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【道徳教育の基礎】道徳教育は可能か?

道徳教育の可能性

道徳教育が可能かどうかについては、3段階の水準で考える必要があるでしょう。
(1)道徳に正解はあるのか?
(2)道徳を教えることはできるか?
(3)仮に道徳を教えられるとして、「学校」で教えることは適切かどうか?

(1)道徳に正解はあるのか?

「道徳に正解はあるのか?」という問いに対する答えは、3通りです。
(1)ある
(2)ない
(3)わからない

(2)道徳を教えることはできるか?

(1)の答えによって、(2)への回答も変わってきます。もしも「道徳に正解がある」のであれば、算数で正解を教えるように、道徳の正解を教えることが可能です。そう考える立場を、「徳目主義」と呼びます。世の中には絶対に正しい「徳目」があって、それを教えることによって道徳が身につくという、単純な考え方です。
しかし容易に想像される通り、「何が正しいことか」を知識として知っていたとしても、それに従って行動できるかどうかは、まったく別のことです。「徳目」を「知識」として脳味噌に刻み込んだだけで、はたして本当に「道徳を教えた」と言えるのでしょうか? 行動にまで影響を与えることは、可能でしょうか?

では、「(2)道徳に正解がない」ような場合はどうでしょうか。難しい言葉では、道徳には正解がないという考え方を「相対主義」と呼びます。さて、正解がないのだから教えられそうもないように思えますが、実は必ずしもそうではありません。確かに算数で正解を教えるようにはいきませんが、別の方法はあるでしょう。具体的には、「メタ視点に立つ」という方法を身につけることの意義が研究されています。
たとえ道徳には一つの答えがなく、様々な立場の人々が様々な道徳的基準を持っているにしても、どうして様々な立場が様々な考え方をしているかという「理由」や「根拠」については、論理的に考えることができます。そして表面的な道徳は異なっていても、実は「理由」や「根拠」のレベルでは同じことを考えていることを発見できたりします。「理由」や「根拠」を論理的に考えることは、様々な知識を得て、考え方のトレーニングを積めば、可能になります。こうやって「知識」を得たり、「思考法」を身につけることを「教育」と呼ぶのであれば、道徳を教えることはできる、ということになります。
つまり、表面的な「徳目」のレベルで道徳について考えるのではなく、そこから一つ上のレベル(理由や根拠)に登って、道徳の論理を考えようということです。この「一つ上のレベルに登る」ことを「メタ視点に立つ」と言います。

それでは「(3)わからない」という場合は、さすがに教育を諦めなければならないでしょうか。実は、2400年前にソクラテスという賢者が行なっていた「道徳教育」は、「道徳の正解は分からないということを分かろう=無知の知」というところからスタートします。そして単なる知識の問題ではなく、行動そのものの変化まで、話が広がっていきます。
ソクラテスの教育の中身については、別の記事をご参照下さい。(※「ソクラテスの教育―魂の世話―」)

(3)仮に道徳を教えられるとして、「学校」で教えることは適切かどうか?

仮に道徳を教えることが可能としても、たとえばそれは「家庭」や「宗教施設(教会やお寺など)」で行なわれるべきものであって、「学校」では敢えて行なうべきではないと考える場合があります。さて、家庭や宗教施設ではなく、「学校」で道徳を教えることは良いことなのでしょうか?
この問いに答えるためには、そもそも「学校」とはどういう施設かということが明らかになっていなければなりません。たとえば、もし仮に「学校は知識を教えるところ」だということになれば、「知識ではない道徳」を教えてはダメだということになるかもしれません。実際に、大半の「塾」では道徳は教えられていません。塾に期待されているのは「知識」を増やして「偏差値」を上げることだからです。(ちなみに道徳が「知識」であるかどうかは、(1)の答えによって変わりますので、ご注意下さい)
逆に、現実の「学校」において実際に「道徳」が教えられているということは、「学校は知識を教えるところ」ではないということになります。学校が「知識を教えるところ」ではないとすれば、どういうところなのでしょうか?
この問題は次の「道徳教育は必要か?」で詳しく考えていきましょう。

【道徳教育の基礎】道徳教育は必要か?

道徳教育の必要性

道徳教育が必要かどうかについては、形式的な理由と実質的な理由と、2つの方面から考える必要があります。

形式的な理由

道徳教育は、必要です。なぜなら「学校教育法施行規則」と『学習指導要領』によって、学校で必ず行なうべきものだと定められているからです。法律で決められているので、逆らえません。

実質的な理由

本質的に考えてみましょう。手がかりは、「教育」という日本語を英語に翻訳したときに見えてきます。
「教育」という日本語は、2つの英語に翻訳できます。
(1)instruction
(2)education
この2つの英語は、日本語に訳すと両方とも「教育」となりますが、言いたい内容はかなり異なっています。極めて大雑把に違いを整理すると、
(1)instruction=知識や技術を教える
(2)education=人格を形成する
ということになります。道徳教育は「人格を形成する」ための基盤となりますので、educationの概念の方に含まれるでしょう。

江戸時代の教育はinstructionだったか?

現代日本の教育の大半はinstructionです。学校では、人格を形成するかどうかに関係なく、大量の知識を叩きこまれます。というのも、近代産業社会においては、大量の科学的知識が必要となるからです。近代産業社会を維持発展していくには、大量の科学的知識を効率よく叩きこむような施設が必要となり、学校はその期待に応えるための役割を着実に果たしているわけです。
しかし逆に言えば、近代産業社会でなければ、それほど大量の科学的知識は必要となりません。現代の感覚からすれば、昔の学校も今と同じように知識や技術を教えていたものだと勘違いしがちです。しかし実際に行なわれていたのは、もちろん今の学校のような知識を教えること=instructionではありません。むしろeducationのほうが本流でした。(ちなみにinstructionの役割を担っていたのは、学校という施設ではなく、徒弟制や丁稚奉公など実際の仕事の場でした)。
たとえば、江戸時代の藩校で行なわれていたのは、人物の養成、つまり道徳教育=educationです。知識の伝授=instructionではありません。藩校で学ばれていた「儒教」は、単に物事を知っているかどうかが重要ではなく、立派な人物(儒教では「聖人」と言います)になれるかどうかが決定的に重要でした。(ちなみに庶民が通った「寺子屋」の役割に関しては、また別の議論(リテラシーの興隆)が必要となります)。
この事情は、日本以外でもほぼ同じです。大量の科学的知識が必要となる近代産業社会以前においては、そんなに大慌てでinstructionを行なう必要がそもそもありません。学校という施設も必要となりません。教会付設学校など宗教が絡む施設では、もちろんinstructionが期待されているわけではありません。教育=educationとは、そもそも「道徳教育」だったのです。いま近代産業社会に生きる我々がイメージする「知識教育=instruction」と、かつて宗教的社会に生きた人々の「道徳教育=education」は、同じ「教育」という言葉で呼ぶことを躊躇したほうがよいくらいに、発想が根本から異なっているわけです。

教育の「教」は、宗教の「教」

そういう事情は、教育の「教」という漢字にも刻印されています。教育の「教」という漢字が、宗教の「教」であることには、しっかり注意しておくのがよいでしょう。
さて、「教」という漢字は、古代中国の甲骨文字では以下のような形をしています。

この形は学者によって様々に解釈されています。が、いまのところ、「×」と「卜」は「占いの結果」を意味していることで間違いないと考えられています。大雑把に言えば、「教」とは、「占いによって神様の意志を知り、それを人々に伝えている図」から発展してきた漢字です。
この図で行なわれていることは、もちろん科学的知識の客観的な伝授などではありません。「何が正しいか」が神様のお告げによって示され、人々を従わせている様子が描かれています。まさに「宗教」の「教」なわけです。そして「教育」の「教」の本来の意味でもあります。客観的な科学的知識を伝えるのではなく、「この世界で正しいことは何かということを、神の威光を背景に伝える」のが「教」という漢字が持っていた意味です。つまり、道徳教育です。
ちなみに「学」という漢字は、古代中国の甲骨文字では次のような形をしていました。

占いの結果である「×」の形が、ここにもはっきり確認できます。「×」を両方の手のひらで包んでいるような形に見えます。学者によって様々に解釈されていますが、占いをしている最中の絵であることは確かなようです。どうやら「学」とは、そもそも「神様の声を聞くための作業」に、大いに関係があるようです。

道徳教育は必要か?ふたたび

いま、道徳教育は必要ないと考えている人が一部にいます。教育というものをinstruction=科学的知識の客観的な伝授と理解すれば、確かに道徳教育は異物となりそうです。
しかし教育をeducationと考えると、話はそう簡単ではなさそうだということが分かります。近代産業社会の発展に伴って必要とされたinstructionだけやっていった場合、近代産業社会そのものが変質したときに対応できるのかどうか、考える必要があるでしょう。instructionでは対応できない世の中になっていると人々が思い始めたとき、「知育偏重」の掛け声の下、education=道徳教育が浮上してくることになります。そして教育の「教」が宗教の「教」であったように、必ず「神」も一緒に浮上してくることには、注目しておくのがいいでしょう。
さて、道徳教育は必要でしょうか? あるいはinstructionだけで問題ないでしょうか? または、instructionでもeducationでもない、第三の道があるでしょうか?

【教師論の基礎】教職の専門性

問題の所在

「教師とは何か?」という問いに対して、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」と回答するとしましょう。この場合に決定的な問題となるのは、教師にとっての「専門性」とは何か?ということです。この教師という仕事にとっての専門性のことを、一般的に「教職の専門性」と呼びます。教職の専門性を具体的かつ説得的に示せない限り、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」という回答には何の意味もありません。

ところが、この「教職の専門性」を示すことは、実はなかなか複雑で厄介な話になるのです。

古典的な専門性と、その変化

教師の地位を確立するための議論

専門的な仕事としては、他に医師や弁護士といったものが考えられます。医師や弁護士という職業が持っている特徴とは、
(1)他の仕事にはない独特の領域と方法を支える知識と技術=専門性
(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割=公共性
(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位=自律性
といった3要件が考えられます。だとすれば、教師にも同じような特徴が備わっていることを示すことができれば、教職の専門性を明らかにすることができそうです。50~60年ほど前には、このような観点から教職の専門性を明らかにしようとする動きが活発化しました。
つまり、教師には(1)他の仕事にはない独特の知識と技術が必要であり、(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割を担っているから、(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位が確立されるべきである、という議論です。
しかし現実的には教師には自律的な地位が与えられていませんでした(※このことを考えるためには当時の日本の政治状況を理解する必要がありますが、いったん脇に置いておきます)。そこで教職の専門性が議論される際には、教師は専門家としての「地位」を確立しなければならないという現実改革的な主張が伴うこととなりました。「教職の専門性」を考えることは、単なる脳内の議論に留まるものではなく、現実を変革していく政治的な運動と結びつきやすくなります。

状況の変化

ところが現在では、様相が大きく変わってきています。そもそも医師や弁護士などといった「専門家」に対する考え方そのものが変わってきています。
医師の専門性は、「インフォームド・コンセント(informed consent)」という概念によって大きく変容してきています。古典的には、素人である患者は、専門家である医師の決定を無条件に聞き入れるものだと思われていました。しかしインフォームド・コンセントの考え方では、最終的な決定を下すのは素人である患者のほうです。専門家の役割は、決定を下すことではなく、素人にも判断ができるように状況やリスクを分かりやすく説明することに変化しました。
医師における専門性の変化は、弁護士の世界にも「セカンド・オピニオン(second opinion)」という形で取り入れられてきています。素人であるクライアントが納得するかどうかが重要なのであって、専門家が一方的に結論を出すべきではないという考え方です。専門家の役割として重要なのは、素人の判断を助けるための助言や援助となります。

この変化が人々を幸せにするものだとしたら、専門家としての教師の役割も大きく変化しなければならないのではないでしょうか。仮にこれまでの教師が教育の専門家として学ぶ内容や学び方に対する判断を一方的に下す側だったとすれば(※話はそんなに単純ではありませんが、いったん脇に置きます)、これからは学ぶ側の主体性を尊重し、学び方や学ぶ内容に対する助言や援助に徹するべきだということになってきます。
またあるいは「セカンド・オピニオン(second opinion)」が可能になるような制度を整えるべきだという話にもなります。具体的には、学びが上手くいかない場合には、クライアントが医者や弁護士を変えられるのと同じく、担任を変えたり学校を変えたりすることが可能でなければならないということになります。

そんなわけで、「専門家としての教師の地位を確立する」という論点だけでは、もはや現代の「専門性」は語りにくくなってきています。とはいえ、論点そのものが無効になったわけではありません。「地位」については、新たな論点も噴出しており、引き続き丁寧に考えていく必要があります。この論点については後にまた改めて考えます。

技術的熟達者と省察的実践家

古典的な専門性に関する議論に代わって新しく説得力を持ってきているのが、「技術的熟達者(technical expert)/省察的実践家(reflective practitioner)」という概念をもとに専門性について考える議論です。
この新しい議論はドナルド・ショーン(米:1930-1997)が展開し、教育の世界だけでなく、医師や弁護士などの専門性についての議論も含め、幅広い分野に大きな影響を与えています。

極めて単純に整理すれば、「技術的熟達者」とは、あらかじめ決められた枠組の中で専門的な知識や技術を身につけて仕事をこなす人を指します。一方の「省察的実践家」は、枠組みそのものを変えていく力を持って実践的な活動をする人を指します。要点は、「枠組み」の中にとどまるか、「枠組み」を超えていくかの違いです。

急激に世界が変化するときの専門家の役割

古典的な「専門家」のイメージでは、専門的な知識や技術には決まった「枠組み」が固定されていて、その枠組みの内側で知識や技術をしっかり身につけた者が「専門家」と呼ばれるに相応しいと思われます。具体的に、教師であれば、教えるべき内容と教え方をしっかり学んで、現場で知識と技術を活用する者が「専門家」です。ずっと変化が起きない世界であれば、これで問題がありません。具体的には、日本でも1990年くらいまではあまり問題が目立ちませんでした。
ところが2020年現在においては、新型コロナウイルスの影響のために、従来型の「教室での講義」の知識や技術がいくらあっても、役に立たないような状況となりました。既存の「枠組み」の中で知識や技術を身につけただけの人は、この事態に対応できません。いま求められているのは、既存の「枠組み」を打ち壊して「イノベーション」を起こせる人材です。このような力を持っているのが、「省察的実践家」です。「枠組み」そのものを変革していく力が期待されているのです。

「省察」をすることができる専門家

既存の「枠組み」を打ち破ってイノベーションを起こすために必要なのが「省察(reflection)」です。「古典的な専門家」は、「省察」などするまでもなく、仕事を遂行します。というか、迅速な仕事の遂行には「省察」などというものは邪魔でしかありません。頭で考えるまでもなく自然に体が動くまで技術が染みこんだ者が「古典的な専門家」と呼ばれるに相応しいわけです。
しかしそうやって自然に体が動いてしまうまで専門的な知識や技術が染みこんでしまうと、逆に状況が変わったときに、臨機応変に対応することが難しくなります。「省察」をすることができなくなっていることが、弱点となります。
状況が変化したときに必要なのは、「枠組み」から飛び出して、外側から「枠組み」そのものを客観的に観察し、相対化し、変革するような力です。「枠組み」そのものを相対化して客観的に吟味することを「省察」と呼びます。世界が急激に変化する時代に「専門家」と呼ぶに相応しいのは、既存の「枠組み」そのものを作り替えることができる「省察」の力を持った人のことです。教育の世界で言えば、新型コロナウイルスのために既存の学校体系が機能不全に陥った中でも、子どもたちの学びを支えるために臨機応変に柔軟な取組みを打ち出せる人のことです。

「目的」と「手段」を原理的に考える力

「省察」とは、「目的と手段を原理的に考えること」と言い換えてもいいかもしれません。既存の枠組みに縛られる技術的熟達者は、「目的と手段」を原理的に考え直すことをしませんし、そうする必要はありません。「目的と手段」は既存の枠組みから与えられるものであって、自分自身で考えるべきものではないからです。
しかし省察的実践者は、「目的と手段」を自分自身で考えます。既存の枠組みから与えられる「目的と手段」は、もはや役に立たないからです。そして既存の枠組みからは絶対に出てこないようなアイデアと行動力で、専門家に期待される役割に応えていきます。
急激に変化する世界の専門家に必要なのは、「目的」と「手段」を原理的に考える力です。教育で言えば、「何のために教育を行なうのか?」という目的や、「目的を達成するために学校は本当に役に立っているのか?」という手段について、原理的に考えることができる力が必要となるわけです。

一般教養の必要性

既存の「枠組み」の内部で知識を身につけたり技術を磨くだけでは、省察的実践者として既存の「枠組み」を超えることはできないかもしれません(※話はそう単純ではありませんが、今のところは脇に置きます)。枠組みの内部でどれだけ技術を追究しても、どこまでも「枠組み」の中に留まります。枠組みを超えて行くには、枠組みの「外側」に立つための力が必要となります。その力を与えてくれるのが、いわゆる「一般教養」です。自然や人間や社会に対する幅広く多面的な知見が、新しい知恵をもたらすことになります。
教師に関して言えば、自分が受け持つ教科に対する知識を深めたり、授業のやり方に習熟するのでは、「既存の枠組み」の内部での技術的熟達者に留まります(まあそれも大変なことなのですが、脇に置きます)。急激に変化する世界の中で「専門家」として期待される役割を果たしていくためには、自然や人間や社会に対する多様で幅広い知見=一般教養をどれだけ身につけられるかが決め手となります。

AIと教育

そして「技術的熟達者/省察的実践者」の違いが際立つのは、これからコンピュータが現場に入ってくるからです。単なる「技術的熟達者」の仕事は、その多くがコンピュータに奪われることになる可能性が高いでしょう。しかし一方で、「省察的実践者」の仕事は、コンピュータでは代替できません。現時点でのコンピュータにできるのは、与えられた「枠組み」の中で効率を上げることだけです。「枠組み」そのものを作ることは、コンピュータにはできません。

教師の脱専門化

一方で、日本では1980年代後半(つまり臨時教育審議会の後)から教師の「脱専門化」が進行しつつあります。「教師は専門家ではない=誰でもできる」という発想の下、教師や学校に関する制度が急激に変化しつつあります。

特別免許状制度

具体的には、1988年から、教員免許状を持たなくても学校で教壇に立てる「特別免許状制度」という手段が用意されています。
「特別免許状制度について」文部科学省

民間人校長

また、2000年に学校教育法施行規則が改正され、教員免許状を持たないでも校長先生になることが可能となっております。

臨時教育審議会と新自由主義の影響

つまり現状は、「教員免許状を持たないと教師になれない」という免許状主義が、なし崩し的になくなりつつある過程にあります。「専門家としてのトレーニングを受けなくても教師になれる」という考えが説得力を強めているということです。このように「教師は専門家である必要がない」という考えが広がっているのが「教師の脱専門化」と呼ばれる事態です。
その背景にあるのが、臨時教育審議会(1984年)以降から現時点まで幅広い範囲で影響を与えてきている「新自由主義」という考え方です。新自由主義は、国による規制を極力なくして、民間の力を活用しようと考えます。教育に関しても、国による規制を取除き、民間の力を活用しようというのが基本的な方針となります。「教員免許状を持つ者しか教員になれない」という考え方は、新自由主義を信奉する人から見れば無用な「規制」に過ぎず、撤廃するべき邪魔者ということになります。新自由主義を信奉する人々の考えでは、教育を専門家に任せる必要はまったくなく、民間企業に任せれば全てうまくいくということになります。時を同じくして、受験産業が活発に活動し始めることになります。

教員免許状の高度化(専修免許状の創設)

このような状況を踏まえて、教員の「地位」が改めて大きな問題となります。具体的には、教員免許状の取得をどう考えるかが問題となります。教員免許状がなくても教壇に立てるのなら、大学で苦労して教職課程を履修する意味があるかどうかという話です。
そこで打ち出されたのが「専修免許状」や「教職大学院」という制度です。これまでの教員免許状は、学士(大学4年)で取得することができました。学士の数が少なかった1970年以前であれば、学士が教師であることに大きな説得力がありました。しかし大学進学率が40%を超えてくるようになると、保護者の学歴も上がり、教師が学士というだけでは専門性に説得力を感じなくなってきます。大学進学率の上昇に伴って、世間が要求する「専門性」のレベルが上昇したのに、教員免許制度が追いついていないわけです。
そこで、世間が要求する「専門性」のレベルに対応するために打ち出されたのが、「修士レベル(6年間の履修)の専修免許状」です(1989年法改正)。これに伴って、従来の学士レベルの免許状は「普通免許状」となります。「専門家」と呼ぶに相応しいのは修士レベルの「専修免許状」だというわけですね。
ところが専修免許状の取得はなかなか進みません。そこで「専修免許状」の取得を推進するために打ち出されたのが「教職大学院」という教育機関です(2008年)。高度で複雑化した要求に対応するための「高度専門職業人」を養成しようという施設で、従来の教育学系大学院のような「研究家」を育成しようという施設と目的が異なっています。
こうして世間の一般的な保護者が学士レベルであるときに、教師が修士レベルであれば、「高度な専門家としての地位」が担保できるというわけです。その専門性の内容が「技術的習熟者」か「省察的実践者」かは大きな問題とはならず、あくまでも形式的な話です。

まとめに代えて

以上概観したように、1980年代後半から現在までの間に、急激に考え方や制度が変わってきています。「教職の専門性」を考える視点が多様で複雑になっています。こういう大変化の時代だからこそ、一人一人が「教職の専門性とは何か?」を自分の言葉で考えることの重要性が高まっているとも言えます。

【教師論の基礎】教師とは何か?―教師聖職者論・教師労働者論・教師専門職論

教師の本質を何だと考えるかの3類型

「教師とは何か?」という問いに対する答えには、いくつかのパターンがあります。教科書的に広く見られるのは、(1)教師聖職者論(2)教師労働者論(3)教師専門職論の3パターンに分類する考え方です。

(1)教師聖職者論

教師を、宗教家になぞらえて、「聖職者」と理解する立場です。

「聖職者」とは、もともと宗教に人生を捧げる人々を呼ぶときに使用される言葉です。神の威光を背景に、迷える人々を教え導く役割を果たすべき人々を指します。その職務は神から与えられたものですから、報酬を期待して引き受けるものではありません。現世的な報酬が少なかろうと、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

この「聖職者」という言葉が教師という仕事にも相応しいものだと考える人々が一定程度存在します。教育という崇高な使命に人生を捧げ、ひたすら献身的に職務を遂行する教師のことを、人は「聖職者」と呼び、尊敬します。そしてその役割は「神」から与えられたものですから、高い給料を期待してはなりません。薄給に耐えて、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

教科書的には、この「教師聖職者論」のスタート地点を初代文部大臣・森有礼の師範教育に求める傾向が強くあります。実際、森有礼は教師に必須の資質として「順良・信愛・威重」の3気質を挙げ、師範学校における教員育成の基礎としました。そして薄給であったり、社会的なステータスが低かったとしても、誇りと使命感を持って崇高な職務を遂行すべきことを説いています。

個人的には、教師聖職者論の源泉を森有礼とする教科書的見解には強い違和感があります。というのは、教育活動に対価を求めるべきでないという考え方は江戸時代にも広く存在していたからです。
もともと教育活動は宗教施設と密接な関わりを持っていました。たとえば「寺子屋」は「寺」という宗教施設で教育活動が行なわれていたことを示唆しています。宗教関係者は、基本的には、自身の教育活動に対して報酬を求めません。そして、教育活動を行なう主体(要するにお坊さん)は、まさに言葉の意味通りの「聖職者」であったわけです。教育活動に対価を要求するべきでない聖職者という見方は、ここに一つの淵源があるように思うわけです。(ちなみに、教育活動に対して報酬を公然と要求したのは、福沢諭吉が最初だと言われています。)

(2)教師労働者論

教師を、民間企業に勤めるサラリーマンと同じく、「労働者」と理解する立場です。

民間企業に雇用されて、自発的合意に従って交わした契約に従い、定められた仕事を行なうと、所定の報酬(サラリー)が支払われます。それと同じように、教師も定められた仕事を行なって報酬を受け取る「労働者」であると考える立場です。教師聖職者論が人間的な生活を犠牲にするような薄給での奉仕を要求したのに対し、教師労働者論はまともな対価を要求します。
さらに、労働者であれば憲法で保障された労働基本権に基づいて労働環境を改善するための行動(団体交渉や同盟罷業)を起こせますので、教師も自らの労働環境を改善するために同じような行動がとれるし、とるべきだと考えます。

たとえば具体的には、「残業」をどう考えるかというときに、この立場をとるかとらないかで、意見の違いが明確に表れます。
具体的には、民間企業で「残業」を行なうと、法律に従って残業代が支払われます。残業代を支払わない会社は法律違反を犯していることになります。しかし一方、教師が残業を行なっても、残業代は支払われません。現時点では、教師は民間企業のような「労働者」とは考えられていないからです。教師労働者論の立場から見れば、とんでもないことです。教師労働者論に共感する人々は、教師の残業に対して、民間企業と同じく残業代を支払うべきだと主張するでしょう。
しかし教師労働者論に反対し、教師聖職者論に共感する立場からすれば、教師は人生をかけて教育に奉仕すべきものであって、そもそも「残業」という考え方自体がおかしいと一蹴するでしょう。子どもたちのことを365日24時間考えるのが聖職者ですから。

しかし一方で、もし教師が単なる労働者なら、アルバイトにやらせてもいいだろうという話が出てきてもおかしくありません。実際に、現在は非常勤講師や臨時採用のような、正規採用ではない教員が急速に増加しています。
また、教育に熱意や情熱を感じずに、単に金儲けの手段として考えるような「デモシカ教員」が正当化されてしまうことも懸念されます。(「デモシカ教員」とは、仕方ないから先生に<でも>なるかとか、まともな仕事はできないから先生に<しか>なれない、という、社会人失格な残念教師を揶揄する言葉です)。熱意も使命感もないくせに単に金のために教員をやっていいのかと聞かれると、躊躇する人が多いだろうことも確かです。
また、教育を受ける側の子どもや保護者の意識を想像してみると、目の前の先生を聖職者だと思えれば尊敬して言うことを聞くかもしれませんが、これが単なる労働者相手となれば、コンビニ店員に文句を言うような感覚で教師に文句を言い始めることになるかもしれません。コンビニ店員のようなサービス産業労働者であればお客様の言うことは「はいはい」と聞くのが仕事ですが、教師は同じようにサービス産業労働者となって子どもや保護者の言うことを「はいはい」と聞いてしまって大丈夫でしょうか。

これが古くて新しい問題なのは、昨今の「働き方改革」を具体的に考えるときに、どうしても通らなければならない議論だからです。教師を「労働者」と考えるか否かで、現在進行中の「働き方改革」がどこに向かって行くか、未来が大きく変わることになります。

(3)教師専門職論

教師を、医師や弁護士などと同じく、専門的な知識や技術を持つ専門家として理解する立場です。

この立場では、医者や弁護士が特別なスキルに見合った高額な報酬を得ているのであれば、教師も同じようにスキルに見合った報酬を得ても問題ないと考えるかもしれません。あるいは、高額な報酬を得る方向ではなく、教師という専門家にしか果たせない社会的役割を重視する議論に結びつくかもしれません。そういう意味では、(1)や(2)の立場の代わりというよりは、その両方と結びつくことができるものとも考えられそうです。

ところでこの立場の急所は、「教師にとっての専門性とは何か?」という問題にあります。「教職の専門性」を説得的に明示できなければ、この立場に説得力はありません。誰でもできる仕事ということになってしまうと、教師専門職論は成立しません。あるいは、この専門性を具体的にどう理解するかで、(1)や(2)の立場と結びつくか相反するかが決まってくるでしょう。
ここは非常に重要かつ複雑な論点となりますので、教職の専門性とは具体的に何なのか、改めて考えることにしましょう。→【教師論の基礎】教職の専門性につづく。

女性の近代的自我の芽生えと少女マンガの物語構造―眼鏡を再びかけ直すことの弁証法的意味

熊本大学で2019年6/22に開催された「日本マンガ学会」第19回大会で行なった口頭発表の記録です。

動画は23分あります。

▼パワーポイントのデータはこちらに置いてあります(※クリックするとダウンロードします)。

▼めがねっこキャラクターリストはこちらです(※スプレッドシートで開きます)
▼リストの凡例については「マンガに登場した眼鏡っ娘リスト」を参照ください。

ご質問へのリプライ

会場では時間の都合等で十分にお答えできていないような気もしますので、こちらの場で改めてリプライできればと思います。

眼鏡をかけていると本を読むなど「女性が勉強できる」ということで、それがおもしろくないという男性社会の価値観の問題もあるのではないか。

会場ではリストについて詳しくお話しできなかったのですが、やはり「眼鏡による内面的な特徴(委員長だったり優等生だったり)」と「眼鏡による外見的な特徴(美容的に劣る)」は、区別して分類しています。その上で、内面的な特徴と外面的な特徴の両方を併せ持つキャラクターもたくさん存在しています。「勉強できる」という性格的な特徴が、外面とリンクしている様子はデータから明らかに見えます。
そして、女性が勉強できるようになるのがおもしろくないという男性は、おそらく一定数いるでしょう。「女性が眼鏡をかけているのは良くない」という偏った価値観は、男性の僻みや妬みから生じている可能性は十分に考えていいと思います。
またたとえばアメリカではSF作家のアイザック・アシモフが、眼鏡を外して美人になるなどということは物理的にあり得ないと主張し、そんな愚かなことを主張する人々は精神水準が低いと訴えています。(アシモフ『生命と非生命のあいだ』)。アメリカでも、「女性は勉強できなくてもいい」という意見が、眼鏡っ娘に対する価値観に何らかの影響を与えていると見ていいのかもしれません。
それを私は、「見る/見られる」の非対称性の問題として考察してきました。眼鏡とは「見る」ための道具です。しかしかつての女性は一方的に「見られる」ための存在でした。眼鏡をかけるということは、一方的に「見られる」ための存在だった女性が、「見る」という主体的な立場を獲得することの象徴になります。女性の主体性を認めたくない人々は、おそらく女性から眼鏡を奪おうとするでしょう。「女は眼鏡を外した方がいい」などと言う男は、女性を単に「見られるだけの対象」としてしか見ていないのです。

眼鏡を外して美人にならないパーセンテージはどのくらいか。

会場ではデータが操作できなかったので正確にお答えできませんでした。
リストでは、眼鏡を外したまま恋愛成就するキャラが254人いるのですが、そのうち美人になるのは139人です。なぜか、眼鏡を外して美人になるわけでもないのに、最終的に眼鏡をはずして彼氏をゲットするキャラが115人いるんですね。
ちなみに眼鏡を外すことで変顔になるキャラは、いまのところ4例ほど確認しています。

「通俗的価値」と「個人的価値」のアウフヘーベンというところまで抽象度を上げると、少年マンガにもたくさんあるのではないか。

仰るとおり、どこまで抽象度を上げて一般化していいかは、理論的な見極めが必要なところだと思います。
ポイントは、主人公の内面の葛藤と統合過程が描かれているかどうかだと考えています。それが描かれているのであれば、その少年マンガ作品にも「近代的自我」を認めてもいいのではないかと思います。ラブコメ系の作品には、そういうものが多いと思います。たとえば田丸浩史『ラブやん』や、井上和郎『あいこら!』は、主人公の葛藤と成長を描いたいい例だと思っています。
しかし一方、『ドラゴンボール』や『魁!男塾』という作品には、弁証法的構造は見られないと考えています。最初からかなり人格が完成していて、仮に肉体や技は成長したとしても、自我にはたいして影響がないからです。(もちろん、だからといってそれが悪いということではありません)。『ドラゴンボール』や『男塾』に見られる物語構造は、もともと敵であった別の人格(ヤムチャ・ピッコロ・ベジータ等)を、矛盾と葛藤を経て味方の集団に統合して強くなっていくという「共同体的なアウフヘーベン」です。

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個人の力が及ぶ範囲のみで資料収集と確認を行なっているので、時間的・経済的に限界があります。
特に1970年以前の貸本や、21世紀以降の作品に大きな欠落があると思われます。
ほか、記録ミスやデータ形成時の混乱などにより、データが誤っていることもあるかと思います。
なにかお気づきの点がありましたら、ご連絡いただければ、私の研究が進みます。

また、これまで可処分所得の大半をこの研究に費やしてきて、そろそろ経済的な限界を感じつつあるので、たいへん恐れ入りますが、Amazonくれくれリストを載せておきます。