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【要約と感想】苫野一徳『学問としての教育学』

【要約】これまで教育学は学問として舐められてきましたが、終わりにしましょう。現象学を土台として原理を確立し、現実の教育実践の役に立つ成果を挙げることで、教育学は学問として成立します。

【感想】まあ、タイトルからしてドン・キホーテ的な蛮勇だと思ったが、誰かがドン・キホーテ的な蛮勇を振るわなければ、時代は前に進まないのだった。その意気や良し。おもしろく読んだ。この流れに棹さすことについては吝かではない。ただ専門家としてはマニアックなところも気になってしまうので、以下、ごくごく些細な違和感についてメモしておく。

 思い起こすのは、私の学生時代には既に「学問としての教育学」が木っ端微塵に粉砕されていたことだ。私が東大教育学部に進学した1993年、学部主催で行われたシンポジウム(タイトルは忘れた)は「反教育学」をテーマとしてドイツから反教育学者を招いた。反教育の内部にも様々な流派はあるものの、乱暴にまとめれば、「教育は必ずしも善いものとは限らない」という認識や「教育なんて必要ない」という主張では同じ方向を向いている。若い私にとっては率直に言って意味不明だったが、どうやらそれが世界で流行っているらしいことまでは認識したのであった。
 90年代を通じて、教育学部は「教育学には固有のディシプリンなどない」というメッセージを発し続けたし、「教育学には固有のディシプリンなど必要ない」と開き直っていた。そもそも、当時の東大には一文字学部(法学部・文学部・医学部・農学部など漢字一文字の学部)を正統とし、二文字学部(教育学部や教養学部)をディシプリンの定まらない新参者として軽んじる貴族的意識が根強く残っていた。実際、「文学部教育学科」からの「教育学部」の独立は、学問的というよりは、戦後の政治的な関心(GHQとCIEの戦後改革)の下で進められている。
 私が大学院に進むころには、歴史学や社会学などある程度ディシプリンが定まった立場から教育という現象にアプローチするべきだという立場が急速に台頭し(具体的には広田照幸先生の置かれた微妙な立場を思い出す)、「教育学固有のディシプリンを打ち立てよう」という気概は完全に影を潜めていた。教育学は哲学や歴史学や社会学などとは異なる「ポイエーシスの学」だという主張にナルホドなどと思ったりした。

 しかしそれはポストモダン特有の現象かというと(本書でも昔からの伝統であることに言及はあるが)、実はデュルケムが登場したあたりから100年あまり続いている葛藤だったりするだろう。デュルケムは伝統的(ヘルバルト的)な教育学を「ペダゴジーとしての教育学」と呼んだわけだが、実際に教育学は「公教育(つまり学校)に携わる教員養成」と密接に関わって発展した。近代的な「国民国家」の展開に伴って浮上した教育学は、期待に応えて教育現象に関わる知識と経験の組織化に勤しむこととなるが、それはつまり「教育そのもの」を対象として発展したというよりは、近代という時代に固有の課題に応えることを暗黙の前提として発展したということだ。それ自体は特に良いことでも悪いことでもないが、デュルケムはそういう「学問以外の価値」を持ち込むことを是とせず、教育を社会的事実として実証的に記述することを目指すこととなる。で、「善い教育」でも「教育的価値」でも、なんと呼んでも構わないが、そういう類の「学問以外の価値」を持ち込む際には、膨大な言い訳を要求されるようになる。勝田守一や村井実(ちなみに本書が村井実を引用しない理由がよく分からない)はポストモダンの潮流ではなく、デュルケム的なものと対決していたはずだ。そんなわけで本書は仮想敵をポストモダンの潮流に置いていたが、実はラスボスはデュルケム的なものになるのだろう。
 付け加えるなら、デュルケムが個人の自律性よりも上位の集団である国家や社会の自律性を本質的だと見なしており、いわゆる「社会有機体論」の引力圏にあることには留意しておいていいのだろう。本書はいわゆる「社会有機体論」に関わる要素を最初から考察の対象とせず、一貫して「モナド的な個」を前提に世界を組み立てている。それ自体は良いことでも悪いことでもないが、しかしデュルケム的な立場からはその前提こそが疑わしい臆断と見なされるだろう(このあたりは現象学的には「間主観性」をめぐる表現に関わってくるか)。本書が理論的に依拠するヘーゲルについても、彼の有機体論的な議論に一切触れていないのは、そこそこ気になるところだ。
 そして有機体論的な発想ということで想起するのは、プラトン『国家』だ。プラトン『国家』は、疑いようもなく有機体論的発想で構成されている。そしてプラトン『国家』については「テーマが政治学なのか教育学なのか」という議論が続いているが、私個人の感想では疑いようもなく「教育学」だ。なぜならプラトンにとっては「教育こそが国家の存在意義」であり、その逆ではないからだ。だとすれば、本書が仮に「民主主義こそが教育の存在意義」と考えているのであれば、教育が最上位目標というわけではないので、それを教育学と呼ぶべきなのかどうか、議論の余地はあるように思う。

 もうひとつ、本書の肝は「自由」という概念にあるわけだが、個人的にはそこに多少の引っかかりを感じるところではある。
 個人的な本質直観に従えば、教育(instructionではなくeducationとしての)という概念の核は「自由でないものが自由になる瞬間」にある。(ちなみにカントの表現によると「人間は教育によってはじめて人間となる」となる)。よって、法学や政治学や心理学や経済学では「自由で平等な個人」を所与の前提として話を進めても構わない(つまり特異点は別のところに設定してよい)のだが、教育学は他の学問と異なり、「自由で平等な個人」を所与の前提とするわけにはいかない。「自由で平等な個人」が立ち上がるダイナミックな瞬間(平たく言えば、子どもが大人になる瞬間)こそが、他の学問にはない教育学固有の対象であり、特異点だ。
 そしてそれはおそらく、「自由で平等な共同体」を所与の前提とせず、それが立ち上がる瞬間を捉えようとする努力とも重なってくるはずだ。ルソーは自由が立ち上がるダイナミズムを個人的なレベルでは『エミール』で描き、共同体のレベルでは『社会契約論』で描いた。だから間違いなく『エミール』は教育学の本だし、同様に『社会契約論』も教育学(ペダゴジーではなく)の本だ。またヘーゲルはそれを『精神現象学』で長々と描写した。だとすれば『精神現象学』も教育学の本だ(自由で平等な個人という範囲を遥かに超えて記述が進むが、自由でないものが自由になるダイナミズムという観点から言えば、その主語が個人である必要は特にない)。
 だから本書が言う「自由の実質化」の中身が具体的になんなのかは、かなり重要な話になってくる。たとえばルソーが『エミール』で「自由」についてこう言っているのに耳を傾けてもいいだろう。

「これまでのところ、きみは見かけだけ自由であったにすぎない。まだなにごとも命令されていない奴隷のように、きみにはかりそめの自由があっただけだ。いまこそじっさいに自由になるがいい。きみ自身の支配者になることを学ぶがいい。きみの心情に命令するのだ、おお、エミール、そうすればきみは有徳な人になれる。」(下198頁)
「自由になるためにはなにもすることはないのだ、とわたしには思われる。自由であることをやめようとしなければそれで十分なのだ。ああ、先生、あなたこそ、必然に従うように教えることによってわたしを自由にしてくれた。」(下254頁)
「わたしは、支配と自由とは両立しない二つのことばであって、どんなみすぼらしい家でもその家の主人になれば、かならず自分の主人ではなくなる、ということを知った。」(下254頁)

 ここでルソーが「自由」と呼んでいるものは、どうも本書が言う「自由」とは違った何かのように読めるような気もするわけだ。本書の言う「自由」が、ルソーの言う「見かけだけ自由」とか「かりそめに自由」だという畏れはないか。本書が言う「自由の実質化」とは、ルソーが求めた「じっさいに自由」なのだろうか。個人的には多少の不安があるが、まあ、専門的にマニアックで些細な話ではある。

苫野一徳『学問としての教育学』日本評論社、2022年

【要約と感想】ガート・ビースタ『よい教育とはなにか』

【要約】「よい教育とはなにか」を考えずに、客観的な測定さえすれば教育問題が解決するかのような勘違いが蔓延しています。「エビデンスに基づいた教育」は効率性と効果性を追求しますが、「よい教育とはなにか」という疑問には一切答えてくれません。
教育とは「資格化/社会化/主体化」が交錯した地点で成立するものですが、「主体化」がどのように可能となるかが本書の関心です。現在は、「学習」の視点が強く打ち出されすぎており、この「教育=主体化」という課題が後退しています。原因は、新自由主義の蔓延によって、公共圏が私的領域と市場から挟み撃ちになって痩せ細っているからです。教育は消費者に対する「説明責任」を果すのではなく、代替不可能な「応答責任」を取り戻さなければなりません。
主体でないものを主体化するという教育の課題を達成するには、単に「主体化」を狙う働きかけをするのではうまくいきません。「資格化」や「社会化」を目指す途中で、局地的に限定された形で主体化(多様な世界への参入)へのきっかけが現れた時に、いったん教育を「中断」することが大事なのです。そしてその教育こそが、民主主義の本質と深く響き合うのです。

【感想】いやあ、なかなか読み応えのある本だった。論理的に明快で、すっきりした読後感だった。まあ、もともとの私の教育学的スタンスと同じ方向をむいている、という事情はあるのかもしれないけれど。

まず、「エビデンスに基づいた教育」に対する違和感について、過不足なく説明してくれているところが心強い。仮に「目的」が最初から決まっているなら、確かに「エビデンスに基づいた教育」にも意味がある。しかし逆に言えば、「エビデンスに基づいた教育」からは決して「教育の目的」を導き出すことはできない。どうしてもエビデンスとは完全に切り離された次元で「価値判断」が必要となる。このあたり、「エビデンスに基づく教育」を称揚する人々は、最初から価値判断を放棄している上に、放棄していることをまったく自覚していないところが気持ち悪いのであった。

そして、「エビデンスに基づいた教育」が跋扈している原因についても、私と意見を同じくする。というか、新自由主義的傾向が問題であることは、著者や私でなくとも指摘していることではあるが。

そして現状を踏まえた上で、論理的な視角として教育目的を「資格化/社会化/主体化」に区分した上で、「主体化=自由」を可能にする条件を探っていく。ここで真っ先にカントとデューイを参照するところは、私の教育観と合致するところだ。(同じようなタイトルで同じような関心から同じような試みをしている苫野一徳は、真っ先にカントとデューイではなくヘーゲルとフッサールを参照しているわけだが、個人的にはとても違和感がある)。
このカントのヒューマニズムが、本質的なアポリアを抱えているわけだ。私が従来から関心を持ってきた言葉で言えば、「自由でないものを強制的に自由にする」ことの可能性と正当性である。本書はこの問題に真正面から切り込んでいくのが、たいへんスリリングだった。

まず単なる「学習」では、「自由でないものを自由にする」ことはできない。「学習」は「資格化」や「社会化」を可能にしても、「主体化」には届かない。学校が消費者に対する説明責任を果すことは、仮に「資格化」や「社会化」には意味があるとしても、「主体化」とは何の関わりも持たない。「主体化」を果すためには、「学習」ではなく「教育」が、「説明責任」ではなく「応答責任」が求められる。
この場合の「教育」とは、learningでもなくinstructionでもなくinstituteでもなく、まさにeducationということになるのだろう。そしてそれは、真っ直ぐに「主体化」を目指す働きかけではなく、局地的な「中断」が可能にするという。つまり「自由でないものを強制的に自由にする」ことを目指さないのだ。なんらかの働きかけの途中で「自由になる」という契機が生じた時、働きかけを「中断」して、「応答責任」を果たすということなのだ。「自由でないものを自由にする」というとき、教師にできることとは、自由がはじまる時に「応答責任」を果たすことだけなのだ。
ああ、なるほどなあと。本質的なアポリアを解消するために、こんな形のアイデアがあるんだなあと。いやはや、恐れ入った。

【今後の研究のための個人的備忘録】
「自由でないものを自由にする」ことを巡っての言及は、いろいろと参考になる。

「カントの教育的介入について最も重要なことは―そして、だからこそ、我々は、彼の仕事が近代教育の始まりのしるしとなると言いうるのだが―、彼が、教育と人間的自由の間のつながりを確立したことである。カントは他律的決定と自己決定の間に区別を設けることによって、そして教育は究極的には前者ではなくて、後者と関係があると主張することによって、人間の自由に関する問いを近代教育の中心問題にした。したがってある意味で、社会化と主体化の間で区別することが可能になったのは、カント以降のみであった。」(114頁)
「しかし、もっと重要なことは、近代教育の基礎づけであるカントの表現における閉鎖もまた気づかれなかったということだ。というのも、人間存在の目的(telos)についてのこの定義から排除された人々―理性的でない、もしくはまだ理性的になっていないと考えられていた(子どもたちのような)人々―が彼ら自身の排除に対する抵抗の声を欠いていたからである。そして彼らがこの声を欠いているのは、まさしく、人間であるということが何を意味するのかについての特定の定義のためである。言い換えれば、彼らは、話すことさえできず、あるいは話す能力があると認められることさえなく、排除されていた。」(115頁)
「教育的な観点からすれば、ヒューマニズムのこの形式で問題になるのは、それが、人間性の「実例」の実際の明示の前に、人間であるとは何を意味するのかについての基準を明記するということである。それは、子どもや生徒や新参者が何にならなければならないのかを、彼らが何者であり、何者になり得るのかを示す機会を彼らに与える前に、明記している。したがって、ヒューマニズムのこの形式は、新参者が人間であるとは何を意味するのかについての我々の理解を根本的に変えるかもしれない、という可能性を閉ざしているように思われる。その結末とは、そのとき、教育は(再び)社会化の形式になるということだ。」(118頁)

私個人の直感としては、「近代」という時代を支える根底の土台とは、「大人/子ども」の峻別だ。「労働/教育」の峻別や「自由/保護」の峻別など、近代社会を支える原理のすべてが「大人/子ども」の峻別に由来する。そして「大人/子ども」を架橋するという本来的に不可能な役割を負わされたものこそが教育であり、だから教育には近代社会の矛盾が集中して現れることになるわけだ(と私は理解している)。本書は、この矛盾に直接ぶちあたっていくわけだ。
そしてその矛盾を解決するために著者は「中断の教育学」という新しい概念を持ち出す。

「中断の教育学は「強い」教育学ではない。つまりそれはどんな意味においてもその「成果」を保証しうる教育学ではないのだ。それはむしろ、主体化の問いに向き合っている教育の基本的な弱さを承認する教育学である。教育のこの存在論的な弱さは、まさに同時にその実存的な強さである。なぜなら、独自性が世界に表れるために空間が開くかもしれないのは、人間の主体化がある方法で教育的に生み出されうるという理念を我々が諦めたときだけだからである。」(134頁)

いやあ、なかなかすごいことを言っているように思う。「弱さ」とか「諦めた」とか。実感的には、よく分かるのだ。「主体」なんて、作り出そうと意図して作り出せるものではない。この本来的に無理な注文を率直に「無理だ」というところから、そしてそれにも関わらず諦めないところから、新しい教育学は始まるのかもしれない。
諦めなかった結果、次のような結論が出てくる。

「子どもや若い人々を「よい民主主義者」になるように教育する代わりに―それは、私の見方では、基本的にポリス的秩序のなかにとどまるという戦略である―、教育者には当然、民主主義化が「生じる」無数の瞬間瞬間に学習する機会を利用し支援するという演じるべき役割がある。」(179頁)

うわあ、たいへんだなあ。が、これが「応答責任」というやつなんだろう。私も日々の実践のなかで忘れないように「応答」していきたいとは思う。できるかどうかは、さてはて。

ガート・ビースタ/藤井啓之・玉木博章訳『よい教育とはなにか―倫理・政治・民主主義』白澤社、2016年

【要約と感想】苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』

【要約】現代教育学は、相対主義に気圧されて臆病になり、なにが「よい」教育なのかという規範を考えられずにいます。しかし、規範を考察するためのロジックを提出することが教育哲学固有の役割だったはずです。ということで規範学としての教育哲学の課題を真正面から引き受け、「よい」教育とは何かを考えました。フッサール現象学とヘーゲル欲望論を土台として考えれば、教育とは「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」であり、「よい」教育とは<一般福祉>に適う教育であると、断言できます。ちなみに「一般福祉」とは、ルソーの言う「一般意志」に基づいた行政が行なう社会政策の規準です。

【感想】様々なインスピレーションを湧かせてくれる、若々しい本だった。いろいろな刺激を受けた。おもしろく読んだ。とても良かった。

【今後の研究のための個人的備忘録】
とはいえ、思うところは、なくはない。いや、たくさんある。
ということで以下、しつこく批判を連ねていくが、もちろん著者個人に物申すという意図から出たことではなく、私個人の研究をより深めるための備忘録だ、ということはあらかじめ言っておいて。

まず著者が結論として示した「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」という言葉が、教育学研究者として、素直には納得できない。根本的な違和感は、問題の核心である「自由」という言葉にある。著者が「人間は<自由>を欲する存在である、という人間的欲望の本質論」(30頁)と言っている論理が、そもそもおかしい気がするわけだ。というのは、個人的な研究史を踏まえて言わせてもらえば、どうせ同じことを言うなら「各人の<人格>および社会における<人格の相互承認>の<ビルドゥング:陶冶=文化>を通した実質化」と言ったほうが、遙かに良いと思うわけだ。
素人から見たら単に「自由」を「人格」と言い換えているだけのように見えるかもしれないが、研究者視点から言えば、これで論理の最終的な射程距離がそうとう変わってくると思うのだ。というのは、スピノザ風に言わせてもらえれば、「自由」とはそもそも「人格」の<属性>に過ぎないからだ。本質である<実体>は「人格」のほうにある。たとえば、仮に本書の中に登場する「自由」という言葉を全て「人格」に変換しても、まったく違和感なく筋が通るはずだ。「人格」が主で「自由」が属だから、属を主に換えても筋は同じままでよいわけだ。
ちなみに属性である「自由」を軸に論理を組み立てても筋が通るのは、たまたま「教育」というテーマが「人格の属性である自由」と実践的に相性が良かったためだ。しかしおそらく他の一般的議論(たとえば芸術論)に展開した場合には、「自由(属)」よりも「人格(主)」のほうが射程が延びるだろう。実際、著者も「自由」という言葉では論旨を通貫できずに思わず「人格」という言葉を持ち出す個所がある。具体的には196頁で「他者を一個の人格として尊重することを学ぶのである。」と言っている。本書の趣旨から言えば、ここは「自由の相互承認」という表現で貫徹してよかったところだ。しかし「自由」という<属性>では表現しきれない何かを言い表したくなったとき、「人格」という射程距離の長い概念が降りてくる。

さらに哲学的に論理を敷衍すれば、「人格」の本質とは「一」である。たとえば本書に出てくる「自由」を全て「一」と言い換えても、論旨は通じる。つまり「自由」とは「一」の<属性>なわけだ。そしてヘーゲル風に言わせてもらえれば、その場合の「一」とは、「無限定の一」から自己矛盾を経て分離した「対自」と「即自」が再び綜合(アウフヘーベン)されて「再帰的な一」となった現実的な「一」だ。この現実的な「再帰的な一」の諸属性の中に「自由」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった概念が含まれる。つまりヘーゲルの教育論の本質は、私が理解するところでは、「無限定の一(無邪気な子ども)」が、自己自身を限定=否定することで分裂の危機に陥った後、再び綜合(自分自身に戻る)して現実的な「人格」を完成するという弁証法的なプロセスにある。本書はこれを「自由」の欲望論で記述したわけだが、私の研究史的観点から見ればそれは属性的に付随する話に過ぎず、本質的には「弁証法プロセス=再帰的な一」として描くものだと思う。ちなみにこのプロセスは、ルソーが『エミール』でも描いていたような、「なすこと」と「欲すること」の分離と一致の過程ともオーバーラップする。本書でも「なすこと」と「欲すること」のズレと綜合が「自由」の源泉であるようなことが書いてあったが、本来ならそこでは『エミール』が参照されるべきだとも思った。

また、「再帰的な一」は、本書内で繰り返し登場する「生きたいように生きたい」という再帰的なテーゼを、「自由」という<属性>よりもはるかに本質的な次元で言い表す言葉であるように思う。著者は「私たちは皆どうしても、「生きたいように生きたい」、すなわち<自由>を欲してしまうのだ、というヘーゲルの主張」(28頁)と言うが、私の研究史的観点から考えれば、「生きたいように生きたい」という再帰的な命題は、「自由」ではなく、「わたしが<わたし>でありたい」という「再帰的な一=人格」のほうに本質的に結びつくように見える。いや、確かにもちろんそれは「自由」ではあるのだが、「自由」は<属性>として必然的に付随するだけであって、本質は「再帰的な一」にあるわけだ。
そしてこの「再帰的な一」を、人は「人格」と呼ぶ。こうしてみると、実は旧教育基本法第一条に掲げられた「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という文言は、筆者の言う「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」以外の何物でもない。ということで、私個人としては、「よい」教育とは「旧教育基本法が目指す教育」でファイナルアンサーのような気がしないでもないのだった。

で、こういうふうに「自由」を<属性>と捉えていくと、実は本書138頁や149頁で語られていることは、けっこう危ういように思える。本書で「教育学のアポリア」について何回か言及されるが、私としてもそれらは擬似問題に過ぎないと思う。しかし本当の意味での「教育学のアポリア」とは、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」であるところにあると思っている。このアポリアに対して数々の教育哲学者が膝を屈しているときに、本書はそのアポリアをアポリアとも思わず軽々と飛び越している。それは単に「自由」をパッケージ化したことの副産物ではないかとも思う。
本書は、「自由」についての定義をしっかり試みている(第3章)。それ自体の論旨に特に問題は感じない。しかしいったん「自由」のパッケージ化に成功した後は、「自由」は無謬の審級として威力を振うこととなる。無敵な「自由」の前に、立ちふさがるものはない。いや、まさにそれを成立させるための構成になっているから、論理自体に問題があるのではない。ただ、著者に同意せずに「自由」を無敵だと思っていない立場で読むと、「自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアを「自由のためには許される」という論理でするっと抜けられたとき、「えっ、本当にいいの?」となってしまう。もしもここで論理の底に据える審級が「自由」ではなく「人格=再帰的な一」であったとしたら、筆の運びはまるで違うものになったかもしれない。教育という「自由でないものを強制的に自由にする営み」とは、本当に「再帰的な一」にとって「よい」ことなのか。このあたり、ヘーゲル自身の行論は、なかなか刺激的だったはずだ。具体的にはヘーゲルは次のように言っていた。

「人間はあるべき姿を、本能的にそなえているのではなく、努力によってはじめてそれをかちとることができる。教育されるという子供の権利はこのことに基づいている。家夫長的統治の下にある諸民族もまったく子供と同様であって、この場合人々は、貯蔵庫にあるもので養われ、独立した人間および成人とはみなされない。
だから、子供に奉仕を要求することが許されるのは、奉仕が教育だけを目的とし、教育に関係しうる場合だけである。奉仕が、教育との関係をぬきにして、ただそれだけでなにか重要なことであろうとしてはならない。というのは総じて最も非倫理的な関係は、子供を奴隷にする関係であるからである。
教育の主眼点は躾であり、躾には、たんに感性的で自然的な要素を根絶するために、子供の我意を砕くという意味がある。この場合たんに穏便なやり方で足りると思いこんではならない。なにしろ直接的意志は、とりもなおさず、直接的な出来心と欲望のままに行動するものであって、理由と表象によって行動するものではないからである。
子供に理由を示すということは、その理由を承認するつもりがあるかどうかを子供にまかせることであり、したがっていっさいを子供の気ままな意向にゆだねるということである。そうではなくて、両親が普遍的で本質的なものを成すということ、このことから子供の服従の必要が出てくるのである。おとなになりたいというあこがれを起こさせるところの従属感が子供に養われないならば、生意気とこましゃくれが芽を出してくるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック67頁。

これこそが、「子供の我意を砕く」ための「躾」と「服従」こそが、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」の具体的内容としてヘーゲルが掲げているものだ。ヘーゲルが描いた教育像を「時代的な制約」ということで済ませて大丈夫なのだろうか。ここはヘーゲルの論理に内在する傾向性が率直に現われている描写ではないのか。ヘーゲルに依拠して教育論を組み立てるのであれば、この「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアに対して、「どうして強制が許されるのか」という論理構成には、相当本気で取りかかる必要があると思う。

まあヘーゲルについては難しいことがたくさんあるので、もっと勉強しなければならない。さしあたって個人的にはヘーゲルよりもカント倫理学のほうが好きなわけだが、ヘーゲルはさすが『精神現象学』という発達理論をものしただけのことはあって、静的なカントと違って自由の生成過程までダイナミックに踏み込んでくるところは、本書の言うとおりだ。確かにヘーゲルを侮ってはならない。
そして同様に(?)、個人的嗜好から言えば、フッサールよりもヴィトゲンシュタインを採りたい。その理由の論理展開は既にこっち(稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』)に記してある。

あと、私も含めて足を掬われるかもしれないと思ったのは、「社会有機体論」に対する構えが薄いというところだ。本書にはルーマンの名前もちらほら出てきているわけだが、スペンサーなりパーソンズなり、社会有機体論的な発想に対しては、そもそも本書の論理は何のインパクトも与えないだろうと思う。なぜなら本書は徹底的な個人主義に拠って構成されていて(本書が扱う共同体主義も所詮は個人主義の枠内にある論理に過ぎない)、社会有機体論者に響く共通要素は何もないからだ。本書はいわゆるライプニッツの「窓のないモナド」的な世界観を無条件に前提しているわけだが、社会有機体論はその前提自体を共有する必要がないのだ。その世界ではもはやフッサールを持ち出すまでもない。ホッブズ以来の「自由」の展開は、実は資本主義の史的展開によって「窓のないモナド」的世界観の無前提的な共有が広がった結果に過ぎないのかもしれない。モナド的でない世界の見方がいくらでも可能だということには、たぶん気をつけなければ、足を掬われる。私個人は著者のモナド的世界観を無前提に受け入れることができるが、しかし著者(あるいは私)の世界観を共有しない「絶対の他者」は、すぐ隣りにいるのだ。社会有機体論は、そういう対象をも射程に入れてくる、なかなか恐ろしい論理ではある。あるいはヘーゲルも社会有機体論に足を一歩踏み入れているとも言える。たとえばヘーゲル自身はこう言っているではないか。

「諸契機のこの観念性は、さながら有機体における生命のようなものである。生命は有機体のどの点にもあるが、すべての点にただ一つの生命があるだけであり、この生命にたいする抵抗はなく、これから離れたときはどの点も死んでいる。いっさいの個々の身分、権力、職業団体の観念性もこれと同じであって、これらのものがどんなに存続し自存しようとする衝動をもっていようと、そうである。これらのものは有機体における胃のようなもので、胃も自分だけの独立の位置を占めてはいるが、しかしそれと同時に揚棄され犠牲にされ、全体に融合されるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック、305-306頁

この表現は時代性のなせるわざだろうか? 私はヘーゲルの内的な論理から必然的に導き出される本質的な帰結だと思っている。ヘーゲルの論理を突き詰めていくと、著者が依拠する無前提のモナド的世界観を超えて社会有機体論へと変質する一点が、きっとある。そしてそれはおそらく「再帰的な一」という概念そのものに埋めこまれた本質的で回避不可能な特異点であり、その「特異点」を自覚しない限り必ず同じ罠にはまる。特異点に吸い込まれて、メビウスの輪のように、表と思っていたものが知らないうちに裏に変わる。畏れなければならない。

まあいろいろ書いたけれども、あくまでも著者に対して難癖をつけているつもりはなく、私個人の研究を深めるための独り言に近い備忘録だ。なにかしらエキサイトしているように見えるとすれば、著者をやっつけようとしているのではなく、私から対自的に分離した私自身の言葉に対して、それを回収して再び「一」に戻ろうとする内的衝動が原因だ。それは私の心の動きを率直に眺めれば感得できる。それは確かに「自由」でもあるが、より本質的には「再帰的な一」であることを求める私の内なる欲望に基づいているのだ。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社選書メチエ、2011年

【読み比べ】教職課程の教科書

教育課程論の教科書

 2017年に学習指導要領が改訂され、「社会に開かれた教育課程」や「カリキュラム・マネジメント」といった用語が全面的に展開され、「教育課程」を扱う教科書は従来の在り方から抜本的に変化することを余儀なくされている。また「主体的・対話的で深い学び」という概念によって教育課程論と教育方法論が原理的に結びついたため、「教育課程」を扱う教科書でも教育方法論に触れざるを得なくなっている。さらに「指導と評価の一体化」により、「評価」に対する記述も厚くしていく必要がある。
 それぞれの教科書が新学習指導要領にどのように対応しようとしているのか、確認しておきたい。

■田中耕治・水原克敏・三石初雄・西岡加名恵『新しい時代の教育課程 第4版』有斐閣、2018年

【特徴】2005年に初版が発行され、教育課程論の理論的な背景を一通り押さえられる定番教科書の一つではあるが、学習指導要領改訂を受けた2018年第4版では大幅な書き直しが行なわれている。「第2章 現代日本の教育課程の歩み」では「特別の教科道徳」や「主体的・対話的で深い学び」に関する記述が加わった。さらに「カリキュラム・マネジメント」が新たに章立てられている。戦前戦後のカリキュラム変遷に詳しい他、研究開発学校の具体的な取り組みや諸外国の教育課程が紹介されているのも一つの特徴。
【感想】理論的にも歴史的にも、そこそこ内容は盛りだくさんで、教職課程の初学者は読みこなすのが大変かもしれない。まあ、このくらいはしっかり読んで勉強して欲しいところではある。「社会に開かれた教育課程」という今時学習指導要領の理念が本書では前面に出てきていないのは、編集方針によるところかどうか、多少気になるところではある。

■細尾萌子・田中耕治編著『新しい教職教育講座教職教育編6 教育課程・教育評価』ミネルヴァ書房、2018年

【特徴】タイトルに「教育課程」と並んで「教育評価」と銘打ってあるとおり、「指導と評価の一体化」の流れに沿って、教育評価と一体化した教育課程論を目指している。戦前の教育課程や海外動向をばっさり切り落として、カリキュラム評価や学校評価に関する記述が手厚くなっている。
【感想】やはり「社会に開かれた教育課程」という観点の記述が薄いところが気になるところではある。特別活動や総合的な学習の時間の構想について最新改訂と絡めて言及されてはいるのだが、内在的なカリキュラム論として展開されるわけではない。編集方針なのか、単に展開しにくいだけか、どうか。

■松尾知明『新版 教育課程・方法論 コンピテンシーを育てる学びのデザイン』学文社、2018年

【特徴】従来は「教育課程」と「教育方法」を一緒に扱う教科書はあまりなかったように思うのだが、今時学習指導要領改訂は「過程を重視した学び」や「指導と評価の一体化」の掛け声に象徴的なように、教育課程と教育方法を一体化した記述となっている。それを受け、本書は「教育課程=カリキュラム・マネジメント」と「教育方法=主体的・対話的で深い学び」を一体化し、「コンテンツからコンピテンシーへの転換」を意識した記述となっている。
【感想】「教育課程」と「教育方法」を一体化して扱うことで学習指導要領が目指す教育の姿の全体をカバーしてはいるのだが、キーワードを表面的になぞるだけで、教育学的な本質に触れているかどうかについては気にかかるところ。少々論理的な記述内容が薄いような気はするが、一人の著者で膨大な領域をカバーしようとするとこうならざるをえないか。

教育原理の教科書

木村元・汐見稔幸『アクティベート教育学01教育原理』ミネルヴァ書房、2020年

【特徴】西洋教育思想史の基本的事項について手堅く抑えつつも、近代教育(学校教育というシステム)の賞味期限切れという喫緊の事態に大きな危機感を抱いて、「教育」という概念そのものを根本的に捉えなおそうという意図で貫かれている。そういう意味では、教員採用試験で必要とされる知識の範囲を大きく超えているわけだが、これから教育という仕事に参入しようという人(教員に限らない)にはぜひ目を通してほしい充実した内容になっている。
【感想】さすが木村先生と汐見先生の名前が編著としてクレジットされているだけあって、基本的な知識や最新のトピックを着実に押さえながらも、読者に本質的な思考を促すような挑発的な仕掛けにも満ちている。教育原理の教科書は、「教育原理」と名乗るからにはこうありたいものだ。

■佐々木司・熊井将太編著『やさしく学ぶ教育原理』ミネルヴァ書房、2018年

【特徴】平易な言葉で、分かりやすく書かれている。養護教諭課程でも使用されることを想定しており、教育の他に「看護」に関する記述が厚い。「働き方改革」や人工知能など最新トピックにも言及されている他、批判的思考を養うための配慮もされている。
【感想】平易なぶん密度は薄めになっているが、本質的なところを外しているわけではなく、コンパクトに要点がまとまっているように思う。誤字・脱字等も見当たらず、丁寧に作られているような印象を持った。初学者には入りやすいのではないか。とはいえ、教員採用試験に対応しようと思ったら、もうちょっと密度が高い知識が必要になってくるだろうとは思ってしまう。ここを入口にして、教育課程論や教師論等の詳細に入って行くと良いのかなと思う。

■寺下明『教育原理 第2版』ミネルヴァ書房、2012年

【特徴】典型的な教科書とは趣が異なって、全編が著者の言葉で語られている。トピックの解説に終始せず、著者の教育学的観点(人間の学としての教育学)が全面に打ち出されており、教科書的な読み方を超えて、読み物としても面白く読めると思う。ただしそのぶん、個々の人名や語句に対する解説は省かれており、引用のスタイルも学術的で、初歩的な知識を習得し終えている中級者向けか。
【感想】教育人間学に関するトピックでは原典を直接参照しており、手厚くて面白く読めるが、その一方で日本や東洋の教育に関する記述(たとえば儒教)には二次的な引用が多く、多少食い足りない感じはする。一人でオールレンジをカバーする教科書を執筆するのは大変である。
とはいうものの、読み物として体系的にまとまっていて面白いので、初歩的な人名や語句を覚えたばかりの学部生に読ませて総合的な概念の定着を図るためには優れた本じゃないだろうか。ありそうで実はあまりないタイプの本のような気がする。

教育制度・教育法・教育行政の教科書

 2006年の教育基本法改訂以後、教育委員会制度の改正や教育機会確保法制定、義務教育学校の登場、教員養成制度改革などなど、教育制度はめまぐるしく変化している。教育制度・教育法・教育行政に関わる教科書は、最新のものでないと用をなさないようになっている。5年前のものは、もう古い。

■川口洋誉・古里貴士・中山弘之『新版 未来を創る教育制度論』北樹出版、新版2020年

【特徴】「子どもの学習権を保障する」というコンセプトで中心的となる柱をがっちりと固めつつ、教育制度に関わる領域を満遍なく網羅していて、全体的な統一度・完成度が高い。コラム等で具体的な判例や実践例が数多く紹介されており、説得力も高い。
【感想】筋が一本通っていて、とても読みやすく、分かりやすい。好感度が高い。単なる知識ではなく、自分なりに物事を考えるための「観点」を得ることに意味がある。「子どもの学習権」という観点を身につけると、教育に関する様々な事象の問題がクリアに見通せるようになる。

河野和清『現代教育の制度と行政(改訂版)』福村出版、2017年

【特徴】一歩引いたような地点から、教育制度・行政を概観するようなスタイル。タイトルに「現代」とついているように、ポスト近代の流れを意識したような構成になっている。そのせいで「未完の近代プロジェクト」としての「子どもの学習権」は前面に打ち出されない。ここは好き嫌いが分かれるところなのだろう。
【感想】「理念」としての教育制度・行政を考えるのではなく、現実問題としての教育制度・行政をまず知るという点では良いのかもしれない。特に臨時教育審議会以後の教育制度改革について記述が厚かったように思った。

教育方法の教科書

 2017年度版学習指導要領に登場した「主体的・対話的で深い学び」という言葉によって、それ以前の教科書は基本的に用なしになっている。さらにGIGAスクール構想や令和の日本型学校教育によって、いま出回っている教科書もすぐに役立たずになってしまいそうだ。

■稲垣忠編著『教育の方法と技術Ver.2 IDとICTでつくる主体的・対話的で深い学び』北大路書房、2022年

【特徴】「主体的・対話的で深い学び」を実現するための具体的な方法が、豊富な理論を背景に説明されていて、実践に活用できるように思わせる説得力がある。またGIGAスクール構想や令和の日本型学校教育の方針も視野に入っていて、ICTを活用した個別最適化についても配慮している。
【感想】子ども主体の方法が貫かれていて、ひと世代前の「教育方法論」とはずいぶん雰囲気が異なるような印象を受けた。

教育史の教科書

■片桐芳雄・木村元編著/木村政伸・橋本美保・高木雅史・清水康幸著『教育から見る日本の社会と歴史』八千代出版、第二刷2017年

【特徴】日本教育史の通史。古代から現代まで過不足なく網羅している。当代一流の執筆陣で、安心して読める。第二刷で、最新の状況にも対応している。
【感想】単なる固有名詞の羅列ではなく、歴史の原則を踏まえた説明がしっかりしている。そのぶん、単に教員採用試験合格を目指すレベルの層には難しいかもしれないが、これくらいは読みこなしてもらいたいところ。

【要約と感想】広岡義之『教育の本質とは何か』

【要約】教育とは、代替不可能な人格同士が出会い、お互いに自分自身の生き方や在り方を変容させて自己実現に向かう、一回限りの繰り返し不可能な出来事です。

【感想】まあ、「社会に開かれた教育課程」とか「カリキュラム・マネジメント」といった文書の束を浴び続ける日常の中、たまにこういう本に触れると、ささくれ立っていた心が本当に和む。本書は、ボルノー、ブーバー、フランクル、林竹二、森有正といった面々の思想を解説しながら、教育とは単なる知識の詰め込みに関わる技術ではなく、人格と直接関わり合う実存的で臨床的な営みであることを説いていく。OECDのキー・コンピテンシーや今時学習指導要領の「資質・能力」など、普遍的な能力を育成するのが教育の役割だと断定して憚らない主張が跋扈する世界的な趨勢の中、こういう代替不可能な一回性の「出来事」としての教育を前面に打ち出す主張を見ると、とてもホッとする。とはいえ、教科書として使用すると、amazonレビューに代表的に見られる酷評を喰らうことになるらしい。彼らの間には一回限りの出会いは発生しなかったようだ。世知辛い世の中ではあるが、それもまた教育の姿だと本書にも書いてあるのだった。

広岡義之『教育の本質とは何か-先人に学ぶ「教えと学び」』ミネルヴァ書房、2014年