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【プログラミング教育】マインクラフト参考本一覧

このページでは、実際に目を通した「マインクラフト」の解説・攻略・資料本について備忘録的に記しています。

プログラミングに関わる本

マインクラフトのプログラミングに関しては、主に3つの領域があります。(1)レッドストーン回路(2)コマンドブロック(3)Codeです。

(1)レッドストーン回路

MOJANG公式『マインクラフト公式ガイド レッドストーン』技術評論社、2018年5月

▼内容:レッドストーンを使った基本的な回路の組み方から、応用的な機械の作り方までが紹介されています。エレベーター・エリトラランチャー・ピストンクラッシャー・自動醸造器・レッドストーンの灯台などの具体的な組みたて方が紹介されています。

難易度★★★

(2)コマンドブロック

松尾高明、斎藤大輔、ナポアン、nishi著『みんな大好き!マインクラフトるんるんプログラミング!コマンドブロック編』ソシム、2017年4月

▼内容:レッドストーン回路についての解説もあり、自動ドア・自動小麦収穫装置・エレベーター・サトウキビ自動収穫装置・アイテム自動仕分け機・自動鶏肉収穫器・トロッコレールの切り替え等が紹介されています。
コマンドやコマンドブロックについての紹介・説明があります。テレポート装置・まとめてエンチャント装置・mob接近監視装置・落とし穴・歩く歩道・子どものままの動物を償還する方法・カギを使って開けるドア・指定範囲内でダッシュ禁止・ダンジョン自動生成等が紹介されています。

▼付録:ブロックID/アイテムID一覧、主要データ値一覧、主要コマンド一覧、バージョン1.11で変更された主要エンティティID一覧

難易度★★★★

(3)Code

広野忠敏&できるシリーズ編集部『できる パソコンで楽しむマインクラフトプログラミング入門』インプレス、2018年4月

▼内容:MakeCodeで実際にコードを書いてプログラミングをします。掘削・効率的なマイニング・ピラミッドを作る・養鶏場で卵を収穫・畑を作って農作物を育てる・対戦バトルを楽しむ等が紹介されています。

▼付録:ブロック一覧

難易度★★★★★

建築に関わる本

MOJANG公式『マインクラフト公式ガイド クリエイティブ』技術評論社、2018年5月

▼内容:建築の基礎からそうとう大規模な応用まで紹介されています。人里離れた砦・照明システム・エキゾチックな別荘・垂直輸送のためのシステム・水中観測所・スチームパンクの飛行船などが紹介されています。具体的な作り方が細かく紹介されているわけではないので再現することは大変かもしれません。

難易度★★★

飛竜&今井三太郎『マインクラフト スーパー建築レシピ』玄光社MOOK、2016年1月

▼内容:建築の基礎から応用まで紹介されています。小規模建築から中規模、大規模建築まで幅広く、さらに内装や自動装置(自動ドア・エレベーター・隠し扉・エンチャントステージ等)の作成まで紹介されています。写真が多く、素材のレシピ等も分かりやすく紹介されています。

難易度★★★★

『マインクラフト 家&村づくり完全攻略 レッドストーン・建築・ミニゲームを極める!』ソシム、2016年8月

▼内容:基本的には建築の仕方を紹介していますが、他にレッドストーンの基本的な使い方や、建築の技を応用したミニゲームの作り方などが紹介されています。他、サバイバルモードでの小技等も紹介されています。

▼付録:エンチャント一覧・アイテムレシピ集・ポーションレシピ集

難易度★★

『マインクラフト レッドストーン・建築・インテリア攻略ガイド』ソシム、2017年8月

▼内容:基本的には建築や内装について、細かいテクニックが紹介されている本ですが、さらにレッドストーンの具体的な使い方についても示されています。レッドストーンに関しては、アイテム分別機・暗号式の鍵ドア・ダイヤル錠のカギドア・自動点灯玄関ライト・自動攻撃通路・溶岩式殲滅装置などが紹介されています。

難易度★★★

『マインクラフト 鉄道&建築ガイド』ソシム、2017年3月

▼内容:特にトロッコの使い方に焦点を当てて、レールの敷設や駅の作り方など鉄道に関する建築を紹介しています。レッドストーンを使ったテクニックなども紹介されています。

難易度★★

攻略を含めた全般的な本

MOJANG公式『マインクラフト公式ガイド ネザー&ジ・エンド』技術評論社、2018年5月

▼内容:サバイバルモードに関して、特にネザーとジ・エンドについて紹介されています。Mobについて詳しく紹介されています。
攻略に関わるデータや技の紹介が目的の本であり、建築やレッドストーンに関する情報はまったく載っていません。

難易度★

『ゲーム攻略ブック マインクラフトの基本から建築まで1冊でわかる本 プログラミング教育対応版』三才ブックス、2018年8月

▼内容:サバイバルモードの攻略から、建築、レッドストーン回路の基礎までが紹介されています。

▼付録:Mob一覧・作業台レシピ・

難易度★★

『ゲーム超攻略ガイド マインクラフトすっごい技まとめ』ソシム、2018年4月

▼内容:サバイバルモードの攻略、アイテムの基本的な使い方や小技から、建築やインテリアに関する小技やレッドストーン回路の基礎まで紹介されています。

▼付録:エンチャント効果・醸造レシピ・作業台レシピ

難易度★★

【教育課程の基礎】プログラミング教育とは何か?(小学校篇)

このページでは、2020年度から開始される「小学校」のプログラミング教育について考えます。

ありがちな勘違い

(1)教科ではない

「プログラミング」という教科目が増えるわけではありません。プログラミングに関する教科書もテストもありません。実は、従来の国語・算数・理科・社会等々という科目の中でプログラミングを扱うのです。
このように、教科目を新しく作るのではなく、既存の教科を総動員して様々な資質・能力を伸ばしていくことを、プログラミング教育に限らず全般的に「教科等横断的な視点」による教育と呼んでいます。プログラミング教育は教科等横断的に扱うものです。(参考:教科等横断的な視点とは何か?)

(2)プログラマー教育ではない

プログラマーを作ろうという教育ではありません。それは高校や専門学校の仕事です。小学校は「義務教育」であり「普通教育」の場です。まずは「人格の完成」を目指す場所であって、なにか特定の職業教育を施すところではありません。将来の職業に使えるスキルを身につけるのが目的ではありません。
重要なことは、小学校で行なう普通教育としてのプログラミング教育は「普遍的な能力」を育てるために行なうものだということです。

そもそも普通教育とは?

小学校で水泳を学ぶのは、水泳でオリンピックに出るためではありません。ノコギリの使い方を学ぶのは、大工になるためではありません。国語を学ぶのは、小説家になるためではありません。理科を学ぶのは、ノーベル賞を目指すためではありません。まったく同様に、プログラミングを学ぶのは、プログラマーになるためではありません。
すべて、人間が持つ「普遍的な能力」を伸ばすために行なう教育です。プログラミング学ぶのではなく、プログラミング学ぶ。これが鉄則となります。

(3)プログラミング言語を学ばない

プログラミング教育というと、モニターに向かってキーボードをぺちぺち打つ姿を想像しがちです。実際には、そういうふうに「プログラミング言語」を使用した活動はほとんど想定されていません。文科省が狙っているのはプログラミングによって「普遍的な能力」を伸ばすことであって、実際にプログラムを組む手続きを身につけることは目指していません。

プログラミング教育で育つ能力

さて、それではプログラミング教育で育つ「普遍的な能力」とはなんでしょうか?

(1)論理的思考力・抽象的思考力

プログラムは曖昧な命令を理解してくれません。自分が思ったとおりに動かすためには、物事の本質を確実に捉えて、論理的にプログラムを組み立てなければいけません。
具体的に逐次処理や条件分岐、ループ処理やサブルーチンなどプログラミングの基本的な考え方を身につけることは、実は日常生活を論理的に考える力につながります。たとえば料理を作る工程は、プログラミングの思考とよく似ています。料理が苦手な人は、おそらくプログラミングも苦手でしょう。なぜなら両者は逐次処理(洗う→切る→水にさらす)や条件分岐(沸騰したら鍋に入れる)、ループ処理(微塵切り)など「論理的に考える力」が共通しているからです。
逆に言えば、家庭科で料理の工程を論理的に組み立てることは、そのままプログラミング教育になるということでもあります。もちろん国語科や算数も、論理的な力を育てるという点でプログラミング教育と親和的でしょう。

(2)知識の活用

PISAショック以降、文部科学省が学力の定義を法的に定めて「活用力」を前面に打ち出してきたのは、周知の事実でしょう(参考:「学力」とは何か)。しかし学校現場でどのように「活用力」を養うのか、具体的に授業の中に落とし込むのは極めて大変です。そんなとき、プログラミング教育が力を発揮します。授業で学習した知識がプログラミングで実際に「使える知識」であることを実感した時、子どもたちの世界は確実に広がっていくことになるでしょう。
たとえば算数や理科の「活用」では、プログラミング教育が大きな威力を発揮することが期待できそうです。プログラミング教育とは、学校現場で教えるべき「知識」が増えたと考えるのではなく、「活用」のときに使えるツールが増えたと理解するべきものかもしれません。

(3)想像力・創造力・表現力

プログラミングは、なんらかの最終目標がないと始まりません。その目標は他人から与えられるのではなく、自分が決めるものです。プログラミングとは、自分が思い描くものを実現する技術です。
子どもたちは、ものを作ることが大好きです。黙って椅子に座って授業を聞いている時は死んだ魚のような目をしている子どもたちも、実際にものを作る作業では活き活きと活動します。プログラミング教育も、先生が与えた課題をこなすというだけでは、おそらくこれまでの教育と同じ失敗を繰り返します。
プログラミング教育の強みとは、子どもたちの想像力・創造力を土台にしやすいことです。何かを表現したいという子どもたちの素直な欲求を、そのまま教育の力へと繋げやすいことです。
たとえば美術や音楽という教科とプログラミング教育を結びつけることで、これまでには不可能だった新しい創造・表現が可能となるでしょう。たとえば音楽では、小学校から「作曲」をする子どもが出てきてもいいでしょう。

(4)目標に向かって粘り強く実行する力

自分の作りたいものを表現するといっても、なにもかも思い通りにできるわけではありません。目標を実現するためには、大きな目標を実行可能な小さな目標に分割し、着実に積み上げていくことが必要となります(スモールステップ)。
目標を簡単に諦めてしまう子どもが往々にしていますが、それは意志が弱いというよりも、目標に向かう具体的な道筋が見えず、まず何をしていいのか分からないからかもしれません。目標を分割し、実行可能な小さな目標を少しずつ達成していけば、最終的に大きな目標に辿り着けるかもしれません。
プログラミングとは、最終的な目標を小さな目標に分割し、着実に積み上げていく技術です。この技術は、プログラミングに使えるだけでなく、目標から逆算して今やるべきことを割り出すなど、人生の目標を達成する上でも大きな意義を持つでしょう。成功体験を積み上げることで自分自身の力に自信を持つことも期待できます。

(5)問題発見・解決能力

プログラムは、どこか一個所でも間違っていると思った通りには動きません。しかし難しいのは、「どこが間違っているか」がすぐには分からないところです。子どもたちは、試行錯誤しながら少しずつ修正を重ね、最終的に自分の理想どおりの形を作り上げていきます。プログラムの間違いを探し出して修正する作業を「デバッグ」といいます。
勉強ができない子どもに往々にしてありがちなことは、答えが間違っていると自分の解答を全部消しゴムで消してしまうということです。どこがどう間違っているかを考えずに、何もかもがダメだったと諦めやすいのです。しかし逆に勉強ができる子は、どこがどのように間違っていたかを検証する習慣がついています。どこが間違っていたかが明らかになれば、あとは修正するだけです。勉強ができない子は、往々にして「どこが間違っていたか」がそもそも分かっていないわけです。
プログラミングを通じて「デバッグ」を身につけると、通常の勉強でも「どこが間違っていたか」を探り当てようとする習慣がつきます。あるいは勉強以外でも、環境にすぐ適応できる高い修正能力を身につけることが期待できます。

(6)コミュニケーション力

プログラミングで子どもたちが目指す表現は、おそらく単なる自己満足の領域に留まることは少ないと思われます。アニメーションにしろ、ゲームにしろ、何かを表現する時には「誰かを喜ばせたい」という気持ちが土台にあることが多いはずです。プログラムとは、人と人を繋げるツールです。オンラインで海外の人々とも簡単に結びつきます。プログラミング教育を通じて英語コミュニケ―ションの必要性を実感することもあるでしょう。プログラミングを媒介として、子どもたちの世界は広がっていきます。
またプログラミングは多様な個性や才能を持った人との共同作業に結びつきやすいものです。プログラミングを通じて協働的な力を育むことが期待されています。

学習指導要領の定義

さて、それでは各学校は具体的に何をしなければいけないのでしょうか。学校がやるべき仕事は学習指導要領にぜんぶ書かれています。小学校学習指導要領では、総則「第3の1の(3)」で、プログラミング教育が以下のように規定されています。

第3 教育課程の実施と学習評価
1 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善
⑶ 第2の2の⑴に示す情報活用能力の育成を図るため、各学校において、コンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段を活用するために必要な環境を整え、これらを適切に活用した学習活動の充実を図ること。また、各種の統計資料や新聞、視聴覚教材や教育機器などの教材・教具の適切な活用を図ること。
あわせて、各教科等の特質に応じて、次の学習活動を計画的に実施すること。
ア 児童がコンピュータで文字を入力するなどの学習の基盤として必要となる情報手段の基本的な操作を習得するための学習活動
イ 児童がプログラミングを体験しながら、コンピュータに意図した処理を行わせるために必要な論理的思考力を身に付けるための学習活動

ちなみに上記文中で「第2の2の⑴」とある個所は、以下の通りです。

2 教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成
⑴ 各学校においては、児童の発達の段階を考慮し、言語能力、情報活用能力(情報モラルを含む。)、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力を育成していくことができるよう、各教科等の特質を生かし、教科等横断的な視点から教育課程の編成を図るものとする。

総則の記述をまとめると、プログラミング教育とは「教科等横断的な視点」によって育成するべき3つの資質・能力のうちの一つである「情報活用能力」を育成するための手段です。(他の2つは、言語能力と問題発見・解決能力)。
そして具体的に学校がやるべきこととしては、(ア)タイピングの技術(イ)実際のプログラミングの2つが定められています。これは学習指導要領に記載された以上、あらゆる学校で最低限は実現しなければいけない事項です。

また、学習指導要領では、各教科(算数と理科のみ)および総合的な学習の時間でもプログラミングという言葉が見えます。
たとえば、算数では以下のように示されています。

2 第2の内容の取扱いについては、次の事項に配慮するものとする。
⑵ 数量や図形についての感覚を豊かにしたり、表やグラフを用いて表現する力を高めたりするなどのため、必要な場面においてコンピュータなどを適切に活用すること。また、第1章総則の第3の1の⑶のイに掲げるプログラミングを体験しながら論理的思考力を身に付けるための学習活動を行う場合には、児童の負担に配慮しつつ、例えば第2の各学年の内容の〔第5学年〕の「B図形」の⑴における正多角形の作図を行う学習に関連して、正確な繰り返し作業を行う必要があり、更に一部を変えることでいろ
いろな正多角形を同様に考えることができる場面などで取り扱うこと。

なるほど、5年生で「正多角形」を扱う時にプログラミングの出番となるようです。
また、理科では以下のように示されています。

2 第2の内容の取扱いについては,次の事項に配慮するものとする。
⑵ 観察、実験などの指導に当たっては、指導内容に応じてコンピュータや情報通信ネットワークなどを適切に活用できるようにすること。また、第1章総則の第3の1の⑶のイに掲げるプログラミングを体験しながら論理的思考力を身に付けるための学習活動を行う場合には、児童の負担に配慮しつつ、例えば第2の各学年の内容の〔第6学年〕の「A物質・エネルギー」の⑷における電気の性質や働きを利用した道具があることを捉える学習など、与えた条件に応じて動作していることを考察し、更に条件を変
えることにより、動作が変化することについて考える場面で取り扱うものとする。

なるほど、6年生の「電気」を扱うところでプログラミングの出番ということのようです。
そして「総合的な学習の時間」では、以下のように示されています。

2 第2の内容の取扱いについては、次の事項に配慮するものとする。
⑶ 探究的な学習の過程においては、コンピュータや情報通信ネットワークなどを適切かつ効果的に活用して、情報を収集・整理・発信するなどの学習活動が行われるよう工夫すること。その際、コンピュータで文字を入力するなどの学習の基盤として必要となる情報手段の基本的な操作を習得し、情報や情報手段を主体的に選択し活用できるよう配慮すること。
⑼ 情報に関する学習を行う際には、探究的な学習に取り組むことを通して、情報を収集・整理・発信したり、情報が日常生活や社会に与える影響を考えたりするなどの学習活動が行われるようにすること。第1章総則の第3の1の⑶のイに掲げるプログラミングを体験しながら論理的思考力を身に付けるための学習活動を行う場合には、プログラミングを体験することが、探究的な学習の過程に適切に位置付くようにすること。

どうもこれだけ読むと、タイピング技術の習得に関しては、算数や理科の時間ではなく、「総合的な学習の時間」に行なうことを想定しているように読めてしまいますね。プログラミング教育が入ってくることで、どうやら各学校は「総合的な学習の時間」の全体的な構想に頭を悩ませる必要が出てきているようです。
とはいえ、総合的な学習の時間を単にタイピングの訓練のみに費やすのは、少々もったいない気がします。プログラミング教育が「普遍的な資質・能力」を伸ばすものであることを踏まえて、創造的・独創的な実践が現われてほしいものです。
ちなみに算数の「正多角形」と理科の「電気」でどのようにプログラミングを入れ込むかは、様々な実践事例が指導案と共に出てきているので、参考事例には事欠かないでしょう。

まとめ

これまでの教育は「読み・書き・ソロバン」と言われてきましたが、これからは「読み・書き・コンピュータ」という時代がやってきそうです。コンピュータを使う能力は、もはや特別なものでも何でもなく、基本的な「リテラシー」として理解するべきものです。基本的なリテラシーであるのなら、それは普通教育の場である小学校で習得すべきものとなります。
そしてコンピュータを使う能力とは、具体的にソフトウェアを扱う知識の集合ではありません。ソフトウェアは日進月歩、十年後にはOSレベルでまったく別のものになっているため、個々の知識を身につけてもあまり意味はありません。身につけるべき能力とは、目標を立て、論理的に思考し、実行可能な行動に分解し、着実に遂行し、問題点を洗い出し、解決し、結果を目標に照らして評価する、一連の思考力・判断力・表現力です。その力は、これまでの学校教育でも育成してきたもののはずです。
プログラミング教育を、余計な負担が増えたと考えるのではなく、これまでの教育のあり方をより良くするためのありがたいツールとして考えていきたいものです。

参考文献

超々初心者向け

■石戸奈々子『プログラミング教育ってなに? 親が知りたい45のギモン』Jam House、2018年

主に保護者向けに書かれたプログラミング教育の案内書です。右も左も分からない超初心者にお薦めの本です。プログラミング教育がどうして必要なのか、何を学ぶのかなど、保護者が抱きがちな疑問に対して簡潔に答えています。またプログラミング教育の初歩の初歩を知りたい現場の教師にとってもおそらく有益で、「社会に開かれた教育課程」とか「教科等横断的」など新学習指導要領のキーワードと絡めながら理解することができます。

■石戸奈々子監修『図解 プログラミング教育がよくわかる本』講談社、2017年

基本的に保護者向けに書かれている本ですが、プログラミング教育について右も左も分からないような先生にとってもたいへんありがたい本になるでしょう。たいへん易しく、分かりやすくプログラミング教育の意義が書かれています。上の本は入口に立つまでを扱っていますが、こちらの本は扉のくぐり方まで扱っている感じです。

初心者教員向け

■松村太郎、山脇智志、小野哲生、大森康正著『プログラミング教育が変える子どもの未来―AIの時代を生きるために親が知っておきたい4つのこと』翔泳社、2018年

多彩な著者による、多角的・多面的にコンピュータ教育の現在が分かる本です。学習指導要領の内容やプログラミング教育導入の経緯も分かりやすく示され、「社会科」でのプログラミング教育の指導案も載っていたりするなど、教員にも大いに参考になるだろう本です。

保護者向け

■石嶋洋平著・安藤昇監修『子どもの才能を引き出す最高の学びプログラミング教育』あさ出版、2018年

主に保護者に向けて書かれている本です。単に子どもがプログラミングを覚えるだけでなく、普遍的な能力を伸ばせることを様々な角度から主張しています。
民間コンピュータスクールを推奨している本なので、学校の教師にとってはあまり参考にならない本かもしれません。

■竹内薫『知識ゼロのパパ・ママでも大丈夫!「プログラミングができる子」の育て方』日本実業出版社、2018年

プログラミング教育に限らず、数学教育のありかたなど新時代の教育の方向性が平易に説かれています。
保護者にとっては将来に向けて確かな指針を与えてくれるような内容かもしれませんが、逆に、学校や教師に対して絶望していることを前提に書かれている本なので、学校関係者が読んだら落胆しかないかもしれません。発憤材料としましょう。

小学校教員向け

■小林祐紀・兼宗進・白井詩沙香・臼井英成編著監修『これで大丈夫! 小学校プログラミングの授業 3+αの授業パターンを意識する 授業実践39』翔泳社、2018年

小1~小6までの大量の各教科指導案が示されるだけでなく、実際の授業の展開も具体的に分かり、さらに専門家からのアドバイス等もあって、プログラミング教育をどこから初めていいかわからない現場の教員にとってはたいへんありがたい本でしょう。

上級者向け

■ヘレン・コールドウェル、ニール・スミス『ある日、クラスメイトがロボットになったら!? イギリスの小学生が夢中になった「コンピュータを使わない」プログラミングの授業』学芸みらい社、2018年

イギリスで実践された事例が紹介されている本だけど、日本よりかなり進んでいるので、プログラミング教育の初歩が分かっていない人が読んでもあまり参考にならなさそう。とはいえ、ある程度わかってきたときに読むと、プログラミング教育の奥深さが伺える内容ということでもありますね。

人格とは何か?

人格の定義

ありがちな勘違い

人格は、「個人の心理面での特性」ではありません。また、「人柄」でもありません。
もしも「特性」とか「人柄」という言葉と同じ意味なら、わざわざ「人格」などと言う必要はありません。「特性」とか「人柄」と言っていればいいのです。「特性」や「人柄」という言葉では伝わらない極めて重要な中身があるからこそ、特別に「人格」という言葉が用意されているのです。
では、「人格」とは何でしょうか?

人格の定義

実はすでにオールポートという心理学者が人格の定義を分析して、過去に提出された50もの定義を示しています。これに私がつけ加えることは、ほぼ何もありません。
まあ、私個人の定義は、「人の人たる所以」としておきます。屋上屋を架すことになって、恐縮ではありますが。

とはいえ、この定義に至った真摯な経過がないわけではないので、以下、勉強と研究の一端を示しておきます。

人格を見る、3つの観点

人格という言葉の意味を掴みにくいのは、3つの観点からまったく異なる意味で使われているからです。その3つとは、
(1)実体的な人格(主に心理学が対象とする)
(2)仮想的な人格(主に法学や経済学が対象とする)
(3)実存的な人格(主に哲学や神学が対象とする)
です。
以下、それぞれの立場を確認していきましょう。

(1)実体的な人格

実体的な人格とは、主に心理学の分析対象となり、数字で評価できるものです。近年のパーソナリティ心理学ではBIG5と呼ばれる評価規準が設定され、数字によって人格特性を表現することができるようになっています。つまり、この立場では、人格は客観的に測定できる対象です。

が、このように人格を実体的に見ることに対しては、パーソナリティ心理学の立場からも批判が加えられています。

「しかし、客観的にみるかぎりでは、パーソナリティ(特性)は構成概念として考えるべきものであり、それ自体が実体として(脳のなかに)存在していると仮定することは妥当とは思われない。しかし、現在のパーソナリティ研究の多くは、依然として実在論的なパーソナリティ概念を暗黙の前提としている。」
若林明雄『パーソナリティとは何か その概念と理論』培風館、2009年、47頁

このような批判があるにも関わらず、学術研究の世界でも、人格を実体的に理解する立場は衰える様子を見せません。一般的にも、人格を実体的に理解する姿勢に極めて根強いものがあることは、間違いないところでしょう。

(2)仮想的な人格

実体的な人格理解に対して、「人格なんてものは現実には存在しない」と言い切るのが、次の立場です。この立場では、人格が現実に存在するなどという非科学的な戯言など、断じて認めません。実際、人格の存在は、どれだけ科学的に分析しても、証明することなどできません。
しかしこの立場は、いったん人格というものの物理的存在を否定した上で、仮想的に存在を認めます。なぜ仮想的に存在を認めるかというと、あたかも人格というものが存在しているかのように世の中を組み立てておいた方が、世の中がうまくいくからです。
具体的には、たとえば法学では、人格なんてものは現実には存在しないのだと見切りつつ、それでもあたかも存在しているかのように振る舞います。法学者の安藤馨は、こう言い切っています。

「個人の人格は、そこに天然自然のうちに存在しているものではなく、それがあると考えた方が人々の効用が増大する(=気持ちよくなる)から設定されたもの、あると考えられるようになったものであるに過ぎない。となれば、個人の人格を基礎とする自律という観念も、単にそう考えることによってもっとも社会全体における功利が増大するという理由によって正当化し得るものに過ぎないということになろう。」
安藤馨「統治と功利-人格亡きあとのリベラリズム」『創文』2007年1-2月号

実際、法律というものは、「人格」と「物件」の厳密な峻別を土台にして、全体が構成されています。もしも「人格」という概念を認めないと、法律の体系全体が崩壊します。しかし人格そのものはあくまでも仮説的に存在を認められたものであって、現実に物理的に存在するわけではありません。

また心理学研究者も、以下のように言っています。

「自我体験における「私1」は、私たち人間が生存している範囲内で、仮定として想定しているもの」
天谷祐子『私はなぜ私なのか―自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版、2011年、169頁

実証的な研究に取り組んできた心理学研究者が、人格に対して「仮定として想定しているもの」という結論を出しているのは、なかなか興味深いところです。

(3)実存的な人格

これらに対して、まったく別の観点から、人格が現実に存在していることを主張する立場があります。この立場では、仮説的に存在を認めるなどという生ぬるいことは言いません。しかし、(1)にように物理的に存在しているなどと言いたいわけではありません。この立場では、人格とは、精神的に存在するものです。もっと言えば、霊的に存在するものです。物理の世界を超越したところに、物体よりも遙かに存在感あるものとして存在していると主張します。
たとえば神学者の稲垣良典は、次のように述べています。

「私自身が根本的に前提としている「人間」理解と、聴講者たちの間で「自明の理」とされている常識的な人間観との間の著しい隔たりは、時がたつにつれて次第に重い問題として私に迫ってきたのである。
その隔たりとは、一言でいえば、常識的な人間観における「人格」概念の完全な欠如であった。(中略)
社会通念ともいえる人間観にひそんでいるこうした欠陥は、いずれも「人格」概念の不在――「人格」という言葉、あるいは「人格の尊厳」「人格の形成」という標語は広く流通しているにもかかわらず――に由来する、と私には思われた。なぜなら、この後の本論で詳細に論じられるように、われわれが「私」「自己」と呼んでいる存在を明確に認識し、その存在に固有な価値を基礎づけることができるのは、人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場を超え出て、人間を明確に「人格」として経験し理解することによってだからである」
稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年、vii頁

稲垣のこの言葉は、(1)の立場の批判であると同時に、(2)の立場に対する批判でもあります。(2)の立場とは、「人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場」であって、その立場を成立させるために「人格」という観念を仮構したのでした。しかし稲垣は、これを批判して、「人格」とは仮構物などではなく、実際に「存在」するのだと主張しているわけです。
そしてここでいう「存在」とは、もちろん物理的に存在しているなどという通俗的な意味ではありません。稲垣は次のように述べます。

「このように、「人格」について語ることの難しさは、私が私自身に現存している「私」「自己」を認識し、それについて語ることの難しさであり、精神が精神自身に現存している「精神」を認識し、それについて語ることの難しさである。ということは、少し変った言い方になるが「人格」は自己自身に現存している「人格」を認識し、それについて語ることが難しい、ということであり「人格」とはそのような自己自身への現存という存在の仕方をするものである、ということである。言いかえると、「人格」「自己」「精神」などの名で呼ばれるものは、「存在する者」である限り「一」であるが、それは量的な「一」、数の単位とか点のような「一」ではなく、自己還帰的な「一」、すなわち同一のものが自己に現存し、自己へと立ち返るような仕方で「一」なのである。」
同上書6頁

つまり、「存在」という言葉の意味そのものが既に(1)や(2)の立場と異なっていることに注意しなければ、稲垣の言う「人格」の意味内容を捉えることはできません。人格とは、「存在」という言葉のもっとも純粋な意味において「存在」しているものです。

まとめ:3つの観点の噛み合わなさ

以上、3つの観点から人格という言葉の意味内容を確認してきました。そして確認したように、もはや絶望的に、まったく噛み合うところがありません。それぞれ、何も意味が重なっていません。そういうまったく違うものが、同じ一つの「人格」という言葉で呼ばれているために、「人格とは何か?」がまったく分からなくなり、混乱してしまうのです。
が、その混乱ぶりから、むしろ明確に分かることがあります。それは、「人格」という言葉の意味は、「世界」をどう見るかによってまったく変わるということです。逆に言えば、「世界をどう見るか」という観点が伴わないかぎり、「人格」という言葉だけを取りだして議論しても、あまり意味がないということです。
学問分野の違いによって「人格」に対する見方がまるで異なるということは、学問それぞれの世界観が異なっている以上、当然のことになります。

「人格の完成」とは何か?

では、教育学では、「人格」をどう捉えるべきでしょうか? 決定的に重要な事実は、教育基本法の第一条に、日本の教育の目的は「人格の完成」であると明記されていることです。人格の完成という教育の目的を達成するには、そもそも「人格とは何か?」が分かっていなければいけません。
ということで、「人格の完成」については、ページを改めて考えていきましょう。(つづく?)

 

アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

アイデンティティの定義

ありがちな勘違い

アイデンティティとは、個性のことではありません。個性とは別の状態を示す言葉です。もしも個性と同じ意味なら、「個性」と言えば用が足りるわけで、わざわざ「アイデンティティ」という別の言葉を使う必要はありません。
また、Wikipedia(2018年9月閲覧)には「アイデンティティとは自己を確立する要素の事」とありますが、トンデモない間違いです。アイデンティティは、「要素」なんかではありません。

アイデンティティの定義

わかりやすく言えば、アイデンティティとは「私が私であること」を表現する言葉です。

「えっ、私が私であるって、当たり前じゃ」と思う人がいるかもしれませんが、実はこれ、よく考えると当たり前のことではありません。以下、アイデンティティが「私が私であること」を示す言葉であることを、哲学的に吟味していきましょう。

ちなみにエリクソンなどが使っているような歴史が浅い心理学的アプローチについては議論の対象としませんので、ご了承ください。

要素が変化しても変わらないもの

私が私であることを証明したいとき

たとえば「IDカード」の「ID」は、identityあるいはidentificationという言葉の最初の2文字を取ったものです。
さて、IDカードが必要になるのは、どんなときでしょうか? たとえばレンタルビデオ屋でDVDを借りたいとき、カウンターにDVDを持っていって「貸してくれ」と言ったところで、貸してくれるわけではありません。あなたがちゃんとした会員であることを店員に証明しなければ、DVDは借りられません。しかし「私は確かに会員だ」と言い張ったところで、店員さんとしては本当かどうか、確かめる手段はありません。こういうときにIDカードの出番です。店員さんにIDカードを示せば、きっと「いつもありがとうございます」と返事をしてもらえるでしょう。
IDカードを示すことで店員さんが理解するのは、「会員であるあなたと、目の前のあなたが、確かに同一人物だ」ということです。店員さんは「あなたがあなた」であることを理解します。私自身には「会員である私と、いまここにいる私が同一人物である」ことは自明なことですが、これを他人に分からせるためにIDカードが役に立つわけです。

だから、identityのことを「自我同一性」と翻訳したりします。「会員である私と、いまここにいる私が、同一」であることを示しているからです。あるいはidentityは「存在証明」と翻訳されることがあります。「いまここにいる私が、会員である私と同じ存在であることを証明する」という役割を果たしているからです。

本当に同一なのか?

しかし、本当に「会員である私」と「いまここでDVDを借りようとしている私」は、同一人物なのでしょうか?
人間は、日々、新陳代謝を繰り返しています。人間は生命活動によってエネルギーを消費し、老廃物を体外に排出します。失った分のエネルギーは、体外から栄養として取り入れて、消化し、新たに自分の肉体としなければいけません。そうして人間は、常に外部から栄養をとりいれると同時に老廃物を外部に排出しています。
つまり、いま現在の私を構成している物質は数ヶ月後にはほとんどが排出され、数ヶ月後の私の体は、これから取り入れるであろう食物の栄養素によって組み立てられることになります。現在の私の体は、数ヶ月前の私の体とは違うし、数ヶ月後の私の体とも異なっているでしょう。こんなふうに新陳代謝を繰り返す私は、本当に過去の私と同じだと言えるのでしょうか?

東洋の例=鴨長明

実はそういう疑問に対して、われわれ人類はかなり昔から取り組んできております。たとえば鴨長明はこのように言っています。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
鴨長明『方丈記』

河というものは依然として河であるにも関わらず、しかしそれを構成する水は刻一刻と変化しています。人間というものが依然として人間であるにも関わらず、しかしそれを構成する物質が刻一刻と変化することと、同じような現象です。
ところが鴨長明は、続けて「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」と述べます。鴨長明は、河が「同じであること」に注目せず、水の泡が「刻一刻と変化する」ことの方に物事の本質を見ています。

いろは歌も、鴨長明と同じように「移り変わること」に物事の本質を見ていますね。

色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
(美しく咲き誇っている花も散ってしまった。われわれ人間だって、いつまでも同じだと言えるだろうか。いや言えない。みんな結局は死んでしまう。)

「ものごとの本質は一定ではない」ということが、東洋的思考の基本にあります。

西洋の例=アリストテレス

ところが同じ現象に対して、西洋の哲学者は「同じ河である」ことのほうに本質を見ます。たとえば古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、鴨長明と同じく河の流れを例に挙げて、次のように言っています。

「ちょうど河や泉は、絶えず或る水は流れ来り或る水は流れ去っていても、それらを同一であるとわれわれが言うのを常としているように」
アリストテレス『政治学』1276b

鴨長明とアリストテレスが同じ現象を見ているにも関わらず、物事の捉え方が完全に正反対になっていることが分かります。同じ河の流れを見て、鴨長明が「変化」のほうを本質と見ているのに対し、アリストテレスは「同一である」ことのほうを本質と考えています。
そしてアリストテレスは、河の流れのたとえに続けて、次のように言い切っています。

「水の流れのようなことを理由にして人間は同一であると言わなければならない」
アリストテレス『政治学』1276b

どんなに水が変わろうとも河の流れが同じであるように、どんなに構成物質が変わろうとも人間は同一である、というわけです。ここにアイデンティティという言葉の本来の意味を見ることができます。
プラトンも、同じようなことに言及しています。

「例えば人が子供の時から老人に成ってしまうまで、同じ人といわれるようなものなのです。実際彼は自分の内には瞬時も同一要素を保有するようなことがないが、それでもなお終始同じ名で呼ばれている。しかも他方彼は髪も肉も骨も血も、要するに肉体の全体にわたって普段に新しくなるとともに、旧いものを失ってゆくのです。」
プラトン『饗宴』

もしもただ単に「同一」と言うだけでは、アイデンティティの本質を捉えているとは言えません。「どんなに要素が変化しようとも、同一である」というところが、アイデンティティという言葉の本質です。ここが、「個性」や「性質」という他の類語と決定的に異なるポイントです。

川の流れのように

というわけで、鴨長明の見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は、構成要素が違っているため別の人物ということになるでしょう。が、アリストテレスの見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は問題なく同一人物ということになります。
ではたとえば、美空ひばりが歌った「川の流れのように」では、どうでしょう?

ああ 川の流れのように ゆるやかにいくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく空が黄昏に染まるだけ
秋元康作詞『川の流れのように』

全編を通じて、変化を感じながらも、ひとつ芯の通った人生観を感じる歌詞ではあります。鴨長明から800年を経て、日本人も西洋的なアイデンティティの感覚を身につけるようになってきたということかもしれません。

主語としてブレないというあり方

私の変わらないところとは何か?

さて、以上までの検討で、「私が私であること」というアイデンティティの定義の具体的な中身が見えてきました。より正確に言えば、「たとえ私を構成している様々な要素が変化したとしても、私が私であること」と言えそうです。水がどれだけ流れていっても河が相変わらず河であるように、私は私であるようです。
が、その場合の「変わらない私」とはいったい何でしょうか? いったい私のどこが相変わらず私なのでしょうか?

年齢は変わります。身長も体重も変わります。肌の張りも変わります。名前だって、その気になれば変えることができます。性格だって、変えることができます。
それら変わることができるものが全て変わったとしても、相変わらず変わらない私とは、何を指しているのでしょうか?
たとえばルソーはこう言っています。

「わたしによくわかっていることは、「わたし」の同一性は記憶によってのみたもたれること、そして、じっさいに同一のものであるためには、わたしは以前にもあったことを思い出す必要があることだ。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』中158頁

ルソーによれば、記憶によって「私が私である」ことが保証されるようです。実はジョン・ロックも、同じように記憶の継続性がアイデンティティを保証すると言っています。ではしかし、記憶がなくなったら、私は私でなくなってしまうのでしょうか? 昨日の昼に食べたものさえ忘れている私は、もはや私ではないのでしょうか?
社会学者の大澤真幸は、次にように言い切っています。

「かつてロックは、人格の同一性とは記憶の継続性にほかならない、と論じた。しかし、この説は、明らかに間違っている。」
大澤真幸『自由という牢獄-責任・公共性・資本主義』岩波書店、105頁

どうも「記憶」というものを持ち出すと、少々厄介な議論に迷い込んでしまいそうです。

私にとって変わらないものとは何か?

改めて、私とは何なのか、一から考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

上に列挙した「私」の説明を吟味してみましょう。
たとえば「私は、東京都民である。」という文章は、2018年現在においては正しいのですが、かつて私は埼玉県民でしたし、その前は愛知県民でした。今後、東京都民でなくなる可能性は極めて高いでしょう。「東京都民」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
同様に、2018年現在、私は「准教授」ですが、将来は嬉しいことに教授に昇任することもあれば、クビになって失業者となる可能性もあるでしょう。「准教授」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
血液型は変わらなそうな気もしますが、問題なく、変わります。2008年に骨髄移植手術をした市川團十郎は、血液型がAからOに変わりました。ちなみに性格は変わらなかったそうです。ということで、血液型も、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
「男」はどうでしょう? これだって現在は変更可能なものと考えられています。
としても、出身地や生年月日はさすがに変わらないのではないでしょうか。このように変わらないものを「アイデンティティ」とするべきなのでしょうか。しかしよくよく考えてみれば、東京都民になったり男に生まれたのがたまたまであったように、愛知県に生まれたり1972年に生まれたのも、たまたまのように思えてきます。たまたまそうであっただけのものを、本当にアイデンティティとして大丈夫なのでしょうか?

再び、私にとって変わらないものとは何か?

もう一度、私とは何なのか、しっかり考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

この文章を無心にじっと眺めていると、実は変わらないところがあることに気がつきます。実はよく見ると、縦の列が、変わっていないのです。一つ目の文章も、二つ目の文章も、常に主語が「私は」となっています。文章を10個並べようが、100個並べようが、1000個並べようが、どこまでいっても絶対に変わりません。私を説明する文章は、常に「私は」という主語で始まります。実は変わらないものとは、主語だったのです。

一方、述語はめまぐるしく変わり、一定を保つことがありません。述語には同一性を認めることはできません。

主語と述語

主語にはアイデンティティが成立し、述語にはアイデンティティが成立しません。このことは、日常的な経験からも裏付けることができます。

たとえば私が女性を口説こうとしたとして、「私は愛知県出身なんだよね。イチローと同じなんだ、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。「私は准教授なんだよね、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。どれだけ述語を積み重ねていっても、私の人となりを伝えることはできません。なぜなら、たまたまそうなっているだけだからです。たまたまそうなっているだけだから、そこに私の本質は見つけられません。どれだけ述語を増やして「私」を説明しても、どこまでいっても「たまたま」を抜けられないので、説得力が生じないのです。これが「アイデンティティが成立していない」という状態です。
しかし一方、「私は、こう思う」とか「私は、こう考える」とか「私は、こう信じる」とか「私は、こういう人間になりたい」とか「私は、こういうふうに社会と関わっていきたい」などと、主語に立ってものを語る人は、一本筋が通っているように見えます。相手がだれだろうが、自分の立場がどうだろうが、ブレていないからです。主語で語る人は、どんなに述語が変化しようと、語るべき内容は変わりません。これが「アイデンティティが成立している」という状態です。

このように、述語に寄りかかるような語りがたいへん情けなく、主語に立つ語りには筋が通っているように見えることは、ギリシア時代の哲学者にも気づかれています。たとえばアナカルシスについて、次のような言葉が伝えられています。

「彼がスキュティア人であることを、あるアッティカの人間が嘲ったとき、「なるほど、わたしの祖国はわたしにとって恥であるが、君の方は祖国の恥になっているのだ」と言い返した。」
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波文庫、96-97頁。

私の価値は述語によって決まるのではなく、主語のあり方によって決まるのだという、ブレない姿を見ることができます。述語に寄りかかるのではなく、主語としてブレない姿勢を保つことが、「アイデンティティ」です。

まとめ:「私が私である」とは?

さて、ここまで来て、「アイデンティティとは、私が私である」という定義の中身が、かなり明らかになったようです。たとえどんなに環境や境遇が変化しようとも、相手が変わろうとも、それでも私は私としてブレない。そういう意味で「私が私である」ということが、アイデンティティです。逆に、どれだけ要素をたくさん積み上げても、決して「わたし」には辿り着きません。
だから、「日本人としてアイデンティティを持つ」とか、「男としてアイデンティティを持つ」という発言は、主語に重きを置くという本来の意味からすれば、述語に寄りかかるようなとても奇妙な言い方になっているわけです。本来なら、「日本人であろうとなかろうと、私は私」とか「男だろうが女だろうが、私は私」とならなければいけない言葉です。

個性とは何か? 歴史的・哲学的に考える

個性の定義

ありがちな勘違い

個性は、「長所」でもないし、「特徴」でもないし、「持ち味」でもありません。「性格」とは違うものですし、ましてや、「奇をてらって人と違うことをする」こととは何の関係もありません。長所や特徴や持ち味がなくても、個性はあります。平凡であることは、個性を持つことと問題なく両立します。

個性の定義

結論から言えば、個性とは「ひとりの人間として存在していること」を表現する言葉です。他人と違った長所や特徴や持ち味があるかどうかは、まるで関係ありません。

さて、「ひとりの人間として存在していること」なんて、当たり前じゃないかと思う人がいるかもしれません。しかしその「当たり前」のことが極めて重要だからこそ、「個性」という言葉がわざわざ必要になるのでしょう。
実は、「ひとり」とか「人間」とか「存在」という言葉は、考え始めると、奥が深い言葉なのです。ひとつひとつの言葉を吟味していくことによって、「ひとりの人間として存在していること」がいかに大切なことか、見えてくるかもしれません。

ということで、このページでは、「個性」とは「ひとりの人間として存在していること」だという定義の根拠を、歴史的・哲学的に説明していきます。

歴史的に「個性」という言葉を考える

個性という日本語は、なかった

そもそも実は、「個性」という言葉は、もともと日本語に存在しない言葉でした。江戸時代が終わって明治も半ば、明治20年(西暦1887年)頃にindividualityという英語が翻訳されたことで、初めて日本に「個性」という言葉が登場しました。
つまり逆に言えば、「個性」という言葉は120年程度の浅い歴史しか持っていないのです。そのため、individualityという言葉が本来持っていたニュアンスがしっかり理解されることがないまま、一種の流行語として広がっていくことになりました。その過程で、「長所」とか「特徴」とか「持ち味」というニュアンスが色濃く貼り付いていきます。

「個性」という言葉がいかに流行語として蔓延していたか、夏目漱石『吾輩は猫である』を読むと、よく分かります。

前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。
(夏目漱石『吾輩は猫である』より引用)

この文章が書かれたのが明治39年(西暦1906年)のことですから、日本に「個性」という言葉が誕生してから、まだ20年も経っていないわけです。しかもこのあと、漱石は「個性」に関する議論を多面的に展開し、「個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった」なんてことも言い始めます。『吾輩は猫である』に書かれた個性論は、多少古風な言い回しを除けば、現代でも通用しそうです。
そして漱石の文章を読むと、もうこの時点で個性という言葉に対して様々な手垢がついていることが分かります。明治時代の後期には、すでに個性という言葉の意味が混乱しているのです。

個「性」なのか、「個」性なのか

さて、日本語の「個性」という言葉がわかりにくくなってしまったのは、歴史が浅いことに加えて、「個」に重点を置くか「性」に重点を置くかで、捉え方が大きく違ってしまうからかもしれません。現在の「個性」は、「性」のほうに重点を置くような理解が広がっているように思います。

「性」とは、人や物の性質や性格を表現する漢字です。つまり「性」に重点を置いて読むと、個性とは、「各々の性質」という意味に読めます。そうすると、長所とか特徴とか持ち味などという言葉と近いニュアンスの意味を持つようになります。
ちなみに「ひとりひとりの持ち味」という意味での「性」については、儒教の中で盛んに議論されています。全ての人間が同様の性を持つのか、それともひとりひとりが異なる性を持つのかという議論です。日本においては、特に江戸時代、伊藤仁斎が興味深い議論を展開しています。仁斎は、ひとりひとりが異なる持ち味を持っていると主張しています。
また戦国時代には、武田信玄や織田信長なども、部下の持ち味は多様であるべきだという言葉を残しています。異なる特徴を持つ様々な人間がいるということについては、日本人も当然古くから気づいています。

しかし、そういう「様々に異なる持ち味の人間がいる」ということと「個性」とは、厳密に言えば違う概念です。「個」ではなく「性」と読むことで、違いが明確に見えてきます。

individualは、「個」

本来「個性」とは、「個」のほうに重点を置き、「性」のほうはオマケとして読むべき言葉でしょう。
というのは、もともとindividualityという言葉が、individualに-ityという接尾語がついてできた言葉だからです。後ろにくっついた「-ity」は、ふつうは「○○性」というふうに翻訳されます。たとえばrealityなら「現実性」、activityなら「活動性」、productivityなら「生産性」というふうに翻訳されます。ですから、individualityも、「individual-性」というふうにできた言葉です。本体は「individual」にあって、「性」は接尾語としての意味を持つだけです。
そしてindividualを日本語に翻訳すると、「個」となります。だから「individual-性」は「個-性」となるわけです。ちなみに幕末から明治始めにかけて、individualは「ひとつ」と翻訳されることもありました。となるとindividualityは「ひとつ-性」となるわけですね。

「○○性」の「性」とは何か?

では、「○○性」というふうに「性」が語尾につくと、何が変わるのでしょうか。具体的に「reality=現実性」について考えてみます。たとえばreal(現実)がどうしてまさにrealなのか、その理由を考えてみて、もしも具体的にこれこれこういう状態で、こういう条件が揃っているからrealに感じるんだとなったとします。としたら、そういう、realを成立されている具体的にこれこれこういう状態や条件のことが、realityと呼ばれています。「この絵、realityあるね」と言ったとき、その絵自体はrealそのものではないけれども、人々にrealを感じさせる条件が揃っているということを言いたいわけです。
individualityも、同様に、individualである状態や条件を指す言葉です。individualがどうしてindividualなのかを考えたときに、具体的にこれこれこういう状態や条件を揃えているからindividualなんだとなったとき、そういう状態や条件をまとめてindividualityと呼ぶわけです。「この絵、individualityがあるね」と言ったとき、その絵自体はindividualそのものではないけれども、人々にindividualを感じさせる条件が揃っているということを言いたいわけです。

「個」と「個性」の違い

realとrealityが異なるものを指しているように、individualとindividualityはそれぞれ異なるものを指し示しています。つまり「個」と「個性」は、それぞれ違うものです。

「個」とは、ひとつということです。バラバラになっていて、そのうちのひとつということを示す言葉です。「個々」となれば、バラバラになっているもののうち、ひとつひとつという意味です。だから「個を大切にする」と言ったなら、バラバラになっているひとつひとつを大切にするという意味です。

一方「個性」とは、「個」であることを成立させる状態や条件のことです。「個性を大切にする」と言ったなら、それぞれが「個」であることを成立させる状態や条件を大切にするということを意味します。
「個を大切にする」ことと「個性を大切にする」ことは、それぞれ意味が違っているわけです。

哲学的に「個性」について考える

「個」であることの条件

では、そもそも「個」であることの条件とは何でしょうか? 結論から言えば、それは「存在している」ということです。
なんだ「存在している」だけなら、何も特別なことじゃないと思う人もいるかもしれません。しかしちょっと考えてみれば、「存在している」ということはとても不思議なことであることが分かります。

たとえば、私の目の前に眼鏡が存在しています。私は「眼鏡が存在している」と言います。が、どうして「眼鏡が存在している」と言えるのでしょうか?
なぜなら私は、同じように「二つのレンズが存在している」とも言えるはずです。それなのに、私はどうして「二つのレンズが存在している」と言わずに「眼鏡が存在している」と言うのでしょうか? それは、目の前に見えるものを、「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しているからです。目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しなければ、「眼鏡が存在している」とは言えません。
しかしどうして私は、目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識できるのでしょうか? 私たちが眼鏡を一つと認識するのは、おそらく、眼鏡が一つの「働き」を持っているからです。眼鏡には、「視力を補正する」という一つの「働き」があります。その「働き」をまっとうするために、二つのレンズやツルやブリッジや鼻パッドやネジなど、多数の部品が組み合わされるわけです。レンズやツルやブリッジがバラバラに存在しているだけでは、「視力を補正する」という一つの「働き」を期待することはできません。
たとえばアプリの数はどうやって数えるのでしょうか? 一つのアプリは、たくさんのプログラムが組み合わさって働きます。しかし、そうやって動いているアプリが、たとえば30個のプログラムの組み合わせでできているとして、「30個のプログラムの束をダウンロードした」とは言うはずがありません。「ひとつのアプリをダウンロードした」と言うはずです。やはり、「働き」というものを一つの単位として、ものを数えているわけです。

つまり、「ひとつ」であるということは、「働き」がまとまっているということです。そして「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」とか言うとき、単にレンズやツルやブリッジが組み合わされていることや、30個のプログラムが組み合わされていることを言いたいわけではありません。眼鏡やアプリがなんらかの「働き」をすると考えているときに、はじめて「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」などと言えるわけです。
つまり「存在している」という言葉は、バラバラで多様なものが何らかの「働き」の下に「個」として統一されているときに、初めて出てくるものです。

哲学者たちの見解

そんなわけで、古代の新プラトン派哲学者プロティノスは、「存在」を定義して「一であること」としました。そしてこの「一であること」と「存在」の関係については、プラトンもアリストテレスも徹底的に追究したテーマです。特にプラトン『国家』およびアリストテレス『形而上学』は、全編が「一と存在」について考え抜かれた哲学書と言えます。
このように古代から鍛え上げられてきた「一」と「存在」の関係について、中世の哲学者ボエティウスがまとめて、明確に言い切っています。

「存続し・継続しようと求めるものは一たることを欲する。何故なら、一たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」
ボエティウス『哲学の慰め』岩波文庫、135頁

この「一」と「存在」の関係に関する見解は、古代末期から近代までの西洋哲学の考え方の大前提に据えられ、individuality概念の意味内容に決定的な影響を及ぼすことになるでしょう。

人が「個」であることの条件

さて、以上、「個」であることの条件が見えてきました。では、人が「個」であることの条件とは何でしょうか?
私たちは、人間を「一」として数えます。「二つの手と二つの足と二つの腎臓などなどの束」などとは言いません。一つのアプリを「30個のプログラムの束」とは言わないことと同様です。では、人間がどうして「一」であると判断できるのでしょうか? アプリの場合は、「働き」が統一されていたからでした。おそらく人間についても、「働き」が統一されていることに大きな意味があるでしょう。
そして人間の働きとは、「生きる」ことです。二本の手や二本の足や、心臓や肝臓や腎臓や、その他諸々のバラバラのパーツが、「生きる」という働きの下にすべて統合されているとき、人間は間違いなく「一」です。そして「一」であることは、「存在している」ということでした。このように「ひとりの人間として存在していること」こそが、「個」であることの条件、つまり「個性」ということになるわけです。

われわれは統一されているのか?

しかし少し考えてみると、われわれはちっとも統一なんかされていないことが分かります。「個」としての条件を満たしていないことが分かります。
たとえば、頭では「食べちゃだめだ」と思っていても、胃袋は「ラーメンを食べたい」と要求してきます。頭と胃が分裂しているわけですから、人間は統一されていません。「個」の条件を満たしていません。
このように分裂している人には、個性がありません。相手によって態度を変える人とか、考え方をコロコロ変える人には、個性がありません。「一」である条件が欠けているのです。逆に、どんな立場の人にも同じように現われる人や、考え方が首尾一貫している人には、個性があるわけです。つまり他人とどれだけ違っているかどうかが問題なのではなく、いかに「私自身と一致しているか」が問題になるわけです。もちろん、無理をして他人と違うように振る舞おうとしているとき、私自身を裏切っているわけですから、そこには個性など微塵もありません。

たとえばルソーは『エミール』の中で、以下のように述べています。

「わたしは、肉体の拘束から解放されて、矛盾のない、分裂のない「わたし」になるときを、幸福であるために自分以外のものを必要としなくなるときを待ちこがれている。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』岩波文庫、中179頁

ここで言う「矛盾のない」とか「分裂のない」ことこそ、「一」であるということです。そして「わたし」が「一」であるときがルソーの言う「幸福」であり、これこそ「個性」が実現した状態というわけです。

個性を貫くと、他人に迷惑をかけるのか?

しばしば聞くのは、個性を貫くことで他人に迷惑をかけてしまうという話です。本当にそうでしょうか?
上の引用で、ルソーは「幸福であるために自分以外のものを必要としなくなる」と言っています。もしも他人に迷惑をかけているなら、それは自分以外のものを必要としている状態であり、「一」である条件が欠けている状態です。ルソーが言う個性とは、自分以外のものを必要としないので、もちろん他人に迷惑をかけるわけがありません。
個性という言葉の本来の意味からすれば、個性を貫くことは、他人に迷惑をかけることとはまったく関係がありません。個であることと、ワガママであることは、まったく違う状態です。

まとめ

以上、個性という言葉について、歴史的・哲学的に考察してきました。まとめると、個性とは他人と比較してどうこうという言葉ではありません。個性が失われている状態とは、他人に良く思われるために無理を重ねるなど、わたしがわたし自身に嘘をつき、裏切っている状態のことです。わたしがわたし自身と嘘偽りなく仲良くできているとき、他人からどう見えるかどうかは関係なく、間違いなく個性が現われているのです。
そしてそんなことが人間に可能なのかと聞かれたら、まあ、「神ならぬ身には不可能かもしれません」と言うしかありません。この個性の実現可能性について考えようとしたら、「自己実現」という概念を改めて吟味する必要があります。
まあ、個性については、とりあえずここまでということで。

個性概念を吟味するための参考文献

手前味噌ですが、個性に関する学術論文を書いております。個性という言葉がどのように登場し、どのように日本社会の中に定着していったのか、さらに調査を続けていきたいと思います。

・鵜殿篤「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」東京大学大学院教育学研究科教育学研究室『研究室紀要』第27号、2001年
・鵜殿篤「個性概念についての一考察」文京学院大学教職課程センター『文京学院大学教職研究論集』第5号、2014年

教育学の大先輩の片桐芳雄先生が、「個性」概念に関する論文をたくさん発表しています。日本での初出事例の検討など、興味深い内容の論文が多いです。

・片桐芳雄「近代日本の教育学と「個性」概念」人間研究42、2006年
・片桐芳雄「近代日本における「個性」の登場――「個性」の初出を求めて」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要12、2006年
・片桐芳雄「近代日本における個性教育論への道:教育雑誌掲載論文の検討を通して」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要13、2007年

教育の世界では、1980年代半ばから、特に臨時教育審議会の答申を受けて、「個性」という概念が急浮上してきます。それを踏まえて、教育学的に個性概念を検討した本です。小浜逸郎、佐藤学、藤田英典、黒崎勲、片桐芳雄という錚々たる諸氏が寄稿しています。20年経っていますが、まだまだ大いに参考になります。