【要約と感想】稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』

【要約】「人格」という概念を理解するためには、キリスト教神学が培ってきた伝統をしっかりと踏まえる必要があります。「人格」を単に「個人」と言いかえることができる形で捉えるのでは、薄っぺらい理解しかできません。「人格」の本質とは、量的な「一」ではなく、同一のものが自己に立ち帰るような仕方で存在する自己還帰的な「一」であることです。それがモノとは異なる「精神」の在り方であり、この在り方こそが本来の「存在」というものです。しかしそのような「人格」が本質的に他者との「交わり」において存在するという矛盾対立的な関係(本質的に「一」であるにも関わらず不可避的に他者を必要とする)を正面から理解しなければ、本当に「人格」を理解したとは言えません。「人格」が本質的に「存在」でもあり同時に必然的に「交わり」でもあるという矛盾は、トマス・アクィナスのように聖書の教えからの霊感を得て、初めて理論的に解決する道が開けます。

【感想】「人格」研究の最右翼と言える研究書だ。右翼と言っても、もちろん政治的スタンスを示しているわけではない。「人格」を語る際のスタンスが主に3つあるとして。左の方から数え上げていくと、まず物質的な規定に重きを置く立場(神経生理学や進化心理学など自然科学)があり、次に社会的フィクションとして理解する立場(社会学や法学など社会科学)があり、そして精神的価値に重点を置く立場(倫理学や教育哲学など人文科学)となる。本書はもちろん精神的な価値に重点を置く人文科学的な研究をしているわけだけど、カントの人格倫理学をさらに精神的に深い地点から批判するなど、人文科学の中でも飛び抜けて精神性を重んじているというか、霊性を核とする、神学的な立場である。

そんなわけで、人文科学が言う「人格」とはどういうものかを理解する際には、極めて有益な本だと思う。人文科学が「人格」をどう扱ってきたかという哲学史も簡潔にレビューされていて、何が問題の核心なのかが浮き彫りにされている。問題の本質をしっかり掴んでいる人だからこそできるような、論理的に緻密でありながらも簡潔に整理された分かりやすい表現になっている。勉強になる。

そして「人格とは何か」という問いに対して筆者が最終的に出した答えとは、「存在・即・交わり」というものだった。これは極めて含蓄が深い回答ではある。ここで示された「存在」と「交わり」という概念は、表面だけ見れば相互に排他的な矛盾対立である。たとえばヘーゲルが『精神現象学』等において総合しようとしたのは、この「存在=一つとして自立するもの」と「交わり=必然的に他者を前提とするもの」の矛盾対立であったと言えるかもしれない。あるいは古代からプラトンやアリストテレスが問い続けてきた哲学問題も、この矛盾の解消に帰結するとさえ言えるかもしれない。この根本的な矛盾対立を一気に呑み込んでしまおうというのが、トマス・アクイナスの議論に即しながら筆者が示した「存在・即・交わり」という概念である。筆者の論理展開が成功しているかどうかは各自が本文に当たって確認してもらうしかないわけだが、私自身はその豪腕ぶりに唸らされた。なるほど、と。

とはいえ、その論理展開が腑に落ちるかどうかは最終的には「信仰」の問題となってしまう。私自身は、恐縮ではあるが、筆者と信仰を同じくしないので、筆者の結論が腑に落ちたわけではない。頭で理屈は分かるが、しかし腑には落ちないということだ。これは「信仰」の問題である以上、仕方がないところだろう。
「信仰」を持たない私から見れば、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね。すごい。」としか言いようのないところである。そして「そういうふうに特異点を設定する」ことが正しいかどうかは、論理的には説明されていないし、不可能である。論理によっては絶対に超えられない谷は、「信仰」によって超えるしかない。それが「言語ゲーム」というやつの宿命だ。そして私は、「信仰」を同じくしない以上、その谷を超えることはできない。「超えたとしたら、こう言えますね」とは言えるけれども。

たとえば、筆者が辿り着いた結論について、筆者はキリスト教の信仰でしか不可能だと主張したいかもしれないが、私から見ると仏教の論理でも説明可能だろうと思ってしまう。般若心経が言う「色即是空空即是色」という言葉は、まさに筆者が辿り着いた「存在・即・交わり」という内容の深奥を極めて鮮烈に突いているのではないか。
私は別に仏教の方がキリスト教より優れていると言いたいわけではなく、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね」という感想が等しくキリスト教にも仏教にも当てはまるように見えるのであって、結局は「特異点」の設定の仕方だけが個性的なのかもしれないと思うわけだ。キリスト教や仏教に頼らなくても、「特異点」さえ上手に設定できれば、「存在・即・交わり」という深奥は如何様にも表現できるのではないか。しかし「存在・即・交わり」を合理的に解釈するためには何らかの「特異点」の設定が絶対に必要であるということはおそらく間違いない。ただし、おそらくどの「特異点」も相互に優劣はなく、キリスト教でも仏教でもどちらの特異点設定でも合理的解釈は可能であるし、もちろんまったく別の「特異点」でも同じように「存在・即・交わり」の合理的解釈は可能になるように思う。

具体的に思い起こすのは、「光」というものの物理的性質だ。高校物理で習うわけだが、光は「粒子」であると同時に「波」の性質を持つ。光は物理的に「粒子」という個別的な「存在」の様式を示すと同時に、互いに干渉する「波」であるという「交わり」としてに在り方を示す。つまり「光」とは物理的に「存在・即・交わり」という在り方を示しているのだ。そして量子力学で習ったところでは、「光」だけではなく、あらゆる「原子」が「粒子・即・波」という在り方を示す。どうして光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すのか、その根拠は、少なくとも私は物理的には理解できない。私にできるのは、現実として確かに光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すことを「信仰」するしかないのだ。そして光や粒子が「粒子・即・波」という在り方を示すことさえ無条件に受け入れてしまえば、そこから演繹される物理的な体系は問題なく理解することができる。「粒子・即・波」という不可解で非合理的な在り方さえ受け入れてしまえば、全体的な体系は合理的に解釈することができるのだ。しかし全体的な体系を合理的に解釈できるとしても、どうして「粒子・即・波」なのかは謎のまま残る。
物理の話に限らない。全体的な体系を内側から合理的に解釈しようと思うときには、どうしてもどこかに「特異点」が必要となる。「思考の支え」が存在しないとき、人は全体的な体系を合理的に解釈することができない。その「思考の支え」を外部に求めない場合は、体系内に「思考の支え」としての「特異点」を設定する必要がある。筆者は、その「特異点」の設定を聖書に求めた。それ自体はまったく問題ない。しかし、私としては、「特異点」の有り様は他にもあり得るようにしか見えない。その有り様の選択肢は、それこそ無限にあり得る。とはいえ、「うまい特異点」と「ダメな特異点」の違いは、確かにある。たとえば「ユダヤ人が悪い」とか「イワシの頭」というのは極めて質の悪い特異点だろう。それから「特異点」が多すぎる理論も、ダメなやつだ。「特異点」がうまいかダメかは、「特異点」自体の単純性と、そこから演繹される論理体系全体の広がりと深さの射程距離から判断することができる。聖書に「特異点」を設定したトマス・アクイナスや筆者の立論は、相当に「うまい特異点」に立っているとは言えるような気はする。うっかりすると谷を飛び越えてしまうほど、うますぎると言えるかもしれない。この論理構成の見事さについては、キリスト教神学が培ってきた伝統の奥深さに感服つかまつるというか、頭を垂れて教えを請うというか、恐れおののくしかないところだ。すごい。だがしかし。仏教の示す論理も負けず劣らずそうとう凄いように思えるので、そう簡単に飛び越すべき谷は決められない。渡ってしまったら、簡単には帰ってこられないものだろうし。(渡ったことがないから分からないけれど)。

そして、上記の見解が「信仰を持たない者の言いぐさ」であることを私は自覚しなければならないわけだが、「信仰を持たない者の言いぐさ」というものがこの文章全体を貫く「特異点」なのだった。人は何らかの「特異点」なしでモノを考えることはできない。(そんなわけで、私個人は最終的な「特異点」の審級を「眼鏡」に置いております。ご了承いただけると幸いです)

で、まとめ。
私個人の今現在の理解としては、「人格」という概念とは、「それが確実に存在するという根拠がないにもかかわらず、それが存在すると仮定することによって世の中全体を合理的に無矛盾な体系として構想することが初めて可能となるような特異点のうちでも、その単純性および射程範囲の広さと深さにおいて極めて優秀なものであり、現時点においてはこれに取って代われる概念は他にないような文化的到達点」と理解するのが、いちばんしっくり来る。筆者の言いたいこととは究極に根本的なところでズレちゃってて、申し訳ないところではあります。

稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年