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【要約と感想】リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒』

【要約】ヨーロッパの中世は暗黒時代などではありません。カトリック教会が科学を弾圧したというのは皮相的な見方で、近代の科学的思考を準備したのは信仰と理性を調和させようとした神学的営為です。
 12世紀にアリストテレスの思想が再発見されたのは偶然ではありません。ヨーロッパの知的水準がアリストテレス思想を受容する用意が調ったのが12世紀ということです。中世のアウグスティヌス、アベラール、カタリ派異端、トマス・アクィナス、オッカム、エックハルトなどが、それぞれ固有の課題を持ってアリストテレス思想を受容したり対峙したりしながら、西洋中世は一貫して信仰と理性を協調させるべく科学的・合理的な思考様式を鍛え上げていきます。
 しかし近代の入口で、資本主義的価値観を正当化しようとしたトマス・ホッブズのような人物がトマス・アクィナスと共にアリストテレスを葬り去ることによって、中世の知的営為が忘却され、理性と信仰が分離し、西洋中世は暗黒時代と見なされるようになります。しかしいま再び、理性と信仰の統合について創造的な仕事が求められています。

【感想】章ごとに主人公が交替していくが、どの章も活き活きと個性が描かれた主人公と非凡なライバルとの対決が非常にエキサイティングで、おもしろく読んだ。それぞれの章(時代)に固有の課題が簡潔かつ明確に示されつつも、最初に提示されたモティーフが最後までブレない一貫して筋の通ったストーリーで、最後まで飽きずに読みとおせる。言ってみれば「ジョジョの奇妙な冒険」の第一部から第八部までのおもしろさに通じるような、この種の本としては異例のエンターテイメント性を備えているのではないか。(だから逆に言えば、純粋な学術的にはそういう部分をさっ引いて判断しなければならない)。

 ドミニコ会とフランシスコ会の違いとその間の確執については、とても勉強になった。それぞれの会派については摘まみ食いしていてなんとなくイメージはしていたのだが、そのライバル関係について時代背景も含めて具体的に記述している文章は実は初めて読んだ。勉強になった。

 ただし専門的に気になるのは、エピクロス派の扱いだ。本書は後の近代科学に連なる思想の源泉を全てアリストテレス(およびそれに対する反応)に帰しているが、私としてはエピクロス派の唯物論と社会契約論の思想の方が遙かに近代的な発想に類似しているように思っている。実際にルネサンス期にはエピクロス派のルクレーティウスの本がよく読まれている。アリストテレスやトマス・アクィナスを葬ったとされているトマス・ホッブズの社会契約論は、エピクロス派の思想に影響されているかもしれない。エピクロスやルクレーティウスに言及しないで科学的思考の展開を説明しきるのは、少々乱暴のような気はする。
 まあ本書は明らかに、現代の新自由主義的思想が公共性の基盤を掘り崩している危機的な現状を、近代の自由主義的思想(ホッブズが代表)が公共性の基盤(トマス・アクィナスが代表)を掘り崩した過去になぞらえ、読者に警告を発することを隠れテーマとしているので、エピクロス派を無視するのも勉強不足ではなく意図的な戦略なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】集合的人格と個性と三位一体
 一人一人の人格を超えて集団があたかも一つの人格を構成するような集合的人格(エヴァンゲリオンの人類補完計画のような)について言及し、さらにそこから「個性」が剔出される過程を描いていて、私のライフワークにダイレクトに関わる話をしていたので、サンプリングしておく。

「ここに至って、中世ルネサンスの思想家たちが普遍論争にあれほど熱中した理由が明らかになってくる。中世以前のキリスト教徒は自身を一つの人種――単なる生物学的な種ではない道徳的な種――のメンバーとみなすよう、教えこまれていた。この種はその霊においても運命においても完全に一体化しているので、彼らの始原の父母であるアダムとイヴが犯した罪を一人一人の人間が直接負っている。「真実在」の普遍たる人間という観念は、一人一人の人間の違いは本質的でも重要でもなく、場合によっては救済の障害にさえなることを、暗に意味していた(中略)。ヨーロッパの伝統的な社会体制も、個人を軽視する傾向を助長した。なぜなら、ある人物の個性など、彼または彼女が農民や聖職者や貴族等の社会階層のいずれに属しているかということに比べれば、取るに足りないことだったからだ。ところが、いまや、古代のプラトン主義の氷が溶け始めたのだ。大多数の人々は依然として、いかなる世襲グループに属しているかによって限界づけられていたとしても、一部の人々は従来の枠組みから脱け出そうとしていた。放浪する学者やトルバドゥール、貿易業者や十字軍兵士、巡歴説教師や地方から都市に移住する人々――これらすべての人々が、新しい意識を育みつつあったのだ。そう、いかなる階層に属していようと、重要なのは自分の個性なのだという意識を。」205-206頁

 そしてこの記述からすぐさま「三位一体」の話に繋がっていく。

「キリスト教の神はただ一つのペルソナではなく、父と子と聖霊という三つのペルソナを有しているが、中世ルネサンスの人々はその三つのペルソナすべてに熱烈な関心を寄せていた。創造主としての神はあまりに神秘的で想像を絶していたとしても、十二世紀のキリスト教徒は父なる神に正義を期待した。彼らは子なる神を愛し、あたかも彼らが磔刑に処せられたばかりであるかのように、彼のために悲しんだ。そして、すでに始まっている偉大な復活を象徴する聖霊、すなわち慰め主に彼らの望みを託したのだ。」207頁

 非常に興味深い。ただし、三位一体の思想が「個性」という観念の源であるとまでは言っていない。坂口ふみ『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』は三位一体の思想に対する神学的な深まり(4~6世紀)が「個」の誕生にとって決定的に重要だったと説いているのだが、本書ではむしろ十二世紀の社会的・経済的変動を重要な背景と考えているようだ。その意味では阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』が個性誕生の瞬間を13世紀に見ている見解に近いのかもしれない(ちなみに阿部もキリスト教の三位一体が個の思想誕生にとって重要な背景だと示している)。
 このあたり、本書の論理展開は残念ながらあまり明快ではない。アベラールにとって三位一体思想がどういう意味を持っていたかは詳細に追究されるものの、西洋の「個性」という観念とどう絡むかについてはそれほど深掘りしてくれていないのだった。まあ、それが中心的なテーマというわけではないので、ないものねだりではある。

【個人的な研究のための備忘録】光
 キリスト教における「光」についての言及が気になった。というのは、コメニウスの教育思想の理解に関わってくるからだ。

「ベーコンをはじめとするフランシスコ会士にとって、超自然と自然とを結ぶ架け橋、宗教的経験の領域と科学的実験の世界とを結ぶ架け橋は「光」だった。(中略)「あらゆる哲学の精華」たる数学という鍵によって鍵を開かれる宝の箱は――のちに光学と呼ばれるようになるが――ベーコンの時代には「遠近法」と呼ばれていた光の科学だったのだ。」325-326頁
「ドミニコ会から見てもっと重大な問題点は、フランシスコ会士による光の霊化がはなはだしく時代に逆行していることだった。この点でフランシスコ会はアリストテレスから大きく後退していた。アリストテレスは光をある種の実体の特性とみなすにとどまり、純粋な形相とか霊とはみなしていなかった。ましてや光を、光ほど霊的でない自然の事物を動かす力とはみなしていなかった。アルベルトゥスとその若き盟友のトマス・アクィナスの見るところでは、光を普遍的な原因とみなす理論は――しょせん実験や観察によって立証できない神秘主義的な信念に過ぎないがゆえに――科学的営為を個々の原因を探求するものから、超自然的な相互関係を試作するものへと変容させてしまった。彼らはまた、人間の知解は神の「証明」によってもたらされるという説にも同意せず、それはむしろ、創造者が人間に天賦の能力として授けた理性によってもたらされると主張した。ロジャー・ベーコンらフランシスコ会士に属する教師たちは、アリストテレスの著作を講義し、アリストテレスの用語によって彼らの理論を構築した。けれども、彼らがよって立つ基盤は新プラトン主義的な神秘主義であり、それは物質と霊という時代遅れの区別を復活させた。」328-329頁

 コメニウスの活躍した時代はこの記述から400年ばかり遅れることになるが、ロジャー・ベーコン(およびフランシスコ会士)の言う「光」の論理は即座にコメニウスを想起させる。あるいは、コメニウスが関わっていたとされる薔薇十字会は、フランシスコ会士ロジャー・ベーコンの「錬金術」と「占星術」から影響を受けていることも分かっている。コメニウスはヤン・フスの系列に連なる神学者としてプロテスタントに位置付けられているが、実はその神学がフランシスコ会士のような修道思想(あるいはさらに東方キリスト教)に由来する何かだったりする可能性はあったりしないか。

【個人的な研究のための備忘録】ヨーロッパ中心主義
 自文化中心主義とトマス・ホッブズの位置づけには、なるほどと思ってしまった。ホッブズを読む時には、この観点を忘れないようにしたい。

「自文化中心主義者というものはそのタイプを問わず、おのれが属している文明は、その一部たりとも「ほかの文明」の思想の産物ではなく、完全に独力で創造されたと信じたがるものだ。アリストテレス革命を歴史から抹殺することは、西欧文明がより進んだイスラーム文明から非常に大きな恩恵を受けたという事実を隠しおおす役に立つ。だが、過去を抹殺することは、そのほかにもさまざまな形で、ヨーロッパの新しい時代のリーダーたちを利していたのだ。アリストテレス主義的キリスト教は、カトリック教会の権力を粉砕し、教会による教育資源の独占を終わらせたいと願うものたちすべてにとって――すなわち、国民国家の世俗統治者や、改革派教会の指導者や、新興の実業家階層や、科学を重視する知識階級にとって――大きな障害だった。だが――ここが当惑を禁じえないところなのだが――これらのエリートたちが排除しようとしていたのは、カトリック教会の政治的・組織的権威そのものではなく、カトリック教会が自然法や「正義の戦争」という類の概念を用いて繰り返し人々に教えこみ、押しつけようとしてきた道徳的な束縛だったのだ。」478-479

 この記述は、明らかに現代の状況とシンクロしている。16世紀にはナショナリストと自由主義者が結託して教会の排除に動いたが、現代ではネオ・ナショナリストと新自由主義者が結託してリベラルの排除に動いている。おそらく私の深読みではなく、著者がだれにでも分かるようなアナロジーとして強調して書いている。まあ、そういう政治的意図を抜きにしても、西欧の歴史(あるいは日本の歴史も)を正確に理解する上で「自文化中心主義」のバイアスをかいくぐる技術が重要であることは間違いないだろう。

リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ』ちくま学芸文庫、2018年<2008年

【要約と感想】P.O.クリステラー『イタリア・ルネサンスの哲学者』

【要約】一口にルネサンスといってもその中身は多様です。本書は14~16世紀のイタリアで活躍した8人の人物の事績と思想の特徴を、おおまかに4つの学派に分けて検討します。すなわち、(1)ヒューマニズム(2)プラトン主義(3)アリストテレス主義(4)新しい自然哲学の4学派ですが、それぞれ興味関心や活動領域が大きく異なっています。どれか一つの学派が決定的にルネサンスの思想を形づくったのではなく、それぞれが真実の何かしらの側面を表現しながら、総体として新しい時代を作り、近代に向かって行きます。
 ヒューマニスト(人文主義者)は、従来研究者が強調してきたほどには「人間の尊厳」に近代的な意味での関心を持っていたわけでもないし、もちろんルネサンス全体を代表する思想家たちでもありません。ヒューマニズムは中世スコラ学から出たものではなく、中世的伝統からすれば傍流から現れたものです。さらにヒューマニズムによって中世以来のスコラ哲学やアリストテレス主義が駆逐されたわけではないし、「哲学」の中心に位置を占めたなんてことはあり得ません。ヒューマニストは、あくまでも詩作を中心とした文学や、文法・修辞学ならびに雄弁術に多大の関心を示しており、哲学に対してはかろうじて実践倫理の分野で絡んでくるに過ぎません。ヒューマニズムが大きな影響を持ったのは専門分化した個別学科(神学・哲学・医学など)ではなく、ラテン語文法や修辞学など、その前段階の自由学芸の領域です。

【感想】おもしろかった。「痒いところに手が届く」とはこのことだ。私が知りたいことがまさにそのまま書いてあった。しかし都合が良すぎるので、警戒感も通常以上に持っておく必要がある。知りたいことだけ知るのは危険だ。

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスの定義
 本書は、外見的には静かな筆致であるにも関わらず、従来のルネサンスの定義に対してはかなり攻撃的で斬新な見解を示している。
 まずポイントになるのは、ルネサンスを「一言」でまとめようとせず、多様性をそのまま認めようとする姿勢だ。この場合の「一言」とは、たとえば「人間の尊厳」のようなものをイメージすれば良いのだろう。そんな一言で以てルネサンスを総括することは不可能だと、著者は繰り返し主張する。

「もしわれわれがわれわれの概観の終わりにあたって、ルネサンス思想がわれわれ自身の世紀をもふくめて後につづく諸世紀に残した知的遺産を評価しようとしても、ただ一言では答えられない。そしてその一言を解体して、われわれの議論してきたさまざまな傾向を別々に語る方が賢明である。」211頁
ルネサンスは中世後期から、高度に分節され専門化した学問の集成を継承した」226頁
ルネサンス思想こそは、その多様なしかも混沌とした努力を通じて、中世哲学をしだいに分解させていき、近代哲学の勃興への道を準備したのである。」

 そして「多様性」の具体的な中身のポイントは、おそらく「人間の尊厳」にこだわる人が見落としがちな「自然科学」の領域だろう。確かに、この時期の唯物論的な傾向を含む自然科学の発展を視野から外してしまうと、「近代」という時代の本質の大部分を見逃すことになる。
 そして自然科学も含めた多様性という観点を確保した後は、返す刀で「人文主義者(ヒューマニスト)」中心史観を切り捨てていく。

「私は、ルネサンス・ヒューマニズムが神学や思弁哲学に、また法律や自然科学に関心をもったのは、しばしば偶然にであって、けっして第一義的にあるいは首尾一貫してというのではなかったのであり、それゆえルネサンス・ヒューマニズムはこれらの他の諸学科の中世的伝統と密接に結びつけられえないということを、確証されたこととみなしたい。」227頁
ヒューマニストたちが、人文学者や作家としての彼らの仕事とは別に、まず第一に哲学史の中に位置を占めることになったのは、道徳哲学への彼らの関心によるものである。なぜなら、ヒューマニストたちの仕事の大部分は、哲学とは何の関係もなかったからである。またわれわれがその限界をはっきりさせようと試みたように、ルネサンスの哲学的思想の大部分は、ヒューマニズムの領域の外にある。」232頁

 高度に分節化した多様な学問体系の中で、人文主義の占める位置など僅かしかない。そしてその人文主義そのものにしても、中世的な伝統の真ん中(たとえばスコラ学)から出てきたものではなく、傍流が合わさってできた流れだという。

「中世的スコラ主義とルネサンス・ヒューマニズムとを対照することは容易であるが、後者を前者から引き出そうとすることが可能だとは、私はまったく思わない。」222頁
「私の意見では、ルネサンス・ヒューマニズムの勃興に寄与した中世の伝統は、基本的に三つある。すなわち、中世イタリアのアルス・ディクタミニス(ars dictaminis)、中世フランスの学校において育成されたような、文法、詩、および古典ローマ作家たちの研究、またビザンティン帝国において追求されたような、古典ギリシャの言語、文字、および哲学の研究である。」238-239頁
ルネサンス・ヒューマニズムの中世的先例は、スコラ哲学や神学の伝統――ある歴史家たちはそこにそれらを見いだそうと試みた――の中に見いだされるべきではなくして、むしろ、慣例的な中世文明像においてははるかに周辺的な位置を占める他の三つの伝統の中に見いだされるということを、私はできるだけ手短に占めそうと試みた。」244頁
「だがこれらの源泉はいっしょに結合されることによって、ルネサンス・ヒューマニズムがその中で発展した一般的枠組みを説明する。これらの源泉は、ルネサンス・ヒューマニズムのある限界を説明しさえする。多くの歴史家たちをたいへん驚かすことであるが、その限界とは、ルネサンス・ヒューマニズムがスコラ主義や大学の学問の構造を覆したり、取って代わることに失敗したというようなことである。なぜなら、ヒューマニズムは、人文学の外にある諸学科の中世的伝統を単に補足したり、修正したにすぎなかったからである。」245頁

 本書の主張に従えば、人文主義は中世的伝統の傍流から派生して、合流して大きな流れになったものの傍流のままであり続け、本家本元に取って代わることはなかった。今現在、「人文主義は死んだ」などと盛んに主張する人たちも現れているが、本書の見解が確かなら、人文主義はルネサンスの時からたいしたことはなかったことになる。いやはや。(日本の文脈に引き写してみれば、大田南畝みたいなものか?)

【個人的な研究のための備忘録】ペトラルカの位置付け
 ルネサンスにおける人文主義はたいしたことがなかったという主張は、具体的にはペトラルカに対する記述に表れる。

ルネサンス・ヒューマニズムは実際に、中世的アリストテレス主義に固有の異端的傾向に対する一つのキリスト教的およびカトリック的な反動であったという誇張された逆説的な見解」18頁
「そしてかなり奇妙なことに、ある著名な中世研究家が、スコラ哲学は根本的にキリスト教的であり、ルネサンスは神を取り去った中世であると主張しようと試みたのに対し、ひとは中世のスコラ学者の著作の中にキリスト教哲学の概念を探すとしてもむだであろう(トマス・アクイナスをふくむ彼らスコラ学者たちにとって、神学はキリスト教的なものであり、哲学はアリストテレス的なものであった。そして問題はその両者がいかに融和されうるかということであった)。そのような概念は、ただ何人かの初期キリスト教の著者たちの著作の中にのみ見いだされるであろう。それからまたルネサンスのキリスト教的ヒューマニストたちの中に、ペトラルカやエラスムスの中に、見いだされるであろう。」18-19頁

 実は私個人としては、ペトラルカの本を読んだ時に、これは中世的アリストテレス主義に対するカトリック的保守反動ではないかと疑問に思ったわけだが、さすがに本書はその立場は採らない。本書によれば、そもそも中世スコラ学そのものがキリスト教的ではないとのことだ。だとすれば、ペトラルカの主張は、確かに反アリストテレスであると同時に、反スコラ学ということになる。「中世スコラ学がキリスト教哲学ではない」という見解は、目から鱗だ。
 だとすれば少なくともペトラルカは新しい何かを示しているわけだが、それは何なのか。

「ペトラルカは中世的であるとともに近代的でもあった。」20頁
「ペトラルカは、ヒューマニズムの父でも最初のヒューマニストでもなく、彼の時代よりも少なくとも一世代前にはじまったある運動の最初の偉大な代表者にすぎなかった。」242頁

 この場合の「近代的」とは、具体的には著作の個人主義的な自意識を指していて、この方向の後継者をモンテーニュと想定している。そしてそれは具体的には詩作という文学的な活動に集約される。しかし印刷術発明後に個人主義的な自意識が発生するのはおそらく容易い説明できるが、印刷術発明前の写本時代にどうして個人主義的な自意識が生じるか、説明はそうとうに難しい。個人的には、フィレンツェというグローバル都市の資本主義的に発達した特異な環境を背景に考えたいところだが、本書はそこまでは突っ込まない。

【個人的な研究に関する備忘録】人間の尊厳
 ということで、本書は「人間の尊厳」というものの価値を多様性の観点から相対的に低めようと試みている。「人間の尊厳」という思想は、確かにルネサンスの一部ではあるが、一部でしかない。

人間とその尊厳についての強調は、われわれがすでに見たように、ストゥディア・フマニタティス(人文学研究)のプログラムそのものの中に暗にふくまれている。それゆえその主題は、ファーチョやマネッティにいたるまで、ヒューマニストたちによってしばしば言及された。」100頁
人間の尊厳についてのピーコの賛歌は、数世紀を超えてわれわれの時代にいたるまで、ルネサンス思想の他のすべての声には耳を傾けなかった者たちによっても、「フマニタス」(humanitas)が親しい感情のほかに、自由学芸の教育とある学問(私はこの概念を、ゲッリウスがかつてしたように、あえて俗なものとは呼ばないだろう)をふくんでいることを忘れてしまった近代の自称ヒューマニストによってさえも、傾聴されてきた。」106-107頁

 ピーコの言う「人間の尊厳」が不当に高い評価を受けてきたことを仄めかすような、皮肉っぽい響きのする文章だ。ただ本書は、「人間の尊厳」という主張の価値自体を否定しようとはしていない。それを多様性の相の下、同時期にあった他の有力な考えと合わせて総体的に評価していこうというわけだ。

【個人的な研究に関する備忘録】自然科学
 そして同時期にあった他の有力な考えとは、唯物論的で自然科学的な志向だ。確かに、中世と近代を分ける決定的な鍵は唯物論的な思考様式であって、「人間の尊厳」ではない、と考えることはできよう。

「彼[ピーコ]の攻撃の根本的な衝動は、宗教的なものであって、科学的なものではなかった。」103頁

 だから仮に「人間の尊厳」という主張が表面的には見えたとしても、それを主張する根本的な衝動が「宗教」に根ざすのか「科学」に根ざすのかで、評価が変わってくることになる。ピーコの言う「人間の尊厳」は、確かに表面的な表現は近代的だとしても、根本的な衝動は中世に属するというわけだ。「神様抜きでやろうぜ」と主張したわけでは、もちろんないのだ。

「ヒューマニズムとアリストテレス主義の共存、また時として両者の間の対抗は、ヒューマニズムが職業的にまたアカデミックに「人文学研究」(studia humanitatis)と結びついており、アリストテレス主義が哲学的学科、特に論理学、自然哲学、およびもっと少ない程度で形而上学と結びついていたということに気づくならば、きわめてよく理解される。ヒューマニストたちの主張するところによれば、道徳哲学のみは彼らの領域の一部であった。この二つの伝統の間の対抗は、ある適切な留保をつければ、近代における科学と人文学との間の対抗に比較されうる。」111頁

 アリストテレス主義が「科学」に、ヒューマニズムが「人文学」に相当するというのは、なかなか思い切った表現だと思う。しかし確かにそう考えると、ルネサンス期の思想全体をクリアに見渡すことができるようになる。特にペトラルカを相対化して考えることができる。

「イタリアのアリストテレス的伝統は、十五世紀と十六世紀を通じて繁栄しつづけ、十七世紀にいたるまでも生き長らえた。それゆえ、アリストテレス主義はペトラルカと彼に追随するヒューマニストたちによって打ち負かされた、と主張する文学史家たちを信じるのは難しい。」113頁
「ポンポナッツィの時代までに、イタリアのアリストテレス主義は数世紀の間栄えていたし、ペトラルカや他のヒューマニストたちの攻撃に耐えて生き延び、十四世紀の終わりころにはパリやオックスフォードから重要な新しい刺激を受け容れていた。」115頁
「この伝統は、その出典と権威のゆえにアリストテレス主義と呼ばれ、またその用語や、方法や文体のゆえにスコラ的と呼ばれるに違いない。しかしながらそれは、医学との密接なきずなのゆえに、また神学との結びつきの欠如のゆえに(それは、しばしば主張されたように、宗教にはもちろん、神学に対立してはいなかったけれども)、まったく世俗的であったし、またそう言ってよければ自然主義的であった。それはしばしばアヴェロエス主義と呼ばれているが、私としてはむしろ世俗的アリストテレス主義と呼ぶ方を選ぶだろう。」113-114頁
「自然哲学のアリストテレス的伝統は、ヒューマニストたちやプラトン主義者たちの外側からの攻撃によって、あるいは自然哲学者たちの示唆的な理論によって、打ち倒されはしなかった。その伝統は、ガリレオと彼の後継者たちが、堅固に確立された優れた方法にもとづいてその主題をあつかうことができた十七世紀において、またそれ以後になって、初めて瓦解したのである。」148頁
「多くの中世主義者たちがわれわれに告げたいと願っているように、ルネサンスが科学や哲学の分野において沈滞の時期であったとか、まして退歩の時期であったということは本当ではない。(中略)十五世紀はその後継者たちに中世の全遺産を伝え、それに古典古代の貢献を加えて、それを初めて完全に利用できるようにしたのである。」190頁

 これはまさに私の知りたいことがそのままそっくり書いてあるようなところだ。ペトラルカの本を読んだときから個人的にはペトラルカとアリストテレス主義の関係に大きな疑問を抱いていて、ペトラルカが批判の対象とするアリストテレス主義の方がむしろ私の目からみれば近代的に見えたわけだが、本書のようにアリストテレス主義を「自然科学」の萌芽だと考えることができれば、私の疑問も簡単に解ける。宗教にこだわるペトラルカのほうが中世的で、自然科学に目を開いたアリストテレス主義のほうが近代的、ということで間違いない。
 しかし自然科学ということでは、アリストテレスよりもエピクロスのほうがより重要かもしれない。

「空虚な空間についての彼[テレジオ]の主張は、ある意味において、アリストテレスが反駁しようと試みた古代の原子論の立場への復帰であった。この立場は、ルクレティウスから、またアリストテレス自身から、テレジオに知られたに違いない。」157頁

 ルクレティウスに好意的に言及するルネサンス人はけっこう多い(ヴァッラとか)のだが、このルクレティウスこそエピクロス主義のエッセンスを伝える唯物主義者代表だ(参考:【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』)。ひょっとしたら実は、ルネサンスが決定的に重要なのは、このルクレティウスを通じてエピクロスを復活させたところにあるのではないか。実際、18世紀に説得力を持つ「社会契約論」などは、もともとはエピクロスを通じてルクレティウスが展開した思想だが、それこそまさに中世身分制社会を終わらせて近代市民社会を打ち立てる原動力になった。哲学界が華々しいプラトン(理想主義)とアリストテレス(現実主義)の対立に目を奪われている間、実は市井の人々にいちばん説得力を与えたのはエピクロス(唯物主義)だったのではないのか。

「独創性を求めることは、この時代に展開し始め、十七世紀にはるかに大きな規模に達することになった、ある確信を反映している。それはすなわち、新しい発見をし、古代人には近づきえなかった知識に到達することが、近代人にとって可能である、という確信である。十六世紀には実際に、数学や天文学、解剖学や植物学において、古代人を越えたことが明らかに分かる最初の進歩が見られた。そしてアメリカの発見のほかに印刷術の発明が、近代人の優越性に対する論拠として用いられはじめた。」147頁

 印刷術に関する記述が気になるからメモしたが、本書ではこれ以上に展開はしていない。しかし印刷術が決定的なターニングポイントになるだろうことは、私が言うまでもなく、多くの論者が指摘しているところだ。

【個人的な研究に関する備忘録】宗教改革との関係
 ルネサンスと宗教改革の関係をどう考えるかは極めて大きな問題だが、本書はさらっと触れているだけだ。

ルネサンスは、その特徴的表現を十五世紀および十六世紀初めのうちに見いだしたが、宗教改革の風潮の中では展開しえなかった。そうしたことから、宗教改革の到来した後には、ルネサンスは異なった思考態度や思考様式のために席をゆずらなければならなかった。」142頁

 この箇所を読む限り、本書はルネサンスと宗教改革を順接するものとは捉えていない。

【個人的な研究に関する備忘録】西洋教育史
 西洋教育史に関わる記述をメモしておく。

教育に関する数多くの論著において表明されたヒューマニズムの文化的理想は、グアリーノや、ヴィットリーノや、他の多くの人々によって創立された学校において実行に移された。諸大学において、また大学をもっていない多くの都市において、ギリシャ語をふくむヒューマニズム(人文主義)的諸学科における高等教育が、多少とも規則的にあたえられ、人気と威信を獲得した。」31頁
「文化的運動としてそれは、行きわたった古典主義や、十五世紀とともにはじまり、ほとんど今世紀の初めまで存続した古典主義的(あるいは人文主義的)教育の勃興の原因である。」212頁

 この記述を踏まえて考えてみると、ルネサンスの人文主義とは、特に高等教育に関わる教育運動であり、逆に言えば、教育に関わらない領域にはさほど大きな影響を与えなかったということなのだろう。たとえば経済や政治に対しては、さほどの影響力を持たなかった。経済に対しては人文主義ではなく大航海時代、政治に対しては人文主義ではなくマキアヴェリズムかエピクロス経由の社会契約論が決定的な影響を与える。ルネサンス・ヒューマニズムは、教育という領域の中でのみ影響力を持ったなにものかと捉えておくのが謙虚な態度というものなのだろう。逆に言えば、だからこそ教育学が扱うのに相応しいということでもある。

【個人的な研究に関する備忘録】ビザンツ帝国
 ビザンツ帝国に関する記述もメモしておく。

「ギリシャ研究の分野においてヒューマニストたちは、ビザンチンの学者の継承者となった。そして彼らのおかげで西ヨーロッパにギリシャ学が紹介された。ギリシャ語の写本は、東方から西欧の図書館にもたらされた。」32-33頁
「彼らのその時代への寄与のこのような重要な部分をなしたルネサンス・ヒューマニストたちのギリシャ学は、ある程度までビザンティン中世の遺産であったと、われわれは誇張なしで言うことができよう。なぜなら、ギリシャ的東方には全中世を通じて、ギリシャ古典学の多少とも連続した伝統が存在していたからである。」243頁

 ルネサンスを考える上で、ビザンツ帝国の存在はどうしても外すことができない。ビザンツ帝国抜きでルネサンスを語ろうとする態度は、おそらくヨーロッパを捏造したいという欲望に基づく。そういう意味では、ビザンツ帝国を視野に入れてルネサンスを語る本書が、知的に誠実なのは間違いない。

P.O.クリステラー『イタリア・ルネサンスの哲学者』佐藤三夫監訳、みすず書房、1993年

【要約と感想】小川正廣『書物誕生ウェルギリウス『アエネーイス』神話が語るヨーロッパ世界の原点』

【要約】多民族共存の平和な世界を志向する普遍的な発達史観を提示したという意味で、現在のヨーロッパの原点にあるのはウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』です。歴史の節目節目で読み返され、そのたびに新たな価値を見出されてきた古典です。
 主人公のアエネーアスは、滅亡するトロイアから脱出し、父や仲間と友に地中海を彷徨、カルタゴでは女王ディードの犠牲に衝撃を受けつつ、冥界巡りなども経て、いよいよイタリア半島に上陸、強大な敵軍の将を大激戦の末に退け、永久のローマの礎を築きました。それはウェルギリウスが時のローマ皇帝アウグストゥスへのメッセージでもありました。

【感想】ダンテ『神曲』を読み終わって詩人ウェルギリウスに興味を持ち、本当は『アエネーイス』そのものを繙くべきところ、残念ながら手近に物がなかったので、代わりに本書を手に取って読んでみて、結果としてとても満足。そのうちアエネーイス本体も手に入れて読もう。あらすじを読んだだけでも英雄譚として胸躍る物語に感じたし、加えて古典の持つパワーを己の血肉とするべき所存。
  若い頃は、文芸的には圧倒的にギリシア>ローマだと思い込んでいたが、実際にギリシア・ローマ(ラテン)の古典にそこそこ触れてた現在では、ローマ文芸のレベルがそうとう高いことが分かり、そう簡単にギリシアの方が上だと決めつけるわけにはいかないように思っている。乱暴に違いを際立たせると、ギリシア文化が結局はローカルな思索探究に留まったのに対し、ラテン文化はヘレニズムを経て普遍的な世界を志向する。ウェルギリウスやキケローは、その普遍化志向の先駆けと呼べる人物に当たるということなのだろう。そしてキケローとウェルギリウスの影響をまともに受け取めたアウグスティヌスが、多神教と一神教で形式的な立場は違えど、古代ラテン文化の最終的な総括という感じか。

【今後の研究のための備忘録】ダンテの理解
 ダンテによるウェルギリウス理解に関する記述が興味深かった。というのは、「古代/中世/ルネサンス/近代」という歴史区分概念に直接深く関わってくるからだ。

「たとえば、一四世紀初めにダンテが『神曲』の中で地獄から煉獄をへて楽園に導く人としてウェルギリウスを登場させたのは、ヨーロッパ世界が中世から近代へと生まれ変わり始めた時だった。やがて、ルネッサンスは『アエネーイス』をモデルとする民族の理想を歌った各国の叙事詩によって彩られ、そしてヨーロッパの近代化が絶対王政を出現させたときには、この古代叙事詩は君主のリーダーシップの書として盛んに読まれた。」8頁

「『神曲』の冒頭部分でダンテが「あなたがあのウェルギリウスですか」と呼びかけたその瞬間に、八〇〇年以上前に消え去った古代世界と中世以降の新しい西洋との間に橋が架けられ、やがてこの詩篇の完成とともに、古代近代は、その橋を渡るヨーロッパ国際道とも呼ぶべき文化的・精神的な太い幹線道路で結ばれたと言うことができるだろう。」p.51

 ここまでは高校の教科書にも書かれているような理解ではある。ダンテ+ペトラルカ+ボッカッチョの14世紀イタリア・ルネサンスを経て中世から近代へと突入するという教科書的理解。しかし個人的に気になっているのは、ダンテが中世に属するのか、ルネサンスに属するのかという見極めだ。教科書的には乱暴にルネサンスに属する扱いをされがちなのだが、話はそう簡単ではない。

「少なくともダンテは、西暦一三〇〇年代に生きる人間の立場から、太古よりそれまでの人類の歴史を見通して、その遠大な歴史の座標軸のうえにウェルギリウスの詩業を正確に位置づけ、そうして現在から未来にむかう歴史の方向を測定しようとした。ただし、その歴史の方向とは、中世のキリスト教徒ダンテによっては、もちろんルネッサンスの人々が描くような古代の復活・再生ではなく、最終的にイエスの再臨とともに実現する終末の世界にほかならないのであるが。」p.58

「ダンテの構想した世界の中で、ウェルギリウスはいわば自分の弱みさえさらけ出し、しだいに限界をあらわにし、最終的にしかるべき場所に配置されるのだ。そのような、言ってみれば古典詩人に対する批判と限定化は、中世の申し子である「息子」ダンテが新しい時代の詩人として成長し自律するためにはどうしても必要なプロセスであり、そして、その評価と吟味のプロセスをへることによって、ヨーロッパは初めて古代の精神を実質的に体内に吸収・同化して、近代世界へとしっかりした足取りで歩み始めるのである。」p.60

 本書は、ダンテをルネサンス人ではなく、明確に中世キリスト教徒と規定している。私も、専門家ではないから著者の厳密な考察には及ばないが、同じような感想を抱いている。ダンテは、まだルネサンスではない。おそらく同様にペトラルカも。しかしボッカッチョだけは近代に片足を突っ込んでいるかもしれない。

「こうしてダンテの徹底した鑑定をへて、ウェルギリウスの叙事詩は、地上世界のドラマとして、その後ルネッサンスから近代において再び広範に受容される下地が作られたと言える。」p.65

 しかしもちろんダンテの仕事があって、その後のルネサンスと西洋近代があるのも間違いない。あるいは、仮にダンテがいなくてもルネサンスと西洋近代が起こったとして、少なくともダンテは中世の終わりを可視化する役目は最大限果たしている。あるいは、14世紀においてフィレンツェという都市だけが異常に先を走っていたと考えるべきところか。

小川正廣『書物誕生ウェルギリウス『アエネーイス』神話が語るヨーロッパ世界の原点』岩波書店、2009年

【要約と感想】タキトゥス『ゲルマーニア』

【要約】ライン川の東、ドナウ川の北には、ゲルマーニー人たちが蠢いています。彼らは頽廃しつつあるローマの風習に染まらず、質実剛健な風習を維持しています。ローマは何度かゲルマーニア制圧を試みましたが、これまで失敗に終わっています。このままだと、ローマがやられるのもそう遠くない話でしょう。心配です。
ゲルマーニアの習俗と、代表的な部族の特徴について記します。

【感想】大雑把には、ヨーロッパの地政学として、ライン川とドナウ川が極めて重要だということを再認識した感じ。ローマ帝国としては当然この両大河を防衛ラインの基本に据えるよなあ。
しかしライン川がフランスとドイツを切り分ける分断のイメージが強いのに対し、ドナウ川は分断というよりは流域をつなぐ印象があったりする。南北に走るライン川と、東西に走るドナウ川ということで、縦と横の違いが地政学的に影響してたりするかどうか。(この南北/東西の切り分けに関する議論は、明治大正期の日本の地理を考える際にも大きなテーマになっていたりする。内村鑑三とか志賀重昂とか。)

本文よりも註の方のボリュームが多いタイプの本で、浩瀚な言語学的知識を土台とした議論にはクラクラする。すごい。註までも含めて味わおうとすると、そうとうの教養を必要とする手ごわい本であった。

【個人的な研究のための備忘録】
ゲルマン人の、いわゆる「成人式」に関わる記録が興味を引く。

「さて彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行わない。しかし武器を帯びることは、その部族(市民)団体(civitas)が資格があると認めるまでは、一般に何ぴとにも許されない習いである。それが認められたとき、同じかの会議において、長老のうちのあるもの、あるいは〔その青年の〕父、または近縁のものが、楯とフラメアとをもって青年を飾る。これが彼らの間におけるトガであり、青年に与えられる最初の名誉である。これまで彼はただ家族集団の一部であった。今後は、すなわち市民社会(res publica)の正員と見なされる。」70頁

戦闘員として一人前になる(武装することを許される)ことがそのまま集団の正員と見なされる決定的な要因になることは、洋の東西を問わず普遍的な現象と考えてよいのかどうか。
またここでは註でも気合を入れて解説しているところではあるが、ローマ人(文明人)であるタキトゥスがゲルマーニー人(野蛮)に対してcivitasとかres publicaという言葉を適用しているところが気になる。日本語で言う「市民」という概念をどう理解するかにも深く関わってくる個別具体事例である。このケースではどちらかというと「市民」という日本語よりも「公民」という日本語のほうがより適切な感じもするけれど、どうなんだろう。(ここはラテン語と日本語の違い全体が絡んできて、議論はややこしくなりそうだ)

また、出産調整や、いわゆるマビキに関する証言が注意を引く。

「子の数をかぎり、あるいは〔遺言または嗣子がきめられた〕あとに生まれた子を殺すなどは、忌むべき行為とされ、そこにおいては良習俗が、よそにおける良法典よりも、有力なのである。」(92頁)

歴史学(子ども史)の研究では、かつて日本でも世界全体でも出産調整やマビキは日常茶飯事であったと言われるし、実証的な研究も積み重ねられてきているところである。が、ローマ帝政期において、ゲルマン人が出産調整やマビキを人倫に悖る行為と理解(少なくともそう伝文)し、タキトゥスがそれに共感を示しているのは記憶しておいていいだろう。逆に、ローマではかつて普通に行われていたということでもある(註では、既に行われなくなったとも指摘されている)。「子殺し」は人間にとって普遍的な行為なのか、あるいは歴史的な条件(たとえば家長権の肥大とか身分制による格差の拡大とか)の中で発生するものなのか、考えるための材料の一つである。

そして、物事が宴席で決まるという記述は、時節柄、ちょっとおもしろかった。

「しかしまた仇敵をたがいに和睦せしめ、婚姻を結び、首領たちを選立し、さらに平和につき、戦争について議するのも、また多く宴席においてである。あたかもこの時を除けば、他のいかなる時にも彼らの心が、単純な思考をめぐらす程度にさえ、ほぐれることはなく、偉大な思考に耐えるまでに熟する時がないかのごとくである。飾らず偽らざるこの民は、そのとき、自由に冗談をさえ言い放って胸の秘密を解き開き、こうして今や覆いを取られ、露わになった皆の考えは、次の日にふたたび審議される。したがって双方の機会のもつ効果は十分に量られ、発揮される。――すなわち、彼らは本心をいつわることが不可能なときに考量し、過つことができない時に決定するのである。」106頁

2000年後の日本では、総務省の役人がNTTや東北新社から宴席で接待を受けていたことが発覚した。はたして彼らは「本心をいつわることが不可能なときに考量」するために宴席を設けたのか、どうか。まあいずれにせよ、2000年前から人間は進歩していないということか。

タキトゥス/泉井久之助訳註『ゲルマーニア』岩波文庫、1979年