【教師論の基礎】教職の専門性

問題の所在

 「教師とは何か?」という問いに対して、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」と回答するとしましょう。この場合に決定的な問題となるのは、教師にとっての「専門性」とは何か?ということです。この教師という仕事にとっての専門性のことを、一般的に「教職の専門性」と呼びます。教職の専門性を具体的かつ説得的に示せない限り、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」という回答には何の意味もありません。

 ところが、この「教職の専門性」を示すことは、実はなかなか複雑で厄介な話になるのです。

古典的な専門性と、その変化

教師の地位を確立するための議論

 専門的な仕事としては、他に医師や弁護士といったものが考えられます。医師や弁護士という職業が持っている特徴とは、
(1)他の仕事にはない独特の領域と方法を支える知識と技術=専門性
(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割=公共性
(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位=自律性
 といった3要件が考えられます。だとすれば、教師にも同じような特徴が備わっていることを示すことができれば、教職の専門性を明らかにすることができそうです。50~60年ほど前には、このような観点から教職の専門性を明らかにしようとする動きが活発化しました。
 つまり、教師には(1)他の仕事にはない独特の知識と技術が必要であり、(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割を担っているから、(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位が確立されるべきである、という議論です。
 しかし現実的には教師には自律的な地位が与えられていませんでした(※このことを考えるためには当時の日本の政治状況を理解する必要がありますが、いったん脇に置いておきます)。そこで教職の専門性が議論される際には、教師は専門家としての「地位」を確立しなければならないという現実改革的な主張が伴うこととなりました。「教職の専門性」を考えることは、単なる脳内の議論に留まるものではなく、現実を変革していく政治的な運動と結びつきやすくなります。

状況の変化

 ところが現在では、様相が大きく変わってきています。そもそも医師や弁護士などといった「専門家」に対する考え方そのものが変わってきています。
 医師の専門性は、「インフォームド・コンセント(informed consent)」という概念によって大きく変容してきています。古典的には、素人である患者は、専門家である医師の決定を無条件に聞き入れるものだと思われていました。しかしインフォームド・コンセントの考え方では、最終的な決定を下すのは素人である患者のほうです。専門家の役割は、決定を下すことではなく、素人にも判断ができるように状況やリスクを分かりやすく説明することに変化しました。
 医師における専門性の変化は、弁護士の世界にも「セカンド・オピニオン(second opinion)」という形で取り入れられてきています。素人であるクライアントが納得するかどうかが重要なのであって、専門家が一方的に結論を出すべきではないという考え方です。専門家の役割として重要なのは、素人の判断を助けるための助言や援助となります。

 この変化が人々を幸せにするものだとしたら、専門家としての教師の役割も大きく変化しなければならないのではないでしょうか。仮にこれまでの教師が教育の専門家として学ぶ内容や学び方に対する判断を一方的に下す側だったとすれば(※話はそんなに単純ではありませんが、いったん脇に置きます)、これからは学ぶ側の主体性を尊重し、学び方や学ぶ内容に対する助言や援助に徹するべきだということになってきます。
 またあるいは「セカンド・オピニオン(second opinion)」が可能になるような制度を整えるべきだという話にもなります。具体的には、学びが上手くいかない場合には、クライアントが医者や弁護士を変えられるのと同じく、担任を変えたり学校を変えたりすることが可能でなければならないということになります。

 そんなわけで、「専門家としての教師の地位を確立する」という論点だけでは、もはや現代の「専門性」は語りにくくなってきています。とはいえ、論点そのものが無効になったわけではありません。「地位」については、新たな論点も噴出しており、引き続き丁寧に考えていく必要があります。この論点については後にまた改めて考えます。

技術的熟達者と省察的実践家

 古典的な専門性に関する議論に代わって新しく説得力を持ってきているのが、「技術的熟達者(technical expert)/省察的実践家(reflective practitioner)」という概念をもとに専門性について考える議論です。
 この新しい議論はドナルド・ショーン(米:1930-1997)が展開し、教育の世界だけでなく、医師や弁護士などの専門性についての議論も含め、幅広い分野に大きな影響を与えています。

 極めて単純に整理すれば、「技術的熟達者」とは、あらかじめ決められた枠組の中で専門的な知識や技術を身につけて仕事をこなす人を指します。一方の「省察的実践家」は、枠組みそのものを変えていく力を持って実践的な活動をする人を指します。要点は、「枠組み」の中にとどまるか、「枠組み」を超えていくかの違いです。

急激に世界が変化するときの専門家の役割

 古典的な「専門家」のイメージでは、専門的な知識や技術には決まった「枠組み」が固定されていて、その枠組みの内側で知識や技術をしっかり身につけた者が「専門家」と呼ばれるに相応しいと思われます。具体的に、教師であれば、教えるべき内容と教え方をしっかり学んで、現場で知識と技術を活用する者が「専門家」です。ずっと変化が起きない世界であれば、これで問題がありません。具体的には、日本でも1990年くらいまではあまり問題が目立ちませんでした。
 ところが2020年現在においては、新型コロナウイルスの影響のために、従来型の「教室での講義」の知識や技術がいくらあっても、役に立たないような状況となりました。既存の「枠組み」の中で知識や技術を身につけただけの人は、この事態に対応できません。いま求められているのは、既存の「枠組み」を打ち壊して「イノベーション」を起こせる人材です。このような力を持っているのが、「省察的実践家」です。「枠組み」そのものを変革していく力が期待されているのです。

「省察」をすることができる専門家

 既存の「枠組み」を打ち破ってイノベーションを起こすために必要なのが「省察(reflection)」です。「古典的な専門家」は、「省察」などするまでもなく、仕事を遂行します。というか、迅速な仕事の遂行には「省察」などというものは邪魔でしかありません。頭で考えるまでもなく自然に体が動くまで技術が染みこんだ者が「古典的な専門家」と呼ばれるに相応しいわけです。
 しかしそうやって自然に体が動いてしまうまで専門的な知識や技術が染みこんでしまうと、逆に状況が変わったときに、臨機応変に対応することが難しくなります。「省察」をすることができなくなっていることが、弱点となります。
 状況が変化したときに必要なのは、「枠組み」から飛び出して、外側から「枠組み」そのものを客観的に観察し、相対化し、変革するような力です。「枠組み」そのものを相対化して客観的に吟味することを「省察」と呼びます。世界が急激に変化する時代に「専門家」と呼ぶに相応しいのは、既存の「枠組み」そのものを作り替えることができる「省察」の力を持った人のことです。教育の世界で言えば、新型コロナウイルスのために既存の学校体系が機能不全に陥った中でも、子どもたちの学びを支えるために臨機応変に柔軟な取組みを打ち出せる人のことです。

「目的」と「手段」を原理的に考える力

 「省察」とは、「目的と手段を原理的に考えること」と言い換えてもいいかもしれません。既存の枠組みに縛られる技術的熟達者は、「目的と手段」を原理的に考え直すことをしませんし、そうする必要はありません。「目的と手段」は既存の枠組みから与えられるものであって、自分自身で考えるべきものではないからです。
 しかし省察的実践者は、「目的と手段」を自分自身で考えます。既存の枠組みから与えられる「目的と手段」は、もはや役に立たないからです。そして既存の枠組みからは絶対に出てこないようなアイデアと行動力で、専門家に期待される役割に応えていきます。
 急激に変化する世界の専門家に必要なのは、「目的」と「手段」を原理的に考える力です。教育で言えば、「何のために教育を行なうのか?」という目的や、「目的を達成するために学校は本当に役に立っているのか?」という手段について、原理的に考えることができる力が必要となるわけです。

一般教養の必要性

 既存の「枠組み」の内部で知識を身につけたり技術を磨くだけでは、省察的実践者として既存の「枠組み」を超えることはできないかもしれません(※話はそう単純ではありませんが、今のところは脇に置きます)。枠組みの内部でどれだけ技術を追究しても、どこまでも「枠組み」の中に留まります。枠組みを超えて行くには、枠組みの「外側」に立つための力が必要となります。その力を与えてくれるのが、いわゆる「一般教養」です。自然や人間や社会に対する幅広く多面的な知見が、新しい知恵をもたらすことになります。
 教師に関して言えば、自分が受け持つ教科に対する知識を深めたり、授業のやり方に習熟するのでは、「既存の枠組み」の内部での技術的熟達者に留まります(まあそれも大変なことなのですが、脇に置きます)。急激に変化する世界の中で「専門家」として期待される役割を果たしていくためには、自然や人間や社会に対する多様で幅広い知見=一般教養をどれだけ身につけられるかが決め手となります。

AIと教育

 そして「技術的熟達者/省察的実践者」の違いが際立つのは、これからコンピュータが現場に入ってくるからです。単なる「技術的熟達者」の仕事は、その多くがコンピュータに奪われることになる可能性が高いでしょう。しかし一方で、「省察的実践者」の仕事は、コンピュータでは代替できません。現時点でのコンピュータにできるのは、与えられた「枠組み」の中で効率を上げることだけです。「枠組み」そのものを作ることは、コンピュータにはできません。

教師の脱専門化

 一方で、日本では1980年代後半(つまり臨時教育審議会の後)から教師の「脱専門化」が進行しつつあります。「教師は専門家ではない=誰でもできる」という発想の下、教師や学校に関する制度が急激に変化しつつあります。

特別免許状制度

 具体的には、1988年から、教員免許状を持たなくても学校で教壇に立てる「特別免許状制度」という手段が用意されています。
「特別免許状制度について」文部科学省

民間人校長

 また、2000年に学校教育法施行規則が改正され、教員免許状を持たないでも校長先生になることが可能となっております。

臨時教育審議会と新自由主義の影響

 つまり現状は、「教員免許状を持たないと教師になれない」という免許状主義が、なし崩し的になくなりつつある過程にあります。「専門家としてのトレーニングを受けなくても教師になれる」という考えが説得力を強めているということです。このように「教師は専門家である必要がない」という考えが広がっているのが「教師の脱専門化」と呼ばれる事態です。
 その背景にあるのが、臨時教育審議会(1984年)以降から現時点まで幅広い範囲で影響を与えてきている「新自由主義」という考え方です。新自由主義は、国による規制を極力なくして、民間の力を活用しようと考えます。教育に関しても、国による規制を取除き、民間の力を活用しようというのが基本的な方針となります。「教員免許状を持つ者しか教員になれない」という考え方は、新自由主義を信奉する人から見れば無用な「規制」に過ぎず、撤廃するべき邪魔者ということになります。新自由主義を信奉する人々の考えでは、教育を専門家に任せる必要はまったくなく、民間企業に任せれば全てうまくいくということになります。時を同じくして、受験産業が活発に活動し始めることになります。

教員免許状の高度化(専修免許状の創設)

 このような状況を踏まえて、教員の「地位」が改めて大きな問題となります。具体的には、教員免許状の取得をどう考えるかが問題となります。教員免許状がなくても教壇に立てるのなら、大学で苦労して教職課程を履修する意味があるかどうかという話です。
 そこで打ち出されたのが「専修免許状」や「教職大学院」という制度です。これまでの教員免許状は、学士(大学4年)で取得することができました。学士の数が少なかった1970年以前であれば、学士が教師であることに大きな説得力がありました。しかし大学進学率が40%を超えてくるようになると、保護者の学歴も上がり、教師が学士というだけでは専門性に説得力を感じなくなってきます。大学進学率の上昇に伴って、世間が要求する「専門性」のレベルが上昇したのに、教員免許制度が追いついていないわけです。
 そこで、世間が要求する「専門性」のレベルに対応するために打ち出されたのが、「修士レベル(6年間の履修)の専修免許状」です(1989年法改正)。これに伴って、従来の学士レベルの免許状は「普通免許状」となります。「専門家」と呼ぶに相応しいのは修士レベルの「専修免許状」だというわけですね。
 ところが専修免許状の取得はなかなか進みません。そこで「専修免許状」の取得を推進するために打ち出されたのが「教職大学院」という教育機関です(2008年)。高度で複雑化した要求に対応するための「高度専門職業人」を養成しようという施設で、従来の教育学系大学院のような「研究家」を育成しようという施設と目的が異なっています。
 こうして世間の一般的な保護者が学士レベルであるときに、教師が修士レベルであれば、「高度な専門家としての地位」が担保できるというわけです。その専門性の内容が「技術的習熟者」か「省察的実践者」かは大きな問題とはならず、あくまでも形式的な話です。

まとめに代えて

 以上概観したように、1980年代後半から現在までの間に、急激に考え方や制度が変わってきています。「教職の専門性」を考える視点が多様で複雑になっています。こういう大変化の時代だからこそ、一人一人が「教職の専門性とは何か?」を自分の言葉で考えることの重要性が高まっているとも言えます。