鵜殿の野望【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城

愛知県豊橋市の吉田城と鵜殿兵庫の城に行ってきました(2011年8/16訪問)。

吉田城は、JR豊橋駅から路面電車で10分くらい行ったところにあります。堀や石垣がたいへん立派で、見応えがある城です。続百名城にも選出されました。

隅櫓も、なかなか立派。
この吉田城が、1564年に三河統一を狙う徳川家康(当時は松平元康)に攻められたとき、蒲郡不相城から落ちのびた鵜殿一族も籠城に参加しています。翌年、和議が成って吉田城が落ちた際には、家康に降伏し、臣従することになったようです。

吉田城から見る豊川。この豊川、「とよがわ」と発音しなかったので、地元の方に修正されました。この川の向こうに家康軍が陣取っていたんですかね。なかなかの天然の要害です。

さて、その吉田城から西南西に4kmほど行ったところに、鵜殿兵庫の城(牟呂城)があります。Googleマップにも登録したので、検索すれば行けます。

現在は土塁の一部が神社となっておりますが、他に当時を偲ぶ手がかりは一切ありません。

土塁の跡に登ると、ひっそりと「鵜殿兵庫之城」の石柱が。

土塁の奥には小さな社が鎮座しております。地元の方が手入れをしてくれていて、こざっぱりとしています。ありがたや。

この城は、蒲郡不相鵜殿の出城ということになっているようです。450年前はもっと海岸線が奥まで入り込んでいたことを思えば、鵜殿兵庫の城と蒲郡不相城は海の道で直接つながっています。三河湾の海上覇権を握る上での要衝であったことが想像できます。また、吉田城(豊橋)と豊川を通じて繋がっていた可能性も想像できます。

さらに想像を逞しくすれば。この鵜殿兵庫の城があるところは「牟呂(むろ)」という地名ですが、もともとの鵜殿氏の本拠地である紀伊半島熊野一帯は「牟婁(むろ)」と呼ばれています。漢字は微妙に違いますが、「牟呂」と「牟婁」で通じるものがあります。ひょっとしたら、熊野の牟婁から海を通じてやってきた鵜殿一族が、豊橋の牟呂を実効支配していたんじゃないだろうかとか、想像が逞しくなります。ちなみにそういう説を唱えている人も実際に居るようです。(豊橋市「牟呂の地名の由来を教えてください。」)
 さらに、三河湾を牛耳っていた海賊についての記録は見たことがありませんが、ひょっとしたら熊野水軍の一員であった鵜殿一族が、何らかの活動をしていたのではないかと。証拠は一切ありませんけれども、鵜殿兵庫の城と蒲郡不相城の立地条件、さらに豊川と吉田城の地政学的関係などを考えると、いろいろ妄想が逞しくなります。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??