鵜殿の野望【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?

 愛知県名古屋市にある、大高城に行ってきました。
 大高城は、織田信長が全国デビューした「桶狭間の合戦」ゆかりの城として知られています。そして桶狭間直前まで、鵜殿氏はこの大高城の守備についています。ところがなんと、まさに桶狭間の真っ最中に鵜殿軍が何をしていたのか、動向はまったく不明だったりします。どういうことか。

 さて、大高城の解説看板に書いてあるとおり、織田信長が大高城を攻めたとき、城を守っていたのが鵜殿長照でした。鵜殿長照は今川義元の妹を嫁にもらっていて、最前線に配置されるくらい信頼の厚かった武将でした。
 が、大高城は信長に包囲されて兵糧がなくなるというピンチに陥り、徳川家康(当時は松平元康)が決死の兵糧入れを行うという歴史イベント「大高城兵糧入れ」が発生します。若き家康の有能さを褒め称えるときに必ず語られるイベントとなっていますが、実はこのとき助けられたのが鵜殿氏でした。九死に一生を得た鵜殿氏は大高城から引いて、家康が代わりに守備につく、とされています。が、この通説に対しては、個人的には相当の疑問があります。その根拠は「その後の鵜殿軍の動向がまったく不明」ということ自体にあります。
 さてまず、徳川家康を褒め称えるエピソードが後に混同された疑いを持っています。なぜなら、徳川方の史料によっても兵糧入れの時期がまったく異なっていて、仮に家康が大高城に兵糧を入れたこと自体は事実だったとしても、通説のように遂行されたかどうかは確認できないからです。たとえば『三河物語』では、桶狭間の前年(1559年)にも兵糧入れをしていて、これが大戦功だったとされています。つまり大戦功であることは間違いないものの、桶狭間合戦の展開とはまったく関係はありません。一方『信長公記』では、確かに桶狭間合戦の直前に今川方先陣として家康が大高城に兵糧を入れた記述がありますが、丸根砦攻略のタイミングが無茶すぎるので、兵糧入れについては一年前の出来事と混同している可能性を疑っていいでしょう。桶狭間で家康に課せられた先鋒のミッションは丸根砦攻略だけだったかもしれません。たとえば『三河物語』では、丸根砦を攻略した後に、余裕を持って兵糧入れをしたような記述になっています。ここで大高城に入れた兵糧は、鵜殿軍を救うためのものではなく、これから到着する予定になっていた今川本体のための兵糧だったかもしれません。(つまり、『信長公記』の、しかもいちばん怪しい巻首の記述をどれだけ信頼するかの問題です。)
 また、当時は海岸線が大高城の近くまで迫っていたことを鑑みて、海側からのアプローチを丁寧に考える必要があります。熊野水軍にルーツを持つ鵜殿氏が海の傍にある大高城に入っていた意味は、おそらくかなり重要です。鵜殿氏が蒲郡に蓄えていた水軍が、なんらかの形で伊勢湾全体に圧力をかけていたと考えるのが自然でしょう。地元史家の方によると、大高城直下に軍港の遺構も発見されているようです。こうなってくると、大高城の守備が鵜殿氏から家康に代わったのは、鵜殿軍を退却させたのではなく、伊勢湾に押し出して圧力を増し、空いた大高城に家康を入れた、と考えるのが自然です。有力な戦力である鵜殿軍を、決戦前に退却させる理由は何もありません。水軍として伊勢湾を制圧するのに活用するべきだと、シロウトでも思いつきます。(『三河物語』には、軍議で鵜殿軍を退却させようとする話があって、この記述を基に通説が作られていると思われます。『信長公記』には、義元と連動した河内の服部党が兵船を出して熱田を焼き討ちしようとした話が出てきますが、鵜殿軍の動向は不明。)
 しかし一大決戦の前に、義元は大高城の東方3kmほどの田楽坪で討ち取られます。おそらく海の上でその報を受けた鵜殿軍は、陸に戻ることなく、伊勢湾から知多半島を回って本拠地の蒲郡に退却したのでしょう。鵜殿軍が陸地を東に退却したという史料は何もありません。(もちろん海から退却したという史料もありません)。しかし仮に家康と守備を交代した鵜殿軍が陸地を東に退却したのであれば、とうぜん今川本軍と合流していたはずなので、桶狭間の時に「何もしていなかった」ことがどういうことなのか説明できません。桶狭間の合戦では井伊家の当主直盛や二俣城主松井宗信など名だたる側近が討ち死にし、家康も大樹寺で敵に囲まれて大ピンチに陥っていたりしています。が、鵜殿軍は何の問題もなく蒲郡に帰ってきているようです。通説では辻褄を合わせようとして、義元が娘婿の鵜殿氏を甘やかして退却させたかのように説明してきましたが、そんな史料はもちろんありません(まあ『三河物語』がその基でしょうか)。実際のところ、鵜殿軍は海を通って帰ってきたんじゃないでしょうか。というわけで、「桶狭間の真っ最中に鵜殿軍の動きがまったく不明」ということ自体が、鵜殿氏の役割を考える上でとても重要な情報だと思うわけです。まあ、史料も物的証拠も何もない、個人的な感想です。

 さて、大高城の入り口には、こんなところから行けるのかと不安になるような細い道を抜けて辿り着きます。こちらは近代になってから開削・舗道された道で、戦国の当時は崖だったことが予想されます。

 大高城の石柱が葉っぱに覆われています。

 坂を登ると、本丸です。知多半島から伸びる舌状台地の北西端で、西の方に開けた伊勢湾を見晴らせる高台にあります。このあたりで城を作るならここしかないという絶好の立地条件です。

 本丸は広く整地されていて、かなり重要な城であったろうことが分かります。が、あるはずの土塁は破壊されていて、当時の姿は失われています。戦国時代は海にも近かったので、船着き場などもあって水軍の基地としても機能していたのではないかと想像しますが、海が埋め立てられて海岸線が大幅に後退している現在では、当時の様子はよく分かりません。

 本丸には八幡社が鎮座していました。戦の神ですね。

 二の丸から本丸に抜ける土橋と空堀は、かなり良好な遺構を確認することができます。

 樹木で埋まってしまって空堀の状態を確認するのは大変ですが、なかなか立派な堀です。二の丸の方も広々としていて、そうとうな数の兵力を蓄えられたように思います。ただし、江戸時代に入ってからも尾張藩に活用されていたので、戦国時代の様子がどうだったかは別の話になります。

 三の丸のほうに降りてくると、休憩所に黒い猫が寝ていました。

 2015年に訪れたのがかなり暑い日だったので、涼しい日陰で休んでいたようです。
 三の丸は児童公園として整備されていて、かつての面影は残っておりません。船着き場があったとしたらこの周辺だったと思いますが、まったく痕跡は見当たりません。

 2011年にも大高城を訪れたことがありますが、そのときは人相の悪い猫に出くわしました。

 さて、大高城から北東に700mほど行くと、織田信長が築いた鷲津砦があります。

 こちらはJR大高駅からすぐ近くです。ここも大高城三の丸と同じく児童公園に整備されていますが、なんだこの生物?

 砦跡には遊歩道が整備されており、中腹に「鷲津砦」を示す柱石が立っています。現在は散歩にちょうどいい遊歩道となっていますが、450年前にはここから大高城を睨んでいたわけですね。

 砦の麓に降りてくると、ズタボロの案内看板が。案内板によると、この砦は今川軍の攻撃で全滅したそうです。合掌。

 さらに織田信長が築いた丸根砦へ移動。こちらも大高城攻撃のための拠点として築かれた砦で、大高城の東に800mほど行ったところにあります。

 こちらの丸根砦も、今川軍の総攻撃によって全滅するという憂き目に遭っており、戦没者慰霊碑が建っております。

 かなり急な斜面を下ってくると、砦の麓に説明看板が。家康に攻められて守備隊が全滅した経緯が説明されておりました。

 そんなわけで、織田信長とも徳川家康とも単独で戦った戦国武将は鵜殿長照以外では武田信玄くらいしかいないのではないかと思い至り、「信長の野望」等での鵜殿氏の能力の不当な低さに憤慨しながら、大高城を後にするのでした。
(2011年5月、2015年8月、2023年1月訪問)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??