「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】広岡義之『教育の本質とは何か』

【要約】教育とは、代替不可能な人格同士が出会い、お互いに自分自身の生き方や在り方を変容させて自己実現に向かう、一回限りの繰り返し不可能な出来事です。

【感想】まあ、「社会に開かれた教育課程」とか「カリキュラム・マネジメント」といった文書の束を浴び続ける日常の中、たまにこういう本に触れると、ささくれ立っていた心が本当に和む。本書は、ボルノー、ブーバー、フランクル、林竹二、森有正といった面々の思想を解説しながら、教育とは単なる知識の詰め込みに関わる技術ではなく、人格と直接関わり合う実存的で臨床的な営みであることを説いていく。OECDのキー・コンピテンシーや今時学習指導要領の「資質・能力」など、普遍的な能力を育成するのが教育の役割だと断定して憚らない主張が跋扈する世界的な趨勢の中、こういう代替不可能な一回性の「出来事」としての教育を前面に打ち出す主張を見ると、とてもホッとする。とはいえ、教科書として使用すると、amazonレビューに代表的に見られる酷評を喰らうことになるらしい。彼らの間には一回限りの出会いは発生しなかったようだ。世知辛い世の中ではあるが、それもまた教育の姿だと本書にも書いてあるのだった。

広岡義之『教育の本質とは何か-先人に学ぶ「教えと学び」』ミネルヴァ書房、2014年

【要約と感想】稲富栄次郎著作集9『人間形成と道徳』

【要約】道徳教育には大きく分けて二つのルーツがあります。全人教育に由来する道徳教育は、特に道徳だけを教える教科を設けることなく、すべての教科を通じて人格の完成を目指すことにより実現します。が、社会的な倫理に由来する道徳も教えるべきであり、こちらを扱う場合には特に道徳だけを教える時間を設ける必要があります。

【感想】1958年の特設道徳開設に直接関わった教育学者の道徳教育論であり、その時の回顧録も収めてあって、なかなか興味深く読む。現在の学習指導要領にも記載されている道徳的行為の三要素(道徳的判断・道徳的心情・実践的意欲)にも原理的な言及があって、このあたりが出所なのかな?と興味を持つ。

理論的には古代ギリシャのプラトンとアリストテレスの教育論に依拠していて、その部分ではナルホドと思わせる説明が多い。教育課程編成において道徳をどのように位置づけるかという問題、特に全教科に渡って教えるべきであって特設時間は必要ないか、はたまた特設時間が必要かという議論に関しては、その対立に実践的に関わった学者の論理だけあって、なかなか周到に構成されているように思う。この部分は現在でも(あるいは現在だからこそ)有効な議論のような気はする。

また、道徳と宗教の関係についてもかなりの分量を割いて論じているが、こちらは古代ギリシャの道徳論を語る歯切れの良さとは打って変わって、奥歯に物が挟まったような微妙な発言が続く。教育勅語の位置づけも関わってきて、立場は揺れている。この微妙な論点は、もちろん現在に至るまで精算されていない。火傷必至の危険物に手を突っ込んでいる感じが文面に溢れている。道徳を語るのは、たいへんだ。ヒトゴトではないのだが。

稲富栄次郎著作集(9)『人間形成と道徳』学苑社、1979年

【要約と感想】アリストテレス『形而上学』

【要約】存在を存在として探求する学というものがあり、それは「矛盾律」のような疑い得ない確かな定理を土台として構築されるものでしょう。そして存在について厳密に考察を進めると、「イデア」のような考え方は必要なくなります。

【感想】個人的な見所は、「一」というものに対する徹底的な吟味と、「可能態=質量/現実態=形相」という措定から演繹される諸結論の2つだ。

人間が或る何かを「一」であると認識することができるのは、たしかに不思議な力だ。たとえば人間のことを「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」というふうには認識しないで、「一人の人間」と認識する。どうして我々は物事を「多」ではなく「一」と認識するのか。この「一」という認識は、そのまま「人間が存在する」という「存在」に対する認識である。どれだけ「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」という認識を深めていっても、決して「一人の人間」という認識には到達しない。「一人の人間」という認識に飛躍的に到達したときに、初めて「一人の人間がいる」という認識が可能となる。だから「存在」を存在そのものとして理解するとは、「一」を認識できる根拠を理解することである。

アリストテレス自身は、この「一」を「尺度」として探求し、数の原理的考察から追い詰めていこうとしている。「一は数ではなく、二から数である」という認識は、「一」というものを原理的に問い詰めていった末の結論であって、一定の世界観を示している。

私自身は、この「一」とは生命原理に由来するように思える。アリストテレス自身も「霊魂」へ言及するところで仄めかしているのだが、人間は何らかの「生命の塊」の単位を「一」として認識しているように思える。それは「全体と部分」の関係からも洞察される。ある部分を切り離したときに全体そのものが失われるという場合、その部分は「多」ではなく「一」として全体に含まれている。そもそも「ある部分を切り離したときに全体そのものが失われる」とは、一部の毀損によってなんらかの「生命」が失われることを意味するだろう。生命が失われたとき、「一」は成立しなくなる。その場合の「生命」とは、無生物にも適用できる。それは「働き」の単位である。何らかの「働き」をするものがあったとき、それが「多」から合成されたものであっても、我々は「一」と認識する。ある工場群に大量の工作機械があって、働く人間やロボットや建物が「多」であったとしても、その工場群の「働き」が一つであるとき、我々はそれを「一」と認識する。我々は「働き」の単位を「生命」として認識するということだろうか。
そしてここまでくると、物事の本質を「アレテー=徳」として捉えたソクラテス=プラトンの議論とも響き合ってくる。プラトンによれば、アレテーとは、物事に本来備わっている「働き」を完全に発揮することだ。このソクラテス=プラトンとアリストテレスの議論を重ねると、「徳=アレテー」を完全に発揮したものこそまさに「一」であり「生命」であるという話になる。

【この本は眼鏡っ娘について語っている】
ところで我々は、どうして眼鏡っ娘のことを眼鏡っ娘と理解できるのか。どうして「眼鏡」と「娘」が合成されただけの、つまり部分が集合した「多」として認識するのではなく、全体としての「眼鏡っ娘」、つまり「一」を認識するのか。たとえばアリストテレスはこう言う。

しかし、或るものから複合されて、その結果、全体として一つであるような複合体は、すなわち、穀粒の集積のようでなしに語節がそうであるように複合されたものは、――というのは、語節はたんなる字母どもではなく、BAはBとAとではなく、肉は火と土とではないからである。なぜなら、複合体、たとえば肉または語節は、それぞれの要素に分解されると、もはや(肉とし語節としては)存在しないが、字母どもはそのまま存在し、火や土もまたそうだからである。そうだとすれば、たしかに語節は或るなにものかである、すなわちそれはたんに字母ども(或る子音と母音と)であるのではなくて、さらにこれらとは異なる或るなにものかである。(1041b)

この文章は明らかに眼鏡っ娘について語っている。眼鏡っ娘とは「眼鏡と娘の複合体」ではなく、これらとは異なる或るなにものかである。そしてこの眼鏡っ娘を単なる「眼鏡と娘の複合体」ではなく「眼鏡っ娘全体」にしている「或るなにものか」こそが眼鏡っ娘の実体であり本質である。この実体や本質を追究することこそが、眼鏡っ娘学の使命と言える。

また本書は、「眼鏡っ娘の生成」に関しても多方面から大きな示唆を与える。たとえば、眼鏡っ娘が眼鏡を外したら直ちに眼鏡っ娘でなくなってしまうのだろうか? アリストテレスは「実体」という概念に即してこの問題を検討している。

もし実体が、さきには存在していなかったがいまは存在しているとか、あるいは逆にさきには存在していたがのちには存在しなくなっているとかいうようなものであるとすれば、このことは、生成しまたは消滅する過程においておこることと考えられる。しかるに点や線や面は、たとえこれらが或るときには存在し或るときには存在しないとしても、生成や消滅の過程にはあり得ない。というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生成し、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に(生成過程においてでなしに一挙に)生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときには今まで存在しなかった二つの面が存在している。だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、何から生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない、しかもそれにもかかわらず常に他なるものであるかのように思われる、このことは、「いま」が実体的な存在でないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである(1002a-b)

アリストテレスが言っているのは、眼鏡っ娘にとっての「眼鏡」とは、立体を切断するときの「面」のようなものであり、時間で言うところの「いま」のようなものだということである。それらは等しく「生成や消滅の過程にはあり得ない」ような、「一挙に生じる」という性質を持つ。つまりそれは「実体的な存在ではないことを示している」ということである。アリストテレスの論理に従えば、眼鏡っ娘が着脱する眼鏡そのものは眼鏡っ娘にとっての「実体」ではない。

この眼鏡の着脱が眼鏡っ娘そのものを消滅させるかどうかについては、アリストテレスの言う「可能態/現実態」の概念が参考となる。アリストテレスはこう言う。

なにものも、ただそれが現に活動しているときにのみそうする能がある(活動しうる)のであって、活動していないときにはその能がない。たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が現に建築活動をしているときにのみそうする能があり、同様にその他の場合にもそうである、というのである。だが、この説から生じる諸結果の不合理性を見つけることは容易である。
というのは、明らかに(この説からすると)なんぴとも、現に建築していないならば建築家ではない、という(不合理な)ことになるからである(なぜなら、建築家であるということは建築する能のあるものであるということだから)。(1046b)

この論理は眼鏡っ娘は眼鏡をかけていないときでも眼鏡っ娘であると言うことを示唆する。「可能態としての眼鏡っ娘」とは、メガネっ娘居酒屋「委員長」で新城カズマ氏が語った「未がねっこ」概念を指し示している。では、その「可能態」とはどういうことか? アリストテレスはこう主張する。

しかし、もし実際に、我々の言うように、この「人間」のうちの一方はその質量で、他方はその型式であり、一方は可能的に、他方は現実的にあるのだとすれば、ここに問い求められているところは、もはやなんらの難問とも思われないはずである。(1045a)

「眼鏡っ娘」のうちの一方(可能態)は質量であり、他方(現実態)は型式である。こう考えれば、もはや矛盾は解消される。様々な個別の質量(可能態)=未がねっこに対して、眼鏡っ娘の型式が備わったものが現実態としての眼鏡っ娘である。しかし眼鏡っ娘はどのようにして可能態から現実態へと転化するのだろうか? アリストテレスはこう言う。

では、このことの原因は、すなわち可能的に存在するもの(丸くありうる青銅)が現実的に存在する(現に丸くある)にいたることの原因は、生成する事物の場合では、能動者を除いては、そのほかになにがあろうか? というのは、可能的に玉であるものが現実的に玉であるということには、他になんらの原因もなくて、まさにこうあることがこの両者の本質なのであったのだから。(1045a)

アリストテレスによれば、未がねっこ(可能態)が眼鏡っ娘(現実態)であることは、「他になんらの原因もなくて、まさにこうあることが両者の本質」なのだ。ただしそこには「能動者」という原因が想定されている。「能動者」とは何か? アリストテレスによれば、それは「種子や医者や勧告者やそのほか一般にこうした能動者、これらすべては、それから物事の転化または静止の始まる始まり(始動因)としての原因である」(1013b)ということになる。そこで問題は、この「始動因」としての「能動者」の有り様ということになる。この問題については、残念ながら本書では詳らかにならない。

アリストテレス/出隆訳『形而上学〈上〉』岩波文庫
アリストテレス/出隆訳『形而上学〈下〉』岩波文庫

【要約と感想】林竹二著作集8『運命としての学校』

【要約】学校や教育をダメにしているのは、教育を産業の下請けに売り渡す官僚主義的な教育行政です。文部省や教育委員会が管理主義を強めれば強めるほど、教育は死んでいきます。産業主義が公害を隠蔽して多数の人々を死に追いやったのと同様、教育の世界でも多くの子供たちを殺しています。いまの日本に教育はありません。あるのは管理と統制という警察的な発想です。

【感想】教育に内在的な独自の価値や働きがあるということは、実は現在でも一般的に認められていなくて。一般的には、教育は「何かのため」に行うべきと考えられていて、「それそのもののため」に行うべきものとは認識されていない。具体的には、産業のためとか、国家のためとか。すると、学校で教師が「教えるべきもの」は、教育内在的に生じてくるものではなく、政治や経済や産業の原理から外在的に押しつけられるものになる。その外側からの力が「教育に内在的なあり方」を歪めていく。その外在的な力に対する林の告発は、鋭く、激越だ。

そこで、じゃあ「教育に内在的なあり方」とは何だ?というのが、教育学にとって最大の問題となる。林が、教育学者から何も学ばなかったと明言している事実は、とても重い。林自身は、ソクラテス的な問答法に考察の糸口を見出していくことになる。その実例として、いわゆる教育困難校で起きた事実の記録は、とても刺激的だ。

私も、これから自分の方向性に迷ったときは、この本を読み返すといいかもしれない。

林竹二著作集8『運命としての学校』筑摩書房、1983年

【要約と感想】林竹二著作集7『授業の成立』

【要約】ソクラテスの問答法をベースにして、実際に小中学校で授業をやってみたところ、子供たちは活き活きとした表情で授業に参加しました。子供たちが授業に集中していたことは、感想からも伺うことができます。
一方、学校の先生たちがやっている授業は、子供たちを殺すような授業です。彼らは本物の授業というものをまったく理解していません。子供の発言が多ければ多いほどいい授業になると、根本的に勘違いしています。それは迷信です。子供の発言が少なくとも、子供たちが授業に入り込んで自分の問題として捉えることができれば、それはいい授業になります。
成績のいい子供を中心とした授業は、本当に勉強したいと思っている子供たちを振り落とし、子供たちを殺していきます。一人一人の子供をかけがえのない存在として認めるところから始めなければなりません。

【感想】授業中の子供たちの写真が、なによりも雄弁。批判者が言葉でなんと言おうと、子供たちの表情が説得力の源となっている。林竹二の授業は、きっと教室の中に浄化の空気を作っている。
ひるがえって、現場の教師たちに対する林の言葉は極めて厳しい。子供たちを殺しているのは教師であり、教師は加害者であると、糾弾して止まない。確かにそういう林の言葉に一理はあるが、反面、一理でしかないとも思う。きっと教師には教師の言い分がある。しかしその言い分は「子供のため」という言葉の前では、掻き消されざるをえない。
林の投げかけた問題は、現代でも間違いなく有効だ。ますます重要になっているとも言える。真剣に「教材研究」を行えば、確かに授業は良くなるだろう。アクティブ・ラーニングの掛け声が盛んな昨今、子供の発言が多い授業が必ずしも良い授業とは限らないという洞察も、個人的にはとてもありがたい。しかし、一人の教師にできることには、限界があるのも、また確かだと思う。

林竹二著作集7『授業の成立』筑摩書房、1983年