「新学習指導要領の吟味」カテゴリーアーカイブ

「学力」とは何か?

「学力」とは何かについて考える前に

そもそも「学力とは何か?」という定義が怪しい

世間では「学力低下」に関して様々な議論が行われていますが、しかし実は「そもそも学力とは何か?」について、人々の間で一致した定義があるわけではありません。勝手に自分の頭の中で思い込んだ「学力」について、それぞれ勝手に意見を述べているに過ぎないことが多いのですね。「学力」と言ったり言われたりした瞬間、何を対象にしているか分かったつもりになってしまいます。ここで、改めて定義を決めておこうと立ち止まる人々は、そう多くありません。しかし、「学力」の定義を共有していないとき、「学力が低下した」とか「低下していない」などと言い合っても、そもそも何を対象に議論しているのかが分かっていないのだから、話が噛み合うわけがありません。ひどい場合では、一人の論者が、文脈によって自分に都合良く「学力」の定義をコロコロ変えている場合だってあります。
そんなわけで、「学力」に関して話をしようとする場合、まず「学力」という言葉で具体的に何を対象にしているのか、最初に明らかにしておく必要があります。誰かが「学力」と言っているとき(あるいは自分が「学力」と口走ってしまったとき)、そもそもその言葉が具体的に何を対象としているか、「ちょっと待てよ」と立ち止まって確認したほうがいいわけですね。

このページの「学力」とは何か?

そういうわけで、このページでは、「学力」のことを「文部科学省が定義している学力」として解説しています。私自身が考える「学力」ではありません。

法律による「学力」の定義

学校教育法第30条

日本では、2007年、法律によって「学力」が定義されました。そもそも「学力」という言葉自体が外国語に翻訳しにくいものではありますが、「学力」のような教育目的に関わるものを法律で決めている国は、他にはありません。このことは、日本の教育を考える上で、とても重要な事実です。
教育の内容に関わることを法律で決めることが可能かどうか、あるいはいいことかどうかについて、本当は腰を据えて考察する必要がありますが、まずは文部科学省が何を言っているかしっかり確認しておきましょう。「学力」は、以下に引用する「学校教育法」第30条2項で規定されています。

前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。
(「学校教育法」)

この規定の大きな特徴は、いわゆる「学力の三要素」と呼ばれるものが示されていることです。学力の3つの要素を、文部科学省自身は以下のようにまとめています。

(1)基礎的・基本的な知識・技能。
(2)知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等。
(3)主体的に学習に取り組む態度。
(文部科学省「学習指導要領「生きる力」」)

この学力の三要素は、「学習指導要領」の目標規定や「全国学力・学習状況調査」の方向性など、様々な場面で繰り返し用いられており、文部科学省の方針にとって最も重要な土台になっています。たとえば具体的には、各教科の目標や評価は全てこの学力の三要素に沿って記述されています。逆に言えば、国語や算数などの目標を理解するには、単にそれぞれの教科について知るだけでは不十分で、しっかり学力の三要素から理解しておく必要があるわけです。

文部科学省による「学力」定義の背景

このように「学力」を定義した背景を、文部科学省自身は以下のように説明しています。要するに、世の中が変わったから、それに対応して教育も変わらなくてはいけないということで、法律によって「学力」の定義を行ったということになります。

知識基盤社会の到来や、グローバル化の進展など急速に社会が変化する中、次代を担う子どもたちには、幅広い知識と柔軟な思考力に基づいて判断することや、他者と切磋琢磨しつつ異なる文化や歴史に立脚する人々との共存を図ることなど、変化に対応する能力や資質が一層求められている。一方、近年の国内外の学力調査の結果などから、我が国の子どもたちには思考力・判断力・表現力等に課題がみられる。これら子どもたちをとりまく現状や課題等を踏まえ、平成17年4月から、中央教育審議会において教育課程の基準全体の見直しについて審議が行われた。
この見直しの検討が進められる一方で、教育基本法、学校教育法が改正され、知・徳・体のバランス(教育基本法第2条第1号)を重視し、学校教育においてはこれらを調和的に育むことが必要である旨が法律上規定された。さらに、学校教育法第30条の第2項において、同法第21条に掲げる目標を達成する際に、留意しなければならないことが次のように規定された。
(『言語活動の充実に関する指導事例集【小学校版】』)

そんなわけで、「学力」の定義が適切かどうかは、現状を正確に把握しているかどうかが最重大ポイントになります。具体的には、上の文章に出てくる「知識基盤社会」とか「グローバル化の進展」というものを正確に捉えることができているかどうかが大事になるわけです。
また、上の文章で「我が国の子どもたち」の「課題」と言っているのは、具体的にはOECD主催によるPISA調査の結果が芳しくないことを意味しています。特に「PISAショック」と呼ばれる出来事は、「学力」に関わる議論に大きな影響を与えました。だから文部科学省の教育方針を理解するためには、「PISAショック」について把握しておく必要があります。
ということで、「学力」の定義が適切かどうかを判断するために、学力定義の背景となっている「知識基盤社会」と「PISAショック」を確認しておきましょう。

知識基盤社会

「知識基盤社会」とは、英語ではknowledge-based societyであり、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増すような世の中を意味します。文部科学省自身は、「知識基盤社会」について以下のように述べています。

我が国が科学技術創造立国の実現に向けて世界をリードし、成長し続けるためには、イノベーションを絶え間なく創造できる人材の育成が求められている。「知」を巡る国際競争の激化や知識基盤社会の進展等により、産業構造の変化も急速に進んでいる現代においては、多種多様な個々人が力を最大限発揮でき、それらが結集されるチーム力が必要とされている。(知識基盤社会が求める人材像、2009年)

つまり知識基盤社会に対応した人材を育成するとは、子供の自己実現や人格の完成を尊重するというよりは、日本が「世界をリード」したり「国際競争」を勝ち抜くために必要な人材を供給することを意味しているようですね。
そして、文中で言われている「産業構造の変化」については、内容をしっかり把握しておく必要があります。おおまかには、製造業が衰退して、IT産業が発展することを意味しています。産業構造が転換すると、社会が必要とする人材が大きく変化します。社会が必要とする人材が変化すると、社会に人材を供給する教育も変わらなくてはなりません。教育の変化の背景には「産業構造の変化」があり、そういう事態を端的に表す言葉が「知識基盤社会」となるわけです。

PISAショックと全国学力・学習状況調査

PISA調査とは、OECDが主催する「学習到達度調査(Programme for International Student Assessment)」のことです。16歳を対象とし(日本では高校1年生対象)、文章読解力や数学的リテラシーがどれだけ身についているかを調べるペーパーテストです。
PISA調査を主催するOECDとは、「経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development)」であり、つまり教育に関係する組織ではなく、経済発展に関係する組織です。PISA調査は教育的な観点から作られているというよりも、どれだけ経済発展に貢献する能力があるかという観点から作られていると言えるかもしれません。
このPISA調査に関して、2003年と2006年の調査で日本の国際的順位が大幅に下がり、日本の教育関係者一同が衝撃を受けた事件を「PISAショック」と呼んでいます。既にゆとり教育に対する危惧が各方面から上がっていましたが、この結果を受けてゆとり教育見直しの方向性が決定的となりました。しかし2009年と2012年の調査では順位が上昇しており、しかもこの世代はゆとり教育を受けた世代だったこともあって、ゆとり教育の効果については改めて精査するべきだという意見も根強いところです。
また、文部科学省は「全国学力・学習状況調査」を2007年より毎年実施することにしました。小6と中3を対象とし、当初は悉皆調査として始まりました。問題の特徴は、基礎基本を聞くA問題と、活用力を問うB問題に分かれていることです。いわゆるPISA調査が聞くような問題は、B問題に相当します。日本の子どもたちは活用力が弱いという認識と、これからの世界で必要となるのはPISA型学力であるという認識の下、思考力・判断力・表現力の向上を目指した学習指導要領の方針が定着しているかどうかを調査することが目的とされています。この調査は、PDCAサイクルのCheck(評価)の指標として機能し、学校現場の実践を望ましい方向(文科省にとって)に促すことが期待されています。

PISA型学力

このPISA調査で測定される能力は、学校で伝統的に育成されていた19世紀型の知識ではありません。21世紀の社会を生き抜く上で必要となる新しい能力が想定されています。具体的には、OECDが2003年に組織したプロジェクトDeSeCo(コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎)によって定義された能力概念が採用されています。このDeSeCoは「人生の成功と正常に機能する社会(持続可能な発展)のためにどのような能力が必要かという課題に対して、人がもつべき知識や技能を超える能力軍」としてコンピテンシー(能力)を定義しようとしたもので、特に重要なキーコンピテンシーが3つ定められています。すなわち、
(1)社会及び個人にとって、価値のある結果をもたらすこと。経済的、社会的な有益性。
(2)多様な状況の重要な課題に直面した時、適応を助けること。人生の多様な領域に渡る判断能力。
(3)特定の専門家(産業や職業、社会階層など)のみではなく、すべての人にとって重要であること。
とされています。これらの能力は、先に確認した「知識基盤社会」に対応する能力と言えます。文部科学省は学習指導要領改訂作業の過程で、このDeSeCoの議論を詳細に検討し、「生きる力」概念の練り直しに反映させています。

不易と流行

さて、ここまで見てきた文部科学省の姿勢を、いわゆる「不易/流行」という物差しで測って判断すれば、「流行」のほうに傾いているように見えます。というのは、文部科学省は「変化に対応する能力や資質が一層求められている」と明確に言い切る一方で、「近年の国内外の学力調査」によって子供たちの「課題」が見つかったと言っているからです。文部科学省は、普遍的な教育の原理から「学力」を考えているというよりは、目の前の社会変化と目の前の子供の課題から「学力」を定義しているわけですね。学校教育法第30条や学習指導要領で言われている「学力」とは、「不易」の観点からもたらされたものというよりは、「流行」という観点から出てきたものと考えても良さそうです。

ただし文部科学省自身は、こうして「流行」を追究することによって、実は「不易」な教育を作り上げることになると考えているようです。本当に文部科学省の言うとおりかどうかは、しっかり学術的に研究しないと分からないところです。

不易/流行とは?

ちなみに「不易/流行」は、教育界では本当によく使われる言葉です。
まず「不易」は音読みでは「ふえき」と発音しますが、「易わる」と書いたら訓読みで「かわる」と読みます。たとえば江戸幕府は不始末をしでかした大名を「改易」することがありましたが、これは具体的には大名を廃止したり国替え(左遷)したりすることであって、つまり「改めて、かえる」ことを意味しました。ひるがえって、「不易」は訓読みでは「かわらず」と読み、意味は「かわらない」こととなります。「教育の不易」と言った場合、場所や時代によって変わらないような、教育の普遍的原理を指すわけですね。具体的には、「教師には教育的愛情が必要だ」とか「教師には専門的な知識が必要だ」とかいう意見は、平成だろうが昭和だろうが江戸時代だろうが変わりませんし、日本だろうが中国だろうがアメリカだろうがインドだろうが変わらないと思われる普遍的な命題ですから、「不易」と判断されることが多いわけです。
一方、「流行」とは、時代や地域によって異なる価値観を指します。たとえば江戸時代にはコンピュータ教育は必要ありませんでしたが、21世紀には必須のスキルです。この場合、「コンピュータ教育」は「流行」だと判断されることになります。

世間が言う「学力」とのズレ

ここまで見てくると、文部科学省の言う「学力」と、世間一般で考えられている「学力」とは、ずいぶん中身が違っていることが分かります。世間で言う「学力」とは、学校の勉強を通じて身についた「テストによって点数をつけられる」ような尺度のことです。逆に言えば「学力が高くても世間では役に立たない」などという言われかたもするような尺度です。一方、文部科学省の言う「学力」とは、徹底的に「世界で役に立つ力」を意味しています。さらに言えば、「学力」とは「これから訪れるであろう未来の世界で圧倒的に役に立つ力」を意味しています。世間でしばしば言われるような「学力が高くても世間では役に立たない」などという言葉は、文部科学省の定義では絶対に聞かれるはずがありません。
このズレを承知していないと、学力が低下したのかどうかなど「学力」に関する議論をしても、話が噛み合うはずがないのです。

学力論争

そんな認識のズレによって、いわゆる「学力論争」という、不毛な議論が発生することになります。文部科学省による「学力」の定義が成される以前、1999年から2001年あたりにかけて、教育界を越えて広範囲に「学力論争」と呼ばれる議論が沸き起こりました。具体的には「学力低下」が問題となりました。大学生の学力が低下しているという大学教員の主張からはじまり、初等中等教育でも学力が低下しているという危惧に発展し、様々な独自調査が行われ、客観的に見ても日本人の学力が低下しているというデータが提示され、PISA調査でも国際的な凋落が明らかとなり、文部科学省の政策が多方面から批判されるような事態に展開しました。
一般マスコミ等でも「ゆとり教育」を取りあげるようになり、2001年2月には読売新聞がアンケート調査、同4月にはテレビ朝日ニュースステーションがアンケート調査を行い、いずれも「ゆとり教育」に対して「学力低下」を危惧する反対意見が多数という結果が出ています。
この結果、2003年には学習指導要領の解釈が一部変更され、2006年の学校教育法における学力定義に繋がり、2008年の学習指導要領改訂では学習時間が増加に転じるなど、いわゆる「ゆとり教育」の転換が起こったとされています。

が、残念ながら、学力論争のさなかにあって「学力とは何か」について真剣に考えた人は、そんなに多くありませんでした。目の前のゆとり教育をどうするかという政策論議に集中した結果、原理的なところまで思考が及ばなかったのかもしれません。学習指導要領の一部改訂によって学力論争が一段落する2003年以降になって、原理的に「学力」について考え直そうという動きが出てきたように思います。
そして、今後も定期的に同じような騒動が繰返されることが容易に予想できます。教育に携わる者は、目の前の一時的な現象に一喜一憂することなく、「学力」について原理的に考える力をしっかり蓄えておきたいものです。

様々な「学力」の定義

以上、文部科学省が定義する「学力」について見てきました。一方、もちろん文部科学省の定義以外にも、様々な論者が様々な立場から「学力」を定義し、議論しています。参考までに、いくつか引用します。

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
「ここでは「学力」を英語の「achievement」として定義します。「学力」という言葉は、もともと「achievement」の翻訳語ですから、この定義に異議を唱える人はいないと思います。英語の「achievement」は、その名の通り「学校で教える内容」についての「学びによる到達」を意味しています。そして「学びによる到達」は、通常、テストで測定されます。「学力」という意味は、それだけの意味しか持っていません。この限定された意味で「学力」を定義したいと思います。」(15-16頁)
「学力は一種の貨幣なのです。」「第一に、学力は、貨幣と同様、評価基準として機能しています。」「学力は、むしろ、多様な異なる学びの経験を同一尺度で値踏みする評価基準であるところに機能的な意味を持っています。」「第二に、学力は、貨幣と同様、交換手段として機能しています。」「学力は、所有することを誰もが拒まない能力であることによって、受験の市場や労働の市場における交換手段として機能しています。学力は、入試や雇用の局面において、必ずしも一致しない採用者の要求と志願者の能力の関係を間接交換として合理化する機能を発揮しています。」「第三に、学力は、貨幣と同様、貯蓄手段として機能しています。」「学力も、貯蓄それ自体を欲望する唯一の教育概念であることによって、学習活動に計画性と継続性を与え、さらには貯蓄の欲望が投資としての教育活動の基礎になっています。」(29頁)

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
「学習してどこまで到達したかという、学んだ成果を示す「学力」のほかに、学ぶ力という意味での「学力」があり、この両者が一体となって、わが国では「学力」という言葉をかたちづくってきた」(78頁)

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
「人生のなかでの諸々の体験が、その人物の「人となり」、すなわち人柄や性格、あるいは容姿や体つきなどを形成していくのと全く同様の意味において、その人の「学力」は、その人物の経験の総体から導き出される。」(26頁)

斎藤孝『教育力』岩波新書、2007年
「「学力とは、そうやって点数ではかれるものばかりではない。本当の学力は違うのだ」と言う人もいるが、私の考えでは、学力ほどクリアに掴めるものはめったにない。算数や英語ができるかできないかというのは、きわめてクリアに点数に出るものなのだ。」(95頁)

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「学力とは学ぶ力ではなく、学んで身につけた知的能力のことである。学校で教えていることとつながる知的能力である。社会や生産に直接役立つ知的能力のことではない。要するに、学力とは生徒(小学生から高校生ぐらいまでの)が身につけている知的能力なのである。世の中で知的能力の高い人を「あの人は学力が高い」とは言わない。学力は産業や行政や研究にすぐに通用する知的能力ではない。学校教育で言う知的能力のことである。」(7頁)

安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年
「「学力」は「学校の教育課程で育てられる能力」であり、それ以上でも、それ以下でもないと考え、子どもの「学力」を全体的かつ絶対的なものとして表しているわけではない、と見るべきだということです。」(107頁)

参考文献

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
問題の本質は「学力低下」ではなく、産業構造の転換によって東アジア型教育の有効性が低下し、「勉強」の意義が見失われ、子供たちが「学びからの逃走」を起こしたところにある。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★★

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
文科省官僚による硬直した中央集権的な教育行政が、現場の教師の創造性を奪い、学力低下をもたらすと主張。少人数学級や現場による教科書採択による、個を尊重する教育を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★

戸瀬信之、西村和雄『大学生の学力を診断する』岩波新書、2001年
大学生の数学力が崩壊したことを、具体的な調査と客観的なデータで訴えた。具体的な問題として経済資本と文化資本による階層分化を挙げ、大学の少科目入試と、義務教育の授業時間削減を批判。基礎学力の重視を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★★★

苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』岩波ブックレット、2002年
客観的な調査によって、学力が低下傾向にあることを示すとともに、もっと本質的な問題として家庭環境による格差拡大を提示した。格差拡大が学習成果や学習行動だけでなく、学習意欲にまで影響を与えていることに警鐘を鳴らす。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★

山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房、2005年
学力論争とは単に学校や教育の内部で終わる話ではありません。本質的には、近代を続行するのか、それとも近代から降りるのかという社会システム選択の問題です。
学力低下の危惧 ★★★★
人格よりも知識 ★★★★

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「ゆとり教育」のせいで学力が下がったのではなく、学力が下がったから「ゆとり教育」に切り替えなければならなかった、と判断し、「ゆとり教育」の理念には理解を示す。学力低下を主張する人々に対して、学校が行っている人格形成という仕事を理解していないと批判する。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
学力低下の実態が、実は家庭の文化資本の格差を原因とした学力間格差の拡大であると示す。学力を上げるためには、学校を媒介として子どもの「社会関係資本」を高めることが重要と示唆する。
学力低下の危惧 ★★
人格よりも知識 ★★★

育成を目指す資質・能力―新学習指導要領の吟味―

簡単にまとめれば

受験競争に特化した表面的な「知識・内容=コンテンツ」を身につけても、社会に出てからまったく役に立たないので、ホンモノの「資質・能力=コンピテンシー」を持った使える人材を育てましょう、ということ。

学習指導要領の記述

学習指導要領の前文は、以下のように述べている。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

学習指導要領の今時改訂の原理は、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換である。「何を教えるか」から「何ができるようになるか」という転換であり、これは主語の転換である。「何を教えるか」の主語は「教師」だが、「何ができるようになるか」の主語は「児童生徒」である。教師から子供へと、主役が転換したのである。
そして「何ができるようになるか」を明らかにするには、育成を目指す資質・能力を明確にしなければならない。そのために具体的にどう教育課程を編成すべきか、以下のように方針が示されている。

1 各学校の教育目標と教育課程の編成
教育課程の編成に当たっては、学校教育全体や各教科等における指導を通して育成を目指す資質・能力を踏まえつつ、各学校の教育目標を明確にするとともに、教育課程の編成についての基本的な方針が家庭や地域とも共有されるよう努めるものとする。その際、第4章総合的な学習の時間の第2の1に基づき定められる目標との関連を図るものとする。(4-5頁)

各学校が具体的に最初に行うことは、(1)教育目標を明確にし、(2)教育課程編成の方針を家庭や地域と共有することである。その際に関連を図るものとされている「第4章第2の1」は、以下の通りである。

各学校においては、第1の目標を踏まえ、各学校の総合的な学習の時間の目標を定める。(144頁)

たらい回しにされているようだが、ここで言われている「第1の目標」とは、以下の通りである。

探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 探究的な学習の過程において、課題の解決に必要な知識及び技能を身に付け、課題に関わる概念を形成し、探究的な学習のよさを理解するようにする。
(2) 実社会や実生活の中から問いを見いだし、自分で課題を立て、情報を集め、整理・分析して、まとめ・表現することができるようにする。
(3) 探究的な学習に主体的・協働的に取り組むとともに、互いのよさを生かしながら、積極的に社会に参画しようとする態度を養う。(144頁)

要するに、各学校が学校目標を定め教育課程編成を行う際には、総合的な学習の時間を中核に位置づけるように構成する必要があるということが説かれているのだと理解すればよさそうだ。
『学習指導要領』は続けて具体的な教育課程編成について以下のように注意を促す。

2 教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成
(1) 各学校においては、生徒の発達の段階を考慮し、言語能力、情報活用能力(情報モラルを含む。)、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力を育成していくことができるよう、各教科等の特質を生かし、教科等横断的な視点から教育課程の編成を図るものとする。
(2) 各学校においては、生徒や学校、地域の実態及び生徒の発達の段階を考慮し、豊かな人生の実現や災害等を乗り越えて次代の社会を形成することに向けた現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力を、教科等横断的な視点で育成していくことができるよう、各学校の特色を生かした教育課程の編成を図るものとする。(5頁)

ここでは、教科横断的な視点から「資質・能力」を育成するべく教育課程を編成することが求められている。育成するべき資質・能力は、具体的には(1)言語能力(2)情報活用能力(3)問題解決学習(4)豊かな人生の実現(5)安全教育が示されている。これら資質・能力は、各教科固有の「見方・考え方」を深める「深い学び」を通じて育成されていくことが期待される(→「主体的・対話的で深い学び」を参照)。この教科横断的な「資質・能力」については、『学習指導要領解説 総則編』の48~54頁に詳細な解説がある。

学習指導要領解説 総則編の記述

『学習指導要領解説 総則編』では、今時改訂の狙いが以下のように示されている。

② 育成を目指す資質・能力の明確化
中央教育審議会答申においては、予測困難な社会の変化に主体的に関わり、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となる力を身に付けられるようにすることが重要であること、こうした力は全く新しい力ということではなく学校教育が長年その育成を目指してきた「生きる力」であることを改めて捉え直し、学校教育がしっかりとその強みを発揮できるようにしていくことが必要とされた。また、汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流を踏まえつつ、知識及び技能と思考力、判断力、表現力等をバランスよく育成してきた我が国の学校教育の蓄積を生かしていくことが重要とされた。
このため「生きる力」をより具体化し、教育課程全体を通して育成を目指す資質・能力を、ア「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」、イ「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)」、ウ「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」の三つの柱に整理するとともに、各教科等の目標や内容についても、この三つの柱に基づく再整理を図るよう提言がなされた。(3頁)

ここで言われている「汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流」とは、具体的にはOECDで議論されているキー・コンピテンシーを指している。これは『学習指導要領』の背景にある資質・能力観あるいは教育哲学の有り様を考える上で極めて重要な言質であると言える。
具体的には、「世界的な潮流」を参考にした上で、学校教育法第30条に定められた「学力の三要素」に対応して「資質・能力の三要素」を設定したようだ。「資質・能力」を設定するに当たって、どのような「世界的な潮流」をどのように参考にしたかは、平成26年3月31日「論点整理」に見ることができる。

論点整理(平成26年3月31日)の記述

学習指導要領改訂に向け、教育課程に関する学識経験者を集めて開催された「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」では、以下のような提言が行われた。

今後、学習指導要領の構造を、
① 「児童生徒に育成すべき資質・能力」を明確化した上で、
② そのために各教科等でどのような教育目標・内容を扱うべきか、
③ また、資質・能力の育成の状況を適切に把握し、指導の改善を図るための学習評価はどうあるべきか、
といった視点から見直すことが必要。
← 従来の学習指導要領は、児童生徒にどのような資質・能力を身に付けさせるかという視点よりも、各教科等においてどのような内容を教えるかを中心とした構造。そのために、学習を通じて「何ができるようになったか」よりも、「知識として何を知ったか」が重視されがちとなり、また、各教科等を横断する汎用的な能力の育成を意識した取組も不十分と指摘されている。
世界的潮流として、OECDの「キー・コンピテンシー」をはじめ、育成すべき資質・能力を明確化した上で、その育成に必要な教育の在り方を考える方向。(アメリカを中心とした「21世紀型スキル」、英国の「キー・スキルと思考スキル」、オーストラリアの「汎用的能力」など。)
日本でも比較的早い時期から「生きる力」の理念を提唱しており、その考え方はOECDのキー・コンピテンシーとも重なるものであるが、「生きる力」を構成する具体的な資質・能力の具体化や、それらと各教科等の教育目標・内容の関係についての分析がこれまで十分でなく、学習指導要領全体としては教育内容中心のものとなっている。
← より効果的な教育課程への改善を目指すためには、学習指導要領の構造を、育成すべき資質・能力を起点として改めて見直し、改善を図ることが必要。

今時改訂の方向性は、基本的にこの線に沿って行われていると言える。『学習指導要領解説 総則編』にあった「汎用的な能力の育成を目指す世界的潮流」が、OECDの言う「キー・コンピテンシー」をイメージしていることが明らかとなっている。OECDの「キー・コンピテンシー」については、以下のように言及されている。

特に、OECDの「キー・コンピテンシー」の概念については、グローバル化と近代化により、多様化し、相互につながった世界において、人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力として定義されており、OECD生徒の学習到達度調査(PISA)にも取り入れられ、大きな影響を与えている。
この「キー・コンピテンシー」の概念については、具体的には、次のような内容で構成されている。
・ 言語や知識、技術を相互作用的に活用する能力
・ 多様な集団による人間関係形成能力
・ 自律的に行動する能力
・ これらの核となる「思慮深く考える力」(9頁)

ここで育成される資質・能力が「人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力」と定義されていることには十分な注意が必要となる。ここで言われている「成功」とは具体的にどのような状況を指すのか、あるいはここで言われている「正常に機能する社会」とはどのような社会なのか、十分に吟味しておく必要があるだろう。検討会でも、「キー・コンピテンシー」をどのように捉えるのかに対しては、たとえば経済色が強いのかそうでないのかについてなど、委員の間で見解の相違があるようだ(17頁)。
もちろん検討会は無批判にOECDの見解を取り入れたのではなく、他の様々な能力観と比較対照しながら、「生きる力」概念の分析に取り組んではいる。
結論としては、以下のように整理されることとなった。

そのための一つの方策として、育成すべき資質・能力を踏まえつつ、教育目標・内容を、例えば、以下の三つの視点を候補として捉え、構造的に整理していくことも考えられる。
ア)教科等を横断する、認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル(コンピテンシー)等に関わるもの
① 認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル等としては、例えば、問題解決、論理的思考、コミュニケーション、チームワークなどの主に認知や社会性に関わる能力や、意欲や情動制御などの主に情意に関わる能力などが考えられる。
② メタ認知(自己調整や内省・批判的思考等を可能にするもの)
イ)教科等の本質に関わるもの
具体的には、その教科等ならではのものの見方・考え方、処理や表現の方法など。例えば、各教科等における包括的な「本質的な問い」と、それに答える上で重要となる転移可能な概念やスキル、処理に関わる複雑なプロセス等の形で明確化することなどが考えられる。
ウ)教科等に固有の知識・個別スキルに関わるもの(21頁)

この検討会の見解が、『学習指導要領』本文に落とし込まれる際には、(ウ)基礎的な知識・技能→(イ)教科に本質的な「見方・考え方」→(ア)育成すべき資質・能力、という形で整理されたように見える。

様々な21世紀型学力

「論点整理」等では、PISAだけでなく、様々な21世紀型学力も検討されている。代表的なものは、以下のようにまとめられる。

年月主体提言内容
1996文部科学省生きる力確かな学力、豊かな心、健やかな体
1998大学審議会答申課題探求能力
1999日本経営者団体連盟エンプロイヤビリティ(雇用されうる能力)
2001OECD-PISAリテラシー
2003内閣府-人間力戦略研究会人間力知的能力要素、社会・対人関係的要素、自己制御的要素
2004厚生労働省就職基礎能力
2006経済産業省社会人基礎力前に踏み出す力、考え抜く力、チームで働く力
2006OECD-DeSeCoキー・コンピテンシー
2008「学士課程教育」に関する中教審答申学士力教養を身に付けた市民として行動できる能力として、知識・理解、相同的な学習経験と創造的志向、汎用的技能、態度・志向性
2011「キャリア教育・職業教育」に関する中教審答申基礎的・汎用的能力人間関係形成・社会形成能力、自己理解・自己管理能力、課題対応能力、キャリアプランニング能力

共通しているのは、従来型の能力ではこれからの新しい社会(知識基盤社会、高度情報化社会)には対応できないという認識である。産業界が教育に要求するのは、従来のハードスキル(目に見える知識・技能)だけでなく、ソフトスキル(目に見えない人格特性)も含めた総合的な能力の開発である。受動的な順応性ではなく、能動的な創造性や個性が求められている。

批判的な吟味

「人格の完成」との関係

特に気になるのは、教育の目的である「人格の完成」と、ここで議論されている「資質・能力」の関係性である。個人的に注目したいのは、検討会自身が以下のように言明した点だ。

今後、育成すべき資質・能力の検討に当たり、まず留意すべきことは、教育基本法に定める教育の目的を踏まえれば、育成すべき資質・能力の上位には、常に個人一人一人の「人格の完成」が位置付けられなければならないということである。
あわせて、教育基本法に定める教育の目的の一つとして、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」の育成があることを踏まえ、自立した民主主義社会の担い手として求められる資質・能力の育成は、公教育の普遍的な使命であることに留意しつつ検討を行うことが必要である。(10頁)

他、「人格の完成」という理念に対して、委員個人の意見としては大きな関心が払われていることがわかる(15頁、おそらく安彦忠彦氏と推測される)。しかし、この見解が『学習指導要領』本文にしっかり反映しているかどうかについては、個人的には心許ないところである。いちおう前文には教育基本法の目的と目標には触れられているものの、単にアリバイ的にお題目として掲載されているように見える。というのは、「人格の完成」と「育成を目指す資質・能力」との内的連関、あるいは教育原理的な結びつきが、まったく見えてこないからだ。そしてそれは、「人間形成とは何か?」を統一的に記述する教育哲学が『学習指導要領』に欠けているせいではないのか? 「育成を目指す資質・能力」を把握する限りでは、AIにも対抗可能な高機能な自律型有機生命体を計画的に作ろうとする意図は見えるものの、それを無条件に「人間」と呼んでいいかどうかは判然としない。まあ、『学習指導要領』はあくまでも教育課程編成のための大綱的な基準に過ぎないから、教育哲学が欠けていることそのものに罪はないかもしれないし、高度な教育的配慮から意図的に記述を避けている可能性もあるだろう。ただその教育哲学の欠如が、経済原理による教育の簒奪に由来するとしたら、大いに問題となる。

コンピテンシー・ベースへの転換と言うが

文科省は、今回の学習指導要領の主要論点を、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換だという。しかし振り返ってみれば、同じ事は明治時代の注入主義(コンテンツ・ベース)から開発主義(アビリティ・ベース)への転換に既に見られる。あるいは、100年以上前にジョン・デューイが遙かに体系的な哲学を背景に主張している。しかも文科省がデューイの教育理論をどう捉え、かつて自分自身が放棄したことをどのように反省しているかは、まったく明らかにしていない。かつてコンピテンシー・ベースの教育を放棄した理由、あるいはうまく機能しなかった原因を顧みずに、本当に学習指導要領が目指すコンピテンシー・ベースの教育など実現できるのだろうか。

参考文献

学習指導要領の方向性に親和的な本。引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類。教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければならないこと、そして具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣と説く。
国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年

新学習指導要領が何を目指しているのか、ものすごくよく分かる。現役の教師だけでなく、学生にとっても読みやすそうだ。教員採用試験対策にもいいんじゃないか。
特に良いのは、文科省が立場的に書けないようなことが、本書ではしっかり書かれているところだ。具体的には、これまでの教育が産業社会に従属してきたことの明瞭な指摘と、背景にブルーナーの復権があるという記述が腑に落ちた。

奈須正裕『「資質・能力」と学びのメカニズム』東洋館出版社、2017年

著者は、学習指導要領改訂のために「資質・能力」を検討した文部科学省の有識者会議で座長を務めた。が、その主張は、必ずしも学習指導要領の内容と親和的ではない。むしろ批判的とすら言える。特に「資質・能力」と「人格」との関係に対する理解については、決定的な隔たりがある。「資質・能力」の何がどのように問題なのかを考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれる本。
安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年

学習指導要領の方向性に懐疑的な本。「資質・能力」の育成は、単に産業界の要請に応える人材育成に過ぎないという懸念を随所に見ることができる。たとえば安彦忠彦は「筆者はこれに対して、「人格性」や「学問的な力」は育つのかと役人に質問し、大丈夫だという答えを得たことがあるが、その面への配慮が欠けることが心配である。」(p.19)と言う。また中野和光は、「次期学習指導要領は、2006年の教育基本法改正、教育関連三法の改正を土台として、OECDとの連携をもとに、グローバル経済競争という「総力戦」に必要な人材資源の育成のために教育制度を使おうとしている。」(p.32)と言う。あるいは福田敦志は、「新しい社会に適応するように「陶冶」される必要があるということは、適応を要請する社会のあり様それ自体は疑わせないということを意味することも合わせて押さえておきたい。」(p.116)と言う。
日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討 「資質・能力」と「教科の本質」をめぐって』図書文化、2017年

新学習指導要領が育成を目指すという「資質・能力」というものが、どのような思想的背景から生まれてきたのか、歴史的な経緯をふまえた上で分かりやすく論点を整理しており、読書案内も充実していて、勉強になる。「知識=実質的陶冶」と「能力=形式的陶冶」の関係について、多面的多角的に考察するヒントがたくさん含まれているように思う。
松下佳代編著『<新しい能力>は教育を変えるか 学力・リテラシー・コンピテンシー』ミネルヴァ書房、2010年

■佐藤学「21世紀型の学校カリキュラムの構造 イノベーションの様相」東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年 13-25頁。
・冷戦体制の崩壊とグローバル化という世界情勢の変化に伴って世界の教育がどのように変化したか、コンパクトに概観できる。変化の方向は4つ。(1)知識基盤社会への対応(2)多文化共生社会への対応(3)格差リスク社会への対応(4)成熟した市民社会への対応。なんとなく大雑把には、政府の「教育振興基本計画」の内容と対応しているように見える。が、日本の教育改革は世界水準から見て15年遅れという「ガラパゴス的状況」にあるという指摘は、なかなか重い。

主体的・対話的で深い学び―新学習指導要領の吟味―

簡単にまとめれば

単に答えを覚えるだけの勉強はくだらないので、ホンモノの探求の過程を通じて揺るぎない力をつけてください、ということ。

学習指導要領の記述

まず『学習指導要領』総則には、次のような記述がある。

学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、第3の1に示す主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を通して、創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、次の(1)から(3)までに掲げる事項の実現を図り、生徒に生きる力を育むことを目指すものとする。(3頁)

ここで言う「つぎの(1)から(3)まで」は、いわゆる「生きる力」の育成を目指す知・徳・体の記述に当たる。そして「第3の1に示す主体的・対話的で深い学び」は、以下のように示されている。

第3 教育課程の実施と学習評価
1 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善
各教科等の指導に当たっては、次の事項に配慮するものとする。
(1) 第1の3の(1)から(3)までに示すことが偏りなく実現されるよう、単元や題材など内容や時間のまとまりを見通しながら、生徒の主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を行うこと。
特に、各教科等において身に付けた知識及び技能を活用したり、思考力、判断力、表現力等学びに向かう力人間性等を発揮させたりして、学習の対象となる物事を捉え思考することにより、各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方(以下「見方・考え方」という。)が鍛えられていくことに留意し、生徒が各教科等の特質に応じた見方・考え方を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう過程を重視した学習の充実を図ること。(7-8頁)

この記述で注意したいのは、「深い学び」という概念を理解する上で「見方・考え方」という言葉が重要な位置づけを持たされていることである。各教科に固有の「見方・考え方」については、『学習指導要領』の各教科ごとの目標に示されている。

学習指導要領解説 総則編の記述

『学習指導要領解説 総則編』では、今時改訂の基本方針について、以下のように示し、授業改善の方向について具体的に示唆している。

今回の改訂では「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進める際の指導上の配慮事項を総則に記載するとともに、各教科等の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」において、単元や題材など内容や時間のまとまりを見通して、その中で育む資質・能力の育成に向けて、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進めることを示した。
その際、以下の6点に留意して取り組むことが重要である。
ア 児童生徒に求められる資質・能力を育成することを目指した授業改善の取組は、既に小・中学校を中心に多くの実践が積み重ねられており、特に義務教育段階はこれまで地道に取り組まれ蓄積されてきた実践を否定し、全く異なる指導方法を導入しなければならないと捉える必要はないこと。
イ 授業の方法や技術の改善のみを意図するものではなく、児童生徒に目指す資質・能力を育むために「主体的な学び」、「対話的な学び」、「深い学び」の視点で、授業改善を進めるものであること。
ウ 各教科等において通常行われている学習活動(言語活動、観察・実験、問題解決的な学習など)の質を向上させることを主眼とするものであること。
エ 1回1回の授業で全ての学びが実現されるものではなく、単元や題材など内容や時間のまとまりの中で、学習を見通し振り返る場面をどこに設定するか、グループなどで対話する場面をどこに設定するか、児童生徒が考える場面と教師が教える場面をどのように組み立てるかを考え、実現を図っていくものであること。
オ 深い学びの鍵として「見方・考え方」を働かせることが重要になること。各教科等の「見方・考え方」は、「どのような視点で物事を捉え、どのような考え方で思考していくのか」というその教科等ならではの物事を捉える視点や考え方である。各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり、教科等の学習と社会をつなぐものであることから、児童生徒が学習や人生において「見方・考え方」を自在に働かせることができるようにすることにこそ、教師の専門性が発揮されることが求められること。
カ 基礎的・基本的な知識及び技能の習得に課題がある場合には、その確実な習得を図ることを重視すること。(4頁)

この記述には、これまでの「アクティブ・ラーニング」に関わって現場で発生した混乱に対する反省と配慮が見られる。たとえば「ア」で示された「全く異なる指導方法を導入しなければならないと捉える必要はない」という文言は、文部科学省の意図を読み損ねて、「アクティブ・ラーニング」という表面上の言葉に右往左往した教育現場に対して釘を刺した強い表現である。「イ」で示された「授業の方法や技術の改善のみを意図するものではなく」という文言も、文部科学省の意図を読み誤って表面的な理解をしがちな教育現場に対する強い表現である。「エ」は、生徒を活動させるような授業を毎度毎度やらなければいけないという誤解に対して釘を刺したものである。生徒が主体的に活動する機会は長い目で単元を見て適切に設定すればいいのであって、毎回必須なわけではない。「カ」に関しては、80頁でも「例えば高度な社会課題の解決だけを目指したり、そのための討論や対話といった学習活動を行ったりすることのみが主体的・対話的で深い学びではない点に留意が必要」というように釘を刺している。
それでは文部科学省の本来の意図はどこに示されているかというと、中核の部分は「オ」の記述にある。「見方・考え方」という概念の理解が、主体的・対話的で深い学びを考えるポイントになる。
続いて、「主体的」「対話的」「深い学び」がそれぞれ具体的にどのようなものかは、以下のように示されている。

主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善の具体的な内容については、中央教育審議会答申において、以下の三つの視点に立った授業改善を行うことが示されている。教科等の特質を踏まえ、具体的な学習内容や生徒の状況等に応じて、これらの視点の具体的な内容を手掛かりに、質の高い学びを実現し、学習内容を深く理解し、資質・能力を身に付け、生涯にわたって能動的(アクティブ)に学び続けるようにすることが求められている。
① 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しをもって粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているかという視点。
② 子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているかという視点。
③ 習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているかという視点。(77頁)

ここで示された内容のうち、(1)の主体的な学びと(2)の対話的な学びについては、これまでの学習指導要領や「アクティブ・ラーニング」という言葉でも示されてきた内容と言える。目新しいのは、(3)の「深い学び」に関する記述である。「解説総則編」においても、「深い学び」に関する記述が手厚くなっている。

主体的・対話的で深い学びの実現を目指して授業改善を進めるに当たり、特に「深い学び」の視点に関して、各教科等の学びの深まりの鍵となるのが「見方・考え方」である。各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方である「見方・考え方」は、新しい知識及び技能を既にもっている知識及び技能と結び付けながら社会の中で生きて働くものとして習得したり、思考力、判断力、表現力等を豊かなものとしたり、社会や世界にどのように関わるかの視座を形成したりするために重要なものであり、習得・活用・探究という学びの過程の中で働かせることを通じて、より質の高い深い学びにつなげることが重要である。(77-78頁)

「見方・考え方」とは、単に「物事」を知るだけでなく、「物事を捉える視点や考え方」を働かせることを強調する言葉である。テストで結果として正解を書けることが重要なのではなく、学びの過程を経ることによって、生活や世界の見え方が変化し、生活の仕方や世界への関わり方が変化するような効果が期待されている。この期待が「過程を重視した学習の充実」という表現となっている。過程ではなく結果を重視するような学習、要するにテストだけできればよいという姿勢は、浅い学びである。カリキュラム・マネジメントのCHECK指標に「全国学力・学習状況調査」の点数を安易に用いるのが危険なのは、過程ではなく結果を重視する浅い学びを助長する恐れがあるからである。
そして、国語科には国語科特有の「見方・考え方」があり、家庭科には家庭科特有の「見方・考え方」がある。各教科それぞれに固有の「見方・考え方」がある。それぞれの教科を通じてそれぞれ固有の「見方・考え方」を身につけることが、最終的には「これからの時代に求められる資質・能力」の獲得へと結びつく。カリキュラム・マネジメントにおいて「教科横断的な資質・能力」を育成すると言う場合、それぞれの教科がそれぞれ固有の「見方・考え方」を追求することで教科横断的な資質・能力の育成を実現していくのであって、とってつけたような合科教授をでっち上げる必要は特にない。必要なのは、それぞれの教科に固有の「見方・考え方」の本質を追究する姿勢である。この「深い学び」が資質・能力を育成していく。そして、身につけた資質・能力を隣接領域で使用することで、「教科横断的な資質・能力」が育成されていくと想定されている。

参考文献

『学習指導要領』本文が公布される直前に出ている。個別具体的な実践例が豊富というより、従前のアクティブ・ラーニングと今時の「深い学び」の違いを浮き立たせたり、現場でよく見られる勘違いを修正するような、理論的な話が多い印象。共通して、子供が活動することだけが「深い学び」ではないことが強調されている。

『新教育課程ライブラリII Vol.3 「深い学び」を深く考える』ぎょうせい、2017年

カリキュラム・マネジメント―新学習指導要領の吟味―

簡単にまとめれば

学校にも企業経営のノウハウを導入しないと、もうやっていけません。だからPDCAサイクルを確立し、資源(人・物・金・時間)の有効活用を考え、校長のリーダーシップを強化するなど、学校や教育活動の中に経営(マネジメント)の考え方を根付かせましょう、ということ。

学習指導要領の記述

今時の学習指導要領改訂の目玉の一つは、新しく登場した「カリキュラム・マネジメント」という概念である。『学習指導要領』の総則は、「生きる力」の育成と学力の三要素について説明した後、カリキュラム・マネジメントについて以下のように述べている。

各学校においては、生徒や学校、地域の実態を適切に把握し、教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと、教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと、教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して、教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと(以下「カリキュラム・マネジメント」という。)に努めるものとする。(4頁)

ここにはカリキュラム・マネジメントの指針が具体的に3つ示されている。まとめれば、次のようになる。
(1)教科横断的な視点で教育課程を編成する。
(2)教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する。
(3)実践を可能とする資源(人・金・物・時間・情報)を確保する。
この3点は、「解説」の記述を参照するところで、具体的に検討することにする。

また、総則の「第5学校運営上の留意事項」は、カリキュラム・マネジメントについて以下のように述べている。

各学校においては、校長の方針の下に、校務分掌に基づき教職員が適切に役割を分担しつつ、相互に連携しながら、各学校の特色を生かしたカリキュラム・マネジメントを行うよう努めるものとする。また、各学校が行う学校評価については、教育課程の編成、実施、改善が教育活動や学校運営の中核となることを踏まえつつ、カリキュラム・マネジメントと関連付けながら実施するよう留意するものとする。(11頁)

ここで示されているのは、カリキュラム・マネジメントの実践が、学校運営=スクール・マネジメントそのものと密接な関係を持っているということだ。
まず校長にはスクール(学校)をマネジメント(運営)する強力なリーダーシップが求められている。校長のリーダーシップの下、有機的な組織として学校が機能することで、初めてカリキュラム・マネジメントが成立する。学校が機能するためには、各教職員を適切に配置して役割分担を明確にすると共に、相互の関係性を明らかにして協力体制を推進するような組織作りを進めていかなくてはならない。つまり各教員に対する「研修」もカリキュラム・マネジメントに関わる重要なポイントになってくる。マネジメント一般に関わる組織論やリーダーシップ論が必要となってくる所以である。
次に、「学校評価」をどう位置づけるかという課題が示されている。一般企業であればマネジメントは利潤を生み出すために行うわけだが、学校は子供の教育のためにマネジメントを行う。マネジメントとは、具体的には一連のPDCAサイクルを構築して、目標を達成するための組織を確立することだ。「学校評価」は、その観点から行われる必要がある。学校の目的を踏まえるなら、「学校評価」をカリキュラム・マネジメントと関連づけて実施するのは当然のことと言える。が、もはや問題はそういうところになく、実施は法律で決められているのであった。
この点も「解説」の記述を踏まえて確認しておこう。

学習指導要領解説 総則編の記述

今時改訂の趣旨との関連

『学習指導要領解説 総則編』は、カリキュラム・マネジメントに関して、以下のように今時改訂との関連について述べている。

総則については、今回の改訂の趣旨が教育課程の編成や実施に生かされるようにする観点から、①資質・能力の育成を目指す「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進める、②カリキュラム・マネジメントの充実、③生徒の発達の支援、家庭や地域との連携・協働を重視するなどの改善を行った。
(中略)
② カリキュラム・マネジメントの充実
・ カリキュラム・マネジメントの実践により、校内研修の充実等が図られるよう、章立てを改善した。
・ 生徒の実態等を踏まえて教育の内容や時間を配分し、授業改善や必要な人的・物的資源の確保などの創意工夫を行い、組織的・計画的な教育の質的向上を図るカリキュラム・マネジメントを推進するよう改善した。(7頁)

「カリキュラム・マネジメント」が今回の改訂の目玉の一つであることが強調されている。そしてカリキュラム・マネジメントが、校内研修の充実を意図しつつ、章立てそのものを変更するような原理として学習指導要領を貫いていることが表明されている。その章立てそのものの変更は、以下のように説明されている。

また、総則の項目立てについても、各学校におけるカリキュラム・マネジメントを円滑に進めていく観点から、教育課程の編成、実施、評価及び改善の手続を踏まえて、①中学校教育の基本と教育課程の役割(第1章総則第1)、②教育課程の編成(第1章総則第2)、③教育課程の実施と学習評価(第1章総則第3)、④生徒の発達の支援(第1章総則第4)、⑤学校運営上の留意事項(第1章第5)、⑥道徳教育に関する配慮事項(第1章総則第6)としているところである。各学校においては、こうした総則の全体像も含めて、教育課程に関する国や教育委員会の基準を踏まえ、自校の教育課程の編成、実施・評価及び改善に関する課題がどこにあるのかを明確にして教職員間で共有し改善を行うことにより学校教育の質の向上を図り、カリキュラム・マネジメントの充実に努めることが求められる。(41頁)

目標の再検討と組織の再編

その上で、カリキュラム・マネジメントの充実とは具体的にどういうことか、以下のように示している。

ア 生徒や学校、地域の実態を適切に把握すること
教育課程は、第1章総則第1の1が示すとおり「生徒の心身の発達の段階や特性及び学校や地域の実態を十分考慮して」編成されることが必要である。各学校においては、各種調査結果やデータ等に基づき、生徒の姿や学校及び地域の現状を定期的に把握したり、保護者や地域住民の意向等を的確に把握した上で、学校の教育目標など教育課程の編成の基本となる事項を定めていくことが求められる。(41頁)

まず求められているのは「学校の教育目標」の再点検である。ここで「各種調査結果やデータ等」と言ったとき、具体的には「全国学力・学習状況調査」の活用が想定されている。また「保護者や地域住民の意向等を的確に把握」という文言は、「社会に開かれた教育課程」という理念とも関連する。
続いて、カリキュラム・マネジメントを充実するための組織作りについて、以下のように述べる。

イ カリキュラム・マネジメントの三つの側面を通して、教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと
(中略)
組織的かつ計画的に取組を進めるためには、教育課程の編成を含めたカリキュラム・マネジメントに関わる取組を、学校の組織全体の中に明確に位置付け、具体的な組織や日程を決定していくことが重要となる。校内の組織及び各種会議の役割分担や相互関係を明確に決め、職務分担に応じて既存の組織を整備、補強したり、新たな組織を設けたりすること、また、分担作業やその調整を含めて、各作業ごとの具体的な日程を決めて取り組んでいくことが必要である。
また、カリキュラム・マネジメントを効果的に進めるためには、何を目標として教育活動の質の向上を図っていくのかを明確にすることが重要である。第1章総則第2の1に示すとおり、教育課程の編成の基本となる学校の経営方針や教育目標を明確にし、家庭や地域とも共有していくことが求められる。(41-42頁)

『学習指導要領』本文でも示されていた、スクール・マネジメントとしての組織作りについて、具体的に触れられている。組織の創出や再編、役割分担の明確化や日程調整など、校長のリーダーシップや調整役としての管理職の役割が重要であることがわかる。

カリキュラム・マネジメントの三指針

解説編は、さらに続けて、カリキュラム・マネジメントの3つの方針について、具体的な説明を行う。

(ア) 教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと
(中略)
その際、今回の改訂では、「生きる力」の育成という教育の目標が教育課程の編成により具体化され、よりよい社会と幸福な人生を切り拓くために必要な資質・能力が生徒一人一人に育まれるようにすることを目指しており、「何を学ぶか」という教育の内容を選択して組織していくことと同時に、その内容を学ぶことで生徒が「何ができるようになるか」という、育成を目指す資質・能力を指導のねらいとして明確に設定していくことが求められていることに留意が必要である。教育課程の編成に当たっては、第1章総則第2の2に示す教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成を教育課程の中で適切に位置付けていくことや、各学校において具体的な目標及び内容を定めることとなる総合的な学習の時間において教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習が行われるようにすることなど、教科等間のつながりを意識して教育課程を編成することが重要である。(42頁)

ここでは、カリキュラム・マネジメントを実践する大前提として、まず「育成を目指す資質・能力」を明確に設定することが求められている。「育成を目指す資質・能力」についての理解が欠けているところにカリキュラム・マネジメントはあり得ない。というのは、「育成を目指す資質・能力」とは、教育のPDCAサイクルで言えば「P」に当たる部分だからだ。まず「P」が設定されていなければ、PDCAサイクルも始まりようがない。
それを理解した後は、「教科等横断的な視点」に立って、総合的な学習の時間を効果的に使いながら教育課程編成をしていくことが求められている。総合的な学習の時間のあり方に関しても、「育成を目指す資質・能力」という観点から再点検、再構成することが要求されている。

(イ) 教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと
各学校においては、各種調査結果やデータ等を活用して、生徒や学校、地域の実態を定期的に把握し、そうした結果等から教育目標の実現状況や教育課程の実施状況を確認し分析して課題となる事項を見いだし、改善方針を立案して実施していくことが求められる。こうした改善については、校内の取組を通して比較的直ちに修正できるものもあれば、教育委員会の指導助言を得ながら長期的に改善を図っていくことが必要となるものもあるため、必要な体制や日程を具体化し組織的かつ計画的に取り組んでいくことが重要である。
こうした教育課程の評価や改善は、第1章総則第5の1のアに示すとおり、学校評価と関連付けながら実施することが必要である。(42-43頁)

カリキュラム・マネジメントに係る一連のPDCAサイクルのうち、とくにCHECK(評価)とACTION(改善)について具体的に示された記述である。評価の基準として独自にルーブリックを開発する学校も一部にはあるだろうが、具体的に活用されることが想定されているデータは「全国学力・学習状況調査」ということになるだろう。評価の基準として悉皆調査である「全国学力・学習状況調査」を採用することが適切かどうかは、カリキュラム・マネジメントというものの効果や是非や善悪を判断する上で、極めて重要な論点となる。

(ウ) 教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくこと
教育課程の実施に当たっては、人材や予算、時間、情報といった人的又は物的な資源を、教育の内容と効果的に組み合わせていくことが重要となる。学校規模、教職員の状況、施設設備の状況などの人的又は物的な体制の実態は、学校によって異なっており、教育活動の質の向上を組織的かつ計画的に図っていくためには、これらの人的又は物的な体制の実態を十分考慮することが必要である。そのためには、特に、教師の指導力、教材・教具の整備状況、地域の教育資源や学習環境(近隣の学校、社会教育施設、生徒の学習に協力することのできる人材等)などについて客観的かつ具体的に把握して、教育課程の編成に生かすことが必要である。
本項では、こうした人的又は部的な体制を確保することのみならず、その改善を図っていくことの重要性が示されている。各学校には、校長、副校長や教頭のほかに教務主任をはじめとして各主任等が置かれ、それらの担当者を中心として全教職員がそれぞれ校務を分担して処理している。各学校の教育課程は、これらの学校の運営組織を生かし、各教職員がそれぞれの分担に応じて教育課程に関する研究を重ね、創意工夫を加えて編成や改善を図っていくことが重要である。また、学校は地域社会における重要な役割を担い地域とともに発展していく存在であり、学校運営協議会制度や地域学校協働活動等の推進により、学校と地域の連携・協働を更に広げ、教育課程を介して学校と地域がつながることにより、地域でどのような子供を育てるのかといった目標を共有し、地域とともにある学校づくりが一層効果的に進められていくことが期待される。(43頁)

『学習指導要領』の本文では使用していなかった「資源」という言葉が、解説編では使用されている。マネジメント用語としては「資源」という単語のほうが相応しいが、教育用語としては如何なものかというところか、どうか。
そして学校が持つ資源のうちで、もっともカリキュラム・マネジメントの充実に必要なものは、なんといっても教師の指導力そのものである。だから「資源の確保」と言ったとき、金や物を集めることが第一に想定されているのではなく、各種研修の積み重ねによる教師自身の指導力の増強がまずはイメージされることになる。そして教師の指導力を資源として確保するためには、まずは本来の業務ではない雑用に追われる無駄な時間をどんどんカットしていけばよい。教員がやらなくなった仕事を処理するには、学校外の様々な資源を投入すればよい。スクール・マネジメントの最重要観点は、教員の負担軽減にある。
教員の負担軽減を目指して学校外の様々な資源を確保し活用するために、学校運営協議会制度(いわゆるコミュニティ・スクール)などの整備が提言されている。カリキュラム・マネジメントを充実するには、コミュニティ・スクールや「チーム学校」等の制度的条件の整備が必要不可欠であることを示唆している。
しかし考えてみれば、条件整備という点では、そもそも本質的には教員の数を増やすことで対応すべき課題ではある。あるいは、一方で教員の負担を増やしておきながら(教員免許更新講習など)、もう一方でマネジメント努力によって負担を減らそうとするのは、整合性に欠けている。人もカネも出さずに、負担ばかり増やしておいて、一方で「工夫だけで乗り切れ」と指令しているわけだから、現場の先生たちに酷な感じがしてしまう。政策担当者がしっかり頭を使っているかどうか、疑問が残るところだ。

学校運営や学校評価との関連

そして、カリキュラム・マネジメントが学校運営(スクール・マネジメント)の改革を伴うことが、次のように強調されている。

カリキュラム・マネジメントは、本解説第3章第1節の4において示すように、学校教育に関わる様々な取組を、教育課程を中心に据えて組織的かつ計画的に実施し、教育活動の質の向上につなげていくものである。カリキュラム・マネジメントの実施に当たって、「校長の方針の下に」としているのは、学校の教育目標など教育課程の編成の基本となる事項とともに、校長が定める校務分掌に基づくことを示しており、全教職員が適切に役割を分担し、相互に連携することが必要である。その上で、生徒の実態や地域の実情、指導内容を踏まえて効果的な年間指導計画等の在り方や、授業時間や週時程の在り方等について、校内研修等を通じて研究を重ねていくことも重要であり、こうした取組が学校の特色を創り上げていくこととなる。
また、各学校におけるカリキュラム・マネジメントの取組は、学校が担う様々な業務の進め方の改善を伴ってより充実することができる。この点からも、「校長の方針の下」に学校の業務改善を図り、指導の体制を整えていくことが重要となる。(118頁)

カリキュラム・マネジメントを充実させるためには、校務分掌のあり方や、校内研修のあり方、様々な業務(要するに雑用)の進め方の改善を伴う必要がある。ここに、校長の資質として、単に教育者としての能力だけでなく、組織を作る経営者としての能力が要求されていくる。校長には、一般企業の経営にも通じる「組織論」や「マネジメント」に対する知識が必要となると同時に、人間的な総合力としてのリーダーシップが求められることになる。
さらに「解説」は、法律に定められた学校評価との関連についても言及する。

また、各学校が行う学校評価は、学校教育法第 42 条において「教育活動その他の学校運営の状況について評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図るため必要な措置を講ずる」と規定されており、教育課程の編成、実施、改善は教育活動や学校運営の中核となることを踏まえ、教育課程を中心として教育活動の質の向上を図るカリキュラム・マネジメントは学校評価と関連付けて
実施することが重要である。
学校評価の実施方法は、学校教育法施行規則第 66 条から第 68 条までに、自己評価・学校関係者評価の実施・公表、評価結果の設置者への報告について定めるとともに、文部科学省では法令上の規定等を踏まえて「学校評価ガイドライン」(平成 28 年3月文部科学省)を作成している。同ガイドラインでは、具体的にどのような評価項目・指標等を設定するかは各学校が判断するべきことではあるが、その設定について検討する際の視点となる例が12 分野にわたり示されている。カリキュラム・マネジメントと関連付けて実施する観点からは、教育課程・学習指導に係る項目はもとより、当該教育課程を効果的に実施するための人的又は物的な体制の確保の状況なども重要である。(118-119頁)

法律に定められている以上、学校運営の一環として「学校評価」を粛々と行う義務があるわけだが、これをカリキュラム・マネジメントとの関連で把握せよという要求である。

まとめ

「学級王国」という言葉に端的に表れているように、これまでの学校教育では、「王様」である各教員がそれぞれ創意工夫することが期待されていたのかもしれない。また、各教科はそれぞれ独自に工夫を凝らして発展を続けていくが、逆に言えば、全体的・総合的な「カリキュラム」は見えにくくなっていった。が、今後の学校は「チーム」として機能しなければならない。個々の教員は役割分担をしながら組織の一員として働くことが期待されるし、各教科は一体となって「カリキュラム」を構成しなければならない。組織が機能するためには、リーダーが適切なマネジメントを遂行する必要がある。
しかし、一般企業と異なり、これまで学校の文化にはマネジメントの考え方が根付いてこなかった。だから、学校を「チーム」にするためには、既存の学校文化の常識を根底から疑って、組織の構造そのものを抜本的に改革していく必要があるわけだ。カリキュラム・マネジメントは、形式的に書類を作ってどうにかなるような問題ではなく、学校と教員の意識を根底から変革するように迫っているのである。

(そして学校にマネジメントを導入する組織改革の行き着く果てには、公教育の否定と、学校民営化が待ち受けているかもしれない。が、未来のことは分からない。)

参考文献

小学校でのカリキュラム・マネジメントについての入門書。中でも「カリキュラム・デザイン」の具体的な方法について、具体的な実践例を土台として説明しているところが特徴。生活科と総合的な学種の時間を中心として、教科横断的な資質・能力をどのように育むかが、7つの観点から具体的にまとめられており、具体的な実践の参考にしやすそう。
田村学編著『カリキュラム・マネジメント入門―「深い学び」の授業デザイン。学びをつなぐ7つのミッション。』東洋館出版社、2017年

極めて具体的で実践的なチェックシートもついていたり、先進的な実践例のどこがどう凄いかも丁寧に解説されていて、さらに理論的な背景もコンパクトに説明されており、どうして今の学校にカリキュラムマネジメントが必要なのかにも現実的な説得力があり、「いっちょカリキュラムマネジメントでもやってみるか」と思っている向きにはとても参考になるのではないか。
田村知子『カリキュラムマネジメント―学力向上へのアクションプラン』日本標準ブックレット、2014年

『新教育課程ライブラリVol.5 学校ぐるみで取り組むカリキュラム・マネジメント』ぎょうせい、2016年
『学習指導要領』本体や、中教審答申や、「審議のまとめ」が発表される以前の特集で、具体的な実践例というよりは、そもそもの概念定義や意義、歴史的な経緯についての話から始まっている。カリキュラム・マネジメントが学校経営論とカリキュラム論を結ぶ学際的な領域から登場してきた分野であることなどがわかる。

『総合教育技術 2017年 11 月号』小学館、2017年
カリキュラム・マネジメントが特集されている。『学習指導要領』の本文を踏まえて、具体的な取組みのあり方が示されている。カリキュラムのデザインの仕方が、教科単元配列表の作成など、具体的で詳細に示されている。

批判的な吟味

PDCAサイクルのCHECKについて

仮にカリキュラムをマネジメントすることが教育実践の質を高めるとしたら、PDCAサイクルを確立することは必須の手続きと言える。そしてPDCAサイクルの質を大きく左右するのは、CHECK(評価)のあり方である。CHECKに利用されるべき指標は、学習指導要領や解説に言明されているわけではないが、「全国学力・学習状況調査」が想定されているように思われる。実際、カリキュラム・マネジメントの実践報告では、しばしば「全国学力・学習状況調査」の点数の上昇が実践改善の指標として示される。しかしそれは「全国学力・学習状況調査」が指標として意味があることを前提としなければ成り立たない態度である。「全国学力・学習状況調査」は、カリキュラム・マネジメントのCHECK指標として本当に意味があるのだろうか? この疑問に対する教育原理的な反省が欠けているとき、PDCAサイクルは前提から破綻している可能性がある。
翻って、安易に「全国学力・学習状況調査」に依拠せず、独自のルーブリックを作成してCHECK指標としているカリキュラム・マネジメントの実践は、常に教育原理的な問い直しに開かれて、前進の可能性に満ちているように見える。

マネジメントの権限

マネジメントで有効活用するべき「資源」としては、大雑把には(1)金(2)物(3)人(4)時間の4つの領域が考えられる。一般企業であれば、(1)資金を調達し(2)環境を整え(3)有能な人材を集め(4)工数を区切るというマネジメントの方向性は見えやすい。
しかし学校においては、(1)金と(2)物についてはあらかじめ条件が定まっており、校長の自由にできるわけではない。マネジメントを行うのは教育委員会の仕事である。また校長は、(3)人についても自由にマネジメントできるわけではない。自分の頭を飛び越えて割り振られて与えられた所与の人材を、研修などで育成し、組織を構築するくらいしかできない。勢い、目先で改善できることは(4)時間のマネジメントくらいだということになってくる。委員会の数を減らしたりとか、会議の時間を減らしたりとか、会議を立って行うなどして、5分10分の時間を捻出するという涙ぐましい努力が積み重ねられることとなる。
校長のリーダーシップの下で行うスクール・マネジメントは、一般企業のマネジメントとはかなり勝手が違うことは踏まえておく必要がある。一般企業で蓄積されてきたマネジメントのノウハウが、そのまま学校で機能するかどうかは、極めて怪しい。特に「教職の専門性」という要素を考慮に入れないスクール・マネジメントは、おそらく容易に破綻する。

「学び」はマネジメントできるのか?

仮に学校はマネジメント(運営)できるとしよう。実際、学校はマネジメントなしでは成立しない。マネジメントが破綻した私立学校は潰れるし、マネジメントが破綻した公立学校は税金の無駄遣いである。しかしだからといって、その内部で行われる「学び」そのものをマネジメントすることは本当に可能だろうか。仮に「学び」をマネジメントできるとして、そこで言われている「学び」とは具体的に何を指しているのか。例えば教育の目的が「人格の完成」だとして、本当に「人格の完成」をマネジメントすることなどできるのだろうか? 個人的には、「人格の完成」がマネジメントできるなどと、無条件で信じることはできない。「人格の完成」は、マネジメントの領域を超えたところでしか起こりえないのではないか。逆に、マネジメントできる「学び」とは、その程度の範囲をカバーしているだけではないだろうか。学習指導要領がマネジメントしようとしている「学び」という言葉が、そもそも具体的に何を指しているのか、その射程距離はどれほどなのか、しっかり吟味されなくてはならない。
マネジメントでできることとできないことは、教育原理的な観点からしっかり見極めておく必要がある。その上で、マネジメントで改善できることはどんどんやればよい。逆に、原理的にマネジメントできないことをマネジメントの領域に組み込もうとすると、必ずおかしなことになる。現在のPDCAサイクル万能感に対しては、本来はマネジメントできない領域にまでマネジメントを要求しているように見えるので、不安を感じざるを得ない。「人間とは何か?」とか「教育とは何か?」を真剣に考えていないのに「PDCA!」ばかりを主張する人々は、企業経営は得意かもしれないが、教育ができるとは思えない。

社会に開かれた教育課程―新学習指導要領の吟味―

社会に開かれた教育課程とは?

簡単にまとめれば、学校だけが教育するのでは子供がしっかり育たないから、家庭や地域にもがんばってもらって、社会で役に立つ能力を備えた人材をみんなで育てましょう、ということです。

まあ、これだけならわかりやすく感じるけれど、難しくなってしまうのは、「じゃあ、どうやって具体化するの?」と考えたときです。具体化を考えると、(1)学校のカリキュラムをどのように社会と繋ぐか、(2)学校を社会に開くために何をすればいいのか、(3)学校と家庭・地域との連携をどう構築するか、という3つの課題が見えてきます。

(1)学校のカリキュラムをどのように社会と繋ぐか?という課題に応えるのが「カリキュラム・マネジメント」という考え方です。これについては、改めてしっかり考える必要があります。【参考】カリキュラム・マネジメント
(2)学校を社会に開くために何をすればいいのか?については、教育委員会改革や、学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)や、チーム学校など、法律や制度の問題に踏み込んでいく必要があります。
(3)学校と家庭・地域との連携をどう構築するか?については、生涯教育や社会教育という観点を踏まえて、社会の中における学校の位置づけそのものを考え直す必要があります。
というふうに、理念としては「社会に開かれた教育課程」が分かったとしても、具体化するためには考えなければいけないことが多すぎて、教育課程や教育制度や法律の問題と連動して、問題がややこしくなってしまうわけですね。

大雑把に問題の所在を踏まえた上で、以下、学習指導要領や解説編の本文を参照しながら、「社会に開かれた教育課程」とは何かを確認していきましょう。

学習指導要領の記述

今時学習指導要領改訂の最大のキーワードの一つは「社会に開かれた教育課程」である。『学習指導要領』(平成29年版)の前文には、教育基本法に定める教育の目的と目標に続いて、「社会に開かれた教育課程」の重要性が次のように述べられている。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

この文章で意図されているものを正確に読み取るためには、まずここで言われている「これからの時代に求められる教育」とはどういうものかを認識した上で、「よりよい社会」とは具体的にどのような社会かという展望を明らかにし、ここで言われている「資質・能力」とは具体的にどのようなものかを理解し、「社会との連携及び協働」の具体的な形と実現のための方策を適切に見極める必要がある。またもちろん、「必要な教育内容」を具体的に選択し、「どのように学」ぶかについて洞察することも必要となる。

大雑把に整理してみれば、
▼これからの時代に求められる教育=少子高齢化・グローバル化・情報化→人工知能の進化・雇用環境の変容という、急激に変化する予測困難な社会に対応する教育を指す。キーワード的には「知識基盤社会」の進展に対応する教育を指す。
▼よりよい社会=学習指導要領そのものが指し示すキーワードとしては「持続可能な社会」が想定される。あるいは「第二期教育振興基本計画」に従えば、「自立・協働・創造の3つの理念の実現に向けた生涯学習社会」が想定される。しかし文部科学省の姿勢を鑑みると、実際には「知識基盤社会」の進展に対応して産業を発展させ、日本が国際社会で経済的に存在感を高めるのが「よい社会」と考えているように見える。
▼資質・能力=教科等を横断する汎用的なスキル、あるいは「コンピテンシー」という概念が想定される。この場合の汎用的なスキルとは、例えば問題解決、論理的思考、コミュニケーション能力等を指す。またあるいは自己調整や内省、批判的思考を可能にするものとして「メタ認知」の能力を指す。さらに「教科等の本質に関わるもの」あるいは「教科等ならではの見方・考え方」を指す。参考=育成を目指す資質・能力
▼社会との連携及び協働の具体的な形=「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」という制度的な整備を押さえた上で、学校評価やその公開など、学校を運営(マネジメント)する体制の構築を指す。
▼必要な教育内容=育成すべき資質・能力を踏まえた上で、「カリキュラム・マネジメント」をどのように構想するかを考える必要がある。参考=カリキュラム・マネジメント
▼どのように学ぶか=いわゆる「主体的・対話的で深い学び」に対する洞察が必要となる。参考=主体的・対話的で深い学び
という具合だろう。これらそれぞれの論点については、また個別に吟味しておく必要がある。

学習指導要領解説 総則編の記述

学習指導要領解説 総則編』には、「社会に開かれた教育課程」について、以下のように記述されている。

中央教育審議会答申においては、“よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創る”という目標を学校と社会が共有し、連携・協働しながら、新しい時代に求められる資質・能力を子供たちに育む「社会に開かれた教育課程」の実現を目指し、学習指導要領等が、学校、家庭、地域の関係者が幅広く共有し活用できる「学びの地図」としての役割を果たすことができるよう、次の6点にわたってその枠組みを改善するとともに、各学校において教育課程を軸に学校教育の改善・充実の好循環を生み出す「カリキュラム・マネジメント」の実現を目指すことなどが求められた。
① 「何ができるようになるか」(育成を目指す資質・能力)
② 「何を学ぶか」(教科等を学ぶ意義と、教科等間・学校段階間のつながりを踏まえた教育課程の編成)
③ 「どのように学ぶか」(各教科等の指導計画の作成と実施、学習・指導の改善・充実)
④ 「子供一人一人の発達をどのように支援するか」(子供の発達を踏まえた指導)
⑤ 「何が身に付いたか」(学習評価の充実)
⑥ 「実施するために何が必要か」(学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策)
(2頁)

「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」が密接に関連した概念であることがわかる記述となっている。大雑把には、「社会に開かれた教育課程」が新学習指導要領及びそれを実現するための制度改革の全体的な方針を示す掛け声とすれば、「カリキュラム・マネジメント」は具体的な方策の総称と言い得るものか。
また『解説編』には、今時改訂の基本方針について、以下のように記されている。

今回の改訂は中央教育審議会答申を踏まえ、次の基本方針に基づき行った。
① 今回の改訂の基本的な考え方
ア 教育基本法、学校教育法などを踏まえ、これまでの我が国の学校教育の実践や蓄積を生かし、子供たちが未来社会を切り拓くための資質・能力を一層確実に育成することを目指す。その際、子供たちに求められる資質・能力とは何かを社会と共有し、連携する「社会に開かれた教育課程」を重視すること。(2頁)

ここで言う「中央教育審議会答申」とは、平成26年11月に文部科学大臣から中央教育審議会に諮問され、平成28年12月に示された「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」を指す。

中央教育審議会答申の記述

平成28年12月の「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」には、「社会に開かれた教育課程の実現」に関して、以下のような記述がある。

このような「社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。
① 社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。
② これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自らの人生を切り拓ひらいていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。
③ 教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること。

ここまで来て、ようやく「社会に開かれた」という言葉の意味が具体的に明らかになる。つまり、
(1)まず学校教育の目標が社会と共有されている状態を指す。ということは、これまでの学校教育は、必ずしも目標を社会と共有していなかったということを示唆している。
ただ、「社会から閉ざされた教育課程」が具体的に何を意味するか、あるいはそれが良いことか悪いことかについては、改めて吟味する必要があるだろう。
(2)社会や世界に通用する資質・能力を育てる。逆に言えば、これまでの学校は社会や世界に通用する資質・能力を育ててこなかったと判断されているということを意味する。その判断の根拠としては、PISA調査や全国学力調査などで、単なる知識としてのA問題の正答率は高いのに、生活場面で活用するB問題では大幅に正答率が下がるという現象が意識されてる。
ただし、その場合の「社会」や「世界」が具体的に何を指しているかについては、しっかり吟味しておく必要があるだろう。
(3)そしてもはや学校だけが教育を独占して担うわけではないことの確認。
この論点については、チーム学校やコミュニティ・スクールという制度改革だけでなく、改めて「市場化」や「民営化」という観点を忘れずに吟味していく必要がある。

具体的な実践例について

報告されている種々の実践例を見る限りでは、実際に「社会に開かれた教育課程」の名の下で行われている教育実践そのものは、これまでにも積み重ねられてきた総合的な学習の時間や特別活動の実践と基本的には変わらない。いったい何をどのように改善するべきか、あるいは基本的な方向は変えなくて構わないのかは、さほど明確な話になっていない。
というのも、「社会に開かれた教育課程」という概念に期待されているのは、実践そのものの新たな創出や改善というよりも、既存の取り組みの位置づけをメタ認知的に総括し、改めて意識付けするための論理だからだ。具体的な作業として求められていることは、実践そのものを創出することではなく、教育の「目標」を再検討したり、「目標」と実践との結びつきを確認したり、実践を効果的に行うための組織のあり方について整備したり、実践の効果をチェックする仕組みを工夫したり、成果を発表する体制を整えたりすることだ(これが「カリキュラム・マネジメント」と呼ばれるものに期待されているものだ)。逆に言えば、ただ実践そのものを工夫するだけでは「社会に開かれた教育課程」を実現したことにはならない。「社会に開かれた教育課程」を理解するためには、環境や条件から切り離された実践例をいくら検討しても意味がなく、学校を含めた地域全体の構造を見透す論理と組織が必要となる。
雑誌記事なりインターネット上の報告等を見ると、社会と関わりのある実践を行いさえすれば「社会に開かれた教育課程」を実現しているかのように考えている記述を散見するが、もちろんそれだけでは文科省の言う「社会に開かれた教育課程」の目指しているものにはならない。

参考文献

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年

東京大学教育学部が本気でカリキュラム改革に挑んだ記録。収録されている個々の論文が、参考になる。

▼本田由紀「カリキュラムの社会的意義」27-40頁
・日本の学校が提供してきたカリキュラムが、いかに社会的意義とかけ離れていたものだったか、OECDの各種調査を元に明らかにしている。「「生きる力」や「人間力」をはじめとする様々な「力」の形成や、生き方を考えるための「キャリア教育」といった、抽象度の高い「社会的意義」が、いかなるカリキュラムを通じていかに形成されるのかということについての経験的な吟味がきわめて不十分なままで、スローガンとして掲げられているのが現状である」(37頁)という指摘は、重い。

▼市川伸一「「社会に生きる学力」の系譜」 41-50頁
・1990年代の学力低下論争から、00年代の「生きる力」の具体化まで、教科学力ではない「社会に生きる学力」の重要性が浮上する文脈がコンパクトにまとまっている。

▼金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」123-135頁
・「社会に生きる学力」が、単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧している。教師に期待されるのは、産業社会を超えるビジョンを示す力であることを示す。

▼牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」195-208頁
・学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは、単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧している。

『新教育課程ライブラリVol.11 「社会に開かれた教育課程」を考える』ぎょうせい、2017年11月

『学習指導要領』本体や中教審答申が出る前の、2016年8月段階の「審議のまとめ」記述を元に構成されている。そのせいか、プリミティブで総論的な問題意識を生々しく伺うことができる記事が散見される。安彦忠彦が寄せた痛烈な批判記事は、賛否はともかくとして、なかなか興味深く読める。

批判的な吟味

「社会」とは何か?

「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」とは具体的に何を意味するかは、実は学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかではない。しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できる。あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われる。
そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずだ。もちろん市民社会も経済を実体とする側面もあるが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もある。気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点だ。もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはないが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていない。たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てくるが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところである。「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていない。ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見える。それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないのか? 学習指導要領の「社会に開かれた教育課程」で言うところの「社会」が具体的に何を指しているのかは、しっかり吟味されるべきだろう。

「学校」の役割と性格

さて、もしも「社会に開かれた教育課程」で言うところの「社会」が、仮に人権的な要素を排除したような経済的な実体のみを想定しているのだとしたら。そういう「社会」に「開かれた」ような学校とは、極言すれば国際的な市場(global market)に組み込まれた学校を意味するに過ぎないものとなりかねない。そして、それで問題ないという立場や価値観もあり得るだろう。
しかし一方で、そういう「社会」に対する障壁として学校が機能するべきだという立場や価値観もあり得る。優勝劣敗の市場原理から子供たちを隔離して保護するアジールとしての学校である。
どちらの考え方が正しいかどうかという問題ではなく、まずは「社会に開かれた教育課程」が言うところの「社会」の具体的な姿を見極めた上で、学校がそれに「開かれる」ことのメリットとデメリットを比較考量していく必要があるということだ。しかし学習指導要領と中教審答申では、前提として「開かれる」ことは無条件に善だということで話が進んでおり、そのデメリットが真剣に検討された形跡を見いだすことは難しい。

「教養」の意義

そしてそれは、「教養」というものの意義が完全に忘却されていることでもある。中教審答申では「教養」という言葉は1ヶ所しか登場しないし、しかもそれは教育基本法の引用においてのみである。社会に役立つ知識が善であるとすれば、社会に役に立たないような教養には退場願おうという姿勢が反映しているということではないか。「社会に開かれた教育課程」という概念の中に、果たして「教養」というものが位置付く余地はあるのか。「社会」という言葉の意味を見極め、学校の果たすべき役割が明確になったとき、「教養」というものの運命が演繹されることになるだろう。それがいいことか悪いことかは別として、「社会に開かれた教育課程」という概念が「教養」というものの生殺与奪権を握っていることは間違いない。

学校選択制と「社会」

また問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性だろう。仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくる。「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community(社会)に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示す。一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation(社会)に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示す。「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるのである。そして、これまで「学校選択制」が推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体(local community)ではなく利害を共有する結社(association)である可能性が高くなる。
「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった結社に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところである。

local communityの問題

また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community(地域共同体)が問題を抱えていないわけではない。教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもある。local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるだろう(小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意)。小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もある(佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p.68)。
このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものはそこから一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もある。しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わる。

global marketとlocal communityの間

だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくる。その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずだ。文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がどのように反映しているのか。地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまない。