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【教育課程編成の基礎】教育の目的と目標―教育基本法と学校教育法の規定

はじめに

このページで解説しているのは、あくまでも「日本の法律で定められた教育の目的と目標」です。哲学的・原理的に「教育の目的」を考察したものではありませんので、あらかじめご了承ください。

ちなみに、「教育の目的」が何なのかについては、もちろん一人一人答えが違ってよいものです。しかし、学校の先生に限って言えば、答えは一つに決まっています。法律で決められているからです。法律に則って粛々と仕事をするのが、教育公務員の仕事です。私立学校の教師も、これに準じます。「教育の目的」は法律でしっかり決められていますので、教師はそれに従う義務があります。

法律の全体構造

教育の目的は、レベルに応じて、いくつかの法律や文書に段階的に示されています。

【教育基本法】教育全体(家庭教育・社会教育・生涯教育・学校教育)の目的

【学校教育法】特に学校教育に限った目的

【学習指導要領】特に教師の仕事として期待される具体的な内容

目的を段階で分けなければいけないのは、教育というものが極めて幅広い領域を覆っているからです。たとえば教育というと直ちに学校教育だけをイメージしてしまいがちなのですが、教育は学校だけで行っているものではありません。家庭でももちろん教育を行なっていますし、社会全体でも教育を行なっています。図書館や博物館は、社会教育のための施設です。また、学校を卒業した後の大人向けの教育も、生涯教育の重要性が認識されるのに伴って、急速に充実しつつあります。そういう教育全体を含み込んだ上で目的を定めているのが、教育基本法です。

次に、教育は時間的にも空間的にも広い領域を覆っているのですが、時間と空間を限って教育の目的を定めているのが学校教育法です。
時間的には、おとなのことはあまり考えていません。児童生徒を対象に教育を考えます。
また空間的には、学校以外のことはあまり考えていません。学校の中でどのような教育を行なうことが期待されているか、に絞って目的と目標が定められています。

さらに次に、学習指導要領では、教師の仕事として期待されることが書いてあります。

ということで、教育基本法・学校教育法の順に、教育の目的は何とされているか、確認していきましょう。

教育基本法第1条

教育の目的は、日本の教育にとって最も大事な教育基本法が定めています。

【教育基本法】第一条
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

というわけで、教育の目的とは、まずは「人格の完成」を目指すということです。そして「国民の育成」を期して行ないます。頭を良くするとは一言も書いていないことにご注意ください。もちろん偏差値を上げるということは、一言も書いてありません。法律に書いてある以上は、逆らえません。これに従って仕事をしていくしかありません。

はい、わかりました。教育の目的は人格の完成です。人格の完成をすればいいんですね。法律にそう書いてあります。
って、本当に大丈夫でしょうか?
確認しておかなければならないことが2つあります。

「人格の完成」を目指すのは誰か?

確認事項一つ目、法律で教育の目的が「人格の完成」となっているのなら、私たちは人格が完成ができなかったら、法律違反になってしまうのでしょうか? 教育で人格の完成ができなかったら、法律を破ったということで、刑務所に入らなければならないのでしょうか? 人格の完成ができなかったから、教育基本法第一条違反で懲役100年とか、聞いたことがありますでしょうか? ありませんね。
法律によって教育の目的は「人格の完成」となっていますが、仮に人格の完成ができなかったとしても刑務所に入ることはなさそうです。どうしてでしょうか?

実は、教育基本法第一条が言っているのは、「一般市民が人格の完成を目指さなければいけない」、ということではありません。国家権力が教育に携わるときに、「人格の完成」を目指すような教育を行なわなければならない、と言っているのです。「人格の完成」を目指すというのは、一般市民ではなく、権力者の方に向けられた規定です。政治家や官僚が教育に関する政策を行なうときに、教育基本法第一条を守る必要がある、ということです。権力者の側が「人格の完成」を損なうような教育政策を行なってはならない、ということです。そして学校の先生も、権力機構の一員ですので、もちろん教育基本法第一条に従う義務があります。
そんなわけで、仮に一般庶民が「人格の完成」というものができなかったとしても、捕まって刑務所に入れられるということはありません。

こういうふうに教育基本法を守るのは一般市民ではなく国家権力の側だというのは、教育基本法が「準憲法的性格」を持っているからです。教育基本法とは、名前は法律ですが、役割は憲法のようなものと考えられています。これは私が勝手に言っているのではなく、教育基本法が制定されたときの事情に関わっています。1946年に日本国憲法ができるとき、国会で審議がありました。その審議の際に、ある国会議員が質問に立ち、教育というものが重要であるにも関わらず、憲法にはあまりしっかり書かれていない、どういうことだ、と質問します。それに対して内閣の方の答えは、教育はあまりにも重要なので、教育に関する憲法のようなものを独立して作る、というものでした。その答えの通り、日本国憲法の翌年に、教育基本法が制定されます。政府が言っていた通り、教育基本法は様々な面で他の普通の法律と異なっていました。まさに憲法のようなものとして作られたことが、よく分かるようになっていました。
まず、前文がついていました。他の法律は、ふつうはいきなり「第一条……」から始まりますが、教育基本法には第一条の前に「前文」がついていました。すでにこの時点で他の普通の法律とは明らかに異なっているのですが、さらにその前文の内容が重要です。前文では、教育基本法が全面的に日本国憲法と密接な関係を持つことが書かれていました。

【教育基本法(旧)】前文
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

日本国憲法に書かれていることが理想だとしたら、それを実現するのは教育の役割である、ということが書かれています。日本国憲法は、教育基本法とセットになって、始めて実現できる、と書いてあるわけです。また、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示するとも書いてあります。日本国憲法と教育基本法は、お互いがお互いを必要とする関係になっています。教育基本法は、日本国憲法と一体のものとして理解するべき文章です。名前は法律となっていますが、性格は憲法である。つまり準憲法的性格をもつ、というわけです。

ということで、確認事項一つ目、法律で教育の目的が「人格の完成」となっているのなら、私たちの人格が完成できなかったら、法律違反になってしまうのでしょうか? なりませんので、ご安心ください。

人格の完成とは何か?

確認事項の2つめ、教育の目的は「人格の完成」ということは読めば分かります。が、「人格の完成」とはどういう状態を指しているのでしょうか? たとえば、みなさんは人格が完成していますでしょうか? 小学校から高校までの教育は、法律に則って「人格の完成」を目指して行なわれてきているはずですが、その教育によって、みなさんの人格は、完成しましたでしょうか?
と言われても、なかなか困ってしまいます。「人格の完成」とは具体的にどういう状態を指しているのか、法律だけではまったく分からないからです。
そんなわけで、「人格の完成とはどういう状態か」については、法律の解釈を超えて、別のところで改めて哲学的・原理的に考察する必要があります。

教育基本法第2条

「教育の目的」は教育基本法第1条に示されていましたが、続いて「教育の目標」は教育基本法第2条に示されています。

【教育基本法】第2条(教育の目標)
教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

教育の目標が5つ示されています。
ところで、「目的」と「目標」の違いは、何でしょうか?

目的と目標の違い

目的と目標の違いについては、いろんな人がいろんなことを言っていますが、ここでは漢字に注目して説明します。目的の「的」は、まと、です。そこに当てなければいけないという、まと、です。当たったら成功、外れたら失敗、という、まとです。
いっぽう、目標の「標」は、しるし、です。そこを通っていこうという、しるしです。着実にしるしを通っていくことで、最終的に目指したゴールに辿り着くことができます。
そんなわけで、目的が最終的なゴール地点を指し示しているとすれば、目標はその最終的なゴール地点にたどりつくための重要チェックポイント、のようなものです。重要チェックポイントを一つ一つこなしていけば、最終的なゴールにつけます。

ということで、人格の完成と国民の育成が最終的なゴールだとすれば、これから確認する「教育の目標」は、人格を完成するためにクリアしなければならない重要チェックポイントだ、という感じで理解するといいのかなと思います。

教育の目標の中身

さて、第2条が示した5つの教育目標は、それぞれ一言のキーワードで示せば、次のようになります。
1 人格
2 個人
3 社会
4 地球
5 人類

1では、人格の完成の中身が知徳体だ、というようなことを言っています。
2から5は国民の育成に当たりそうですが、
2は、教育は個人をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。
3は、教育とは社会をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。
4は、教育とは地球をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。
5は、教育とは人類をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。

養うとは?

また注目するところは、すべての条項で「態度を養う」と書かれているところです。まず「養う」とは、何かを外側から与えるのではない、ということです。人間が内側にもっていた力を育てていこうということです。
植物にたとえさせてください。教育者にできることは、日光が当たる場所に出し、水を撒いて、肥料を与えることです。植物を大きくしようとして、芽をつまんで、ひっぱって伸ばそうとしても、植物は大きくなりません。むしろ、ちぎれて台無しになってしまいます。外側から力を加えても、植物は大きくなりません。日光に当てて、水を撒くことで、内側から大きくなろうとする力を引き出すと、植物は成長します。
人間もまた同じだ、ということです。
態度を与えることはできません。養うことしかできません。教育者は、成長できる環境や条件を整えて、あとは自分から成長するところを待つことしかできません。外側から力を加えて引っぱっても、歪んだりちぎれたりしてしまうだけです。

態度

そして、養うものは、態度です。この「態度」という言葉は教育業界ではよく使われますが、一般社会で使用する態度とは、少し違うニュアンスがあります。教育業界では、「関心・意欲・態度」というふうに、関心や意欲という言葉とセットとなって使われることが多い言葉です。何か具体的な知識や技術を外から与えるのではなく、一生続く人生の中での「態度」を養うということです。必要な知識や技術は、職業など環境によって大きく変わります。身につけた知識や技術が、将来つく職業で役に立つかどうかは、分かりません。数学について言えば、三角関数を毎日使うような仕事もあれば、三角形の面積を求める公式すら一生使わないような人もいるでしょう。知識や技術は、使えるかどうかは分かりません。
しかし「態度」のほうは、どんな場面でも意味を持ちます。態度さえ養われていれば、場面や状況に応じて、その都度必要な知識や技術を素早く修得し、仕事に役立たせることができます。態度が形成されていれば、知識や技術がなくても、相応しい振舞や行動を素早く理解して、場面や状況に適応することができます。逆に態度が養われていない場合、どれほどたくさんの知識や技術を身につけていても、すぐに時代から遅れていくでしょう。
教育が目指すものは、単に知識や技術を身につけることだけでなく、むしろ、知識や技術を身につけるための関心や意欲や態度を養う方が重要だ、と教育基本法第2条で定める教育の目標は言っているわけです。

教育の目標

これを踏まえると、子どもたちが目の前の問題ができたとかできないとかなどに一喜一憂することに、ほとんど意味がありません。偏差値がどうのこうのということに、たいした意味はありません。いい高校とか大学に送り出すことは、あまり意味がありません。大量の知識や技術を身につけさせることは、大切なことではありません。いちおう幅広い知識と教養を身につけるとは書いてありますが、それは「真理を求める態度」が養われるかぎりにおいて、意味を持ります。
重要なことは、人生全体をよりよく生きられるような態度が養われるかどうか、ということになります。よく生きるための態度が身につかなければ、どれほど大量の知識や技術があっても、いい高校や大学に行っても、よい人生にはなりません。
と、私が主張しているのではなく、教育基本法にそう書いてあるわけです。

教育基本法第6条

ここまで、教育の目的は「人格の完成」と「国民の育成」であることを確認しました。が、この場合の教育とは、家庭教育や社会教育も含めて、世の中全体で行なうことをイメージしてます。また、学校を卒業した後も続く、生涯教育も含めて考えています。
しかし教師が携わる仕事は、家庭教育や社会教育や生涯教育ではなく、学校教育です。学校教育は、家庭教育や社会教育にはできない、特別の機能や役割があるはずです。
そんなわけで、続いて、学校教育特有の目的について確認していきましょう。学校教育の目的は、やはり教育基本法に規定されています。

【教育基本法】第6条(学校教育)
法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

さてまず第一項では、学校が「公の性質」を持つとされています。私立学校も、私立ではあっても、「学校」と呼ばれるからには「公の性質」を持つという規定です。私立学校の先生も、私立だからといってやりたい方題していいわけではなく、教育公務員の規定に準ずるというようにご理解ください。

続いて第二項です。
もともとの教育基本法には書いてなかったものが、2006年の改訂で付け加わったものです。2006年に教育基本法を改定した人たちが、何をしたかったかがよくわかる条文になっています。
まず「教育の目標」とは、既に確認した、教育基本法第二条の5項目です。人格の完成のために知徳体を育成し、国民の育成を期すために個人・社会・地球・文化をよりよくするような態度を養うというものでした。
そして心身の発達に応じるとは、小学校・中学校・高校・大学で内容や方法が異なるということですし、体系的・組織的ということは、法律に則った上で、個人の勝手な考えではなく指揮系統・命令系統を確立した上で仕事をしてください、ということですね。
教師に限っていえば、自分の思いつきだけで授業をするのではなく、法律や学習指導要領に則って、校長先生の監督の下で仕事をしてください、ということです。もちろんその範囲の中で努力や工夫をすることにはなりますが、教師が勝手なことをしてはならない、自由ではない、ということが、2006年の改訂によって強調されるようになったことが分かります。

また続いて、「学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ということも、2006年以前の規定にはなかった条文です。必要な規律の具体的な中身が何かについては書いてありませんが、学校の児童生徒だけでなく、教師の方にも縛りをかけたいんだろうな、ということは分かります。勘ぐればいろいろ出てきてしまうところではありますが、法律に書いていないことについては、さしあたって触れないことにしましょう。

そして続いて「自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視」と書いてあります。いいたいことは、読めば分かります。狙いも分かります。これは生涯教育を睨んで作られた規定です。
現代社会はあまりにも複雑になりすぎて、学校で学んだ知識や技術だけでは、もう仕事はできません。学校を卒業してからも、新しい知識や技術を次々と身につけていく必要があります。自分の知識や技術をアップデートし続けられる人だけが、仕事を続けられます。学校教育とは、知識や技術を身につけさせるだけでなく、卒業してから自分でアップデートできるような力をつけるのが仕事だ、ということです。「自ら進んで学習に取り組む意欲」さえ身につけば、学校を卒業してからも自分で自分をアップデートし続けることができるようになります。
ということで狙いはよく分かるのですが、考えれば考えるほど、難しいことが書かれています。学生に興味や関心を持たせればいい、と簡単にいう人がいます。いやいや、興味や関心を持ってもらうことがどれほど難しいことか、教育に携わったことがない人にはなかなか想像がつかないところかもしれません。人は、そう簡単には興味や関心を持ちません。
この「自ら進んで学習に取り組む意欲」、とても大切なことだということは理解しつつも、どうやって実現するのか、ということになると、たいへん厄介なものです。が、法律に書いてある以上、教師の仕事として正面から取り組んでいかなければなりません。

教育基本法第5条

続いて、義務教育に絞って、学校に期待される仕事を確認していきます。義務教育に期待されるものは、教育基本法第5条に規定されています。

【教育基本法】第五条(義務教育)
国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

義務教育の理念と歴史について、ごくごく基本だけ確認しておきますと、義務教育といっても、子どもが教育を受ける義務では、もちろんありません。けっこう多くの人が勘違いしていますが、子どもには教育を受ける義務はありません。子どもが持っているのは、教育を受ける権利です。義務ではありません。義務を持っているのは、大人のほうです。
「国民」は、教育を受けさせる義務を負っています。この教育基本法第5条の第一項に、しっかりそう書いてあります。ここ、多くの大人が間違っているとしても、教師が間違えるわけにはいきません。

普通教育とは?

それから注意しておきたいのは、「普通教育」という言葉です。というのは、現在一般的に使われる「普通」という言葉のイメージとは、かなり異なるからです。
「普通」というと、現代日本では勘違いしていて、つまらないとか、ありきたりとか、どこにでもあるというような、あまり良くないイメージで使うこともあります。が、本来はそういう悪い意味で使う言葉ではありませんでした。「普通」とは、「あまねく、つうじる」。あまねくとは、全てのもの、という意味です。何かに偏るのではなく、あらゆるものに通じるような教育、という意味です。金持ちだろうが貧乏人だろうが、頭が良かろうが悪かろうが、男だろうが女だろうが、あらゆる人が関わる教育だ、ということです。サラリーマンになる人にも必要な教育、プロスポーツ選手になる人にも必要な教育、マンガ家にも国家官僚にも芸能人にも社長にも将棋指しにも先生にも必要な教育、あらゆる人にとって意味のある教育だ、ということです。
電車で「普通」と「特急」があります。なんか特急のほうが偉くて、普通の方はダメな電車みたいに思う人もいますが、もちろんそういうことではありません。「普通電車」がなんで「普通」なのかというと、ありきたりだからではありません。駅を飛ばさずに、あらゆる駅に止まってくれるからです。特急が飛ばしてしまうような駅にも、普通電車は止まってくれます。頭が悪いから飛ばす、なんてことはありません。貧乏だから飛ばす、なんてことはありません。芸能人だから飛ばす、ということもありません。どんな人にも必ず止まる。それが「普通教育」です。

義務教育の目的3つ

さて、義務教育の目的ということで特にポイントとなるのは、第2項です。ここに、小学校と中学校で教師が行なうべき仕事の内容が書かれています。
分析すると、3つの目的があるようです。
(1)各個人の有する能力を伸ばす
(2)自立的に生きる基礎を培う
(3)国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う

これが、あらゆる人が関わる普通教育の目指すものです。外側から知識や技術を一方的に叩きこむとか、成績を上げていい高校いい大学を目指す、というようなことはもちろん書いていない、ということにご注目ください。
(2)は、それぞれの子どもが自分で生きていけるために教育をするんだ、ということですね。
(3)は、国家や社会を成り立たせるために教育をするんだ、ということですね。
教育の目的がこういうことなら、単に偏差値を上げるような教育は、期待されていません。リーダーシップやフォロワーシップなど協調性を身につけるとか、忍耐力とか、計画力とか、実行力とか、コミュニケーション能力とか、さらに民主主義の社会を続けていくために必要な資質など、いろいろなものを身につけていく必要があるでしょう。授業以外にも、運動会や文化祭などの学校行事や、生徒会や委員会活動など自治的活動の基礎、あるいはクラスで多様な人間関係を作ることなど集団生活の経験が重要になってくる所以です。サラリーマンになる人にも、マンガ家になる人にも必要な力をつけようということです。

学校教育法

ここまで確認した教育基本法の規定に基づいて、学校が行なうべき教育の目的を規定しているのが、学校教育法です。

【学校教育法】第29条
小学校は、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする。
【学校教育法】第45条
中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。

普通教育については、既に説明しました。改めて確認しますと、何か特別な職業を目指して教育をするのではなく、あらゆる職業に共通して必要になるようなことを身につけることが大切でした。小学校はそのうち基礎的なもの、中学校ではその基礎の上に立つ、ということが学校教育法に規定されています。

具体的な目標規定

続いて、第30条に「目的と目標」に関わる重要な規定があります。

【学校教育法】第30条
小学校における教育は、前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第21条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
2 前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。
【学校教育法】第46条
中学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、第21条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
【学校教育法】第49条
第30条第2項、第31条、第34条、第35条及び第37条から第44条までの規定は、中学校に準用する。この場合において、第30条第2項中「前項」とあるのは「第46条」と、第31条中「前条第1項」とあるのは「第46条」と読み替えるものとする。

第30条第二項が、いわゆる「学力の三要素」と呼ばれるものです。極めて重要ですが、別のページでご確認ください。(参考⇒「「学力」とは何か?―学校教育法の定義と背景―」)

さて、第30条第一項に戻ります。「前条に規定する目的」とは、既に確認したとおり、普通教育を施すことでした。が、具体的な中身については、たらい回しされています。第21条に掲げられている、とのことです。
ということで、第21条を見てみましょう。

【学校教育法】第二十一条
義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
二 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
三 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
四 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
五 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
六 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
七 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
八 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
九 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
十 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

「教育基本法第5条第2項に規定する目的」については、既に確認しました。3つの目的がありました。
(1)各個人の有する能力を伸ばす
(2)自立的に生きる基礎を培う
(3)国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う
この目的を実現するために、学校教育法第21条で具体的に10個の項目が掲げられています。

注目すべき点は、国語や算数や理科といった教科目が先に定められているわけではない、ということです。身につけるべき態度や能力が定められている、ということです。大事なのは教科の知識を身につけることではなく、よりよい人生を送るための態度を養うことだ、ということです。目的は、よりよい人生を送ることです。
教科書に書いてある知識は、目的を達成するための、手段です。
たくさんの知識や技術を身につけることは、あくまでも手段です。教育に限らずものごとがおかしくなるのは、目的と手段を取り違えてしまったときです。手段を手段として考えるのではなく、手段を目的だと勘違いしたときに、たいていのものごとはおかしくなります。教育に限ると、偏差値を上げることとか、いい高校や大学を目指すことは手段の手段にすぎないのに、それを目的にしてしまうと、何かが歪んでいきます。よりよい人生を送るという目的が見失われてしまいます。
この学校教育法第21条に掲げられている10個の項目も、あくまでもよりよい人生を送るという目的のための手段ではありますが、国語や理科や社会といった教科は、さらにその手段に過ぎません。手段の手段である各教科のテストの点に一喜一憂することは、完全に教育の目的を見失っている、ということです。テストの点を上げること自体が目的になってしまい、なんのためにテストの点を上げるのか、目的が見失われてしまうと、いろいろなものがおかしくなっていきます。

たとえば、国語や数学や理科の点を上げることが目的だと勘違いしていると、学校教育法第21条の10個の項目が、まったく理解できません。
たとえば項目4では「家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養う」と書いてあります。国語や数学や理科といった教科目を手段ではなく目的だと勘違いしていると、この項目4を「ああ、家庭科でやるんだな」と勘違い指定しまいます。もちろん「家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養う」ことは、家庭科を通じても行ないます。しかしたとえば、社会科という科目も、この項目を達成するために重要な役割を果たします。産業について理解するためには、地理の知識が絶対に必要となります。理科も重要な役割を果たします。食について理解するためには、タンパク質やアミノ酸の化学組織についての知識が必要です。住について理解するためには力学の知識が欠かせません。衣については、生物の知識が絶対に必要になります。国語も数学も必要です。
また項目6、「生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。」については、算数や数学が扱うものだと頭から決めてかかる必要はありません。小学校低学年では、なわとびを飛んでいるときに数についての概念を豊かにしていくものです。何が目的で、何が手段かを、見失わないようにする。教育に限らず、仕事をする上ではいちばん大切なことです。学校教育法21条は、この10項目自体が手段であり、各教科はさらにその手段である、ということを踏まえて理解するべき条文になります。
そして大本の目的は、教育基本法第1条、「人格の完成」と「国民の育成」であることは、折に触れて思い返したいものです。

まとめ

・教育基本法第1条によれば、教育の目的は「人格の完成」と「国民の育成」です。
・教育基本法第2条では、「人格の完成」と「国民の育成」という目的を実現するための目標が、さらに具体的に示されています。
・教育基本法第6条には、特に学校教育の目的が規定されています。
・教育基本法第5条には、義務教育の目的が規定されています。
・学校教育法には、教育基本法に示された目的を達成するために、さらに具体的で細かい目標が定められています。

【教師論の基礎】教諭・教師・教員は違うのか?

教諭・教師・教員という言葉の違いについて、意識することはありますでしょうか。実はそれぞれ、ニュアンスが少しずつ異なっている言葉です。

たとえば具体的には、大学で教鞭を執っている私は、教師ですし教員でもありますが、教諭ではありません。私は学生たちに教育学を教えていますが、教諭ではないんですね。というのは、「教諭」とは法律で厳密に規定されている言葉だからです。

教諭とは、教員免許を持ち、学校教育法(第37条)で定められた職階である、正教員を指しています。しかし学校では、教諭以外の人も先生として働いています。たとえば非常勤講師は、教師や教員ではありますが、教諭ではありません。法律に定められた正教員には当てはまらないからです。
また、大学の先生、教授や准教授は、学校教育法に定められた教諭ではありません。ですので、教諭とは呼びませんし、呼べません。が、教員であり、教師です。

一方、「教師」という言葉は、法律や資格に関係なく、人を教え導く人に広く使います。たとえば宗教で人々を教え導く人のことも教師と呼びます。またたとえば、教員免許を持たない人でも「家庭教師」になることはできます。教師になるために、特に資格は必要ありませんし、法律に規定されているわけでもありません。名乗るのも自由です。が、教師は自由に名乗れても、教諭は自由には名乗れません。教諭は法律でしっかり規定されていますので、法律通りに使わなくてはなりません。

また教師と教員の違いですが、教師という言葉には若干の価値観が込められているニュアンスがあるのに対し、教員のほうは価値中立的で客観的な、乾いた言葉です。教師という言葉を使用するときには、そこに何かしらのキャラクターを想定することが多いでしょう。たとえば「教師論」というと、あるべき教師のキャラクターについて考える議論です。
が、「教員論」という言葉は、とても不自然に聞こえます。教員とは価値中立的で客観的なニュアンスの言葉で、あるべきキャラクターが何も込められていないからです。
そもそも「員」という漢字は、「ある組織のメンバー」として、ただ「数の中に入っている」ことだけを示しています。「社」や「職」や「駅」が「満」になったり「定」に達したりしても、そのメンバーの質はまったく考慮に入っていません。
しかし「師」という漢字には、人を引っぱっていくリーダーや先人であるという価値観が込められています。「匠」や「宣教」と言ったときには、ただの数合わせには終わらない、なんらかの特別な資質や能力が想定されます。

そんなわけで、「私は教員です」と言ったときと、「私は教師です」と言ったときでは、そこそこニュアンスの違いが出てきます。教育の専門家としての自負を込めるときは、「教師」という言葉を選ぶことが多いように思います。

【教師論の基礎】教員の職階―副校長と教頭は何が違うのか?

はじめに

職階とは、職の階段ということで、乱暴な言い方をすると「ランク」のようなものです。学校に勤務する同じ教職員といっても、法律によってランクが決まっていて、仕事内容や給料が変わってくる、ということです。
そして、教員の職階は、十数年前とはまるで様子が変わっています。親世代の常識が、現在では通じなくなってきています。いちばん典型的には、「副校長と教頭の違いが分からない」ということがあるのではないでしょうか。
近年の変化も視野に入れつつ、教員の職階について確認していきましょう。

置くか置かないか

学校にどのような職階を設け、それぞれどのような仕事を担うかは、学校教育法第37条に規定されています。

【学校教育法】
第三十七条 小学校には、校長教頭教諭養護教諭及び事務職員置かなければならない

第37条は小学校に関する規定ですが、中学校も同じです。具体的には、中学校については第49条に次のように規定されています。

第四十九条 第三十条第二項、第三十一条、第三十四条、第三十五条及び第三十七条から第四十四条までの規定は、中学校に準用する。この場合において、第三十条第二項中「前項」とあるのは「第四十六条」と、第三十一条中「前条第一項」とあるのは「第四十六条」と読み替えるものとする。

つまり、以下で確認する第37条は小学校の規定ですが、中学校にもあてはまるということでご承知ください。高校は微妙に違っていますので、後に補足します。

さて、学校教育法第37条を読むと、なるほど、小学校には必ず校長、教頭、教諭、養護教諭と事務職員を置くんですね、と思いきや、第37条には続きがあります。

② 小学校には、前項に規定するもののほか、副校長主幹教諭指導教諭栄養教諭その他必要な職員を置くことができる
③ 第一項の規定にかかわらず、副校長を置くときその他特別の事情のあるときは教頭を、養護をつかさどる主幹教諭を置くときは養護教諭を、特別の事情のあるときは事務職員を、それぞれ置かないことができる
⑱ 特別の事情のあるときは、第一項の規定にかかわらず、教諭に代えて助教諭又は講師を、養護教諭に代えて養護助教諭を置くことができる

なにやらいろいろ例外があるようです。
一見複雑に見えますが、学校の教職員には、置くか置かないかで3種類ある、というふうに理解しておくと、全体像が見えやすいでしょう。
(1)置かなければならない
(2)置くことができる
(3)置かないことができる
これを踏まえて学校教育法第37条の規定をまとめますと、以下の通りになります。

職階設置
校長置かなければならない
副校長置くことができる
教頭置かないことができる(副校長を置くとき)
主幹教諭置くことができる
指導教諭置くことができる
教諭置かなければならない
養護教諭置かないことができる(養護をつかさどる主幹教諭を置くとき)
栄養教諭置くことができる
事務職員置かないことができる(特別の事情のあるとき)
その他必要な職員置くことができる
助教諭置くことができる(特別の事情のあるとき)
講師置くことができる(特別の事情のあるとき)
養護助教諭置くことができる(特別の事情のあるとき)

一口に学校の先生といっても、いろいろな種類に分かれていることが分かります。

副校長って?

ところでみなさんが通っていた学校には副校長先生はいましたでしょうか? 副校長は、2007年の学校教育法改正によって登場した職階です。実は現在、東京都は教頭先生を廃止して、すべて副校長先生に変えております。東京都の学校に通っていた方は、副校長という言葉に馴染みがあるかもしれません。が、他の地域では、根付いていないところもあります。副校長がまったく存在しない自治体もあります。副校長というものの存在を知らない方がいても、不思議ではありません。
そして世間的には、副校長と教頭のなにが違うのか、あまり理解されていないところでもあります。学校関係者の中にも、ほとんど同じようなものだと思っている人がいたりします。仕事内容が、現実的には同じだったりしますので、区別がつかなくても無理もないところではあります。
しかし実は、2007年に学校教育法を変えて副校長を設置したときには、学校そのもののあり方を大きく変える目的がありました。それは校長先生の役割の大変化とも関わってきますので、後に詳しく確認します。

高等学校

高等学校について補足しておきます。高校については、学校教育法第60条で以下のように定められています。

第六十条 高等学校には、校長、教頭、教諭及び事務職員を置かなければならない。
② 高等学校には、前項に規定するもののほか、副校長、主幹教諭、指導教諭、養護教諭、栄養教諭、養護助教諭、実習助手技術職員その他必要な職員を置くことができる。

実習助手、技術職員が小中学校と異なっているところです。工業高校や農業高校、あるいは総合高校など、実験や実習系の科目に対応して人材配置をしているわけですね。

職階それぞれの仕事内容

学校教育法第37条は、続いて、職階それぞれの仕事内容を規定しています。④校長から⑩指導教諭までの解説は後回しにして、⑪の「教諭」から見ていきましょう。

⑪ 教諭は、児童の教育をつかさどる
⑫ 養護教諭は、児童の養護をつかさどる。
⑬ 栄養教諭は、児童の栄養の指導及び管理をつかさどる。
⑭ 事務職員は、事務をつかさどる。
⑮ 助教諭は、教諭の職務を助ける。
⑯ 講師は、教諭又は助教諭に準ずる職務に従事する。
⑰ 養護助教諭は、養護教諭の職務を助ける。

管理職(校長・副校長・教頭)は後回しにして、まず11番の「教諭」から見ていきましょう。

教諭の仕事

11番の「教諭」が、ふつう「学校の先生」と呼ばれている人たちのことです。法律によれば、学校の先生の仕事は、「児童の教育をつかさどる」ことなんですね。「つかさどる」とは、職務・任務として取扱う、という意味の法律用語です。これが仕事です、という意味ですね。
ということで、教諭の仕事は「児童の教育」です。ずいぶんざっくりした規定ではあります。が、現実の中身に踏み込むと、法律で規定するには細かすぎることになりますので、こういうざっくりした規定でないと全体を含み込めないということでもあります。

養護教諭の仕事

12番、養護教諭は、いわゆる保健室の先生です。体や心の健康を扱います。近年は、不登校児童への対応や発達障害の子へのケア、さらに虐待児童の発見など、存在感が増してきています。学級担任の先生になったら、養護教諭としっかり連携をとりたいものです。担任の先生が知らない重要な情報を持っていたりします。養護教諭を教員集団の中に組み込んで、しかるべき役割を与えている学校は、荒れにくいものです。

栄養教諭の仕事

13番、栄養教諭は、2005年に食育基本法が制定されると同時に、職階として設定されました。給食に関わる指導ももちろん行ないますが、大学の教職課程を履修しなければ取得できない資格なので、理科や社会や家庭科や保健体育、あるいは総合的な学習の時間に実際に授業を受け持つなど、幅広い総合的な活躍が期待されている仕事です。本来なら各学校に一人は必ず置きたいところですが、いま現在(2020年)全国で6500人ほどしかいません。設置に積極的な自治体と、そうでない自治体とで意識に差があります。徐々に増えてきているところではありますが、もっともっと増えて欲しいものです。

助教諭・講師・養護助教諭

15番、助教諭は、普通免許状ではなく、臨時免許状を持って仕事をする先生のことです。かつて教諭の数が足りなかったときは広く活用されていましたが、現在では例外的な職階になっています。

16番、講師は、様々な事情で教員の数が足りないときに、非正規で授業等にあたる先生のことです。普通免許状、特別免許状、臨時免許状のいずれかが必ず必要となります。高校では、複数の学校の講師を掛け持ちするようなケースもあります。他、小学校の先生が必要にもかかわらず、中学校の免許しか持っていないという場合、臨時免許状を発効して非常勤講師として採用する、というケースなどがあります。

17番、養護助教諭は、養護教諭の臨時免許状を持って仕事をする職階です。

ミドルリーダー(主幹教諭・指導教諭)の位置付け

さて、⑨の主幹教諭と⑩の指導教諭を後回しにしたのは、すこし分かりにくい職階だからです。

⑨ 主幹教諭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)及び教頭を助け、命を受けて校務の一部を整理し、並びに児童の教育をつかさどる。
⑩ 指導教諭は、児童の教育をつかさどり、並びに教諭その他の職員に対して、教育指導の改善及び充実のために必要な指導及び助言を行う。

ざっくりいうと、主幹教諭と指導教諭は、教師集団の中でミドルリーダーとして活躍することが期待されています。指導教諭は教育に関するリーダーシップ、主幹教諭は学校運営に関するリーダーシップが期待される、というふうに、それぞれ期待される役割は異なっています。
具体的には、たとえば指導教諭は、若手教員が多い学校に配置するなどして、主に授業や生徒指導に関するアドバイスを行なうことが期待されます。一方主幹教諭は、困難な課題や多様なニーズを抱えて仕事量が多い学校に配置するなどして、授業以外の学校運営面で校長先生の仕事を助けることが期待されています。

鍋蓋型組織からピラミッド型組織への転換

この主幹教諭と指導教諭が学校教育法の改正によって導入されることになったとき、教育界では大きな議論となりました。事情をご存知ない方にとっては「ふーん」という感じでしょうけれども、当時の状況では、これを導入すると従来の学校が壊される、という危機感すら表明されたものでした。
というのは、昭和の学校では、先生はみんな横並びで、平等だ、という意識が強かったのです。こういう平等意識を反映した組織の形を、業界用語で「鍋蓋型組織」などと呼んだりしていました。それぞれの先生が立派な教育の専門家で、教室の中のことはぜんぶ責任を持って切り盛りするんだ、という自覚が、鍋蓋型の組織を維持してきました。いわゆる「学級王国」が成り立っていたのも、鍋蓋型組織あってのことです。
ところが指導教諭や主幹教諭を設置するということは、教員の中にランクをつけ、ピラミッド型組織へ変わることだ、と受けとめられました。意図的に格差を生じさせることだ、というふうに理解されました。
そういう意識も影響しているのかどうか、教員自ら主幹教諭になりたいと志望するケースは、今のところあまり耳にしません。とはいえ、昭和の鍋蓋型組織のままでは21世紀は乗り越えられない、という文部科学省の現状認識から、主幹教諭や指導教諭というミドルリーダーを設置するような改革が断行されました。ミドルリーダーを置くことで、学校をピラミッド型の組織につくり変え、複雑な教育問題や多様化した教育ニーズに応えられる体制をつくっていこう、ということです。
ここ10年ほどの間に、学校の形は急速に変化しています。

管理職(校長・副校長・教頭)の仕事

業界用語では、校長・副校長・教頭のことを「管理職」と呼んでいます。学校の管理運営に当たる「管理職」ということで、一般の先生と区別します。教育業界では「管理職へのホウレンソウを欠かさない」なんていいますが、具体的には校長先生や教頭先生としっかりコミュニケーションしてください、という意味ですね。
では具体的に学校教育法第37条の規定を確認しましょう。

④ 校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。
⑤ 副校長は、校長を助け、命を受けて校務をつかさどる。
⑥ 副校長は、校長に事故があるときはその職務を代理し、校長が欠けたときはその職務を行う。この場合において、副校長が二人以上あるときは、あらかじめ校長が定めた順序で、その職務を代理し、又は行う。
⑦ 教頭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。
⑧ 教頭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)に事故があるときは校長の職務を代理し、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)が欠けたときは校長の職務を行う。この場合において、教頭が二人以上あるときは、あらかじめ校長が定めた順序で、校長の職務を代理し、又は行う。

校長の仕事

校長先生の仕事は2つ、校務をつかさどることと、所属職員を監督することです。「校務」とは、学校が行なうべき仕事全体のことです。授業など教育活動も含めて、学校の管理運営全体に責任を持つ、ということです。「学校の管理運営全体」とはざっくりしすぎていますので、具体的な中身についてはまた別のところで改めて確認しましょう。
「所属職員の監督」とは、学校で仕事をしている教職員に適切な命令を与えたり、上がってきた報告や意見に対して許可や承認を行なったり、先生や職員が不適切な仕事をしていないか監視し、適切な指導を加えるということです。ですので、所属職員が不適切な行為を行なってしまった場合は、監督者である校長先生が適切な管理や指導を加えなかった結果と見なされ、責任問題となり、処分の対象となります。校長先生がテレビに出て来て頭を下げたりしているところを時々見ますね。

副校長と教頭の違い

続いて、⑤副校長の仕事のひとつは、校務をつかさどることです。また⑦教頭の仕事の一つは、校務を整理することです。ここに出てくる「校務」という言葉は、既に確認した教諭の仕事には影も形もなかったものです。つまり管理職の仕事を考える上でポイントとなるのは、「校務」です。
昭和の学校では、校務はそれほど複雑なものではありませんでした。学校に期待される役割を果たすためには、現場の先生たちが日々の授業をしっかりこなしていけば大丈夫でした。そういう時代では、校長先生に期待されたのは、先生たちの良き見本となることでした。たとえば授業が上手な校長先生は尊敬されました。校長先生が、主に道徳の時間など、実際に教壇に立つこともありました。現場経験が豊富な校長先生には、説得力がありました。
しかし平成に入る頃から、校長に期待される役割が大きく変化しました。もはや模範的な教師である必要も感じられなくなってきました。現場経験は必要ない、と考えられるようになりました。一度も教壇に立ったことのない民間人から校長先生を採用するようになったことなどは、考え方の変化を象徴的に示しています。
もう校長先生には、教壇に立つことなど期待されていません。
授業が上手かどうかは、もはや重要ではありません。校長先生にいま期待されている仕事は、マネジメントです。自分が先頭に立って働くのではなく、部下たちの能力を存分に発揮させるために環境を整える、マネジメント力が期待されています。というのも、学校に期待される役割が、昭和とはまったく違ってきているからです。
いじめ、不登校、特別支援教育、グローバル化、少子高齢化、ICT、英語教育、プログラミング教育などなど、いま学校が対応すべき仕事があまりにも多様化しています。この多様化・複雑化したニーズに対応すべく、校長先生には、現場経験ではなく、指揮官としての能力が期待されています。自分が現場の最前線に立つのではなく、後方から全体像を把握し、必要な資源を調達し、適材定期所の人材配置を行ない、働きやすい環境を整えることが期待されています。つまり、マネジメントです。教育力ではなくマネジメント力が求められる仕事なので、教育現場を経験していない民間人からも校長先生を採用できる、というわけです。
ということで、校長先生に期待される役割は、もはや現場を分かる教師の模範ではなく、民間企業の社長のようなものへと大きく変化しました。

副校長の登場は、このような校長の役割の変化と関係しています。また先に確認した主幹教諭の設置も、校長の役割の変化と関係しています。副校長や主幹教諭に期待されているのは、学校のマネジメント力の強化です。
現実の教育活動は、最前線に配置された教諭が行ないます。しかし副校長や主幹教諭には、教育活動を行なうことはあまり期待されていません。期待されているのは、マネジメント力の発揮です。校長・副校長・主幹教諭がピラミッド型の組織を作り、学校をマネジメントしていくことが期待されています。

昭和の学校と21世紀の学校の違いは、教頭先生と副校長の仕事の違いに如実に現れています。教頭先生の仕事には「必要に応じ児童の教育をつかさどる。」とあります。つまり、教頭先生はまだ教壇に立つことが想定されています。教頭先生は、まだ半分は教育者です。しかし副校長の仕事には「児童の教育をつかさどる。」とは一言も書いてありません。副校長には、教壇に立つことが期待されていません。つまり、副校長は、教育者としては期待されていません。学校がマネジメント力を発揮するための、組織の歯車として期待されているわけです。

今後も、教育者としての役割を果たすために現場の最前線に立つ人と、組織を動かすために管理職の務めを果たす人と、役割分担がさらに進行するのではないかと思われます。

まとめ

・学校に置くべき教員の職階と仕事内容は、学校教育法第37条で規定されています。
・それぞれの職階を、(1)置かなければならない (2)置くことができる (3)置かないことができるの3パターンで押さえておきましょう。
・教諭の仕事は、「教育をつかさどる」ことです。
・校長の仕事は、校務をつかさどることと、所属職員を監督することです。
・学校に期待される役割が複雑化・高度化したので、マネジメント強化のために副校長が新しく設置されました。
・管理職に期待されているのは、教育者としての仕事ではなく、学校のマネジメントです。
・ミドルリーダーも新しく設置され、学校組織の形が鍋蓋型からピラミッド型へと急速に変化しています。

【教師論の基礎】教員の研修―研究と修養の権利と義務

はじめに

研修は、教員に限らず、もちろん一般企業でも行なわれています。組織にとって「人」というものは最大の資源ですので、その資源を増やし、運用効果を高めるためには、研修というものは有効な手段となります。
ただし、教員にとっての研修には、それ以上の意味があります。というのは、法律によって「権利と義務」として定められているからです。法律で決められている以上、教員になる人は、その内容と意味をしっかり理解しておく必要があります。

教育基本法に定められた研修

まず日本の教育にとって最も重要な法律である「教育基本法」の第9条で、研修がしっかり位置付けられています。

(教員)
第九条 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない

「研修」という言葉そのものは第9条第2項に出てきます。が、第1項の「研究と修養」という言葉は、縮めると「研修」になります。この「研究と修養」に励むのが、法律で定められた教員の義務ということになります。まず「研究と修養」について、深く考えてみましょう。

研究

教員は、「研究」に励まなければなりません。教師の仕事についてあまり真剣に考えたことがない人は、まずこのことに驚くのかもしれません。教師の仕事を誤解している人は、「与えられた内容を、決められたとおりに教える」ことが教師の仕事だと思い込んでいます。違います。
教育とは、極めて創造的な仕事です。たとえば仮に同じ内容を教えるにしても、児童生徒の個性によって、分かりやすい教え方は変わってきます。多人数で対話する方が身につきやすい子どももいれば、一人で沈思熟考するほうが身につきやすい子どももいます。一人一人の個性に合わせて、その子どもに適した方法を選択できるのが優れた教師です。教育とは、子どもの個性によって毎回毎回異なる、一回限りの創造的な出来事です。
子どもの個性に合わせて適切な指導法を選択するためには、「教える内容」についての幅広い知識と深い理解が絶対に欠かせません。「教える内容」について広く深く知っていなければ、相手の発達段階や理解度に合わせて適切な素材を引き出すことなどできません。子どもの個性を尊重するためには、教師の側が「教える内容」について熟知していることが最低条件です。教科書に書いてあることだけ知っていても、子どもの個性に合わせて教えることはできません。教科書に現れている表現の何十倍もの背景を持って、初めて個に応じた指導が可能になります。教師が教える内容について常に研究しなければならないのは、教育という仕事の本質を踏まえれば、当然のことになります。単に教科書を読めばいいだけなら、教師など必要ありません。

教材研究

現場では、「研究」という言葉は、「教材研究」という四文字熟語の形をとって頻繁に登場します。単に教科書をなぞるだけでは授業はうまくいきません。個に応じた指導など望むべくもありません。子どもたちの個性を尊重しながら授業を行なうためには、教師が教科書以上に「教える内容」について熟知していなければなりません。そのために具体的に行なうのが、「教材研究」です。教材研究を行なわずに授業に臨むと、悲惨なことになります。

修養

「研究」という言葉が客観的な対象の理解を深めるイメージなのに対し、「修養」のほうは「教師の内面的成長」をイメージさせる言葉です。人格的・精神的な成長のために必要なのが、修養です。
具体的には、仕事ですぐに必要となる知識を追い求めるというよりは、仕事にはあまり関係のなさそうな「深みのある経験」を積みながら「幅広い教養」を身につけることをイメージするといいかもしれません。ジャンルを問わない読書だとか、旅行で知見を深めるとか、美術館や博物館を見学するとか、坐禅を組むとか滝に打たれるとか、教師個人の趣味や特性や長所に即した、様々な成長の在り方があるでしょう。目の前の授業をうまくこなすことにはすぐには役に立たないかもしれませんが、説得力と信頼感のある教師になるためには圧倒的な意味があるはずです。

研修の充実を図る

以上のような「研究と修養」を実現しようとしても、教師個人の努力だけではどうしようもない場合があります。やる気があっても、お金や時間が不足していて、できないこともあるでしょう。そういうとき、教師の成長のために環境を整えるのが、国家や自治体の仕事です。環境の整備をしないのでは、国家や自治体に存在意義はありません。
国家や自治体に対して「研修の充実」を義務として課しているのが、第9条第2項になります。教師個人に対しては、研修を権利として保障しよう、ということです。
今後は、研修の充実を図るためにも、教師の労働環境(特に時間)を大胆に改善していく必要があります。

教育公務員特例法に定められた研修

教育基本法を受けて、具体的に研修をどうするかが定められているのが「教育公務員特例法」です。第21条から第25条まで、具体的な内容や方法や条件が決められています。

都道府県教育委員会の義務

(研修)
第二十一条 教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない
2 教育公務員の任命権者は、教育公務員(公立の小学校等の校長及び教員(臨時的に任用された者その他の政令で定める者を除く。以下この章において同じ。)を除く。)の研修について、それに要する施設、研修を奨励するための方途その他研修に関する計画を樹立し、その実施に努めなければならない。

第21条では、教育公務員特例法が教育基本法を踏まえて作られていることが示されています。そしてポイントは、第2項で、研修のための環境や条件を整える主体が「教育公務員の任命権者」と名指しで定められていることです。通常なら都道府県教育委員会(加えて政令指定都市教育委員会)となります。この条文を踏まえて、各都道府県教育委員会はそれぞれ個性的な研修システム(施設・奨励・計画・実施)を整備しています。教員採用試験を受ける予定がある場合は、試験を受ける自治体の研修システムについてはしっかり理解しておいた方がよいでしょう。

教員の権利としての研修

続いて第22条では、教育公務員だけに認められた「研修の権利」が定められています。

(研修の機会)
第二十二条 教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない
2 教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる
3 教育公務員は、任命権者の定めるところにより、現職のままで、長期にわたる研修を受けることができる

第2項にある「本属長」とは、基本的には校長先生のことです。校長先生がハンコを押してくれれば、勤務地である学校を離れて、研修に参加することができます。「教員の義務」には「職務専念義務」というものがありますが、その例外規定となります。学校での通常の仕事から免除されるわけです。ですので、通常の授業に支障がない時間に行なうことが大前提になります。具体的には、夏休みの勤務日に行なうことが多いでしょう。実は子どもたちが夏休みの期間中も、先生は勤務時間だったりします。その時間は、本来なら職務専念義務に基づいて、学校で勤務しなければいけません。が、研修に行くということであれば、学校に来なくてもよいというわけです。勤務時間中に研修に行ける、というのが重要な条文です。ちなみに休みの日のプライベートな時間に勝手に勉強会や研究会に参加する分には、もちろん校長先生のハンコはいりません。

第3項に記されている「任命権者」とは、通常は都道府県および政令指定都市の教育委員会です。ここがOKをすれば、退職せずに長期の研修を受けられます。長期というのは、だいたい1年~3年くらいをイメージしています。長期の研修ということで具体的に何を考えているかというと、大学院への内地留学です。大学院への内地留学に関しては、教育公務員特例法第26条と第27条で具体的に権利として明記されています。

(大学院修学休業の許可及びその要件等)
第二十六条 公立の小学校等の主幹教諭、指導教諭、教諭、養護教諭、栄養教諭、主幹保育教諭、指導保育教諭、保育教諭又は講師(以下「主幹教諭等」という。)で次の各号のいずれにも該当するものは、任命権者の許可を受けて、三年を超えない範囲内で年を単位として定める期間、大学(短期大学を除く。)の大学院の課程若しくは専攻科の課程又はこれらの課程に相当する外国の大学の課程(次項及び第二十八条第二項において「大学院の課程等」という。)に在学してその課程を履修するための休業(以下「大学院修学休業」という。)をすることができる。
(大学院修学休業の効果)
第二十七条 大学院修学休業をしている主幹教諭等は、地方公務員としての身分を保有するが、職務に従事しない
2 大学院修学休業をしている期間については、給与を支給しない

これは教員普通免許状の最高ランクである「専修免許状」を取得することを念頭に置いた条文です。大学を卒業してすぐに大学院に行って専修免許状を取得するのではなく、大学を卒業していったん教師になり、ある程度現場を経験したうえで、教員としての身分をもったまま大学院に行き、専修免許状の取得を目指す、ということです。教職大学院では、そういうふうに教員の身分を保ったまま、内地留学で学習・研究している教師の方がたくさんいます。制度で、権利として認めることで、チャレンジしやすくしよう、というわけです。
ちなみに、臨時任用の教員にはこの権利が認められていません。こういうところで正規採用と臨時任用の間に格差が設定されています。

教員の義務としての研修(法定研修)

研修は教員の権利ですが、一方で義務でもあります。義務として必ず参加しなければならない研修は教育公務員特例法で定められており、業界用語で「法定研修」と呼ばれています。法定研修には3種類あります。
(1)初任者研修―第23条
(2)中堅教諭等資質向上研修―第24条
(3)指導改善研修―第25条

初任者研修

教員に正規採用された人は、1年目に必ず初任者研修に参加しなければなりません。法律で定められている以上、絶対に逃れられません。具体的には、学校の中でベテランの先生について教師として必要な知識や技術を伸ばす他、校外で教育委員会主催の研修に参加したりします。他の学校の新任の先生との交流などもあります。
この初任者研修のあり方は、養成・採用・研修の一体化改革によって、これから急速に変わっていくことが予想されます。

中堅教諭等資質向上研修

中堅教諭等資質向上研修は、かつては10年経験者研修と呼ばれていましたが、4年ほど前に名称が変わりました。いま、教頭先生や副校長など、管理職を希望する先生が減っています。が、組織としては必ず必要になる役割です。学校全体の運営や、さらにゆくゆくは教育委員会の運営など教育行政に携われるような人材を育てるために、この研修が用意されています。

校内研修

校内研修とは、法律で決められたものでなく、教員の能力を伸ばすために必要だと校長先生(あるいは管理職や教務部)が企画したものです。
法律に決められていなくても、各学校が研修を充実させていくことが期待されています。各学校は、教員の力を伸ばすために、自主的に研修会を開いています。学習指導要領等でも、カリキュラム・マネジメントに関わって、校内研修の充実が求められています。
具体的な内容は、授業のスキルを上げたり、いじめなどの課題に対応したり、学校行事のあり方を考えたりなど、様々です。
方法としては、管理職が主催して学校の中でみんなで勉強することもあれば、外部から講師を呼ぶこともあります。教育委員会の人や、大学の先生が呼ばれます。私もときどき呼ばれます。

校外研修

学校の枠を超えて、他の学校や団体と連携しながら行なう校外研修も盛んに行なわれています。教育委員会が主催する研修もたくさんありますし、教育関連の学会が企画・主催する研修もあります。また民間教育団体や教員組合が企画・主催する研修もたくさんあります。
教師の皆さんには、各種研修の機会をぜひ積極的に活用して、力をつけていっていただきたいと思います。

読書感想文に対する教育学的見解

読書感想文は、やらなくていい

どうも世間には誤解が満ちているようなので、事実を端的に示しておくと、学校や教師が読書感想文を行う必要は、まったくありません。なぜなら、『学習指導要領』に「やれ」とは一言も書いてないからです。読書感想文を行うことは、学校に期待されていません。

学習指導要領に書いてあることが学校の仕事

ごくごく基本的なことを確認しますと、学校や教師が絶対にやらなければいけないことは、『学習指導要領』に書いてあることです。『学習指導要領』は法的拘束力を持つと文部科学省は主張しています。法学的解釈としては様々な立場がありますが、ともかく文部科学省としては、学校と教師には『学習指導要領』に書いてあることをしっかりやってもらいたいと期待しているわけです。
逆に言えば、『学習指導要領』に書いていないことは、文部科学省が学校や教師の仕事として強制的に課しているものではない、ということです。そして、読書感想文をやれとは、『学習指導要領』に、一言も書いてありません。つまり、学校や教師は、読書感想文を行う必要は、まったくないのです。

学習指導要領に書いてあること

『学習指導要領』に書いてあるのは、「読書活動を充実すること」(小学校22頁、23頁)、「楽しんで読書をし、国語を大切にして、思いや考えを伝え合おうとする態度を養う」こと(小学校28頁)だったりします。読書活動を充実するべきことは書いてありますが、読書感想文をやれとは、一言も書いてありません。学校や教師の仕事は、子どもたちに「楽しんで読書をし」てもらうことであって、読書感想文を書かせることではありません。私がそう主張しているのではなく、『学習指導要領』を読めば、そう書いてあります。
(※いちおう、「文章を読んで理解したことに基づいて、感想や考えをもつこと」(小学3・4年)、「文章全体の構成や展開が明確になっているかなど、文章に対する感想や意見を伝え合い、自分の文章のよいところを見付けること」(小学5・6年)という記述はあります。ただしそれを「読書感想文」という形で実現せよとは書いていないわけです。)

文部科学省の公式見解

さらに、文部科学省の公式見解を見ても、読書感想文は特に推奨されているわけではありません。
たとえば2004年の文化審議会答申に「これからの時代に求められる国語力について」というものがあります。ここに、答申として提出された公式見解として、こう述べられています。

読書感想文を書くこと 自体は子供たちの国語力を向上させる有効な方策の一つであるが、一律に、読書感想文を強制するなど子供たちに過度の負担を感じさせてしまうような指導では、子供たちが物語の中に入り込めず、読書を楽しむことができない。常に子供たちの状況を的確に把握し、意欲を出させるための取組が必要である。(24頁)

どう読んでも、読書感想文を推奨していません。そしてこの答申では、読書感想文ではないやりかたで「読書を充実させる」ための様々な施策が提案されています。

「必要か必要でないか」以前の問題

そもそも私がなんでこんな文章を書いているかというと、「読書感想文は必要か」国語教師らしき人物の問いかけが議論を呼ぶ」(LivedoorNEWS)という記事を読んで、唖然としたからです。「必要か必要でないか」を議論する以前に、「学習指導要領にやれとは一言も書いていない」という事実を知らないのが問題だからです。特に現役国語教師がこれを知らないというのは、あまり褒められたことではないと思います。『学習指導要領』を読んでいないということですから。

目的を見極め、手段を工夫する

私としても、別に『学習指導要領』が100%正義とか言いたいわけではありません。やらなきゃいけないとされているものにしても、「ほんとうに必要か?」と疑いの目を向けることはあります。が、読書感想文に関して言えば、『学習指導要領』にすら「やれ」とは一言も書いていないわけです。
学校や教師の仕事は、「読書活動の充実」をすることです。これが「目的」です。この目的を達成するために、様々な手段を考え、工夫するわけです。「読書感想文」とは、「読書活動の充実」という目的を達成するための手段のひとつに過ぎません。その手段が、目的に達成にとって有効ならやればいいし、目的の達成にとって効果がないのであればやめればいい、ただそれだけのことです。『学習指導要領』は、「読書活動の充実」という目的は示していても、それを達成するための手段として「読書感想文をやれ」なんて書いていません。手段は、各学校と教師が考えて工夫すればいいだけです。それにも関わらず相変わらず読書感想文が続いているとすれば、それは単に学校と教師の前例主義に基づく思考停止に過ぎません。教師のほうで読書感想文に意味を見いだせなければ、さっさとやめればいいのです。ただし、仕事として「読書活動の充実」をしなければならないということは、もちろん忘れてはなりません。

手段が目的化したときに、ものごとはおかしくなる

読書感想文が相変わらず続いているのは、本来の目的が見失われ、手段が目的化していることが強く疑われる事例です。本来の目的を達成しようと思ったら、他に有力な様々な手段があります。しかし目的を見失って、単なる手段だったものを目的化してしまうと、なんのためにやるのか意義が分からないに関わらず、ずるずる続けてしまうわけです。
事は、読書感想文だけ留まらないのでしょう。わけの分からないブラック校則も、手段が目的化してしまったものです。その校則を作った時点では何らかの目的を達成するはずだったものが、いつのまにか本来の目的が見失われ、校則を守ること自体が目的となってしまうと、ブラック校則になります。部活動にも、手段が目的化しているおかしな事例がたくさん見られます。
学校にも、日本社会にも、手段が目的化してしまったばかりに、多くの人々を不幸にしているものが、たくさんあります。読書感想文とは、そういう「手段が目的化したわけのわからないもの」を象徴するものなのかもしれません。

結論

やる必要を感じないのなら、読書感想文はさっさとやめてしまって、なんの問題もありません。ただし、「読書活動の充実」は必ず行って下さい。