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「人社系のダウンサイジング」の歴史的背景――知の再編とヘゲモニーの転換

はじめに―人文学の危機をどう捉えるか

1.問題の所在――価値ある知の基準の変化

 「人社系のダウンサイジング」とは、人文社会科学系の学部や学科が一律に廃止されることだけを意味しない。人文社会科学系の学部・学科の統合や改組、理工・情報系への定員移動、ICT・AIなどの「成長分野」に対する重点的な財政支援、外部評価の強化、さらに大学内部における予算、教員ポスト、発言力の相対的な低下までを含む、一連の変化を指している。ダウンサイジングとは単なる量的削減ではなく、公的資源を配分する際の優先順位が変更され、その結果として人文社会科学系の規模と自律性が相対的に縮小していく過程である。 この変化は、一つの政策によって突然始まったわけではない。例えば、2015年の文部科学大臣通知は、国立大学の使命として「社会・経済的な観点からの需要は必ずしも多くないが重要な学問分野」の継承を認める一方で、人文社会科学系学部・大学院に対しては、組織の廃止や「社会的要請の高い分野」への転換を求めていた。この文書の内部には、需要の多寡にかかわらず重要な学問を継承するという原理と、社会的需要に応じて大学組織を転換するという原理との緊張が、すでに表れている。
【参照】文部科学省「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」
 その後、政策の重点は、単なる組織見直しから、成長分野への積極的な資源移動へと進んでいる。現在の「大学・高専機能強化支援事業」では、デジタル、グリーン、AI、半導体、量子、バイオなどへの学部転換が財政的に支援されている。2026年に新設された枠では、文系学部の定員削減を伴う理系学部への再編が支援要件に組み込まれた。ここでは、人社系の縮小が直接命令されるというより、特定分野への転換に財政的誘因を与えることによって、大学の資源配分が政策的に誘導されている。
【参照】文部科学省「大学・高専機能強化支援事業」
 つまり、政府が人文学の廃止を一律に命じているのではない。どの知を維持し、どの知を拡大し、どの知に縮小や転換を求めるのかを決定する基準が変化していることが問題の本質である。

 人社系のダウンサイジングは、一般には、18歳人口の減少、学生の進路選択、卒業後の就職、産業界の人材需要などによって説明される。これらが現実的な要因であることは否定できない。学生数が減少する以上、すべての大学と学部を従来と同じ規模で維持することは困難である。また、情報技術者や理工系人材の不足に対して、高等教育が一定の対応を行うことにも合理性がある。
 しかし、それだけでは、なぜ特定の分野が縮小の対象となり、別の分野が「成長分野」として重点的に支援されるのかを十分に説明できない。「社会的需要」や「人材需要」は、社会の外部に客観的な事実として存在し、大学が受動的に対応するだけのものではない。何を将来の需要とみなし、どの能力を重要と評価し、どの分野に公的資源を配分するのかは、政府、産業界、国際機関、大学、専門家などの判断によって構成される。したがって、問うべきなのは、単にどの分野に需要があるのかではなく、誰が、どのような将来社会を想定し、何を「社会的需要」と定義しているのかである。

 何を価値ある知とみなすのか、その基準が急激に変化しているなかで、とりわけ公的支援を受ける正当性を説明しにくくなっているのは、効果が現れるまでに長い時間を要する知、直接的な職業や産業との対応関係を示しにくい知、数値によって成果を測定しにくい知、対象の意味や価値を解釈して目的そのものを問い直す知、そして大学内部の専門的基準によって自律的に正当化されてきた知である。人文学は、こうした性質を持つ代表的な領域である。
 ただし、これは人文学だけの問題ではない。短期的な成果を示しにくい基礎科学や、資料保存、長期観測なども、同じ評価基準のもとでは不利になり得る。反対に、人文学や社会科学であっても、観光、コンテンツ、政策立案、データ分析などに接続できる領域は、積極的に支援されることがある。現在進んでいるのは、「文系から理系へ」という単純な転換というより、測定可能で、経済的・政策的な成果へ翻訳しやすい知と、そうではない知との間の選別である。

 従来、人文学や教養は、人格形成、国民文化の継承、民主的市民の育成、学問それ自体の価値などによって正当化されてきた。しかし現在では、雇用可能性、人的資本、イノベーション、国際競争力などが、より強い正当化の言葉になっている。ここで生じているのは、知の公的正当性を支える語彙群の交代である。
 もちろん、現代の人文学の危機は、このような政策的・経済的な選別だけでは説明できない。国内だけでなく海外においても、専門家や大学に対するポピュリズム的反発、アイデンティティ・ポリティクスをめぐる文化戦争、政権や既存秩序にとって不都合な批判的知性を排除しようとする政治的動きも存在する。したがって、人文学の危機には、人的資本やイノベーションを基準として支援すべき知を選別する政策的・経済的な側面と、大学、専門家、批判的知性を特権的、偏向的な存在として批判する政治的・感情的な側面とがある。
 そして両者は同じものではないが、しばしば結び付く。「役に立たない」という評価と、「信用できない」「偏向している」という評価が重なることによって、人文学の縮小が正当化されるからである。本論では、政策的・経済的な選別を中心的な分析対象としつつ、政治的な反知性主義をその外部にある偶発的な現象とはみなさない。それもまた、どの知を信頼し、どの知を排除するのかを決めるヘゲモニー形成の一部として位置付けるべきだろう。

 以上を踏まえ、本論では、何を価値ある知とみなす基準が歴史的にどのように形成され、変化してきたのかを検討する。そのうえで、18世紀フランス啓蒙主義による知の再編と、現代の人社系ダウンサイジングが、どのような構造を共有しているのかを明らかにする。さらに、国民国家を前提として成立した近代大学の知の秩序が、グローバル化、知識基盤社会、第四次産業革命のもとでどのように組み換えられているのかを考察したい。

2.人文学・人文知・教養の区別

 議論に先立ち、本論における「人文学」「人文知」「教養」の意味を区別しておく必要がある。

 本論でいう「人文学」とは、文学、歴史学、哲学、言語学など、大学の学部、学科、専攻、学会、学術雑誌、学位制度として組織された専門領域を指す。人文学は研究対象の集合であるだけではない。何を研究成果として認めるのか、誰を専門家として認定するのか、どの資料を保存し、どの知識を次世代へ継承するのかを決定する制度でもある。
 この制度の背後には、図書館、文書館、博物館における資料の収集・保存・整理、古典の校訂や翻訳、目録の作成、古典語や外国語の習得、研究者の雇用と養成、査読と専門家共同体、長期的な研究時間など、膨大な費用と時間を必要とする知的インフラが存在する。人文学を大学の学部や学会という外形だけで捉えることはできない。

 これに対して「人文知」とは、人文学という制度と密接に関係しながらも、特定の学部や学科だけには限定されない知の働きを指す。人文知は、過去の記録を保存して社会の記憶を継承し、人間の行為、言語、制度、文化が持つ意味を解釈する。また、何が正しいのか、何を社会の目的とすべきなのかを検討し、現在では自明とされている概念や制度を歴史化する。さらに、異なる文化、経験、価値の間を翻訳し、知を生み出す制度と権力関係を自己反省的に問い直す。
 このような人文知の働きは、人文学の内部だけに存在するものではない。法学、教育学、社会科学、医学、工学、自然科学においても、研究の意味、目的、倫理、歴史を問うときには、人文知が必要になる。
 しかし、人文知が人文学の外部でも働くことと、人文学という制度が不要であることは同じではない。人文知は、資料、方法、専門家共同体、研究時間、世代間継承といった制度的基盤によって養われる。制度を弱体化させたまま、人文知の働きだけを企業、行政、メディアに求めれば、それはコンサルティング、マーケティング、コンテンツ制作など、市場が利用しやすい形に回収される可能性が高い。したがって、人文学と人文知は分析上区別すべきだが、現実には切り離すことができない。

 「教養」とは、人文知を含む複数の知を、専門家養成だけでなく、人格、判断力、市民性の形成へと結び付ける教育理念である。したがって、教養は人文学そのものではない。自然科学や社会科学も教養を構成する。また、教養とは専門知識の量を増やすことだけでもない。異なる知を関連付け、自分自身と社会のあり方について判断できるようにする教育的構想である。
 ただし、従来の教養理念には、エリート階層の文化を普遍的なものとして扱い、特定の古典や趣味を「教養ある人間」の基準とした側面もある。したがって、教養を擁護する場合にも、旧来の教養教育をそのまま復活させればよいわけではない。大学が大衆化し、学生の背景や進路が多様化した現代において、誰に、何を、何のために保障するのかを、改めて構想する必要がある。

 さらに、「人文社会系」は、人文学と社会科学を一括して扱う政策上・組織上の分類である。しかし、哲学や文学と、経済学、法学、経営学、教育学では、研究方法、職業との関係、政策的評価が大きく異なる。社会科学の中には、データ分析や政策立案を通じて、現在の有用性基準と親和的な分野も存在する。
 したがって、人文社会系が一つのまとまった領域として一様に縮小していると考えるべきではない。実際には、人文社会系内部でも、成長分野に接続しやすい領域、職業資格や政策実務と結び付く領域、数量的成果を示しやすい領域が選択的に維持・拡大される一方で、歴史的・解釈的・規範的研究を中心とする領域が縮小の圧力を受けている。

 そこで本論では、政策現象を指す場合には「人社系」または「人文社会系」を用い、制度化された専門領域を指す場合には「人文学」を用いる。また、人文学の内外を横断する知の働きを論じる場合には「人文知」を用い、それを人格や判断力の形成へ結び付ける教育理念については「教養」と呼ぶことにする。

3.分析枠組み――知の制度化・正当性・ヘゲモニー

 知が持続的に生産・伝承されるためには、学校、大学、教会、学会、出版、図書館、研究費、資格制度など、一定の制度に組み込まれる必要がある。制度化されることによって、知は個人の経験や一時的な発見を越えて蓄積され、世代を越えて継承される。また、研究方法や評価基準が共有されることによって、専門的な探究が可能になる。
 しかし、知の制度化には別の側面もある。制度が安定すると、知の評価基準、専門家の資格、組織の境界が固定される。知の蓄積は専門分化を促し、専門分化はより高度な研究を可能にする一方で、制度内部の論理と、その外部にある社会との間に距離を生み出す。さらに社会の構造や人々の欲求が変化すれば、既存の制度が生産する知と、新たに求められる知との間にズレが生じる。
 このズレが拡大すると、既存の知を支えてきた正当化原理が問い直される。そして、新しい社会像を提示する勢力が、何を価値ある知とみなすのかを再定義し、制度と資源配分を組み換えようとする。したがって、知の再編は、社会の変化に対する中立的・自動的な適応ではない。それは、異なる社会勢力が、自らの必要とする知を社会全体にとって普遍的に価値あるものとして承認させようとする政治的過程でもある。

 この点からすれば、「社会的要請」という言葉を無批判に用いることはできない。社会には複数の要求が存在する。産業界が求める人材、地域社会が必要とする文化的記憶、市民が必要とする政治的判断、国家が求める競争力は、必ずしも一致しない。その中から特定の要求だけが「社会的要請」として選び出されるのは、政府、企業、国際機関、専門家、大学、市民などの間に、権力と発言力の差があるからである。
 本論では、特定の社会勢力が自らの価値や利害を、「社会全体の利益」「時代の要請」「避けることのできない未来」として承認させる過程を、ヘゲモニーの形成と呼ぶ。ヘゲモニーは、単なる強制を意味しない。特定の価値基準が常識となり、それ以外の選択肢を考えること自体が困難になる状態である。
 例えば、「デジタル人材が不足している」「大学は成長分野に転換すべきである」「学んだ成果は測定できなければならない」といった命題には、それぞれ一定の合理的根拠がある。しかし、それらが大学全体を評価する唯一の基準となり、その基準から外れる知を維持する理由が語れなくなったとき、知をめぐるヘゲモニーが成立する。

 本論では、このような知の再編が大規模に生じた二つの時代を比較する。
 第一は、中世的な教会・大学を中心とする知の秩序から、啓蒙主義、科学革命、市民社会、国民国家を前提とする近代的な知の秩序への移行である。そこでは、商業、出版、科学、技術、専門職を担う新興諸層が、自らの知を「理性」「進歩」「公共的有用性」として普遍化した。その知は、19世紀以降、近代大学、国民教育、学会などの制度に組み込まれた。
 第二は、国民国家を共通の前提として成立した近代大学から、グローバル化、知識基盤社会、第四次産業革命を前提とする知の秩序への移行である。そこでは、国際機関、政府、産業界、デジタル企業、政策専門家、大学経営組織などが、「人的資本」「コンピテンシー」「イノベーション」「国際競争力」という言葉によって、価値ある知の基準を再定義しつつある。
 もちろん両者は同一の出来事ではない。しかし、社会秩序の前提が変化するなかで、新たな資源を持つ勢力が、自らの必要とする知を普遍的な知として提示し、既存の知の制度を組み換えるという構造を共有している。

 この比較を行うためには、近代大学が何によって自らを正当化してきたのかを整理する必要がある。近代大学には、少なくとも三つの正当化原理が存在していた。
 第一は、短期的な有用性から独立して、自由に真理を追究するという「真理探究」の原理である。
 第二は、教養を通じて人格、判断力、市民性を形成するという「人間形成」の原理である。
 第三は、国家、社会、職業、産業に必要な知識と人材を生み出すという「社会的有用性」の原理である。
 これらは、最初から完全に調和していたわけではない。しかし、国民国家という共通の枠組みの中で一定の均衡を保っていた。真理探究は国民的な学術の発展に、人間形成は国民とエリートの形成に、社会的有用性は国家、産業、行政の発展に、それぞれ結び付けられたからである。

 現代に起きているのは、社会的有用性が単に強くなることではない。社会的有用性の中でも、測定可能で、経済成長、国際競争力、イノベーションへと翻訳できる有用性が、他の二つを評価する上位原理になりつつあることである。
 その結果、真理探究はイノベーションや研究インパクトとして、人間形成は人的資本やコンピテンシーとして再定義される。真理探究と人間形成が消滅するのではない。それらが経済的・政策的に理解可能な言葉へ翻訳され、特定の有用性の内部に取り込まれるのである。

 以上を踏まえ、本論では、現代の人文学の危機を次のように捉える。
 現代の人文学の危機とは、人文知一般が否定されていることではない。それは、国民国家を前提として近代大学を支えてきた真理探究、人間形成、社会的有用性の均衡が崩れ、グローバルな知識基盤社会に適合する、測定可能で経済的に理解可能な有用性が、他の正当化原理を再定義しつつあることである。
 ただし、この変化は制度や市場の自動的な作用だけによって生じるのではない。専門家への反発、文化戦争、政治的な反知性主義も、どの知を信頼し、どの知を排除するのかを決めるヘゲモニー形成に関与している。
 したがって、本論では、人文学の危機を、知の価値基準の変更、大学を支える社会的前提の変化、知をめぐる社会勢力間のヘゲモニー争い、専門家と大学に対する政治的信頼の危機、そして人文知を支える制度的・物質的基盤の動揺が重なり合う現象として分析する。

第1章 第一の知の再編――啓蒙主義と近代大学

1.中世的な知の制度化とその動揺

 ヨーロッパでは、中世以来、教会、修道院、司教座学校、大学などが、知を収集し、保存し、伝承する広域的なネットワークを形成してきた。修道院の写本工房は古代の文献を筆写し、教会はラテン語を共通言語とする知識人のネットワークを維持した。12世紀以降に成立した大学は、神学、法学、医学、自由学芸を専門的に教授し、学位によって知識と専門家の資格を認定する制度となった。
 大学は教師と学生からなる団体として一定の自治を持ち、教会権力や世俗権力との交渉を通じて、自らの権利と秩序を形成した。ラテン語による教育と学位資格は、地域を越えて通用する知識人を生み出し、ヨーロッパ規模で知を流通させた。知は、個々の教師や修道院に属するものから、専門家共同体によって生産・審査・継承されるものへと変化したのである。
 この制度化の中心にあったのが、スコラ学だった。スコラ学は、権威ある文献を無批判に暗記するだけの方法ではない。異なる学説を整理し、問いを立て、賛否の議論を組み立て、論理的に解決を導く方法だった。アリストテレスをはじめとする古代の文献が、アラビア語圏などを経由してラテン語に翻訳されると、大学はそれらをキリスト教的世界観の中に組み込みながら、体系的な知へと再編した。スコラ学は、中世的な知の硬直化をもたらしただけではなく、知を論証可能なものとし、専門的な討議を成立させる基盤でもあった。

 しかし、その強みは同時に限界ともなった。大学で正当な知として認められるためには、既存の権威ある文献と接続し、定められた論証形式に従う必要があった。そのため、知の整合性を高めることには適していても、既存の分類そのものを変更したり、文献の外部にある現象を新しい方法で捉えたりすることには、制度的な摩擦が生じた。
 15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ社会の側も大きく変化した。活版印刷によって文献の複製と流通が拡大し、航海と植民地進出によって、古代の文献には記載されていない動植物、地理、民族が知られるようになった。商業の拡大は、測量、会計、航海術、暦、地図などの実践知を必要とした。国家間の競争と戦争は、築城、砲術、造船、鉱山、土木に関わる技術を発展させた。知の対象も、知を必要とする社会的主体も、中世大学が形成された時代とは異なるものになっていった。
 ルネサンスと科学革命を通じて登場した新しい知は、この変化に応答するものだった。コペルニクス、ガリレオ、ベーコン、デカルト、ニュートンらに象徴される知は、古典や権威の解釈だけでなく、観察、実験、数学的記述、方法的懐疑によって正当化されようとした。何が真実であるかを決める根拠が、誰が述べたのかという権威から、どのような方法によって確かめられたのかという手続へと、次第に移動し始めたのである。
 重要なのは、この過程で、教会や大学が知を生産する唯一の中心ではなくなったことである。宮廷、王立アカデミー、学術協会、サロン、職人の工房、出版市場、書簡による通信ネットワークなど、教会や大学とは異なる場所で知が生産され、交換されるようになった。知の正当性を決定する拠点が多様化したのである。
 この変化の中で、教会と大学が独占してきた知の権威は次第に相対化された。新しい知の担い手たちは、既存制度への所属によってではなく、観察や実験の結果、数学的な証明、出版物を通じた批判と応答によって、自らの知を正当化しようとした。科学革命とは、新しい発見の集合であるだけでなく、誰が、どこで、どのような手続によって真理を語ることができるのかをめぐる、知の権威の再編だった。

2.ルネサンスという過渡的形態と啓蒙主義による知の再編

 一般的な歴史叙述では、ルネサンスそのものが、中世から近代への決定的な転換として理解されている。確かにルネサンス的人文主義は、スコラ学的な知のあり方を批判し、言語、歴史、文学、修辞、道徳、政治、人間の現世的生活に対する新しい関心を生み出した。
 ルネサンス的人文主義者たちは、中世スコラ学を通じて積み重ねられた注釈や解釈をいったん退け、古代ギリシア・ローマの文献や、聖書の原典へ直接立ち返ろうとした。古代の文献を収集し、異なる写本を比較し、語句の用法や成立年代を検討する文献学的方法は、伝承されてきた権威を歴史的批判の対象に変えた。
 しかし一方で、ルネサンス的人文主義は、中世的権威を相対化しながら、新しい権威を古典に求めていた。中世の注釈と体系に対して古代の原典を、スコラ学的論理に対して修辞や歴史を、来世に対して現世の人間を押し出したが、知の価値を古典的模範から完全に切り離したわけではなかった。

 これに対して、17世紀の科学革命と18世紀の啓蒙主義は、古典そのものにも限界があることを明確にした。新大陸の地理や動植物、望遠鏡によって観測された天体、顕微鏡によって発見された微細な世界は、古代人が知らなかったものである。古典をどれほど正確に読んでも、そこから新しい世界のすべてを知ることはできない。知の源泉は、過去の文献だけでなく、現在の自然と社会へ移されなければならなかった。
 ダランベールが『百科全書』の「序論」で描いた知の歴史において、ルネサンスによる「文芸の復興」は重要な出発点ではあるが、知の再編の完成でもない。古代の文献を回復したルネサンスの後に、ベーコンが知の新しい分類と経験的方法を示し、デカルトが方法的懐疑によって思考の出発点を組み替え、ロックやニュートンが観察と経験に基づく知を発展させたと位置付けられた。啓蒙主義者の自己理解から見れば、ルネサンスは中世的知から抜け出すための必要な段階だったが、なお過去の権威に依存する未成熟な段階に過ぎなかった。

 ディドロとダランベールの『百科全書』は、知の再編の在り様を、一つのメディアの中に可視化した試みだった。本論の論旨に関わって重要なのは、機械的技芸の位置付けである。従来の知の序列では、精神的活動に関わる自由学芸が高く評価され、身体と手を用いる機械的技芸は低く見られてきた。これに対してディドロは、職人の仕事を実際に観察し、使用される道具、材料、工程、技法を文章と図版によって記録した。
 図版においては、完成した製品だけでなく、道具の構造、身体の動作、作業場の配置、製造工程が細かく分解され、可視化された。職人の身体に埋め込まれていた暗黙的な知は、言語と図像によって記録され、他者が参照できる知へと変換された。機械的技芸は、単なる手作業ではなく、観察、判断、経験を必要とする合理的な知として位置付け直された。
 『百科全書』は、新興の都市的・商業的・専門職的諸層が持つ知と価値を、社会全体にとって普遍的なものとして提示した。彼らが重視した生産、技術、流通、実務に関わる知は、「理性」「進歩」「公共的有用性」という言葉によって正当化された。特定の社会層が担っていた知は、社会全体を導くべき知として語り直されたのである。
 その意味で、『百科全書』は、新興諸層が蓄積していた経済的・技術的・情報的資源を、文化的・政治的権威へと転換するヘゲモニー形成の装置だった。ただし、それは新興ブルジョアジーが旧体制の外部から一方的に権力を奪取する運動ではなかった。旧体制内部の改革派、出版市場、国家の保護と検閲、王立アカデミー、貴族的サロンなどが複雑に交差するなかで形成された、新しい社会勢力の連合だった。
 したがって、啓蒙主義を、自由な知識人が閉鎖的な教会や大学に対抗した運動としてだけ捉えることはできない。それは、社会の新しい欲求に応答できない知の権威を批判し、何を価値ある知とみなすのかを再定義すると同時に、その知を支える新しい出版市場、新しい専門家、新しい読者、新しい権力関係を作り出す運動だったのである。

3.近代大学という「同床異夢」

 啓蒙主義と科学革命によって再編された知が、そのまま近代大学へ直線的に流れ込んだわけではない。フランス革命以後の専門教育機関、ドイツの大学改革、イギリスの古典教育など、異なる制度と理念が並行して形成されていくことになる。19世紀の高等教育は、一つの「近代大学モデル」に収斂したのではなく、各国の国家形成、階級構造、宗教、産業化のあり方に応じて、複数の制度へと分岐した。

 それでも、近代的な高等教育制度の内部には、少なくとも三つの正当化原理を見いだすことができる。
 第一は、自由な研究によって真理を追究するという真理探究の原理である。学問は、既存の知識を学生に伝達するだけでなく、いまだ知られていない知を生産する営みとして理解されるようになった。そのためには、研究者が国家、教会、市場の直接的な要求から一定の距離を保ち、学問それ自体の基準によって問いを設定できなければならない。
 第二は、教養を通じて人格や判断力を形成するという人間形成の原理である。大学は特定の職業技術を教えるだけでなく、多様な知との出会いを通じて、人間の能力を全体として発達させる場であると考えられた。学ぶことは、外部から知識を付加することではなく、自己が世界との関係を作り替える過程として捉えられた。
 第三は、国家、産業、行政、職業に役立つ人材と知を生み出すという社会的有用性の原理である。近代国家は、官僚、法曹、医師、教師、技術者を必要とした。産業化は、科学と技術を生産へ接続する専門家を求めた。高等教育は、学問の自由を掲げる一方で、国家と社会の発展に必要な人材を計画的に養成する制度でもあった。

 フンボルトの名と結び付けられるドイツの大学理念は、第一と第二の原理を統合しようとする試みだったと言えよう。そこでは、教育と研究の統一、教える自由と学ぶ自由、専門的探究と人格形成の結合が掲げられた。学生は完成した知識を受け取るのではなく、研究の過程に参加することによって、自らを形成すると考えられた。知をそれ自体のために追究することが、結果として自由な人格を形成するという構想である。
 もちろん、「フンボルト型大学」を、1810年のベルリン大学において一挙に完成した制度とみなすことには注意が必要である。研究と教育の統一や大学の自治という理念は、複数の思想家と大学改革の中から形成され、後世になってフンボルトの名のもとに一つのモデルとして整理・統合された面がある。それでも、この理念が近代大学の自己理解に強い影響を与えたことは否定できない。大学は、国家から財政的保障を受けながら、国家の直接的命令からは自由であるべきだとされた。ここには最初から緊張がある。国家が大学の自律性を保障するのは、自由な学問が長期的には国家の文化的・科学的発展に貢献すると期待されたからである。無目的な真理探究は、国家にとって無用だったのではない。直接命令しない方が、より高い成果を生み出すと考えられたのである。
 人文知も、この近代的な制度の中で新しい位置を与えられた。ドイツの新人文主義では、古代ギリシアの言語、文学、芸術、哲学が、人間の諸能力を調和的に形成するための媒体として重視された。ゲーテやシラー、ヘルダー、フンボルトらにとって、古典は単に権威として模倣すべきものではなく、現在の自己を形成し、他者や世界との関係を作り直すための対象だった。
 このとき古典文献の研究は、教養の内容であると同時に、専門的な学問へと再編された。古典語、文献学、歴史学は、厳密な資料批判と方法を持つ学問として制度化されていった。ルネサンス的人文主義が担ってきた文献の収集、校訂、解釈は、近代大学の中で専門的な人文学へと作り替えられたのである。
 イギリスにおいても、パブリックスクールやオックスフォード、ケンブリッジを中心に、古典教育は人格と指導者層を形成するための教養として重視された。ただし、そこで形成されたのは、抽象的で普遍的な「人間」だけではない。古典教育は、統治能力、自己規律、共通の趣味と作法を持つジェントルマンを形成し、支配階層の社会的結合を支えるものでもあった。古典は人格形成の媒体であると同時に、階級的な選抜と文化的威信の装置だった。

 一方、工学などの実践的分野は、大学の自然哲学から直線的に分化したわけではない。フランスでは、軍事、鉱山、道路、橋梁、土木などに必要な技術者を養成するため、18世紀から専門学校が設立された。1794年に創設されたエコール・ポリテクニークは、技術者と高級官僚の不足に対応し、数学、物理学、化学を基礎として、砲兵、工兵、鉱山、道路・橋梁などの国家的実務へ進む人材を養成した。ここでは、科学的知は自由な人格形成のためではなく、国家の軍事力、行政能力、産業基盤を強化するために制度化された。科学と技術の制度化は、大学の自律的研究だけでなく、国家が必要とする専門家を計画的に養成する制度によって進められたのである。

 近代的な高等教育は、このように異なる原理と制度の組み合わせとして成立した。真理探究は、学問の自由と専門家共同体を必要とした。人間形成は、教養と人格の自律を重視した。社会的有用性は、国家、産業、行政が求める人材と知の生産を要求した。
 三つの原理は、完全に調和していたわけではない。真理探究は、短期的な有用性からの独立を要求する。人間形成は、専門分化によって人間の能力が断片化されることを警戒する。社会的有用性は、国家や産業の具体的な需要に応答することを求める。それぞれが異なる目的を持ちながら、同じ高等教育制度の中に組み込まれたのである。
 それにもかかわらず、三つの原理が同居できたのは、国民国家という共通の枠組みがあったからである。真理探究は、国民的な学術と科学の発展に貢献するとされた。人間形成は、国民文化を継承し、国家と公共社会を担う市民やエリートを形成するとされた。社会的有用性は、行政、軍事、産業、学校を支える専門家を養成するとされた。
 この意味で近代大学は、真理を求める者、人間を形成しようとする者、国家や社会に役立とうとする者が、一つの制度に同居する「同床異夢」の組織だった。ただし、その異なる夢は、国民国家の発展という大きな物語の中で、相互に調整することが可能だった。
 したがって、近代大学は、啓蒙主義によって解放された知が到達した最終的な完成形ではない。それは、真理探究、人間形成、社会的有用性という異なる原理を、国民国家という共通の床の上に配置した歴史的な妥協だった。その内部には、自由と国家的統制、普遍性と階級的選抜、自律的研究と社会的動員という矛盾が、成立の当初から埋め込まれていたのである。

第2章 近代大学の膨張と内部矛盾

1.専門分化・大衆化・機能拡張

 19世紀以降、近代大学が安定的な制度として各国に定着すると、その内部で生産される知の量は急速に増加した。大学は、すでに確立した知識を学生に伝達するだけの場所ではなく、未知の知を継続的に生産する研究機関となった。研究が蓄積されるにつれて、学問分野は細分化され、それぞれが固有の研究対象、方法、用語、評価基準を持つようになった。
 哲学や自然哲学の内部に含まれていた領域は、物理学、化学、生物学、心理学、社会学、経済学などの独立した学問へと分化した。人文学においても、文学、歴史学、言語学、哲学が、それぞれの内部で時代、地域、対象、方法によって細かく分かれていった。専門分化は、単なる組織上の区分ではない。何を研究対象として認め、どの方法を正当とし、どのような成果を価値あるものと評価するのかを決定する、知の制度的な境界形成だった。
 学部、学科、講座、研究所が設置され、学会と学術雑誌が形成され、博士号が研究者としての資格を示すようになった。研究者は、特定の専門分野における方法と先行研究を習得し、同じ分野の専門家による審査を受けることによって、専門家共同体の一員として認められるようになった。
 この制度は、知の信頼性・正統性を高めた。研究成果は、研究者個人の身分や名声だけで認められるのではなく、資料、方法、論証を専門家が相互に検討することによって評価されるようになった。査読制度は、誤りを発見し、研究成果の質を保証し、学問分野の共通基盤を形成するための重要な仕組みとなった。
 しかし、専門家による質保証は、同時に、専門家だけが価値を理解できる知の領域を形成する。研究が高度化すればするほど、その意味や妥当性を判断するためには、長期間の専門教育が必要になる。ある研究が重要である理由は、その分野の内部では明白であっても、他分野の研究者や一般市民には理解しにくくなる。

 このとき、専門家共同体の自律性は、二つの顔を持つ。一方では、政治、宗教、市場、世論から距離を取り、短期的な有用性に左右されずに真理を追究するための条件となる。他方では、なぜその研究に時間と資源を投入する必要があるのかを、専門家共同体の外部に説明しなくても済む閉鎖性を生み出す。
 専門分化は、知を増大させると同時に、知の全体像を見えにくくする。個々の研究者は、自らの狭い専門については高度な知識を持つが、大学全体で何が研究され、それらがどのように関係しているのかを説明する者はいなくなる。
 この変化は、人文知に固有の問題ではない。しかし人文学では、研究対象や方法の妥当性を実験や数値によって直接示しにくいため、専門家共同体の内部における評価と、外部社会から見た価値との間に、とりわけ大きな隔たりが生じやすい。細分化された研究が、学会報告、紀要、専門誌の内部で循環するようになれば、社会の側からは、研究者がなぜその問題を研究しているのかさえ見えにくくなる。

 第二次世界大戦後には、近代大学にはもう一つの大きな変化が生じる。高等教育への進学者が増加し、大学は少数の支配階層や専門職を養成する機関から、社会の広い層が進学する大衆的な制度へと変化した。
 エリート段階の大学では、大学進学は少数者に与えられた特権であり、国家や社会の指導層に入るための準備とみなされていた。そこでは、学生が一定の文化的背景、学習習慣、言語能力を共有していることが暗黙に想定されていた。教養教育は、限られた階層が共有する古典、歴史、文学、哲学を通じて、指導者にふさわしい人格と判断力を形成するものだった。
 これに対して、マス段階では、大学進学は社会的上昇、専門職への参入、安定した雇用を得るための経路となる。ユニバーサル段階に至れば、大学進学は一部の例外的な人々の選択ではなく、多くの若者にとって標準的な人生経路となる。大学は、選ばれた少数者を既存のエリート文化へ参入させるだけではなく、異なる家庭背景、学力、言語、文化、障害、進路希望を持つ多数の学生を受け入れなければならなくなった。
 この変化が、教育機会の民主化という大きな意義を持つことは間違いない。かつて大学から排除されていた女性、労働者階級、人種的・民族的少数者などに、高等教育への道が開かれた。しかし、学生が多様化すれば、従来は家族や出身階層によって与えられていると想定されていた学習方法、言語能力、生活習慣、進路情報を、大学自身が保障しなければならなくなる。大学には、授業と研究だけでなく、初年次教育、補習教育、キャリア支援、心理相談、経済支援、障害学生支援、留学生支援、課外活動などの機能が求められるようになった。
 さらに大学には、地域社会への貢献、産業界との連携、政策形成への助言、社会人の学び直し、国際交流、知的財産の創出、起業支援、イノベーションなどが期待されるようになった。大学は、研究機関、教育機関、資格認定機関、福祉的支援機関、地域拠点、産業政策の担い手という複数の役割を同時に担うことになった。
 ここで生じたのは、単なる組織の肥大化ではない。無際限に役割と機能を受け入れた結果、近代大学を支えてきた真理探究、人間形成、社会的有用性という三つの正当化原理の対立が先鋭化することになる。
 研究の側から見れば、大学は、高度に専門化された研究に資源を集中し、国際的な研究競争に参加しなければならない。しかし教育の側から見れば、大学は、多様な学生一人ひとりに学習機会を保障し、卒業まで支援しなければならない。社会的有用性の側から見れば、大学は、卒業生の就職、地域課題の解決、産業への貢献、イノベーションの創出など、外部社会から寄せられる多様な要求に応答しなければならない。
 これらの要求は、必ずしも相互に調和しない。研究業績を重視すれば、学生教育や支援に投入する時間が減少する。学生へのきめ細かな支援を重視すれば、教員の研究時間が圧迫される。産業界との連携を重視すれば、短期的な成果を生みにくい研究が周辺化される。大学がすべての要求に応えようとするほど、それぞれの機能を担う組織と職員が増加し、大学全体の目的は見えにくくなる。
 とりわけ困難に直面したのが、教養による人間形成という理念だろう。エリート段階の大学では、特定の古典、言語、歴史、芸術を共有することが、そのまま人格形成と社会的指導力の獲得につながると想定されていた。しかし、大学が多様な学生を受け入れ、卒業後の進路も多様化したとき、誰の文化を教養の基準とするのか、何をすべての学生に共通して教えるべきなのか、その学びが学生の生活や職業とどのように関係するのかを、改めて説明しなければならなくなった。
 従来の教養主義をそのまま維持すれば、特定階層の文化を普遍的なものとして押し付けることになる。しかし、学生の直接的な職業要求に応じて、教養教育を実用的なスキル教育へ置き換えれば、大学が職業訓練機関とは異なる理由を失う。大学の大衆化は、教養を不要にしたのではない。少数のエリートに暗黙に保障されていた教養を、異なる背景を持つすべての学生に、何のために、どのような内容で保障するのかという、より困難な課題を突き付けたのである。

2.啓蒙の自己反転――フランクフルト学派

 近代大学の専門分化と大衆化が進む一方で、近代的な知と理性そのものに対する根本的な自己批判も生じた。その代表が、アドルノとホルクハイマーを中心とするフランクフルト学派である。彼らの問題意識の背景にあったのは、資本主義の発展、官僚制の拡大、大衆社会の成立、ファシズム、ナチズム、反ユダヤ主義、世界大戦という20世紀の歴史的経験だった。
 啓蒙主義は、理性と科学によって神話、迷信、伝統的権威を打破すれば、人間は自由になると考えてきた。しかし、科学技術と合理的官僚制を発達させたはずの近代社会が、なぜファシズムと大量殺戮を生み出したのか。なぜ教育を受け、科学的知識を持ち、高度な文化を築いた社会が、野蛮へと逆行したのか。フランクフルト学派が直面したのは、啓蒙の失敗というより、啓蒙そのものの内部にある矛盾だった。
 彼らによれば、啓蒙とは、単に18世紀に始まった思想運動ではない。それは、未知の自然を理解可能なものへ変え、恐怖から逃れようとする人間の長い運動である。人間は自然の法則を知り、未来を予測し、技術によって自然を操作することで、自然の脅威から自由になろうとした。しかし、自然を理解することが、自然を支配することと同一視されるとき、理性の性格は変化する。対象が何であるのか、どのような意味や価値を持つのかを考える理性ではなく、ある目的を達成するために対象をどのように利用できるかを計算する理性が優位になる。
 このような理性を、ホルクハイマーは道具的理性として批判した。道具的理性は、目的そのものが正しいかどうかを問わない。与えられた目的を、最も効率的に達成する手段を選択する。合理性は、何を目指すべきかを判断する能力ではなく、目標達成の効率へと縮減される。自然を計算し、分類し、操作するために発達した理性は、やがて人間と社会にも適用される。人間は、固有の歴史、経験、感情、意味を持つ存在としてではなく、測定、比較、配置、交換の対象として扱われる。労働者は生産力として、消費者は購買力として、国民は人口として、学生は能力と成績の集合として把握される。人間を自然から解放するはずだった理性が、人間そのものを管理可能な資源へ変えるのである。
 この自己反転は、国家による強制だけを通じて進むわけではない。資本主義市場では、異質な物や活動が価格によって比較される。官僚制では、異なる人間や事例が、共通の規則と分類によって処理される。統計、心理検査、能力測定、標準化された教育などは、複雑な個人を共通の尺度に置き換える。合理化とは混乱を整理することだが、その整理によって、尺度に収まらない差異が切り捨てられる。

 つまり、知の再編は、旧来の権威を解体し、人間を自由にするだけではない。新しい知が制度化され、国家、市場、官僚制と結び付けば、それ自体が新しい管理と支配の技術になる。啓蒙は、外部の敵によって裏切られるのではない。自然を計算し、予測し、支配することによって人間を解放しようとする原理の内部に、管理への反転可能性を含んでいるのである。
 この議論は、現代の大学を考えるうえでも重要な示唆を与える。研究成果を論文数、引用数、外部資金、特許によって測定し、教育成果を単位修得率、就職率、資格取得率、学生満足度によって測定すれば、複雑な教育研究活動を比較可能な情報へ変えることができる。それによって説明責任と透明性が高まる面もある。しかし、測定可能なものだけが価値あるものとして扱われれば、研究と教育の目的そのものが、指標によって逆に規定される。
 人格、文化、創造性、コミュニケーション能力が、人的資本やコンピテンシーとして表現される状況も、同じ問題を持つ。人間の内面的能力が重視されなくなったのではない。むしろ、それらは経済的・社会的成果を生み出す資源として、積極的に発見、分類、測定、開発される。人格形成までが、利用可能な能力の形成として理解されるのである。
 フランクフルト学派の議論は、人的資本論やコンピテンシー概念を直接批判したものではない。しかし、人格や文化までもが測定・交換・動員可能な資源へ変換される現代の状況を、道具的理性の拡張として解釈するための視点を提供する。

3.知と制度の自己批判――ポスト構造主義と学生運動

 フランクフルト学派が、近代的理性がなぜ支配へと自己反転するのかを問うたのに対して、1960年代以降のフランス思想は、何が真理とされ、どのような主体が形成されるのかを、知、言説、制度、権力の関係から問い直した。
 フーコーは、狂気、医学、監獄、性などをめぐる歴史研究を通じて、近代的な知が、すでに存在する対象を中立的に発見しただけではないことを明らかにした。誰を正常とし、誰を異常とするのか、何を健康とし、何を病気とするのか、誰を犯罪者として処罰し、矯正するのかは、病院、精神医学、監獄、学校、軍隊などの制度と結び付いて決定される。知と権力は、外部から対立するだけではない。権力は、人間を観察し、記録し、分類することによって知を生み出す。知は、その分類に基づいて人間を処遇し、訓練し、矯正することで権力を作動させる。フーコーが「権力=知」として問題にしたのは、この相互形成の関係だった。
 この関係を象徴するのが「試験」である。試験は、個人が何を知っているのかを中立的に確認するだけのものではない。個人を観察し、記録し、他者と比較し、順位付けし、正常と異常を区分する。試験によって個人は、成績、能力、適性、発達段階などを持つ存在として可視化される。同時に、その評価に適合するように、自らを訓練する主体へと形成される。
 この視点から見れば、大学は真理を自由に探究する場所であるだけでなく、学位、試験、資格、専門分野を通じて、人間を分類し、社会的な位置へ配分する制度でもある。専門家は、既存の知を所有しているから権威を持つだけではない。何を正常な知と認め、誰を専門家として承認するのかを決定する制度の中に位置することで、権威を持つのである。
 もちろんフーコーは、「真理は存在しない」「専門知はすべて権力の偽装である」と主張したわけではない。彼が問うたのは、ある言明が真理として成立し、ある人物が専門家として発言し、ある分類が自然で自明なものとして受け入れられるためには、どのような歴史的・制度的条件が必要なのかという問題だった。彼の仕事は、専門的な知が中立性と普遍性を掲げながら、実際には特定の主体を正常とし、別の主体を周辺化してきたことを、社会が見過ごせなくなりつつあることを示した。その意味で、制度化された知がやがて公共的信頼を失う危険を早くから察知した「炭鉱のカナリア」だったのかもしれない。

 同じ時期、大学制度そのものに対しても、大規模な異議申し立てが生じた。1960年代後半に世界各地で起きた学生運動である。もちろん、フランス、ドイツ、アメリカ、日本など、それぞれの運動は異なる政治的・社会的背景を持っていた。大学の管理運営、授業や試験への不満だけでなく、ベトナム戦争、植民地主義、人種差別、権威主義的政治、消費社会、家父長制など、広範な問題が争点となった。しかし、これらの運動には、共通する背景があった。大学は高等教育の民主化を掲げ、多数の若者を受け入れるようになった。しかし、大学の管理運営、教育方法、教授と学生の関係、知の内容は、なおエリート段階の権威主義的構造を残していた。進学者数は増えたが、学生が大学の意思決定に参加する機会は限られていた。教育機会の拡大は、自由な人格形成を約束しながら、実際には官僚制と産業社会に適応する人材を大量に養成する仕組みになりつつあった。
 学生たちが批判したのは、大学へのアクセスが狭いことだけではない。何のために大学で学ぶのか、誰が教育内容を決めるのか、大学が国家、軍事、企業とどのような関係を持つのかという、大学の目的と統治をめぐる問題だった。学生運動は、大学を単なる知識の伝達機関ではなく、社会の権力関係が集中的に現れる政治的空間として可視化した。大学は、誰を入学させるのか、どの知を正統とするのか、誰に発言権を与えるのか、卒業生を社会のどの位置に配分するのかを決める。大学の自治は、国家からの自由を意味する一方で、教授会や専門家共同体が学生や市民の関与を排除する根拠にもなり得る。学生運動は、この二重性を突いたのである。

4.自己批判の制度的回収

 フランクフルト学派、ポスト構造主義、学生運動による批判と並行して、大学へのアクセスは急速に拡大し、学生参加の制度が整備され、教育内容と研究領域は大きく変化した。労働者階級、女性、人種的・民族的少数者、植民地支配を受けた地域の経験が、学問の対象として本格的に取り上げられるようになった。女性学、ジェンダー研究、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル研究、エスニック・スタディーズなどの新しい領域は、従来の学問が普遍的人間や客観的知識の名のもとに排除してきた経験を可視化した。学際研究も拡大し、既存の学部・学科の境界を越える研究組織が作られた。学生運動や社会運動による異議申し立てが、大学のカリキュラムと制度に実質的な変化をもたらしたことは否定できない。それまで知の対象にも主体にもなれなかった人々が、自らの経験を研究し、既存の知を修正する制度的な場所を獲得したという点で、重要な成果だった。
 しかし、新しい知が大学の中で存続するためには、それ自体が制度化されなければならなかった。新しい研究領域は、専攻、学科、研究センター、学会、学術雑誌、学位プログラムを形成し、研究費と教員ポストを獲得する必要があった。既存の専門分化を批判して生まれた知も、存続するためには、新しい専門分野として自らの境界、方法、専門用語、業績評価を作らなければならなかった。

 おそらく、ここに、自己批判の制度化が持つ避けがたい逆説がある。制度化されなければ、批判的な知は一時的な運動として消滅する。しかし、制度化されれば、批判的な知もまた、専門家共同体の内部で生産・評価される研究業績となる。権力と知の結び付きを批判する研究が、学会報告、査読論文、研究費、昇進の材料として流通する。専門分化を批判する研究が、新しい専門分野を形成する。

 学生運動も同様である。大学の権威主義的な統治を批判し、参加と民主化を要求することはできた。しかし、専門性を維持しながら、誰がどのように意思決定するのか、多数の学生を教育しながら教育の質をどう保障するのか、大学の自治と公共的説明責任をどう両立させるのかについて、安定した制度を形成することは容易ではなかった。
 その結果、大学は基本構造を置き換えるよりも、新しい要求に対応する組織と機能を追加する方向へ進んだ。既存の学部・学科の上に学際的研究センターが作られ、従来の教養教育の上にキャリア教育が置かれ、教員組織の周囲に学生支援、国際交流、地域連携、産学連携、研究推進、広報、評価などを担う組織が加えられた。大学、学部、学科、学会、査読、学位、専門分化という基本構造は維持された。その上に、教育機会の平等、多様性と包摂、学生参加、学際性、地域貢献、社会人教育、国際化、産業連携、イノベーションなど、新しい理念と機能が次々と付け加えられた。

 近代大学は、「同じ床」を作り直さないまま、その上で見るべき「異なる夢」を増やし続けた。
 この機能拡張は、大学が社会の変化に柔軟に対応してきた証拠でもある。しかし、大学が多くの要求を取り込むほど、誰が大学全体の目的を決定するのかという問題は困難になる。研究者は学問の自由を、学生は教育と支援を、政府は説明責任を、産業界は人材と技術を、地域社会は地域貢献を要求する。いずれも一定の正当性を持つため、大学はどれか一つを簡単に拒否することができない。
 近代大学の肥大化は、中世ヨーロッパにおいて、教会が教育、救済、福祉、法、文化、知識の保存など、社会の多くの役割を一身に抱え込んでいった過程を想起させる。もちろん、中世教会と現代大学は同じ制度ではなく、両者を直接同一視することはできない。共通しているのは、ある制度が高い社会的正当性を獲得した結果、新しい役割と期待を次々と吸収し、社会にとって不可欠になる一方で、その目的と内部構造を外部から理解しにくくしていく点である。
 多くの役割を担う制度は、簡単には廃止できない。しかし、機能が増え、内部構造が複雑になり、自らの目的を統一的に説明できなくなると、「非効率である」「硬直化している」「社会の変化に対応できていない」という批判を受けやすくなる。制度の自己改革が十分に進まなければ、やがて外部の勢力が、何が重要な機能であり、どの分野に資源を集中すべきかを決定するようになる。
 近代大学が直面したのは、単なる規模の拡大ではない。真理探究、人間形成、社会的有用性という異なる原理を調整してきた国民国家的な枠組みが揺らぐなかで、大学自身が、何のために存在するのかを統一的に語れなくなったという正当性の危機である。
 この空白に入り込むのが、グローバル化、知識基盤社会、人的資本、イノベーション、国際競争力という新しい正当化の言語である。第二の知の再編は、近代大学の外部から突然始まったのではない。専門分化、大衆化、機能拡張、自己批判、数量的評価が重なり合い、近代大学が自らの目的を説明できなくなった場所から始まったのである。

第3章 現代における知の再編

1.知識基盤社会と有用性の一元化

 現代における人文学の危機は、日本政府の政策だけを見ていても十分には説明できない。人文社会系の縮小や理工系への資源集中は、日本固有の財政事情や少子化への対応として現れているが、その背後には、大学、教育、研究、人間形成を捉える世界規模の枠組みの変化がある。
 「知識基盤社会」「人的資本」「コンピテンシー」「イノベーション」「第四次産業革命」「デジタルトランスフォーメーション」といった言葉は、その変化を表現する政策言語である。これらはそれぞれ異なる由来と射程を持っており、単純に同一視することはできない。しかし、知を経済成長と社会変革の主要な資源として捉え、教育制度をその生産・更新・配分の装置として再設計しようとする点では、相互に結び付いている。
 OECDが1996年の報告書で示した「知識基盤経済」は、知識と情報の生産、流通、利用が経済成長や生産性を左右する社会を意味していた。そこでは知識は、蓄積される文化的遺産や人格形成の媒介であるだけでなく、技術革新を生み出し、産業競争力を高める直接的な生産要素として捉えられる。
 この転換が意味するのは、知の価値が低下したことではない。むしろ、知に対する社会的・経済的な期待はかつてないほど高まっている。ただし、新しい価値を生み出す知、他の領域へ移転できる知、問題解決に利用できる知、データとして把握できる知、成果を測定できる知が優先される。知の重要性が高まることと、価値ある知の範囲が選別されることが、同時に進行しているのである。
 この変化の中で、大学もまた、すでに形成された知を保存し、伝承する機関であるだけではなく、イノベーションを生み出す知識生産拠点として位置付け直される。教育は将来の収益を生み出す投資となり、研究は産業や政策へ接続される成果の源泉となる。大学の価値は、そこでどのような真理が探究されているかだけではなく、どれだけの特許、起業、共同研究、雇用、地域経済効果を生み出したかによって説明されるようになる。

 「人的資本」という概念は、この変化を人間の側から表現している。人間が持つ知識、技能、健康、経験、態度は、将来の生産性や所得を生み出す資本として捉えられる。世界銀行の人的資本指標は、教育や健康への投資が次世代の労働者の生産性にどれだけ寄与するかを共通の尺度によって示そうとしている。
 もちろん、人的資本という考え方は、教育を単純に企業利益へ従属させるものではない。貧困の削減、健康の改善、教育機会の拡大、社会参加の促進も、その重要な目的に含まれている。しかし、教育、健康、人格、能力が「投資」と「収益」の関係によって把握されるとき、人間は教育を受ける主体であると同時に、継続的に価値を高めなければならない資本として理解されることになる。個人は、自らの技能が陳腐化しないように学び続け、自らを更新し、自らの雇用可能性を管理することを求められる。

 「コンピテンシー」という概念は、この人的資本の範囲を、知識や技能から人格や態度へと拡張する。コンピテンシーは、知識を所有していることではなく、具体的な状況において、知識、技能、態度、価値を動員し、問題を解決する能力を意味する。OECDの教育構想も、知識や技能だけでなく、主体性、責任、価値、ウェルビーイングを含む幅広い人間的能力を重視している。
 この構想には、知識の暗記に偏った教育を乗り越え、学習者の主体性や社会的責任を回復しようとする側面がある。したがって、コンピテンシーを単なる企業向け能力へ還元することは適切ではない。しかし同時に、従来は人格や教養として一体的に語られてきたものが、創造性、協働性、批判的思考、コミュニケーション能力、自己管理能力といった個別の能力へと分解され、教育目標として設定され、評価の対象となる点は重要である。
 ここでは、人間形成そのものが否定されているのではない。むしろ人間形成は、以前よりも広い範囲で政策の対象となっている。ただし、何を学んだか、どのような人間になったかという問いは、何ができるようになったか、どのような状況で能力を発揮できるかという問いに翻訳される。人格は、その人固有の存在のあり方であるよりも、社会的成果を生み出す能力の集合として捉え直されるのである。

 さらに、「第四次産業革命」や「デジタルトランスフォーメーション」という言葉は、この変化に時間的な切迫性を与える。AI、ロボット、データ、プラットフォームによって産業と労働市場が急速に変化し、既存の技能が陳腐化するという未来像が提示される。その未来は、政治的に選択し、形成する対象であるよりも、すでに到来しつつある不可避の環境として描かれる。大学や個人に残されるのは、その変化に適応できるか否かという選択である。
 世界経済フォーラムの「Education 4.0」構想が、技術的能力だけでなく、創造性、対人関係能力、グローバル市民性を「未来の市民と労働力」に必要な能力として位置付けていることは、この再編をよく示している。人文学が従来扱ってきた創造性、倫理、文化理解、対話能力は消去されるのではなく、新しい経済と労働市場に必要な能力として再定義されるのである。

 このような政策言語は、未来を記述するだけではない。それは、未来に適応するためには教育制度を変えなければならないという切迫感を作り出し、改革の方向を限定する。どの分野を拡大し、どの分野を縮小するか、どのような学生を育てるか、何を研究成果とみなすかという判断が、「避けられない技術変化への適応」として正当化される。未来についての語りが、現在の資源配分を決定するのである。
 さらに、現代の知の再編は、大学政策や教育理念だけによって進むのではない。データベース、大学ランキング、学術情報プラットフォーム、引用指標、学習管理システム、オンライン教育、生成AIといった新しいメディアが、知の生産と流通の形式を変えていく。研究成果は検索され、引用され、比較される単位となり、教育成果は学習履歴や到達度として記録される。測定可能なものが可視化され、可視化されたものが資源配分の根拠となり、測定しにくいものは存在していても評価されにくくなる。

 ここで、近代大学を支えてきた三つの正当化原理の関係が再編される。真理探究は、イノベーションや社会的インパクトを生み出す限りで評価される。人間形成は、人的資本やコンピテンシーの形成として評価される。そして社会的有用性は、複数ある大学の目的の一つではなく、真理探究と人間形成の価値を判定する上位原理となる。
 もちろん、ここでいう「有用性の一元化」は、あらゆる価値が即時的な金銭利益へ還元されることを意味しない。社会課題の解決、包摂、持続可能性、健康、安全、文化振興なども、有用性に含まれ得る。問題は、真理や人格や文化が、それ自体の論理によってではなく、あらかじめ設定された成果へどれだけ貢献するかによって正当化されることである。説明可能で、測定可能で、比較可能な有用性が、価値判断の共通通貨となりつつあるのである。

2.18世紀啓蒙主義と現代の構造的相似

 以上のように現代の知の再編を捉えると、18世紀の啓蒙主義との構造的な相似が見えてくる。
 第一に、いずれの時代においても、既存の知の制度は、新たな社会的欲求に応答できないものとして批判される。18世紀には、教会や大学の知が、神学的権威と古典の注釈に閉じこもり、商業、科学、技術、民生、そして軍事の発展に対応できないとみなされた。現代では、学部・学科・学会によって細分化された大学の知が、デジタル化、産業構造の変化、地球規模の課題、流動化する労働市場に対応できないと批判される。
 第二に、新しい知の担い手は、自らが必要とする知を、特定の集団の利害としてではなく、社会全体にとって普遍的な価値として提示する。18世紀において、科学、技術、商業、出版、そして軍事を担う諸層は、自らの知を「理性」「進歩」「公共的有用性」の名によって正当化した。現代において、政府、企業、国際機関、大学経営組織などは、自らの求める知を「イノベーション」「人的資本」「社会課題の解決」「未来への適応」の名によって正当化する。
 第三に、いずれの場合にも、知の内容だけでなく、知の序列が組み替えられる。18世紀の『百科全書』は、神学や古典注釈に対して、実験科学、職人の技、機械的技芸を価値ある知として引き上げた。現代の大学改革も、データ科学、情報技術、工学、起業、学際的問題解決などを重点領域として位置付ける一方、既存の専門分野に対して、その社会的意義を改めて説明することを要求する。
 第四に、知の再編は、新しいメディアによって具体化される。『百科全書』は、知を分類し、配列し、相互参照によって接続し、図版によって職人の技を可視化した。百科全書という形式そのものが、何が知であり、異なる知がどのように関係するのかを示していた。現代において、この役割を担うのは、データベース、検索エンジン、学術プラットフォーム、大学ランキング、成果指標、教育データ、生成AIなどである。これらのメディアは、既存の知をただ流通させるだけではない。検索可能な単位へ分解し、関連付け、順位付け、推薦し、利用履歴を収集することによって、何が発見され、何が読まれ、何が価値ある成果として認識されるかを左右する。『百科全書』が印刷文化における知の再編装置だったとすれば、現代のデジタル・プラットフォームは、データ化された知の再編装置である。
 第五に、知の再編は、新しい人間像の形成を伴う。『百科全書』は、理性を用いて世界を理解し、技術によって社会を改善する市民的人間像を提示した。現代の知識基盤社会は、変化に適応し、問題を解決し、協働し、自ら学び直し続ける人間像を提示している。知の再編とは、知識の分類を変えるだけではない。何を知るべきか、どのように働くべきか、どのような人間であるべきかを組み替えることでもある。 したがって、両者の間には、制度化された知が新しい社会的欲求に応答できず、その正当性を失ったとき、新しい社会勢力が、自らの担う科学・技術・実践知を普遍的価値として提示し、新しいメディアと制度を通じて知の序列と資源配分を組み替える、という構造的な相似がある。

 もちろん、この相似は、両者の理念や政治的意味が同じであることを意味しない。18世紀の啓蒙が解放を目指し、現代の市場化が管理だけを目指しているという単純な対比も成立しない。
 18世紀の科学と実用知は、身分的特権や神学的権威を相対化し、知の公共圏を拡張する力を持っていた。しかし同じ知は、国家行政、軍事、植民地支配、産業管理を高度化する力ともなった。現代の人的資本政策やデジタル教育も、人間を測定・動員する側面を持つ一方で、教育機会の拡大、障害の克服、知識へのアクセス、社会参加を支える可能性を持っている。
 知の再編は、解放か支配かのどちらか一方ではない。ある支配から人間を解放する知が、制度化されることによって別の管理を生み出す。新しい制度が可能性を開くと同時に、そこで評価されない知や人間を周縁化する。フランクフルト学派が指摘した啓蒙の自己反転は、まさにこの両義性に関わっていた。
 比較すべきなのは、二つの時代の善悪ではなく、知の再編が進行する仕組みである。既存制度の機能不全が語られ、新しい社会的欲求が提示され、新しい知の担い手が登場し、その担い手の価値が普遍的な価値として承認される。そして新しい分類、評価、メディア、資源配分によって、知の秩序が組み直される。
 18世紀の啓蒙主義と現代の大学改革は、この意味において、異なる歴史的条件のもとで生じた同型の知の再編なのである。

3.二つのヘゲモニー再編――国民国家からグローバルな知識秩序へ

 18世紀啓蒙主義と現代の知の再編の違いは、単に、それを担う主体や掲げられた理念が異なるという点にあるのではない。両者は、それぞれ異なる社会秩序への移行に伴って生じた、知をめぐるヘゲモニーの組み換えだったと考えられる。
 ここでいうヘゲモニーとは、ある社会勢力が他の勢力を強制的に排除することだけを意味しない。特定の社会勢力が担う知、価値、利害を、社会全体にとって普遍的で合理的なものとして承認させることである。ヘゲモニーは、命令や禁止だけによって成立するのではない。人々が何を当然と考え、何を未来への適応とみなし、どのような能力を自発的に身に付けようとするかを方向付けることによって成立する。

 18世紀の啓蒙主義の背後には、商業、金融、出版、専門職、行政、科学、技術などを担う新興諸層の成長があった。これらの諸層は、少なくとも商業的富、信用、技術、情報流通といった領域では、旧来の貴族や聖職者に匹敵し、場合によってはそれを上回る資源を蓄積していた。しかし、その経済的・技術的・情報的な力は、身分的、政治的、文化的権威へと十分には転換されていなかった。
 『百科全書』は、この不均衡を組み替える装置だった。生産、技術、商業、実務に関わる知を、単に新興諸層にとって有益な知としてではなく、「理性」「進歩」「公共的有用性」を体現する普遍的な知として提示したのである。職人の技術を図版によって可視化し、実験科学や機械的技芸を知の体系へ組み込むことは、それらを担う社会集団の地位そのものを引き上げることでもあった。その意味で『百科全書』は、新興諸層が経済的・技術的・情報的資源を文化的・政治的権威へと転換するための、ヘゲモニー形成の装置だったといえる。
 この知の再編は、フランス革命と19世紀の国民国家形成を経て、新しい制度へ組み込まれていく。近代大学、国民教育、学会、博物館、図書館、国語教育、国民史などは、新たな知の秩序を制度化する装置となった。
 その過程で、人文知は、国民の歴史、言語、文化を形成し、国民国家を担う市民とエリートの人格を形成する知として、近代的に再編された。古典、文学、歴史、哲学は、国民文化の中核を構成し、市民的教養と国家的統合を支える役割を与えられた。
 近代大学に同居していた「真理探究」「人間形成」「社会的有用性」という三つの原理は、たしかに異なる方向を向いていた。しかし、真理は国民国家の威信を高め、人間形成は国民とエリートを育て、有用な知は国家の産業・軍事・行政を支えるという形で、最終的には国民国家という共通の床によって結び付けられていた。近代大学の「同床異夢」を支えていた床とは、「国民国家」である。

 現代に起きているのは、この国民国家を前提として成立した知の秩序の再編である。
 もちろん、国民国家が消滅したわけではない。政府は依然として大学制度を設計し、公的資金を配分し、学位を認証し、教育課程を規制している。むしろ大学改革の多くは、国家政策を通じて実施されている。
 変化しているのは、国家の役割そのものと、国家が教育に求める目的である。国家は、共通の歴史、言語、文化を持つ国民を形成する「教育国家」であるだけでなく、グローバルな市場の中で資本、人材、企業、研究拠点を獲得する「競争国家」として振る舞うようになる。国家はグローバル化によって消滅するのではなく、国際競争へ参加する一つの経営単位として再定義されるのである。
 そのため大学は、国民文化の継承と国内エリートの形成だけでなく、世界大学ランキングでの位置、国際的な研究競争力、外国人研究者や留学生の獲得、産学連携、起業、地域産業の高度化に責任を負わされる。国家は大学を保護する主体であると同時に、大学を競争へ参加させ、成果を比較し、資源を傾斜配分する主体となる。
 この再編を担うのは政府だけではない。国際機関、多国籍企業、デジタル・プラットフォーム企業、金融・コンサルティング、政策官僚、大学経営組織、研究資金配分機関、教育産業、科学技術分野の研究組織が、緩やかなネットワークを形成している。
 ここで注意すべきなのは、これらのステイクホルダーが、単一の意図によって大学を支配する統一的な集団ではないということである。国際機関は包摂や社会的福祉を重視することがあり、企業は収益と人材獲得を求め、政府は経済成長と政治的支持を求め、大学経営組織は財政と組織の存続を求める。それぞれの利害は必ずしも一致しない。
 それにもかかわらず、これらの主体は、「知識基盤社会」「人的資本」「イノベーション」「コンピテンシー」「第四次産業革命」「デジタルトランスフォーメーション」といった共通の言語によって接続される。その言語を通じて、どのような未来が到来し、どのような知が必要となり、どのような人間を育成すべきかについて、大まかな合意が形成される。
 これらは単なる政策用語ではない。何を問題として認識し、どのような解決策を合理的とみなし、どの分野に資源を配分するのかを方向付ける、新しいヘゲモニーの言語である。
 しかも、このヘゲモニーは上から押し付けられるだけではない。不安定な労働市場の中で、学生と家族は就職に結び付く学部を選び、研究者は外部資金を獲得できるテーマへ接近し、大学は生き残りのために重点分野を設定する。それぞれの主体が不確実性に対して合理的に行動する結果、人的資本とイノベーションを中心とする秩序が再生産される。ヘゲモニーとは、外部からの強制だけではなく、個々の合理的な適応を通じて成立する支配でもある。

 国民国家を前提とした大学が形成しようとしたのは、自国の歴史、言語、文化を共有し、公共社会を担う「国民」だった。そこでは教養は、人格形成の理念であると同時に、国民文化への参入資格でもあった。
 これに対して、グローバルな知識基盤社会が形成しようとするのは、変化する環境に適応し、自らの能力を更新し続け、組織や国境を越えて価値を生み出す「人的資本」である。理想的な主体は、特定の知識を身に付けた完成された人間ではなく、学習し続け、変化に対応し、自らを管理し、自らの能力を組み替えることのできる人間となる。
 人間形成そのものが否定されているのではない。創造性、共感、文化的理解、倫理的判断、コミュニケーション能力は、むしろ積極的に求められている。しかし、その意味は変化している。人格をそれ自体として形成することから、市場と社会において価値を生み出す能力を形成することへ。教養を共有された文化へ参入する過程と捉えることから、変化へ適応するための移転可能な能力を獲得する過程へ。教育を社会が人間に保障するものと捉えることから、個人が将来に備えて自らへ投資するものと捉えることへ。

おわりに―人文学のダウンサイジングが意味するもの

 したがって、人文学のダウンサイジングを、科学技術が人文学を単純に排除する過程として捉えることはできない。
 そこで起きているのは、国民国家、国民文化、人格形成を前提として制度化されてきた人文知が、グローバルな知識基盤社会における人的資本、イノベーション、国際競争力という基準によって選別され、再配置されることである。
 新しい秩序に翻訳できる人文知は、排除されるどころか積極的に動員される。文化はコンテンツ産業、観光、地域振興、ソフトパワーへ接続される。語学はグローバル・コミュニケーション能力となり、倫理学はAIや生命科学の社会実装を支える知となる。歴史は文化遺産や国家ブランドとなり、芸術は創造産業とイノベーションの源泉となる。
 反対に、翻訳しにくい人文知は縮小圧力を受ける。特定の地域や時代に限定された基礎研究、希少な資料や言語の保存、成果が長期的にしか現れない研究、国家や市場の前提そのものを問い直す批判的研究は、資源配分の根拠を示すことが難しい。人文学の内部に境界線が引かれ、「役立つ人文知」と「役立たない人文知」が選別されるのである。
 また、国民国家的な人文知が全面的に衰退するわけでもない。グローバル化とナショナリズムは、必ずしも相反しない。国民文化は、観光資源、国家ブランド、国際競争上の差異として再動員され得る。政権や社会の自己像を強化する歴史や文化には資源が与えられる一方、その自己像を批判的に検討する人文学は攻撃されることがある。
 この点で、現代の人文学の危機には、知識基盤社会による構造的な再編だけでなく、反知性主義やポピュリズムをめぐる政治的対立も重なっている。市場的有用性の論理と政治的な反知性主義は同じものではない。しかし両者は、大学内部で自律的に正当化されてきた知への不信という点で結び付き、人文知を選別する異なる圧力として作用する。
 同時に、制度化された人文学を、旧秩序の無垢な被害者として描くこともできない。近代的人文学は、国民文化とエリート教育の中心に位置することで資源と権威を得てきた。そこで作られた国民史や文学正典や教養概念は、ある言語、文化、階級、ジェンダーを普遍的なものとして提示し、それに属さない人々を周縁化してきた。現代の再編によって失われつつあるのは、人文知の普遍的な本質ではなく、国民国家的秩序の中で人文学に与えられていた特定の地位なのかもしれない。

 しかし、旧来の制度が問題を抱えていたことは、その制度的基盤を解体してよい理由にはならない。資料の保存、少数言語の継承、長期的研究、研究者の生活保障、専門的訓練、批判的知性の自律性は、一定の制度、予算、ポスト、研究時間がなければ維持できない。制度化された人文学と人文知の働きを区別する必要はあるが、両者を切り離すことはできない。
 この観点に立つならば、人文学に必要なのは、国民国家的な大学秩序の中で与えられていた旧来の地位をそのまま維持することではないのだろう。問われるべきなのは、知を市場的有用性へ一元化せず、真理探究、人間形成、社会的有用性の緊張関係を維持できる新しい制度的基盤を、どのように構想し直すかということである。そのためには、おそらく、「同じ床」には載せられない「夢」もあるということを直視しなければならないだろう。問題の本質は、人文学の規模が変わることそれ自体にはない。誰が、いかなる基準によって、どの知を維持し、どの知を不可逆的に失わせるのか、である。

(※本論は私の霊感を土台としながら、生成AIとの会話による反論と批判、提案と示唆を受けて、勉強しながら書いています。)

自力救済のPDCA輪廻から教育は解脱することができるか?

世界を全て知ることはできるか?

 かつてコメニウスは、「すべての人にすべてのことを教える」と言った。人間は世界を秩序ある全体として理解しうる、という見通しを持つことができた時代のことである。もちろんそれは、すべての人が実際にすべてを知っていたという意味ではない。世界の知は最終的には何らかの秩序のもとに統合されうる、という希望が成立していたということである。
 17世紀のコメニウス汎知学の後も、18世紀、ディドロとダランベールの『百科全書』もまた、人間の諸知識を一つの体系として配置しようとした。そこでは、世界は無限に散乱した情報の集積ではなく、少なくとも原理的には、人間の知性によって見取り図を描きうるものとして想定されていた。
 この見通しは、おそらく近代の自然哲学ともつながっていた。ニュートンの主著が『自然哲学の数学的諸原理』であったことが示すように、かつて自然研究は、哲学の外部にある専門科学ではなく、広い意味での哲学の内部に位置づけられていた。自然哲学は、自然界の個別事実を集めるだけでなく、それらを貫く原理を明らかにしようとする営みであった。ラプラスの悪魔に象徴される古典力学的な決定論も、この見通しの極限に位置づけることができる。もし宇宙のすべての粒子の位置と運動量を知る知性があれば、過去も未来も計算可能であるという発想は、世界が原理的には完全に記述可能であるという夢をよく示している。
 しかし19世紀以降、この見通しは次第に揺らいでいく。自然哲学は、物理学、化学、生物学、地質学、心理学、社会学などの専門分野へと分化していく。scienceや scientistという語が近代的な意味を帯びるのも19世紀であり、学会、専門誌、専門職としての研究者が制度化されていく。こうして知識が増大し、研究が専門化するほど、一人の人間が世界知の全体を統括することは不可能になっていった。知の発展は、同時に知の分裂を生み出したのである。世界全体の知を統べる夢は、フランスのコント、イギリスのスペンサーあたりで潰えているだろう。
 物理学史の側から見ても、古典力学的な世界把握はそのまま維持されなかった。19世紀の熱力学は、不可逆性、エネルギーの散逸、エントロピー、効率といった問題を前景化した。世界は、単に可逆的に計算可能な機械ではなく、時間の向き、損失、有限性を含んだ過程として現れるようになった。さらに20世紀の量子力学は、観測から独立した対象をそのまま完全に記述するという素朴な見方を揺さぶった。物理学をそのまま教育論に適用したいわけではない。確認しておきたいのは、世界を一望し、完全に記述し、統一的に把握できるという近代的な感覚が、自然科学の内部からも次第に難しくなっていったということである。

人格の統一性の根拠

 この「世界を理解し尽くせる」という見通しの崩壊は、「人格の統一性」という観念の変化と表裏一体だったのではないか。古典的な教養(Bildung)の理念は、世界との関係を通じて人間の諸能力が調和的な全体へ形成される、という見通しを含んでいた。世界が秩序ある全体であり、人間がその世界を学ぶことによって自分自身を秩序ある全体へ形成していく。このとき、世界の統一可能性と人格の統一可能性は、互いに支え合っていたように見える。世界を知ることは、単に断片的な情報を増やすことではなく、自己を形成することであった。
 しかし、知が専門分化し、世界が一つの見取り図へ回収できないものとして現れるようになると、人間自身もまた、一つの統一的な人格として理解することが難しくなる。ディルタイが自然科学とは異なる精神科学を基礎づけようとしたのは、人間の生、歴史、社会、表現を、自然科学的説明だけでは捉えきれないと考えたからである。だがその後、人間を扱う学問そのものも、心理学、社会学、文化人類学、歴史学、教育学、精神医学、言語学、メディア研究などへ分化していった。人間を一つの全体として把握する学問は、ますます成立しにくくなった。
 20世紀心理学においても、人格の統一性は揺らいでいく。フロイトは、人間の自己を透明な理性的主体としてではなく、エス、自我、超自我、無意識、抑圧、防衛の葛藤として描いた。ミードは、自己を個人内部の実体ではなく、他者との相互作用の中で成立するものとして捉えた。サリヴァンは、人格を個人内部にある固定的実体というより、対人関係の反復的な様式として理解した。これらはそれぞれ異なる立場であるが、共通しているのは、人格を単一で透明な統一体として捉えることを難しくした点である。
 そう考えると、近代教育の「人格形成」や「教養」の理念は、単に人間の内面に関する教育論ではなく、世界そのものが理解可能な全体であるという認識論的前提と深く結びついていたのではないか。世界が一つの秩序ある全体として理解できるなら、その世界を学ぶ人間もまた、一つの秩序ある人格へ形成されうる。しかし、世界が専門分化し、知が分裂し、人間理解もまた諸学問へ分散していくと、人格を一つの完成された全体として語ることは難しくなる。[そこで人格は、もはや実体的な統一概念としてではなく、むしろ還元への抵抗として現れることになる。]

 この認識の変化は、現代教育における自己マネジメントの問題につながる。世界を一つの全体として理解し、その理解を通じて人格を形成するという見通しが失われると、教育は次第に、限られた自己資源をどう運用するかという問題へ傾いていく。知識、能力、時間、経験、資格、スキル、キャリア、ポートフォリオ、自己分析、振り返り。これらは、世界を理解するためというより、自分を運用するための資源として扱われる。人格の完成ではなく、自己の管理。教養ではなく、自己改善。世界を知ることではなく、世界の中で自分を効率よく動かすこと。ここに、現代教育が自己マネジメントへと傾斜する大きな背景があるのではないか。

自力救済とカウンターとしての無力/他力

 思想史を振り返ると、現代の自己マネジメントの考え方と同様に、人間の知、意志、能力、修行、理性、自己形成への信頼が強く打ち出される局面がある。しかし一方、それに対して人間の無力、有限性、できなさ、外部からの呼びかけを強調する思想がカウンターとして現れる局面もあるように見える。ここでいう「自力救済」とは、厳密な宗教教義としての用語ではなく、人間が自らの知、意志、努力、改善、修行、教育、自己管理によって自分を善くし、救い、完成させることができるという広い信念を指す。そして「他力」あるいは「無力」の思想とは、そのような自力への信頼が過剰になったときに、人間は自分自身の力だけでは知ることも、善くあることも、救われることも、完成することもできないと告げる思想を指す。

 まず最初に、ソフィストに対するソクラテスを見てみよう。ソフィストは、弁論術、徳、政治的有能さ、教育可能性をめぐって、知と技術によって人間を有能にしうるという方向に位置づけることができる。一方、プラトン対話篇におけるソクラテスは、彼らの知や有能さの主張を根底から問い直す論敵として現れる。ソクラテスの「無知の知」は、人間の知への信頼を折る思想である。彼は、知っていると思っている者に対して、実は知らないのではないかと問いかける。この意味でソクラテスは、知による自己形成、弁論による有能化、教育による成功という発想へのカウンターとして読むことができる。
 さらに彼の判断は、彼自身の言葉によれば、しばしばダイモニオンの示唆、より正確には制止に従っている。これは親鸞的な意味での他力本願ではないが、人間の知や技術によって自己の判断を完全に基礎づけるのではなく、自己の外部から到来する声によって行為が中断されるという点で、「他力的契機」と呼ぶことができる。ここで問題になっているのは、「知の無力」と「外部からの制止」である。

 続いて、ペラギウスに対するアウグスティヌスを見てみよう。ペラギウスは、人間には自由意志があり、神が命じる以上、人間は善を選び、正しく生きることができると考えた。これは教育論的に見れば、人間は正しく教えられれば正しく生きることができる、努力すれば善くなれる、という楽観的な人間観として読むことができる。これに対してアウグスティヌスは、人間の意志は原罪によって傷ついており、自分の意志だけで善を選び、自分を救うことはできないと考えた。『告白』に見られるように、彼にとって問題は、善を知らないことだけではなく、善を知っていてもそれを欲することができないという意志の分裂であった。ペラギウスが自由意志による自力救済の可能性を強く打ち出したとすれば、アウグスティヌスはそのカウンターとして、意志の無力と恩寵の必要を示した人物として読める。ここで問題になっているのは、「意志の無力」と「外部からの恩寵」である。
 このアウグスティヌス的な問題は、のちにエラスムスとルターの対立にも反復されるように見える。エラスムスは、人文主義的教養、理性、穏健さ、自由意志を重んじた。彼にとって人間は、教育され、教養を身につけ、理性的判断を働かせることによって、より善くなる可能性を持つ存在であった。これに対してルターは、『奴隷意志論』において、人間の自由意志の力を強く否定した。人間は自らの意志によって神へ向かい、自らを救うことはできない。ここでも、人間の能力や教養への信頼に対して、救済における人間の無力が突きつけられている。ルターは、エラスムス的人文主義へのカウンターとして、人間の意志の無力を徹底させた思想家として位置づけることができる。

 仏教思想においては、聖道門的な自力修行に対する法然・親鸞の他力本願が、この構図のもっとも明瞭な事例になる。聖道門の仏教は、戒律、修行、学問、瞑想などによって悟りへ向かう道を重視する。そこには、少なくとも原理的には、人間が修行によって悟りへ至ることができるという見通しがある。これに対して法然は、末法の世において凡夫が自力修行によって悟りを得ることの困難を見据え、念仏による浄土往生の道を示した。親鸞はさらに、自分が念仏する力すら自分のものではなく、阿弥陀仏の本願によるものだと考えた。もちろんここで言う他力本願とは、努力しなくてよいという安易な思想ではなく、自分の修行、自分の善、自分の努力によって自分を救おうとする発想そのものを折る思想である。ここで問題になっているのは、「修行の無力」「凡夫の無力」と、それにもかかわらず開かれる「他力による救い」である。

 啓蒙思想に対するカウンターとしては、ルソーが重要になるだろう。百科全書派や啓蒙思想は、知識、理性、文明、教育によって人間と社会を改善しうるという希望を持っていた。ディドロやダランベールの『百科全書』は、人間知識を体系的に編成し、知の普及によって社会を変革しようとする大きな企てであった。これに対してルソーは、文明化や理性の発展がただちに人間を善くするわけではないことを問題にした。『学問芸術論』や『人間不平等起源論』に見られるように、ルソーは、文明の進歩がかえって人間を堕落させる可能性を問うた。彼は啓蒙を全面的に否定したわけではないが、理性と文明によって人間を改善できるという信頼への鋭いカウンターとして読むことができる。ここで問題になっているのは、「理性と文明の無力」である。

 近代的自我へのカウンターとしては、フロイトを置くことができる。近代的主体は、自分自身を認識し、自分の意志によって行為し、自分を統御する存在として想定されてきた。しかしフロイトは、人間の心を意識的自我だけで説明することを拒んだ。無意識、抑圧、防衛、欲望、エス、自我、超自我の葛藤によって、人間は自分自身の主人ではないことが示される。フロイトは、自己理解や自己統御の可能性を完全に否定したわけではないが、少なくとも、自我が透明に自分を支配できるという信念を大きく揺るがした。ここで問題になっているのは、「自我の無力」である。

「できない」ことの再布置

 このように見てくると、思想史上には、人間の自力への信頼が強くなる局面で、それに対して無力、有限性、できなさ、他力、中断を告げる思想がカウンターとして現れているように見える。ソクラテスは知の自力を折り、アウグスティヌスは意志の自力を折り、ルターは自由意志による救済の可能性を折り、法然・親鸞は修行の自力を折り、ルソーは文明と理性による人間改善の信頼を折り、フロイトは自我の自己支配を折る。
 もちろん、これらを同一の思想として扱うことはできない。それぞれの歴史的文脈、宗教的背景、テキスト上の論点はまったく異なる。思想内容の同一性を主張したいのではなく、布置の類似した現象が反復して起こっていること、あるいは後の思想史から見てそのように整理できることについて確認しておきたいのである。そしてこの反復的な現象は、自己マネジメントへの志向が肥大化している現代教育の局面でも現れているのではないか。

 教育哲学の文脈で即座に想起されるのは、ガート・ビースタである。ビースタは、教育が「学習」へと還元され、資格化、成果、測定、学習者中心、コンピテンシー、エビデンスの語彙の中で理解されることを批判した。彼が強調する「中断」や「主体化」は、教育を単なる能力形成や自己実現のプロセスとして見ることへのカウンターである。もちろんビースタは、知識や資格化を不要だと言っているわけではない。しかし彼は、教育には、子どもや学生を既存の秩序に適応させたり、能力を獲得させたりするだけでなく、その人が世界の中でどのように主体として現れるかという問題があると考えた。ここで問題になっているのは、教育を能力形成や学習成果へ還元することの限界である。

教育は自力救済だけで成立するか?

 しかしより本質的には、不登校という事象を考えてみたい。現代教育は、子どもや学生に、主体的に学び、自己を調整し、目標を立て、振り返り、改善し、キャリアを形成することを求める。その意味で、現代教育は世俗化された自力救済の構造を持っている。しかし不登校は、この循環に乗ることができない、あるいは乗らないという形で現れる。もちろん不登校を安易に美化することはできないし、本人や家庭の苦しみを抽象化してはならない。しかし、不登校を単なる不適応や支援対象としてのみ見るのではなく、自己改善を命じる教育的循環への中断として読むことはできる。ここで問題になっているのは、「自己改善の無力」である。

 ここから立ち上がる問いは、教育は「自力救済=できる」の思想だけで成り立ってよいのか、ということである。もちろん教育は、人間が何かを知り、理解し、行為し、成長していく可能性への信頼なしには成り立たない。学べばできるようになる。支援すれば変わる。環境を整えれば参加できる。目標を立て、実行し、振り返り、改善すれば前に進める。現代教育は、この「できる」への信頼を前提としている。しかしその信頼が強くなりすぎると、教育は「できない」ことに耐えられなくなる。できないことは、ただちに課題として発見され、支援対象として整理され、改善計画の中に組み込まれる。そこで一度たちどまって問われるべきなのは、教育には「できるようにする」技術だけでなく、「できないことに耐える」思想が必要なのではないか、ということである。

 この問いは、現代教育における自己マネジメントの問題と深く関わっている。今日の教育では、自己を計画し、実行し、評価し、改善することが求められる。主体性、自己調整、キャリア形成、ポートフォリオ、振り返り、PDCAといった語彙は、人間を「自分で自分を成長させる存在」として捉える。この構造は、世俗化された自力救済の思想として見ることができるかもしれない。自分を理解し、自分を管理し、自分を改善し、自分をよりよくしていくことが求められる。しかし、自己を改善し続けなければならないという命令は、いつしか自己を救うどころか、自己を終わりのない循環の中に閉じ込める。そこで浮かび上がる問いは、教育は自己改善のサイクルをよりよく回すことだけを目指してよいのか、それともそのサイクルから一時的に降りる契機を持たなければならないのか、ということである。この契機を、比喩的に「PDCAからの解脱」と呼んでみたい。
 もちろん「解脱」は教育目標として掲げられるべきものではない。教育の目的はPDCAから解脱させることである、と言えば、それ自体がまた新たな教育的操作になる。解脱を目標にした瞬間、解脱もまた計画され、実行され、評価され、改善される対象になってしまう。だからここで必要なのは、解脱を処方箋としてではなく、現象を記述するための言葉として扱うことである。実際、教育の中には、自己改善の循環が中断される瞬間がいくつもある。不登校、沈黙、拒絶、無気力、燃え尽き、立ち止まり、わからなさ。これらをただちに失敗や不適応として処理するのではなく、自己改善を命じる教育の循環に対する中断として読むことはできないか。この問いが、「PDCAからの解脱」という言葉の核心にある。

 この問題を考えるときに参考となるのは、思想史の中で繰り返し現れるように見える「自力」へのカウンターである。ソフィストに対するソクラテスは、知や弁論の能力への信頼を問い直した。ペラギウスに対するアウグスティヌスは、人間の自由意志による自己救済の可能性に対して、意志の傷つきと恩寵の必要を説いた。聖道門的な自力修行に対する法然・親鸞は、修行できない凡夫に開かれた他力の道を示した。これらを同じ思想内容へ還元することはできない。しかし、それぞれの歴史的文脈において、人間の知、意志、修行、能力への信頼が過剰な説得力を持つとき、その自力を折る思想がカウンターとして現れているように見える。この見え方を、現代教育に向けて問い直すなら、自己を改善し続ける力への信頼が強まる時代において、「できない」「わからない」「自分では救えない」という契機をどう考えるか、という問題になる。

 ここで「できないことに耐える」という言葉が重要になる。それは、できないままでよいという安易な肯定ではない。努力しなくてよい、支援しなくてよい、成長しなくてよい、という話でもない。そうではなく、できなさをただちに改善課題へ変換しないということである。できない子ども、学校に行けない子ども、言葉にできない学生、理解できない教師、成果の出ない実践、すぐには変わらない現実。その前で、教育者自身がすぐに有能であろうとしないこと。すぐに解決しようとしないこと。すぐに意味づけようとしないこと。それでも見捨てないこと。教育とは、できるようにする希望によって成り立つが、同時に、できないことに耐える営みでもなければならないのではないか。

すぐにわかってたまるか

 そしておそらくこの問いは、AI時代の教育にとって重要な意味を持ってくる。生成AIは、わからなさを急速に処理する。要約し、説明し、比較し、整理し、例を出し、すぐに答えらしきものを提示する。もちろんそれは便利であり、教育にとっても大きな可能性を持つ。しかし、すぐに説明され、すぐに整理され、すぐにわかったことにされることは、本当に「わかった」ということでよいのだろうか。教育における理解は、単に情報が整理された状態ではない。わからないが気になる。言葉にならないが引っかかる。時間をおいて戻ってくる。別の経験と結びつく。ある日、ようやく腑に落ちる。こうした遅い理解の時間を、教育はどのように守ることができるのか。AI時代における教育の問いは、速くわかる技術をどう使うかだけでなく、すぐにはわからないことに耐える力をどう残すかでもある。

 さらに、この「すぐにはわからないことに耐える」という問題は、人間理解の問題でもある。学生を成績、出席状況、主体性、発達特性、家庭背景、診断名、ポートフォリオ、アンケート結果によって把握することはできる。しかし、それによってその人がわかったことになるわけではない。むしろ人間は、こちらの理解や分類が押し返されるところで「相手」として現れる。相手だから抵抗するのではない。抵抗するから相手として立ち上がる。壊れたマウスが道具としての透明性を失い、急にこちらの意図を阻むものとして現れるように、学生の沈黙や不登校や拒絶も、制度の側から見れば機能不全でありながら、同時に相手が現れる瞬間でもある。教育は、抵抗を消す技術ではなく、抵抗によって現れた相手にどう応答するかを問う営みではないか。
 この相手性の問題は、人格の問題にも接続する。人格は、内面の奥に固定的な実体として存在するものではないかもしれない。むしろ人格は、観測され、分類され、評価され、要約されることに対して、「それは私ではない」と抵抗するところに立ち上がる。SNS的現代では、人は観測されることで人格像を与えられる。AI時代には、人は要約されることで理解されたことにされる。教育制度の中では、人は評価されることで学習者として位置づけられる。しかし、その観測された像、要約された像、評価された像に対して、なお「それだけではない」と言いうるところに人格があるのではないか。人格とは、相手性が倫理的強度を帯びた抵抗である、という問いがここに生じる。

 このように整理してくると、ここで立てようとしている問いは、単にPDCA批判でも、AI批判でも、不登校論でも、仏教思想の応用でもない。根本にあるのは、教育が人間を「できるようになる存在」としてだけ捉えてよいのか、という問いである。教育は、人間の可能性を信じる営みである。しかしその信頼は、できない者、わからない者、変われない者、学校に行けない者、自分をうまく管理できない者を追い詰めることがある。だから教育には、「できる」の教育学と同時に、「できないことに耐える」の教育学が必要なのではないか。すぐに改善してたまるか。すぐにわかってたまるか。すぐに相手を理解したことにしてたまるか。この抵抗の中に、AI時代の教育思想のひとつの出発点があるのではないか。

PDCA四苦からの解脱

 仏教には「四苦」という考え方がある。生老病死である。生まれる苦、老いる苦、病む苦、死ぬ苦。人間はこの苦しみの輪をぐるぐると回り続ける。これが輪廻である。そして仏教は、この輪廻の苦からどう逃れるかを大きな問題としてきた。つまり解脱である。
 ところで現代人にも四苦がある。Plan、Do、Check、Actである。
 計画する苦、実行する苦、評価される苦、改善させられる苦。これが現代の四苦である。人間はこの苦しみの輪をぐるぐると回り続ける。これがPDCAである。そして現代教育は、この輪廻から逃れるどころか、むしろそれを高速で回すことを子どもや学生に求めているように見える。
 まずPlanの苦がある。目標を立てなければならない。将来の自分を描かなければならない。課題を発見しなければならない。「あなたはどうなりたいですか」「何を身につけたいですか」「そのために何をしますか」と問われる。まだ何も始まっていないのに、すでに現在の自分は未来の自分に縛られている。目標を持てと言われる。夢を持てと言われる。主体的に計画せよと言われる。なかなかしんどい。
 次にDoの苦がある。立てた目標は実行しなければならない。計画したからには行動しなければならない。努力しなければならない。挑戦しなければならない。学びを深めなければならない。主体的に取り組まなければならない。Planの段階ではまだ紙の上で苦しんでいればよかったが、Doになると身体を動かさなければならない。しかも、自分で立てた目標なのだから文句は言いにくい。自分で決めたことなのだから、やるしかない。ここに、主体性の恐ろしさがある。
 そしてCheckの苦が来る。これがいちばんきつい。振り返らなければならない。自己評価しなければならない。何ができて、何ができなかったかを明らかにしなければならない。ルーブリックに照らされ、ポートフォリオに記録され、アンケートに答え、コメントを書き、達成度を数値化される。自分という存在が、できたこととできなかったことの一覧表になっていく。Checkとは、自分の不足が可視化される苦である。
 最後にActの苦がある。改善しなければならない。次に活かさなければならない。同じ失敗を繰り返してはならない。よりよい方法を考えなければならない。ここで一見、苦しみは終わるように見える。しかしActは終わりではない。Actは次のPlanへの入口である。改善したら、次の目標が生まれる。次の目標が生まれたら、また実行し、評価され、改善させられる。つまりActは解放ではない。次のPlanへの転生である。
 こうして人は、PDCAの輪廻を回り続ける。

 もちろん、PDCAそのものが単に悪いわけではない。工場の品質管理や業務改善に使うなら、それは大いに役に立つ。授業改善にも、学校運営にも、研究計画にも、一定の意味はある。問題は、PDCAが人間そのものにまで入り込んでくることである。自分を計画し、自分を実行し、自分を評価し、自分を改善する。自己理解、自己管理、自己分析、自己調整、自己実現。気がつけば、自己とは生きるものではなく、運用するものになっている。
 現代教育は、しばしば「できる」ことを目指す。わかるようになる。できるようになる。主体的に学べるようになる。自分の課題を発見できるようになる。自分で目標を立てられるようになる。自分で振り返り、改善できるようになる。教育とはそのような営みだと言われれば、その通りである。教育は、人間が変わりうることへの信頼なしには成り立たない。
 しかし、「できる」が強くなりすぎると、教育は「できない」ことに耐えられなくなる。できないことは、ただちに課題になる。行けないことは、登校支援の対象になる。黙っていることは、表現力の不足になる。やる気が出ないことは、自己管理の問題になる。わからないことは、説明不足か努力不足になる。どんな苦しみも、やがて改善計画の中に回収される。

 ここで少し、立ち止まってみたい。
 もしかすると、ある子どもが学校に行けないということは、単なる不適応ではないのかもしれない。もちろん、不登校を美化するつもりはない。本人も家族も苦しんでいる。学習の保障も、居場所の保障も、生活の支援も必要である。そんなことは大前提である。
 しかしそれでも、不登校という現象には、現代教育の病弊がどこかに映り込んでいるのではないか。学校に行けない子どもは、もしかすると、PDCAの輪に乗れない子どもである。あるいは、その輪を身体で止めてしまった子どもである。目標を立て、努力し、評価され、改善する。その循環が当たり前になった教育の中で、行けない、できない、動けない、言葉にならないという現象が起きている。それは単なる欠如ではなく、「もうこれ以上、自分を回せません」という身体からの知らせなのかもしれない。
 だとすれば、教育に必要なのは、PDCAをさらに高速で回すことだけではない。むしろ時には、その輪から降りることが必要になる。私はこれを「PDCAからの解脱」と呼びたい。
 解脱と言っても、悟りを開けという話ではない。まして、学校をやめろ、努力するな、成長するな、という話でもない。そうではなく、自分を改善し続けなければならないという命令から、ほんの少し身を引き剝がすということである。できないことを、すぐに課題にしない。わからないことを、すぐに説明しない。動けないことを、すぐに支援計画へ変換しない。沈黙を、すぐに表現力の不足にしない。相手を、すぐにわかったことにしない。

 教育には、「できるようにする」力が必要である。しかし同じくらい、「できないことに耐える」力も必要である。すぐに改善しないことに耐える。すぐに答えが出ないことに耐える。すぐに登校できないことに耐える。すぐにわからない子どもに耐える。そして何より、すぐに有能な教師になれない自分に耐える。
 AIの時代には、この問題はいっそう切実になる。AIは、すぐに答える。すぐに要約する。すぐに説明する。すぐに比較する。すぐに見取り図を出す。便利である。ありがたい。私も使う。しかし、だからこそ教育は、「すぐにわかってたまるか」という感覚を失ってはいけない。人間は、そんなにすぐにはわからない。世界も、そんなにすぐにはわからない。子どもも、学生も、教師も、そんなにすぐにはわからない。
 わかったつもりになることは簡単である。評価することも、分類することも、支援計画を立てることも、以前よりずっと簡単になっている。しかし、相手とは、こちらの理解を押し返してくるものである。すぐにはわからないからこそ、相手なのである。すぐにわかってしまうものは、もはや相手ではなく対象である。
 だから教育は、これからますます、「できるようにする教育」だけでは足りなくなる。必要なのは、「できないことに耐える教育」である。もっと言えば、「すぐにはわからないことに耐える教育」である。目標を立て、実行し、評価し、改善することは大切である。しかし人間は、その輪の中だけで生きているわけではない。
 たまにはPlanしない。Doしない。Checkされない。Actさせられない。ただ、いる。ただ、待つ。ただ、わからないままにしておく。ただ、相手が相手として現れるのを待つ。それは、現代教育における小さな解脱である。

 PDCAから解脱した先にある教育は、何もしない教育ではない。むしろ、急いで何かをしすぎない教育である。人間をすぐに改善対象にしない教育である。できなさを欠陥としてだけでなく、相手が現れる場所として受け止める教育である。
 教育は、人間をできるようにする。しかし教育は同時に、人間ができないことに耐える。AIが可能にしたインスタントな時代だからこそ、この二つのあいだで、もう一度、教育というものを考え直す必要があるのではないか。

ソノ子ガソノ子デアル所以 ―固有名・愛・人格について考える

問い

 変化し、関係し、呼びかけられ、応答し、成り続ける人間を、私たちはなぜなお「この人」と呼べるのか。
 その「この人」は、論理によって証明されるのか。言語によって記述されるのか。固有名によって指示されるのか。愛によって見えるのか。尊厳によって守られるのか。教育によって成っていくのか。

identityとは何か?

 出発点は、「identity とは何か」という問いだ。
 語源的には、identity はラテン語の idem、すなわち「同じもの」に由来する。ここで問題になる「同じ」とは、単に似ているということではない。複数のものが類似しているという意味ではなく、「まさにそれ自身である」「他のものではない」という意味での同一性である。したがって identity の根には、数的同一性、すなわち「一つであること」の問題がある。あるものが変化しながら、なお一つの同じものとして扱われるとはどういうことか。この問いが、identity の語源的な核心にある。
 古典的な論理学では、この問いは自同律、すなわち「 A=A」 という形で現れる。A は A である。これは一見すると、何も新しいことを言っていない空虚な命題である。しかし、この空虚な形式がなければ、そもそも思考も判断も言語も成り立たない。あるものを「それ」として指し続けられるからこそ、そこに述語を付けることができる。つまり A=A は、内容としては貧しいが、機能としては根本的である。この点で、自同律は「機能する無」の性格を持っている。

 プラトンにおいては、この問題は「一」と「多」、「同」と「異」、「変化するもの」と「変化しないもの」の問題として現れる。感覚世界にあるものは常に変化する。美しいものは醜くなり、若いものは老い、正しいと思われたものも状況によって揺らぐ。しかし、それにもかかわらず私たちは「美そのもの」「正義そのもの」「一そのもの」を問う。『国家』では、魂や国家の多様な部分がそれぞれの働きを果たしながら、一つの秩序を保つことが正義として語られる。ここで正義とは、単に道徳的な善行ではなく、「多なるものを一つのものとして保つ秩序」として理解できる。したがって『国家』のテーマは、本質的は identity の問題、すなわち「多なるものはいかにして一でありうるか」という問いである。

 アリストテレスでは、この問いは実体、形相、本質の問題として整理される。あるものが「これ」として存在するのは、単に素材が集まっているからではない。素材がある形相を持ち、一つのものとしてまとまっているからである。眼鏡はレンズとツルの寄せ集めではなく、眼鏡としての形を持つことで眼鏡である。人間についても同じで、「教養がある」「背が高い」「若い」といった述語は、その人に付け加えられる性質に過ぎず、その人の本質そのものではない。アリストテレスの実体論は、述語の背後に、それらの述語が帰属する「これ」、つまり主語としての存在を考える。この意味で、identity は述語ではなく、述語を担う「主語」の問題として現れる。

 アウグスティヌスでは、「一であること」は神学的な深みを帯びる。世界のものはすべて変化する。人間も変化する。心も揺らぎ、記憶も移ろい、身体も老いる。では、その変化する人間をなお一つの存在として保つものは何か。アウグスティヌスにとって、究極的に変化しないものは神である。神は永遠であり、不変であり、存在そのものであり、愛そのものである。ここから、identity の問題は、単に論理的な同一性ではなく、変化する被造物をなおそのものとして支える不変の「愛」の問題へと転じる。人間が自分自身を保つことができるのは、自分の内部に不変の核があるからではなく、神の記憶と愛において、である。

 社会契約論では、この問題は個人と共同体の関係に移る。『社会契約論』では、多数の個人が契約を結ぶことによって、一つの政治体、すなわち「公的人格」が成立する。ここで問われているのは、複数の私人がいかにして一つの人民、一つの主権者、一つの一般意志を持つ存在になりうるかである。identity は「一人の人間が同じである」という問題にとどまらず、多数の人間がいかにして一つの人格を形成するかという問題として現れる。共同体にも「私」がある。国家にも「自我」がある。政治体は単なる個人の合計ではなく、一つの生命、一つの意志、一つの人格として現れる。
 ヘーゲルでは、この問題がさらに有機体的・弁証法的に展開される。個人、家族、市民社会、国家は、ばらばらの要素として並んでいるのではない。それぞれが他と関係し、他を媒介しながら、全体として一つの精神的有機体を形成する。国家は単なる個人の集合ではなく、諸部分が相互に働き合うことで成立する全体である。ヘーゲルにおいて重要なのは、一が多を押しつぶすのではなく、多が展開されることによって、より高次の一が成立するという点である。identity は、静的に同じであり続けることではなく、差異、分裂、媒介、回復を通じて自己自身となる運動として捉えられる。

 このように見ていくと、identity は単に「同じであること」ではない。語源的には「まさにそれ自身であること」、論理学的には A=A という空虚だが根本的な形式、プラトンでは多を一として保つ秩序、アリストテレスでは述語を担う実体、アウグスティヌスでは変化するものを支える不変の神と愛、社会契約論では多数者が一つの公的人格となる問題、ヘーゲルでは差異を媒介しながら自己へ帰る有機体的運動として現れる。
 つまり、古典的な系譜をたどることで見えてきたのは、identity とは「同じものが同じである」という静的な定義ではなく、むしろ、変化し、多様化し、分裂し、関係しながらも、なおそれを一つのものとして呼び続けることはいかにして可能かという問いだということである。

「空虚な主語」の機能

 すべてのものは変化する。身体も、記憶も、性格も、関係も、役割も、社会的位置も変化する。それにもかかわらず、私たちは「この人はこの人である」と言う。では、その「この人」とは何か。顔でもない。性格でもない。記憶でもない。能力でもない。社会的役割でもない。そうした述語をいくら積み重ねても、その人そのものには届かない。ここで、identityは「述語」ではなく「主語」の問題として現れてくる。
 しかし、主語はそれ自体では空虚である。「私は」と言っただけでは、まだ何も言っていない。「A=A」も同じで、内容としてはほとんど何も言っていない。だが、その空虚な形式がなければ、いかなる述語も帰属できない。ここから、identityは 「内容としては無、機能としては根本」 という性格を持つことが見えてきた。この性格を 「機能する無」 とでも呼んでおこう。
 この「機能する無」は、identityだけの問題にはとどまらない。固有名、主語、存在、神、物自体、一、場所、さらには天皇制のような象徴構造にも似た働きを見出せる。どれも、具体的に意味のある内容として記述しようとすれば、手から零れ落ちる。しかし、それがなければ言語、認識、共同体、信仰、人格、歴史の連続性が成り立たない。つまり identityとは、単独の哲学概念というより、人間が言語によって世界を一つのものとして扱おうとするときに現れる臨界の問題として理解すべきものだ。

人間の言語活動と「行列」

 人間の言語は基本的に単線的で、一方向に進む。主語を立て、述語をつけ、命題を作り、順番に展開する。しかし人間の生そのものは、そんなに単線的なものではない。身体、記憶、感情、他者からの呼びかけ、応答、場、時間、愛、偶然が絡み合った、多次元的な在り方をしている。しかしそれらを言語に落とし込むとき、本来の多次元的な在り方は一元化される。いわば「行列」的な現実が、固有値のような代表値へ圧縮される。
 人間の言語は多次元的な現実を一次元の言葉へ圧縮するが、生成AIは、その一次元化された言語を、内部ではベクトル空間や行列演算として再展開し、関係の濃淡を処理したうえで、再び人間が読める一次元の言語に翻訳する。生成AIとの対話は、固有値化された言葉をもう一度行列的な関係場へ開く契機として機能するのかもしれない。
 人間の在り様は本来行列的である。しかし、人間は理解し、語り、伝えるために、それを一元化せざるをえない。天才とは、もしかすると、その行列的な多次元性をすぐに固有値化せず、比較的長く保持したまま、後から一気に言語、数式、作品へ落とせる人なのかもしれない。創造的思考とは、行列的な場と、言語による固有値化との往復運動なのかもしれない。

愛と尊厳

 人間の言語活動を「行列」という観念で整理すると、固有名と一般名詞の違いも「行列」で説明することができる。一般名詞は、行列的な存在から一つの方向、性質、機能、分類を取り出す。学生、教師、子ども、問題児、優等生、労働者、消費者といった語は、行列を固有値化する。一方、固有名は、その行列全体を記述せずに指すための空虚なタグである。「A子ちゃん」という名前は、A子ちゃんのすべてを含んでいるわけではない。しかし、その名は、タグとして、変化し続けるA子ちゃんをなおA子ちゃんとして呼び続けるために機能する。
 たとえば「好きと愛の違い」も、同じく「行列」で説明することができる。「好き」は述語に向かう。顔が好き、声が好き、優しいところが好き、楽しいところが好き、というように、好きは相手の性質や条件に反応する。だから好きには代替可能性がある。同じ条件を持つ別の人、あるいはよりよい条件を持つ人が現れうる。しかし「愛」は、そうした述語を通じながらも、述語に還元されない主語へ向かう。愛は「あなたがあなたであること」に応答する。
 つまり、identityは好きの対象ではなく、愛の対象である。さらに正確に言えば、identityは、愛によって初めて対象として扱われうるもの、あるいは、愛がないと本当は見えないものである。愛は、相手を定義し尽くすことではない。相手を所有することでもない。相手が変わり、老い、弱り、失敗し、死んでしまっても、なお「あなたはあなたである」と呼び続ける力である。
 この意味で、アガペーはエロースと本質的に異なる。プラトンのエロースは変化する。美しい身体から美しい魂へ、美しい制度へ、美そのものへと上昇していく。エロースは個別者を通じて普遍へ向かう。しかしアガペーは、変化する相手をなおその人として受け取り続ける。プラトンの善は、A=A(イデア)を照らす光ではあるかもしれないが、変化する個体を「あなた」として呼び続ける愛とは少し違う。
 ここから「人間の尊厳」の意味も見えてくる。尊厳とは、愛が個別者に見出す identityを、倫理として普遍化したものである。愛は「この人」に向かう。しかし尊厳は、好き嫌いや親密さの有無を超えて、すべての人を主語として扱えと要求する。人間を、能力、成果、役割、年齢、健康、成績、有用性といった述語に還元してはならない。その人を、その人がその人であるという主語として扱わなければならない。カントの仕事は、これを感情や宗教に頼らず、理性の倫理として定式化することだったのではないか。
 教育基本法の「人格の完成」も、この線で読み直せる。人格とは、成績や能力や性格の束ではない。人格とは、述語に還元されない主語としてのその人である。だから人格の尊重とは、子どもを「できる子」「できない子」「問題児」「優秀な子」といった述語だけで扱わず、ソノ子ガソノ子デアル所以を大切にすることである。ただし、その所以は、その子の内側に隠された固定的な核ではない。それは、呼びかけと応答の網目の中で立ち上がる。

関係・応答・場

 「私」は単独では成立しない。「私」は「あなた」と呼ばれ、「私」と応答する場において立ち上がる。ブーバー的に言えば、我は汝との関係で我になる。和辻的に言えば、人間はあいだにおいて人間である。西田的に言えば、主語はそれが立ち上がる場所において現れる。中動態的に言えば、identity は自分で作るものでも、外から作られるものでもなく、呼びかけと応答のあいだで成っていく。
 この視点から見ると、デカルトのコギトはかなり怪しくなる。「我思う、ゆえに我あり」は、すでに成立済みの「我」を前提にしている。乳幼児には最初からデカルト的な我があるわけではない。呼ばれ、抱かれ、見つめられ、応答され、名前を呼ばれ、仮想汝を内面化することによって、我は成っていく。したがって「我思う、ゆえに我あり」よりも、「呼ばれ、応答する。ゆえに我が成る」の方が、人間の発生論としては正確ではないか。
 こうなると、古典論理学の矛盾律や排中律も疑問の対象となる。矛盾律や排中律は、言語や制度を成立させるためには強力な形式である。しかしそれらは、成りつつあるもの、あいだにあるもの、中動態的に生成するものを扱うには弱い(あるいは強すぎる)。排中律は「Aか非Aか」と問うことで、中を消す。しかし人格、愛、教育、identityは、その消された「中」において成っていく。教育は、できる/できない、正解/不正解、問題あり/問題なしという判定を使わざるをえないが、それだけで子どもを見れば、人格は見えなくなる。

教育基本法第一条

 教育基本法第1条を改めて読みなおしてみる。そこには「人格の完成を達成する」とは書いていない。「人格の完成を目指し」と書いてある。ここまでの考察を踏まえると、教育の目的の核心は、「人格の完成」という完成形の提示ではなく、「目指し」という未完の方向性にあるのかもしれない。
 教育とは人格を完成させる技術ではなく、完成しえない人格へ向かって、その人がその人として成っていく場を支える営みである、とでも言えるのかもしれない。

「遊び」について

遊びはなぜ重要なのか

 学生に「遊びはなぜ重要なのか」と聞くと、ほぼ例外なく、似たような答えが返ってくる。ストレス発散になる、コミュニケーション能力が育つ、想像力が伸びる、社会性が身につく。どれも間違っていない。しかし、どれも妙に収まりがよすぎる。
 それらの言葉はすべて、「役に立つ」という方向に整えられている。遊びが、何か別の価値へと変換されることを前提に語られている。
 ここに、最初の違和感がある。遊びは、本当に「役に立つから」重要なのだろうか。

資本主義と「役に立つ遊び」

 近代以降の社会において、遊びは明確な位置を与えられている。労働時間の外側、余暇としての時間である。そしてその余暇は、しばしば商品によって満たされる。娯楽、レジャー、コンテンツ、アプリ。私たちは遊んでいるというより、遊びを消費している。
 労働力が時間単位で売買されるようになると、労働時間とそれ以外の時間が切り分けられる。その外側に生じた時間が余暇であり、その余暇を埋めるものとして遊びが商品化される。さらに、その商品を購入する主体としての「消費者」も同時に形成される。
 つまり、遊びは単に発見されたのではなく、切り出され、商品化され、購入されるものとして再編成された。
 こう考えると、遊びの位置づけはかなり新しいものである。

かつて遊びはどうあったか

 では、それ以前の遊びはどうだったのか。
 前近代の庶民にとって、労働と遊びは未分化だった。田植え歌、祭礼、酒宴、共同体の行事。働くことと楽しむことは切り分けられていなかった。それらはすべて「生きること」の中に埋め込まれていた。
 一方で、貴族や権力者は、労働から解放された立場として、遊びを享受することができた。後白河院の『梁塵秘抄』はその象徴的な例である。遊女や傀儡の芸能を学び、それを収集し、記録する。そこには確かに「遊び」がある。しかしそれは、現代的な意味での余暇でもなければ、庶民に開かれたものでもない。
 遊びは存在していた。だが、それは今とはまったく異なる形で存在していた。それは労働から解放された層にのみ享受された。

中世の深層:「遊び」と畏れ

 「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉がある。
 この「遊び」を、現代的な意味でのレジャーとして読むと、たちまち陳腐になる。しかし、その背後には、歌舞や身体、声、そしておそらくは神仏への感応をも含んだ、より広い意味での「遊び」がある。

 「遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さえこそゆるがるれ」

 ここで動いているのは、意志ではなく身体である。社会の秩序の中にいる大人の身体が、まだ秩序に回収されていない何かに触れて揺さぶられる。その揺らぎには、どこか畏れに近いものがある。
 遊びは、単なる楽しさではなく、秩序を揺るがすものでもあった。

遊びの軽さと商品化

 しかし、近世に入ると状況は変わる。
 井原西鶴の描く世界では、遊びはすでに都市文化の中で転がっている。金、欲望、消費、洒落。遊びは軽くなる。そこにはもはや中世的な畏れはほとんどない。代わりに、計算と快楽がある。
 遊びは大衆化されると同時に、商品化される。
 そしてそれを抑えようとする権力が現れる。朱子学的な秩序は、遊びを「はかなきたはふれ」として位置づけ、必要に応じて取り締まる。ここで面白いのは、権力が遊びを軽蔑しつつ、同時に恐れていることである。遊びはくだらない。しかし、それが広がれば秩序を崩す。
 遊びは常に、余剰でありながら危険でもある。

欲望の転換

 同じ時期、ヨーロッパでは別のことが起きている。欲望を抑圧するのではなく、それを活用するという発想である。ハーシュマンの言うように、情念は利益へと変換される。アダム・スミスは、私益の追求が社会の富につながると説明する。
 教育においても同じである。コメニウスは感覚や興味を教授法に組み込み、ロックは遊びを習慣形成のために利用し、ルソーは欲望そのものを発達の原理として位置づける。
 ここでは、遊びもまた変換されている。遊びは、抑えるべきものではなく、使えるものになる。

「失敗」と余白

 このとき、遊びの本質はどこにあるのか。
 おそらくそれは、失敗にある。
 遊びの中では、失敗がそのまま終わらない。笑いになる、ルールが変わる、別の展開が生まれる。無数の無意味な試行の中から、意味のある何かが生まれる。
 現代の合理性は、これを嫌う。無駄を削り、効率を上げ、PDCAを回す。しかし、その合理性は、既に見えている目的にしか対応できない。新しいものは、無数の無駄の中からしか出てこない。
 遊びは、その無駄を引き受ける場である。

「退屈」と「徒然」

 だが現代では、その遊びすら回収される。
 退屈はすぐに埋められる。スマホ、動画、ゲーム。空白は許されない。しかし、退屈と徒然は違う。退屈は埋めるべき空白だが、徒然はまだ何かが生まれる前の余白である。
 遊びは、おそらくこの徒然からしか生まれない。

遊びを教えるという矛盾

 ここで教育に戻る。
 授業で遊びを扱うとき、すでにそれは回収されている。意義を問うた瞬間に、遊びは何かのためのものになる。それでもなお、遊びを扱わざるをえない。
 ではどうするか。
 遊びを守ることはできないかもしれない。しかし、遊びが完全に回収される瞬間に違和感を持つことはできる。その違和感を残すことが、教育の役割なのかもしれない。

それでも遊びは必要か

 結局のところ、問いは最初に戻る。遊びはなぜ重要なのか。あるいは、遊びは本当に「重要」でなければならないのか。
 この問いに答えがあるのかどうかは分からない。ただ一つ言えるのは、遊びを説明しきったとき、そこにはもう遊びは残っていない、ということである。

ルネサンス「人文主義」について

「人文主義」とは何だったか

 ルネサンス人文主義とは何だったのか。この問いに対して、「古典好きの教養人たちの運動だった」と答えるのでは、あまりに浅い。また逆に、「キリスト教に対する反乱だった」と言ってしまうのも、やはり乱暴である。むしろ人文主義の本質は、神学を正面から否定することではなく、キリスト教世界の内部に、神学だけではないもう一つの知の中心を据え直したところにあった。そこでは神の奥義ではなく、人が人としてよく語り、よく判断し、よく生きるための学が前景に出る。その看板が、「studia humanitatis」であった。
 この「humanitatis」という言葉は、近代的な意味での「人類一般」や「人間そのものの研究」を意味していたわけではない。むしろそれは、人を人間らしくする教養、陶冶、言葉づかい、判断力、徳の教育を指していた。だが、ここにこそ決定的な転換があった。なぜなら、その「人間らしさ」の模範として人文主義者たちが読み直したのは、キリスト教徒ではなく、ギリシアやローマの異教徒たちだったからである。キケロ、セネカ、プラトン、さらにはギリシア語そのものまでが、「誤りを含みつつも、人を高める教師」として復権する。こうして、真理や徳の担い手は、もはや教会の内側だけに限定されなくなる。
 もちろん、当の人文主義者たちは、必ずしも自分を反キリスト教だとは思っていなかった。多くはむしろ逆で、古典を用いることによってキリスト教をより純化し、より深く理解し、よりよく語ろうとした。異教古代は「隠れ蓑」ではなく、まずは「利用可能な遺産」として入ってきたのである。しかし、ここに一つの危うさが潜んでいた。異教の哲学者や詩人たちが、単なる準備学ではなく、ほとんどキリスト教徒に近い徳と理性を備えた先行者として読まれ始めたとき、キリスト教だけが真理の唯一の器であるという感覚は、必然的に薄くなる。人文主義は表向きには教会の敵ではなかった。だが、その方法そのものが、教会の自己理解を静かに揺らしていた。
 この緊張を最も鮮やかに示す人物が、アウグスティヌスである。彼は人文主義にとって、最大の味方であると同時に最大の障害でもあった。味方であるのは、彼自身がキケロや新プラトン主義を通じて高みに引き上げられ、異教の学知の中にも真理の断片があることを認めていたからだ。異教の金銀を奪って神のために用いよ、という彼の比喩は、人文主義者たちにとってまことに便利な免罪符になった。しかし彼は同時に、きわめて重要な一線を引いていた。プラトン派は高いことを語りうる。だが、受肉したキリスト、十字架、へりくだり、救済への道はそこにはない。異教哲学は神を垣間見せても、そこへ至る道を与えない。ここでアウグスティヌスにとって決定的なのは、「理性」ではなく「信」である。しかもそれは、単なる命題の承認ではなく、キリストという仲保者に身を委ねることであった。
 ところがルネサンス人文主義は、このアウグスティヌスの二段構えのうち、前段だけを大きく育て、後段をしばしば弱めた。すなわち、「異教にも真理はある」という部分は熱心に受け継ぎながら、「しかし道そのものは信にしかない」という断絶の感覚を後景に退けていったのである。すると何が起こるか。異教古代は、キリスト教の前座ではなくなる。理性と教養によって人はかなりのところまで到達できる、という感覚が生まれる。信は出発点ではなく、完成や浄化として位置づけられ始める。ここに、アウグスティヌス的な恩寵の鋭さを鈍らせる力が潜んでいた。
 しかし、人文主義者たちは一枚岩ではない。この危うさに気づいて立ち止まる者もいれば、気づきながら先へ進む者もいた。ペトラルカは前者に属する。彼は古典愛に駆動されながらも、そのまま古典へ身を預け切ることができない。彼の内面には常にアウグスティヌスがいて、人文主義が開いてしまう深淵を見張っている。哲学の目的は抽象知ではなく、魂の世話であり、古典は人を高めても最後の救済線には届かない。彼は人文主義の創始者でありながら、その最も危険な含意を全面展開するところまでは行かない。いわば彼は、アウグスティヌスに叱られながら人文主義を始めた人である。
 これに対してヴァッラは、はるかに危うい。しかもその危うさは、異教復活を叫ぶことによってではない。彼はもっと深い場所を掘る。すなわち、キリスト教と異教の境界を支えていた神学的語彙、権威、方法そのものを、言語と本文の側から崩しにかかる。スコラ学のラテン語を人工的で不自然だとみなし、古典ラテン語と生きた言語使用を基準にして概念の足場を問い直す。ここでは、問題はもはや「異教に惹かれるかどうか」ではない。恩寵や信仰すら、権威づけられた術語の中ではなく、言語、歴史、本文批判の法廷で語られるべきものになる。ヴァッラは恩寵を否定するとは言わない。だが、恩寵を語る舞台装置を総入れ替えしてしまう。その意味で彼は、ペトラルカよりもはるかに深く、中世世界の床板を抜いている。
 こうした流れを遠くから眺めると、ダンテの位置がいっそう鮮やかになる。ダンテもまた古典を深く愛した。ウェルギリウスは彼にとって最大級の導き手であった。だが、それでもなお、古代とキリスト教のあいだには最後の門が残る。異教は尊敬され、抱きしめられる。けれど救済の中心には入らない。ダンテは古代を愛しても、最後の一線では越えないのである。これに対してルネサンス人文主義は、その門前に立ち、あるいは門の敷居を低くし始める。異教徒たちも、かなりのところまで来ていたのではないか。そう思い始めたとき、門はもはや絶対の境界ではなくなる。
 ルターがこの流れを警戒したのも、よく分かる。彼は理性一般を否定したのではない。だが、理性が神学の核心に、すなわち救済や神認識の領域にまで入り込み、自力到達の楽観を生むことを激しく警戒した。だからこそ、彼にとってエラスムスとの論争は、単なる自由意志の技術的な争いではなく、人文主義そのものがどこまで救済論に入り込めるかをめぐる争いでもあった。古代のアウグスティヌス対ペラギウスが、16世紀には、教育・修辞・聖書解釈・人間形成を巻き込みながら、ルター対エラスムスとして再演されたのである。舞台装置は新しいが、争点の芯は古い。人は自力でどこまで行けるのか。恩寵はどこから不可欠になるのか。
 だから、ルネサンス人文主義の本当の新しさは、「異教を復活させた」ことにはない。そうではなく、異教古代のうちに、キリスト教世界と連続しうる理性、徳、教育、文体の規範を見いだし、それを正統な学知として承認してしまったことにある。神学の外に、しかしなお全面的な反宗教ではない形で、「人間一般の理性」が活動する部屋をつくったこと。それがstudia humanitatisの意味だった。その部屋は当初、教会を豊かにするために増築された。しかし一度つくられてしまえば、そこは教会だけでは閉じきれない空間になる。人文主義とは、その静かな増築であった。そして、その増築がやがて、信仰と理性、異教とキリスト教、恩寵と教育のあいだの壁そのものを薄くしていったのである。
 要するに、人文主義は反キリスト教ではない。けれど、ただのキリスト教内部運動でもない。それは、キリスト教世界の内部に生まれた、キリスト教を相対化しうる知の形式だった。異教を愛することは、もはや外部への逸脱ではなくなる。むしろ、理性を持つ人間であるかぎり、誰もが触れうる普遍的な真理と徳の領域があるのではないか、という問いが、そこから静かに立ち上がる。その問いの始まりに、humanitatis という看板が掲げられていたのである。

「雄弁術」とは何だったか

 もし現代人が「雄弁術」と聞けば、たいていはまず警戒する。うまく喋る技術、相手を言い負かす話法、政治家や広告屋の操作術。せいぜい「プレゼン力」くらいの意味にしか取られない。しかし、ルネサンス人文主義がクインティリアヌスに見たものは、そういう末梢的な技法ではなかった。そこでは雄弁は、考えたことを飾って外へ出すための包装ではなく、人が人として完成していく過程そのものに属していた。なぜならhumanitas自体が、単なる知識量でも内面的な「人格」でもなく、よく語り、よく判断し、よく公共世界に関わることのできる人間のあり方を意味していたからである。studia humanitatisが文法・修辞・詩・歴史・道徳哲学を核とし、「神のことを知る学」ではなく「人が人としてよく生き、よく語り、よく判断するための学」として立てられていた以上、雄弁はその中心から外れようがなかった。
 ここでクインティリアヌスが決定的だったのは、彼が修辞を単独の技法として扱わなかったことである。彼の教育論は、幼年期から成人までを視野に入れ、文法、読書、模倣、作文、朗誦、判断、道徳訓練、人物形成を一つの連続体として組み立てていた。つまり「うまく話す人」を作ろうとしたのではなく、「よく生きることができ、その生を言葉として公に担うことのできる人」を作ろうとしたのである。ルネサンス人文主義者にとって、これほど都合のよい古典はなかった。プラトンは高すぎ、アリストテレスは強すぎるが、そのままラテン語学校の教本にはなりにくい。だがクインティリアヌスは、ラテン語で、しかも学校でそのまま使えるかたちで、人間形成の全体図を示してくれる。だから彼は、現代人の感覚よりはるかに中心人物になった。
 この点が見えにくいのは、近代以後の私たちが「思考」と「表現」を別物だと感じているからでもある。まず頭の中に本当の考えがあり、それをあとで言葉に乗せる。言葉は中身の外側にある伝達手段にすぎない。そういう感覚に立つと、雄弁はどうしても二次的なものに見える。しかしクインティリアヌス的世界では、そうではない。人は、よい言葉の中でこそよく考える。読むこと、写すこと、模倣すること、暗唱すること、朗読することを通じて、判断力そのものが形づくられる。だから雄弁とは、できあがった判断を飾る技術ではなく、判断そのものを公共的なかたちへ鍛え上げる訓練だったのである。現代ふうに言えば、彼は「コミュニケーション能力」を重視したのではない。「思考が共同世界の中で成立する」という事実そのものを重視したのである。
 さらに言えば、ここでの雄弁は「勝つための言葉」でもない。もちろん法廷や政治の現場で、説得は重要だった。だが人文主義者が魅かれたのは、勝敗以前のもっと深いところである。人が公共の場で語るとは、自分の欲望を吐き出すことではなく、言葉を通して自分を秩序づけ、他者と共有できる世界を作ることだ、という感覚である。だから雄弁は、倫理から切り離されたテクニックではありえない。クインティリアヌスの魅力はまさにここにあった。彼は、文法家、修辞家、教師を分けない。よい言葉、よい読書、よい判断、よい人物形成は、同じ一本の線の上にある。ルネサンス人文主義者たちが彼に見たのは、「話し上手の作り方」ではなく、「公的人間の作り方」だった。
 この意味で、現代の序列とルネサンスの序列は、かなり違う。私たちはたいてい、「誰がいちばん深く考えたか」で哲学者や思想家の大きさを測る。だがルネサンス人文主義は、少しちがう尺度を持っていた。つまり、「誰がいちばん人を作れるか」「誰が古典を通して判断力と公的徳を養う教育を設計できるか」である。その基準に立つと、クインティリアヌスは「理論的に最も深い哲学者」ではなくても、きわめて巨大な存在になる。彼は思想体系の創始者ではないかもしれない。だが、人を形づくるカリキュラムの設計者としては、プラトンやアリストテレスに劣らぬ、あるいは学校教育の現場ではそれ以上に重要な古典になりえた。
 そして、ここにhumanitasのローマ的な癖がよく表れている。ギリシア的なpaideiaが、魂の形成や教養そのものに重心を置くのに対して、ローマ的humanitasは、そこに「公」の手触りを強く残す。よい人間とは、ただ静かに思索する人ではなく、共同体の中で適切に語り、判断し、行為できる人間である。だから雄弁は飾りではない。むしろ共同体の中で人間が人間であるための形式である。言葉を通じてしか公共性が成立しない以上、雄弁はhumanitasの外側にある能力ではなく、その完成した姿の一部になる。studia humanitatisが「神学から独立した教育的・修辞的・道徳的世界」を前面に押し出したとき、その中心に修辞がいたのは偶然ではない。人文主義は、真理をただ所有することではなく、それを人間世界の中で共有可能なかたちへ整えることを学びの核心に置いたのである。
 だから、現代人にとってクインティリアヌス的雄弁術が理解しにくいのは当然でもある。私たちはすでに、文法を語学教師に、修辞を話法の小道具に、倫理を別科目に、政治を制度論に、文学を鑑賞に、それぞれ分けてしまっている。だがルネサンス人文主義においては、それらはまだ裂けていなかった。文法家は「読むという営み」そのものを支える人であり、そこから歴史、政治、徳へとつながる回路の管理者でもあった。だからこそ、文法と修辞の重みが現代人には過剰に見えるのである。実際には重すぎたのではなく、私たちがその後で切り分けすぎただけなのだ。

近代におけるhumanitasの解体

 もともとギリシア的paideiaは、現代の意味での「文系教育」ではなかった。そこでは、よく生きること、よく考えること、共同体の成員として形成されること、さらには世界の秩序を理解することが、まだ一つの連続体の中にあった。ローマ的humanitasはそれを受け継ぎつつ、より「ポリス」的に言語中心の形に組み直した。つまり、哲学的上昇よりも、教養ある公的人間、よく読み、よく語り、よく判断する人間の形成へ重心を移したのである。しかし、それでもなおhumanitasは、単なる「文学趣味」ではなく、人間形成の総体を名指していた。だからルネサンス人文主義がそれを復活させたときも、彼らはまだ、自分たちが知の一部分だけを扱っているつもりではなかった。むしろ、神学の外に、人間形成の中心を立て直そうとしていた。
 ところが、この総体は内側からすでに二つの方向へ裂けうるものだった。その一方が、クインティリアヌス的な言語・修辞・歴史・道徳の線であり、他方が、アリストテレス的な論理・自然学・形而上学の線である。ルネサンスにおいて重要なのは、この二つが正面衝突して一方が他方を消したのではない、という点だ。人文主義者たちは、スコラ的アリストテレス主義の文体や術語を批判したが、アリストテレスそのものが消えたわけではない。むしろ大学教育、医学、法学、自然哲学の領域では、アリストテレスはなお方法的中心であり続けた。つまりルネサンスとは、「humanitasがアリストテレスを追い払った」時代ではなく、人間形成の言語的・道徳的中心を人文主義が握りつつ、自然世界の体系的理解はなおアリストテレス的枠組みが担っていた時代なのである。ここに、後の分解の雛形がある。
 このことを言い換えれば、paideia / humanitasの内部には、もともと「公的人間を作る教育」と「自然世界を体系的に理解する学知」が、まだ切り離されないまま共存していた。しかし近代国家の形成は、その二つを別々の制度へ配分し始める。俗語の標準化と国語教育は、前者をnational cultureと市民教育へ引き寄せた。ラテン語が超国家的な教養共同体の媒体であるあいだ、humanitasはヨーロッパ全体に通用する普遍教養の看板でありえた。だが、近世から近代にかけて、ラテン語の地位が漸進的に低下し、各地の俗語が文法化・辞書化・標準化されるにつれて、教養形成の舞台はフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語ごとの文化圏へ割れていった。
 その結果、humanitas は滅びるというより、各国民に分化された。普遍的教養という形では生き延びられず、フランスではhumanitésやculture、イギリスではliberal education、ドイツではBildungのような、各国語の理念へ分散移植される。ここではもう、「ラテン語で結ばれたヨーロッパの人間形成」という古い形は維持できない。かわって、国家が必要とする市民、官僚、国民文学の読者、標準語の担い手を作る教育が前面に出る。つまりhumanitasのうち公的で言語的な側面は、nation-state によって吸収され、国民文化の形成装置へ作り変えられたのである。
 では、アリストテレス自然学の側はどうなったか。自然学はhumanitasと違って、最初からラテン修辞的人間形成の中心には置かれていなかった。しかし、それは重要性が低かったからではない。むしろ逆で、自然学は大学・学部・専門知の枠の中で、より強く制度化されていた。ルネサンス期にもアリストテレスは、論理学・自然哲学・形而上学・医学の広い基盤として使われ続け、そこから近代科学への転位が起こる。つまり近代は、自然学を捨てたのではなく、人間形成の総体から切り離して、専門的で累積的な学知として独立させたのである。自然哲学はやがて実験科学、数学的物理学、専門分化したsciencesへ変わっていくが、その変化は「無からの創造」ではなく、アリストテレス的自然学の大学的制度基盤を踏み台にして起こった。ここでもまた、総合的教養が勝ったのでも負けたのでもなく、内部の一契機が別の制度的未来を得たのである。
 この意味で、nation-stateの興隆はpaideia / humanitasを単純に破壊したのではない。それは、それまで一つの「人間形成」の理念の中に折り重なっていた諸要素を、国家・学校・大学・学問分野のあいだに再配置した。言語・修辞・歴史・徳は、国語教育、文学教育、市民教育、教養へ。自然認識は、自然哲学からscienceへ。哲学そのものもまた、神学や修辞から切り離され、専門的反省として自立していく。かつてpaideiaやhumanitasが担っていた「人間を全体として作る」という野心は、そのままでは残らない。残るのは、その断片だけである。だから近代ヨーロッパは、paideia / humanitasの後継者を持ったのではなく、その遺産を分割相続したのだと言った方がよい。

「無知」を失ったhumanitas

 西洋思想史において、「無知」は、近代人が思うよりはるかに重要な主題だった。もちろんここでいう「無知」とは、単なる無学や愚鈍のことではない。むしろそれは、自分が知っていると思い込む傲慢さに対する警戒であり、人間が自力で真理や救済に到達できると思い上がることへの抑制である。イエスは、父が「賢い者・悟い者」から隠したものを「幼子」に示したと言い、パウロもまた「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と書いた。ここで価値が与えられているのは、無知そのものではなく、知を誇る自己充足の否定である。キリスト教は当初から、知性の働きそのものを嫌ったのではないが、「知っているつもり」という姿勢には、きわめて深い不信を向けていた。
 この警戒は、アウグスティヌスにも濃厚に受け継がれる。彼は異教の学知のうちに真理の断片があることを認めながらも、そこに救済への道そのものはないと考えた。異教の知は利用できる。しかし、それは仲保者キリストへの信に取って代わることはできない。だから彼の問題は、異教知そのものではない。問題なのは、知が神への依存を失い、人間が自分の力で高みに達しうると思い始めることだった。あなたの草稿が捉えている通り、アウグスティヌスの構えは「異教にも真理はある」と「しかし道そのものは信にしかない」という二段構えでできている。そしてルネサンス人文主義は、しばしばこの前段だけを大きく育て、後段を弱めていった。
 ここで重要なのは、この「無知」の主題がキリスト教だけに閉じていなかったことだ。ギリシア哲学の中にも、少なくともソクラテスには、これに響き合う契機がある。いわゆる「無知の知」は、無知を称揚する標語ではない。そうではなく、知らないのに知っていると思い込むことこそが最大の危険だ、という批判である。プラトンの『ゴルギアス』において、ソクラテスは修辞を、知識を与える技術ではなく、知っているように見せ、聴衆に信念を植え付ける力として追及する。そこでは、哲学と雄弁術の対立は、「深い学問」と「軽い話術」の対立ではない。むしろ、無知を暴き続ける営みと、無知を覆って公共的効果を生み出す技術との対立である。ソクラテスが警戒していたのは、まさにこの「無知が知を装う」構造だった。
 さらに、この「無知」の主題が、キリスト教とギリシア哲学のあいだで、アウグスティヌスにおいて一度結び合わされている。『教師論』は、方法としても論点としても、ソクラテス的対話を深く下敷きにしている。そこでは、言葉は真理を直接与えず、むしろ「知っているつもり」を崩し、学ぶ者を内面へと向かわせる。これはほとんどソクラテスそのものである。ただしアウグスティヌスは、その内面の師を、ソクラテス的自己吟味のままには置かず、キリストという「内なる教師」へと結びつけた。つまり彼は、ソクラテスを借りただけではない。ソクラテスをキリスト教化したのである。
 だから、本来ならルネサンスの humanitas は、この二つの伝統――キリスト教的な反・高慢と、ソクラテス的な反・見せかけの知――の双方から、かなり強い自己抑制を学んでもよかったはずである。実際、ペトラルカはかなりそこに近い。彼は古典愛に駆動されながらも、古典へそのまま身を預け切ることができない。彼の内面には常にアウグスティヌスがいて、人文主義が開いてしまう深淵を見張っている。哲学の目的は抽象知ではなく魂の世話であり、古典は人を高めても最後の救済線には届かない。
 エラスムスもまた、その意味では古い警戒をまだ失っていない。彼は北方人文主義の巨人であり、文献学と教育改革の担い手でありながら、『痴愚神礼讃』で、学者・神学者・権力者の知的自負を容赦なく嘲る。もちろんその書法は諧謔的であり、露骨な無知礼賛ではない。だがそこで繰り返されているのは、知そのものの否定ではなく、知が自分を絶対化することへの嘲笑である。エラスムスは学ぶことをやめよと言わない。しかし、学びが敬虔を越えて自己目的化したとき、それは滑稽になると言う。つまり彼もまた、イエスとアウグスティヌスの線から完全には離れていない。
 ところが、humanitasの主流全体を見れば、話は別になる。そこでは、知の傲慢さに対する警戒は消えないまでも、明らかにゆるむ。なぜならhumanitasの中心課題は、魂を神の前で低くすることよりも、人を公共世界で機能する存在として形成することへ移ったからである。studia humanitatisは、文法・詩・歴史・道徳哲学、そして何より修辞を通じて、人間を「よく語り、よく判断し、よく生きる」者に作り上げようとした。そこでは知は、もはやまず疑われるべきものではなく、人格形成と公共的行為の資源である。あなたの草稿が言うように、人文主義はキリスト教世界の内部に「もう一つの知の中心」を据えたのであり、その中心には雄弁術がいた。そこまで来れば、知に対する古い不信は、構造的原理ではなく、せいぜい人格上の節度に後退せざるをえない。
 そのずれは、ゴルギアスの扱いに象徴的に現れる。ソクラテスから見れば、ゴルギアスは「知らないのに知っているように見せる」危険の典型である。ところがhumanitasの側では、彼はしばしば「雄弁家」として顕彰される。これは誤読というより、意図的な読み替えである。humanitasはソクラテスの警戒を知らなかったのではない。知っていたが、それを「修辞そのものへの根本的不信」としては継承しなかった。むしろ「徳ある修辞なら救える」という方向へ弱く読み替えたのである。ゴルギアスは、真理なき説得の危険人物としてではなく、言葉の力を極限まで示した祖先として再配置された。ここでhumanitasは、無知を暴露する哲学よりも、無知を公共的に管理しうる教育を信じた。
 キケロに対する態度は、さらに露骨である。ペトラルカは1345年、キケロの書簡を発見して、「大雄弁家の仮面」の下にいる、生々しく動揺し、野心的で、必ずしも人格的に高貴とは言えない人間を見てしまった。ふつうなら、ここで醒めるはずである。しかもキリスト教的伝統とソクラテス的伝統の両方を知っているなら、なおさら「言葉の偉さ」と「人格の偉さ」は別だ、と痛感してよさそうなものだ。ところが、後代のhumanitasは、そこから逆にキケロを神格化していく。もちろん、人格的に無謬な聖人としてではない。彼らが崇拝したのは、ラテン散文の規範、教育課程の中心、そして雄弁と哲学をローマ的に結合した巨大な装置としてのキケロである。しかし、だからこそ問題は深い。人格的には尊敬しきれない相手を、制度的必要のためになお最高規範として祀り続けることは、知に対する古い警戒がすでにかなり鈍っている証拠だからである。ペトラルカはキケロを読んで「人間」を見た。後代のキケロ主義者たちは、そこから再び「規範」を作った。
 こうしてhumanitasは、キリスト教にとってきわめて重要だった「無知」のテーマから、少しずつ距離を取っていく。イエスにとって無知は、幼子性とへりくだりを通じて神へ開かれるための条件だった。アウグスティヌスにとってそれは、人間知の限界を自覚し、信へと身を委ねるための条件だった。ソクラテスにとってそれは、知の仮象を打ち砕くための条件だった。だがhumanitasは、教育・模倣・文体・修辞によって人を公共的に形成できると信じた瞬間、その「無知」を、出発点としては残しても、もはや中心原理としては保持できなくなった。無知は暴かれるべき深淵ではなく、教育によって処理できる未完成へと変わる。ここで、人間は「知らない者」ではなく、「まだ十分に教養化されていない者」として理解され始めるのである。
 この変化は、そのままデカルトを生んだわけではない。そこには断絶もある。デカルトは人文主義者のように文体や古典へ退かず、理性そのものの基礎を問い直した。しかし、彼がその問いを引き受けることができた背景には、humanitasがすでに、知を積極的価値として正統化し、神学の外に「人間一般の理性」の部屋を作っていたという事実がある。つまり近代は、「無知」を忘れたところから始まったのではない。むしろ、無知への古い畏れが、教育と修辞によって飼いならされたあとで、その上に建ったのである。
 要するに、ルネサンスhumanitasの本当の問題は、古典を愛したことそれ自体ではない。問題は、キリスト教もソクラテスも共有していたはずの、「知っているつもり」に対する根源的警戒を、修辞と教育の制度の中で弱めてしまったことにある。ゴルギアスを雄弁家として顕彰し、キケロを人格以上に規範として祀り、雄弁術を人間形成の中心に据えたとき、humanitasは「無知」を主題として抱える力を失った。そして、その喪失こそが、後の近代理性が自らをより肯定的に、より積極的に、より制度的に組み立ててゆくための、見えにくい地ならしになったのである。

地政学的背景

 イタリアのルネサンスは、しばしば「古典復興」とだけ言われるが、実際にはもっと複雑な盤面の上に成立していた。そこは単なるラテン・キリスト教世界の内部ではなく、ローマ、ギリシア、東方教会、イスラーム世界、商業、外交、都市国家が交差する地中海的空間だった。だからそこでのhumanitasは、教会的秩序の内側でのみ息をするものではない。むしろ複数の文明圏がせめぎ合う場所で、言語、修辞、歴史、外交判断を武器にして人間が動くための技法として育った。イタリアにおいて人文主義が比較的のびやかに見えるのは、その背後に最初から多元的な盤面があったからである。教会は強力ではあっても、盤面そのものではなかった。
 これに対してアルプス以北では、事情がかなり違っていた。北方人文主義もまた古典を読んだが、その重心はイタリアのcivic humanismよりも、エラスムスに典型的なように、学識と敬虔を結びつける理屈にあった。つまり古典は、都市国家の公的人間を作るよりも、教会と信仰を内側から浄化するための武器として受け取られやすかった。そして、まさにそのためにこそ、北方人文主義は成熟する前に宗教改革へ吸い込まれていく。ギリシア語、本文批判、文献学、修辞、教育改革といった人文主義の方法は、そのまま聖書解釈と教会批判の武器になった。イタリアで人文主義が比較的長く「文明の様式」として展開したのに対し、北では早い段階で「宗教改革の方法」になってしまったのである。
 この差は決定的である。イタリアではルネサンスはまだ、複数の秩序が競合する世界の中で、それらを読み分け、操縦し、媒介する知の技法だった。だが北方では、ルネサンス的人文主義は、教会の普遍秩序そのものを揺るがす運動と結びついてしまった。すると、paideiaやhumanitasが前提していた「よく形成された人間が、ある程度共有された世界の中で語り、判断し、公共性を担う」という古典的条件が崩れ始める。もはや共通のラテン語共同体も、共通の教会的宇宙も、共通の秩序の読み方も自明ではない。ここから先の北ヨーロッパでは、問題は「秩序をどう読むか」ではなく、「秩序をどう作るか」へ移っていく。
 この意味で、デカルトはルネサンスの単純な継承者ではない。むしろ彼は、ルネサンスが北で引き起こした崩壊のあとに立っている。ケプラーやガリレオの世代には、まだどこか「宇宙には秩序がある。それを読むのが学問だ」という感覚が残っていた。ケプラーは数学的に新しいが、なお有機体的調和の言葉で宇宙を考えているし、ガリレオもまだ「自然哲学」の地平から完全には出ていない。これに対してデカルトになると、世界像の語り方そのものが変わる。彼は、物体世界を延長と運動で説明する機械論、方法的懐疑、精神と物体の二分、そして自然を数学的に記述可能なものとみなす近代的枠組みを強く定式化した。前の言い方を借りれば、ガリレオとケプラーが自然研究の中身を変えたのに対し、デカルトは世界の語り方そのものを変えたのである。
 だが、この転換は、思想史の抽象空間で起きたのではない。むしろその背後には、16世紀末から17世紀前半にかけて、宗教戦争と三十年戦争がヨーロッパに与えた深い傷がある。壊れたのは単なる「アリストテレス的自然学」ではない。壊れたのは、宇宙・教会・国家がどこかで一つの調和のうちに収まるはずだという前提そのものだった。上の世代はなお「隠れた秩序」を探していた。しかしデカルト、ガッサンディ、ホッブズ、スピノザの世代になると、調和はもはや前提できない。だから世界も国家も、別の原理で組み直さねばならない、と考え始める。ここに、三十年戦争の時代の思想の深い共通感覚がある。
 この共通感覚を政治思想の側で最も露骨に表したのがホッブズなら、哲学の側で最も純粋な形にしたのがデカルトだったと言ってよい。ホッブズは、内戦の経験を、自然状態と主権という理論へ鍛え上げた。デカルトは、それと別の領域で、同じ危機に応答した。つまり、外の世界に共有された秩序がもう信用できないなら、まず理性そのものの内部に、疑いえない支点を作り直さねばならないという方向へ進んだのである。ホッブズが「国家をどう再建するか」を問うたとすれば、デカルトは「真理をどう再建するか」を問うた。両者は別々の問いを立てているようでいて、実は同じ時代の破局に対する並行した応答である。
 そう考えると、デカルトの方法的懐疑も、単なる知的遊戯ではない。あれは「とりあえず全部疑ってみよう」という思弁上の贅沢ではなく、むしろもはやどの共同体的権威にも、そのままでは寄りかかれない時代の理性が、自分で足場を掘り当てようとする必死さの表現である。中世の理性は、教会と啓示の秩序の中に住んでいた。ルネサンス人文主義の理性は、古典と文の世界の中にまだ家を持っていた。だが三十年戦争の時代の北ヨーロッパでは、その家そのものが燃えている。だからデカルトは、外にある秩序を読むのではなく、思考主体の内部に最初の確実性を立て直すしかなかった。 cogitoが近代の出発点に見えるのは、それが単なる論理の発見ではなく、戦乱と分裂の時代において、理性がなお倒れずに立つための最小限の地面だったからである。
 ここで、イタリアと北方の差がもう一度効いてくる。イタリアのルネサンスでは、知はなお都市外交・修辞・文献・歴史・公的人間形成の技法として広がっていた。そこでは古典は、現実世界の多元的な盤面を生き抜くための教師だった。だが北では、人文主義は宗教改革に吸収され、やがて宗教戦争によってその前提を破壊される。すると古典は、もはや生きた秩序の教師ではなくなる。古代はまだ読まれるが、そこから直接に世界の公共秩序を取り出すことはできない。こうして、paideia / humanitasの世界から、デカルト的理性主義の世界への転換が起きる。すなわち、「よく形成された人間が秩序を読む」世界から、「主体が方法によって秩序を作る」世界への転換である。
 だから、デカルトの重要性は、単に近代哲学の創始者だということに尽きない。彼は、イタリア的ルネサンスがまだ持っていた多元的・修辞的・外交的な理性と、北方ヨーロッパが宗教戦争の中で強いられた構築的・方法的な理性とのあいだに立つ人物なのである。彼の哲学は、古い教養世界の最後の残響ではあるが、同時に、その世界がもう立ち行かないことを知った者の仕事でもある。三十年戦争は、彼の体系を直接「生んだ」と単純化するべきではない。だが、彼の問いの切迫は、あの時代の政治的・宗教的破局なしには理解しにくい。彼は、秩序が壊れた時代に、なお秩序を語ろうとした。そしてそのとき、古典や教会ではなく、方法化された主体の理性を新しい出発点に据えた。そこに、彼の歴史的な決定性がある。

デカルトの転回と「支え」

 中世のスコラ学では、思考と判断を支えるものとその射程は最初からかなり明確だった。理性は強く用いられるが、その理性は啓示と教会的権威の枠内で働く。アウグスティヌスにおいては、信は理解のあとから補われるものではなく、理解そのものの条件だったし、トマスにおいても、理性の射程と啓示の射程は最終的には区別されていた。そこでは体系はあっても、それがそれ自身だけで宙に浮かぶことはない。前の議論で言えば、スコラ学はその支点を啓示と教会に置き、人文主義はそれを古典テクスト・言語・修辞・歴史感覚に置いた。いずれにせよ、理性はまだ自分だけで立ってはいなかった。
 ところが、ルネサンス人文主義とその後の近代の進行は、その古い支えを次第に薄くしていった。humanitasは、教会的体系の外に「人間一般の理性」のための部屋を作ったが、同時に、その理性を支えていた古典的教養共同体そのものも、nation-stateの成立、俗語化、学問分化によって分解されていった。ラテン語の普遍世界も、教父と古典を共通の規範とする世界も、もはやそのままでは知の足場になりえない。つまり、近代初頭の理性は、単に自由になったのではない。古い家を失ったのである。デカルトの仕事は、この「家を失った理性」に、新しい建築法を与えることだった。
 ここでデカルトが決定的なのは、彼が人文主義者のように文体や原典へ退かず、またスコラ学者のように既成の権威へ寄りかからず、理性そのものが自分で自分の基礎を見つけられるかという問いを正面から引き受けたことである。ペトラルカやヴァッラはスコラ的な擬似公理系を嘲笑ったが、代わりに新しい公理系を建てるところまでは行かなかった。デカルトはそこへ踏み込んだ。彼だけが、「体系は建てられる」と本気で信じ、その方法を構成しようとした。だから彼は、単に近代合理主義の一員なのではない。理性に体系構成能力を最大限まで認めた最初の本格的哲学者なのである。
 しかし、ここで大事なのは、デカルトが理性を無支点のまま放り出したわけではないということである。彼はまさに、どんな体系もそれ自身では証明できない支点を要することをよく分かっていた。だから彼は、その支点を外部から借りるのではなく、理性の内部で見つけようとした。cogitoはその最初の結節点である。疑っても残るもの、すべてを剥がしてもなお消えない明証性の核。だが彼はそこで止まらない。というより、そこで止まれない。なぜなら、「私は考える、ゆえに私はある」だけでは、外界も数学も自然学も保証されないからである。そこでデカルトは、明晰判明知の一般的信頼性を保証するものとして神を導入する。前の議論の言葉を借りれば、デカルトは支点をcogitoと明証性、さらに神に置いたのである。彼は近代的人間だから神を捨てたのではない。むしろ近代的人間だからこそ、理性を立てる最後の支えとして、神を新しい位置に置き直した。
 この点でデカルトは、アウグスティヌスとも、ルネサンス人文主義とも違う。アウグスティヌスにおいて神は最初から前提であり、信が理解を導く。人文主義においては、古典教養と文の世界が人間形成の支えになる。だがデカルトでは、支えはもはや共同体的伝統や教会制度の中にそのまま置かれない。それは、孤独な思考主体が、方法的懐疑を通過したのちに、みずからの内部で発見し直さねばならないものになる。これが近代的なのである。近代とは、神が消えた時代ではない。むしろ、神さえも共同体の前提としてではなく、主体が自らの確実性の体系の中で再定位しなければならなくなった時代なのだ。デカルトはその最初の建築家である。
 だからこそ、デカルトの仕事は後世の啓蒙や科学主義にとって決定的な起点になった。彼以後、真理の基礎は、教会でも古典でもなく、「正しく方法化された理性」が握るべきだという感覚が本格化する。ヴォルテールやコンドルセのような後継者たちにおいて、古代はもはや規範の中心ではなくなり、中心は近代の理性・科学・進歩へ移る。その意味で彼らはたしかにデカルトの子孫である。だが皮肉なのは、彼らがしばしば受け継いだのはデカルトの自信であって、彼の緊張ではないということだ。デカルト自身は、体系が立つためにはどこに支えが要るかを執拗に問うていた。後の素朴な合理主義者たちは、その緊張を忘れ、「理性は自力で進歩する」とだけ考えがちになる。
 近代的な理性にとってデカルトが重要なのは、彼が「理性は万能だ」と言ったからではない。そうではなく、理性はもはや古い宗教的・古典的全体には寄りかかれない、それでもなお理性は体系を建てねばならない、そのとき支えはどこに置かれるべきかという問いを、逃げずに引き受けたからである。彼は理性の限界を知らなかったのではない。限界があることを知りながら、それでもなお理性を倒壊させずに立てる方法を探した。そのために彼は、cogitoと明証性と神を、一つの新しい建築の要石として組み直した。だからデカルトは、近代合理主義の出発点であると同時に、近代理性の不安そのものを最初にきちんと引き受けた哲学者でもある。そこに、彼の本当の偉さがある。

つまり考えるべきこと

1.ルネサンス人文主義は、何を神学の外へ立てたのか。
2.人文主義は、なぜ反キリスト教ではないのにキリスト教を相対化しえたのか。
3.ルネサンス人文主義において、雄弁術はなぜ中心にあったのか。
4.近代は humanitasを破壊したのか、それとも再配置したのか。
5.humanitasは、なぜ「無知を暴く哲学」より「無知を管理する教育」を信じたのか。