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主体的・対話的で深い学びとは―アクティブラーニングを超えて―

簡単にまとめれば

テストのための勉強はくだらないので、ホンモノの力をつけてください、ということ。

そのために押さえるべきポイントは、
(1)従来の「アクティブ・ラーニング」には、勘違いが多かった。
(2)これからは「深い学び」を前面に打ち出す。
の2点です。

アクティブだけではダメ

これまで「アクティブ・ラーニング」と呼ばれていたものが、今回の学習指導要領からは「主体的・対話的で深い学び」と呼び直されています。単に言葉が変わっただけでなく、内容も大きく変わりました。「アクティブ・ラーニング」というと、とにかく子供を活動させればいいかのように勘違いしがちでした。しかしこれからの「主体的・対話的で深い学び」では、子供が活動するかしないかに関わらず、「深い学び」が実現できているかどうかが決定的に重要になります。そしてもちろん「深い学び」を実現するために子供の主体的・対話的な活動が有効であることに変わりはありませんが、逆に言えば単に主体的・対話的な活動をするだけでは充分ではありません。
そんなわけで、ポイントは「深い学び」の理解にあります。文部科学省がどう言っているか、学習指導要領を読みながら確認していきましょう。

学習指導要領の記述

まず『学習指導要領』総則「第3の1」には、以下のような文章が示されています。

第3 教育課程の実施と学習評価
1 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善
各教科等の指導に当たっては、次の事項に配慮するものとする。
(1) 第1の3の(1)から(3)までに示すことが偏りなく実現されるよう、単元や題材など内容や時間のまとまりを見通しながら、生徒の主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を行うこと。
特に、各教科等において身に付けた知識及び技能を活用したり、思考力、判断力、表現力等学びに向かう力人間性等を発揮させたりして、学習の対象となる物事を捉え思考することにより、各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方(以下「見方・考え方」という。)が鍛えられていくことに留意し、生徒が各教科等の特質に応じた見方・考え方を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう過程を重視した学習の充実を図ること。(7-8頁)

この記述の中で最大限に注意したいのは、「深い学び」という概念を理解する上で「見方・考え方」という言葉が重要な位置づけを持たされていることです。この教科に特有の「見方・考え方」をしっかり理解しているかどうかが、「深い学び」を実現する上で決定的な鍵を握っています。(ちなみに各教科に固有の「見方・考え方」については、『学習指導要領』の各教科ごとの目標に示されています。)

アクティブ・ラーニングとの違い

「見方・考え方」が重要だということを踏まえた上で、具体的にどうするべきか、『学習指導要領解説』を見ながら確認していきましょう。

学習指導要領解説 総則編の記述

『学習指導要領解説 総則編』では、今時改訂の基本方針について、以下のように示し、授業改善の方向について具体的に示唆しています。文部科学省が学校や教師に具体的に何を求めているかが分かります。特に従来の「アクティブ・ラーニング」との違いについて意識しながら読んでいきましょう。

今回の改訂では「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進める際の指導上の配慮事項を総則に記載するとともに、各教科等の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」において、単元や題材など内容や時間のまとまりを見通して、その中で育む資質・能力の育成に向けて、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進めることを示した。
その際、以下の6点に留意して取り組むことが重要である。
ア 児童生徒に求められる資質・能力を育成することを目指した授業改善の取組は、既に小・中学校を中心に多くの実践が積み重ねられており、特に義務教育段階はこれまで地道に取り組まれ蓄積されてきた実践を否定し、全く異なる指導方法を導入しなければならないと捉える必要はないこと。
イ 授業の方法や技術の改善のみを意図するものではなく、児童生徒に目指す資質・能力を育むために「主体的な学び」、「対話的な学び」、「深い学び」の視点で、授業改善を進めるものであること。
ウ 各教科等において通常行われている学習活動(言語活動、観察・実験、問題解決的な学習など)の質を向上させることを主眼とするものであること。
エ 1回1回の授業で全ての学びが実現されるものではなく、単元や題材など内容や時間のまとまりの中で、学習を見通し振り返る場面をどこに設定するか、グループなどで対話する場面をどこに設定するか、児童生徒が考える場面と教師が教える場面をどのように組み立てるかを考え、実現を図っていくものであること。
オ 深い学びの鍵として「見方・考え方」を働かせることが重要になること。各教科等の「見方・考え方」は、「どのような視点で物事を捉え、どのような考え方で思考していくのか」というその教科等ならではの物事を捉える視点や考え方である。各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり、教科等の学習と社会をつなぐものであることから、児童生徒が学習や人生において「見方・考え方」を自在に働かせることができるようにすることにこそ、教師の専門性が発揮されることが求められること。
カ 基礎的・基本的な知識及び技能の習得に課題がある場合には、その確実な習得を図ることを重視すること。(4頁)

まずこの一連の記述に、これまでの「アクティブ・ラーニング」に関わって現場で発生した混乱に対する反省と配慮が見られることに注目しましょう。たとえば「ア」で示された「全く異なる指導方法を導入しなければならないと捉える必要はない」という文言は、「アクティブ・ラーニング」という表面上の言葉に右往左往した教育現場に対して釘を刺した強い表現です。「イ」で示された「授業の方法や技術の改善のみを意図するものではなく」という文言も、文部科学省の意図を読み誤って表面的な理解をしがちな教育現場に対する強い表現です。現場が本質的なところに目を向けずに表面的なところばかりにこだわっているという苛立ちすら伺えます。「エ」は、生徒を活動させるような授業を毎度毎度やらなければいけないという誤解に対して釘を刺したものです。生徒が主体的に活動する機会は長い目で単元を見て適切に設定すればいいのであって、毎回必須なわけではありません。「カ」に関しては、80頁でも「例えば高度な社会課題の解決だけを目指したり、そのための討論や対話といった学習活動を行ったりすることのみが主体的・対話的で深い学びではない点に留意が必要」というように釘を刺しています。

まとめると、子供の動きさえアクティブであればいいという姿勢は、物事の本質を捉えていなかったようです。

それでは文部科学省の本来の意図はどこに示されているかというと、中核の部分は「オ」の記述にあります。「見方・考え方」という概念の理解が、主体的・対話的で深い学びを考える最重要ポイントになるという記述です。「教科等の学習と社会をつなぐ」という言葉に見えるとおり、それは「社会に開かれた教育課程」を成功させるポイントでもあるし、したがって「カリキュラム・マネジメント」を実現する要点でもあるわけです。つまり、今回の学習指導要領において決定的に重要なポイントです。

「深い学び」とは何か?

続いて『学習指導要領解説』は、「主体的」「対話的」「深い学び」がそれぞれ具体的にどのようなものかについて、以下のように示しています。

主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善の具体的な内容については、中央教育審議会答申において、以下の三つの視点に立った授業改善を行うことが示されている。教科等の特質を踏まえ、具体的な学習内容や生徒の状況等に応じて、これらの視点の具体的な内容を手掛かりに、質の高い学びを実現し、学習内容を深く理解し、資質・能力を身に付け、生涯にわたって能動的(アクティブ)に学び続けるようにすることが求められている。
① 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しをもって粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているかという視点。
② 子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているかという視点。
③ 習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているかという視点。(77頁)

ここで示された内容のうち、(1)の主体的な学びと(2)の対話的な学びについては、これまでの学習指導要領や「アクティブ・ラーニング」という言葉でも示されてきた内容と言えます。決定的に目新しい部分はありません。目新しいのは、(3)の「深い学び」に関する記述です。実際に「解説総則編」においても、「深い学び」に関する記述が手厚くなっています。たとえば以下の通りです。

主体的・対話的で深い学びの実現を目指して授業改善を進めるに当たり、特に「深い学び」の視点に関して、各教科等の学びの深まりの鍵となるのが「見方・考え方」である。各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方である「見方・考え方」は、新しい知識及び技能を既にもっている知識及び技能と結び付けながら社会の中で生きて働くものとして習得したり、思考力、判断力、表現力等を豊かなものとしたり、社会や世界にどのように関わるかの視座を形成したりするために重要なものであり、習得・活用・探究という学びの過程の中で働かせることを通じて、より質の高い深い学びにつなげることが重要である。(77-78頁)

「見方・考え方」とは、単に「物事」を知るだけでなく、「物事を捉える視点や考え方」を働かせることを強調する言葉です。テストで結果として正解を書けることが重要なのではなく、学びの過程を経ることによって、生活や世界の見え方が変化し、生活の仕方や世界への関わり方が変化するような効果が期待されています。この期待が学習指導要領本文では「過程を重視した学習の充実」という表現となっています。逆に言えば、過程ではなく結果を重視するような学習、要するにテストだけできればよいという姿勢は、浅い学びということになります。カリキュラム・マネジメントのCHECK指標に「全国学力・学習状況調査」の点数を安易に用いるのが危険なのは、過程ではなく結果を重視する浅い学びを助長する恐れがあるからですね。
さらに、この記述の中に「社会の中で生きて働くもの」とか「社会や世界にどのように関わるかの視座を形成したりする」という表現があるように、「深い学び」は「社会に開かれた教育課程」の理念を実現する上で決定的に重要な役割を果たします。どれだけスクール・マネジメントをしたり制度改革をしたりしても、最終的に授業の中で子供を成長させることができなければ何の意味もありません。「社会に開かれた教育課程」という理念を一人ひとりの子供の成長に落とし込むのは、最終的には「深い学び」の働きとなります。
そして「深い学び」を実現させるために、各教員は教科特有の「見方・考え方」について真剣に考える必要があります。国語科には国語科特有の「見方・考え方」があり、家庭科には家庭科特有の「見方・考え方」があります。各教科それぞれに固有の「見方・考え方」があります。それぞれの教科を通じてそれぞれ固有の「見方・考え方」を身につけることが、最終的には「これからの時代に求められる資質・能力」の獲得へと結びついていくことになります。
この視点は、カリキュラム・マネジメントを考える上で決定的に重要になります。たとえばカリキュラム・マネジメントにおいて「教科等横断的な資質・能力」を育成すると言う場合、それぞれの教科がそれぞれ固有の「見方・考え方」を追求することで教科等横断的な資質・能力の育成を実現していくことが求められています。逆に言えば、とってつけたような合科教授をでっち上げる必要は特にないわけです。必要なのは、それぞれの教科に固有の「見方・考え方」の本質を追究する姿勢です。それぞれの教科が「教科の本質」を追究して、一人ひとりの子供に「見方・考え方」を身につけさせることで、「育成すべき資質・能力」が総合的に伸びていくわけです。逆に言えば、各教員が「教科の本質」を理解していないとき、カリキュラム・マネジメントは失敗に終わります。

まとめ

以上、学習指導要領と解説編の記述を踏まえながら、「主体的・対話的で深い学び」について見てきました。そして分かったことは、これは単なる表面的な技術改善などではなく、学習指導要領の理念である「社会に開かれた教育課程」や「カリキュラム・マネジメント」を実現する上での、決定的に重要な、絶対に欠くことができない、必須の条件であるということです。つまり「社会に開かれた教育課程」や「カリキュラム・マネジメント」は、管理職が構想して書類を書いて終了などという課題ではなく、一人ひとりの教員が「教科の本質」をしっかりと把握するところから積み上げていかなければ成功しないということです。従来の「アクティブ・ラーニング」という言葉では、これが伝わりません。だから、今回の学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」という言葉に変わった上で、特に「深い学び」に焦点が当たった記述になっているわけです。

参考文献

■田村学『深い学び』東洋館出版社、2018年

主体的・対話的で深い学びの中でも特に「深い学び」とはどういうことかに焦点を当てて解説を加えた本。具体的な実践例も豊富に示されていて、新学習指導要領が目指す理念を具体的な授業実践に落とし込む際には大いに参考になると思う。文科省の施策の背景や学習指導要領改訂の経緯も簡潔にまとめられていて、理論的にもわかりやすい。

■田村学著・京都市立下京中学校編『深い学びを育てる思考ツールを活用した授業実践 公立中学校版』小学館教育技術MOOK、2018年

「主体的な学び」や「対話的な学び」が比較的イメージしやすい言葉なのに対して、「深い学び」はなかなか分かりにくい。この「深い学び」を具体的な実践で実現しようとするとき、本書で示された各種の「思考ツール」が役に立つ。本書は実際の授業で様々な「思考ツール」を活用した例が紹介されており、実践面で参考になるかもしれない。

■小針誠『アクティブラーニング―学校教育の理想と現実』講談社現代新書、2018年

教育方法の歴史を明治・大正期から掘り起こし、現在のアクティブ・ラーニングの試みが実は150年前から行なわれ、なおかつ失敗続きであったことがよく分かる一冊。この失敗の歴史から教訓を得ないかぎり、21世紀もおそらく同じ失敗を繰り返すだけだろう。文科省が「アクティブ・ラーニング」という言葉の使用をやめて「深い学び」と言い出した理由も、本書と同様の見立てに由来すると思われるが、単に言葉を代えただけでは問題は本質的には解決しない。

■『新教育課程ライブラリII Vol.3 「深い学び」を深く考える』ぎょうせい、2017年

『学習指導要領』本文が公布される直前に出ているので微妙なニュアンスの違いはあるかもしれないが、従来のアクティブ・ラーニングとの違いを認識する上では間違いなく参考になる。個別具体的な実践例が豊富というより、従前のアクティブ・ラーニングと今時の「深い学び」の違いを浮き立たせたり、現場でよく見られる勘違いを修正するような、理論的な話が多い印象。共通して、子供が活動することだけが「深い学び」ではないことが強調されている。

 

カリキュラム・マネジメントとは―3つの指針と学校運営の要点―

簡単にまとめれば

学校にも民間企業の経営ノウハウを導入しましょう。PDCAサイクルを確立し、資源の有効活用を考え、校長のリーダーシップを強化して、学校や教育活動の中に経営(マネジメント)の考え方を根付かせましょう、ということ。

これだけなら特に難しくありませんが、じゃあ具体的にどうやって経営(マネジメント)しようかとなったとき、様々な問題が出てきます。学校と民間企業では様々な条件が違うのだから、とうぜん経営の仕方も変わってくるはずです。そのあたり文部科学省がどう言っているのか、学習指導要領に沿って確認していきましょう。

具体的に何をすればいいんですか?

まず大雑把に、学校や教師が何をやらなければいけないのか、確認しましょう。

カリキュラム・マネジメントの3指針

まず初めに、具体的にやるべきことが3つあることを認識しましょう。『学習指導要領』は、カリキュラム・マネジメントについて以下のように述べています。

各学校においては、生徒や学校、地域の実態を適切に把握し、教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと、教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと、教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して、教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと(以下「カリキュラム・マネジメント」という。)に努めるものとする。(4頁)

カリキュラム・マネジメントの指針が具体的に3つ示されています。まとめれば、次のようになるでしょう。

(1)教科横断的な視点で教育課程を編成する。
(2)教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する。
(3)実践を可能とする資源(人・金・物・時間・情報)を確保する。

学校に求められているのは、要するにこの3点です。
が、この3指針の詳細な検討は、後回しにします。というのは、3指針を実行する前に認識しておかなければならない重要ポイントがあるからです。

そもそも、なぜカリキュラム・マネジメントをやるのですか?

文部科学省や教育委員会に命令されたからカリキュラム・マネジメントをやるのだと思ってはいけません。むしろ、学校や校長の自由が増えたからやらなければいけないのです。
昭和の学校と比較して、現在の学校や校長の裁量権は大きく拡大しています。自治体によっては、予算や人事に対する校長の裁量権が認められ始めています。文部科学省や教育委員会に方針を決定してもらっていた時には各学校が自主的にマネジメントをする必要などありませんでした。逆に言えば、文科省や教育委員会から方針が与えられない時には、各学校が自主的・自律的にマネジメントを行なっていかなければならないわけです。
ちなみに学校の自由や裁量権が増えたというのは、1998年の中教審・教育課程審議会の答申で「教育課程の大綱化・弾力化」の方向性が示されたのと同時に、地方分権化と規制緩和の流れの中で「学校の自主性・自律性確立」への動きが強まったことを踏まえています。
【参考】コミュニティ・スクール(学校運営協議会)とは何か?

さてそういうわけで、各学校は、文部科学省や教育委員会の下請機関ではなく、自主的・自律的にマネジメントを行なう組織へと変わる必要があります。もはや上意下達の時代ではありません。学校を自主的に運営する力が、これまでになく要求されています。
そしてカリキュラム・マネジメントは、昭和的な「文部省や教育委員会の命令の枠内での学校運営」から21世紀的な「地域や子ども本位の学校運営」へと変わるための鍵を握っている概念です。

学校運営とカリキュラム・マネジメント

ということで、学校運営について、総則「第5学校運営上の留意事項」が述べていることを確認しましょう。

各学校においては、校長の方針の下に、校務分掌に基づき教職員が適切に役割を分担しつつ、相互に連携しながら、各学校の特色を生かしたカリキュラム・マネジメントを行うよう努めるものとする。また、各学校が行う学校評価については、教育課程の編成、実施、改善が教育活動や学校運営の中核となることを踏まえつつ、カリキュラム・マネジメントと関連付けながら実施するよう留意するものとする。(11頁)

ここで示されているのは、カリキュラム・マネジメントの実践が、学校運営そのものと密接な関係を持っているということです。
具体的には、まず校長にはスクール(学校)をマネジメント(運営)する強力なリーダーシップが求められていることが分かります。実際、校長の役割と位置づけが、昭和の時代とはずいぶん変わってきています。文部科学省は、校長に、教師のリーダーとしての役割ではなく経営者としての才能を求めています。
そして続いて、校長のリーダーシップの下、有機的な組織として学校が機能することが期待されています。有機的な組織として学校が機能するためには、各教職員を適切に配置して役割分担を明確にすると共に、相互の関係性を明らかにして協力体制を推進するような組織作りを進めていかなくてはなりません。カリキュラム・マネジメントを実現するためには、カリキュラムそのものを考える前に、前提として、「組織作り・学校づくり」が極めて重要な工程になるわけです。こういった校長のリーダーシップや組織作りに関する議論に、民間企業で蓄積されたマネジメントに関わる経験や理論が参照されているわけですね。
さらに学習指導要領は、「学校評価」をどう位置づけるかという課題を示しています。マネジメントとは、具体的には一連のPDCAサイクルを構築することですが、「学校評価」とは「C」(つまりCheck)にあたるものです。この「C」のあり方は、マネジメントそのものの性質を左右する極めて重要な要素です。この点も「解説」の記述を踏まえて、後に改めて確認することにしましょう。

小まとめ:具体的に何をするのか

以上、学習指導要領の記述から読み取れたことを確認しましょう。
まずカリキュラム・マネジメントとして学校に求められていることが3つありました。改めて確認すると、
(1)教科等横断的な視点で教育課程を編成する。
(2)教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する。
(3)実践を可能とする資源(人・金・物・時間・情報)を確保する。
の3点です。
ただし、この3指針を実現する前提として、スクール・マネジメント=学校運営が適切に行われている必要があります。学校運営のポイントは次の3つでした。
(1)校長のリーダーシップ。
(2)組織作り・学校づくり。
(3)学校評価。

この要点をしっかり踏まえた上で、続いて「学習指導要領解説」の記述を見ながら、さらに具体的に文部科学省の言い分を確認していきましょう。

具体的に何をするべきか、もっと細かく知る

今時改訂の趣旨との関連

『学習指導要領解説 総則編』は、カリキュラム・マネジメントに関して、以下のように今時改訂との関連について述べています。

総則については、今回の改訂の趣旨が教育課程の編成や実施に生かされるようにする観点から、①資質・能力の育成を目指す「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進める、②カリキュラム・マネジメントの充実、③生徒の発達の支援、家庭や地域との連携・協働を重視するなどの改善を行った。
(中略)
カリキュラム・マネジメントの充実
カリキュラム・マネジメントの実践により、校内研修の充実等が図られるよう、章立てを改善した。
・ 生徒の実態等を踏まえて教育の内容や時間を配分し、授業改善や必要な人的・物的資源の確保などの創意工夫を行い、組織的・計画的な教育の質的向上を図るカリキュラム・マネジメントを推進するよう改善した。(7頁)

「カリキュラム・マネジメント」が今回の改訂の目玉であることが強調されています。そしてカリキュラム・マネジメントが、校内研修の充実を意図しつつ、章立てそのものを変更するような原理として学習指導要領を貫いていることが表明されています。その章立てそのものの変更は、以下のように説明されています。

また、総則の項目立てについても、各学校におけるカリキュラム・マネジメントを円滑に進めていく観点から、教育課程の編成、実施、評価及び改善の手続を踏まえて、①中学校教育の基本と教育課程の役割(第1章総則第1)、②教育課程の編成(第1章総則第2)、③教育課程の実施と学習評価(第1章総則第3)、④生徒の発達の支援(第1章総則第4)、⑤学校運営上の留意事項(第1章第5)、⑥道徳教育に関する配慮事項(第1章総則第6)としているところである。各学校においては、こうした総則の全体像も含めて、教育課程に関する国や教育委員会の基準を踏まえ、自校の教育課程の編成、実施・評価及び改善に関する課題がどこにあるのかを明確にして教職員間で共有し改善を行うことにより学校教育の質の向上を図り、カリキュラム・マネジメントの充実に努めることが求められる。(41頁)

最優先でやるべきこと:目標の再検討

続いて、「カリキュラム・マネジメントの充実」とは具体的にどういうことか、以下のように示しています。ここでようやく各学校が具体的に何をどうするべきかが見えてきますので、丁寧に確認していきましょう。まずは学校づくりです。

ア 生徒や学校、地域の実態を適切に把握すること
教育課程は、第1章総則第1の1が示すとおり「生徒の心身の発達の段階や特性及び学校や地域の実態を十分考慮して」編成されることが必要である。各学校においては、各種調査結果やデータ等に基づき、生徒の姿や学校及び地域の現状を定期的に把握したり、保護者や地域住民の意向等を的確に把握した上で、学校の教育目標など教育課程の編成の基本となる事項を定めていくことが求められる。(41頁)

まず求められているのは「学校の教育目標」の再点検です。ここがまず極めて重要なポイントです。従来の教育目標は、ややもすれば明治時代の三育主義に由来するような「(知)かしこい子・(徳)やさしい子・(体)たくましい子」といった標語を何十年も変わらずに掲げていることがあるわけですが、文部科学省が求めているのは、これの見直しです。学校づくりは、目標の策定から始まります。
というのも、そもそもマネジメントとは、なんらかの目標を実現するために行うものです。目標が決まっていない組織でマネジメントが機能するはずがありません。マネジメントを適切に行うためには、まずは適切に目標が設定されている必要があります。そう考えたとき、明治時代の三育主義のような教育目標が本当に適切なのかどうか、極めて疑わしいわけです。そしてその目標を定めるとき、ただの思いつきとか、どこかの教育原理書から引っぱってきた先人の言葉とかではなく、しっかりと現実に基づいている必要があります。地域の実態や、目の前の子供たちの個性や持ち味に基づいている必要があります。現実に基づいて、地に足の着いた、本当に意味のある目標を設定できて、初めてマネジメントすることに意義が生じます。そしてこの目標設定の際、「保護者や地域住民の意向等を的確に把握」という言葉に見られるように、「社会に開かれた教育課程」の理念をしっかり踏まえることを、文部科学省は求めています。
ちなみに現実を踏まえた目標設定のため、文部科学省は「各種調査結果やデータ等」の活用を求めていますが、その内容として具体的には「全国学力・学習状況調査」が想定されているでしょう。「全国学力・学習状況調査」が、比較や競争のための試験ではなく、あくまでもマネジメントを適切に回すための参考資料であることは、教育に携わる者としてはしっかり認識しておきたいものです。

優先的にやるべきこと:組織の再編

続いて、カリキュラム・マネジメントを充実するための組織作り・学校づくりについて、以下のように述べています。

イ カリキュラム・マネジメントの三つの側面を通して、教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと
(中略)
組織的かつ計画的に取組を進めるためには、教育課程の編成を含めたカリキュラム・マネジメントに関わる取組を、学校の組織全体の中に明確に位置付け、具体的な組織や日程を決定していくことが重要となる。校内の組織及び各種会議の役割分担や相互関係を明確に決め、職務分担に応じて既存の組織を整備、補強したり、新たな組織を設けたりすること、また、分担作業やその調整を含めて、各作業ごとの具体的な日程を決めて取り組んでいくことが必要である。
また、カリキュラム・マネジメントを効果的に進めるためには、何を目標として教育活動の質の向上を図っていくのかを明確にすることが重要である。第1章総則第2の1に示すとおり、教育課程の編成の基本となる学校の経営方針や教育目標を明確にし、家庭や地域とも共有していくことが求められる。(41-42頁)

『学習指導要領』本文でも示されていた、スクール・マネジメントとしての組織作りについて、具体的に触れられているところです。校内組織の再編や部署の新規創出、役割分担の明確化や日程調整など、校長のリーダーシップや調整役としての管理職の役割が重要であることが分かる記述となっています。この記述だけ読むと、もはや小手先の手直しで許されるようなレベルではなさそうです。学校組織を全体的に、総合的に、根本的に、徹底的に見直すことが求められているようです。
つまり、もう既存の学校をイメージしてはダメだということです。具体的には、コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)やチーム学校といったような、これまでにはなかったような新しい学校の姿を、文科省は打ち出してきています。この新しい体制にのっとって、学校組織のありかたを根本から変えていく必要があるということになります。そして新しい学校組織は、あくまでも既に確認したような「学校目標」を実現するための組織として構想されなければなりません。ここが「経営者としての校長」の腕の見せ所となるわけです。
そして一方、各教員の意識のあり方にも変革が要求されています。各教員はマネジメントのサイクルに巻き込まれ、学級王国の王様としてではなく、「組織の一員」の自覚を持って働くことが求められていくことになるでしょう。

確実にやるべきこと:3指針の詳細

さて、目標が定まり、組織が改まって、マネジメントを遂行するための前提条件が揃いました。いよいよマネジメント遂行です。文部科学省は、マネジメントの指針として3つの柱を立てていることは既に見ました。確認すると、
(1)教科等横断的な視点で教育課程を編成する。
(2)教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する。
(3)実践を可能とする資源(人・金・物・時間・情報)を確保する。
の3点です。

(1)教科等横断的な視点

まず「解説編」は、(1)教科等横断的な視点について以下のように述べています。

(ア) 教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと
(中略)
その際、今回の改訂では、「生きる力」の育成という教育の目標が教育課程の編成により具体化され、よりよい社会と幸福な人生を切り拓くために必要な資質・能力が生徒一人一人に育まれるようにすることを目指しており、「何を学ぶか」という教育の内容を選択して組織していくことと同時に、その内容を学ぶことで生徒が「何ができるようになるか」という、育成を目指す資質・能力を指導のねらいとして明確に設定していくことが求められていることに留意が必要である。教育課程の編成に当たっては、第1章総則第2の2に示す教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成を教育課程の中で適切に位置付けていくことや、各学校において具体的な目標及び内容を定めることとなる総合的な学習の時間において教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習が行われるようにすることなど、教科等間のつながりを意識して教育課程を編成することが重要である。(42頁)

文部科学省は、カリキュラム・マネジメントを実践する大前提として、まず「育成を目指す資質・能力」を明確に設定することを求めています。「育成を目指す資質・能力」についての理解が欠けているところにカリキュラム・マネジメントはあり得ません。というのは、「育成を目指す資質・能力」とは、教育のPDCAサイクルで言えば「P」に当たる部分だからです。まず「P」が設定されていなければ、PDCAサイクルも始まりようがありません。そしてこの「育成を目指す資質・能力」は、既に前提条件として確立してあるはずの「教育目標」を踏まえれば、自ずと設定されるはずのものです。
PDCAの「P」を理解した後は、「教科等横断的な視点」に立って、総合的な学習の時間を効果的に使いながら教育課程編成をしていくことを求めています。教科横断的なカリキュラムを構成する際には、「総合的な学習の時間」こそが主役になるべきだと主張しているわけです。逆に言えば、どうやら「総合的な学習の時間」のあり方を再検討しなければ、カリキュラム・マネジメントは始まらないようです。皆さんの学校では、「総合的な学習の時間」の内容が「育成を目指す資質・能力」としっかり噛み合っているでしょうか?
「総合的な学習の時間」と「教科等横断的な視点」を具体的にどのように構想するかは別のページにまとめましたので、そちらをご参照ください。→【参考】教科等横断的な視点とは何か?

(2)PDCAサイクル

文部科学省は続けて(2)「教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する」について説明します。

(イ) 教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと
各学校においては、各種調査結果やデータ等を活用して、生徒や学校、地域の実態を定期的に把握し、そうした結果等から教育目標の実現状況や教育課程の実施状況を確認し分析して課題となる事項を見いだし、改善方針を立案して実施していくことが求められる。こうした改善については、校内の取組を通して比較的直ちに修正できるものもあれば、教育委員会の指導助言を得ながら長期的に改善を図っていくことが必要となるものもあるため、必要な体制や日程を具体化し組織的かつ計画的に取り組んでいくことが重要である。
こうした教育課程の評価や改善は、第1章総則第5の1のアに示すとおり、学校評価と関連付けながら実施することが必要である。(42-43頁)

「P」については既に前節で確認しました。引用個所は、カリキュラム・マネジメントに係る一連のPDCAサイクルのうち、とくにCHECK(評価)とACTION(改善)について具体的に示された記述として読むべきところです。PDCAサイクルがうまく回るかどうかは、適切な「C」と現実的な「A」にかかっています。不適切な「C」と妄想的な「A」は、PDCAサイクルを破壊します。
「C」に関して、評価の基準として独自にルーブリックを開発する学校も一部にはあるでしょうが、具体的に活用されることが想定されているデータは「全国学力・学習状況調査」でしょう。この調査は、学力が上がったとか下がったとか一喜一憂するために行われているのではなく、目標に照らして実践が適切に行われているかを確認するために行われています。ですからこの調査を教員の給料査定に直結させるのは、愚の骨頂と断言して間違いありません。調査結果は、あくまでもPDCAサイクルの「C」に利用する資料と理解し、カリキュラム・マネジメントに活かしていきましょう。
(ただし評価の基準として悉皆調査である「全国学力・学習状況調査」を採用することが適切かどうかは、カリキュラム・マネジメントというものの効果や是非や善悪を判断する上で、極めて重要な論点となります。後に改めて原理的に検討しましょう。)
「A」に関しては、実効的で現実的な対応が求められています。まあ、問題や課題が見つかったら、できることはすぐに対応しましょう、難しそうなら計画的に粘り強く取り組みましょう、ってことですね。そりゃそうですね。そのために、行動できる組織作りが必要となることは言うまでもありません。

(3)実践を可能とする資源を確保する。

そして3指針の3つめは、「資源」の確保です。文部科学省は以下のように述べています。

(ウ) 教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくこと
教育課程の実施に当たっては、人材や予算、時間、情報といった人的又は物的な資源を、教育の内容と効果的に組み合わせていくことが重要となる。学校規模、教職員の状況、施設設備の状況などの人的又は物的な体制の実態は、学校によって異なっており、教育活動の質の向上を組織的かつ計画的に図っていくためには、これらの人的又は物的な体制の実態を十分考慮することが必要である。そのためには、特に、教師の指導力、教材・教具の整備状況、地域の教育資源や学習環境(近隣の学校、社会教育施設、生徒の学習に協力することのできる人材等)などについて客観的かつ具体的に把握して、教育課程の編成に生かすことが必要である。
本項では、こうした人的又は物的な体制を確保することのみならず、その改善を図っていくことの重要性が示されている。各学校には、校長、副校長や教頭のほかに教務主任をはじめとして各主任等が置かれ、それらの担当者を中心として全教職員がそれぞれ校務を分担して処理している。各学校の教育課程は、これらの学校の運営組織を生かし、各教職員がそれぞれの分担に応じて教育課程に関する研究を重ね、創意工夫を加えて編成や改善を図っていくことが重要である。また、学校は地域社会における重要な役割を担い地域とともに発展していく存在であり、学校運営協議会制度や地域学校協働活動等の推進により、学校と地域の連携・協働を更に広げ、教育課程を介して学校と地域がつながることにより、地域でどのような子供を育てるのかといった目標を共有し、地域とともにある学校づくりが一層効果的に進められていくことが期待される。(43頁)

『学習指導要領』の本文では使用されていなかった「資源」という言葉が、解説編では使用されていますね。ここ、注目です。確かにマネジメント用語としては「資源」という単語のほうが相応しいでしょう。
ちなみに「資源」とは、一般的に言えば、人・物・金・時間の4つになるでしょう。民間企業は、「利潤を上げる」という目標を達成するために、この限られた「資源」をやりくりします。この「限られた資源のやりくり」こそが日々のマネジメントの本体です。仮に無限の資源が与えられるのなら、目標を達成するためにそんなに苦労はいりません。与えられる資源が少ないからこそ、マネジメントの才能が必要となってくるわけです。
そして一般企業は「人・物・金・時間」の4つの資源をやりくりして目標に迫っていくわけですが、学校に与えられる資源は極めて限られています。たとえば民間企業は必要とあれば「物」と「金」を新たに調達することができますが、学校にはそれが許されていません。また「人」に関しても、民間企業は自分たちで採用しますが、公立の校長先生には「人」を自力で調達することが許されていません。民間企業と比べたとき、学校は「資源の調達」という点で極めて不利な状況に置かれています。だから民間企業と同じ理屈で教育のマネジメントを語ることは、本来的に不可能なのです。
その現実を踏まえた上で、学校が持つ資源のうち、もっともカリキュラム・マネジメントの充実に必要な資源は、なんといっても「人」です。言い換えれば、「教師の指導力」そのものです。だから教育のマネジメントの世界で「資源の確保」と言ったとき、校長先生=経営者に期待されていることは、民間企業の社長のように金や物を潤沢に揃えることではなく、教師自身の指導力の増強です。というわけで、校長先生=経営者が「人」という資源の増強のために具体的にできることは、まずは校内研修の充実です。そして教師が自発的に研修に参加できるような環境作りです。
学校が「人」の次にマネジメントしやすいのは、「時間」です。たとえば教師の指導力を資源として確保するためには、本来の業務ではない雑用に追われる無駄な時間をどんどんカットしていけばよいわけです。教員がやらなくなった仕事を処理するには、学校外の様々な資源を投入すればよいでしょう。教員の負担軽減を目指して学校外の様々な資源を確保し活用するために、学校運営協議会制度(いわゆるコミュニティ・スクール)などの整備が提言されています。カリキュラム・マネジメントを充実するには、コミュニティ・スクールや「チーム学校」等の制度的条件の整備が必要不可欠であることを示唆しています。
(しかしまあ、考えてみれば、条件整備という点では、そもそも本質的には教員の数を増やすことで対応すべき課題であるはずです。あるいは、一方で教員免許更新講習みたいに教員の負担を増やしておきながら、もう一方でマネジメント努力によって負担を減らそうとするのは、整合性に欠けているようにも見えます。人もカネも出さずに、負担ばかり増やしておいて、一方で「与えられた資源を有効活用して乗り切れ」と指令しているわけだから、現場の先生たちに酷な感じがしてしまいますね。政策担当者がしっかり頭を使っているかどうか、疑問が残るところではあります。)

カリキュラム・マネジメント3指針のまとめ

以上、カリキュラム・マネジメントの具体的な指針について確認しました。まとめれば、子供の資質・能力を育むという目標を明確にし、その目標を達成するために資源を確保・調達し、限られた資源を有効活用しましょう、ということになります。そしてその構造は形式的には民間企業のマネジメントのあり方と同じですが、中身はまるで違っています。特に確保・調達できる資源の質と量に決定的な制限があるのが、学校マネジメントの特徴です。この構造を理解しておくと、マネジメントに詳しいはずの民間企業出身の校長が、現実には学校マネジメントをめちゃくちゃにしてしまうカラクリが見えてくるかもしれませんね。

前提としてやるべきこと:学校運営や学校評価

最後に、カリキュラム・マネジメントと学校運営(スクール・マネジメント)の改革について、確認しましょう。文部科学省は以下のように学校運営改革の必要性を強調します。

カリキュラム・マネジメントは、本解説第3章第1節の4において示すように、学校教育に関わる様々な取組を、教育課程を中心に据えて組織的かつ計画的に実施し、教育活動の質の向上につなげていくものである。カリキュラム・マネジメントの実施に当たって、「校長の方針の下に」としているのは、学校の教育目標など教育課程の編成の基本となる事項とともに、校長が定める校務分掌に基づくことを示しており、全教職員が適切に役割を分担し、相互に連携することが必要である。その上で、生徒の実態や地域の実情、指導内容を踏まえて効果的な年間指導計画等の在り方や、授業時間や週時程の在り方等について、校内研修等を通じて研究を重ねていくことも重要であり、こうした取組が学校の特色を創り上げていくこととなる。
また、各学校におけるカリキュラム・マネジメントの取組は、学校が担う様々な業務の進め方の改善を伴ってより充実することができる。この点からも、「校長の方針の下」に学校の業務改善を図り、指導の体制を整えていくことが重要となる。(118頁)

カリキュラム・マネジメントを充実させるためには、校務分掌のあり方や、校内研修のあり方、様々な業務(要するに雑用)の進め方の改善を伴う必要があることが指摘されています。ここに、校長の資質として、単に教育者としての能力だけでなく、組織を作る経営者としての能力が要求されてくるわけです。校長には、一般企業の経営にも通じる「組織論」や「マネジメント」に対する知識が必要となると同時に、人間的な総合力としてのリーダーシップが求められることになります。
さらに「解説」は、法律に定められた学校評価との関連についても言及します。

また、各学校が行う学校評価は、学校教育法第 42 条において「教育活動その他の学校運営の状況について評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図るため必要な措置を講ずる」と規定されており、教育課程の編成、実施、改善は教育活動や学校運営の中核となることを踏まえ、教育課程を中心として教育活動の質の向上を図るカリキュラム・マネジメントは学校評価と関連付けて実施することが重要である。
学校評価の実施方法は、学校教育法施行規則第 66 条から第 68 条までに、自己評価・学校関係者評価の実施・公表、評価結果の設置者への報告について定めるとともに、文部科学省では法令上の規定等を踏まえて「学校評価ガイドライン」(平成 28 年3月文部科学省)を作成している。同ガイドラインでは、具体的にどのような評価項目・指標等を設定するかは各学校が判断するべきことではあるが、その設定について検討する際の視点となる例が12 分野にわたり示されている。カリキュラム・マネジメントと関連付けて実施する観点からは、教育課程・学習指導に係る項目はもとより、当該教育課程を効果的に実施するための人的又は物的な体制の確保の状況なども重要である。(118-119頁)

法律に定められている以上、学校運営の一環として「学校評価」を粛々と行う義務があるわけですが、これをカリキュラム・マネジメントとの関連で把握せよという要求です。校長先生の経営者としての能力を把握しようというわけですね。
これまでは、文部科学省は学校に対して「P」の部分で統制をしようとしてきました。しかし21世紀に入るころから、民間企業の成果を取り入れて、「P」についてはある程度の自由裁量ができるようにする代わりに、「C」の部分で統制を図ろうとする体制にシフトしてきました。そっちのほうが金がかからないし、効果が上がることが分かってきたからでしょう。逆に言えば、「P」の部分の裁量権が増えたからといって、本当に教育が自由になったと考えてはいけないということです。実は強制されなくとも、自発的に「忖度」するような状況が生まれているかもしれませんね。おっと、個人的な意見に踏み込み始めてしまったので、文部科学省の言い分を確認するのは終わりにしましょう。

まとめ

「学級王国」という言葉に端的に表れているように、これまでの学校教育では、「王様」である各教員がそれぞれ創意工夫することが期待されていたかもしれません。また、各教科はそれぞれ独自に工夫を凝らして発展を続けていきましたが、逆に言えば、全体的・総合的な「カリキュラム」は見えにくくなっていたかもしれません。が、今後の学校は「チーム」として機能しなければなりません。個々の教員は役割分担をしながら組織の一員として働くことが期待されますし、各教科は一体となって「カリキュラム」を構成しなければなりません。そして組織が機能するためには、リーダーが適切なマネジメントを遂行する必要があります。
しかし、一般企業と異なり、これまで学校の文化にはマネジメントの考え方が根付いてきませんでした。だから、学校を「チーム」にするためには、既存の学校文化の常識を根底から疑って、組織の構造そのものを抜本的に改革していく必要があるわけです。カリキュラム・マネジメントは、形式的に書類を作ってどうにかなるような問題ではなく、学校の体制と教員の意識を根底から変革するように迫っています。

教員採用試験の小論文など

そして「カリキュラム・マネジメント」は、教員採用試験の小論文のテーマとして出しやすいものです。というのは、教員としての自覚を測りやすいテーマのひとつだからです。
教員採用試験の小論文の鉄則は、評論家のような態度で客観的に書くのではなく、教育に携わる当事者として主体的に書くということです。教育現場には評論家など必要ありません。実際に動ける人が欲しいのです。それを見るための小論文です。
その鉄則さえ承知していれば、「カリキュラム・マネジメント」がテーマとして出たときに、書くべきことは自ずと見えてきます。評論家のように背景や理屈を長々と述べるのはアウトです。書くべきことは「人が最大の資源」であることを自覚して「研修」に積極的に取り組む意欲であるとか、「教科等横断的な視点」において「教科の本質」が決定的に重要なことを自覚して「深い学び」を実現するための努力と研鑽を惜しまないこと、などです。自分の意欲や姿勢を前面に打ち出し、どのような実践に落とし込むかを示すことです。
「カリキュラム・マネジメント」が論題に出たら、教育に対する自分の姿勢を示す絶好のチャンスだと思いましょう。

参考文献

■長田徹監修『カリキュラム・マネジメントに挑む―教科を横断するキャリア教育、教科と往還する特別活動を柱にPDCAを!』図書文化、2018年

カリキュラム・マネジメントのPDCAサイクルを実効化するためのは「Check」の質が決定的に重要なのだが、類書では「Plan」や「Do」ばかりに力が入っていることが多い。本書は「C」をどのように可視化・数値化し、効果的な「Action」に結実させるかが具体的に示されていて、とても参考になる。

■髙木展郎監修・矢ノ浦勝之著『学習指導要領2020「カリキュラム・マネジメント」の進め方: 全国先進小学校実践レポート』小学館教育技術MOOK、2018年

小学校の具体的な実践報告。カリキュラム・マネジメントを成功させる上で学校目標を従来の「知・徳・体」形式からコンピテンシーベースへと転換することが決定的に重要であることがよく分かる。「資質・能力」をベースに学校のグランドデザインを構想することで、変な工夫をしなくても自ずと「教科等横断的」な編成に結びつくことも分かる。

■田村学編著『カリキュラム・マネジメント入門―「深い学び」の授業デザイン。学びをつなぐ7つのミッション。』東洋館出版社、2017年

小学校でのカリキュラム・マネジメントについての入門書。中でも「カリキュラム・デザイン」の具体的な方法について、具体的な実践例を土台として説明しているところが特徴。生活科と総合的な学習の時間を中心として、教科横断的な資質・能力をどのように育むかが、7つの観点から具体的にまとめられており、具体的な実践の参考にしやすそう。

■田村知子『カリキュラムマネジメント―学力向上へのアクションプラン』日本標準ブックレット、2014年

極めて具体的で実践的なチェックシートもついていたり、先進的な実践例のどこがどう凄いかも丁寧に解説されていて、さらに理論的な背景もコンパクトに説明されており、どうして今の学校にカリキュラムマネジメントが必要なのかにも現実的な説得力があり、「いっちょカリキュラムマネジメントでもやってみるか」と思っている向きにはとても参考になるのではないか。

田村知子編著『実践・カリキュラムマネジメント』ぎょうせい、2011年
学習指導要領に「カリキュラム・マネジメント」という言葉が登場するよりも随分前に出版された本だが、理論と実践が噛み合った内容となっており、必ずしも古くなっていない。カリマネ草創期の熱意を感じられる良書だと思う。

山﨑保寿『「社会に開かれた教育課程」のカリキュラム・マネジメント―学力向上を図る教育環境の構築』学事出版、2018年
カリマネの前提となる「学校運営」について、学校研究体制の充実や管理職の役割確立が重要だとしている。管理職向けの本。

『新教育課程ライブラリVol.5 学校ぐるみで取り組むカリキュラム・マネジメント』ぎょうせい、2016年
『学習指導要領』本体や、中教審答申や、「審議のまとめ」が発表される以前の特集で、具体的な実践例というよりは、そもそもの概念定義や意義、歴史的な経緯についての話から始まっている。カリキュラム・マネジメントが学校経営論とカリキュラム論を結ぶ学際的な領域から登場してきた分野であることなどがわかる。

『総合教育技術 2017年 11 月号』小学館、2017年
カリキュラム・マネジメントが特集されている。『学習指導要領』の本文を踏まえて、具体的な取組みのあり方が示されている。カリキュラムのデザインの仕方が、教科単元配列表の作成など、具体的で詳細に示されている。

 

批判的な吟味

PDCAサイクルのCHECKについて

仮にカリキュラムをマネジメントすることが教育実践の質を高めるとしたら、PDCAサイクルを確立することは確かに必須の手続きと言えるでしょう。そしてPDCAサイクルの質を大きく左右するのは、CHECK(評価)のあり方です。CHECKに利用されるべき指標は、学習指導要領や解説に言明されているわけではありませんが、「全国学力・学習状況調査」が想定されているのは間違いないように思われます。実際、カリキュラム・マネジメントの実践報告では、しばしば「全国学力・学習状況調査」の点数の上昇が実践改善の指標として示されています。
しかし「全国学力・学習状況調査」は、カリキュラム・マネジメントのCHECK指標として本当に意味があるでしょうか? この疑問に対する教育原理的な反省が欠けているとき、PDCAサイクルは前提から破綻している可能性があります。そして、「悉皆調査」という方法がCHECK指標として役立たずの可能性が高いことは、様々な学者が指摘しているところです。「全国学力・学習状況調査」を「C」に据えてPDCAサイクルを構想することは、実は前提からマネジメントが破綻している可能性が高いことを疑ってよいでしょう。
翻って、安易に「全国学力・学習状況調査」に依拠せず、独自のルーブリックを作成してCHECK指標としているカリキュラム・マネジメントの実践は、常に教育原理的な問い直しに開かれて、前進の可能性に満ちているように見えます。魅力的な取り組みが全国的に行われています。

マネジメントの権限

マネジメントで有効活用するべき「資源」としては、大雑把には(1)金(2)物(3)人(4)時間の4つの領域が考えられます。一般企業であれば、(1)資金を調達し(2)環境を整え(3)有能な人材を集め(4)工数を区切るというマネジメントの方向性は見えやすいでしょう。
しかし学校においては、(1)金と(2)物についてはあらかじめ条件が定まっており、校長の自由にできるわけではありません。この領域でマネジメントを行うのは教育委員会の仕事です。また校長は、(3)人についても自由にマネジメントできるわけではありません。自分の頭を飛び越えて割り振られた人材を、研修などで育成し、組織を構築するくらいしかできません。勢い、目先で改善できることは(4)時間のマネジメントくらいだということになってきます。委員会の数を減らしたりとか、会議の時間を減らしたりとか、会議を立って行うなどして、5分10分の時間を捻出するという涙ぐましくセコい努力が積み重ねられることとなります。民間企業の華々しいマネジメント(ITCが整備された機能的な会議室や、明るく働きやすいオフィスの改造など)との圧倒的な落差にガッカリです。
校長のリーダーシップの下で行うスクール・マネジメントは、一般企業のマネジメントとはかなり勝手が違うことは踏まえておく必要があるでしょう。一般企業で蓄積されてきたマネジメントのノウハウが、そのまま学校で機能するかどうかは、極めて怪しいわけです。特に「教職の専門性」という要素を考慮に入れないスクール・マネジメントは、おそらく容易に破綻するでしょう。

学校民営化?

それでは、校長先生に学校をマネジメントする権限を大幅に与えてみましょうか。たとえば金もモノも人も自由に調達する権限を校長先生に与えてみたとしましょう。銀行から資金を調達したり、提携企業から寄付金を募ったり、授業料を独自に徴収したり、教員免許を持たない人材を自由に雇ったり。そして銀行から資金を調達するためには、どんな「学校目標」だと受けがいいか、想像してみます。学力を上げて進学実績を作る、あるいはプロスポーツ選手を大量に送り出すなどでしょうか。どちらにせよ市場経済の意向と噛み合った目標となるはずです。それは「人格の形成」を目指す教育ではなく、「カネになる」ようなスキル獲得を目指す教育です。それはもはや現在の公教育とはかけはなれた学校です。というか、学校ではなく「塾」とでも呼んだ方がいいものになっています。
そして実際、臨時教育審議会以降、学校選択制や中高一貫教育の拡大など、教育の市場化は確実に進行しています。学校へのマネジメントの導入も、市場化傾向の一つであるとも考えられます。このマネジメント万能の傾向が行き着く先には、公教育の解体、学校の民営化が待ち受けている恐れがあります。本当に教育はそれで大丈夫なのでしょうか?

「学び」はマネジメントできるのか?

仮に学校はマネジメント(運営)できるとしましょう。実際、学校はマネジメントなしでは成立しません。マネジメントが破綻した私立学校は潰れるし、マネジメントが破綻した公立学校は税金の無駄遣いです。しかしだからといって、その内部で行われる「学び」そのものをマネジメントすることは本当に可能なんでしょうか。仮に「学び」をマネジメントできるとして、そこで言われている「学び」とは具体的に何を指しているのでしょうか。たとえば教育の目的が「人格の完成」だとして、本当に「人格の完成」をマネジメントすることなどできるのでしょうか? 個人的には、「人格の完成」がマネジメントできるなどと、無条件で信じることはできません。「人格の完成」は、マネジメントの領域を超えたところでしか起こりえないものだと思います。逆に、マネジメントできる「学び」とは、その程度の範囲をカバーしているだけでしょう。学習指導要領がマネジメントしようとしている「学び」という言葉が、そもそも具体的に何を指しているのか、その射程距離はどれほどなのか、しっかり吟味されなくてはなりません。
マネジメントでできることとできないことは、教育原理的な観点からしっかり見極めておく必要があります。その上で、マネジメントで改善できることはどんどんやればよいでしょう。逆に、原理的にマネジメントできないことをマネジメントの領域に組み込もうとすると、必ずおかしなことになります。現在のPDCAサイクル万能感に対しては、本来はマネジメントできない領域にまでマネジメントを要求しているように見えるので、不安を感じざるを得ません。「人間とは何か?」とか「教育とは何か?」を真剣に考えていないのに「PDCA!」ばかりを主張する人々は、企業経営は得意かもしれませんが、教育ができるとはとても思えないわけです。

社会に開かれた教育課程とは―新学習指導要領の理念―

簡単にまとめれば

閉鎖的な学校での教育が行き詰まったので、家庭や地域にもがんばってもらって、社会に貢献できる人材をみんなで育てましょう、ということです。

まあ、これだけならわかりやすく感じますが、難しくなってしまうのは、「じゃあ、どうやって具体化するの?」と考えたときです。具体化を考えると、
(1)社会に貢献できる人材をどうやって育てるの?
(2)閉鎖的な学校を変えるために何をすればいいの?
という課題が見えてきます。

社会に開かれた教育課程の課題

(1)社会に貢献できる人材をどうやって育てるの?という課題に応えるのが「カリキュラム・マネジメント」です。カリキュラム・マネジメントとは、「社会に開かれた教育課程」の理想を実現するための具体的な方策です。→【参考】カリキュラム・マネジメントとは

(2)閉鎖的な学校を変えるために何をすればいいの?という課題に応えるのが、コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)や、チーム学校など、学校制度改革です。「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」とは、「社会に開かれた教育課程」を実現するための新しい学校の姿です。→【参考】コミュニティ・スクール(学校運営協議会)とは何か?

というふうに、「社会に開かれた教育課程」は、学校が抱える現実的な課題と密接に結びついています。逆に言えば、「社会に開かれた教育課程」が分かると、自然に他のキーワードも理解できます。

大雑把に問題の所在を踏まえた上で、まず文部科学省が「社会に開かれた教育課程」をどう説明しているかを確認していきましょう。

「社会に開かれた教育課程」の定義

学習指導要領の記述

学習指導要領』(平成29年版)の前文には、「社会に開かれた教育課程」の定義が次のように示されています。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

この定義を正しく読み取るためには、
(1)「これからの時代に求められる教育」って何?
(2)「よりよい社会」って何?
(3)「資質・能力」って何?
(4)「社会との連携及び協働」ってどうするの?
について考えなければいけません。

それぞれの問いに大雑把な答えを与えるとしたら、次のようになるでしょう。

▼「これからの時代に求められる教育」とは、少子高齢化・グローバル化・情報化(さらには人工知能の進化)・雇用環境の変容という、急激に変化する予測困難な社会に対応するための教育を指します。キーワード的には「知識基盤社会」の進展に対応する教育を指します。

▼「よりよい社会」とは、学習指導要領そのものが指し示すキーワードとしては「持続可能な社会」が想定されます。またあるいは「第二期教育振興基本計画」の理念に従えば、「自立・協働・創造の3つの理念の実現に向けた生涯学習社会」が想定されるところです。
(が、しかし、政府や文部科学省の姿勢を総合的に考慮すると、実際には「知識基盤社会」の進展に対応して産業を発展させ、日本が国際社会で経済的に存在感を高めるのが「よい社会」と考えているように見えてしまうところではあります。)

▼「資質・能力」とは、教科等を横断する汎用的なスキル、あるいは「コンピテンシー」という概念が想定されます。この場合の汎用的なスキルとは、例えば問題解決、論理的思考、コミュニケーション能力等を指します。またあるいは自己調整や内省、批判的思考を可能にするものとして「メタ認知」の能力を指します。さらに「教科等の本質に関わるもの」あるいは「教科等ならではの見方・考え方」を指します。このあたりは「21世紀型スキル」として改めて考えるべきところですので、必要なら別のページをご参照ください。→【参考】育成を目指す資質・能力とは

▼「社会との連携及び協働の具体的な形」とは、「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」という制度的な整備を押さえた上で、学校評価やその公開など、学校を運営(マネジメント)する体制の構築を指します。

そんなわけで、一口に「社会に開かれた教育課程」と言っても、教育や学校に関わるあらゆる面から総合的に物事を考えなければいけないことが分かります。逆に言えば、文部科学省が今回の学習指導要領に込めた狙いは、ほぼすべて「社会に開かれた教育課程」の中に含まれています。

カリキュラム・マネジメントとの関係

さて、定義についてはなんとなく分かったので、次に、具体的に何をすればいいかについて確認しましょう。結論から言うと、学校が具体的にするべきことは「カリキュラム・マネジメント」です。ということで、具体的にするべき仕事については別のページをご参照ください。→カリキュラム・マネジメントとは

このページでは、「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」の関係を確認しておきます。『学習指導要領解説 総則編』は、次のように言っています。

中央教育審議会答申においては、“よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創る”という目標を学校と社会が共有し、連携・協働しながら、新しい時代に求められる資質・能力を子供たちに育む「社会に開かれた教育課程」の実現を目指し、学習指導要領等が、学校、家庭、地域の関係者が幅広く共有し活用できる「学びの地図」としての役割を果たすことができるよう、次の6点にわたってその枠組みを改善するとともに、各学校において教育課程を軸に学校教育の改善・充実の好循環を生み出す「カリキュラム・マネジメント」の実現を目指すことなどが求められた。
① 「何ができるようになるか」(育成を目指す資質・能力)
② 「何を学ぶか」(教科等を学ぶ意義と、教科等間・学校段階間のつながりを踏まえた教育課程の編成)
③ 「どのように学ぶか」(各教科等の指導計画の作成と実施、学習・指導の改善・充実)
④ 「子供一人一人の発達をどのように支援するか」(子供の発達を踏まえた指導)
⑤ 「何が身に付いたか」(学習評価の充実)
⑥ 「実施するために何が必要か」(学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策)
(2頁)

「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」が密接に関連した概念であることが読み取れたでしょうか。大雑把には、「社会に開かれた教育課程」が教育改革全体の理念とすれば、「カリキュラム・マネジメント」は学校が行うべき具体的な課題です。つまり、「社会に開かれた教育課程」を実現するためには、どうしても「カリキュラム・マネジメント」は避けて通れないわけです。逆に言えば、「カリキュラム・マネジメント」を進めるに当たっては、常に「社会に開かれた教育課程」を意識しなければいけません。

「社会に開かれた教育課程」の背景

以上、学校が実際にやらなければいけない仕事も分かりました。でも、どうしてやらなければいけないのでしょうか? このままの学校ではダメなのでしょうか。平成28年12月の「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」には、「社会に開かれた教育課程の実現」がなぜ必要なのか、背景が以下のように説明されています。

このような「社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。
① 社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。
② これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自らの人生を切り拓ひらいていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。
③ 教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること。

この記述では、「社会に開かれた」という言葉の意味がかなり具体的に明らかになっています。まとめると、以下のようになります。
(1)「社会に開かれた」とは、まずは学校教育の目標が社会と共有されている状態を指すようです。ということは、逆に言えば、これまでの学校教育は、必ずしも目標を社会と共有していなかったということを示唆しています。学校と社会の目標がズレていたら、社会で役に立つ人材が育つわけがないですね。
(ただ、本当に学校が社会から閉ざされていたのか、あるいはそれが良いことか悪いことかについては、改めて吟味する必要があります。)
(2)次に「社会に開かれた」とは、社会や世界に通用する資質・能力を育てることを意味します。逆に言えば、これまでの学校は社会や世界に通用する資質・能力を育ててこなかったと判断されているわけですね。かなり舐められていますが、その判断の根拠としては、PISA調査や全国学力調査などで、単なる知識としてのA問題の正答率は高いのに、生活場面で活用するB問題では大幅に正答率が下がるという現象が意識されているでしょう。
(ただし、その場合の「社会」や「世界」が具体的に何を指しているかについては、しっかり吟味しておく必要があるでしょう。)
(3)最後に「社会に開かれた」とは、もはや学校だけが教育を独占して担うべきではない、ということを示唆しています。
(この論点については、チーム学校やコミュニティ・スクールという制度改革だけでなく、改めて「市場化」や「民営化」という観点を忘れずに吟味していく必要があります。かなり怖い話に繋がっていきます。)

要するに、現在の学校や教育が抱える問題を解決するためには、どうしても学校を社会に開く必要があると考えているわけです。このまま学校を放っておいてはダメなようですね。

具体的な実践例について

さて、定義と背景について確認したところで、気になるのは「社会に開かれた教育課程」の実践例です。が、個人的には、改めて「実践」をつくり出す必要はないと思います。
たとえば、報告されている種々の「社会に開かれた教育課程の実践例」を見る限りでは、これまでにも積み重ねられてきた総合的な学習の時間や特別活動の実践と基本的には変わりがありません。具体的な実践は、これまでのもので充分ということです。
というのも、「社会に開かれた教育課程」という概念に期待されているのは、実践そのものの新たな創出や改善ではないのです。期待されているのは、既存の取り組みの位置づけをメタ認知的に総括し、改めて意識付けすることです。具体的な作業として学校に求められていることは、教育の「目標」を再検討したり、「目標」と実践との結びつきを確認したり、実践を効果的に行うための組織のあり方について整備したり、実践の効果をチェックする仕組みを工夫したり、成果を発表する体制を整えたりすることなのです。そしてこれが「カリキュラム・マネジメント」に期待されているものです。
逆に言えば、ただ実践そのものを工夫するだけでは「社会に開かれた教育課程」を実現したことには絶対になりません。「社会に開かれた教育課程」を理解するためには、地域の環境や条件から切り離された実践例をいくら検討しても、意味がありません。まず必要なのは、学校も含めた地域の現実を把握することです。実践は、その後です。
雑誌記事なりインターネット上の報告等を見ると、社会と関わりのある実践を行いさえすれば「社会に開かれた教育課程」を実現しているかのように考えている記述を散見しますが、もちろんそれだけでは文科省の言う「社会に開かれた教育課程」の目指しているものにはなりません。むしろ、どれだけ社会との関わりがあろうと、「目標」に照らして意味がない実践だと結論が出た場合は、やめてしまって良いのです。
根本から、原理的に、基本に立ち戻って、偏見と先入観を取り除いて、前例にこだわらず、教育と学校のあり方を独創的に考えていこうというのが、文部科学省の狙いです。

教員採用試験の小論文

そして教員採用試験の小論文のテーマとしても、「社会に開かれた教育課程」はよく出てきます。というのも、ここに文部科学省の言いたいことがすべて詰まっているので、問題にしやすいわけですね。
まあ、ここまで読んで内容を理解していれば、書くべきことは自然に見えてくると思います。こんな感じで書けばいいでしょう。

【起】「社会に開かれた教育課程」の「定義」を理解していることをアピールする。
【承】なぜ「社会に開かれた教育課程」が必要なのか、「背景」を理解していることをアピールする。
【転】「社会に開かれた教育課程」の具体的な「課題」がどこにあるのか理解していることをアピールする。
【結】実際に学校や教員が行うべきことが「カリキュラム・マネジメント」であることを踏まえ、実践に向かう意欲をアピールする。

肝に銘じておくべきことは、教員採用試験の小論文は評論家的に知っていることを書くのでは印象が悪くなるということです。現場は、他人事のように問題を語る評論家などいりません。自覚を持って子供と向き合える実践家が欲しいのです。小論文や面接では、しっかり主体的に問題を捉えて、当事者意識を前面に出していく必要があります。そのためには、「カリキュラム・マネジメント」と「主体的・対話的で深い学び」について、「社会に開かれた教育課程」との関係を意識しながら理解しておくといいでしょう。
カリキュラム・マネジメントとは
主体的・対話的で深い学びとは

参考文献

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年

東京大学教育学部が本気でカリキュラム改革に挑んだ記録。収録されている個々の論文が、参考になります。

▼本田由紀「カリキュラムの社会的意義」27-40頁
・日本の学校が提供してきたカリキュラムが、いかに社会的意義とかけ離れていたものだったか、OECDの各種調査を元に明らかにしています。「「生きる力」や「人間力」をはじめとする様々な「力」の形成や、生き方を考えるための「キャリア教育」といった、抽象度の高い「社会的意義」が、いかなるカリキュラムを通じていかに形成されるのかということについての経験的な吟味がきわめて不十分なままで、スローガンとして掲げられているのが現状である」(37頁)という指摘は、重いですね。

▼市川伸一「「社会に生きる学力」の系譜」 41-50頁
・1990年代の学力低下論争から、00年代の「生きる力」の具体化まで、教科学力ではない「社会に生きる学力」の重要性が浮上する文脈がコンパクトにまとまっています。

▼金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」123-135頁
・「社会に生きる学力」が、単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧しています。教師に期待されるのは、産業社会を超えるビジョンを示す力であることを示しています。

▼牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」195-208頁
・学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは、単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧しています。

『新教育課程ライブラリVol.11 「社会に開かれた教育課程」を考える』ぎょうせい、2017年11月

『学習指導要領』本体や中教審答申が出る前の、2016年8月段階の「審議のまとめ」記述を元に構成されています。そのせいか、プリミティブで総論的な問題意識を生々しく伺うことができる記事が散見されます。安彦忠彦が寄せた痛烈な批判記事は、賛否はともかくとして、なかなか興味深く読めます。

 

批判的な吟味

そんなわけで文部科学省の言い分を確認してきましたが、本当にこの方針で大丈夫でしょうか? 教育原理的に考えてみましょう。

「社会」とは何か?

実はそもそも、「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」が具体的に何を意味するかは、学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかになっていません。しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できてしまいます。あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われてしまいます。
そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずです。もちろん市民社会も経済を実体とする側面もありますが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もあります。気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点です。もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはありませんが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていません。たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てきますが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところです。「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていません。ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見えるような気がします。それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないでしょうか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないでしょうか?

学校選択制と「社会」

この観点から問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性です。仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくるからです。もしも「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community(社会)に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示します。一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation(社会)に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示します。「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるわけです。そして、これまで「学校選択制」が積極的に推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体(local community)ではなく利害を共有する結社(association)である可能性が高くなるわけです。
「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった市場経済に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところです。むしろ「社会」という言葉の曖昧さを逆手にとって、都合のいいところだけ摘まみ食いしているようにすら感じます。(そしてその矛盾の行き着く先には、教育の市場化と公教育の崩壊が待っているかもしれません。)

local communityの問題

また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community(地域共同体)が問題を抱えていないわけではありません。教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもあります。local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるでしょう(小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意)。小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もあります(佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p.68)。
このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものは社会から隔離され、一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もあるわけです。しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わってしまうでしょう。「学校を社会に開こう」と言いますが、もしも社会が酷いものだったら、むしろ学校は閉じていた方がいいのではないでしょうか。

global marketとlocal communityの間

だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくるわけです。その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずです。
文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がしっかり反映しているでしょうか。このあたり、地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまないところではあります。そういう矛盾に目をつぶって、単に「社会に開かれた教育課程」と唱えて学校だけに課題を押しつけるのでは、むしろ矛盾は拡大するだけに終わることが容易に想像できます。地方自治のあり方を踏まえて、広い視野から教育と学校の未来を考えていかなければなりません。

【教育課程編成の基礎】教科等横断的な視点とは何か?

わかりやすく言えば

それぞれの教科がバラバラに授業をしていては、これからの時代に必要な能力が育たないので、各教科が足並みを揃えて授業をしていきましょう、ということ。
なのですが、雑誌やネットの記事を見ると、中には勘違いしているものもあります。

ありがちな勘違い

よーし、各教科が足並みを揃えればいいんだな、ということで、「一学期は音楽で海の歌をやるから、社会では海産物を扱って、数学では海の面積を求めて、理科では海水の塩分濃度を計って、体育では水泳をして、国語では『スイミー』でも読むか……」というのは、ありがちな勘違いです。
こうやって足並みを揃えることは、悪いというわけではないのですが、文部科学省が求めている「教科等横断的な視点」とはズレています。どこがズレているかというと、コンテンツによって足並みを揃えようとしているところです。

コンテンツからコンピテンシーへの転換を意識する

今回の学習指導要領の土台にある考えは、「コンテンツからコンピテンシーへの転換」です。コンテンツとは日本語では「内容」という意味で、つまり「知識重視の教育」を表わしています。一方のコンピテンシーとは日本語では「能力」という意味で、つまり「資質・能力を育成する教育」を表わしています。これまでの知識重視の教育を反省し、ホンモノの能力を育成する教育へと転換するのが、文部科学省の狙いです。
だとしたら、「教科等横断的な視点」を実現する上でも、もちろんコンテンツからコンピテンシーへの転換を意識しなければいけません。先ほどの勘違いは、コンテンツの共有ばかりに目を奪われて、コンピテンシーのことを何も考えていないことが決定的な間違いだったわけです。

育成すべき資質・能力を明確にする

コンピテンシーを重視して「教科等横断的な視点」を実現するためには、まずそもそも「どういうコンピテンシーを育成するか」が明らかになっていなければなりません。教科等を横断する作業を始める前に、まずはしっかりと「育成すべき資質・能力」を明確にしましょう。
これについては、別のページにまとめておきましたので、ご参照ください。→「育成を目指す資質・能力とは―知識から21世紀型能力へ―

以上、大雑把に「教科等横断的な視点」を理解したところで、具体的に学習指導要領の記述を確認していきましょう。

「教科等横断的な視点」の具体的なかたち

学習指導要領には、以下のように「教科等横断的な視点」が定義されています。(下は小学校学習指導要領からの引用ですが、中学校学習指導要領も「児童」が「生徒」に変わっている以外は同じ内容です。)

2 教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成
(1) 各学校においては、児童の発達の段階を考慮し、言語能力、情報活用能力(情報モラルを含む。)、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力を育成していくことができるよう、各教科等の特質を生かし、教科等横断的な視点から教育課程の編成を図るものとする。
(2) 各学校においては、児童や学校、地域の実態及び児童の発達の段階を考慮し、豊かな人生の実現や災害等を乗り越えて次代の社会を形成することに向けた現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力を、教科等横断的な視点で育成していくことができるよう、各学校の特色を生かした教育課程の編成を図るものとする。(19頁)

まず分かることは、どうやら「教科等横断的な視点」も、(1)と(2)で種類が分かれているということです。ちなみに(2)で言っている「現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力」については、『学習指導要領解説総則編』の付録6で内容が詳しく示されています。整理すると。

(1)-1=言語能力
(1)-2=情報活用能力(情報モラル含む)
(1)-3=問題発見・解決能力

(2)-1=伝統や文化に関する教育
(2)-2=主権者に関する教育
(2)-3=消費者に関する教育
(2)-4=法に関する教育
(2)-5=知的財産に関する教育
(2)-6=郷土や地域に関する教育
(2)-7=海洋に関する教育
(2)-8=環境に関する教育
(2)-9=放射線に関する教育
(2)-10=生命の尊重に関する教育
(2)-11=心身の健康の保持増進に関する教育
(2)-12=食に関する教育
(2)-13=防災を含む安全に関する教育

というふうに全体像が見えてきます。

コンテンツによる横断とコンピテンシーによる横断

比較的分かりやすいのは(2)です。というのは、前の学習指導要領と同じところが多いからです。たとえば(2)-12「食に関する教育」は、前の学習指導要領から既に教科等横断的に行うとされていました。具体的にはこれまでも「理科では栄養素の化学成分について学び、社会では食糧自給率や輸出入の問題を扱い…」というふうに、考えてきたはずです。(2)の他の内容についても、基本的に同じように考えていけばいいでしょう。
しかしだからこそ、新学習指導要領が言っている(1)の具体的な姿が分かりにくくなるかもしれません。というのは、(2)が目指す「教科等横断」がコンテンツの共有による横断なのに対し、(1)のほうはコンピテンシーによる横断を考えているからです。逆に言えば、「コンテンツとコンピテンシーの違い」を意識すれば、そんなに難しい話ではありません。

教科の本質を踏まえる

では、コンピテンシーによる横断を実現するには、どうすればいいでしょうか。決定的に重要なポイントは、教科の本質にあります。
たとえば「教科横断的に論理的な力を育てる」ことを目指すとしましょう。そして、国語科を通じて論理的な力を育てることができますし、数学科を通じても論理的な力を育てることができます。家庭科や保健体育でも、また同じです。ただし、それぞれ言葉では同じように「論理的な力を育てる」と言っても、実際に子どもたちが伸ばす「論理的な力」は、教科ごとに違っているはずです。国語科で伸びる論理的な力と、数学科で伸びる論理的な力は、違っているはずです。国語科では言語を使った論理的な力が育ち、数学科では数や図形を使った論理的な力が育っているはずです。家庭科や保健体育でも、また同じはずです。そしてそれぞれの教科で育てた「論理的な力」は、全部が重なり合って、一人の子供の全体的で総合的な「論理的な力」となるでしょう。こうして子どもたちが各教科を通じて総合的に育んだ力を「教科等横断的に育成された論理的な力」というわけです。
このように各教科が全体的・総合的に子供の能力を育んでいくためには、まずは、それぞれの教科がどのような力を育むのか、教科の本質をしっかり把握していなければなりません。国語科が育む能力はどのようなもので、数学科が育む能力はどういうものか。それぞれの教科が育む力を教師がしっかり掴んでいて、各教科の中で子供の力を伸ばしていけば、「教科等横断的な視点」の基本が実現していると言えるでしょう。

教科の本質とは何か?

それでは、そもそも「教科の本質」とは何でしょうか。この決定的に重要なポイントについては、それぞれの教員が自覚を深めていくしかありません。
ヒントは、「教科の本質」というものが、小学校低学年だろうが、中学だろうが高校だろうが、変わらないところにあります。もちろん、小学校低学年と高校では、コンテンツはまったく異なります。しかし、どれだけコンテンツが変わろうとも教科の本質は同じはずです。このような、「コンテンツが変わっても、コンピテンシーは変わらない」ような何かを掴めたとき、「教科の本質」が分かったと言えるでしょう。

総合的な学習の時間と各教科の連動

さて、「教科等横断的な視点」の総仕上げが、総合的な学習の時間です。総合的な学習の時間も、ぜひ「コンテンツからコンピテンシーへの転換」を踏まえて構想したいものです。
従来の総合的な学習の時間は、コンテンツありきの構成が多かったように思います。もちろんそれで問題があったというわけではありません。が、新しい学習指導要領の土台にあるのが「コンテンツからコンピテンシーへの転換」という思想にあることを踏まえると、総合的な学習の時間も、従来のコンテンツ型だけでなく、コンピテンシー型を構想してもいいでしょう。まず「育成したい資質・能力」が最初にあって、そこから総合的な学習の時間のあり方を構想すると、コンピテンシー型になります。すると、各教科も「育成したい資質・能力」から構想されているわけですから、なにも特別なことをしなくても、自然と総合的な学習の時間と各教科が連動していることになります。むりやり各教科と総合的な学習の時間のコンテンツを共通させる必要など、ありません。

まとめ

コンテンツでつなぐのではなく、コンピテンシーで貫く。これを意識するだけで、ずいぶん教育課程編成が楽になると思います。コンテンツでつなげようと頑張っても、必ずどこかで破綻してしまうでしょう。

また、「教科等横断的な視点」は単独で実現できるものではありません。カリキュラム・マネジメントの一部分として期待されているものです。各学校には「カリキュラム・マネジメント」として行なうべきことが3つ設定されていますが、「教科等横断的な視点」はそのうちの1つです。教科等横断的な視点を真剣に実現しようとするなら、カリキュラム・マネジメントの概念についてしっかり理解しておく必要があります。
【参考】カリキュラム・マネジメントとは―3つの指針と学校運営の要点―

参考文献

■澤井陽介編著・横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校著『鎌倉発「深い学び」のカリキュラム・デザイン』東洋館出版社、2018年

新学習指導要領の理念を実際の教育活動に落とし込んだ小学校の実践が報告された本です。カリキュラムをデザインする際に「育成したい資質・能力」を意識すれば、特別に工夫するまでもなく自然と教科等横断的な構成になる上に、管理職だけでなく全教員が参加するカリキュラム・マネジメントに辿り着くことがよく分かります。

 

【教育課程編成の基礎】スコープとシークエンスとは?

教育課程を編成する

教育課程を編成を編成する上で重要な2つの観点が「スコープ」と「シークエンス」です。

スコープ

「スコープ」とは、教育課程を編成するとき、どういった教育内容を選択するのかという、学習の範囲あるいは領域のことです。ゴルゴ13が狙撃する標的を狙うとき、何かを覗いていますね。デューク東郷が覗いているあのパーツも「スコープ」と呼ばれているわけですが、やはりそれも「範囲」と「領域」を絞ってターゲットに狙いを定める役割を果たしているものです。ああいうふうに、何かを狙って照準を絞っている「スコープ」をイメージすると、「領域」とか「範囲」というイメージをつかみやすいのではないかと思います。

さて、教育内容を選ぶとき、行き当たりばったりで「あれもこれも教えよう」などと言っていたら上手くいくはずがありません。教育の目的や目標に即して、教育内容を取捨選択しましょう。
教育の目的や目標は、生徒に身につけてほしい知識や能力が明確になっていれば、おのずと決まってきます。だからまずは、生徒にどのような知識や能力を身につけさせたいのかを明確にするところから考えることになります。

経験主義と系統主義

そして「スコープ」をどう考えるかについては、様々な立場に分かれています。以下、主な立場を列挙してみます。

【生活中心主義】
生活や人生の必要に即して学ぶべき領域を設定します。
具体的には、「料理を作る/病気にならない/お金を稼ぐ/友達と仲良くする/親を大切にする/人の話を聞く/計算をする・・・」などなど。
これらは確かに生活をする上では大切なことがらですが、こういうふうに必要なものを列挙していくだけでは、切りがありませんし、重複して無駄な部分もたくさん出てきそうです。そこで、もう少し学ぶべき「範囲」や「領域」をまとめて洗練させてみたくなります。

【経験主義】
生活中心主義を洗練させます。生徒の興味関心を重視しながら領域をまとめて「教科」を設定します。
具体的には、「健康/自然/お金/人間関係/言葉/数字・・・」などなど。
こうやって雑多な生活内容をいくつかの「領域」にまとめて「範囲」を確定すると、無駄な部分もなくなり、教える方も学ぶ方も全体像が見えやすくなりそうです。ここで「スコープ」の観点が重要になってくるわけですね。

【学問中心主義】
一方、生徒たちの生活をまったく無視して、既存の学問体系に即して学ぶべき領域を設定するような考え方もあります。
具体的には、「医学/生物学/栄養学/物理学/化学/天文学/自然地理学/人文地理学/倫理学/経済学/政治学/社会学/言語学/幾何学/代数学・・・」などなど。
こうすると研究の分野だけ「教科」ができることになります。が、これではやはり切りがありませんし、重複する部分が出て無駄もありそうですし、そもそもすべての子供が学ぶべきことがらかどうかも不安です。そこでもう少し学ぶべき「範囲」や「領域」をまとめて洗練させてみたくなります。

【系統主義】
学問中心主義を洗練させます。学問の系統に従いつつ、「教科」を設定します。
具体的には、「保健体育/家庭科/道徳/理科/社会科/国語/数学・・・」などなど。
こうやって既存の学問体系をいくつかの「領域」にまとめて「範囲」を確定すると、無駄な部分もなくなり、教える方も学ぶ方も全体像が見えやすくなりそうです。ここで「スコープ」の観点が重要になってくるわけですね。

経験主義と系統主義の長所と短所

というわけで、教育課程を編成するときに、基本的な考え方が大きく二つに分れています。「経験主義」と「系統主義」の2つです。どちらにも長所と短所がありますので、それを踏まえて考えていく必要があります。

主義長所短所
経験主義子供の興味関心や個性に即している。
学習の持つ意味が明確になりやすく、学習への意欲を持ちやすい。
知識の体系的な修得が困難。
一斉教授が困難など、授業の効率の問題。
受験に対する不安。
系統主義既存の科学体系を踏まえており、知識を体系的に修得する道筋が明確。
一斉授業が容易。
子供が学習に対する意義を見失いやすく、興味関心を持続できない。

どちらかが完全に正解というわけではなく、両者の長所と短所を踏まえて教育課程を編成していく知恵が重要になります。両者のいいとこ取りをしようとする試みも、これまで数多くなされてきています。以下に代表的な例を見ておきましょう。

教科構成のバリエーション

類型構成方法具体例
相関カリキュラム関係の深い複数の教科間で内容の関連を図る。「地理」と「歴史」をひとつにまとめる。
融合カリキュラム複数の教科から共通の要素を抽出し、新しい教科に再編する。「理科」と「社会」を融合して「生活科」を作る。
広域カリキュラム複数の教科を大きな領域に編成する。「政治学」「経済学」「歴史学」「自然地理学」「人文地理学」「倫理学」「教育学」「社会学」「哲学」「心理学」をまとめて「社会科」にする。
クロス・カリキュラム。横断カリキュラム。複数の教科の教員が連携して、お互いにほかの教科の内容との関連を図る。「安全」という観点から、「家庭科」「理科」「社会科」などを横断して学習する。
コア・カリキュラム中心となる基本教科を決め、周辺にほかの教科を関連させて配列する。「社会科」を中心とし、そこで必要になる知識や技能を国語科や数学で身につける。

最新の学習指導要領では「教科等横断の視点」を打ち出しており、上の表でいう「クロス・カリキュラム」の観点が強くなってきていると同時に、「総合的な学習の時間」を中心としたカリキュラム構成を打ち出すなど、上の表でいう「コア・カリキュラム」の観点も濃くなりつつあります。
(ただし補足しておくと、「コンテンツ」による横断や統合ではなく、「コンピテンシー」による横断や統合を目指していることは、忘れてはならない重要な観点です。)

シークエンス

「シークエンス」とは、教育課程編成をするとき、教育内容をどのような順番で配列するかという、順序のことです。
(他に「シーケンス」と呼ぶことがありますが、英語のsequenceをカタカナで呼ぶときに発音が微妙にズレているだけで、中身は同じく「順序」を意味しています。)

さて、ふつうにシークエンスを考えたら、生徒の発達段階に即して配列するのがいいような気がするわけです。

【段階型】=簡単なものから難しいものへ、単純なものから複雑なものへ、具体的なものから抽象的なものへ、というふうに、段階的に教える内容を発展させていくように授業の順序を決める。

明治の開発主義の時代から、授業はこの段階型で並べるのが常識でした。ところが・・・

【現代型】=本質的なことは低年齢から教えられる。

ブルーナーなど「教育の現代化」を唱える学者たちによって、1960年代から、教科の本質は低年齢からでも教えられるという主張が説得力を持つようになりました。ポイントは、様々な知識や技術を教えるのではなく、「教科の本質」を教えるというところにあります。
確かに様々な知識や技術は、いきなり難しいことを教えることはできなさそうです。段階を踏んでいかなくてはならないでしょう。しかしどうも「教科の本質」はそうではないということのようです。普遍的な「教科の本質」は、発達段階に関わりなく、様々な知識や技術を通じながら教えることができるという立場です。

最新の学習指導要領は、「現代型」の考え方に立っていると思われます。というのは、「コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換」という基本思想を踏まえて総合的に考えると、それぞれの授業で雑多なコンテンツを身につけるのではなく、すべての授業を通じて普遍的なコンピテンシー(能力)を身につけることに重点を置いているからです。コンテンツを教えるのであれば「段階型」が良いに決まっているように思えますが、コンピテンシーを身につけさせたい場合には、「段階型」の発想では限界があるかもしれません。
となると、教える方には、しっかりと「教科の本質」を理解しておく必要が生じてきます。どの発達段階の子供に対しても、様々な知識を通じながら、「教科の本質」を教える力が求められています。

単元

順番に並べられた授業は、一回一回バラバラに行われるのではなく、いくつかをグループとしてまとめると、全体構成に統一感とメリハリが出て、一回一回の授業自体も理解しやすくなります。こうしてまとめた授業グループのことを「単元」と呼びます。

では、一年間(あるいは一学期間)の授業の全体の流れを、どういった単元に区切るとよいでしょうか。重要なのは、子供たちが資質・能力を伸ばす上で分かりやすい単元に区切っていくことです。「単元のまとまり」とは、「身につけさせたい資質・能力のまとまり」でもあります。逆に言えば、「身につけさせたい資質・能力のまとまり」が見えていなければ、「単元のまとまり」も見えてきません。要するに、やはり「教科の本質」を踏まえて、単元を区切っていくことになるわけです。

まとめ

「スコープ」の観点から見ても、「シークエンス」の観点から見ても、新しい学習指導要領はこれまでの考え方に対して大きく変更を迫るものです。学習指導要領の中身を理解する上でも、カリキュラム・マネジメント実践のためにも、教育課程編成の基本用語である「スコープ」および「シークエンス」の意味はしっかりと理解しておきたいものです。