「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

鵜殿の野望【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城

愛知県豊橋市の吉田城と鵜殿兵庫の城に行ってきました(2011年8/16訪問)。

吉田城は、JR豊橋駅から路面電車で10分くらい行ったところにあります。堀や石垣がたいへん立派で、見応えがある城です。続百名城にも選出されました。

隅櫓も、なかなか立派。
この吉田城が、1564年に三河統一を狙う徳川家康(当時は松平元康)に攻められたとき、蒲郡不相城から落ちのびた鵜殿一族も籠城に参加しています。翌年、和議が成って吉田城が落ちた際には、家康に降伏し、臣従することになったようです。

吉田城から見る豊川。この豊川、「とよがわ」と発音しなかったので、地元の方に修正されました。この川の向こうに家康軍が陣取っていたんですかね。なかなかの天然の要害です。

さて、その吉田城から西南西に4kmほど行ったところに、鵜殿兵庫の城(牟呂城)があります。Googleマップにも登録したので、検索すれば行けます。

現在は土塁の一部が神社となっておりますが、他に当時を偲ぶ手がかりは一切ありません。

土塁の跡に登ると、ひっそりと「鵜殿兵庫之城」の石柱が。

土塁の奥には小さな社が鎮座しております。地元の方が手入れをしてくれていて、こざっぱりとしています。ありがたや。

この城は、蒲郡不相鵜殿の出城ということになっているようです。450年前はもっと海岸線が奥まで入り込んでいたことを思えば、鵜殿兵庫の城と蒲郡不相城は海の道で直接つながっています。三河湾の海上覇権を握る上での要衝であったことが想像できます。また、吉田城(豊橋)と豊川を通じて繋がっていた可能性も想像できます。

さらに想像を逞しくすれば。この鵜殿兵庫の城があるところは「牟呂(むろ)」という地名ですが、もともとの鵜殿氏の本拠地である紀伊半島熊野一帯は「牟婁(むろ)」と呼ばれています。漢字は微妙に違いますが、「牟呂」と「牟婁」で通じるものがあります。ひょっとしたら、熊野の牟婁から海を通じてやってきた鵜殿一族が、豊橋の牟呂を実効支配していたんじゃないだろうかとか、想像が逞しくなります。ちなみにそういう説を唱えている人も実際に居るようです。(豊橋市「牟呂の地名の由来を教えてください。」)
 さらに、三河湾を牛耳っていた海賊についての記録は見たことがありませんが、ひょっとしたら熊野水軍の一員であった鵜殿一族が、何らかの活動をしていたのではないかと。証拠は一切ありませんけれども、鵜殿兵庫の城と蒲郡不相城の立地条件、さらに豊川と吉田城の地政学的関係などを考えると、いろいろ妄想が逞しくなります。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

鵜殿の野望【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族

愛知県蒲郡にある、鵜殿氏ゆかりの不相城に行ってきました(2012年9月訪問)。
とはいえ、今は城ではなく、ホテルが建っています。蒲郡クラシックホテルという、なかなか立派なホテルです。かつては蒲郡プリンスホテルとして親しまれておりました。ぱっと見、城みたいな佇まいではありますが。

このホテルが建っている場所に、かつては鵜殿氏の城があったんですね。本家の鵜殿長持は蒲郡市内の上ノ郷に城を構えていましたが、こちらの不相城は分家の鵜殿長成(長持の弟)の城だったようです。長成は1562年の徳川家康(当時は松平元康)による鵜殿本家滅亡に伴って城を追われ、吉田城(豊橋)でしばらく頑張ったものの、最終的には家康に降伏したようです。

ホテルの庭園は、かなり立派です。が、残念ながら城の遺構を確認することはできません。
散策していると、海の向こうに島が見えます。竹島です。

竹島には、橋で渡ることができます。

橋を渡りきって蒲郡市街の方を見ると、丘の上に蒲郡クラシックホテルが見えます。比高差30mほどでしょうか。城を作るならここしかないという立地条件に見えますね。

島全体が八百富神社の神域となっています。航海の安全を司る神様である市杵嶋姫命と弁天様を祀っています。琵琶湖の竹生島から勧請したようですね。

遊歩道を行くと、三河湾を見晴らす絶景ポイントもあります。

島の西側に出ると岩場になっていて、海を挟んで蒲郡クラシックホテルの建物を見ることができます。
個人的には、実はこの竹島も鵜殿氏の城として機能していたのではないかと想像しています。物的には何の証拠もありませんが、インスピレーションの源泉はあります。というのは、もともと鵜殿氏は熊野の海賊として活動している上に、南北朝時代には南朝方についていたことが分かっているからです。

地図で見ると、この「蒲郡」という場所の地政学的な重要性がよく分かります。北朝方は三河と駿河を押さえているわけですが、蒲郡はこの拠点をつなぐ場所にあります(上の地図では黄色のルート)。一方、南朝方は吉野と伊那谷を押さえているわけですが、なんと蒲郡は南朝方の拠点をつなぐ位置でもあるわけです(赤のルート)。北朝と南朝の支配ラインが交わる極めて地政学的に重要な場所であったことが見えます。しかも、南朝方が拠点を連絡するには海の道を使うしかないわけで、そこに海賊の出番があります。海賊鵜殿氏の本拠地は熊野川の河口にあり、蒲郡はこことも海の道で繋がっています(水色のルート)。もともと鵜殿氏が蒲郡に進出したのも、名目上は熊野神宮の地頭としてではありますが、実質的には南朝の海上連絡ルートを確保するための実効支配であったようにも思えてくるわけです。証拠は何もありませんが。

ということで、地政学的に考えた場合、蒲郡は陸地の拠点としてだけ活用するには勿体ない場所にあり、どうしても水軍の拠点として機能していたのではないかと思えてきます。蒲郡を水軍の拠点として考えたとき、竹島の地政学的な意味がどう見えてくるか。もう海賊の根城として機能していたとしか思えないわけです。証拠は何もありません。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

鵜殿の野望【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?

 愛知県名古屋市にある、大高城に行ってきました。
 大高城は、織田信長が全国デビューした「桶狭間の合戦」ゆかりの城として知られています。そして桶狭間直前まで、鵜殿氏はこの大高城の守備についています。ところがなんと、まさに桶狭間の真っ最中に鵜殿軍が何をしていたのか、動向はまったく不明だったりします。どういうことか。

 さて、大高城の解説看板に書いてあるとおり、織田信長が大高城を攻めたとき、城を守っていたのが鵜殿長照でした。鵜殿長照は今川義元の妹を嫁にもらっていて、最前線に配置されるくらい信頼の厚かった武将でした。
 が、大高城は信長に包囲されて兵糧がなくなるというピンチに陥り、徳川家康(当時は松平元康)が決死の兵糧入れを行うという歴史イベント「大高城兵糧入れ」が発生します。若き家康の有能さを褒め称えるときに必ず語られるイベントとなっていますが、実はこのとき助けられたのが鵜殿氏でした。九死に一生を得た鵜殿氏は大高城から引いて、家康が代わりに守備につく、とされています。が、この通説に対しては、個人的には相当の疑問があります。その根拠は「その後の鵜殿軍の動向がまったく不明」ということ自体にあります。
 さてまず、徳川家康を褒め称えるエピソードが後に混同された疑いを持っています。なぜなら、徳川方の史料によっても兵糧入れの時期がまったく異なっていて、仮に家康が大高城に兵糧を入れたこと自体は事実だったとしても、通説のように遂行されたかどうかは確認できないからです。たとえば『三河物語』では、桶狭間の前年(1559年)にも兵糧入れをしていて、これが大戦功だったとされています。つまり大戦功であることは間違いないものの、桶狭間合戦の展開とはまったく関係はありません。一方『信長公記』では、確かに桶狭間合戦の直前に今川方先陣として家康が大高城に兵糧を入れた記述がありますが、丸根砦攻略のタイミングが無茶すぎるので、兵糧入れについては一年前の出来事と混同している可能性を疑っていいでしょう。桶狭間で家康に課せられた先鋒のミッションは丸根砦攻略だけだったかもしれません。たとえば『三河物語』では、丸根砦を攻略した後に、余裕を持って兵糧入れをしたような記述になっています。ここで大高城に入れた兵糧は、鵜殿軍を救うためのものではなく、これから到着する予定になっていた今川本体のための兵糧だったかもしれません。(つまり、『信長公記』の、しかもいちばん怪しい巻首の記述をどれだけ信頼するかの問題です。)
 また、当時は海岸線が大高城の近くまで迫っていたことを鑑みて、海側からのアプローチを丁寧に考える必要があります。熊野水軍にルーツを持つ鵜殿氏が海の傍にある大高城に入っていた意味は、おそらくかなり重要です。鵜殿氏が蒲郡に蓄えていた水軍が、なんらかの形で伊勢湾全体に圧力をかけていたと考えるのが自然でしょう。地元史家の方によると、大高城直下に軍港の遺構も発見されているようです。こうなってくると、大高城の守備が鵜殿氏から家康に代わったのは、鵜殿軍を退却させたのではなく、伊勢湾に押し出して圧力を増し、空いた大高城に家康を入れた、と考えるのが自然です。有力な戦力である鵜殿軍を、決戦前に退却させる理由は何もありません。水軍として伊勢湾を制圧するのに活用するべきだと、シロウトでも思いつきます。(『三河物語』には、軍議で鵜殿軍を退却させようとする話があって、この記述を基に通説が作られていると思われます。『信長公記』には、義元と連動した河内の服部党が兵船を出して熱田を焼き討ちしようとした話が出てきますが、鵜殿軍の動向は不明。)
 しかし一大決戦の前に、義元は大高城の東方3kmほどの田楽坪で討ち取られます。おそらく海の上でその報を受けた鵜殿軍は、陸に戻ることなく、伊勢湾から知多半島を回って本拠地の蒲郡に退却したのでしょう。鵜殿軍が陸地を東に退却したという史料は何もありません。(もちろん海から退却したという史料もありません)。しかし仮に家康と守備を交代した鵜殿軍が陸地を東に退却したのであれば、とうぜん今川本軍と合流していたはずなので、桶狭間の時に「何もしていなかった」ことがどういうことなのか説明できません。桶狭間の合戦では井伊家の当主直盛や二俣城主松井宗信など名だたる側近が討ち死にし、家康も大樹寺で敵に囲まれて大ピンチに陥っていたりしています。が、鵜殿軍は何の問題もなく蒲郡に帰ってきているようです。通説では辻褄を合わせようとして、義元が娘婿の鵜殿氏を甘やかして退却させたかのように説明してきましたが、そんな史料はもちろんありません(まあ『三河物語』がその基でしょうか)。実際のところ、鵜殿軍は海を通って帰ってきたんじゃないでしょうか。というわけで、「桶狭間の真っ最中に鵜殿軍の動きがまったく不明」ということ自体が、鵜殿氏の役割を考える上でとても重要な情報だと思うわけです。まあ、史料も物的証拠も何もない、個人的な感想です。

 さて、大高城の入り口には、こんなところから行けるのかと不安になるような細い道を抜けて辿り着きます。こちらは近代になってから開削・舗道された道で、戦国の当時は崖だったことが予想されます。

 大高城の石柱が葉っぱに覆われています。

 坂を登ると、本丸です。知多半島から伸びる舌状台地の北西端で、西の方に開けた伊勢湾を見晴らせる高台にあります。このあたりで城を作るならここしかないという絶好の立地条件です。

 本丸は広く整地されていて、かなり重要な城であったろうことが分かります。が、あるはずの土塁は破壊されていて、当時の姿は失われています。戦国時代は海にも近かったので、船着き場などもあって水軍の基地としても機能していたのではないかと想像しますが、海が埋め立てられて海岸線が大幅に後退している現在では、当時の様子はよく分かりません。

 本丸には八幡社が鎮座していました。戦の神ですね。

 二の丸から本丸に抜ける土橋と空堀は、かなり良好な遺構を確認することができます。

 樹木で埋まってしまって空堀の状態を確認するのは大変ですが、なかなか立派な堀です。二の丸の方も広々としていて、そうとうな数の兵力を蓄えられたように思います。ただし、江戸時代に入ってからも尾張藩に活用されていたので、戦国時代の様子がどうだったかは別の話になります。

 三の丸のほうに降りてくると、休憩所に黒い猫が寝ていました。

 2015年に訪れたのがかなり暑い日だったので、涼しい日陰で休んでいたようです。
 三の丸は児童公園として整備されていて、かつての面影は残っておりません。船着き場があったとしたらこの周辺だったと思いますが、まったく痕跡は見当たりません。

 2011年にも大高城を訪れたことがありますが、そのときは人相の悪い猫に出くわしました。

 さて、大高城から北東に700mほど行くと、織田信長が築いた鷲津砦があります。

 こちらはJR大高駅からすぐ近くです。ここも大高城三の丸と同じく児童公園に整備されていますが、なんだこの生物?

 砦跡には遊歩道が整備されており、中腹に「鷲津砦」を示す柱石が立っています。現在は散歩にちょうどいい遊歩道となっていますが、450年前にはここから大高城を睨んでいたわけですね。

 砦の麓に降りてくると、ズタボロの案内看板が。案内板によると、この砦は今川軍の攻撃で全滅したそうです。合掌。

 さらに織田信長が築いた丸根砦へ移動。こちらも大高城攻撃のための拠点として築かれた砦で、大高城の東に800mほど行ったところにあります。

 こちらの丸根砦も、今川軍の総攻撃によって全滅するという憂き目に遭っており、戦没者慰霊碑が建っております。

 かなり急な斜面を下ってくると、砦の麓に説明看板が。家康に攻められて守備隊が全滅した経緯が説明されておりました。

 そんなわけで、織田信長とも徳川家康とも単独で戦った戦国武将は鵜殿長照以外では武田信玄くらいしかいないのではないかと思い至り、「信長の野望」等での鵜殿氏の能力の不当な低さに憤慨しながら、大高城を後にするのでした。
(2011年5月、2015年8月、2023年1月訪問)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

【長野県松本市】松本城と犬甘城

松本城と犬甘城に行ってきました。

松本城は、何回訪れても、感動します。アルプスの山々を背景に聳え立つ黒い天守閣は、惚れ惚れとする美しさです。素晴らしい。今回は三が日だったので、松本城も謹賀新年モードでした。

下から天守閣を見上げる。かっこいい。

見る角度によって姿を変え、受ける印象が様々に変化するのも松本城天守閣の見所ですね。これは北西側から見た天守。個人的には、南西側から見る形が一番好きです。

続いて、犬甘城へ徒歩にて移動。

犬甘城は、松本城の北西1.5kmほどのところにあります。現在は「城山公園」となっています。

縄張の図。私は南側からまず六ノ郭に登って、尾根伝いに北に移動し、一の郭に出ました。城の西側は奈良井川が削った断崖絶壁になっていて、天然の要害になっています。

一の郭全景。写真では比高差があまりないように見えますが、私が写真を撮っている場所は袖郭になっているところで、そこまでたどり着くのがけっこう大変。全体の防御力はかなり高い城のように思います。

六の郭には展望台が立っていて、松本市街を見渡せるほか、アルプスの山並みを眺めることができます。なかなか爽やかな気持ちになれるところです。

犬甘城を後にして、東に400mくらいのところに、正麟寺があります。ここにはマタ・ハリやジャンヌ・ダルクとも呼ばれた川島芳子のお墓があります。若い頃の華麗な活躍と、処刑で命を落とすという非業の死に、思いを馳せます。

さらに500mほど東に行くと、旧開智学校。道なりに歩いて行って裏側に出ました。1/3は残念ながら休館日で、中には入れません。開智学校には、土方先生と一緒に資料調査に行ったことが思い出されます。貴重なのは建物だけでなく、明治時代の教案等、文書史料が数多く残されていて、宝の山です。

そんなわけで、信州蕎麦を美味しくいただいて松本を後にしたのでした。
(2018年1月3日訪問)

【お得な切符の買い方】東京-名古屋往復で「東京都区内→東京都区内」

東京と名古屋を安く往復する?

 東京と名古屋を往復する場合、普通に往復切符を買うよりも安くする方法があります。「東京都区内→東京都区内」の一筆書き切符です。どのくらい安くなるか、下の表にまとめました。

種別経路乗車料金特急料金合計所要時間
東京-名古屋 往復東京→名古屋→東京12,760円
(片道6,380×2)
8,360円
(東海道新幹線4,180×2)
21,120円3時間40分
東京→東京 長野新幹線経由東京→名古屋→長野→東京11,330円8,760円
(東海道新幹線4,180+中央線1,210+北陸新幹線3,740)
20,460円7時間20分
東京→東京 中央線経由東京→名古屋→塩尻→新宿10,670円7,830円
(東海道新幹線4,180+中央線西特急1,100+中央線東特急2,550円)
18,500円7時間10分
青春18きっぷ
※期間限定
東京→名古屋→東京2,410円0円2,410円12時間20分

※日帰りのケースです。日をまたぐと、新幹線から在来線特急への「乗継割引」が適用されなくなるケースがあり、値段が変わります。
※特急料金は自由席での計算です。北陸新幹線「かがやき」は全席指定のため、さらに速く移動できますが、料金は往復よりも70円高くなってしまいます。

 運賃が安くなるのは、JRの乗車運賃は距離が伸びれば伸びるほどコストパフォーマンスが良くなるルールになっているからです。ただし経路が途中で交差すると無効というルールなので、一筆書き経路にする必要があるわけです。
 東京→名古屋往復だと、北陸新幹線を使って長野を経由するルートと、中央線を使って塩尻を経由するルートの2通りで一筆書きができます。それぞれそこそこ安くなりますが、在来線特急(中央線)を経由するので、帰路の時間は3倍程度かかります。コストパフォーマンスだけ考えると、割に合うかどうかは難しいところかもしれません。が、ただ東京に帰るのではなく、ついでに長野や松本に途中下車して観光すると考えると、とたんに安く見えてきます。
 そんなわけで、以下、実際に途中下車して松本と長野に寄ってきた具体例が続きます。

実例その1:東京→名古屋→松本経由→東京

※2019年10月に消費税が増税されたため、現在とは値段が異なります。

 「東京都区内→東京都区内」の切符を買いました。

 東京から東京に行くのに10,480円もする切符なんですが。実は東京を出発し、実家に帰って、名古屋と松本を経由して、また東京に帰ってくる切符です。
 経路を地図で見ると、下のような感じです。

 JRの切符は、スタートからゴールまで重複したり交差したりするところがない「一筆書き」である限り、1枚で作ることができます。(大都市近郊区間は例外ですが)
 なんでわざわざこんなことをするかというと、理由の一つは、値段が安くなるからです。
 普通は東京と名古屋を往復すると12,520円かかりますが、この一筆書切符だと10,480円で行けます。けっこう安くなるんですね。JR運賃は距離が伸びれば伸びるほどコストパフォーマンスが良くなることを利用したお得技です。

 ただしもちろん、行きが東海道新幹線なら、帰りは必ず中央線を使わなければなりません。特急でも5時間かかります。ということで、せっかく遠回りするなら、どこか中央線沿線で寄り道をして、旅行を楽しむのがいいでしょう。今回は松本で途中下車してきました。ちなみに松本でただ乗り換えるだけなら追加料金はかかりませんが、松本で途中下車する場合は、塩尻-松本間の鉄道運賃往復480円が別途必要になります。

 さらにセコい技として、新幹線と在来特急の「乗継」を使います。名古屋から松本まで特急指定席料金は、通常なら2,880円かかります。ところが新幹線の「乗継」として買うと、半額になって1,440円になります(そういうルールがあるんです)。ということで860円出して「三河安城→名古屋」の新幹線特急券を余計に買って強制的に「乗継」にすると、在来線特急料金が1,440円割引になって、差し引き580円のお得。

 そんなわけで、ただ新幹線を利用して帰省するだけなら20,720円かかるところ、20,460円で松本にも寄ってきました。うーん、松本城は何度行っても素晴らしい!

 まあ、若い頃は青春18きっぷで帰省することもありましたが、歳をとると新幹線が大好きになりますね。

実例その2:東京→名古屋→長野経由→東京

 「東京都区内→東京都区内」の切符を買いました。

 東京から東京に行くのに11,330円もする切符です。実は、新型コロナウイルス感染状況を鑑みて帰省や旅行をしばらく自粛していたのですが、第五波が収まっているうちに親の顔を見ておかないと、ということで愛知の実家に帰省することにしまして、せっかくなので長野経由の一筆書きで往復することにしました。ちなみに松本経由だと有効期限が5日ですが、長野経由だと6日になっています。(路線距離の関係)。

 往きは東海道新幹線、復りは中央線で名古屋から長野へ出て、長野からは北陸新幹線で大宮に降ります。

 帰りの特急券で気をつけなければいけないのは、必ず「乗継」で購入するということです。新幹線への乗り継ぎで在来線特急券を購入すると、支払いが半分ですみます。そういうルールになっています。これで1,210円も安くなります。
 また、このケースでは大宮で新幹線を降りるのもポイントになるかもしれません。東京まで乗ると特急料金は3,740円ですが、大宮だと2,640円ですみます。1,100円も違います。(上野だと3,530円)。東京都内でも江東区や墨田区に帰る場合は上野まで出たほうがよさそうですが、北区・板橋区・豊島区・練馬区・新宿区・世田谷区・杉並区・渋谷区あたりであれば、大宮で降りて在来線で帰宅するほうが料金が安い上に時間も短くなる可能性が高いでしょう。
 ちなみに、年末年始やお盆等の繁忙期に、長野から新幹線の自由席に乗る場合は、多少時間がかかっても、金沢方面から到着する「はくたか」自由席は見送って、長野始発の「あさま」に乗ることを強くお勧めします。というのは、はくたか号に乗ろうとしても、長野に着く段階で自由席乗車率が100%を超えているケースが多く、東京まで1時間以上も立ちっぱなしになること必定なのに対し、あさま号は長野始発なので100%絶対に間違いなく座ることができるからです。たかだか30分程度の時間差ということを考えれば、すし詰めの車内で1時間以上立ちっぱよりも、座ってのんびりする方がいいに決まっています。

 そんなわけで、ただ新幹線を利用して帰省するだけなら20,720円かかるところ、19,360円で信州善光寺にも寄ってきました。1,380円のお得で旅行気分も満喫です。

 ちなみに電車の中から、松本経由では見られない光景を見ることができます。松本と長野の間に、善光寺平を一望できる絶景が広がるスポットがあります。「日本三大車窓」のうちの一つとされている絶景です。この光景を見たい場合は、長野方面進行右側の席をとりましょう。(しかしそうなると、木曽の景勝地「寝覚の床」とは反対側になりますけどね)。