【道徳教育の基礎】道徳教育は必要か?

道徳教育の必要性

 道徳教育が必要かどうかについては、形式的な理由と実質的な理由と、2つの方面から考える必要があります。

形式的な理由

 道徳教育は、必要です。なぜなら「学校教育法施行規則」と『学習指導要領』によって、学校で必ず行なうべきものだと定められているからです。法律で決められているので、逆らえません。

実質的な理由

 本質的に考えてみましょう。手がかりは、「教育」という日本語を英語に翻訳したときに見えてきます。
 「教育」という日本語は、2つの英語に翻訳できます。
(1)instruction
(2)education
 この2つの英語は、日本語に訳すと両方とも「教育」となりますが、言いたい内容はかなり異なっています。極めて大雑把に違いを整理すると、
(1)instruction=知識や技術を教える
(2)education=人格を形成する
 ということになります。道徳教育は「人格を形成する」ための基盤となりますので、educationの概念の方に含まれるでしょう。

江戸時代の教育はinstructionだったか?

 現代日本の教育の大半はinstructionです。学校では、人格を形成するかどうかに関係なく、大量の知識を叩きこまれます。というのも、近代産業社会においては、大量の科学的知識が必要となるからです。近代産業社会を維持発展していくには、大量の科学的知識を効率よく叩きこむような施設が必要となり、学校はその期待に応えるための役割を着実に果たしているわけです。
 しかし逆に言えば、近代産業社会でなければ、それほど大量の科学的知識は必要となりません。現代の感覚からすれば、昔の学校も今と同じように知識や技術を教えていたものだと勘違いしがちです。しかし実際に行なわれていたのは、もちろん今の学校のような知識を教えること=instructionではありません。むしろeducationのほうが本流でした。(ちなみにinstructionの役割を担っていたのは、学校という施設ではなく、徒弟制や丁稚奉公など実際の仕事の場でした)。
 たとえば、江戸時代の藩校で行なわれていたのは、人物の養成、つまり道徳教育=educationです。知識の伝授=instructionではありません。藩校で学ばれていた「儒教」は、単に物事を知っているかどうかが重要ではなく、立派な人物(儒教では「聖人」と言います)になれるかどうかが決定的に重要でした。(ちなみに庶民が通った「寺子屋」の役割に関しては、また別の議論(リテラシーの興隆)が必要となります)。
 この事情は、日本以外でもほぼ同じです。大量の科学的知識が必要となる近代産業社会以前においては、そんなに大慌てでinstructionを行なう必要がそもそもありません。学校という施設も必要となりません。教会付設学校など宗教が絡む施設では、もちろんinstructionが期待されているわけではありません。教育=educationとは、そもそも「道徳教育」だったのです。いま近代産業社会に生きる我々がイメージする「知識教育=instruction」と、かつて宗教的社会に生きた人々の「道徳教育=education」は、同じ「教育」という言葉で呼ぶことを躊躇したほうがよいくらいに、発想が根本から異なっているわけです。

教育の「教」は、宗教の「教」

 そういう事情は、教育の「教」という漢字にも刻印されています。教育の「教」という漢字が、宗教の「教」であることには、しっかり注意しておくのがよいでしょう。
さて、「教」という漢字は、古代中国の甲骨文字では以下のような形をしています。

 この形は学者によって様々に解釈されています。が、いまのところ、「×」と「卜」は「占いの結果」を意味していることで間違いないと考えられています。大雑把に言えば、「教」とは、「占いによって神様の意志を知り、それを人々に伝えている図」から発展してきた漢字です。
 この図で行なわれていることは、もちろん科学的知識の客観的な伝授などではありません。「何が正しいか」が神様のお告げによって示され、人々を従わせている様子が描かれています。まさに「宗教」の「教」なわけです。そして「教育」の「教」の本来の意味でもあります。客観的な科学的知識を伝えるのではなく、「この世界で正しいことは何かということを、神の威光を背景に伝える」のが「教」という漢字が持っていた意味です。つまり、道徳教育です。
 ちなみに「学」という漢字は、古代中国の甲骨文字では次のような形をしていました。

 占いの結果である「×」の形が、ここにもはっきり確認できます。「×」を両方の手のひらで包んでいるような形に見えます。学者によって様々に解釈されていますが、占いをしている最中の絵であることは確かなようです。どうやら「学」とは、そもそも「神様の声を聞くための作業」に、大いに関係があるようです。

道徳教育は必要か?ふたたび

 いま、道徳教育は必要ないと考えている人が一部にいます。教育というものをinstruction=科学的知識の客観的な伝授と理解すれば、確かに道徳教育は異物となりそうです。
 しかし教育をeducationと考えると、話はそう簡単ではなさそうだということが分かります。近代産業社会の発展に伴って必要とされたinstructionだけやっていった場合、近代産業社会そのものが変質したときに対応できるのかどうか、考える必要があるでしょう。instructionでは対応できない世の中になっていると人々が思い始めたとき、「知育偏重」の掛け声の下、education=道徳教育が浮上してくることになります。そして教育の「教」が宗教の「教」であったように、必ず「神」も一緒に浮上してくることには、注目しておくのがいいでしょう。
 さて、道徳教育は必要でしょうか? あるいはinstructionだけで問題ないでしょうか? または、instructionでもeducationでもない、第三の道があるでしょうか?