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【要約と感想】中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』

【要約】プラトンの著作に触れるときにまず大事なのは、それが「対話」として書かれているという事実です。私たちは、様々な人々が織りなす対話に参加した気持ちになって、性急に結論を求めず、ゆっくりじっくり物事を考えていきましょう。テキストを「批判的」に読み込み、自分の行動や態度を改めて点検する糸口にすることこそが、プラトンが目指していたものです。

【感想】前半は、わりとオーソドックスにプラトンの思想を説明している。対話編として書かれた意味、無知の知、イデア論、『国家』の構成。特にイデア論を真正面から扱っているのは、とてもいい。改めて勉強になる。が、魂の三分割の意味やシュトラウス派を批判する後半部は、なかなか手ごわい。それこそ「入門書」の体裁を借りて、学術論文では論証できない見解を自由に開陳している、という趣だ。まあ、それも「入門書」の醍醐味ではある。こういう無礼講がないと、「入門書」を改めて読む意味はない、と個人的には思う。

 で、類書と異なる本書の特徴は、副題に示されているとおり、プラトンを「批判と変革の哲学」として読むところだ。ちなみに私個人はプラトンを「教育」の営みとして読む立場にあり、それは著者の言う「変革の哲学」とも響き合う。というか著者自身も「プラトンは、いわば「生き生きとした知」の体現者であるとともに、そうした知を通じて、文化や社会のあり方の問題をとりわけ教育の問題として引きうけようとした哲学者だったのである。」(218頁)と言っているので、いっそのことタイトルは『はじめてのプラトンー教育の哲学』でもよいわけだ。
 ただしこの場合の「教育」とは、もちろん近代以降に成立した学校教育制度の下での教育ではない。それはむしろプラトンが批判したソフィストたちの教育に近いものだ。プラトンが意図する「教育」とは、知識を外部から与えるinstructionではなく、生きる姿勢や態度を内部から反省する「魂の向け替え」である。そしてそれは意図的・計画的に外部から注入する働きかけではなく、偶然始まった「対話」の過程から不意に立ち上がってくるような僥倖であり恩恵であり贈与である。それは近代的な意味での「教育」ではありえない。とすれば、著者が副題に「教育」という言葉を使用できなかったのも、当然ということになるだろう。が、私は敢えてそれを「教育」と言い張りたい、ということだ。そしてその私の姿勢は、著者が端的に指摘しているように、「俺のプラトン!」という読みなのだった。いやはや。

中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』講談社現代新書、2021年

【要約と感想】水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』

【要約】「新プラトン主義」とは後世になってからつけられたラベルで、当事者たちが自身をそう自認していたわけではありません。そして新プラトン主義と呼ばれている人々の思想内容も様々です。おおまかに一致するのは、存在の階梯の最上位に「一者」を据え、そこからの「流出」を通じて世界の成り立ちを説明し、一者との「合一」を志向するところです。
 新プラトン主義はもちろんプラトンの思想にコミットしていますが、現代のように「弁明」や「国家」を重要視するプラトン読解とは大きく異なり、「パルメニデス」や「ティマイオス」を尊んでいます。
 新プラトン主義の影響は、キリスト教教父アウグスティヌスを始め、射程距離は近現代まで及びます。

【感想】新プラトン主義についてさくっと体系的に教えてくれる本が全然ないので(新書レベルで存在しない)、本書の存在は極めて貴重である。ありがとうございます。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 多少なりとも西洋思想史にコミットするような読書人であれば、もちろん新プラトン主義について何かしらの知識を持つはずではあるが、世間一般的にはどの程度認知されているのか。いちおう高校倫理の教科書にはプロティノスの名前くらいは挙がることがあるものの(記述の内教科書もある)、思想内容と後世への影響について詳しく説明されているわけではないので、ほとんど認知されていないだろうとは予測する。とはいえ、私が追究している「人格」の概念を理解するためには、新プラトン主義への目配りは絶対に外せない。というか個人的には、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」概念と近代の「人格」概念を隔てるミッシングリンクが、新プラトン主義に対する深い理解によって埋められる可能性が極めて高いように感じている。

 個人的な理解では、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」には、「かけがえのない実存」とか「尊厳」という観念は欠けている。もともとペルソナという言葉は「役者のつける仮面」を指しており、そこから「その個人が演じるべき役割」とか「果たすべき役割に応じて期待される責任」というような意味は持ちつつも、近代において「人格」が持つような法的主体あるいは実存的主体というニュアンスは感じない。古代のペルソナはあくまでも表面に顕れて人の目に触れる「仮面」であって、個人の内奥に隠された領域に踏み込んでいるような印象はない。
 ところで、新プラトン主義が最重要視するのは「一」という概念だ。この「一」は、もともとは宇宙全体を「一」の相の元に理解するという形で外界に対して適用される概念ではあるのだが、新プラトン主義はこの究極的な「一」に対して、個人の「合一」を志していく。その個人的な神秘体験は、中世キリスト教の異端的な立場からは「神化」と理解されることになるだろう。このように神的な「一」と合一化した「個」こそが、近代における「かけがえのない尊厳をもつ自律的な個」の原初的な姿のように見えるわけだ。ここからキリスト教神学や中世スコラ哲学の議論を通じて神秘的な要素を剥がし落としていくことで、単なる「法的主体としての個」だったり「かけがえのない尊厳」だったりする「一」としての「人格」概念が成立していく、というような見通し。とういことで仮に古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりがあるとすれば、そのミッシングリンクとしての新プラトン主義への目配りは絶対に欠かせないのである。逆に言えば、古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりなどないと喝破できてしまえば、新プラトン主義に対する目配りは一気に必要がなくなるということでもある。さてはて。

【今後の研究のためのメモ】
「一」に関する記述をサンプルしておく。

水地宗明「一者」
「次に「」という名称も、「何かであって一つであるもの」をではなく、純然たるそのものを表す。すべて一つであるものは、この「」の力によって一つである。「という名称は、かのものの単一性を、したがってまた自足性を表す。というのも、かのものは何も必要としないのである。有るということも、能力もはたらきも、むしろ、かのものはこれらすべての原因なのである」(ポルフュリオス、断片220)、プロティノス自身は、七番目に書いた短い論文の中で、こう述べている。……。「」が「善」との呼ばれる理由の一つは、「」のこの統一力こそが、それぞれのものがそのものとして存在するための基本的な支えだからである。「」の力がはたらかないならば、すべてのものは瞬時にして四散消滅するというわけである。」pp.60-61
「歴史的には、「」という名称は特にプラトンの『パルメニデス』に由来すると言えるだろう。この対話篇のいわゆる第一仮定の終わりの方(142A)で、「は有るものでもなく、名前もなく、説明されることもできない」などと言われていて、プロティノスはたびたびこの箇所に言及しているのである。
 なおアリストテレスによると、晩年のプラトンはこう言ったという。イデアは他のすべてのものの原因であるが、イデアの原因は「」と「大かつ小」であると(『形而上学』1.6)。つまり、大きいとも小さいとも、その他何とも言えないような不定で素材的なものが「」を分有することによって、もろもろのイデアが生じた、ということであろう。
 もちろん、「」という名称は、(そして始原を「」とみなす思想は)もともとはピュタゴラス派に由来するものだと言えるであろう。ピュタゴラス派によれば、すべてのものは数にかたどられていて、そして数はから生じるのであるから。そしてプラトンがピュタゴラス派から影響を受けたことは、周知の事実であるから。しかし、ピュタゴラス派の「」からプラトンの「」を経てプロティノスの「」に至る道程は、何と大きな展開であろう。」pp.61-62

袴田玲「ビザンツ正教思想における新プラトン主義」
「「無形相の神、あるいは一者との一化」という主題への強い関心もまた、プロティノスとパラマスに共通する。……。パラマスのこれらの言葉づかいからは、プロティノスと同じ「」への渇望、つまり、修行者があらゆる多様性を脱して自己自身と一つになり、さらに主客を超えて神(一者)と真にとなることへの欲求が感じられるであろう。また、合一の動きに「見る」という同士が好んで使われる点、神(一者)が光として表現される点も、両者に共通である。」p.303

山﨑達也「エックハルト――始原への探究――」
「ところでエックハルトは、中世においてアリストテレスの存在者に関する一〇のカテゴリーを超えるものとして理解されていた、いわゆる「超範疇的概念」(transcendentia, termini generale)――存在(esse)・(unum)・真(verum)・善(bonum)――を神の固有性と解している。存在とは、それ自体規定することができない神の絶対的存在(esse absolute)を意味するが、その存在の第一の規定がであり、そのから生まれたものが真である。神学的に解せば、一は産む者として父を意味し、真は父から生まれた者として子を意味する。善は真を媒介にしてから発出するものとして、父と子との愛の結合すなわち聖霊である。
 エックハルトは、神は父・子・聖霊という三つのペルソナ(persona)を有しながら、その本性(natura)はであるという三位一体の神学において、神の本性としてのをどこまでも追究していく。においてはあらゆる他が否定されるだけではなく、否定すること自体も否定される。この二重の否定すなわち「否定の否定」一(negatio negationis)によって、神の一性と心的な統一の深遠への研ぎ澄まされた洞察が可能になる。父・子・聖霊は数として数えられるものではなく、根源的にして神的なる存在・生として一なのである。この一性と統一は「一なる一」、「本来からの一」、「単純なる一」として、多様なるものとの差異的なるものの彼岸に求められなければならない。」pp.331-332

 しかしこうなってくると、老荘思想の「太一」とか「一元二気万物」だとか、朱子学の「太極」なども参照せざるを得なくなってきて、目眩がするところではある。というのは、西洋の「一」が「人格」の概念に昇華したのに対し、東洋の「一」が「人格」に至らなかったことを、合理的に解釈しなければいけないのであった。

水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年

【要約と感想】坂部恵『ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光』

【要約】西洋哲学史の時代区分について、教科書的には15世紀ルネサンスを大きな区切りとしていますが、実際には一般的に「中世」とされている8世紀カロリング期の知的営みが決定的にヨーロッパ精神の土台を作っています。ルネサンス期になされた仕事は、中世の知的営為のオマケのようなもので、取るに足りません。
 中世哲学は表面的には「個/普遍」の関係性(あるいは非関係性)を扱っているように見えながら、実際に問うているのはそんなレベルのものではなく、「個」も「普遍」も同時に呑み込んで、「語り得るもの/語り得ないもの」の狭間から問いを立ち上げています。
 ルネサンス以後のいわゆる「近代」は、オッカムの伝統を引き継いで「語り得ないもの」を削ぎ落として「個」の概念を抽出し、基本的人権とか民主主義という形に結実して来ました。それはそれで尊い仕事ではあります。しかし近代理性が合理的に削ぎ落とした中世の「語り得ないもの」の伝統は、現代思想の中で甦ることになります。近代が反理性・反合理的な「神秘主義」として排斥してきた言葉の中に、実は決定的に重要な知的営為が込められていたのでした。

【感想】2021年現在においては、大学で人文科学を学べば「カロリング・ルネサンス」という言葉に触れる機会がふつうに用意されているわけだが、30年前にはまだまだ新鮮な考え方だっただろう。近代哲学(デカルト・ロック・カント)を脱構築しようとする現代思想(フーコー・アドルノ・レヴィ=ストロース)の隆盛の中で、思想史的には改めて中世の知的営為に注目が集まることになった。ポストモダンが「近代」を脱構築するために、改めて「中世」を掘り起こす。まあ形式的には、ルネサンスが中世キリスト教・封建制を脱構築するために「古代」を掘り返したり、明治維新が中近世武家政権・封建制を脱構築するために「古代」を掘り返すのと同じような試みではある。
 で、本書が脱構築しようと試みている対象は、私が読解した限りでは、近代特有の「個/普遍」という問題の立て方そのものだ。近代は思想的にも文化的にも政治的にも「個」の概念を土台に据えることによって成立している。近代の思想・文化・政治を理解するために、「個」の概念は決定的に重要だ。しかし本書は、その「個」の概念を中心とする問いの立て方そのものを脱臼させようと試みる。本当の問題は「個/普遍」の二項対立にあるのではないらしい。
 じゃあ何が本当の問題かというと、「定まったもの/定まらないもの」「境界のあるもの/境界のないもの」「閉じた系/開いた系」「語れるもの/語り得ないもの」「個としての個/無限系列としての個」「理性的言語/詩的言語」の相克だ。「個/普遍」の境界線は、この対決の中に溶け込んでいく。そして近代はこの二項対立の前者を切り取り、後者を反理性的な「神秘主義」と断じて切り落とすことによって、成り立つ。「定まって閉じた語り得る個としての個を理性的に語る」という観点から「個/普遍」の問題に決着をつける。「個/普遍」の問題は、思考のフィールドそのものをダウンサイジングしたことによって「理性的」に解決することが可能となったのだ。
 が、近代によって合理的に切り落とされた「語り得ないもの」の領域が、近代的な「個」の概念に異議を申し立てるポストモダンの流れの中で、再び呼び起こされ、甦ることとなった。ポストモダンは問いの立て方そのものを再び転換することを試みるわけだが、それこそが本書に見るような8世紀カロリング期を参照しようとする動機となる。
 で、それに何か意味があるかという話になると、具体的な問題に対して新たな観点から言葉を与えられるかどうかが勝負になる。そしてそういう意味で言えば、眼鏡論的には大いに「アリ」だ。

【この議論はメガネ論にも使える】
 私の個人的な興味としては、本書の関心は「1/0あるいは∞」の公理系の問題と重なる。近代的な「個/普遍」とは「1」の相で捉えるべき概念であり、その観点は古代のプラトンやアリストテレスとも響き合う。近代(そして古典古代)とは「自己同一」つまり「1」の公理系で成り立っている。しかし東洋の影響を蒙るヘレニズム思想から、「0」あるいは「∞」の思想が興隆し、これが本書によればカロリング・ルネサンスで一つの完成に至り、中世の知的営為(いわゆる神秘主義など)を導いていく。これは「非-自己同一」の哲学であり「否定」の神学であり「無」の公理系だ。
 そしてその知的営為は、眼鏡を考える上でも極めて大きな示唆を与える。一般的には眼鏡を考える際にも「1」の公理系、つまり「個/普遍」の関係が決定的に重要な問題であると認識されがちである。しかし実は、本当の問題は、「0」あるいは「∞」の公理系でないと立ち上がってこないのかもしれないわけだ。「1+1=1」という、いわば「三位一体」の論理を包含する公理系でなければ、メガネの真の姿は浮上してこないかもしれない。そして確かに、「∞」の記号をじっと見ていると、まさに眼鏡に見えてくるのであった。

坂部恵『ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光』岩波書店、2012年<1997年

【要約と感想】富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』

【要約】アウグスティヌスは、近代的な意味での「個」の思想が生まれた出発点です。人は、伝統的な共同体から切り離されたとき、はじめて「私とは何か?」という問いに直面します。そしてアウグスティヌスが活躍したローマ帝政末期とは、まさにそういう時代でした。アウグスティヌスはその問いに対して誠実に真正面から取り組む過程で、神と対面することになりました。それは鏡を通して自分の見慣れない不気味な顔と対面するような奇妙で居心地の悪い体験でありつつ、告白の言葉が自分に折り重ねられて内側に向かい、向かい合わせの鏡に映る顔のように何重にも畳み込まれて重層化します。そして「告白」というものが愛する人に対して行なう行為であるように、「私とは何か?」を問う相手は「愛している者」です。だから誰を愛しているかさえ分かれば答えは分かったも同然かと思いきや、「愛する者」と「私」が合わせ鏡にように無限の問いを生み出して、結局「私とは何か?」という問いに答えが出ることはありません。それが近代的な「個」というものの有り様でしょう。

【感想】アウグスティヌスの概説書ではない。アウグスティヌスを題材として切り口に使っているところまでは間違いないが、言っている内容は徹底的に著者本人の興味関心に即している。アウグスティヌスについて情報を仕入れようと思って本書を繙いた人はおそらくガッカリすることだろう。
 が、個人的には非常におもしろく読んだ。というのは、「一」の思想について示唆に富んでいる本だったからだ。そして「一」とは「無限」であり「特異点」でもあることを改めて確認したのであった。「一」を「一」たらしめるためには何らかの「特異点」が絶対に必要になるのだが、その「特異点」が論理必然的であることは「一」そのものからは証明することができず、論理は「無限」のトートロジーに陥るしかない。そしてそれは合わせ鏡に映る景色のようなもので、論理的に無限であることは分かりつつも、有限な人間の身においては無限を見通すことなどできず、実際に認識できるものは有限回のうちに留まる。その認識が有限回で行き着く限界のそのまた先にあるだろうものがいわゆる「神」というもので、理論的には絶対にあるはずなのに、人間の感覚では捉えることが不可能という。しかしまあ、いわゆる「神」と呼ばれている何かが合わせ鏡に映った像の向こう側にある何かであり、そしていわゆる「私」と呼ばれるべきものが合わせ鏡に映った像を認識している何かだとしても、合わせ鏡の中にいる「それ」が何なのかは結局は分からないのであった。いやはや、合わせ鏡の思考実験と比喩はなかなか優秀なように思う。自分でも使っていこう。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 「一」に関する表現サンプルを得た。ありそうでいて、なかなか多くないので、貴重だ。

「そもそも「一」であること、何であれ、およそ何かが「一つ」であるとはどういうことなのか。そういうふうに考えてみると、キリスト教の教理がどうのといったこととは関係なく、問題はあまりにも身近でありふれているとともに、とても不思議な様相を呈してくる。「一つ」であるということは、自明であるどころか、捉えどころのないものに思えてくる。」p.35
「私というものもまた、そのようなありかたをしている。私の一つの身体には、たとえば二本の腕があり、そこにはそれぞれ五本の指があり、ずっととんで細胞レベルまで行けば、身体全体でおよそ60兆もの細胞があるらしく、その各々がまたそれぞれに多を含む。心のなかにはいつもさまざまな思いが去来し、その思いの一つ一つがまた、さらに微細な感情や思い出や期待や欲望を秘めている。一人の私、一つの心とは言っても、それはとりとめようもないほど多くの多からなっており、にもかかわらず、一人のこの私である。」pp.35-36

 まあ、プラトン『国家』やアリストテレス『形而上学』から問題となっていることで、哲学の本丸ではある。が、実はこの本丸にダイレクトに突っ込んでいくような論述は、あまり多くないように思っていたりする。

 また、「告白」に関する言質も得た。ちなみに個人的には、「告白」に関する論述というと、直ちにフーコー『性の歴史Ⅰ』とか柄谷行人『日本近代文学の起源』を想起するところではある。

「考えてみれば、私たちがふつう「告白」と言えば、罪の告白のこともあるかもしれないが、まず素朴に思い浮かんでくるtのは恋や愛の告白だろう。まして「告白」という言葉が賛美の意味を同時に含みもつとすれば、まさに愛の告白こそがそれにふさわしい。そう言えば、罪の告白もまた、刑事や判事といった人たちにではなく、まずは愛する者に対して行なわれるものなのかもしれない。見ず知らずの、信じてよいのかどうかも分からない人たちにではなく、私が信じ、私を信じてくれている人に対してこそ、告白はもっとも切実で偽りのない告白であるだろう。私が信じている人とは、私が愛している人であり、その人が私を愛してくれていると思うからこそ、その人を信じ、その人の言葉を信じてみることができる。私が私について知るために鏡として引き受ける言葉とは、誰の言葉であってもいいわけではない。それはほかでもない、私が愛し、私を愛してくれる人の言葉である。私が私にとって謎となったとき、私が私を問いかけるその相手は、愛する人である。」pp111-112

 先に内面があって後に告白という行為があるのではなく、先に告白という形式的な行為があって後に内面が作られるという、フーコー=柄谷図式とはどう響き合うか。内面があって愛が生まれるのではなく、愛があって後に内面が生じるということかどうか。

富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』NHK出版、2003年

【要約と感想】宮谷宣史『人と思想 アウグスティヌス』

【要約】アウグスティヌスの生涯と思想を、「愛」というキーワードを中心に解説しています。類書と異なる本書の特徴は、著作の全体像について目配せが効いているところ、その後のヨーロッパへの影響と日本における研究史が簡潔にまとめられているところになります。

【感想】著者の誠実な研究姿勢が行間から滲み出ているような感じがして、味わいながら読める良い本だった。アウグスティヌスのキャッチフレーズが「愛の思想家」だということは知識としては知っていても、それが具体的にどういうことかは、愛に溢れる著述に実際に触れないと、本当のところは分からないものかもしれない。個人的には、彼の言う「愛」がどういうものか、その一端を垣間見たような気がしたのだった。世界が「愛」で成り立っていることを心の底から信じられたら、それは確かに掛け値なく「幸福」と呼んでいいものだろう。少なくとも「金」とか「力」で世界が成立していると思っているよりは、ずっと。

【今後の研究のための備忘録】
 教育に関して見逃すことのできない記述があった。

「若い教会の指導者から、初心者を教え導く時に、どのようにしたらいいか、何が大切か、という質問を受けたアウグスティヌスは、自分の考えをまとめて書いて、『教えの手ほどき』(400年)という本の形にしてそれを返事として送った。この文書のなかで、彼は教育において、指導するさいに、大切なのは、愛である、と繰り返し述べている。つまり、話す場合も、聞く場合も、愛が基本で、また愛が人を養い育てることを確信していた。」p.126

 文庫本の形で簡単に手に入る代表的著作『告白』と『神の国』は読了したものの、その他の膨大な著作に目を通す時間は確保できないなと思っていたが。この『教えの手ほどき』は読んでおかないとまずいような気がする。確かに教育で一番大切なものは「愛」ですよ。

宮谷宣史『人と思想 アウグスティヌス』清水書院、2013年