「眼鏡学」タグアーカイブ

【要約と感想】兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか―ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』

【要約】脳科学が明らかにした知見を踏まえて、哲学が積み重ねてきた洞察を振り返ってみると、「私が一続きの私」であることのほうがむしろ奇跡的な綱渡りをしていることが分かります。確固たる一続きの「私」が最初にあるのではなく、反復する状況が「私」を一続きにさせます。反復の恒常性が失われれば、「私」の恒常性と統一性は容易に失われます。

【感想】私の専門的な研究テーマは「人格とは何か?」なので、本書も専門的な関心から手に取ったのだった。私は「人文科学としての教育学」というアプローチで以て「人格」と対峙してきたので、「自然科学としての心理学」を標榜するアプローチには常々失望してきたものだった。そういう関心からすれば、人文科学と自然科学を絶望的に隔てる深い溝に架橋しようと果敢に試みる本書の内容は、たいへんエキサイティングだった。おもしろかった。なるほど、「再入力の渦」によって量が質に変わる=物理が精神に飛躍するのだとすれば、「人格」の本質が「再帰的」であることを踏まえれば、とても興味深い仮説なのだった。

そして「再入力の渦」によって量が質に変わることを認めると、それは一人の人間の内部だけで発生する事象ではなくなる。個々の人間ひとりひとりが再入力の渦を構成する要素だと考えれば、何万人かが集まった集団は、単なる量ではなく、「質」に変わっている。ちなみに心理学では、ヴントがそういうことを既に言っているはずだ。本書ではコンピュータに「心」が生まれる可能性についても少し触れられているが、それなら同じように人間の集団にも「心」が生まれるはずだ。そしてそれは果たしてルソーのいう「一般意志」と見なしてよいのかどうか。

【この本は眼鏡論にも使える】
眼鏡論に対しても様々なインスピレーションを与える本であった。もちろん「普遍論争」は、直接的に関わってくる。果たして「普遍としての眼鏡っ娘」が存在するのか、それとも個々のキャラクターに対して「眼鏡っ娘」というラベルがつけられただけなのか。中世の普遍論争が眼鏡論に対しても極めて有効であることが、改めて確認できる。
しかし本書の中でもっと深い味わいがあったのは、「受肉」という概念に対する掘り下げだった。

「私は私の体に否応なく受肉してしまうにもかかわらず、私と私の体の関係はいつもちぐはぐで、多くの場合はぴったりとは一致しません。そもそも私の体がオートポイエティックな自己産出的な機会的閉鎖系であるのに対して、「私」は対象や他者の表象の残照として受け身的に構成される何かもっとその存在自体が常に問われるような何事かだと考えるならば、当然それは自然に一致するわけはないはずなのですが、だからこそ、それぞれの私達がそれぞれに自分自身の身体とどういう関係を持つかを決め直すことができるポテンシャルもあるということになります。」
「受肉とはそもそも観念的なもの、あるいは概念的なものが物質性を帯びることだといえます。」190頁
「受肉とは普遍が実体化することであって、普遍を記号として指し示すことではないからです。キリストは神そのものであって、神を連想するために用いられる記号ではありません。(中略)そういう意味で、ボディビルダーの筋肉もまた、私の持っている一つの偶有的な性質なのではなくて、「私」という普遍がそこで実体化しているという意味で受肉なのです。」192-193頁

これはまさに眼鏡っ娘のことを過不足なく表現した文章だ。なかなか味わい深い。そのとおり。眼鏡っ娘とはメガネをかけた女性のことではない。「眼鏡っ娘」という概念を受肉した存在のことなのだ。

兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか―ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』講談社選書メチエ、2018年

【要約と感想】松浦明宏『プラトン後期的ディアレクティケー―イデアの一性と多性について』

【要約】従来の研究では、イデアに対して一性ばかり注目されてきましたが、イデアの「多性」に注目すると、それまでアポリアと捉えられてきた問題を整合的に理解できます。そのことによって、プラトン中期から後期への連続性も確認できる上、二つのディアレクティケーの相互関係も論理的に整理できます。
それもこれも、従来の哲学研究が方法論に対して無自覚だったのが大問題で、本来ならプラトンのテキストに即して理解するべきです。

【感想】痒いところに手が届く、けっこうありがたい本だった。イデアには「多性」もあると専門家に断言してもらって、しかも「一性/多性」=「本質/関係」という図式も示してもらって、個人的にはとても助かるのであった。
本書ではもちろん一切言及されていないが、この考え方は明らかにキリスト教の「三位一体」と同じ発想に基づいている。三位一体とは、神の本質は一つだが現れ方(つまり人間に対する関係)は3つ(父・子・聖霊)あるという教義だ。後期プラトン→新プラトン主義→キリスト教神学という流れを踏まえると、本書の主張はキリスト教三位一体まで射程距離に入れて考えてもいいような気がした。もちろん厳密な立証はできないが。

【この論理は眼鏡学に使える】
本書の内容は、眼鏡学に対しても多大な霊感を与える。「イデアの多性」と「分割/総観」という論点からは、「眼鏡っ娘がメガネを外したら眼鏡っ娘でなくなるのか?」という疑問に対して、一つの回答を与える。確かに眼鏡っ娘を「分割」したら、「眼鏡/娘」になって、眼鏡っ娘そのものは消失したかのような印象を与える。しかし「イデアの一性と多性」を踏まえると、仮に眼鏡っ娘を分割して「眼鏡」および「娘」に分かれて「眼鏡っ娘の多性」が確認できたとしても、しかしその手続きによってもともとの「眼鏡っ娘の一性」が失われたわけではない。
そして「イデア界が現実界にどのように関わるか」という関心から「瞬間」という論点が扱われていたわけだが、眼鏡っ娘に関しても、「眼鏡をかけたり外したりする瞬間」という特異点が大きな問題となっている。仮に眼鏡をかけていると眼鏡っ娘だとしたとき、では「眼鏡をかけた瞬間とはいつのことか?」という問題があるわけだ。これは「眼鏡っ娘ではなかったものが眼鏡っ娘になる」という意味で「イデアが現実界に影響を与える」という具体的な事例と言える。

松浦明宏『プラトン後期的ディアレクティケー―イデアの一性と多性について』晃洋書房、2018年

女性の近代的自我の芽生えと少女マンガの物語構造―眼鏡を再びかけ直すことの弁証法的意味

 熊本大学で2019年6/22に開催された「日本マンガ学会」第19回大会で行なった口頭発表の記録です。

 動画は23分あります。

▼パワーポイントのデータはこちらに置いてあります(※クリックするとダウンロードします)。

▼めがねっこキャラクターリストはこちらです(※スプレッドシートで開きます)
▼リストの凡例については「マンガに登場した眼鏡っ娘リスト」を参照ください。

ご質問へのリプライ

 会場では時間の都合等で十分にお答えできていないような気もしますので、こちらの場で改めてリプライできればと思います。

 眼鏡をかけていると本を読むなど「女性が勉強できる」ということで、それがおもしろくないという男性社会の価値観の問題もあるのではないか。

 会場ではリストについて詳しくお話しできなかったのですが、やはり「眼鏡による内面的な特徴(委員長だったり優等生だったり)」と「眼鏡による外見的な特徴(美容的に劣る)」は、区別して分類しています。その上で、内面的な特徴と外面的な特徴の両方を併せ持つキャラクターもたくさん存在しています。「勉強できる」という性格的な特徴が、外面とリンクしている様子はデータから明らかに見えます。
 そして、女性が勉強できるようになるのがおもしろくないという男性は、おそらく一定数いるでしょう。「女性が眼鏡をかけているのは良くない」という偏った価値観は、男性の僻みや妬みから生じている可能性は十分に考えていいと思います。
 またたとえばアメリカではSF作家のアイザック・アシモフが、眼鏡を外して美人になるなどということは物理的にあり得ないと主張し、そんな愚かなことを主張する人々は精神水準が低いと訴えています。(アシモフ『生命と非生命のあいだ』)。アメリカでも、「女性は勉強できなくてもいい」という意見が、眼鏡っ娘に対する価値観に何らかの影響を与えていると見ていいのかもしれません。
 それを私は、「見る/見られる」の非対称性の問題として考察してきました。眼鏡とは「見る」ための道具です。しかしかつての女性は一方的に「見られる」ための存在でした。眼鏡をかけるということは、一方的に「見られる」ための存在だった女性が、「見る」という主体的な立場を獲得することの象徴になります。女性の主体性を認めたくない人々は、おそらく女性から眼鏡を奪おうとするでしょう。「女は眼鏡を外した方がいい」などと言う男は、女性を単に「見られるだけの対象」としてしか見ていないのです。

 眼鏡を外して美人にならないパーセンテージはどのくらいか。

会場ではデータが操作できなかったので正確にお答えできませんでした。
 リストでは、眼鏡を外したまま恋愛成就するキャラが254人いるのですが、そのうち美人になるのは139人です。なぜか、眼鏡を外して美人になるわけでもないのに、最終的に眼鏡をはずして彼氏をゲットするキャラが115人いるんですね。
ちなみに眼鏡を外すことで変顔になるキャラは、いまのところ4例ほど確認しています。

 「通俗的価値」と「個人的価値」のアウフヘーベンというところまで抽象度を上げると、少年マンガにもたくさんあるのではないか。

 仰るとおり、どこまで抽象度を上げて一般化していいかは、理論的な見極めが必要なところだと思います。
 ポイントは、主人公の内面の葛藤と統合過程が描かれているかどうかだと考えています。それが描かれているのであれば、その少年マンガ作品にも「近代的自我」を認めてもいいのではないかと思います。ラブコメ系の作品には、そういうものが多いと思います。たとえば田丸浩史『ラブやん』や、井上和郎『あいこら!』は、主人公の葛藤と成長を描いたいい例だと思っています。
 しかし一方、『ドラゴンボール』や『魁!男塾』という作品には、弁証法的構造は見られないと考えています。最初からかなり人格が完成していて、仮に肉体や技は成長したとしても、自我にはたいして影響がないからです。(もちろん、だからといってそれが悪いということではありません)。『ドラゴンボール』や『男塾』に見られる物語構造は、もともと敵であった別の人格(ヤムチャ・ピッコロ・ベジータ等)を、矛盾と葛藤を経て味方の集団に統合して強くなっていくという「共同体的なアウフヘーベン」です。

ご協力のお願い

 個人の力が及ぶ範囲のみで資料収集と確認を行なっているので、時間的・経済的に限界があります。
 特に1970年以前の貸本や、21世紀以降の作品に大きな欠落があると思われます。
 ほか、記録ミスやデータ形成時の混乱などにより、データが誤っていることもあるかと思います。
 なにかお気づきの点がありましたら、ご連絡いただければ、私の研究が進みます。

 また、これまで可処分所得の大半をこの研究に費やしてきて、そろそろ経済的な限界を感じつつあるので、たいへん恐れ入りますが、Amazonくれくれリストを載せておきます。

マンガに登場した眼鏡っ娘リスト

リスト

現在2475人登録。

凡例

・私が実際に目を通して、キャラクター特性と物語構造を確認した作品のみを掲載しています。

物語類型

・めがねっこ名の右の「語」欄に記されたアルファベット(A~E、a~e、Z)は「物語類型」の分類です。
▼物語類型は以下の通りです。
A:ヒロインで、最終的に眼鏡を外して恋愛成就する。
B:ヒロインで、最終的に眼鏡をかけて恋愛成就する。
C:ヒロインで、恋愛と関係ない。
D:脇役。
E:ヒロイン級キャラが複数いて、そのうち一人が眼鏡。
Z:パートタイムめがね。
▼物語類型の大文字は少女マンガ、小文字は少女マンガ以外です。

キャラクター類型

 物語類型の右の「キ」欄の数字は、キャラクター類型を表わしています。
1:優等生だったり委員長だったりオタクだったりと、性格的に特化している。
2:1と3の両方の要素(性格と外見)をもつ。
3:外見的に容姿が劣るという描写がある。
4:眼鏡の着脱によって性格が変わるなど、眼鏡のon/offがトリガーとして機能する。
5:何も特徴がない。

眼鏡を外して美人になるのか

・リストいちばん右の「美」項目に「XX」の印が付いているキャラは、眼鏡を外して美人になるものです。

具体例

▼たとえば「A-3XX」だったら、眼鏡でブスだった主人公が眼鏡を外して美人になってそのまま恋愛成就するという作品です。
▼たとえば「B-2XX」だったら、優等生で地味な主人公が眼鏡を外して美人になるものの、最後には再び眼鏡をかけ直して恋愛成就するという作品です。
▼たとえば「D-4」だったら、眼鏡っ娘が脇役で、眼鏡の着脱によって性格が変わるということです。

ご協力のお願い

 個人の力が及ぶ範囲のみで資料収集と確認を行なっているので、時間的・経済的に限界があります。
 特に1970年以前の貸本や、21世紀以降の作品に大きな欠落があると思われます。
 ほか、記録ミスやデータ形成時の混乱などにより、データが誤っていることもあるかと思います。
 なにかお気づきの点がありましたら、ご連絡いただければ、私の研究が進みます。

 また、これまで可処分所得の大半をこの研究に費やしてきて、そろそろ経済的な限界を感じつつあるので、たいへん恐れ入りますが、Amazonくれくれリストを載せておきます。

【要約と感想】野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』

【要約】子どもが発した疑問(実は編著担当の哲学者が考案)に対して、現役の哲学研究者が本気で分かりやすく答えます。「ぼくはいつ大人になるの?」とか「勉強しなくちゃいけないの?」とか「死んだらどうなるの?」といった難問に、正面から答えます。

【感想】東大には理科Ⅰ類で入ったのだが、一般教養でとったのは哲学で、その担当が本書の編著者である野矢先生だった。最後には大森荘蔵先生御本人を呼んで来るという、今思えば凄い授業だった。まあ本当に凄かったと分かったのはしばらく後であって、当時はその贅沢さに気がついていなかったのであった。私が文転して現在では教育学で飯を食っているのは、少なからず野矢先生にAをもらった自信のお陰かもしれない。まあ今思えば、授業に参加した全員にAを出していたかもしれないのだが。

さて、本書で示される「ぼくはいつ大人になるの?」と「勉強しなくちゃいけないの?」と「頭がいいとか悪いとかってどういうこと?」という問いは、直接的に教育学に関わってくる問いである。まあ、広い目で見れば全ての問いが教育学と深い関係があるわけだけども。
そして僭越ではあるが、野矢先生が「ぼくはいつ大人になるの?」で示した回答には、多少の疑義がある。野矢先生はこう言った。

「そんな、「子ども」に特徴的な何か。それは「遊び」だと、ぼくは思う。もちろん大人も遊ぶけれど、子どもはもっと遊ぶ。」21頁

教育学の見解を踏まえると、なかなか危険な物言いだ。というのは、遊びが子どもの専売特許になったのは、おそらくそう昔の話ではないのだ。
かつて、子どもは7歳にもなれば、大人に混じって働いていた。子どもを労働の世界から隔離して「遊び」に専念させるようになったのは、近代以降のことだ。そして逆に、大人も子どもに負けず劣らず全力で遊んでいた。つい先日見てきた「遊びの流儀」という展覧会で展示されていた遊楽図では、遊んでいるのは大半が大人であり、貴族であった。「遊び」とは、貴族のように労働から解放されている立場の専売特許である。貴族は遊び、奴隷は働くのである。子どもと大人の問題ではない。庶民階級であれば、子どもだろうがなんだろうが、働けるほどの体力まで育った段階で労働に従事せざるを得ない。
つまり、「子ども/大人」が分離するのは、奴隷労働が廃止されて資本主義経済が浸透し、日常生活から「労働」が析出・分離されてからのことだ。それまでの遊びと労働は、密接不可分に一体化したものだ。だから、「労働」が析出されることに伴い、残余部分が「遊び」と認識されていくことになる。そして遊びは労働には不要なものとみなされ、大人の世界からは排除されることになる。生活の中から「労働」が析出・分離されなければ、「遊び」が析出されることもない。つまり「子ども/大人」の明確な区別とは、奴隷労働廃止と資本主義的賃労働発生に付随して生じる、賃金労働者を制度化するための仕組みだ。問題となった命題「ぼくはいつ大人になるの?」の答えは、資本主義的には極めて明快で、「賃金を得るようになったとき」だ。
だから逆に言えば、賃金労働者の確保が必要なくなれば、「子ども/大人」の区別も明確でなくなる。現在「子ども/大人」の区別が不明確になってきているとすれば、それは労使関係が様変わりして「労働」の意味と価値が大きく変わったことが根底にあるはずである。

ところで、野矢先生は次のようにも言っている。

「でも、そうだな、一人前の子どもになるには、一度は大人にならなくちゃいけないだろうね。」22頁

この場合の「大人」とは、資本主義経済で賃金労働者として役割を果たせることではなく、カントの倫理学的な意味での「人格」を備えた者のことだろうと思ってしまう。ここではもはや「遊び」という要素は何も関係がない。「子ども/大人」の区別に、「遊び」とは無関係な要素が断りなしに持ち込まれているように感じるのだが、如何か。

【今後の研究のための備忘録】
やはり哲学の本だけあって、「アイデンティティ」の用法に関する興味深いサンプルを得た。

「そう、「自分らしさ」を問う議論はどういうかたちであれ空転してしまうのです。自分が自分と一致しているかどうかを確かめるためにひとは「自分らしさ」を問うのでしょうが、そう問うひとは、その前提として、自分が自分自身と一致していないことを認めているわけです。」115頁、鷲田清一執筆箇所

「そこで、僕らの発言や行動の全部を照覧して、その首尾一貫性を要求してくる存在という一種の幻想が生まれる。それが神。僕らが言葉を使って考え、一貫性をもたせようとすると、そこに不可避に生まれる錯覚、それが神だ。」171頁、田島正樹執筆箇所

眼鏡っ娘論的にも、含蓄が深い。われわれは、どうして眼鏡っ娘が眼鏡を外すことに対してこれほど強い拒否感を覚えるのか。それこそ「一貫性」に対する信仰としか言いようのない感覚である。そしてその感覚は「神」に対する畏れに極めて似ている感覚なのだった。

野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』中央公論新社、2013年