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【要約と感想】パスカル『パンセ』

【要約】当局から異端として弾圧されていたジャンセニズムを熱烈に信奉する著者がキリスト教護教論を書こうと試みて残したメモや書き抜きノートの断片集です。
 人間本性はアダムの堕落によって損傷してしまったので、人間とは本質的に惨めな存在ですが、その惨めさに自ら気付いていることにより他の被造物にはない尊厳があるし、キリスト教を信じていれば救世主による回復を期待できます。救いがあろうがなかろうがどっちにしろキリスト教を信じた方が理論的に考えてお得なので、信じることをお勧めします。キリスト教が素晴らしいのは、その敵であるユダヤ人の存在そのものによっても自明に証明されますが、いちばん説得力があるのは奇跡です。奇跡は、あります。

【感想】事前の期待値が高かったせいだろうが、少々ガッカリした。期待していたものが見いだせなかっただけでなく、失望させられるような文章ばかりが並んでいた印象だ。特に著者が奇跡を信じているだけでなく他人にも信じさせるように試みているのは、心底バカバカしく思った。本書を誉めそやす人々が多かったので名著だと思い込んでいたのだが、いやいや、著者がこういうバカバカしい世迷言を本気で吐いていることにもちゃんと言及しておいた方がよいのではないだろうか。「理性批判」だとか大層なことを述べている解説も目にするが、実はパスカルは単に子供騙しの奇跡を信じて理性を腐していただけのことで、カントの理性批判のような綿密な論理が背景にあるわけではないし、なんならトマス・ア・ケンピスとかイグナチウス・ロヨラのほうが徹底している。本書にはデカルト以後というインパクトがあるに過ぎない。また聖書解釈の恣意性にも心底呆れかえる。自説に都合の良い記述を聖書から一生懸命にかき集めて敵を論破しようとしているところが、極めて愚かしい。聖書の記述からはパスカルの敵にとって都合の良い記述だっていくらでも引っ張ってこられるはずだし、イエズス会は実際にそうした。そりゃそうだ。ユダヤ人に対する身勝手な解釈にもあきれ返る。数学や自然科学で素晴らしい成果を上げた人間がこういう愚かな作業に熱中してしまったことが残念でならない。
 そういうガッカリする残念な内容をざっくり削り落として、文学的に意味ありげで思わせぶりな名句だけ抜き取れば、確かに傑作に見えなくもないものができあがるかもしれない。しかしそういうふうに人文主義的な著作として読まれることは、おそらく著者の本意とはかけ離れているものだ。著者の本来の意図には、現代的な意義はまるでない。もしも断片ではなく完成した形で伝わっていたとしたら、おそらく凡作として歴史の波に埋もれていただろう。まあ、研究者か狂信者でなければ、名句をつまみ食いするのは何かしらの意味を持つとしても、全編を通読する価値はない本だ。特に聖書絡みのところなど、現代人が読む価値は一切ない。私は研究者なので、真実を語った本としてではなく、歴史的史料としておもしろく読んだが、ホメロス『イリアス』プラトン『ティマイオス』に並ぶ三大ガッカリ古典として印象を刻んだのであった。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論・社会有機体論
 パスカル本人が社会契約論を述べているわけではないが、それを彷彿とさせる記述が散見されて、気になるところだ。

「人間はすべて、生まれつき互いに憎みあっている。人々は、可能な限り、人間の欲心を利用して公共の利益に役立たせようとした。しかしそれは作り事であり、愛の偽りの姿にすぎない。実のところ、それは憎しみにすぎないのだ。」(ラ210/ブ451)
人々は欲心を基礎として、そこから統治と道徳と正義の素晴らしい原則を引き出した
 しかし結局のところ、人類のこの邪悪な核心、この「悪しきありさま」はただ覆われているだけで、取り除かれてはいない」(ラ211/ブ453)
「(前略)人間たちが群を作りはじめる場面に立ち会っていると想像してみよう。必ずや彼らは、より強い部分が弱い部分を押さえつけて、ついには支配勢力ができるまで戦うだろう。しかしいったんそれが決定されると、支配者たちは戦争が継続することを望まないので、今度は手中にある力が自分たちの思いのままに受け継がれるように定める。ある支配者たちはそれを人民の選挙に、他の支配者たちは世襲に委ねる、等々。」(ラ828/ブ304)

 これはすぐさまマンデヴィル(1670-1733)の「蜂の寓話」を想起させる記述だが、マンデヴィルはパスカル(1623-1662)が死んだ後に生まれている。つまり「欲心を利用して公共の利益に役立たせよう」というアイデアはマンデヴィルやパスカルの創見ではなく、17世紀後半には広く共感されるような考え方だったと見なす方がよいだろう。彼らに先行するのは、ホッブズ、スピノザ、モンテーニュの著述だ。彼らが出したり出さなかったりした結論はそれぞれ独特だが、人間の「欲心」を虚心坦懐に観察し、その欲心が社会を構成する基礎だと見抜いたところは共通している。そして社会契約論と呼ばれる考え方の肝は、この人間の自然心性に備わる欲心を基礎に理論を構成するところにある。パスカルは、この社会契約論的な考え方の肝に言及した上で、それを「邪悪な核心」だと批判しているわけだが、これがキリスト教護教論の立場ということだろう。ところで解説(上巻271頁)ではパスカルの記述が『プギオ・フィデイ』の内容に呼応しているとされていて、それは文献学的なレベルではそうなのだろうが、背景としてホッブズ・スピノザの影響はどうだったのかは気になるところだ。
 また、社会有機体論的な記述も散見され、どういう背景があるか気になるところだ。

「手足が幸福になるようにするためには、手足が意志をもち、それを体全体に合致させることが必要だ。」(ラ370/ブ480)
「考える手足が集まって出来上がった体を想像してみるがよい。」(ラ371/ブ483)
「もしも足と手に個別の意志があるとすれば、その個別の意志を、体全体を統御する第一の意志に従わせることによってしか、手足本来のあり方を守ることはできない。それを踏み越えれば、混乱と不幸に陥る。しかし体の幸福だけを望むことによって、手足は自分自身の幸福を実現する。」(ラ374/ブ475)

 これはもちろん具体的にキリスト教会をイメージした記述で、パスカル以前から広く見られる考え方ではあるが、ただ、手足が意志をもったり「第一の意志に従わせる」ことはホッブズ的社会契約論のイメージとも重なり合うところだ。どの程度の影響があったのかは気になる。
 そして実は、複数の人間を集めて一個人と見なす有機体論的発想は、『パンセ』以外の自然科学的な著作(真空論序言断章)でも表明されている。

「無限のためにのみ造られた人間は、人生の始まりの時期には、無知の状態にある。しかし彼は絶えず学びつづけて、進歩していく。こうして人間にのみ与えられた特権によって、個々の人間が日に日に学問において成長するばかりでなく、人類全体も、宇宙が年を取るのに応じて、絶えず学問の進歩を遂げる。じっさい一個人の異なった年代に生じるのと同じことが、人類の経歴においても生じる。こうしてこれほど多くの世紀の経過する間に相次いで登場した全人類は、つねに生存し、絶えず学んでいく同じ一個の人間と見なさなければならない。」(下巻287頁)

 これは明らかにキリスト教会的な社会有機体論ではない。16世紀以降のベーコン・デカルト的な学問観と響き合うものと理解していいのかどうか。デカルト『方法序説』には、科学による無限の進歩に関する楽観的な表明を見出すことができるが、有機体的な表現ではない。

【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
 パスカルは人間の立ち位置を神(創造主)と獣(被造物)の中間と見ているが、特に独創性があるというわけではなく、キリスト教の古代から引き継がれている伝統的な観念を繰り返しているに過ぎない。ただし、神と獣の間にある人間の「尊厳」をどこに見るかについてはルネサンス期から議論が積み重ねられてきており(たとえばピコ・デラ・ミランドラ)、その蓄積された議論をパスカルがどの程度参照しているのかは気になるところだ。

「人間は明らかに考えるために造られている。人間の尊厳、人間の取柄のすべてはそこにある。人間の務めのすべては、しかるべき考え方をすることにある。」(ラ620/ブ146)
人間の尊厳は、無垢の状態にあっては、被造物を用い、それを支配するところにあった。しかし今日では、被造物から離脱し、それに服従するところにある。」(ラ788/ブ486)

 一番有名なフレーズである「考える葦」にも見られる通り、パスカルは人間の尊厳の根拠を「考えること」に見出している。それがルネサンス期に尊厳の根拠として主張された「理性」と範囲が同じかどうかが問題になるところか。

【個人的な研究のための備忘録】私の同一性・人格
 同一性に関しては、人格という概念の召喚と絡んで、なかなか興味深いテキストが残されている。

「<私>とは何か
 (前略)誰かをその美貌のために愛する人は、その人を愛しているのか。否、天然痘にかかれば、命は失わなくても、美貌は失われるが、そうなれば、彼はもはやその人を愛さないだろうから。
 そして、もし私が、判断力や記憶力が優れているという理由で愛されるとして、この私はたしかに愛されているのか。否、私は自分を失うことなしに、これらの性質を失うことができるのだから。それでは、この<私>はどこにあるのか。体のうちにも、魂のうちにもないとしたら。そして体にせよ魂にせよ、その性質のためでなしに、どうしてそれを愛することができるのか。しかるにその性質は滅びゆくものである以上、<私>を形作るものではない。いったい、ある人の魂の実質を抽象的に、そこにどんな性質があろうと愛するなどということがあるだろうか。それは不可能だし、だいいち、不正だろう。だから人が愛されることは決してない、愛されるのは性質だけだ。」(ラ688/ブ323)
「彼は、十年前には愛していたあの人をもはや愛していない。無理もない。彼女はもはや同じではないし、彼にしても同様だ。彼は若かったし、彼女もそうだった。彼女は今や別人だ。昔のままの彼女だったら、まだ愛するかもしれないが。」(ラ673/ブ123)

 ただちに大澤真幸『恋愛の不可能性について』を想起させる記述ではある。<私>が性質の束に還元できない共約不可能な存在であるとして、その<私>が何なのかをパスカルは想定できないと言う。しかし実はそれは反語的に「神の愛」の絶対性を主張している。解説はこう言っている。

「彼が言おうとしているのは、人格に向けられる愛が存在しないということではない。逆に、人格に対する愛について、それに先行する原因として、何らかの永続的な価値を想定するのが間違っているということである。」下巻417頁、解説Ⅱ

 ここで個人的に注目したいのは、パスカルが本文中で一度たりとも使用していない「人格」という言葉が、解説で召喚されているという事実だ。つまり、性質や記述の束に還元できない何らかの「愛の対象」を指して本書解説は「人格」という言葉を呼び起こしている。個人的には、これこそが「人格という概念の誕生の瞬間であると思っている。仮に何かを「愛している」として、その愛の対象が性質ではないことを言い表そうとしたときに、初めて「人格」という言葉が必要となる。パスカルの「愛」に関する記述は、「人格」という概念の召喚を欲望する文学的な表現としてはオリジナリティを持っているように見えるが、どうなのか。
 またあるいは、その愛の対象としての「人格」は「魂」と呼ばれる概念と同じ輪郭を持っているだろうことが、次のパスカルの言葉からも分かる。

「私の体は、そこに私のが欠けていれば、一人の人間の体とはならないだろう。したがって、いかなる質量であれ、それと結びついた私のは、私の体となるだろう。」(ラ957/ブ512)

 ちなみに同じ節にある記述は、「同一性」という概念について考える際に、少し興味深いサンプルを与えてくれる。

「そこの流れる同じ川は、同時にシナの地を流れる川と数的に同一である。」(ラ957/ブ512)

 そしてパスカル本人が「本当の自分」という乙女チックな表現をしているが、これが当時のフランス語においてどういうニュアンスの表現だったかは気になるところだ。

「私たちは自分本来の存在のうちで営む人生に満足できない。私たちは、他人の心の中に形成される私のイメージに合わせてもう一つの想像上の私を生きることを望み、そのために見かけを整えようと努力する。絶えず人の目に現れる自分を飾り立て、それを後生大事に守り、本当の自分はなおざりにする。」(ラ806/ブ147)

 また解説で「紳士」という「普遍的な存在」に触れているところで、「人格」という言葉が召喚されている。

「「普遍的な存在」とは、すべての専門家の資質と能力を兼備した存在ではない。逆に、あらゆる役割と専門の手前にある生身の存在、すべての社会的属性を剥ぎとられた一個の、しかし丸ごとの人間である。(中略)人と人との人格的交わりの基礎にあるのは、この「人間としての完全な形を備えた」各人の「普遍的な存在」であり、その自覚が交流の糸口になる。パスカルが紳士を重視するのは、そこにモンテーニュの言う普遍的存在を見ていたからである。」420-421頁、解説Ⅱ

 この場合の「人格」とは、すべての社会的属性を剥ぎとられた裸の一個人という意味だ。先ほど確認したような、あらゆる具体的「性質」を剥ぎ取られた「愛の対象」という「人格」概念と響き合ってはいる。ただし完全に価値中立的というわけではなく、「紳士」という概念が貼りついている。日本語で言えば「人格者」とでも呼ばれるものだろう。つまり「人格」とは、建前上はあらゆる性質や社会的属性を剥ぎ取ったと言いつつ、実質的にはそうではない何らかの性質や属性を匂わせるものらしい。
 ところで、本文に「人格」という言葉は一度たりとも登場しないが、「ペルソナ」という言葉は登場している。

「人の心にとっては、三位一体のうちに三つのペルソナを信じようと、四つのペルソナを信じようと、どちらでもよい。」(ラ963/ブ940)

 三位一体の文脈で登場するわけだが、カトリック的にこれは大丈夫なのか。普通に考えたら異端以外の何物でもないが。

【個人的な研究のための備忘録】子ども
 そして17世紀において、やはり子どもはバカにされていたという記述もサンプリングしておく

「[偉人たち]は、私たち、最も小さな者、子供、獣に劣らず、おとしめられている。」(ラ770/ブ103)

パスカル『パンセ(上)』岩波文庫、2015年
パスカル『パンセ(中)』岩波文庫、2015年
パスカル『パンセ(下)』岩波文庫、2016年

【要約と感想】沢山美果子『近代家族と子育て』

【要約】いま私たちが当たり前と思っている家族の形は実はつい最近になってから新中間層の台頭に伴ってできあがったものですが、そういうことを改めて暴きたいのではなく、男女関係や子ども観に埋め込まれた矛盾を浮き彫りにしながら、近代家族という観念が人々の生き方にどう関わったかを明らかにします。
 近代家族という観念は、女性に対しては家庭の中で子育ての責任を一手に背負わせ、男性に対しては資本主義社会の競争圧力によって自己実現を阻み、子どもに対しては「純真無垢」という空想的観念を当てはめながら学歴競争に曝します。様々な矛盾を外部から隔離された近代家族内に押し込めることで、国家と資本主義は展開していきます。

【感想】とてもおもしろかった。序章では近代家族研究史のレビューを踏まえて研究の目的を明確にし、本章では具体的な事例を軸に過不足ない分析を手際よく施し、終章で成果を明確にして現代的意義を述べる。学術的な著述のお手本のような展開で、感服した。
 まあ、数の上では少数だった新中間層が近代家族のモデルを第一次世界大戦後あたりから形成し始め、その核家族の理念型が高度成長後に広く一般化し、専業主婦が学校の下請けとして専門家の言説に影響を受けながら子育てを一手に担い始め、男性が資本主義の競争圧力の中で疎外されていったというストーリーは、様々な文献から摘まみ食いしてなんとなくアカデミズムの中では共通見解になっているような印象を持ってはいたが、やはり元祖の論文をしっかり読んだほうが分かりみが深い。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 新中間層が社会から家庭を隔離しながら純粋無垢な子どもを教育しようと意志するところで「人格」という言葉が連発されていた。

「では、鳩山にとっての教育とは、どのようなものか。それは、「人格の完成」を目的に、「隔離」された教育的世界のなかで、子どもの「頭脳を明晰にする」ことであった。」106頁
「彼女たちの育児の目的は「子供の人格をつくる」(鳩山)「人格の完成、換言すれば人間として生きる為の最善の道を会得する」(田中)ことに置かれた。(中略)その目的とする「人格の完成」とは、自由=個人の解放と独立=個の自覚にあり、個人の解放とこの自覚を実現することが、この社会を「よりよく」生きることにつながるのであった。
 「人格の完成」という教育目的のために「生活全部が教育」(田中)となる。」196頁

 「人格の完成」という教育目的は、もともと新中間層に特徴的なものというよりは、ヘルバルトあたりからT.H.グリーンあたりにかけてのゲーテ的なロマン主義に影響を受けていたであろう教育学者・倫理学者によって主張されていた。あるいは「無垢な子ども」という概念も、ロマン主義的な傾向を素直に引き継いだものだ。それが大正期の新中間層の子育て観(日本に限らない)にダイレクトに反映しているのは、伝統的な共同体から「個」を引き離したいという資本主義社会における適合的な身振りに完全に噛み合っているからなのだろう。教育の目的が「共同体の中で特定の役割を果たすことができる」ではなく「人格の完成」となっているのは、教育学の論理内から自明に導き出せることではなく、もちろん近代家族の論理内から自明に導き出せることではなく、共通の背景となっている資本主義社会の論理が決めたことだ。

【個人的な研究のための備忘録】裁縫
 明治前期から中期にかけての裁縫教育を調査しているところで、本書の趣旨とはまったく関係ない記述だが、見つけたのでメモしておく。

1902年『東京市養育院月報』21号、「将来如何なる人にならんと思ふか」という教師の問いに、尋常科1年38人中4人が「裁縫教師」と答えている。(137頁の表1)

沢山美果子『近代家族と子育て』吉川弘文館、2013年

【要約と感想】『下田歌子と近代日本―良妻賢母論と女子教育の創出』

【要約】下田歌子は戦前の女子教育に極めて大きな貢献をしたにも関わらず、戦後の教育史研究では保守的な良妻賢母主義論者とみなされ、まともな研究対象とならずに忘れられた存在となっていました。しかし近年の歴史研究の成果に基づいて改めて検討してみると、単に保守反動だったわけではなく、近代的な観点から女性の地位向上を目指した良妻賢母主義を掲げていたことが明らかになります。女子教育への貢献と良妻賢母主義の内実を改めて精査することを通じて下田歌子の実像を多面的に明らかにすることを目指したアンソロジーです。

【感想】お城探訪が好きなもので、日本三大山城である岩村城にも14年前に訪れているのだが、城の麓に岩村町偉人十傑として下田歌子を顕彰する石碑と銅像があったことをよく覚えている。アカデミズムは下田歌子を黙殺したけれど、地元はしっかり覚えているのだった。
 そしてご多分に漏れず私も下田歌子については百科事典的な知識と例のゴシップに基づいた先入観しか持っていなかったので、本書はたいへんな勉強になった。おもしろく読んだ。現実主義的な漸進論で足元を固めながら女性の地位を着実に上げていったという印象だ。ラディカルな改革主義者からすれば鼻持ちならない日和見主義ということにもなるのだろうが、現実を変えていくのはこういう実力者なのだろう。見直した。

【個人的な研究のための備忘録】職業婦人
 渡邊辰五郎の研究を進めている関係で、女性の職業的自立に関する記述にはアンテナを張っている。

「良妻賢母主義で知られている下田だが、「女子の教育」にはむしろ、どのような教育によって女子がどのような仕事に就くことが可能になるのかに関心を寄せている様子がうかがえる。」142頁:志渡岡理恵「自立自営への道―『泰西婦女風俗』とイギリスの女子教育

「下田は女性の自立のために手芸教育を推進しようとした。手芸は必ずしも「女らしく」なるためのものではなく、女性たちが近代社会を生き抜く技能として身に着けることを推奨したのである。」229頁
「多くの手芸家たちと同様に下田が最も重視したものは、「裁縫」である。」234頁
「実際に女子教育者として下田が活躍する時代には、紡績も機織も女学生の日常では必要とはされていなかった。「手芸」の内容の変化は下田にとってある種の危機感となり、女性たちが手仕事の技能を失っていくことを憂う文章を残している。」241頁:山崎明子「下田歌子の手芸論―「手芸」による女子の自立を目指して」

 下田歌子が女子教育における裁縫を、単なる嫁入修行としてではなく、生活費を稼ぐ手段として考えていたということ、つまり良妻賢母主義とは異なる「自立のための裁縫教育」が、渡邊辰五郎の専売特許ではなく、女子教育における潮流として存在していたことは頭の片隅に置いておきたい。上流や新中間層では良妻賢母主義が主流だったとしても、中下層においては(あるいは上流や新中間層においても)ただの観念に過ぎなかったのだろう。女性の自立について、観念的な言説レベルではなく、実態として捉える観点と手法が切実に必要だが、これが難しい。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」という言葉も連発されていた。本書の主題とはまったく関係のないところだが、極めて興味深い記述なのでサンプリングしておく。

「そして「賢母良妻主義」に対抗する考えとして、たとえば「人格主義」という考えがあると述べる。この「人格主義」は、「人が人として立ち得る為には、立派なる人格を持つて居らなければならぬ。立派なる人格を備へた人を、男なら紳士と云ひ、女ならば淑女と云ふのである。さすれば、賢母良妻などゝ云ふ狭い事を目的とせずに、夫人として立派なる人格を養成しさへすれば、其の立派な人格を備へた婦人が、社会に立てば立派な淑女と仰がれ、家庭に入れば賢母良妻と称せらるゝのである」と主張するものであるが、下田はこれに対しても、「倫理学の根本原理から出た説で、如何にも広く行き亘つて居る」と、基本的には是としながらも、「実地の上に当てはめると、存外実際の役に立たぬやうな事がありますまいか」と、その内容が具体性に欠けることに厳しい評価を下し(以下略)」220-221頁
「下田は単なる国家主義的イデオロギーとして「賢母良妻」を説いていたわけではない。「人格が十分出来た、気高い立派な人」を育成したい、しかしそうなれと説いたところで、年若い子どもたちは、具体的にどのような人物になればよいかがわからない。だからこそ「賢母」あるいは「良妻」という具体的目標を設定し、それを達成することで、結果的に「人格が十分出来た、気高い立派な人」となることをめざしていたのである。」221頁:伊藤由希子「下田歌子・女子教育の思想可能性」

「このように、下田は賢母良妻主義を「社会の当面の必要から割り出した説」と捉えて、その狭さを指摘し、抽象的で実践性に乏しい人格主義の方がより「包容的」であると認める。その上で、賢母良妻主義と人格主義は、どちらも「完全なる国民としての布陣を作ると云ふ主義と、一致することができるであらう」と述べ、「完全なる国民としての婦人」の育成という観点から、良妻賢母主義と人格主義の折衷・統合を図ろうとするのである。」323頁:広井多鶴子「下田歌子を捉えなおす」

 「人格」という言葉が哲学的・文学的・教育学的には出てこない文脈で使用されており、非常に興味深い。まあ、形式としての人格主義・内容としての良妻賢母主義、といったところだろうが、どちらかが間違っているのではなく、形式と内容が止揚されたところに現実の女子教育がある、ということだろう。この形式と内容の止揚は、教育基本法を制定した田中耕太郎に影響を与えたジャック・マリタンにおいては「形式としての人格・内容としての個性」という表現を与えられるが、下田歌子は実質的には同じことを言っている。
 ただしこういう理解や表現は、「人格」という言葉の中身を少しずつズラしていく背景ともなる。本来の「人格」という言葉は、具体的な姿を与えられることを通じて、意味を変えて(あるいは豊かにして)いったのだろう。

実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所『下田歌子と近代日本―良妻賢母論と女子教育の創出』勁草書房、2021年

【要約と感想】八木雄二『「神」と「わたし」の哲学』

【要約】「普遍論争」を縦軸に、ギリシャ哲学(理性)とキリスト教(信仰)を横軸に、西洋中世哲学の論理を、日本語の考え方との比較を織り交ぜながら概観し、現代日本で研究する意義を主張します。
 中世哲学はしばしば神の存在証明を試みます。そもそも観察や実験によって物事を「客観的」に主体から切り離して第三者に共有できるような普遍的な真理を三人称で表現しようとする科学に対して、哲学は一対一の対話の場面で共有できる「ことば」を吟味することで主観的な真理を一人称で明らかにしようと努めるものです。中世哲学は、三人称の真理に対して、二人称の「神」を前にした一人称の真理を貫こうとする営為です。

【感想】話の流れの中で思いついたことを言いたい時に言うようなスタイルで、同じ話題が何度も繰り返されたり、論証に必要な前提がすっとばされたりするなど、論点がとっちらかって構造化されておらず、蓄積された研究史の中でどういう意味を持つかも意図的にか言及されないので、「だからなんなの?」と言いたくなるような場面は多いが、まあ、西洋中世哲学の基本的知識を持っていれば「ですよね」というような記述にもでくわして、全体的にはおもしろく読める。あまりにも現代人とは異質な中世人の思考を理解しようとする場合、こういう一人称スタイルの哲学書があってもいいのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格=ペルソナ
 とはいえ、やはり「ことば」は共同主観的に吟味させていただく。著者が言う「人格」と私が考えてきた「人格」とは、どうやら別のものを指しているように見える。

「じっさいヨーロッパは、近代以降、キリスト教会の権威から離れて、啓蒙哲学を通じて民衆道徳を実現する社会を模索する方向に舵を切った。近代フランス革命は、教会が求めた聖性を排除して、世俗性をもとめる「啓蒙主義」を哲学にもたらした。そのためヨーロッパは、たとえばすべての人間に「人格(ペルソナ)権」があることは、あくまでも「哲学」が見出した真理であると主張して、それを公共の真理と認める社会を実現した。しかし実際には、「人権の思想」は中世期の「ペルソナ神学」を機縁としている。たしかに近代哲学によって産業社会における民衆にとっての人権の研究が進んだが、人権の思想が生まれた機縁となったのは、あくまでも「聖三位一体」論というキリスト教の神学問題であった」53頁

 著者が他の著書でも主張している論点だが、個人的には強い違和感を持つ。個人的に研究してきたところでは、近代以降の「人権の思想」を中世からルネサンスにかけての哲学に見出すことは難しいと思っている。ポイントは、おそらく中世法学でlex(自然法)とjus(自然権)が分解していく過程にある。ギリシア哲学ではなく、ローマ法学が肝だ。著者も本文中でキケロに何回か言及しているが、基本的に雑魚扱いで、全体的にローマ文化を軽視している。おそらくその認識が根本的な間違いで、キケロの影響は「哲学」ではなく雄弁術も含み込んだ「法学」に色濃く表れるはずだ。たとえばルネサンス期の「人間の尊厳」概念は、哲学ではなく、雄弁術から立ち上がってくる(ピコ・デラ・ミランドラ)。そんなわけで、著者が「人権」や「人格」の概念の源泉を西洋中世哲学に見出そうとするのは、無理筋に見える。いやもちろん、中世法学は中世哲学と未分化に展開して、簡単に分けられるものではないが。

「キリスト教の「神」がもつ「人格性」(ペルソナ性)を理解することは、日本人にとっては特別なことであって、分かって当たり前のことではない。なおのこと、「三つの人格(ペルソナ)をもつ「一つの神」がキリスト教の神である。これらのすべてを理解することは日本人の手に余ることである。つまり日本語では、説明しきれない。(中略)
 まずボエティウスによれば、「ペルソナ」personaの語は、劇で使われる「仮面」を意味するラテン語である。それが神のもつ「人格」を指すことばに転用された。「仮面」とはいえ、「表面」的なことだと受け取ってはならない。じっさい、キリスト教の誕生以前、キケロは、「顔つき」vultusは、その人間の「人格」を表すと考えた。また、アメリカ大統領リンカーンは、四十を過ぎたら自分の顔に責任があると言ったという。この逸話は、「顔つき」と「人格」との間の関連が、ヨーロッパ文化の基層にあることを示している。」204頁

 哲学の世界では言われがちなこと(坂部恵)で著者の創見ではない記述だが、個人的にはもうこの「仮面」に基づく伝統的な説明が無理筋だと思っている。「法的人格」とは、その個人のあらゆる属性(性別・年齢・地位・財産など)に関わらず、ただルールにのっとって法的責任を果たす一個の主体として認識されるべきものだ。そういう「あらゆる属性を剝ぎ取られた一個の主体」を端的に示すのが「仮面」という表象であり、顔つきとは何の関係もないのではないか。ちなみにヘーゲルも「人格」という言葉を属性を抹消された「点」として認識している。

「そして神は、三つのペルソナでありながら、宇宙を創造し、人間を創造した一個の絶対者であると理解された。したがって、事実上、一方で神は「一個の人格」と見なされた。そして宇宙を創造し、人間を監視している神は、多数の国民を支配する国王と同じように、活発に活動し、すべてを支配している一個の「生きた主体」だと見られた。そして以上のように、「神」を人間の「王」(支配者)のように「生きた主体」であると理解することと、「神」は「人格をもつ」と理解することは、通じ合っている。」205頁
「じっさい『プロスロギオン』におけるアンセルムスの神の存在証明は、祈る相手である神を、「一個の人格」として見るのではなく、教会に属する人々の「客観的な対象」と見直すことによって、行われたものであった。つまり「神」を、「科学が対象にする客観的なもの」と見て、その存在を論じたものであった。他方、中世スコラ哲学によって、神の三つのペルソナが研究された。すなわち、三つのペルソナに共通に言われる「ペルソナ」という語が、注意深く吟味された。
 たどりついた結論は、「人格」(ペルソナ)とは、一個の個別的で完全な理性的主体である、という結論である。それは(1)理性的性格(特徴)をもつが、身体的性格(特徴)をもたない。それは(2)個々の主体(実体)であるかぎり、普遍的に対象化されない。そして(3)理性的主体性をもつゆえに、自発的な意志活動をもつ。これは、ボエティウスに始まり、リカルドゥス、トマスを経て、スコトゥスに至るまでの結論だと理解してほしい。
 ところで、自発的意思活動とは、自発的欲求活動であり、それは生命一般に見られる活動である。人間以外の命も、共通的に、個別で主体的な生命活動をもっている。したがって、個々の生命と、人格の違いは、「人格」には「理性」が加わっている、ということがあるだけである。
 また、「完全」であるとは、「正しい」ということである。したがって、「完全な理性」とは、「正しい理性」racta ratioである。そして「正しい理性」とは、「真なることばに即して考える力」である。そして正しい理性で考えて行動する人は、正しい行動をする人である。そして正しい行動を取って生きる人は、良く生きる人であり、徳の有る人である。そしてこのことにおいて最高度に完全であるのが、神の人格である。」209-210頁

 このあたりは常識的な理解のように見える。ただし三位一体と「人格」の関係を深めたのは、西ローマのカトリックではなく、東ローマ(ビザンツ)のギリシア教父だろう(坂口ふみ)。

「ところで、「ことば」によって考える能力は、「ことば」によって、自己の主体を「反省する」ことができる。そして自己の主体を反省することは、自己の存在を「自覚する」ことである。そして正しく自己を自覚する人は、「わたしが行為する」ことを自覚する人であり、それは自分の行為に責任を取る人である。」211頁

 これは稲垣良典が「再帰的な一」として詳細に展開したところだ。

「それゆえにまた、「今ここに生きて在る」ことを「正しいことば」で自覚する「わたし」は、真に「人格」(ペルソナ)と呼ばれるものである。それは「正しい理性」によってしか生じない「わたし」であり、言い換えれば「正しい理性」によってしか自覚されない「わたし」である。したがって、未熟な理性や、間違った「ことば」に沿って考える理性は、真の「人格」を構成できない。また、自己の人格を知ることが出来なければ、その「わたし」は、他者の人格を正しく理解して尊重することもできない。したがって、そのような人は「よく生きる」ことはできない。」211頁

 哲学的にはそう理解されるところが、法学的には「責任主体としての能力を持つ」という基本的な理解になるだろう。だから近代まで、奴隷や女性や子どもは「理性」があるかどうかを吟味されるまでもなく、人格を持たないことになっていた。哲学的理解の前に、法学的現実があるはずだ。「よく生きる」かどうかは、哲学ではなく、法が決める。ソクラテスもそういうふうに生きた。

「現代のわたしたちが「神」を見失っているのは、わたしたちが「真の人格」を「わたし」の内にもたないからである。すなわち、「わたし」を見失って、「みんなで」神に祈ることで安心しているからである。あるいは、「正しいことば」を得て、それに即して考える「正しい理性」をもたないからである。」215頁

 稲垣良典もそう主張する。なぜなら、「人格」という概念自体が「神の存在」を前提にできていると考えるからだ。田中耕太郎も前提としているだろうそういう発想自体が、個人的にはもうナンセンスに思える。

八木雄二『「神」と「わたし」の哲学―キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』春秋社、2021年

【要約と感想】児美川孝一郎『新自由主義教育の40年』

【要約】臨時教育審議会以降の40年にわたる教育改革は一括りで「新自由主義」と呼ばれがちですが、実際には新自由主義という看板でも時期や論者によって中身はまったく違うし、単に批判して切って捨てるだけでは問題は見えてきません。新自由主義は私たちの生活感覚や社会意識に抗いがたい形で忍び込んで根を下ろしているので、自らが拠って立つ戦後教育学の常識を根底から疑うような覚悟を伴う内在的な批判でなければ生産的な問題解決には至りません。正解が見当たらない苦しさの中で、安易に決断したり逃げたりせず、「本来性」から現実を切り捨てるのではなく、身動きが取れない歯がゆい思いをしながらも思考停止に陥らずに堪える粘り強さが今こそ必要なのでしょう。

【感想】モヤモヤしていたことを力強く言語化してくれる本で、とても面白く読んだ。「内なる新自由主義」という観点は、なるほどだ。
 いま80年代後半から90年代前半の教育学の本を読むと、驚くほどに無邪気な「内なる新自由主義」を確認することができる。「個性」とか「自由」とか「選択」という言葉を能天気に使いまくっている。当時はそれが管理主義教育を改革する言葉だと思われていたし、福祉国家批判の背景に支えられてもいた。40年経って、ようやくそれらが「内なる新自由主義」だと可視化できるような知恵がついた。
 現在は各領域でなし崩しに新自由主義化が進行している。教育産業を含む民間企業が公教育に入り込むのに、もう何の違和感もない。保護者や児童生徒の消費者ムーブも当たり前の前提として学校の業務に組み込まれる一方、PTAは滅び始めている。中学受験が日常化して戦後633学校システムが崩壊し、中等教育から複線化が始まっている。テクノロジーに支えられて個別最適化された学びが実現されつつことに伴い、常態化した不登校が自由と選択の論理で解決されていく。高校授業料の無償化が進むのに伴って公立学校の存在感が低下していく。総じて、教育は「個々人のニーズに応じるサービス」へと突き進んでいる。一方で産業の論理に基づく圧力も高まり、個人主義と資本主義の挟み撃ちで「公共=みんなでつくる生活」の領域が痩せ細る。「こども食堂」が全国的に急速に広がった背景には、公共の領域が痩せ細っていることに対する危機感があるのではないかと思う。
 だがしかし私個人で具体的にできることはあまり多くない。本書の言う通り、切って捨てるような批判を垂れ流すのではなく、答えが出ない手詰まり感の状況の中でも粘り強く堪える知恵が大事なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」に関する言質をたくさん得たので、サンプリングしておく。

「通常、こうした人間像は、産業界の労働力要請との関連で「人材」と呼ばれることが多い。そして、近年の教育政策は、教育の政策であるにもかかわらず、「人格の完成」(教育基本法第一条)には言及せず、「人材」という言葉を多用している。ただ、新自由主義が必要とする人間像は、本来、経済(労働市場)における「人材」であるだけでなく、新自由主義と国家の「主体的」な担い手となり、文化的次元でも新自由主義的な社会意識や価値観を体現するような「人間」である」25頁
「第一に、公教育は、Society5.0を実現し、それを担うための人材を育成するという役割を背負い込む。教育基本法第一条にあるように、本来、教育の目的は「人格の形成」であり、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成である。ここでの「形成者」とは、国家・社会の単なる一員ではなく、主権者や市民として国家・社会に能動的に参画し、共同して創り上げていく主体を意味する。それは、けっして特定の形態の社会像(ましてや経済界や産業界)に貢献し、役立つ「人材」のことを指すのではない。にもかかわらず、文科省が、Society5.0関連で最初に公にした報告書が「Society5.0に向けた人材育成―社会が変わる、学びが変わる」(2018年)と題されていたことに象徴されるように、Society5.0下の公教育においては、教育基本法の教育目的である「人格」や「主体」が蔑ろにされ教育の主人公が子どもではなく、社会像(Society5.0)の側へと転態してしまうのである。」292-293頁

 著者は本書で「本来性」を避けると言っているが、教育の目的である「人格」を語るところでは「本来」という言葉を呼び起こすしかなさそうだ。
 一方、「エージェンシー」という概念にも触れている。

「では、こうした点を自覚しつつ、今日のような教育改革の動向に対して、学校現場はどう向きあっていくべきなのだろうか。結局、問われるのは、学校現場における教師(教師集団)の「エージェンシー」なのではないか。
 「エージェンシー」は、OECDの「Education 2030プロジェクト」において注目を集めるようになった概念である。「主体性」と訳されることもあるが、もう少し正確には、「変革を起こすために目標を設定し、振りかえりながら責任ある行動をとる能力」であるとされる。」263頁

 個人的に思うのは、OECDが持ち出してきた「エージェンシー」なる概念が、従来使われてきた「パーソナリティ」という概念をズラすように機能しているということだ。これまでならパーソナリティという言葉が選択されていたような文脈で、エージェンシーという言葉が登場する。エージェンシーという概念は、これまでパーソナリティという概念を軸に組み立てられていた社会そのものを溶かしにかかっているような印象があるが、さてどうだろうか。

児美川孝一郎『新自由主義教育の40年―「生き方コントロール」の未来形』青土社、2024年