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【要約と感想】金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』

【要約】エラスムスは16世紀を代表する人文主義者で、確かに人間の尊厳を大事にしつつ、ギリシア・ラテン古典とキリスト教を統合しようと試みますが、17世紀以降の啓蒙主義と比較するとキリスト教に軸足を置いているところが決定的に異なっており、本書では敢えて「キリスト教人文主義」と呼びます。
 エラスムスが後の時代へ与えた影響を考える際、ルターとの違いが決定的に重要です。エラスムスは文献学者として聖書テキスト批判を通じスコラ神学を相手に宗教改革の精神を準備し、ルターとも通じるものがありましたが、穏健なエラスムスと苛烈なルターは袂を分かたざるを得ません。エラスムスは神律の範囲内と断りつつ人間の自由意志を尊重する一方で、ルターは断固否定します。それは古代のアウグスティヌスとペラギウスの間で行なわれた論争を引き継いでいますが、17世紀啓蒙主義以降では人間の自由意志が無制限に尊重され、それがむしろ逆に不幸を招き寄せることになります。

【感想】とてもおもしろく、勉強になった。
 著者がアウグスティヌスとルターの専門家としてキリスト教神学の要点を押さえているところが、エラスムスを理解するうえで極めて重要だった。エラスムスの『痴愚神礼賛』も『自由意志論』も、やはり人文知の観点からのみ理解しようとする態度は片手落ちの謗りを免れず、キリスト教神学の土台を踏まえた上で読み込む必要があることを痛感した。
 その理解の上で、著者が16世紀ルネサンス期と18世紀啓蒙期を明確に区別していることを承知できる。著者の見解によれば、16世紀ルネサンス期には人文主義とキリスト教神学はそんなに離れていなかった。具体的には、エラスムスはあくまでもカトリック教義の枠を踏まえて、人文知とキリスト教を統合しようと試みた。14世紀のペトラルカもまた同様。だから本書のタイトルにも「キリスト教人文主義の巨匠」というサブタイトルがついている。しかしルターによって宗教改革が開始された後は、人文主義とキリスト教がみるみる分裂していく。物別れのポイントは「自由意志」の位置づけにある。エラスムスが自由意志の存在意義を(最小限度に限るにしても)認めたのに対し、ルターは徹底的に否定しにかかる。その結果、100年以上を経た18世紀啓蒙期には、人文知は神様抜きで「自由意志」を語るようになる。逆に言えば、エラスムスは「神様抜きの自由意志」の萌芽であったとしても、彼自身にはそういう意図はまったくない。ルネサンスは、未だ中世に属している。

【今後の研究のための備忘録】人文主義の位置づけ
 「人文主義」とは、乱暴に言えば、中世に忘れ去られていた古代ギリシャ・ラテンの知恵を学んで甦らせようという知的ムーブメントだ。それが政治的・宗教的なスキャンダルになってしまうのは、この古代ギリシャ・ラテンの知恵が無色透明の中立的な知ではなく、キリスト教とは相容れない多神教の異端という点にある。だからキリスト教保守派は、異端の匂いがする古代ギリシャ・ラテンの知恵そのものを排除しようとする。その動機は単純明快で、よく分かる。
 しかし逆に、古代ギリシャ・ラテンの知恵をキリスト教に結び付けようという人文主義に共通する知的行為を成立させるためには、単純明快とはいかず、アクロバティックなこじつけを必要とする。こじつけのロジックを放棄したときに、人文主義は容易にキリスト教から乖離し、「神様ぬきでの人間」を語り始めることになる。
 エラスムスは、この難解なこじつけのロジックを放棄せずに、人文主義とキリスト教を統合しようと試みた、最後の世代に当たるようだ。最後の世代とは、その直後からキリスト教が宗教改革によってまったく新しいステージに突入することになるからだ。宗教改革によって、人文主義はキリスト教のロジックから切り離されていく。
 こうしてみると、ルネサンスだけでも近代は訪れないし、宗教改革だけでも近代を招来することはできない。両方の合わせ技によって18世紀啓蒙主義が用意されたことが理解できる。勉強になってナルホドと思ったところを以下に引用しておく。

「エラスムスの決定的に重要な特徴点は、人文主義の方法をキリスト教神学に適用し、両者を統合したことであり、さらにそれによって神学における根本的変革を創造したことに求められる。この統合過程はペトラルカにはじまりエラスムスにおいて完成する。それはキリスト教的人文主義に結晶した思想として提示されている。」15頁
「この人文学[イタリア・ルネサンスの新しい人文学]の復興こそエラスムスの生涯にわたって遂行された事業であったが、そこには新しい人間観が誕生してきていた。この人間観は、この時期の全過程を貫いている共通の主題で表現すると、「人間の尊厳」(dignitas hominis)であると言うことができる。ルネサンスは最初14世紀後半のイタリアに始まり、15世紀の終わりまで続いた文化運動である。」22頁
「こうした状況にもかかわらず、わたしたちがルネサンス思想を全体として考えるならば、それは中世思想よりもいっそう「人間的」であり、いっそう「世界的(世俗的)」であったといえよう。」23頁
「彼[ペトラルカ]の人間の尊厳についての論考はルネサンスにおけるこの主題を先取りするものであった。」26頁
「[ピコの言う]世界を超えて無限に上昇しようとする魂の運動は近代的主体性の根元に見られるものであり、一方において神性の意識を生みだし、他方において自律的な自由意志を確立して来たものである。」39頁

エラスムスとルターの訣別とを以て、「ここに人文主義と宗教改革の二つの運動の統一は最後の可能性を失い、分裂する。その結果、人文主義はキリスト教的宗教性を失って人間中心主義に変質する道をとりはじめ、他方、宗教改革も神学という狭い領域に閉じこもり、ドグマティズムによって人間性を喪失する方向を宿命的に辿らざるをえなくなった。」201頁
「ルターはエラスムスが力説する「人格の尊厳」(dignitas personae)は恩恵による義と矛盾するので、神の前には通用しないという。ルターは人間のdignitasではなく、「神の荘厳」(majestas Dei)の前に立っている。二人の間の論争は実にこの二つの存在の関係を明らかにするものであるが、そこには人間性の偉大さと卑小さ、栄光と悲劇が語られているということができる。」224頁
「ルターはノミナリズムのビールの神学のなかに育ち、このセミ・ペラギウス主義を批判的に超克することによって宗教的な高次の自由に到達した。この自由は罪の奴隷状態からの解放を内実にしているため、献身的に隣人に奉仕する強力なエートスを生みだしていった。他方、エラスムスは人文主義を土台にして新しい神学を形成し、人格の尊厳のゆえに神と隣人とに向かいうる主体的自由と責任、およびそこから生じる実践的倫理の確立の必要を説いた。しかし両者とも神への信仰によって人は根源的には自律しうることを徹底的に信じていた。そこに「神律」(Theonomie)の立場が共有されており、自由意志を最終的に「恩恵を受容する力」として把握していた。ここに近代自由思想の共通の源泉が見えてくる。自由は神律においてはじめて可能である。これこそノミナリズムの自由論が哲学的な「偶然性」に自由の源泉を求めたのとは異質な、もう一つの源泉であり、二つの流れが合流することによって近代の自由思想の源流が形成されるのである。」240-241頁
「ここには人文主義に固有なヒューマニズムにまつわる問題が剔抉されたことによって、古代から現代にいたるヒューマニズムの歴史は、真に意義深い決定的瞬間に到達したといえよう」273頁
「エラスムスは自律を可能とみる理想主義者である。このような自律は近代的な自主独立せる個人の特徴であって、カントの倫理思想において最終的に確立されるに至った。」276頁
「すでに明らかにしたように、神の恩恵は人間の自由意志を助けてよいわざを実現させると説いて、少なくとも最小限において人間の主体性は肯定されていた。それゆえ神中心的と称された彼のヒューマニズムは、やがて人間中心的ヒューマニズムとして18世紀啓蒙主義の思想を生んでゆくことになる。」278頁

 上記引用部で個人的に気になるのは、やはり「人格の尊厳」というものが浮上してくる経緯だ。エラスムスの段階では既に人文主義の文脈で洗練されており、浮上のポイントはもっと前、ペトラルカ、ヴァッラ、ピコ、フィチーノが鍵を握っている。だとすればやはり古代ギリシャ(特にプラトン)の異教的な知恵が決定的な意味を持つことになる。
  しかし一方で、人文主義とはまったく関係なく、キリスト教の三位一体の教義から「人格の尊厳」が浮上してくると言う人もいる。果たして異教的センスが外から加えた圧力が重要なのか、それともキリスト教神学の内側から盛り上がるエネルギーが重要なのか。ともかく、論点は絞られてきたような気もする。
 個人的に思うところでは、古代ギリシャ・ローマの知恵とキリスト教の教えを統合することはむちゃくちゃアクロバティックな無理難題にしか見えないのだが、その無謀を可能にするロジックの要に来るのが「人格の尊厳」という観念ではないだろうか。人文知とキリスト教を統合しようとすればするほど、その無理無茶無謀でアクロバティックな知的行為の過程から「人格の尊厳」なるものが剔抉されてくるのではないだろうか。だとすれば人文知とキリスト教のどちらかに「人格」の種のようなものがあると決めつけるのは悪手で、実は両者をむりやりすり合わせているうちに隙間から立ち上がってきたと考えるべきものではないだろうか。

【今後の研究のための備忘録】自由意志に関する論争の歴史
 おそらく著者の別の研究所で詳述されているのだろうが、自由意志に関する論争の歴史が簡潔にまとめられていて、勉強になったので、引用して忘れないようにしておく。

「近代以前においては人間的な自由は主として「自由意志」(liberum arbitrium)の概念によって考察されてきた。それはアウグスティヌス以来中世を通して哲学と神学の主題となり、とくに16世紀においては最大の論争点となった。今日では自由意志は選択意志として意志の自発性のもとに生じていることは自明のこととみなされる。この自発性についてはすでにアリストテレスにより説かれており、「その原理が行為者のうちにあるものが自発的である」との一般的命題によって知られる。そして実際この選択意志としての自由意志の機能を否定する人はだれもいないのであって、「奴隷意志」(servum arbitrium)を説いたルターでもそれを否定してはいない。
 では、なぜペラギウスとアウグスティヌス、エラスムスとルター、ジェスイットとポール・ロワイヤルの思想家たち、さらにピエール・ベールとライプニッツといった人々の間で自由意志をめぐって激烈な論争が起こったのか。そこでは自由意志が本性上もっている選択機能に関して争われたのではなく、自由意志がキリスト教の恩恵と対立的に措定され、かつ恩恵を排除してまでもしれ自身だけで立つという「自律」の思想がこの概念によって強力に説かれたからである。こうして自由意志の概念はほぼ自律の意味をもつものとして理解され、一般には17世紀まで用いられたが、やがてカントの時代から「自律」に取って換えられたのである。
 近代初期の16世紀ではこの自律の概念は、いまだ用語としては登場していないけれど、内容的には「恩恵なしに」(sine gratia)という表現の下で述べられていたといえよう。ところで、このように恩恵を排除した上で自由意志の自律性を主張したのはペラギウスが最初であった。」284-285頁

 やはり16世紀ルネサンスの段階と18世紀啓蒙主義の段階で、自由意志に関する態度も根本的に違うことが分かる。そしてその分岐点に立つのがエラスムスとルターだということも分かる。個人的には明解な見取り図であるように思えるので、しばらくはそういう歴史観で以って勉強していく所存。

【今後の研究のための備忘録】
 ほか、気になる記述が散見されたのでメモをしておく。

「エラスムスにはホッブズの社会契約という思想は未だ認められていないが、それに近い思想が芽生えている。」248頁

 私の理解では、いわゆる「社会契約」という思想は古代ギリシアのエピクロスに既に見られる。そしてエラスムスはエピクロスに関して様々な言及をしている。だとすれば、著者がエラスムスに感じた社会契約に近い思想とは、エピクロスからもたらされている可能性はないか。

「エラスムスは君主たちが臣下の民族意識を利用して戦争を企てていることに気付いてた。パウロはキリスト者の間に分離の生ずることを望まなかったが、問題は民族感情である。」263頁「「私たちがトルコ人と呼んでいる人々の大部分は、半ばキリスト教徒と称してもよく、あるいはむしろ、わたしたちの大部分以上に、真の意味でのキリスト教のそば近くに位置するかも知れない」」267頁

 確かにエラスムスは著書のそこかしこでヨーロッパ各国の民族的な特徴をあげつらって記述していて、興味深い。民族性の自覚は主権国家の成立以後のことと言われる場合があるが、実はエラスムスの生きていた時代に既に民族感情がかなり明確に自覚されていたことが分かる。
 いっぽう、トルコ人に対する記述も、特にエラスムスが生まれる直前にトルコがビザンツ帝国を滅ぼしているという事情を考え合わせると、たいへん興味深い。滅びたビザンツ帝国からギリシア人学者がヨーロッパに流入してきたおかげでヨーロッパ全体の人文学の水準が上がったことは周知のとおりだ。ただしエラスムスがトルコ人やビザンツ帝国をどう思っていたかは、私の乏しい読書の範囲ではほとんど出てこない。なんとも思っていなかったという可能性もあり得るか。たとえば、同時代のヨーロッパは新大陸発見で沸き上がっていたはずなのだが、その痕跡がエラスムスにまったく見られないのはどういうことか。

「エラスムスはもう一つの例をあげて説明する。それは妻に対する愛で、三つに分けられる。(1)名目上の愛。妻であるという名目だけで愛する場合には異教徒と共通したものである。(2)快楽のための愛。これは肉をめざしている。(3)霊的な愛。」94頁

「愛」は、言うまでもなく、アウグスティヌス以来の伝統を誇るキリスト教神学の中心テーマだ。御多分に漏れずエラスムスも言及していたという事実は覚えておきたい。

金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』知泉書院、2011年

【要約と感想】奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』

【要約】日本の従来の学校教育で行ってきた集団一斉教授はオワコンになりつつあります。教師や学校は、今こそ新しい教育にチャレンジするべき時です。時期学習指導要領の目玉キーワードになるであろう「個別最適な学び」と「協働的な学び」について、具体的な授業実践を土台にしながら解説します。子どもたちの「学びたい」という気持ちを信じ、教師が教科の本質を捉えた上で丁寧に学習環境を整えれば、子どもたちは本来の「有能な学び手」の力を発揮します。教師は、従来の一斉授業観を放棄し、新しい時代の新しい学びにふさわしい新しい役割を担うべきです。ICTはへっちゃらで使いこなしましょう。

【感想】おもしろく読んだ。単に頭の中で考えた理論ではなく、具体的な授業実践を積み上げながら鍛え上げた話なので、説得力を感じる。子どもに先生の役割を委ねて授業を進行させる「自学・自習」の取り組みは、なかなか刺激的だ。が、確かに教師が事前に環境を整備して資料を豊富に用意しておけば、成立する取り組みのように見えた。というか、教師の役割が「アナウンサー」とか「アクター」というものから「ディレクター」へ、あるいはさらに「プロデューサー」とか「監修」といったものに変わっていくということなのだろう。
 しかしこのレベルまで実践が高まると、現行制度による縛りが授業実践の足かせになる。具体的には例えば、教科書採択の権限が各学校ではなく教育委員会にあるのはどうなのか。またあるいは「学習指導要領」の法的拘束性はどう考えるべきか。「特別の教科 道徳」の設置など、むしろ時代に逆行しているのではないか。本書内では、もっぱら授業方法が時代遅れだと強調していたが、現場の先生たちは一生懸命に頑張っていて、むしろ中央集権的な教育制度や教育行政のほうが現場の足を引っ張っているのではないか。役にも立たない研修を制度化して強制するより、現場を信じて先生方に大きな権限を与えるのが一番うまくいくのではないか。教育行政が現場を信じていないことが、実は日本の教育が抱える諸問題のいちばん根っこにあるのではないか。教育最前線の現場では「子どもの力を信じて自由を与える」ことによって素晴らしい実践が行われている一方で、教育行政が「教師の力を信じないで自由を奪う」ことによって現場の活力が削られていくのであった。

【個人的な研究のための備忘録】エージェンシー
 「エージェンシー」という言葉への言及があったので、サンプリングしておく。

「近年、OECDがエージェンシーという概念を提起しています。直訳すれば「行為主体性」ですが、OECDは「私たちが実現したい未来」を具現化する上で不可欠なものであり、「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する能力」と説明しています。先生の支援を受けながら、自分たちの意思と力で自分たちが望む授業を仲間と協働しながら創り出していく「自学・自習」の経験が、子どもたちにエージェンシーを育んでいくことは間違いのないところでしょう。」(38頁)

 やはり、従来は「personality」と呼ばれていた対象を、意図的に「agency」と呼び換えてきているような印象を受ける。「行為主体性」とか「責任をもって行動する能力」などは、従来はpersonalityという概念が内包していた観念のはずだ。これをわざわざ新しくagencyという言葉でもって言い換えてきているということは、逆に言えばpersonalityという言葉に実践的な力がなくなってきていることを意味するのだろう。personalityという言葉に様々な手垢がついて、従来担っていた意味内容の輪郭がぼやけ、伝えたい内容が伝わらなくなったということなのだろう。「人格」という日本語についても、あまりにも意味内容が拡散し、本来この言葉が担うはずだった役割を果たさなくなっているので、おそらくこれに代わる新しい言葉が必要になっている。英語のagencyに相当するような新しい日本語は、さて、誕生するのかどうか。これからもカタカナで「エージェンシー」と呼び続けることになるのか。

■奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』東洋館出版社、2021年

【要約と感想】アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』

【要約】国際紛争の原因は、アイデンティティです。人間が自分の帰属意識(=アイデンティティ)をたった一つの国家や民族や宗教のみに定めてしまうことが不幸の根底にあります。これからは、人間に複数のアイデンティティが混在していることを積極的に認めていくべきです。
 確かに急速なグローバル化は、実質的にはアメリカ化を伴うことで、世界中の人々のアイデンティティを不安に陥れています。しかし人々が普遍的な価値(人間の尊厳)を踏まえて、豊かな多様性を認めることができるようになれば、本質的には問題を解決できるはずです。

【感想】まさにロシアがウクライナに侵攻した行動原理を説明する本なのかもしれない。ロシアはウクライナに資源などの実利を求めたわけではない。地政学的に勢力圏の観点から説明できなくもないが、その点では専門家が判断を見誤っていたりする。ロシアやプーチンの行動原理は、まさにアイデンティティの観点から説明するのが、いちばんしっくりくる。だとしたら、著者が危惧していたことは、最も不幸な形で当たってしまったと言える。
 そして著者が危惧しているアイデンティティ問題は、現在いちばん目につきやすいウクライナ侵攻のみならず、我々の生活の中のあらゆるところに密かに忍び込んでいる。特に平気で「一民族一国家」などと言ってのける日本人は、アイデンティティの表現が稚拙で危ないところだらけだ。「日本人らしく」とか「男らしく」とか「高校生らしく」など、日頃から日本人が好んで使用する「○○らしく」という言葉は、表面的(コンスタティヴ)にはアイデンティティを指し示すように見せかけつつ、実際(パフォーマティヴ)には相手を自分の思い通りにコントロールしてやろうという権力志向の言葉に過ぎない。そしてその言葉に過剰に同化することで、いとも簡単に視野狭窄な排外主義に陥る。しかも現在は過剰な被害者意識を伴っているところが厄介でもある。そういう日常的に身の回りにあるアイデンティティ問題を交通整理する上でも、本書は明快な見取り図を与えてくれる。

【個人的な研究のための備忘録】アイデンティティという概念
 とはいえ、著者が用いる「アイデンティティ」という言葉の意味内容については、個人的にはそうとうな違和感がある。私が追求している「アイデンティティ」という概念とは、どうも別のものを指し示しているようなのだ。というか、世間的には、私の問題意識のほうが異端で、著者のような使用法が一般的なのだろう。(私個人の追求については、「アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために」参照)
 まず著者は本書の中心テーマを以下のように掲げる。

「作家としていきていくうちに、私は言葉というものを慎重に扱うようになりました。往々にして、きわめて明瞭に見える言葉ほど人を欺くからです。そうした偽りの友のひとつが「アイデンティティ」という言葉です。誰もがこの語の意味するところを知っていると思っているので、この語がひそかに反対のことを意味し始めても、私たちは疑おうともしないのです。」p.16

 もうこの時点で違和感がある。著者は「誰もがこの語の意味するところを知っている」と言っているが、本当だろうか。少なくとも、日本人の多くは「アイデンティティ」という言葉の意味を説明することができないと、私は思っている。そして日本人に限らず、海外でもこの語の用法は混乱を極めていると思っている。中世スコラ学以来の伝統を持つ用法は背後に退き、エリクソン以降の心理学の影響も受けつつ、本来の意味とはまるで違う形で使用されているように見える。具体的には、もはや「パーソナリティ(人格)」とか「インディビジュアリティ(個性)」という言葉との違いが分からないようになっている。本書でも、アイデンティティという言葉をすべて「パーソナリティ」に置き換えても意味が通じる。「パーソナリティ」と「アイデンティティ」のどこがどう違うかを説明できない限り、アイデンティティという言葉の意味するところを知っているとは言えないはずだ。
 著者はさらにこう言っている。

「各人のアイデンティティは、公式の記録簿に記された諸要素以外の実に多くの要素から構成されています。」p.18
「しかし、どれひとつとしてまったく無意味というわけでもないのです。これらはどれも人格を構成する要素です。」p.18

 ここに「人格」という言葉が、アイデンティティと互換的な言葉として登場する。原語は確認していないが、おそらくフランス語でpersonnalitéなのだろう。また「要素から構成されています」という言い方も気になる。本当にアイデンティティは様々な「要素」から「構成」されているのだろうか? 個人的には、そんなわけはないと考えている。アイデンティティは、要素から構成される何かではない。が、もはや世間一般的には、日本人もそれ以外の国の人も、アイデンティティを「要素から構成されるもの」として理解しているのだろう。まあ本書にはその証拠としての価値はある。
 さらに著者はこう言う。

「各人のアイデンティティを特徴づけるのはまさにこのこと――複雑で、たったひとつしかなく、取り替えがきかず、他の誰のものとも混同されないということなのです。」p.30
「ここまでずっと、アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。」p.36

 著者がここで表現しようとしているものを、人類はかつて「パーソナリティ(人格)」と呼んでいたはずだ。どうして「パーソナリティ」ではなく「アイデンティティ」という言葉を使わなければならないのか。その回答を本書に見出すことはできない。もう、「21世紀にはパーソナリティという言葉は死語になり、それが本来持っていた意味内容はアイデンティティという言葉が簒奪して、その代わりにアイデンティティという言葉が本来持っていた意味内容は消滅し、それに代わる言葉も登場していない。」と、客観的に述べるしかない状況なのかもしれない。もちろんそれは良いことでも悪いことでもなく、「単なる時代の変化」ということではある。

アミン・マアルーフ・小野正嗣訳『アイデンティティが人を殺す』ちくま学芸文庫、2019年

【要約と感想】山田晶『アウグスティヌス講話』

【要約】カトリックの聖人アウグスティヌスを、近寄りがたい偉人としてではなく、具体的なエピソードを通じて身近な人間として捉えながら、煉獄と地獄、三位一体論、悪、終末、休日など、カトリックのトピックについての理解を深めます。

【感想】特に日本人が誤解しがちなトピックにターゲットを絞って、カトリックの教義を解説しているように読んだ。東洋思想との類似性を挿入しているのも、意図的なのだろう。カトリックとしての言い分はよく分かった気がする。が、言い分を理解したとして、納得するかどうかはまったく別の話なのだった。やはり私には、カトリックの言う神とは別の神がいるようだ。

【個人的な研究のための備忘録】三位一体
 本書は、カトリックの最重要奥義である「三位一体」について、非常に分かりやすく解説している。特に感心したのは、アウグスティヌスを媒介にして西方教会と東方教会の考え方の違いを極めて明快に打ち出すことで、三位一体教義と「ペルゾーン」の意味内容を浮き彫りにしているところだ。これで「人格」という日本語の意味内容がペルゾーンという原語と比較して圧倒的に貧弱であることも明確になる。勉強になった。「解説」では本書の中で最も困難だなどと書いてあったが、三位一体の奥義をこれ以上分かりやすく説明することはできないのではないか。

「たしかに「人格」はペルゾーンであるが、ペルゾーンはすべて「人格」であるとはいえない、と。というのは、人格だけがペルゾーンであるのではなくて、神もまたペルゾーンである。したがってペルゾーンは、神にも人間にも通じるもっと広い概念であるといわなければならない。」p.115
「この「ペルソナ」というラテン語を三位一体における御父、御子、聖霊にあてはめたのは、二世紀後半から三世紀前半にかけて活躍したアフリカの教父テルトゥリアヌスです。彼はもともと法律学を勉強した人です。ですから法律的な概念を三位一体の教義に適用したといえるでしょう。すなわち、御父、御子、聖霊はその本質は一なる神であるが、それぞれの役割において相互に区別される独立の主体であるという意味で、ペルソナなる名を三者に適用したのであると思われます。」pp.121-122

 私の興味関心に照らして、決定的に重要なポイントに触れている。ペルソナというラテン語(つまりローマ帝国首都の言葉)は、もともとローマ法の中で鍛えられた言葉だ。近代日本の法体系においても、ローマ法以来の伝統を引き継いで、「人格/物件」の厳密な峻別をいちばん根底の土台に据えている。この場合の「人格=ペルソナ」は、法的責任の主体という意味であって、禁治産者や奴隷や精神異常者など法的責任の主体たり得ない者には適用されない。だから単純な「人間」という意味ではない。共同体の中でしかるべき責任を取り得るような、「自由」と「責任」を持つ人間にだけ適用される言葉だ。
 で、著者によると、このローマ法以来の伝統を持つ言葉をテルトゥリアヌスが宗教用語に援用したということになる。ポイントは、「自由と責任」という概念と表裏一体の「ペルソナ」というラテン語を援用したのが西方教会(いわゆるカトリック)だけであって、東方教会では別の言葉(ギリシア語のヒュポスタシス)が使用されたという事実だ。このヒュポスタシスなるギリシア語は、英語ではsubstanceにあたり、日本語では「基体」とか「実体」などと呼ばれる。これも日本語では極めて分かりにくい概念ではあるが、さしあたっての要点は、このヒュポスタシスという言葉には「自由と責任」というイメージがつきまとわないというところだ。西方教会と東方教会で同じ三位一体の教義を説きながら、西方では「自由と責任」と密接な関連を持つペルソナなるラテン語を用い、東方教会では「自由と責任」とは無関係なヒュポスタシスなるギリシア語を用いた。この差が、後に西と東の間に決定的な懸隔を生じさせる、というストーリー。

「ただ、私の思いますのに、聖霊は「父から子を通して」出ると取るのと、聖霊は「父と子とから」出る取るのとでは、実質的に何の相違もないとしても、何か力点の置き方に相違が出てくると思います。そしてその相違が、三位一体なる神の捉え方においても、相違を生じてくると思います。そしてこの相違は、東方教会においては、父、子、聖霊が「ヒュポスタシス」として把握されたのに対し、西方教会においては「ペルソナ」として把握されたというこの相違に何か関係が在るように思われます。そしてそのことが、東方においては発展しなかったペルソナの概念が、西方において発展したこととも何か関係が在るように思われます。」pp.126-127
「ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。」p.129
「東方教会に属する神学者たちが、多く否定神学的傾向を有し、その思惟方法においてアリストテレスよりもネオ・プラトニズムに近いのは、上に述べられたような三位一体の把握の仕方に由来するところが多いと思います。またこのような否定神学的傾向にもとづいて、西方教会において異端視されたエックハルトの思想が、現代の東方教会の代表的神学者たるロスキによって、高く評価され、深い共感をもって受け容れられる理由も理解されます。」p.131
西方教会の「このような三位一体の関係の把握は、神が理解する者であるとともにまた愛する者であることを前提としてはじめて成立します。それゆえこのような三位一体の把握においては、三者が「ヒュポスタシス」ではなく「ペルソナ」という名で呼ばれた世界において、すなわち西方教会の世界において、このような三位一体のペルゼーンリッヒな把握の仕方がはじめて可能になったというべきかもしれません。」p.134

 ここで、現時点でもちろん想起せざるを得ないのは、東方教会の正統な後継者を自認するロシア正教会の振る舞いである。ロシア正教会は完全にプーチンを支持し、侵略戦争を正当化するイデオロギーを提供している。もちろんカトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいなことをしているわけだが、最終的には一人一人の個人の自由と責任を尊重し、多様性を容認する民主主義の理念に馴染んでくる。ここにローマ法以来の伝統である「ペルソナ」概念が深く関わってくることを考えてはいけないだろうか。そしてその伝統と無関係のところで展開してきたロシア正教会の垂直的な権威主義を想起してはいけないだろうか。まあ、いっぺんに決めつけるには極めてデリケートなテーマであることは間違いないが、思ってしまったので、読了直後の個人的感想として書き記しておく。

「誰かにこのような附加をなさしめ、またその附加のなされた信経が、教皇の制止にもかかわらず、よろこんで唱えられるように西方教会の三位一体の解釈の方向をみちびいた者は誰であったかと問われるならば、それに対してははっきりと答えることができます。それはアウグスティヌスです。」pp.134-135
「アウグスティヌスの三位一体論が、西方教会に与えた影響が決定的であったことは、東方教会の神学者たちのアウグスティヌス批判からも知ることができます。(中略)一般に、東方教会の神学者たちの間で、アウグスティヌスの評判はかんばしくありません。このことは裏からみれば、西方教会の神学の形成において、アウグスティヌスの思想の影響力がいかに強大であったかを証明します。ペルソナの思想の発展は、西欧に固有のものであり、その根底に、アウグスティヌスによって捉えられた三位一体の思想が存しています。」p.137
「ところでわれわれ個々の人間も、理解し愛するはたらきの主体であるかぎりにおいて、それぞれ一個のペルソナであります、そこで、その理解し愛する対象が人間である他者に向い、私というペルソナと他人というペルソナとの間に、相互に理解し愛し合うという関係が成立するとき、そこに人間同士の間にペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係が成立します。親子、夫婦、兄弟、友人同士、等のいわゆる人倫関係は、その意味でペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係であり、この関係の場に在るかぎりの個人は、それぞれ一個のペルソナ→ペルゾーンです。この意味で、神のうちに三つのペルソナペルソナ的関係が成り立つように、人間の世界に人間同士の間にペルソナ的関係が成立します。」pp.139-140

 つまり、ペルソナとは単なる「個人」ではない。社会から切り離されてあらゆる文脈を無視したところに浮遊する「個人」ではない。社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主体」である。稲垣良典の言う「存在・即・交わり」だ。
 そしてヨーロッパとは、この「存在・即・交わり」という有り様を、国の有り様にも適用して理解した。一つ一つの国には、国際社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主権」を持つ。そうして、大きな国も小さな国も、それぞれの役割を果たしながら、国際社会の中で同等の尊厳を持つ。ロシアのプーチンには完全に欠落している考え方である。
 さて、とはいえ、このストーリーは西欧(およびカトリック)にとって都合の良い仮説に過ぎない。カトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいだったことは忘れてはならない。「ペルソナ」概念の展開を考える際には、一つの立場から決めつけることを慎み、多様な観点から丁寧に光を当てていく必要がある。

山田晶『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、1995年

【要約と感想】廣瀬陽子『ハイブリッド戦争―ロシアの新しい国家戦略』

【要約】ロシアは、プーチンの世界戦略の下、地政学理論に基づいた勢力圏の確保を目指し、伝統的な戦争概念には収まらない民間軍事企業やインターネットを縦横無尽に活用しながら、安く早く広範囲に紛争を拡大させ、諸国民の分断を加速させていますが、マヌケなところも多くて必ずしもうまくいっていません。とはいえ、ロシア発のフェイクニュースに日本も巻き込まれているので、嘘を嘘と見抜くリテラシー教育の重要性が増しています。

【感想】昨年出版された本なので、ウクライナ危機についても極めて切迫感のある描写になっていて、現在の侵略行為に至る背景と伏線がよく分かった。プーチンの行動の背景にある地政学理論が、一朝一夕に形成されたような思いつきレベルの代物ではなく、長い時間をかけて熟成されてきた筋金入りの妄念であることがよく分かる。
 で、ご多分に漏れず日本でも国民間の分断が加速しているように見えて、そこにロシア(および中国)が垂れ流すフェイクニュースの影響を感じてしまう。特にアメリカ(プーチンの言うアングロサクソン)やユダヤの陰謀を仄めかしながら反マスクや反ワクチンを唱えるアカウントは、いちおうロシアや中国の息がかかっていることを疑ってもいいのだろう。反マスクや反ワクチンを唱えるアカウントが同時にプーチン支持を表明しがちだという傾向も、統計的に有意な数として出ている。
 まあ確かにアメリカがやっていることもたいがいだし、グローバリズムが様々な問題を引き起こして世界資本主義が人々を必ずしも幸せにしないことも間違いないのではあるが、とはいえ錯綜とした問題に対して迷いながらも何らかの判断をどうしても下さなければならないときには、個人的には「美」を判断基準とするしかない。意図的に嘘を垂れ流したり、街を破壊したり、人を殺したりすることは、醜い。アメリカやグローバル企業もたいがいだが、ロシアを支持することはできない。同じように、ワクチン強制もたいがいだが、反ワクチンを支持することはできない。敵の敵は、味方ではない。ちなみにこういう価値観は、学校教育ではなく、少年マンガやRPGゲームで身に付けたと思われる。

【個人的な研究のための備忘録】ロシア正教会
 個人的なライフワークのような研究で「人格」という概念をおいかけているわけだが、実は理念的なところで現実的なウクライナ問題と絡み合ってくる。本書は、プーチンが信奉するロシアの地政学論理をこう説明する。

「ポーランドは「特別の地位」を付与されるべきだとする一方、ウクライナはロシアに併合されるべきだと論じている。ウクライナは国家として確たる意味を持たず、特定の文化、普遍的な重要性、地理的特質、民族的排他性もない一方、その領土的野心はユーラシアを脅かしており、ウクライナがロシアの緩衝地帯とならないのであれば、その独立は認められるべきではない、というのがその理由だという。そして、ルーマニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア系地域、ギリシャという東方の正教集団は、「第三のローマ」であるモスクワと連携し、合理的個人主義の西側を拒否すべきであるとする。」198-199頁
「プーチンが考えるロシアのありうべき領土は「歴史的ロシア」というキーワードと彼の独自の判断基準から成り立っているようである。(中略)ロシアの領土の定義について、プーチンは独自の三つの判断基準を設けているという。それは、「十八世紀末までにロシア帝国に含まれていた領土」、「ロシア語を話す人びと」、「ロシア正教を信仰する人びと」を含む領域であるという。」205頁

 問題は、ここでいう「東方の正教集団」だ。ロシアは、西方のカトリック教会から分離したキリスト教の一派、東方のギリシア正教会を奉じる国や地域を潜在的なシンパとみなしている。そして西方カトリック教会が「合理的個人主義」を奉じているのを、東方ギリシア正教会は拒否すべきだとする。モスクワが本当に「第三のローマ」かどうかも大きな問題ではあるが、より本質的な問題は、西方カトリック教会と東方ギリシア正教会の教義内容の違いだ。西方カトリック教会が「合理的個人主義」を奉じているとすれば、それを拒否する東方ギリシア正教は何を奉じているのか。結論から言えば、そこに本質的に関わってくるのが「人格」という概念に対する理解だ。1500年前の宗教会議において三位一体の教義に絡んで問題になっていたことが、いま「合理的個人主義」を支持するかしないかという形となって、現実の国家観紛争の背景をなしているわけだ。そんなわけで専門家としての私の仕事は、いわゆる「合理的個人主義」(つまり人格という概念)が西側で展開した背景を明らかにすることと、逆に東方ギリシア正教では人格概念が展開しなかった上にむしろ敵視するような文化が醸成された背景だ。西洋史的にはビザンツ帝国(いわゆる第二のローマ)に対する理解が決定的な鍵になるし、日本史的には戦中期に合理的個人主義を否定しようと試みた「日本主義」が重要な補助線になる、という見通し。勉強しよう。

【研究のための備忘録】リテラシー教育
 教育に関する提言についてメモをしておく。

「日本人の情報リテラシーは低く、フェイクニュースなどに踊らされる可能性が高い。欧米では、フェイクニュース対策は、国防戦略の重要な要素となっており、国家戦略としてフェイクニュース対策教育、メディア・リテラシー教育がおこなわれている。だが、日本ではまだそのような必要性が重視されておらず、教育には実質的に盛り込まれていない。本来であれbあ、このような教育は、子供のうちから刷り込まれることが受容であるはずである。(中略)日本人はフェイクニュースに惑わされないと言えるだろうか。欧米でおこなわれているような情報リテラシー教育が日本でも必要ではないだろうか。」335頁

 国際安全保障の観点からリテラシー教育を行うべきだという著者の危機感については、よく分かる。しかし教育畑の人間から言わせてもらうと、確かにリテラシー教育を行うのも大切だが、本質的には「批判能力」を身に付ける方が決定的に重要だ。しかしこの批判能力というものは日本国内の諸権力(政府に限らない)にとっても厄介な代物で、伝統的には民衆が批判能力を身に付けることをそれほど推奨してこなかったし、あるいは押さえつけようとしてきた感すらある。フェイクニュースを流すのは、さて、ロシアだけなのか。日本国内の諸権力にとっては、批判能力の涵養は両刃の剣として自分自身に跳ね返ってくる恐れがある。本質的な批判能力の涵養を回避したままでリテラシー教育が可能かどうかは極めて怪しいわけだが、さてはて、日本の教育の明日はどっちだ。

廣瀬陽子『ハイブリッド戦争―ロシアの新しい国家戦略』講談社現代新書、2021年