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【要約と感想】山田晶『アウグスティヌス講話』

【要約】カトリックの聖人アウグスティヌスを、近寄りがたい偉人としてではなく、具体的なエピソードを通じて身近な人間として捉えながら、煉獄と地獄、三位一体論、悪、終末、休日など、カトリックのトピックについての理解を深めます。

【感想】特に日本人が誤解しがちなトピックにターゲットを絞って、カトリックの教義を解説しているように読んだ。東洋思想との類似性を挿入しているのも、意図的なのだろう。カトリックとしての言い分はよく分かった気がする。が、言い分を理解したとして、納得するかどうかはまったく別の話なのだった。やはり私には、カトリックの言う神とは別の神がいるようだ。

【個人的な研究のための備忘録】三位一体
 本書は、カトリックの最重要奥義である「三位一体」について、非常に分かりやすく解説している。特に感心したのは、アウグスティヌスを媒介にして西方教会と東方教会の考え方の違いを極めて明快に打ち出すことで、三位一体教義と「ペルゾーン」の意味内容を浮き彫りにしているところだ。これで「人格」という日本語の意味内容がペルゾーンという原語と比較して圧倒的に貧弱であることも明確になる。勉強になった。「解説」では本書の中で最も困難だなどと書いてあったが、三位一体の奥義をこれ以上分かりやすく説明することはできないのではないか。

「たしかに「人格」はペルゾーンであるが、ペルゾーンはすべて「人格」であるとはいえない、と。というのは、人格だけがペルゾーンであるのではなくて、神もまたペルゾーンである。したがってペルゾーンは、神にも人間にも通じるもっと広い概念であるといわなければならない。」p.115
「この「ペルソナ」というラテン語を三位一体における御父、御子、聖霊にあてはめたのは、二世紀後半から三世紀前半にかけて活躍したアフリカの教父テルトゥリアヌスです。彼はもともと法律学を勉強した人です。ですから法律的な概念を三位一体の教義に適用したといえるでしょう。すなわち、御父、御子、聖霊はその本質は一なる神であるが、それぞれの役割において相互に区別される独立の主体であるという意味で、ペルソナなる名を三者に適用したのであると思われます。」pp.121-122

 私の興味関心に照らして、決定的に重要なポイントに触れている。ペルソナというラテン語(つまりローマ帝国首都の言葉)は、もともとローマ法の中で鍛えられた言葉だ。近代日本の法体系においても、ローマ法以来の伝統を引き継いで、「人格/物件」の厳密な峻別をいちばん根底の土台に据えている。この場合の「人格=ペルソナ」は、法的責任の主体という意味であって、禁治産者や奴隷や精神異常者など法的責任の主体たり得ない者には適用されない。だから単純な「人間」という意味ではない。共同体の中でしかるべき責任を取り得るような、「自由」と「責任」を持つ人間にだけ適用される言葉だ。
 で、著者によると、このローマ法以来の伝統を持つ言葉をテルトゥリアヌスが宗教用語に援用したということになる。ポイントは、「自由と責任」という概念と表裏一体の「ペルソナ」というラテン語を援用したのが西方教会(いわゆるカトリック)だけであって、東方教会では別の言葉(ギリシア語のヒュポスタシス)が使用されたという事実だ。このヒュポスタシスなるギリシア語は、英語ではsubstanceにあたり、日本語では「基体」とか「実体」などと呼ばれる。これも日本語では極めて分かりにくい概念ではあるが、さしあたっての要点は、このヒュポスタシスという言葉には「自由と責任」というイメージがつきまとわないというところだ。西方教会と東方教会で同じ三位一体の教義を説きながら、西方では「自由と責任」と密接な関連を持つペルソナなるラテン語を用い、東方教会では「自由と責任」とは無関係なヒュポスタシスなるギリシア語を用いた。この差が、後に西と東の間に決定的な懸隔を生じさせる、というストーリー。

「ただ、私の思いますのに、聖霊は「父から子を通して」出ると取るのと、聖霊は「父と子とから」出る取るのとでは、実質的に何の相違もないとしても、何か力点の置き方に相違が出てくると思います。そしてその相違が、三位一体なる神の捉え方においても、相違を生じてくると思います。そしてこの相違は、東方教会においては、父、子、聖霊が「ヒュポスタシス」として把握されたのに対し、西方教会においては「ペルソナ」として把握されたというこの相違に何か関係が在るように思われます。そしてそのことが、東方においては発展しなかったペルソナの概念が、西方において発展したこととも何か関係が在るように思われます。」pp.126-127
「ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。」p.129
「東方教会に属する神学者たちが、多く否定神学的傾向を有し、その思惟方法においてアリストテレスよりもネオ・プラトニズムに近いのは、上に述べられたような三位一体の把握の仕方に由来するところが多いと思います。またこのような否定神学的傾向にもとづいて、西方教会において異端視されたエックハルトの思想が、現代の東方教会の代表的神学者たるロスキによって、高く評価され、深い共感をもって受け容れられる理由も理解されます。」p.131
西方教会の「このような三位一体の関係の把握は、神が理解する者であるとともにまた愛する者であることを前提としてはじめて成立します。それゆえこのような三位一体の把握においては、三者が「ヒュポスタシス」ではなく「ペルソナ」という名で呼ばれた世界において、すなわち西方教会の世界において、このような三位一体のペルゼーンリッヒな把握の仕方がはじめて可能になったというべきかもしれません。」p.134

 ここで、現時点でもちろん想起せざるを得ないのは、東方教会の正統な後継者を自認するロシア正教会の振る舞いである。ロシア正教会は完全にプーチンを支持し、侵略戦争を正当化するイデオロギーを提供している。もちろんカトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいなことをしているわけだが、最終的には一人一人の個人の自由と責任を尊重し、多様性を容認する民主主義の理念に馴染んでくる。ここにローマ法以来の伝統である「ペルソナ」概念が深く関わってくることを考えてはいけないだろうか。そしてその伝統と無関係のところで展開してきたロシア正教会の垂直的な権威主義を想起してはいけないだろうか。まあ、いっぺんに決めつけるには極めてデリケートなテーマであることは間違いないが、思ってしまったので、読了直後の個人的感想として書き記しておく。

「誰かにこのような附加をなさしめ、またその附加のなされた信経が、教皇の制止にもかかわらず、よろこんで唱えられるように西方教会の三位一体の解釈の方向をみちびいた者は誰であったかと問われるならば、それに対してははっきりと答えることができます。それはアウグスティヌスです。」pp.134-135
「アウグスティヌスの三位一体論が、西方教会に与えた影響が決定的であったことは、東方教会の神学者たちのアウグスティヌス批判からも知ることができます。(中略)一般に、東方教会の神学者たちの間で、アウグスティヌスの評判はかんばしくありません。このことは裏からみれば、西方教会の神学の形成において、アウグスティヌスの思想の影響力がいかに強大であったかを証明します。ペルソナの思想の発展は、西欧に固有のものであり、その根底に、アウグスティヌスによって捉えられた三位一体の思想が存しています。」p.137
「ところでわれわれ個々の人間も、理解し愛するはたらきの主体であるかぎりにおいて、それぞれ一個のペルソナであります、そこで、その理解し愛する対象が人間である他者に向い、私というペルソナと他人というペルソナとの間に、相互に理解し愛し合うという関係が成立するとき、そこに人間同士の間にペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係が成立します。親子、夫婦、兄弟、友人同士、等のいわゆる人倫関係は、その意味でペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係であり、この関係の場に在るかぎりの個人は、それぞれ一個のペルソナ→ペルゾーンです。この意味で、神のうちに三つのペルソナペルソナ的関係が成り立つように、人間の世界に人間同士の間にペルソナ的関係が成立します。」pp.139-140

 つまり、ペルソナとは単なる「個人」ではない。社会から切り離されてあらゆる文脈を無視したところに浮遊する「個人」ではない。社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主体」である。稲垣良典の言う「存在・即・交わり」だ。
 そしてヨーロッパとは、この「存在・即・交わり」という有り様を、国の有り様にも適用して理解した。一つ一つの国には、国際社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主権」を持つ。そうして、大きな国も小さな国も、それぞれの役割を果たしながら、国際社会の中で同等の尊厳を持つ。ロシアのプーチンには完全に欠落している考え方である。
 さて、とはいえ、このストーリーは西欧(およびカトリック)にとって都合の良い仮説に過ぎない。カトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいだったことは忘れてはならない。「ペルソナ」概念の展開を考える際には、一つの立場から決めつけることを慎み、多様な観点から丁寧に光を当てていく必要がある。

山田晶『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、1995年

【要約と感想】廣瀬陽子『ハイブリッド戦争―ロシアの新しい国家戦略』

【要約】ロシアは、プーチンの世界戦略の下、地政学理論に基づいた勢力圏の確保を目指し、伝統的な戦争概念には収まらない民間軍事企業やインターネットを縦横無尽に活用しながら、安く早く広範囲に紛争を拡大させ、諸国民の分断を加速させていますが、マヌケなところも多くて必ずしもうまくいっていません。とはいえ、ロシア発のフェイクニュースに日本も巻き込まれているので、嘘を嘘と見抜くリテラシー教育の重要性が増しています。

【感想】昨年出版された本なので、ウクライナ危機についても極めて切迫感のある描写になっていて、現在の侵略行為に至る背景と伏線がよく分かった。プーチンの行動の背景にある地政学理論が、一朝一夕に形成されたような思いつきレベルの代物ではなく、長い時間をかけて熟成されてきた筋金入りの妄念であることがよく分かる。
 で、ご多分に漏れず日本でも国民間の分断が加速しているように見えて、そこにロシア(および中国)が垂れ流すフェイクニュースの影響を感じてしまう。特にアメリカ(プーチンの言うアングロサクソン)やユダヤの陰謀を仄めかしながら反マスクや反ワクチンを唱えるアカウントは、いちおうロシアや中国の息がかかっていることを疑ってもいいのだろう。反マスクや反ワクチンを唱えるアカウントが同時にプーチン支持を表明しがちだという傾向も、統計的に有意な数として出ている。
 まあ確かにアメリカがやっていることもたいがいだし、グローバリズムが様々な問題を引き起こして世界資本主義が人々を必ずしも幸せにしないことも間違いないのではあるが、とはいえ錯綜とした問題に対して迷いながらも何らかの判断をどうしても下さなければならないときには、個人的には「美」を判断基準とするしかない。意図的に嘘を垂れ流したり、街を破壊したり、人を殺したりすることは、醜い。アメリカやグローバル企業もたいがいだが、ロシアを支持することはできない。同じように、ワクチン強制もたいがいだが、反ワクチンを支持することはできない。敵の敵は、味方ではない。ちなみにこういう価値観は、学校教育ではなく、少年マンガやRPGゲームで身に付けたと思われる。

【個人的な研究のための備忘録】ロシア正教会
 個人的なライフワークのような研究で「人格」という概念をおいかけているわけだが、実は理念的なところで現実的なウクライナ問題と絡み合ってくる。本書は、プーチンが信奉するロシアの地政学論理をこう説明する。

「ポーランドは「特別の地位」を付与されるべきだとする一方、ウクライナはロシアに併合されるべきだと論じている。ウクライナは国家として確たる意味を持たず、特定の文化、普遍的な重要性、地理的特質、民族的排他性もない一方、その領土的野心はユーラシアを脅かしており、ウクライナがロシアの緩衝地帯とならないのであれば、その独立は認められるべきではない、というのがその理由だという。そして、ルーマニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア系地域、ギリシャという東方の正教集団は、「第三のローマ」であるモスクワと連携し、合理的個人主義の西側を拒否すべきであるとする。」198-199頁
「プーチンが考えるロシアのありうべき領土は「歴史的ロシア」というキーワードと彼の独自の判断基準から成り立っているようである。(中略)ロシアの領土の定義について、プーチンは独自の三つの判断基準を設けているという。それは、「十八世紀末までにロシア帝国に含まれていた領土」、「ロシア語を話す人びと」、「ロシア正教を信仰する人びと」を含む領域であるという。」205頁

 問題は、ここでいう「東方の正教集団」だ。ロシアは、西方のカトリック教会から分離したキリスト教の一派、東方のギリシア正教会を奉じる国や地域を潜在的なシンパとみなしている。そして西方カトリック教会が「合理的個人主義」を奉じているのを、東方ギリシア正教会は拒否すべきだとする。モスクワが本当に「第三のローマ」かどうかも大きな問題ではあるが、より本質的な問題は、西方カトリック教会と東方ギリシア正教会の教義内容の違いだ。西方カトリック教会が「合理的個人主義」を奉じているとすれば、それを拒否する東方ギリシア正教は何を奉じているのか。結論から言えば、そこに本質的に関わってくるのが「人格」という概念に対する理解だ。1500年前の宗教会議において三位一体の教義に絡んで問題になっていたことが、いま「合理的個人主義」を支持するかしないかという形となって、現実の国家観紛争の背景をなしているわけだ。そんなわけで専門家としての私の仕事は、いわゆる「合理的個人主義」(つまり人格という概念)が西側で展開した背景を明らかにすることと、逆に東方ギリシア正教では人格概念が展開しなかった上にむしろ敵視するような文化が醸成された背景だ。西洋史的にはビザンツ帝国(いわゆる第二のローマ)に対する理解が決定的な鍵になるし、日本史的には戦中期に合理的個人主義を否定しようと試みた「日本主義」が重要な補助線になる、という見通し。勉強しよう。

【研究のための備忘録】リテラシー教育
 教育に関する提言についてメモをしておく。

「日本人の情報リテラシーは低く、フェイクニュースなどに踊らされる可能性が高い。欧米では、フェイクニュース対策は、国防戦略の重要な要素となっており、国家戦略としてフェイクニュース対策教育、メディア・リテラシー教育がおこなわれている。だが、日本ではまだそのような必要性が重視されておらず、教育には実質的に盛り込まれていない。本来であれbあ、このような教育は、子供のうちから刷り込まれることが受容であるはずである。(中略)日本人はフェイクニュースに惑わされないと言えるだろうか。欧米でおこなわれているような情報リテラシー教育が日本でも必要ではないだろうか。」335頁

 国際安全保障の観点からリテラシー教育を行うべきだという著者の危機感については、よく分かる。しかし教育畑の人間から言わせてもらうと、確かにリテラシー教育を行うのも大切だが、本質的には「批判能力」を身に付ける方が決定的に重要だ。しかしこの批判能力というものは日本国内の諸権力(政府に限らない)にとっても厄介な代物で、伝統的には民衆が批判能力を身に付けることをそれほど推奨してこなかったし、あるいは押さえつけようとしてきた感すらある。フェイクニュースを流すのは、さて、ロシアだけなのか。日本国内の諸権力にとっては、批判能力の涵養は両刃の剣として自分自身に跳ね返ってくる恐れがある。本質的な批判能力の涵養を回避したままでリテラシー教育が可能かどうかは極めて怪しいわけだが、さてはて、日本の教育の明日はどっちだ。

廣瀬陽子『ハイブリッド戦争―ロシアの新しい国家戦略』講談社現代新書、2021年

【要約と感想】阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』

【要約】日本人は「人格」「個人」「社会」「愛」という概念を、明治以降にヨーロッパから輸入しましたが、今に至るまでその意味を理解していません。
 西欧で「個人の人格」という概念が形成され始めるのは12世紀頃からのことです。決定的に重要な契機はキリスト教の告解という制度の成立です。男女の性愛が反省の対象として意識化され、霊と肉の統一体としての人格が浮上します。

【感想】斯学の権威に対して私が言うのもなんだけど、一次史料をほとんど使わずに、もっぱら二次史料から議論を組み立てて、自分の価値観に都合の良い結論に引っ張っていく行論には、あまり感心しない。人格の形成において「告解」という制度が重要だという本書の核心にある論点はもちろんフーコーが提出したものだし、それを援用した議論は柄谷行人が先に展開していた。
 まあ、日本が「民主主義」とか「個人の尊厳」という観点から西欧に遅れているという問題意識と危機感はよく伝わってくる。いわゆる西洋近代がルネサンスではなく12世紀に起源をもつという議論が一般化した以上は、西欧中世史家として専門的な観点から状況を説明する義務感をもつのは当然ではある。そういう意味では、いわゆる「12世紀ルネサンス」の専門的な歴史議論と現代日本の日常生活を繋げるという使命を果たした本であることには間違いない。著者が示す危機感に共鳴するか反発するかはともかく、遠いヨーロッパの「12世紀ルネサンス」の議論が現代日本の我々の生活にも関係しているだろうことは頭の片隅に置いておいていいのだろう。

【研究のための備忘録】人格
 タイトルに「人格」とついているとおり、西欧中世における「人格」概念の形成に関する記述がたくさんあったので、サンプリングしておく。
 まず専門的な歴史の話の前に、日本人が「人格」という概念を理解していないという危機感が繰り返し表明されている。

「私たちは明治以後、近代学校教育の中で、自分を個人として意識し、一つの人格をもつ存在であることを学んできた。そのばあい、人格とは何かとか、近代以前において日本人は個人の人格をどのように考えてきたのか、などと問うこともなく、私たちは過ごしてきたように見える。とくに周囲の人間関係の中で、一個人が自分の人格をもちつつ活きることの意味について、深い省察はなされれていないように思われるのである。」48頁
「私たちは社会科学、人文科学のいずれを問わず、学問のすべての分野において西欧的な人格概念を前提にして議論をしている。しかし日常生活の分野においては、西欧的な人格概念ですべてを通すことは少なくとも日本国内においては不可能である(後略)」156頁
「明治十七年(1884)にindividualという語に個人という訳語が定められてから、一〇〇年が経過しているにもかかわらず、日本には個人の尊厳の思想は根づいていないといってよいであろう。」172頁

 苅谷剛彦は2019年の著書で、日本人は「人格」とか「個性」という概念を完全に理解しているという見解を示しており(苅谷『追いついた近代 消えた近代』)、阿部の論述と真っ向から対立している。阿部論文が1990年発行なので、およそ30年の間に受け止め方が変わったということか、どうか。

 で、現代日本の問題を踏まえた上で、西欧がどのように「人格」概念を形成していったかの話に入る。ポイントは、従来の歴史学では15~16世紀のルネサンス期が近代的個人の始まりだとされていたところ、中世史の進展によって12世紀こそが決定的なターニングポイントだったと理解されているところだ。

「グレーヴィッチは、かつて主張されたように、中世からルネサンスまでは個人は存在せず、個人は社会の中に完全に組み込まれ、社会に完全に服従させられていた、という説はいまでは支持しえないと述べている。(中略)そしてまさに中世において、人格という概念が形成されていった、というのである。」61-62頁
「十三世紀には、個人の自己意識に転機が訪れる。(中略)これまで人間の霊魂のみを問題にしていた哲学者たちは、十三世紀には、不可分の統一体としての霊と肉体に目を向け始めるようになったが、それこそ人格を形成するものなのであった。」66頁

 このあたりは著者やその周辺が勝手に言っているのではなく、学会というか知識人全体の共通理解になっている。
 で、歴史的な論述を具体的に進める際に著者がとりわけ注目してこだわっているのだ、男女の性愛関係だ。

「私たちは、人格や個人のあり方を考えるときに、抽象的、あるいは形而上学的に語るばあいが多い。しかし現実の個人や人格のあり方は、人と人の関係の中で現れるのであって、対人関係を抜きにして、個人や人格を語ることはできないのである。(中略)男女の関係こそは、人間と人間の関係の基礎であり、個人や人格の問題も、そこからはじめて考察しなければならないのである。それと同時に、個人や人格について抽象的に語るのでなく、具体的に語らねばならないとするなら、人間の肉体と人格の関係についても語らねばならないであろう。」74頁
「人間と人間の関係のなかで、男と女の関係が最も親密なものであろう。この親密な関係を肉の面で棄てることによって得られるもの、それが「一つ心」であった。自分の肉体の奥底にある「真の自分」を発見し、絶対者である神に直面しようとする態度である。ここには冒頭でのべた、ペルソナのキリスト教的理解が明確な形で示されているように見えるのである。三位一体の神を構成する三つのペルソナに対して、ひとつのペルソナである人間が、自己のペルソナを発見することによって応えようとしているのであり、絶対者と人間の個とが直面する構図があり、近代のヨーロッパ哲学における人格の概念につらなってゆくものをみることができるのである。」p.88

 個人的に言えば、なんとなくこのあたりは論理が飛躍しているようにも思えるところではある。「人格の形成」と「男女の性愛」はいきなり繋がるようなものなのか、またさらにそれがキリスト教のペルソナといきなり接触するものなのかどうか、疑問なしとはしない。まあ、言いたいことそのものは分からないでもない。
 で、「男女の性愛」が「人格の形成」に結びつくのは、カトリックが制度化した「告解」という仕組みが媒介するという論理になっている。本論が成立するかどうかは、この論点の説得力にかかっている。

「告解という制度が個人による自己の行為の説明からはじまる以上、個人が自己を意識する大きなきっかけとならざるをえなかったのである。(中略)ヨーロッパにおいては、このような個人の内面に対する上からの介入を経て、近代的個人が成立する道がつけられたのである。」132頁
「告白の中で個人は自分の行為を他人の前で語らねばならないのである。自己を語るという行為こそ、個人と人格の形成の出発点にあるものだからである。たとえ強制されたものであったにせよ、そこには自己批判の伝統を形成する出発点があった。ヨーロッパ近代社会における個人と人格は、まさにこの時点で形成されつつあった、といってよいだろう。」140頁

 まあ、なんとなくフーコーと柄谷行人の議論でお馴染みの話ではあるように思える。ここに納得するかどうか。言いたいことは分からないではないけれども、そうとう眉に唾をつけておきたい気分だ。別のストーリーも大いにあり得るところだ。個人的に気になっているのは、いわゆる「近代的個人」の成立が「近代的国家」とパラレルになっているというところだ。「告解」という制度から攻めるよりも、「近代的国家と近代的個人の相似」のほうに注目する方が説明としては説得力をもつのではないか。まあ、「告解」を重視する議論は一つの仮説として留意はしておきたい。
 話はさらに、12世紀トゥルバドゥールの宮廷風恋愛の具体的分析に進む。

「ここで注目しておきたいのは、トゥルバドゥールにおける想像力の問題である。恋人の裸身に手で触れ、接吻をしながらも性交にはいたらない彼らの行動は、自己に制約を課すことによって肉欲を霊的な脈絡の中に置き換え、愛を理想化し、エネルギーを詩作に向けたというのである。風景や自然に対する愛が歌われるのも、彼らの想像力の結果なのである。それは自分たちの愛を人間独自の世界の中で完成されるものとし、神の愛に連なるものと見なかった結果なのである。このようにみてくると、トゥルバドゥールの恋愛が、西欧における個人の人格の成立と不可分の関係にあったということがうなずかれるであろう。」263-264頁
「この頃にヨーロッパの多くの人が愛について語り始めた背景には、第二章で述べたように個人・人格が成立しつつあったことがあるであろう。真の意味での恋愛が成立するためには、男女両性が独立した人格をもっていなければならない。(中略)宮廷風恋愛は、このような西欧における愛の発見の一環として生まれたものであった。そしてその大前提として、個人の成立・人格の成立があったのである。」p.277

 うーん、どうなんだろう。牽強付会な感じがしないでもない。本論でもちょこっと言及されているが、こういう恋愛の技法はアラビア経由で入ってきたという説も有力なところで、そうなると特に「西欧に個人が誕生した」という文脈で語るべきことではなくなってくる。実際にトゥルバドゥールの詩を読んでみても、中身は極めて抽象的で、具体的な個性が描かれているわけではなく、「個人」とか「人格」の誕生に繋がるとは素直に受け取ることはできない。
 まあしばらくは、眉に唾を大量につけつつ、一つの仮説として頭の片隅に置いておく、という扱いでいこうと思う。

阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』講談社学術文庫、2019年<1992年

【要約と感想】中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』

【要約】おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

【感想】タイトルだけ見て、脳科学的な観点から「人格」の理解に光を当てた本だろうと手に取ったけど、ぜんぜん違って、著者の自伝的エッセイ集だった。まあ、こういう意図せざる出会いがあるのがタイトル買いの醍醐味だから、いいんだけれど。
 で、私が1991年東大入学で、1回留年して大学院に進み、2003年までうろちょろしているので、著者とは本郷キャンパス内ですれ違っているかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、まあ、どっちであってもどうでもいいことではある。で、経歴も考え方もぜんぜん違うようだけれども、アカデミックな研究に対しては、どうも違和感を共有しているような気もする。私もなぜか大学スタッフの末席に名を連ねているけれども、「ここにいていいのだろうか?」という存在論的な違和感は、未だにぬぐえなかったりする。というか、加速しつつある。大学院生の頃はまだ純粋に学術論文を書くということに喜びを感じていたような気がするのだけれども、昨今の大学改革を経て、学問的意味をさほど持たない論文を戦略的に量産しなければポストにしがみつけなくなって、「研究する喜び」というものが後回しになっている結果、なんのために研究しているのか意味を見失っていく。これはいけない、本質的なものを取り戻そう、と頑張ってみると、今度はポストにしがみつく意味が分からなくなってくる。これなら、大学じゃなくて、別にいいじゃない。東大で尊敬していた先生が2人、任期前に退職したけれども、そういう気持ちだったのかどうか。

【研究のための備忘録】ペルソナ=人格
 で、業績のためにやっているわけではなく、そしてあるいは社会の役に立つためにやっているわけではなく、もはやただただ私個人の知的関心を満たすためにライフワークのように研究を進めているテーマが「人格」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった類の概念史なわけで、それに関わる言葉をサンプリングしておくのだった。

「むしろ、脳は一貫していることの方がおかしいのだ。自然ではないから、わざわざ一貫させようとして、外野が口を出したり、内省的に自分を批判したりするのである。一貫させるのは、端的に言えば、コミュニティから受けとることのできる恩恵を最大化するためという目的からにすぎない。」p.8
「一貫性がないと困る、という一件不必要な制約が、脳に植え付けられているのだとしたら、それはどんな目的のためなのだろう? この答えは、残念ながら脳科学的にもまだクリアにはなっていない。」p.76

 人格心理学の分野では、しばらく前に「一貫性論争」というものがあった。一貫性という概念そのものに疑問を投げかけた論争だ。また19世紀教育学(ヘルバルト主義)では、教育の目的と方法は人格の一貫性を保つために構成しなければいけないと明言していた。が、20世紀にはボルノーが「不連続性」の教育を主張して、極めて大きな影響力を持った。あるいは社会学の領域では、100年ほど前にG.H.ミードが、アイデンティティなんてものは状況によって変わるもので一貫性などないと主張した。文学の世界では、それこそ一貫性を無化あるいは破壊しようとする試みがいくらでもある。経済史的に言えば、高度に発達した資本主義が人間存在を疎外していることが自覚されたことが背景にある。脳科学のような自然科学は、そういう動きを遅れて実証しつつあるように見える。さて「一貫性」の明日はどっちだ。

「わたしのペルソナ(他者に対する時に現れる自己の外的側面)は、わたしがそう演じている役である、といったら言い過ぎだと感じられるだろうか?」p.9
「私たちは、誰もが社会の中にあって役割を持って生活している。その役割をこなすには、本来の自分であることをしばしば覆い隠し、求められたペルソナを演じる必要がある。本来持っている性格そのままに、自然に振る舞いたいという衝動と、その衝動を空気を読む前頭前皮質が抑え込んでいるという均衡の上に私たちは存在している。」p.130

 いつの間にか「ペルソナ」という言葉は「人間の不可分で代替可能な何か」を指し示す言葉になっているけれども、もともとの意味は本書が言うような「役割」に過ぎなかった。G.H.ミードは100年前にそれを確認している。脳科学的な教養を背景にしながらも、100年前と同じような感想が繰り返されていると見ていいか。あるいは小説家平野啓一郎が同じように「本当の自分などありません」と言っていたことを思い出す(平野『私とは何か』)。ちなみに従来personalityという言葉が担っていた意味領域がかなりぼやけてしまったので、いま代わりにagencyという言葉が使われ始めている。

中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』講談社現代新書、2020年

【要約と感想】本田由紀『教育は何を評価してきたのか』

【要約】国際的に比較すると、日本人の生産力や自己肯定感の低さが極めて異常なことが一目瞭然ですが、論理的には、垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過小という社会構造が問題です。このような構造を生み出している原因を浮き彫りにするために、本書は「能力」「資質」「態度」という言葉に分析を施します。
 「能力主義」に関しては、一般的には「メリトクラシー」という英語の翻訳語と理解されていますが、そこから大きな勘違いが始まっています。欧米のメリトクラシーは「業績主義」であって、日本語の言う「能力」は、それとはまったく異なるガラパゴスな指標となっています。それが明治期から昭和、さらに平成を経て、ガラパゴスな変化が加速し、いまや「人格」をも動員しようと試みる「ハイパー・メリトクラシー」の段階に突入しています。
 また一方、21世紀に入る頃からナショナリズムを高揚させようとする意図的な動きに伴って「態度」という言葉が頻発されるようになりました。
 このような閉塞状況を打破するためのポイントは、高校改革にあります。具体的には、普通科中心から多種多様な学科構成への変革、選抜の在り方の見直し、民間企業の採用の考え方の変更が有効な打開策になるでしょう。

【感想】限られた少数のキーワードに分析を施すことで日本が抱える問題の全体構造が明らかになるという、いわゆる「一点突破全面展開」のお手本のような見事な構成だった。行論については、テンポがいいと思うか、議論を急ぎすぎだと思うかは、まあ人によるだろうけれど、新書だからこれでいいのだろう。切れ味が鋭いことには間違いがない。読者の方も、日本が抱える問題たちを綺麗に切り刻んでくれているように読めるのではないか。学生に勧めていい本のように思った。

【要検討事項】とはいえ、専門家の立場からはいろいろ言いたいことも出てくる。特に本書は概念史を扱っているわけだが、国会図書館デジタルコレクションの検索結果から始めるという方法は、「歴史屋」の私からすれば物足りないことこの上ない。少なくとも日本国語大辞典を繙いても損はしない。たとえば「能力」という言葉に関しては、江戸時代の用例や中国古典での扱いについて基礎的な情報を得ることができる。
 また、日本教育史プロパーとしては、「能力」という言葉が「開発主義」の流行に伴って一般化していったことは強調しておきたいところだ。そしてもちろん開発主義のモトネタであるペスタロッチー主義にも同じ傾向があるわけだが、それはつまり、そもそも近代教育の内容と方法自体が「能力(この場合はfaculty)」の「開発(develop)」という発想を土台にしていることを示唆している。あるいはさらに遡ってロックやルソーを見てもよい。「外から知識を与える」のではなく「内部からの力の形成」という発想の素朴な姿を見ることができる。この「知識から力への重点の変化」は、近代教育思想の基本的な土台となっている。明治初期開発主義は、この近代教育思想の基礎・基本を忠実に受け容れた結果、「能力」という言葉を連発していくことになる。こうしてみると、「能力」とは日本固有の問題というよりは、「近代」に固有の問題に見えてくる。確かに「メリトクラシー」と「能力主義」の中身が異なるのは指摘通りとして、じゃあヨーロッパ近代(特に資本主義の論理)が「日本語で言う能力なるもの」からどの程度自由だったのか。ちょっと考えただけでもいろいろ丁寧に見ておきたい論点が噴出してくる。
 まあ、本書にそれを求めるのはナイモノネダリではある。本書は本書固有の課題にはしっかり応えているので、生じた疑問については私自身の課題として突きつめればいいだけのことではある。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「人格」に絡んだ文章がいくつかあったので、サンプリングしておく。

「一九五〇年代の議論がほぼ「学力低下」は「国力の低下」をもたらすということのみに収斂していたのに対し。一九七〇~八〇年代においては、「落ちこぼれ」等の学力問題が「子どもの人格形成のゆがみ」をもたらすということが強調されるように変化していた。つまり、「学力の低い子ども」は「人格」的にも劣っており、非行などの逸脱行動に走る確率も高いということが、非常にしばしば主張されるようになる。さらには、「学力」が高い子どもであっても、「知識の記憶力」に終始し、やはり「人格のゆがみ」がもたらされている、という議論が展開される。」pp.119-120

「(前略)「学力」を「人格」や「人類社会の平和と発展」と結び付けて論じる言説の広がりが、続く八〇年代後半から九〇年代にかけて生じた、日本型メリトクラシーと並ぶもうひとつの垂直的序列化の軸であるハイパー・メリトクラシーへの地ならしとなっていった。」p.126

 やはり「人格」という言葉の中身が高度経済成長を境目に大きく変化している様子を覗うことができる。「期待される人間像」で描かれる「人格」という言葉と、ここで指摘されている「人格」は、まったく異なる意味内容を持っている。このあたり、「学力」とか「能力」という言葉を補助線にするといろいろ見えてくるものがありそうだ、というところでは非常に勉強になった。このインスピレーションを、自分の研究に活かしていきたい。

本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書、2020年