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【道徳教育の基礎】道徳教育の目的

 法律や『学習指導要領』に示された、学校で行なわれる道徳教育の目的について確認します。人生における道徳教育の目的については、触れません。

目的の階層

 道徳の目的には、階層があります。
 教育基本法→学校教育法→学校教育法施行規則→『学習指導要領』総則→『学習指導要領』特別の教科道徳、という順番に構造化されていることを踏まえましょう。

教育基本法

 「教育基本法」第一条は、以下の通りです。

 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 教育基本法に則って行なわれる学校教育は、もちろんこの第一条の目的規定に従わなくてはなりません。
 ここで注目すべきことは、教育の目的が「知識や技術の獲得」とはされていないということです。もちろん「偏差値を上げる」というようなことは一言も書いてありません。目的は「人格の完成」を目指すことなのです。
 しかし難しいのは、「人格の完成」とはいったいどういう状態を指しているのかが、よく分からないということです。またあるいは、「人格」とは何かということ自体が、よく分からなかったりします。「人格とは何か?」については、別の記事にまとめてありますので、そちらをご参照下さい。→「人格とは何か?

学校教育法

 さて、教育の目的が「人格の完成」としても、学校教育の目的はさらに限定して考える必要があります。というのは、教育を行なうのは学校だけではなく、家庭や地域も役割を担っているからです。人格を完成するのは、家庭や地域や学校が全体として目指すものです。その中で、学校は学校にしか果たせない役割を積極的に担っていくべきでしょう。
 この学校の役割は、「学校教育法」に記されています。小学校の目標は第21条に、中学校の目標は第46条に示されています。そして「第21条の一」が、道徳教育の規定に当たるかと思われます。

第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
(以下略)

 ここで注目すべきことは、まだ「道徳」という言葉が登場していないことです。「自主」とか「自律」とか「規範意識」というような言葉によって「人格の完成」の具体的な方向性が示されていることを読み取るところです。

学校教育法施行規則

 「道徳」という言葉が登場するのは、このレベルです。小学校に設けられるべき教科が第50条、中学校に設けられるべき教科が第72条に示されています。

第五十条 小学校の教育課程は、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭及び体育の各教科(以下この節において「各教科」という。)、道徳、外国語活動、総合的な学習の時間並びに特別活動によつて編成するものとする。
2 私立の小学校の教育課程を編成する場合は、前項の規定にかかわらず、宗教を加えることができる。この場合においては、宗教をもつて前項の道徳に代えることができる

 法律で定められている以上、法律に従って運営される学校(いわゆる一条校)においては、必ず道徳(あるいは宗教)を開設しなければなりません。年間授業時数の基準も施行規則に示されており、年間35単位時間は行なうこととされています。

『学習指導要領』総則

 ここまでの法令を踏まえて、『学習指導要領』にはさらに細かく目標が示されています。まず「総則」には以下のように記されています。

 道徳教育や体験活動、多様な表現や鑑賞の活動等を通して、豊かな心や創造性の涵養を目指した教育の充実に努めること。
 学校における道徳教育は、特別の教科である道徳(以下「道徳科」という。)を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり、道徳科はもとより、各教科、総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて、生徒の発達の段階を考慮して、適切な指導を行うこと。
 道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、自己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とすること。
 道徳教育を進めるに当たっては、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、公共の精神を尊び、社会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人の育成に資することとなるよう特に留意すること。(3頁)

 ここで真っ先に注目すべきことは、道徳教育が「学校の教育活動全体を通じて行なう」とされていることです。道徳教育というと、週に一回だけ行なわれる「道徳の時間」の活動のことだと勘違いしやすいのですが、学習指導要領にはそう書いてありません。学習指導要領によれば、「学校の教育活動全体」が道徳教育と関係してきます。つまり、朝の会も、国語の時間も、給食の時間も、掃除の時間も、部活動も、すべて道徳教育と関わりがあるということです。理科の先生は理科だけ教えていればいいのではなく、実は理科を通じて道徳も教えなければならない、と要求しているわけです。
 では、どうしてわざわざ週一回の「道徳の時間」があるのかというと、「要」として期待されているからです。この「要」とはどういうことかについては、改めて考えます。

『学習指導要領』特別の教科 道徳

 週に一回ある「道徳の時間」の目標は、『学習指導要領』に示されています。

第1章総則の第1の2の⑵に示す道徳教育の目標に基づき、よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を広い視野から多面的・多角的に考え、人間としての生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる。

 この記述を理解するポイントは2つです。まずは「総則」に示された道徳教育の目標に基づいているという視点です。次に、いわゆる「学力の三要素」に基づいて目標が示されている点です。学力の三要素とは、(1)基礎的基本的な知識(2)活用力(3)関心・意欲・態度です。この学力の三要素に基づいて、まず(1)道徳的諸価値について基礎的基本的な知識を得て、(2)それを活用して自己や物事について考え、(3)道徳的な意欲と態度を育てる、ということです。

【道徳教育の基礎】道徳教育は可能か?

道徳教育の可能性

 道徳教育が可能かどうかについては、3段階の水準で考える必要があるでしょう。
(1)道徳に正解はあるのか?
(2)道徳を教えることはできるか?
(3)仮に道徳を教えられるとして、「学校」で教えることは適切かどうか?

(1)道徳に正解はあるのか?

 「道徳に正解はあるのか?」という問いに対する答えは、3通りです。
(1)ある
(2)ない
(3)わからない

(2)道徳を教えることはできるか?

 (1)の答えによって、(2)への回答も変わってきます。もしも「道徳に正解がある」のであれば、算数で正解を教えるように、道徳の正解を教えることが可能です。そう考える立場を、「徳目主義」と呼びます。世の中には絶対に正しい「徳目」があって、それを教えることによって道徳が身につくという、単純な考え方です。
 しかし容易に想像される通り、「何が正しいことか」を知識として知っていたとしても、それに従って行動できるかどうかは、まったく別のことです。「徳目」を「知識」として脳味噌に刻み込んだだけで、はたして本当に「道徳を教えた」と言えるのでしょうか? 行動にまで影響を与えることは、可能でしょうか?

 では、「(2)道徳に正解がない」ような場合はどうでしょうか。難しい言葉では、道徳には正解がないという考え方を「相対主義」と呼びます。さて、正解がないのだから教えられそうもないように思えますが、実は必ずしもそうではありません。確かに算数で正解を教えるようにはいきませんが、別の方法はあるでしょう。具体的には、「メタ視点に立つ」という方法を身につけることの意義が研究されています。
 たとえ道徳には一つの答えがなく、様々な立場の人々が様々な道徳的基準を持っているにしても、どうして様々な立場が様々な考え方をしているかという「理由」や「根拠」については、論理的に考えることができます。そして表面的な道徳は異なっていても、実は「理由」や「根拠」のレベルでは同じことを考えていることを発見できたりします。「理由」や「根拠」を論理的に考えることは、様々な知識を得て、考え方のトレーニングを積めば、可能になります。こうやって「知識」を得たり、「思考法」を身につけることを「教育」と呼ぶのであれば、道徳を教えることはできる、ということになります。
 つまり、表面的な「徳目」のレベルで道徳について考えるのではなく、そこから一つ上のレベル(理由や根拠)に登って、道徳の論理を考えようということです。この「一つ上のレベルに登る」ことを「メタ視点に立つ」と言います。

 それでは「(3)わからない」という場合は、さすがに教育を諦めなければならないでしょうか。実は、2400年前にソクラテスという賢者が行なっていた「道徳教育」は、「道徳の正解は分からないということを分かろう=無知の知」というところからスタートします。そして単なる知識の問題ではなく、行動そのものの変化まで、話が広がっていきます。
 ソクラテスの教育の中身については、別の記事をご参照下さい。(※「ソクラテスの教育―魂の世話―」)

(3)仮に道徳を教えられるとして、「学校」で教えることは適切かどうか?

 仮に道徳を教えることが可能としても、たとえばそれは「家庭」や「宗教施設(教会やお寺など)」で行なわれるべきものであって、「学校」では敢えて行なうべきではないと考える場合があります。さて、家庭や宗教施設ではなく、「学校」で道徳を教えることは良いことなのでしょうか?
 この問いに答えるためには、そもそも「学校」とはどういう施設かということが明らかになっていなければなりません。たとえば、もし仮に「学校は知識を教えるところ」だということになれば、「知識ではない道徳」を教えてはダメだということになるかもしれません。実際に、大半の「塾」では道徳は教えられていません。塾に期待されているのは「知識」を増やして「偏差値」を上げることだからです。(ちなみに道徳が「知識」であるかどうかは、(1)の答えによって変わりますので、ご注意下さい)
 逆に、現実の「学校」において実際に「道徳」が教えられているということは、「学校は知識を教えるところ」ではないということになります。学校が「知識を教えるところ」ではないとすれば、どういうところなのでしょうか?
 この問題は次の「道徳教育は必要か?」で詳しく考えていきましょう。

【道徳教育の基礎】道徳教育は必要か?

道徳教育の必要性

 道徳教育が必要かどうかについては、形式的な理由と実質的な理由と、2つの方面から考える必要があります。

形式的な理由

 道徳教育は、必要です。なぜなら「学校教育法施行規則」と『学習指導要領』によって、学校で必ず行なうべきものだと定められているからです。法律で決められているので、逆らえません。

実質的な理由

 本質的に考えてみましょう。手がかりは、「教育」という日本語を英語に翻訳したときに見えてきます。
 「教育」という日本語は、2つの英語に翻訳できます。
(1)instruction
(2)education
 この2つの英語は、日本語に訳すと両方とも「教育」となりますが、言いたい内容はかなり異なっています。極めて大雑把に違いを整理すると、
(1)instruction=知識や技術を教える
(2)education=人格を形成する
 ということになります。道徳教育は「人格を形成する」ための基盤となりますので、educationの概念の方に含まれるでしょう。

江戸時代の教育はinstructionだったか?

 現代日本の教育の大半はinstructionです。学校では、人格を形成するかどうかに関係なく、大量の知識を叩きこまれます。というのも、近代産業社会においては、大量の科学的知識が必要となるからです。近代産業社会を維持発展していくには、大量の科学的知識を効率よく叩きこむような施設が必要となり、学校はその期待に応えるための役割を着実に果たしているわけです。
 しかし逆に言えば、近代産業社会でなければ、それほど大量の科学的知識は必要となりません。現代の感覚からすれば、昔の学校も今と同じように知識や技術を教えていたものだと勘違いしがちです。しかし実際に行なわれていたのは、もちろん今の学校のような知識を教えること=instructionではありません。むしろeducationのほうが本流でした。(ちなみにinstructionの役割を担っていたのは、学校という施設ではなく、徒弟制や丁稚奉公など実際の仕事の場でした)。
 たとえば、江戸時代の藩校で行なわれていたのは、人物の養成、つまり道徳教育=educationです。知識の伝授=instructionではありません。藩校で学ばれていた「儒教」は、単に物事を知っているかどうかが重要ではなく、立派な人物(儒教では「聖人」と言います)になれるかどうかが決定的に重要でした。(ちなみに庶民が通った「寺子屋」の役割に関しては、また別の議論(リテラシーの興隆)が必要となります)。
 この事情は、日本以外でもほぼ同じです。大量の科学的知識が必要となる近代産業社会以前においては、そんなに大慌てでinstructionを行なう必要がそもそもありません。学校という施設も必要となりません。教会付設学校など宗教が絡む施設では、もちろんinstructionが期待されているわけではありません。教育=educationとは、そもそも「道徳教育」だったのです。いま近代産業社会に生きる我々がイメージする「知識教育=instruction」と、かつて宗教的社会に生きた人々の「道徳教育=education」は、同じ「教育」という言葉で呼ぶことを躊躇したほうがよいくらいに、発想が根本から異なっているわけです。

教育の「教」は、宗教の「教」

 そういう事情は、教育の「教」という漢字にも刻印されています。教育の「教」という漢字が、宗教の「教」であることには、しっかり注意しておくのがよいでしょう。
さて、「教」という漢字は、古代中国の甲骨文字では以下のような形をしています。

 この形は学者によって様々に解釈されています。が、いまのところ、「×」と「卜」は「占いの結果」を意味していることで間違いないと考えられています。大雑把に言えば、「教」とは、「占いによって神様の意志を知り、それを人々に伝えている図」から発展してきた漢字です。
 この図で行なわれていることは、もちろん科学的知識の客観的な伝授などではありません。「何が正しいか」が神様のお告げによって示され、人々を従わせている様子が描かれています。まさに「宗教」の「教」なわけです。そして「教育」の「教」の本来の意味でもあります。客観的な科学的知識を伝えるのではなく、「この世界で正しいことは何かということを、神の威光を背景に伝える」のが「教」という漢字が持っていた意味です。つまり、道徳教育です。
 ちなみに「学」という漢字は、古代中国の甲骨文字では次のような形をしていました。

 占いの結果である「×」の形が、ここにもはっきり確認できます。「×」を両方の手のひらで包んでいるような形に見えます。学者によって様々に解釈されていますが、占いをしている最中の絵であることは確かなようです。どうやら「学」とは、そもそも「神様の声を聞くための作業」に、大いに関係があるようです。

道徳教育は必要か?ふたたび

 いま、道徳教育は必要ないと考えている人が一部にいます。教育というものをinstruction=科学的知識の客観的な伝授と理解すれば、確かに道徳教育は異物となりそうです。
 しかし教育をeducationと考えると、話はそう簡単ではなさそうだということが分かります。近代産業社会の発展に伴って必要とされたinstructionだけやっていった場合、近代産業社会そのものが変質したときに対応できるのかどうか、考える必要があるでしょう。instructionでは対応できない世の中になっていると人々が思い始めたとき、「知育偏重」の掛け声の下、education=道徳教育が浮上してくることになります。そして教育の「教」が宗教の「教」であったように、必ず「神」も一緒に浮上してくることには、注目しておくのがいいでしょう。
 さて、道徳教育は必要でしょうか? あるいはinstructionだけで問題ないでしょうか? または、instructionでもeducationでもない、第三の道があるでしょうか?

【要約と感想】森口朗『誰が「道徳」を殺すのか』

【要約】グローバル化が進み、日本国内でも貧富の差が拡大することは避けられません。格差を受け容れましょう。他の国ならクーデターが起こりそうなものですが、日本では発生しません。なぜなら道徳教育がしっかりしているからです。貧富の差が拡大しても国民がおとなしくしてくれるよう、道徳教育をすすめましょう。

【感想】まあ、道徳教育を推進しようとしている人の本音がどのあたりにあるか、とても分かりやすくしてくれたという意味において、意義のある本なのかもしれない。

【ツッコミ】
本書は独断と偏見と思い込みと勘違いの塊で成り立っていて、全体的にツッコミどころは多いのではあるが、さしあたって左右問わず多くの人に役に立つかもしれない指摘を、専門家の立場からしておいてもいいのかなと思う。

本書は以下のように主張しているが、完全な事実誤認である。

「もちろん、教育勅語が愛国心を否定する反日的なものであるはずもなく、国民に愛国心があることが前提となっていたのでしょう。」(94頁)

デタラメである。教育勅語には、愛国心は一切書かれていない。そもそも当時の国民の大半に、愛国心は確認できない。というか、もともと教育勅語は「国民」を想定していない。教育勅語は一貫して「国民」ではなく「臣民」と言っているではないか。臣民は愛国心など持たないし、持つ必要もない。臣民に必要なのは「忠誠心」である。だから、正確に言いたいなら、「国民に愛国心がある」ではなく「臣民に忠誠心がある」と言わなければならないところだ。

まず教育勅語を作成した中心人物は、元田永孚と井上毅である。儒教主義者の元田は、そもそも近代国家の何たるかを一切理解していないし、理解する気もない。元田がイメージしているのは、儒教が理想とする古代中国の国家である。古代中国には、もちろん「愛国心」という概念など微塵もない。あるのは、「忠君」である。教育勅語を貫くのは、近代的な「愛国」概念ではなく、儒教的な「忠君」概念である。
そしてその場合、もちろん国家を構成するのは「国民」ではない。想定しているのは、君主に忠誠を誓う「臣民」である。元田が想定しているのは、国家を構成する国民を育成することではなく、君主に忠誠を誓う臣民を育成することである。愛国心のために君主を裏切るなどということがあっては、いけないのである。実はこの時点で「愛国」を謳っていたのは、むしろ反政府運動の側であった。高校生でも知っていることだが、「愛国公党」や「愛国社」を名乗ったのは、薩長政権に反対した自由民権運動の側であった。愛国を旗印に掲げたのは、明らかに反政府側であった。もちろん元田はその愛国的な自由民権運動を憎々しく思っている。元田の儒教主義にとって、愛国心は必要ないどころか、有害な概念である。
著者はこのあたりの勉強をどうやらまったく疎かにしているらしいが、こういう基本事項を知らずに教育勅語について語るのは、教育勅語の歴史的意義を分からなくさせるだけの迷惑行為なので、ぜひ自己抑制していただきたいところだ。

続いて井上毅だが、彼は大日本帝国憲法に関わった法制官僚だけあって、近代的な考えをしっかり持っていた。教育勅語に憲法や法律に関する記述が含まれるのは、井上の功績と言える。元田一人では、逆立ちしても出てこない文章である。
とはいえ、この時点で井上毅も「愛国心」という概念を理解していなかった。というか、ほぼすべての日本人が「愛国心」という概念を分かっていなかった。保守派が近代的な「愛国心」を理解するのは明治19年の西村茂樹「日本道徳論」あたりからであって、勅語渙発の明治23年段階では日本全国に広がっていなかったのである。井上も御多分に漏れない。
実は「愛国心」が表面に出て来ているのは、教育勅語ではなく、むしろ同年に出された「第二次小学校令」の中にある「国民教育」の規定である。明治19年の小学校令(森有礼によるもの)と明治23年の小学校令を比較すれば、この間に「愛国心」が広がっていった様子が伺える。文部官僚が作成した近代的な「第二次小学校令」には「愛国心」が表現され、儒教主義者が作成した儒教的な「教育勅語」には「愛国心」ではなく「忠誠心」が表現されているのである。
井上毅が「愛国心」を根本的に理解するのは、シュタインの国家学論理に触れてからである。周知の通り、伊藤博文が欧州憲法調査の際に、もっとも頼りにした学者がシュタインである。その後、明治20年前後に、若手官僚や学者のシュタイン詣でが盛んに行なわれた。そこで初めて日本人は「ナショナリズム」の意味と効果を理解することになる。「ナショナリズム」とは、徹底的に近代的な論理なのである。
井上が直接シュタインと会うことはないものの、書籍を通じてシュタインの国語論に触れ、感激したことが、史料に残されている。教育勅語渙発の時点では、「愛国心」について本質的に理解していなかったと考えられる所以である。

このあたり、近代的な概念である「愛国心」や「ナショナリズム」というものがなかなか日本に根付かなかったことについては、私が学術論文で論証を試みているところである。著者の思い込みと勘違いを正す参考になれば、幸いである。
「明治初期における伝統の保守-国民教育の背景」
「明治10年代の美術における国粋主義の検討」

森口朗『誰が「道徳」を殺すのか―徹底検証「特別の教科 道徳」』新潮新書、2018年

【紹介と感想】荒木紀幸『新モラルジレンマ教材と授業展開 考える道徳を創る(中学校)』

【紹介】新学習指導要領は「考え、議論する道徳」というキーワードを打ち出していますが、道徳の教科書は相変わらず特定の徳目を一方的に上から注入するような旧態依然のクローズエンド型教材に終始していて、これでは子供の道徳的判断力が育つわけがありません。本当に「考える道徳」を創るためには、教師や教科書が一方的にあらかじめ決まった答えを教えるのではなく、オープンエンド型の教材を使用し、子供たちが主体的に道徳的判断力を鍛えるような授業を行なうべきです。
本書は実際に中学校の道徳の授業で使用できるオープンエンド型の教材を多数用意し、授業の狙いや展開、板書の仕方、教材の特徴や注意点等を添え、「考える道徳」を創るためのヒントを提供しています。

【感想】これまで時間をかけて着実に積み重ねてきた実践経験を土台にしている上に、コールバーグの道徳性発達理論を背景にして議論を組み立てているため、論理的にも実践的にも説得力が高い。昨今の「道徳の教科化」によって、こういった説得力のある道徳的判断力養成のモラルジレンマ実践が増えるのか、それとも旧態依然の徳目注入主義が跋扈するのか、あるいは面倒臭い道徳教育を忌避する傾向が続くのか、実態を注目していかなくてはならない。

荒木紀幸編著『考える道徳を創る 中学校 新モラルジレンマ教材と授業展開』明治図書、2017年