【要約と感想】ロレンツォ・ヴァッラ『快楽について』

【要約】ストア派「人間にとって最大の善とは高潔の徳ですが、人間本性は邪悪で、自然も悪意に満ちていて、高潔の徳には辿り着きません。」
エピクロス派「高潔の徳などというものは存在せず、人間にとっての善は快楽のみです。自然は五感を通じて我々を楽しませる美しい物で満ちています。」
キリスト教修道士「確かに人間にとっての善は快楽ですが、現世の快楽は人間を堕落させる邪悪なものなのに対し、天上の快楽は至高の神の愛です。」

【感想】様々に多様な読み方ができる本なのだろうが、個人的な関心から言えば、「自然」に対する新しい感性・態度が生じているところをまず味わいたい。ストア派は自然を人間本性に敵対し堕落させるものと理解する一方、エピクロス派は自然を人間本性に調和し恵みをもたらすものと理解する。ストア派とエピクロス派の違いは、表面的には本書タイトルのように「快楽」に対する態度として表出するわけだが、その根底には「自然」に対する考え方と姿勢の決定的な違いがある。逆に言えば、「自然」に対する態度の違いを考慮に入れずに表面的な「快楽」への態度だけあげつらっても、意味がない。このあたり、amazonレビューを見ると皮相な読み方をしている人が多いような印象を持つ。
 ただし、著者のヴァッラはストア派に対してもエピクロス派に対しても正確な理解をしていないように思える。本来のストア派(セネカやエピクテトス)が自然をそんなに単純に人間本性に敵対するものと考えているわけがないし、エピクロス派(アリスティッポスやルクレーティウス)が無条件に自然を人間性に調和するものと考えているわけでもない。だから本書で描写されるストア派やエピクロス派の主張をオリジナルの姿と理解するのは極めて危険だ。「自然」に対する二つの極端な態度を擬人化した上で、ストア派とエピクロス派に配したものと理解して読み進めるのがいいのだろう。
 無論、ヴァッラの無理解をヴァッラ個人の資質に帰してもならない。むしろ、その無理解の有り様こそがルネサンス期の知性が何に関心を持ち、何を新しく生み出したかを浮き彫りにする。本書で言えば、中世にはありえなかった「自然」に対する態度の有り様が決定的に重要なように思える。そして中世の自然観とは、本書では3人目のキリスト教主義者が言う「天のしくみ全体も世界内の万物も、すべて人間個々人のために造り出されたと考えるべきです。」(400頁)という言葉に端的に表れているような、目的論的自然観だ。一方、ヴァッラが描くストア派もエピクロス派も、こういう目的論的自然観から遊離している。敵対的と見るか親和的と見るかの違いはあるが、人間(あるいは神)とは切り離されて独立した外部的な環境と捉える点では共通している。そして中世的な目的論的世界観では、人間存在は完全に自然(あるいは神)の位階秩序の中に組み入れられているため、自由意思に基づいた「徳」なるものを考慮する余地は出てこない。一方、人間を自然(あるいは神)から切り離すと、襲い掛かってくる災害と理解するとしても逆に利用可能な資源と理解するにしても、問題の焦点は自由意思に基づいた「徳」へと移行する。だからヴァッラの描くストア派とエピクロス派は、表面上は「徳」(あるいは快楽)に対する考え方が相反しているとしても、実質的には共犯者だ。カトリック正統派の「恩寵」概念から見たら、両者とも許容することのできない異教・異端だ。だから本書でも、キリスト教修道士はストア派・エピクロス派共に切って捨てることとなる。まっとうなカトリック的見解である。またあるいは、キリスト教にとっては、人間の自由意思で「徳」(あるいは「善」)を形成できるという考え方(ストア派)の方が危険だ。キリスト教によれば、「徳」「善」とはすべて神に由来して、人間の自由意思が関与できないものだ。(このあたりは100年後にエラスムスの自由意思論とルターの奴隷意思論で激しい論戦が行われることになる)。だから本書でも、キリスト教修道士はストア派よりもエピクロス派の方を好ましく思っている。エピクロス派は自然本性に従うことを尊び、自由意思で「徳」を形成しようとはしないからだ。しかしもちろん、カトリックの目的論的自然観とエピクロス派の機械的自然観は、根本的になにもかも違っている。ガリレオやデカルトにつながるのは、もちろんエピクロス派の機械的自然観だ。
 で、このヴァッラの本が思想史的に重要なのは、近世以降の機械的自然観に連なるエピクロス派の自然観が、ルクレーティウスなどキーパーソンの名前も挙げながら、前面に表れているところにある。単に「快楽」を主張していることに意味があるのではない。その背後にある機械的自然観の表出こそが重要なのだ。そしてこの機械的自然観は、単にガリレオやデカルトなどの自然科学の発展の背景をなすだけでなく(いや、これだけでもものすごいことだが)、社会契約論のような「人間社会の在り方も機械的に構成できる」という発想をも醸成していく。これは14世紀のペトラルカやダンテのような人文主義者にはまったく見当たらない、15世紀の人文学者の特徴だ。そしてこれは「ルネサンス」という概念そのものを考える上で、極めて重要な観点となる。

 さて、ここまでの理解を踏まえて、ヴァッラの思想に関する論争に対し、個人的な意見を記す。論争点は、ヴァッラの目的は現世的快楽を肯定するところにあってカトリック的な言辞はアリバイに過ぎないと見るか、あるいは本心からカトリックの教義を信じているのか、というところにある。個人的には、本心からカトリックの教義を信じていると主張したい。根拠は、教父的古代からカトリックが直面してきた最大の論理的課題がペラギウス派への対処だった、というところにある。ペラギウス派の特徴は、人間の自由意思を重視し、自ら「徳」を形成する努力を促すところにある。これを古代最大の教父アウグスティヌスは「恩寵」の立場から徹底的に批判した。アウグスティヌスによれば、人間の自由意思など神の恩寵の前では塵芥ほどの価値すら持たず、人間が「善」であり得るのはもっぱら神の恩寵による。そしてこのアウグスティヌスの恩寵主義がカトリックの公式教義となる。しかしアウグスティヌスが徹底批判したペラギウス派異端は、何度も何度も甦る。分かりやすいからだ。しかしそれはカトリックにとって最大の躓きの石でもある。だから徹底的に自由意思を主張する考えは挫かねばならない。アウグスティヌスもルターも徹底的に自由意思を叩いた。ヴァッラの同時代であればトマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』のような無知礼賛という形にもなるだろう。そういう文脈を踏まえておくと、本書は一風変わった形ではあるが、やはり自由意思を徹底的に叩いている。「快楽」の賛美も、自由意思(本書の言葉で言えば「善」)の否定という観点から首尾一貫している。ということで、私の個人的な感想では、ヴァッラはカトリック正統思想の擁護を企図し、具体的には人間の自由意思を挫くためにエピクロスの援用が有効だと考えた、ということになる。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 子どもに関する言及があったのでサンプリングしておく。

ストア派「じっさい子どもたちは、幼年のころからすぐに見られることですが、栄誉や高潔へと自分を高めるよりもむしろ美食や遊びや享楽に流れ、叱正をきらい、へつらいを好み、教訓を避け、放縦を求めます。かれらに良風美俗を教えこむにはどれほど骨が折れるかについては黙っておきます。」39-40頁
修道士「きみによれば子どもは食い意地や遊びや娯楽などの悪徳に従順ですが、その子どもたちにしても悪によって誘導されているのではありません。かれらが理解できる身体的善を求めているので、これはかれらにあっては悪徳とはみなされないのです。かれらは自分たちの理解しない栄誉や高潔の徳をすぐには追い求めません。追い求めるようにあまり急きたてるべきでもありません。きずつきやすい年少のことですから、疲れはて憔悴することのないようにすべきです。これは粗野な農夫でも知っていることです。農夫は、やわらかい小枝にも鎌をあてるべきだとは考えません。なぜなら若枝は鉄製の鎌をおそれていて、まだ傷跡には耐えがたい、そんなふうに見えるからです。それに子どもたちは、日々正しく教育されると、賞賛すべきものを愛するようになり、年とともに子どもっぽい情念を捨てていきます。」347頁
修道士「ぼくは子どものことに言及しました。ぼくらは子どものころ、たくさんのことを楽しんでいましたが、いまもそれらの楽しみにふけることは、楽しくないばかりか恥ずかしいでしょう。たしかにぼくらは、いまなお半ば子どもであって、こうした遊びの魅力に捕らえられていますが、しかし今はまだ子どもっぽくても、やがてはほうとうに賢明になったとき、やはりこうした遊びの魅力に捕らえられているべきだと思うでしょうか。ただし、ぼくらが精神的に異常で子ども以上に子どもであって、将来の知恵にたいする願望に導かれず、天上においても愚かに生きることをえらび、愚かさにこそ最高の愉楽があるかのように思うなら、そのかぎりではありません。」430頁

 ストア派の意見はまさに伊武雅刀の「わたしは子どもが嫌いだ」のようで、子どもを単に未成熟な存在とみなしているだけだが、いっぽう修道士のほうは子ども期の固有性を見出している。この子ども期の固有性についての見解には、そうとうの注意を払っておきたい。とはいえ、発達論的に子ども期を大切にしようという発想はまだ見えない。

【個人的な研究のための備忘録】学校と教師
 当時の学校や教師に関して言及された文章をサンプリングしておく。

ストア派「あなたはおそらく、われわれを子どものように鞭で従わせようとのぞんでいるのでしょうか。別の道をとるべきです! この残酷な道は子どもにもふさわしくありません。なぜなら、ことばによる叱責によって学習へ導かれない者は、鞭による叱正によっても導かれはしないでしょう。」47頁

修道士「しかし神は、それでも忠告することをお止めになりません。懇望し、叱責し、希望と恐れを教え示してくださいます。それも学校教師のようにではありません。つまり子どもたちに読み書きを教えこみ、教えるとき罰したり励ましたりする、そのような学校教師のようにではなく、まるで父親のように、です。自分の子どもたちといっそう親密なかかわりをもつ父親のように。」401頁

 当時の体罰上等な学校の在り方がうかがえる一文だが、体罰の効果を否定しているのは注目をひく。また「学校教師」と「父親」を対比的に理解し、教師の方が単なる学習を担当しているのに対し、父親の方が「親密なかかわり」を担っていると言っているところにも注目しておく。

【個人的な研究のための備忘録】処女
 快楽論の中で「処女」についても言及されている。処女に注目するのは、14世紀のボッカッチョがまったく処女性を重視しているように見えないのが、単にボッカッチョの個人的資質に由来するのか、あるいはイタリア・ルネサンス期に広くみられる態度かを判断する材料にしたいからだ。

ストア派「われわれはなぜ、貞婦や生娘や修道女や貴婦人を凌辱すると、これほど喜びをおぼえるのでしょうか。われわれは彼女たちをたらしこんで淫らな行為をすると、娼婦や性悪女や淫婦や下女たちとそうする場合よりも(たとえ彼女たちが美女であっても)もっと情欲に燃えやすいのはなぜでしょうか。(中略)かれが欲したのは罪を犯すことそのこと、また高潔なものをけがすことにほかなりません。」41頁

エピクロス派「処女の修道女を最初に考え出した人は、にくむべき風習を国に持ちこんだのです。こんな風習は地の果てにいたるまで地上から抹殺すべきです。」129頁

 ここからは、少なくとも15世紀イタリアでは処女に高い価値を置いていたと判断するしかない。

【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
 「人間の尊厳」について言及された文章をサンプリングする。

修道士「そしてきみが高潔を唯一の善としたのは、それが唯一の善だからではなく、それだけが人間の尊厳にかかわるからで、ほかの善は人間ばかりか獣にも固有のものであるようにみえると考えたのです。」345頁

 「人間の尊厳」という言葉に注目するのは、もちろんこれが15世紀イタリア・ルネサンスを象徴する言葉だと考えられている一方、最新の研究では疑義も呈されている、論争的な言葉だからだ。この引用文でも「人間の尊厳」という言葉の具体的な意味内容は必ずしも明確ではない。今後の研究のための材料としてキープしておきたい。

ロレンツォ・ヴァッラ『快楽について』近藤恒一訳、岩波書店、2014年