「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

【北海道函館市】五稜郭と碧血碑に、戊申の涙を見る

 北海道函館市、五稜郭と戊辰戦役慰霊碑「碧血碑」に行ってきました。

 五稜郭タワーに登ると、城郭構造の全体像を見渡せます。地上にいても全体像を想像することが難しいから、ありがたいですね。

 函館奉行所。中は博物館になっていて、戊辰戦争関連の展示が充実しています。

 五稜郭タワー内にあった、往年の五稜郭全体像。鉄砲と大砲の時代に合わせた城づくりというコンセプトは分かるものの、素人に設計を任せざるを得ないというのは、幕末だから仕方ないところでしょうか。

 五稜郭を満喫した後は、路面電車に乗って函館岬の南端へ移動。函館は路面電車で移動するのが風情あります。

 函館山の東側麓には、函館護国神社があります。こちらには、官軍側の墓地があります。

 奥まったところにひっそりと。

 戊申戦役薩摩藩戦死者墓。箱館戦争では何かと旧幕府軍の悲劇の方に脚光が当たりがちですが、当然のことながら官軍の方にも大量の戦死者が出ているんですね。

 さらに函館山の東麓を南下して岬の先の方に向かうと、旧幕府軍側の戦没者慰霊碑「碧血碑」があります。

 昼なお暗い、山の中。ひっそりと建っています。

 碧血碑。当時は逆賊ということでひっそりと立っていたと思われますが、現在では熱心な土方歳三ファンなどが訪れ、コミュニケーションノートなども設置されています。

 案内板には、土方歳三の他、中島三郎助のことにも触れられていますね。題字を書いたのは幕府歩兵隊の大鳥圭介でしたか。なかなか感慨深いものがあります。

 幕末維新の動乱期に命を落とした人々に思いを馳せつつ、ラッキーピエロで巨大ハンバーガーを食して函館を後にするのでした。
(2017年8月訪問)

【茨城県つくば市】小田城を語るときには北畠親房も忘れないでね。

 茨城県つくば市の小田城跡に行ってきました。
 国指定史跡だけあって、極めて保存状態が良好な城跡で、たいへん見応えがあります。

 小田城は、関東戦国史最大の萌えキャラと呼び名の高い(?)小田氏治との関係で語られることが多い城です。何度も何度も落城しているのに、なぜか部下が活躍して取り戻してくれるんですね。

 が、私個人としては、断然、北畠親房ゆかりの城として興味があります。

 東の虎口から城跡を眺めるの図。

 堀にかかる橋の向こうに筑波山が見えます。小田城は、筑波山のほぼ真南に位置しているので、夜になると北極星が筑波山の真上に見えるわけですね。北畠親房に何か霊感を与えていないでしょうか。

 城の南側から本郭を見下ろすの図。立派な庭園があったような雰囲気です。

 西側の虎口。ここを抜けると南西馬出がありますが、さすがに親房が滞在していた頃にはまだなかったでしょうね。

 南西馬出しにあった案内板。北畠親房が神皇正統記を書き始めたことなど、事跡も少し説明されています。小田城包囲後、関城に移ったことも書かれています。

 本郭にある案内パネル。

 本郭を出て北西の方に行くと、神皇正統記起稿之地碑があります。ある意味、日本の歴史を決定づけた本がここで書き始められたわけですね。

 北畠親房は、後醍醐天皇崩御の後、後村上天皇に献上するために、日本を神の国とする「神皇正統記」の執筆を開始します。そして親房の皇国史観は山﨑闇斎や水戸学に影響を与え、幕末尊皇思想の流れを作り、明治期以降の国体思想にも反映していくわけですね。日本の保守思想の土台を理解するためには、神皇正統記の内容と執筆背景を押さえておく必要があるなあと。

 そんなわけで、皇国史観の土台を作った茨城県を都道府県魅力度ランキング47位にしてしまう日本人って浅はかかもねと思いつつ、茨城県を離脱するのでした。そういえば小田城・関城・大宝城とも百名城にも続百名城にも選ばれていないなあ……

【茨城県筑西市・下妻市】関城・大宝城に続く
(2018年2/5訪問)

【千葉県千葉市・市川市・松戸市】小弓公方足利義明の野望

千葉県千葉市の小弓城(おゆみじょう)と小弓御所に行ってきました(2018年1/31訪問)。
ここは、関東の戦国史で忘れてはならない小弓公方(おゆみくぼう)の本拠地です。
小弓公方とは足利義明(1538年没)のことで、室町幕府の将軍足利家の親戚筋です。関東制覇の野望を抱き、一時期はいいところまで勢力を伸ばしましたが、後北条氏との戦いに敗れて命を落としています。歴史の教科書には載りませんが、なかなか興味深い人物です。
小弓城は、現在の千葉市の南端のほうに位置しています。

虎口のような切り通しを抜け、坂を登ると、真っ平らに整地された台地の上に出ます。そこに小弓城の石碑が立っています。あたりは一面畑になっていて、当時の面影はまったく残っていません。

石碑から100mほど南に行くと、小弓城の案内板が。

案内板に足利義明の事跡が少し記されています。

案内板の隣には石碑も立っていますが、背後は墓地。墓地の端まで行くと断崖絶壁になっていて、戦国時代には要塞として機能していた痕跡を伺うことができます。他、付近では堀や土塁の跡のようなものも確認できます。
案内板のある地点から東に150mほど行くと、八剱神社があります。ここに足利義明が構えた小弓御所があったようです。

八剱神社の本殿。この背後の木立あたりに小弓御所があったようです。

八剱神社、額の文字がなかなか趣深いです。

小弓御所跡。一面の木立となっており、当時を偲ぶよすがは全く残されていません。

小弓城跡の台地の全景。なかなかの比高差があり、人の手が確実に入っています。台地の前に広がる葦原の様子から鑑みるに、戦国時代には東隣の大百池から広がる湿地帯に囲まれ、沼地の上に浮かぶ要塞のようになっていたことが想像されます。

さて、そんな小弓城から北西に40kmほど行ったところに、小弓公方終焉の地があります。

1538年、小弓公方と北条氏綱との間で第一次国府台合戦が行われ、ここで小弓公方の野望が潰えることとなります。現在の千葉県市川市です。(2018年2/8訪問)

国府台合戦激戦地跡。写真の中央に立っている木の棒は、昭和の電信柱が朽ちたものではなく、国府台合戦の激戦地であったことを示すものです。

階段を上がると西蓮寺という寺院があるのですが、ここに国府台合戦の案内板があります。主に第二次の経緯が解説されていますね。

橋の上から国府台合戦跡地を見下ろす。当時の面影は、まったく残っていません。とても平和です。

激戦地から南に1kmほど行ったところに、国府台城跡があります。足利義明はここに陣取ったんでしょうね。現在は里見公園となっています。(2013年4/27訪問)

国府台城の案内板によると、例によって最初に築いたのは太田道灌ということになっていますね。小弓公方足利義明の事跡にも少しだけ触れられています。

足利義明は市川市で命を落としているわけですが、お墓は5kmほど北の松戸市にあります。(2013年5/5訪問)

お墓は、聖徳大学のキャンパス内にあります。史跡を見学するには入り口の警備員に一言ことわる必要があります。

門を入ってすぐ左、2つの土饅頭と「相模台戦跡碑」という石碑、案内板が立っています。この土饅頭自体は、小弓公方本人のものというよりは、戦死者全体の供養のためのものでしょうか。

案内板には小弓公方の事跡が書いてあります。足利義明と嫡男の義純が、第一次国府台合戦で討ち死にしたことが分かります。
ただ、このお墓自体は後に復元されたもののようです。1919年に陸軍工兵学校を作るために、いったん破壊されてしまったようですが、なぜか1931年に陸軍によって復元され、聖徳大学が1995年に現在の場所に移転させたとのことです。陸軍が1931年に復元させた経緯は、少し気になるところですね。

そんなわけで、関東の覇者を目論んだ小弓公方足利義明の野望に思いを馳せ、江戸川を渡るのでした。

【千葉県千葉市】加曽利貝塚と荒屋敷貝塚で、縄文愛が目覚める

千葉県千葉市の加曽利貝塚と荒屋敷貝塚に行ってきました。貝塚の概念を根本から変え、縄文時代のイメージを強烈に喚起する、素晴らしい史跡でした。
特に加曽利貝塚は、2017年に特別史跡に指定され、さらに注目度が上がっています。特別史跡に指定されることは、国宝指定に匹敵するような、スゴいことなんです。ちなみに日本全国には特別史跡は62箇所ありますが、私個人は今回でようやく26箇所目の特別史跡訪問となります。完全制覇までは、まだまだ遠いですね。

62箇所目の特別史跡に指定された記念ということか、旧来の石碑の隣に、新しく石柱が立てられていました。

史跡の入り口にあった案内板。史跡公園は、たいへん広大です。犬の散歩をしている人がたくさんいました。

見渡す限りの原野。縄文時代の情景を思い起こさせます。この写真は加曽利貝塚の南側遺跡の中心部を撮っています。

公園内には、縄文時代の家である竪穴式住居が復元されています。

竪穴式住居は、中にも入ることができます。
まあ、個人的な見解では、竪穴式住居は藁葺きではなく土壁であった可能性も考慮していいようには思います。竪穴式住居の復元がほとんど例外なく藁葺きであるのは、科学的に見て多少問題があるように感じています。そういう意味では、三内丸山遺跡(青森県)の復元が、藁葺きだけでなく土壁も採用しているのは、科学的観点からは極めて良心的に思います。
まあ、観光地的に言えば土壁より藁葺きの方が見栄えがいいだろうことは、分かるんですが。

史跡内には、出土品の展示や解説を行う博物館が建っています。

ゆるキャラの「かそりーぬ」だそうです。加曽利と犬が合体したんですね。

展示室入り口でも「かそりーぬ」がお出迎え。頭に縄文土器の「加曽利E式」をかぶり、貝の首輪をつけています。そしてこの「犬」という存在が、縄文を考える上で極めて重要であることは、展示をしっかり見ると分かります。

正直、施設は古く、他のハイテク博物館に比べるとマルチメディア的な観点からは貧弱ではありますが、それを補って余りある「愛」が素晴らしかったです。縄文時代と加曽利貝塚に対する「愛」が、圧倒的です。じっくり見る価値があります。私個人は、貝塚というものに対する概念を大きく変更させられ、縄文時代に対するイメージがかなり変わりました。貝塚は、ただの「ゴミ捨て場」じゃないんですよ。

博物館の展示のおかげで貝塚に対するニワカ愛が目覚めたので、急遽、2kmほど西にある荒屋敷貝塚にも行ってきました。

貝塚に建っている案内板。

こちらの史跡も、広大な原野が広がっています。ところどころ、地表に貝が露出していて、明治初期には石灰を採掘していたというのも納得です。

この貝塚史跡は、京葉道路の上にあります。というか、貴重な史跡を保存するために、わざわざトンネルを掘って遺跡の下に道路を通したんですね。史跡南側の端に行くと、高速道路を行き交う激しい車の波を見下ろすことができ、少し変な気分です。貴重な遺跡が保存されて、日本の将来のためにも本当に良かったと思います。

加曽利貝塚の発掘は、まだ7%しか進んでいないそうです。今後の研究の進展によって、さらに縄文時代の様子が詳しく分かるようになることを楽しみにしています。
(2018年2/15訪問)

【千葉県木更津市】証誠寺のタヌキ、請西藩陣屋跡は強者どもが夢の跡

千葉県木更津市に行ってきました。
木更津までは、東京湾アクアラインができてからは新宿や東京からの高速バスが便利ではあるんですが、土日は新宿から「特急さざなみ」が直通しているので、今回は電車で。自由席でも座って行けます。

新宿から75分で木更津着。特急は速いですね。
で、駅を降りたとたん、やたらとタヌキ推しでした。マンホールの蓋も、タヌキ。証誠寺(しょじょじ)を観光の目玉として推しているようです。

駅前に据えられたタヌキのモニュメント。

木更津港の近くにある海鮮バーベキューの店頭にも、タヌキ。セルフサービスのバーベキューで、サザエとアワビをいただいてきました。

隣のみやげもの屋さんにも、大量のタヌキ。

港にも、タヌキ。

さらに海岸通りにもタヌキ。特産の貝と観光名物のタヌキを合体させたのは分かるけど、それにしてもビーナスの誕生て。どれだけタヌキ推しなんだ。

そんなわけで、証誠寺にやってきました。本堂脇の梅がほころび始めていて、とても清々しいです。

「証誠寺の狸囃子」は、明るく楽しい童謡だと思っていましたが。元の話は、なかなか悲しいことになっていますね。

境内にはタヌキを慰霊する「狸塚」がありました。

証誠寺を離脱して、駅の東側へ。
駅の東側の山の天辺には、歴史博物館があります。真里谷武田氏の動向とか、請西藩の幕末とか、上総掘りの展開とか、他の地域にはない展示が充実しています。目玉展示は、日本の古墳でここからしか見つかっていない金の鈴。たいへん立派なものでした。

山の上にはふるさと創生の一億円で作ったという展望台があったので、登ってみると、木更津市街を一望できる上に、はるか京浜工業地帯の工場群から立ち上る煙と東京湾を見渡すことができます。絶景。

博物館から1.5Kmほど南に行くと、請西藩陣屋跡があります。ここに来たかったんですよね。

請西藩陣屋跡には、現在は石碑が建っているだけで、跡形もありません。

案内板には、幕末の林忠崇の動向が少し説明されています。中公新書から出ている「脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯 」という本がとても面白くて、興味を持ったのでした。昭和16年まで存命の、ラスト大名です。なかなかすごい人生。

案内板の裏には重機が入って、宅地造成大開発の真っ最中でした。真っ平らにされてしまって、当時を偲ぶよすがは、ほとんど残されていません。と思いきや。

陣屋跡の周りを探索していると、なかなか面白い地形にでくわします。たとえば上の写真は、虎口ぽい感じです。他にも、土塁の跡らしきものや、堀の形跡らしいものはたくさん見えました。これらも今後の大開発で消えていくんでしょうね。

陣屋跡から数百メートル北には、請西城の跡があるらしいのですが、行ってみてもほとんど形跡は残っていませんでした。上の写真は請西城の跡地周辺のはずですが、左側の断崖絶壁が要塞としての痕跡を残している他には、当時を偲ぶ手がかりは見つかりませんでした。

今回は真里谷城に行けていないので、また木更津には行きたいと思います。
(2018年2/3訪問)