【教師論の基礎】教諭・教師・教員は違うのか?

 教諭・教師・教員という言葉の違いについて、意識することはありますでしょうか。実はそれぞれ、ニュアンスが少しずつ異なっている言葉です。

 たとえば具体的には、大学で教鞭を執っている私は、教師ですし教員でもありますが、教諭ではありません。私は学生たちに教育学を教えていますが、教諭ではないんですね。というのは、「教諭」とは法律で厳密に規定されている言葉だからです。

 教諭とは、教員免許を持ち、学校教育法(第37条)で定められた職階である、正教員を指しています。しかし学校では、教諭以外の人も先生として働いています。たとえば非常勤講師は、教師や教員ではありますが、教諭ではありません。法律に定められた正教員には当てはまらないからです。
 また、大学の先生、教授や准教授は、学校教育法に定められた教諭ではありません。ですので、教諭とは呼びませんし、呼べません。が、教員であり、教師です。

 一方、「教師」という言葉は、法律や資格に関係なく、人を教え導く人に広く使います。たとえば宗教で人々を教え導く人のことも教師と呼びます。またたとえば、教員免許を持たない人でも「家庭教師」になることはできます。教師になるために、特に資格は必要ありませんし、法律に規定されているわけでもありません。名乗るのも自由です。が、教師は自由に名乗れても、教諭は自由には名乗れません。教諭は法律でしっかり規定されていますので、法律通りに使わなくてはなりません。

 また教師と教員の違いですが、教師という言葉には若干の価値観が込められているニュアンスがあるのに対し、教員のほうは価値中立的で客観的な、乾いた言葉です。教師という言葉を使用するときには、そこに何かしらのキャラクターを想定することが多いでしょう。たとえば「教師論」というと、あるべき教師のキャラクターについて考える議論です。
 が、「教員論」という言葉は、とても不自然に聞こえます。教員とは価値中立的で客観的なニュアンスの言葉で、あるべきキャラクターが何も込められていないからです。
 そもそも「員」という漢字は、「ある組織のメンバー」として、ただ「数の中に入っている」ことだけを示しています。「社」や「職」や「駅」が「満」になったり「定」に達したりしても、そのメンバーの質はまったく考慮に入っていません。
 しかし「師」という漢字には、人を引っぱっていくリーダーや先人であるという価値観が込められています。「匠」や「宣教」と言ったときには、ただの数合わせには終わらない、なんらかの特別な資質や能力が想定されます。

 そんなわけで、「私は教員です」と言ったときと、「私は教師です」と言ったときでは、そこそこニュアンスの違いが出てきます。教育の専門家としての自負を込めるときは、「教師」という言葉を選ぶことが多いように思います。

 ちなみに「教官」という言葉もありますが、これは「公務員である教員」の呼称で、特に国家公務員であった国立大学の教員を指すときに使っていました。しかし国立大学の独立行政法人化(2003)年以降、大学教員は国家公務員ではなくなり、次第に「教官」という呼称は使われなくなっています。