも当てはまる。だからルソーは『社会契約論』を世に問うたのとまったく同じ年に『エミール』を用意しなければいけなかったのだ。
 そしてそれぞれの論者の社会契約説の性格は、それぞれの論者の教育論の性格を素直に反映する。ルソーは自立した個人としての人間、ロックは経済的主体としての市民、ホッブズは絶対主権者に従う臣民だ。ということは、逆に言えば、教育論を欠いて社会契約説の理屈やメカニズムだけ云々してもあまり意味がないということになる。

梅田百合香『甦るリヴァイアサン』講談社選書メチエ、2010年