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【要約と感想】渡辺一夫『フランス・ユマニスムの成立』

【要約】人々が本質を見失って人間性を喪失しそうになるとき、ユマニスムは「それは人間であることと何の関係があるのか?」と問います。その営みが始まったのはフランスでは16世紀のことで、当初はキリスト教の本義から外れて枝葉末節にこだわる形式主義的な儀式や議論に対して発する「それはキリストと何の関係があるのか?」という問いでした。その問いはギリシア・ラテンの古典語・古典文学の研究によって洗練され、必然的に旧態依然のローマ・カトリック教会に対する批判となり、宗教改革と密接に結びつきます。しかしカトリック批判が先鋭化した結果、むしろ宗教改革側のほう(特にカルヴァン)が当初の目的を見失って本義から外れてしまい、「それはキリストと何の関係があるのか?」という問いがブーメランのように返ってくることになりました。ユマニスムと宗教改革は袂を分かつことになりますが、それは常に批判されるべき対象に「もっと……であるように」「もっと……でないように」と臨み続けるユマニスムの態度がもたらす必然的な帰結です。

【感想】ルネサンス期の人文主義について深めようと思って本を探したわけだが、イタリア(ペトラルカ、ダンテからピコあたり)や北方(エラスムスやトマス・モア)に関しては最近の文献が出てくるものの、フランスに関しては65年前の本書が筆頭に上がってくる。少し後のラブレーやモンテーニュに関しては深まっている様子が伺えるが、16世紀初頭(ビュデなど)の研究については時間が止まっている感がある。(まあ専門的な論文は出ていて、私が知らないだけなのだろう……。)
 まあ、本書はとてもおもしろく読めて、人文主義と宗教改革の関係についてそうとう分かった気にさせてくれた。人文主義がカトリックを批判することで宗教改革が始まったものの、宗教改革がやりすぎてしまったことで今度は逆に人文主義が宗教改革を批判し始める、という構図。これは残念ながら現代にも当てはまる構図のようにも見えてしまう。たとえばリベラリズムとポリティカル・コレクトネスのような。(まあ本書が書かれた1950年代後半の当時は、60年安保闘争も絡んで、まさに資本主義とマルクス主義の対立が念頭にあったのだろう)。そういう観点からは、ルネサンス期のユマニスムは中道右派的な位置を占めていたということかもしれない。だから左派(カルヴィニスト)からも右派(カトリック)からも批判され、敵と見なされる。本書が強調する「もっと……であるように」という言葉は、頑迷な教条主義に陥らないための呪文のようなものなのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】ユマニスムとルネサンス
 ユマニスムがルネサンス期に成立したかどうかについて、奥歯にものが挟まったような慎重な言い回しに終始しているが、それだけ繊細な話題ということだ。浅学の徒としては、断片的な知識でいい加減なことを言ってはいけない領域だという警戒感を持っておくことにしたい。

「フランスにおいてユマニスムという語は、ルネサンス期にはなかったけれど、この語の内容となる思潮乃至態度は存在していたし、この思潮乃至態度は、それ以前の中世から糸を引くとは言え、ルネサンス期になると、既に近代的な意味内容を、即ち近代用語であるユマニスムという語の内容を持っていた」1頁
ユマニスムは、先に記した通り、ルネサンス期以前の中世から糸を引く思潮ではあるが、単なる”古典語・古典文学の研究”以外の目的と意識とを、ルネサンス期に、新たに獲得したとは言えないまでも、改めて鮮やかに自覚したように思われる。」2-3頁

 個人的な研究の関心では、「人格」とか「個性」という概念が浮上してきたかどうかが問題となる。ルネサンスの文脈では「人間の尊厳」の概念が極めて重要だ。本書は慎重な言い回しに終始しているものの、この「人間の尊厳」という観念がルネサンス期にほぼ近代的な意味内容で登場してくることを仄めかしている。碩学が到達した境地として尊重したいと思う。

【個人的な研究のための備忘録】ルキアノスとエピクロス

「カルヴァンは、更に、”ルキヤノスやエピクロスの徒、即ち、神を蔑ろにする人々は悉く、福音に従うふりをしながらも、その心中に於いては、これを侮り、寓話ほどにもこれを重要視していないが、私は、ここでこのような連中について語ることを欲しなかった”と記している。このルキヤノスやエピクロスの徒とは、誰のことを指すものか不明ではあるが、この”連中”のなかに、フランソワ・ラブレーが這入っているのではないかという推定がなされている。」159頁

 ルキアノスはローマ帝政期の風刺作家で、現代では名前を聞くこともあまりないが、ルネサンスの当時はエラスムスやトマス・モアにも極めて甚大な影響を与える人気作家だったらしい。ここでカルヴァンがエピクロスと並べて名前を挙げているのは、けっこう気にかかる。エピクロスは現代では単なる快楽主義者として知られているが、中世では唯物主義の無神論者として最大限の警戒が向けられていたはずだ。エピクロスは素朴な形ながら社会契約論のアイデアも示していて、後のフランス革命のことを視野に入れると、かなり重要な役割を果たしていた可能性を考慮する必要がある。

渡辺一夫『フランス・ユマニスムの成立』岩波書店、1958年

【要約と感想】渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』

【要約】16世紀フランスで激動の人生を送った人物12人の小伝を軸に、現代にも通じる普遍的な「人間」の姿を描いています。人間は、何らかの目的に従属する歯車と化し、一足飛びに理想を実現しようとするとき、おかしなことになります。地道で丁寧で粘り強い批判精神こそが、本当の平和と安寧へ繋がっています。

【感想】落ち着いた言葉と静かな筆致の背後に膨大な教養と圧倒的な知性を感じさせる、読みやすいのに深く感じるところの多い、良い本だった。変化の激しい時代にこそ、軸足が定まり腰が落ち着いた教養と判断力が必要なことがよく分かる。16世紀フランスについては高校世界史レベルの知識しかなかったので、ものすごく勉強にもなった。
 一方、著者が人間一般の悲劇について繰り返し言及しているのも心に残る。現代日本サブカルチャー(アニメやなろう系小説)には、「闇落ち」という概念がある。本書で語られるカルヴァンやロヨラには、この「闇落ち」という概念がぴったり当てはまるのかもしれない。そして彼らをいつまでも批判した人文主義とその背景となる教養とは、まさに闇落ちを回避するために必要な光ということになるのだろう。

【要検討事項】ルネサンスとは?
 フランスのアナール派歴史家ジャック・ル=ゴフは、フランスのルネサンスに当たる何かは、フランソワ1世のイタリア遠征と1516年のレオナルド・ダ・ビンチ招聘に始まると言っていた。が、本書が言う「ルネサンス」は、ダ・ビンチやフランソワ1世を完全に視野の外に置いて展開する。本書が扱う「ルネサンス」は、1517年ルターによる95箇条の提題に始まり、1572年サン・バルテルミの虐殺で極点を迎える宗教戦争と対の概念となっている。こういうルネサンス概念は一般的だと考えていいのか、それとも著者独特の世界観に依拠するものか、あるいはイタリア以外の地域にそもそもルネサンスという言葉が適用できるものなのかどうか。

「《ルネサンス》というのは、フランス語で《よみがえり》という意味ですが、結局は、中世文化が一部の聖職者や神学者の思いあがりや怠惰から、ごく少数の人々の利益のためだけのものになり、文化や宗教の本来の使命を忘れた時、中世よりも更に昔に人間が発見し考え出した歪められない文化の精神と人間観とをよみがえらせて、それによって中世文化を訂正し、新文化を創造しようとした時期が、ルネサンス(よみがえり)時代になるといいてもよいでしょう。(中略)誤解のないように附記しますが、このルネサンス時代は、西暦何年から始まるというようなことは言えませんが、フランスの場合は、およそ十六世紀がその時期に当たります。中世文化のなかで多くのすぐれた人間が、徐々に迷いつつも自然に反省し研究し続けた結果から生まれたものが《ルネサンス》文化の母胎を作ったことになるわけです。」25頁

 この記述に見られる考え方は、いわゆるイタリア・ルネサンスを代表するとされるペトラルカとかダンテの傾向とはかなり異なる。同じ「ルネサンス」という言葉を用いていても、それがどういう雰囲気を醸し出すか、あるいは期待される効果については、14~15世紀イタリアと16世紀フランスでは大きく異なる。これを地域による違いと考えるか、宗教改革以前以後の違いと考えるか。ともかく、15世紀イタリアの明るいルネサンスと、16世紀フランスの昏いルネサンスの対比は、はっきりしている。

【今後の研究のための備忘録】ユマニスムの定義
 「ルネサンス」という言葉と絡んで、「ユマニスム」という言葉の定義も大きな問題になる。ユマニスムという言葉は、日本語に翻訳すると「人文主義」と呼ばれることが多いが、その中身を具体的に説明しようとすると、とたに多種多様な考え方が混在していることが目に見えて、一言でまとめるのが難しい。本書は以下のように、やはり奥歯にものが挟まったような形で説明している。

「この自由検討の精神は、思想などというむつかしいものではないと思っています。むしろ、思想を肉体に宿す人間が、心して自ら持つべき円滑油のごときもの、硬化防止剤のごときものとでも申したらよいかとも考えています。そして、この精神が、ルネサンス期において、早くから明らかに現れていたように考えられますのは、ギリシヤ・ラテンの異教時代の学芸研究を中心とした《もっと人間らしい学芸》に心をひそめて、キリスト教会制度の動脈硬化や歪められた聖書研究に対して批評を行った人々の業績だったように思われます。これらの人々は、通例ユマニスト(ヒューマニスト)と呼ばれます。そして、これらの人々を中心にして、単に神学や聖書学の分野のみならず、広く学芸一般において、自由検討の精神によって、歪められたものを正し、《人間不在》現象を衝いた人々の動きが、ユマニスム(ヒューマニズム)と呼ばれるようになったように聞いております。」18-19頁
ユマニスムとは、むしろ一つの精神、一つの知的態度、人間の霊魂の一つの状態なのであり、正義、自由、知識と寛裕、温厚と明朗とを包含するものです。」(トーマス・マン1936年ブダペスト国際知的協力委員会での発言)29頁
ユマニスムは、思想ではないようです。人間が人間の作った一切のもののために、ゆがめられていることを指摘し批判し通す心にほかなりません。従って、あらゆる思想のかたわらには、ユマニスムは、後見者として常についていなければならぬはずです。」281頁

 ここで言われている「ユマニスト」は、日本語で通常使用される「人文主義者」よりも、「知識人」という言葉の雰囲気に近いように感じる。おそらくそれは、ルネサンスの当時(あるいは共和制ローマ時代まで遡っても)、「雄弁家」と呼ばれていたものに近いのだろう。私も自分自身のことを「ユマニスト」だと自称してみようか(世間にはたぶんその意図は伝わらないだろうけれども)。

【今後の研究のための備忘録】エピクロス主義
 一般的にルネサンスや人文主義はプラトン(あるいはそれを受けたキケロ)やアリストテレス(あるいはそれを受けたアヴェロエスとそれに対する批判)を中心に展開すると考えられているのだが、実はひょっとしたらルネサンスの本丸はエピクロスにあるのかもしれない。特にエピクロスの無神論的な唯物論に絡んで、ルクレティウスの影響には気をつけておいた方がいいのだろう。本書も、エチエンヌ・ドレの書いたものに関して「キリスト教からの乖離、あるいはキリスト教の忘却であり、異教的な自然観、アヴェロエス流の異端思想」(160頁)、「決してキリスト教的ではなく、むしろルクレチウスやウェルギリウス風な異教主義が濃厚に感ぜられる」(161頁)と言及している。啓蒙期以降の社会契約論にまで射程距離が及ぶ可能性があるので、16世紀フランス・ルネサンスにも絡んでいたことをメモしておく。

渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫、1992年

【要約と感想】上尾信也『音楽のヨーロッパ史』

【要約】書影の帯には「のだめカンタービレでクラシックにハマった人へ」などと書いてあるけれど、そういう人を確実に落胆させ、憤慨させる本。クラシック中心の音楽史を完全否定。帯のコピーを作った人は、内容をしっかり読まずに目次だけ見て適当に作ったか、軽薄な流行に乗せられる人々を意図的に騙して「ざまあみろ」とほくそ笑んでいるか、どちらか。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=ルネサンス期のヨーロッパ音楽は、ビザンティン帝国やイスラーム文化の影響なしには考えられない。十字軍を通じ、楽器や演奏技法などがイスラームやビザンティン帝国から西方にもたらされた。オスマン・トルコの軍楽は、ルネサンス以降のヨーロッパ音楽に多大な影響を与えた。

宗教改革は印刷術によるプロパガンダ合戦だっただけでなく、情緒と感情の優越を競う音の戦争でもあった。

【感想】この前読んだ岡田暁生『西洋音楽史』に対する不満は、この本で解消される。中世ヨーロッパ音楽に対するイスラームやビザンティンの影響が的確に指摘されていて、「ヨーロッパ」がしっかり相対化されている。タイトルが『ヨーロッパの音楽史』ではなく『音楽のヨーロッパ史』となっている所以か。おそらく「音楽史」という表題では、ヨーロッパを相対化することが難しい。「ヨーロッパ史」とすることで、ヨーロッパを相対化しようとする意志が可能となる。

また、『西洋音楽史』が19世紀クラシックの内的発展を一生懸命に語っている裏で、実際にはナショナリズムの進展に伴って音楽が外在的にしていたことを、本書は教えてくれる。具体的には「国歌」のあり方。本書の最後の一文、「音楽によって無自覚に感情や感覚を支配されるのではなく、音楽を奏し聴く個人個人が音楽を自律的に支配することこそ、音楽の力を自らの内にしたことになる。」という言葉は、なかなか「ヨーロッパ史」的に含蓄が深い。

上尾信也『音楽のヨーロッパ史』講談社現代新書、2000年

【要約と感想】徳善義和『マルティン・ルター』

【要約】ルターは聖書を真剣に読んだ結果、カトリック教会のデタラメに気がついて、真実の信仰と救いを聖書の言葉のなかに求めました。ルターの主張は広い共感と指示を得て、宗教改革に結びつきました。

■確認したかったことで、本書に書いてあったこと=聖書を重要視して教会を批判するという点で、ルターとヤン・フスとの類似性は当時から広く認識されていた。ルター自身もフスとの近似を認めていた。

ルターのドイツ語著作は、書き言葉がマスメディアとしての役目を果たした歴史上初めてのケースだった。ルターの著作はどれもこれもベストセラーとなった。ルターは学生に配布するプリントにも印刷術を有効活用していた。

16世紀初頭は、土地に根ざした農業中心の世の中から、貨幣経済中心へと切り替わりつつあった。ルターを支持した勢力は、こうした新しい貨幣経済の担い手であった。また、ドイツ・ナショナリズムの担い手である領主層も、反教皇・反皇帝という点からルターの支持勢力となった。

宗教改革は、哲学を神学から切り離しただけではなく、絵画や音楽も宗教から切り離した。教会からの発注を期待できなくなった芸術家は、市民の中に新しい市場を見出さなければならなくなった。

■図らずも得た知識=ルターという名前は本名ではない。それは「自由であって僕」という逆説的な意味を持つものとして自覚されていた。この「自由」と「僕」のアポリアは教育を哲学的に考える上で極めて重要な論点なのだが、吟味してみれば、確かにそれは本来は信仰に関わる問題として決定的な論点だ。

■要確認事項=ルターが教育権の思想を述べていること。子供には教育を受ける権利があり、親はその権利を実現する義務を負い、各都市の参事会は親の委託を受けて教育義務の一翼を担うと、ルターは教育義務を理解していた。とすれば、近代的な教育権の思想が既にルターに確立していたこととなる。

また、自分の良心に従うことを明言したルターの発言を、本書では個人の人格や主体性、信念や信条を尊重する近代的意識の先駆けと表現している。本書はさらに踏み込んで、キリスト教的一体世界が崩壊したとして、1517年を中世と近代とを画する時代の転機と表現している。同時期にヨーロッパで起こっていた他の様々な出来事と比較したとき、ルターの重要性をどこまで評価するべきか。

【感想】改めてルターの思想を概観してみると、親鸞の考え方と似ていることに驚く。人間の努力の限界、律法の形式性への不信、人間の弱さの自覚、自力救済の諦め、外部からやってくる救い、信仰そのものへの傾斜。しまいには既存の権威を否定して、結婚して子供をもうけるところまで同じという。もちろん内容は大きく違ってくるけれど、考え方の道筋というか、思考の論理形式は、驚くほどそっくりのように思う。単なる偶然とは思えない。人間本来のあり方に即して救いの問題に直面したとき、洋の東西に関わらず、必然的に導き出される普遍的な結論なのではないか。

徳善義和『マルティン・ルター―ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年

【要約と感想】Andrew Pettegree『印刷という革命』

【要約】印刷術の発明によって、世界は決定的に変化した。特に、従来は見過ごされてきたアジビラのような細かい印刷物に着目すると、本質が見えてくる。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=宗教改革に印刷術が深く関わっているという様々な具体例。たとえばヴェネチアにおけるサヴォナローラの成功も、印刷術の力に負っていた。ルターとカルヴァンは天才的な著述家でもあって、ヴィッテンブルクやジュネーヴの印刷業界は彼らの著作がもたらす経済的恩恵で栄えた。宗教改革の対立は、印刷術が可能にしたアジビラの大量印刷によって煽られていった。アジビラは印刷しやすいコンパクトな形態で作られ、各地方の印刷所でで簡単に複製して大量頒布することが可能だった。

最初期の印刷術は、経済的な軌道に乗るまでは大変で、数多くの倒産者が出た。印刷業者が期待していたほどの読者が存在しなかったため、学術出版ブームが一段落してからは、新規の読者層を開拓しなければならなかった。俗語で日常的に印刷物を読む人々が創出されなければ、印刷術は産業として成り立たなかった。これら印刷術の成功を土台から支えるような新しいリテラシーを持つ人々は、宗教改革の論争や、戦争に関するアジビラ、自然災害等のニュース速報、新大陸発見に関する報道、騎士道物語など手軽に触れられるファンタジーなどによって開拓されていった。

活字と並んで、図版の印刷技術も重要な要素だった。具体的には医学の分野における詳細な解剖図、本草学における精緻な説明図、天文学における視覚的な説得力、地理学における正確な地図等、木版印刷や銅版印刷による精密な図版印刷が可能となることによって、印刷物全体への信頼度や期待度が増す。

■図らずも得た知識=クリストファー・コロンブスの息子は、稀代の蔵書家だった。コロンブスは本を読んで西回り航路を思いついて財をなしたりしていて、そういう経験から息子も本の威力というものを実感していたのか、どうか。

愛国主義的なアジビラは、印刷術黎明期から数多く出現していた。宗教改革に関わる争いも、どうやら単純に宗教的情熱に関わっているというよりも、愛国主義的感情と密接に関連してくるらしい。ただ、ナショナリズムの発生と印刷術の関係については、著書は関心を持って記しているわけではない。

■要確認事項=「教育は十六世紀にもっとも急成長をとげた産業のひとつである。」(p.291)と書いてあるが、真に受けて良いのか。ともかく、教科書類の大量印刷、エラスムスの著書の大量出版を学生読者が支えていたことなどは、事実として参照できる。しかしエラスムスの教育論は、基本的には家庭教師向けの私教育について考えられたものであって、学校におけるマス教育を考慮したものではなかった。教育産業の拡大とは、単に、本の流通量の増大と関連して、民衆のリテラシー獲得への要求が高まり、私的な教育機関が自発的に増加したことを意味しているのか。あるいは国家や宗教機関による公教育の展開と結びついてくるのかで、話はまったく異なるわけだが。ともかく、一般民衆がどのようにリテラシーを獲得していたかは、まったくのブラックボックスのまま放置されている。

「ルネサンス」という言葉の内容は、どうなっているのか。本書は、単にギリシャ・ローマの文芸復興に関わる本だけではなく、印刷術の発明に伴って新しく出現した事態も同時に扱っている。たとえばアジビラの大量頒布とか、宗教改革の論争とか。これらもルネサンスという概念に含まれてくるのか。「ルネサンス」という言葉は、思想的な内実を伴わず、単に時間の幅を示しているだけなのか。

【感想】フランクフルトの書籍見本市は、ある意味、現在のコミックマーケットの姿を彷彿とさせて、とても興味深い。たとえばフランクフルト見本市での新刊売り上げがあまりにも突出しているので、著者や出版社も見本市に新刊を間に合わせようとして、実質的に見本市の開催日が締め切りを規定していたりとか。見本市に書籍商たちが隊列を組んで出動する様とか。

そして、人文学に対する風あたりが強いことを嘆く訳者あとがきが、切ない。本文自体も、人間の愚かな行為によって大量の書物が失われていく描写で終わっているし。TSUTAYA図書館に関わる愚行の数々とか、大量の貴重書を捨ててしまった図書館の話などを思い出すのであった。

アンドリュー・ペティグリー/桑木野幸司訳『印刷という革命-ルネサンスの本と日常生活』白水社、2015年<2010年